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2021年5月2日日曜日

ロープシンの『蒼ざめた馬』― 20世紀初頭ロシアのテロリストのサヴィンコフがペンネームで書いた作品

 

「テロリストといえばイスラム」と盲目的に連想してしまう人が多いだろう。アル・カーイダによる「9・11」の同時多発テロ(2001年)以降のことであるが、それはソ連のアフガン侵攻(1979年)に始まった一連の出来事から生まれてきたものだ。

だが、かつて日本でも、1930年代においては、「昭和維新」なるスローガンのもとに、要人を狙ったテロが頻発した。「戦後」も1960年頃まではテロが行われている。

右翼少年によって社会党の浅沼委員長が刺殺された事件がもっとも有名なものである。また、アナキズム系左翼による三菱重工業本社ビル爆破事件などの爆破テロや、赤軍派によるテルアビブ空港乱射事件なども行われた。

「昭和維新」とは、「明治維新」を先例とした名付けである。「明治維新」に至る幕末は、テロの時代であった。日本においては、幕末の「志士」こそテロリストの原型であったのだ。


つまり、テロやテロリストは、けっして日本の風土とも無縁ではないのである。

自らの思想や政治的な信念を、非暴力的な対話ではなく、暴力で実現しようとするのがテロリストのマインドセットである。「テロリスト」とは、「テロ」ないしは「テロル」を実行する人物のことを意味している。

「テロ」(テロル terror)とは、日本語では「恐怖」を意味することばだ。殺人を含めた破壊行為を見える形で行うことで、直接被害にあわなかった人びとに「恐怖」を与えることを目的にした行為のことである。

近代的な意味における「テロ」が、はじめて登場したのは「フランス革命」である。アナトール・フランスの小説のタイトル『神々は渇く』に表現されたように、革命は流血をともなうものである。しかも、それは凄惨なテロをともなうものだ。

「テロ」が政治的手段としてつかわれるようになったのは、ロシア帝国の専制政治体制に対する抵抗運動からだが、「テロリストといえば、ロシアの革命家たち」であった。



■テロリストには「彼らなりの大義」があった-「勝てば官軍、負ければ賊」

テロリストというのは、じつにむずかしい存在だ。どいうことかというと、どんなひどいテロ行為であっても、「勝てば官軍」という要素があるからだ。テロは悪か正義か、立場によってまったく異なる評価がされるのはそのためだ。

もちろん、「イスラム国」のテロリストが残虐でかつ卑劣であることは言うまでもない。しかし、かれらにはかれらの大義やロジックが存在する。かれら以外には、とうてい受け入れがたい価値観であるとしても、彼らにとっては「大義」なのである。これはきわめて重要なポイントだ。

アルジェリアがフランスから独立するための戦争を行っていたのは、1954年から1962年にかけての8年間だが、独立派の手法は爆弾による一般市民への無差別攻撃という都市型テロそのものである。

『アルジェの戦い』(1966年、イタリア、アルジェリア合作)という有名な映画がある。トレーラーだけでも見ておくといいと思う。日本でも公開されて高く評価されたらしいが。都市型テロそのものである。カフェが爆破されるシーンは圧巻だ。




もしこの独立戦争が失敗に終わっていたら、独立運動もテロ以外のなにものでもなかったという評価がくだされたことだろう。

「ならぬものはならぬ」というのは会津の教えだが、テロ行為もまた「ならぬものはならぬ」と言い切ることが必要だ。「価値観」による経営が大事だと、わたしはつねづね言っているのだが、しかしその価値観が世の中の価値観に反するものであってはならない。

明治維新の元勲であった伊藤博文もまた元テロリストであった。革命家やテロリストは、あくまでも結果論によって評価が生まれる。

そしてその伊藤博文は、朝鮮人テロリストの安重根(アン・ジュングン)によって満洲の哈爾浜駅で射殺された。安重根の評価が日韓で真逆となっているのも、当然といえば当然だろう。

たとえ大義がただしいとしても、失敗した革命は、歴史の表舞台に登場することはなく葬り去られる。伊藤博文も安重根も、ともに「成功」したテロリストであったからこそ歴史に名をとどめているのである。


■テロリストの「かなしき心」を語った詩人がいる

石川啄木の名前を聞いたことのない日本人はあまりいないだろう。啄木といえば歌人という連想がでてくるはずだ。「我泣き濡れて 蟹とたはむる」というフレーズくらいは耳にしたこともあるだろう。

だが、啄木は歌人であるだけでなく詩人でもあったことを知っている人は、少ないかもしれない。

その石川啄木にはこんな詩がある。詩人としてのテーマは、歌人としてのテーマと重なるものがある。なお太字ゴチックは、引用した私によるものだ。


ココアのひと匙 一九一一・六・一五・TOKYO

われは知る、テロリストの
かなしき心を――
言葉とおこなひとを分ちがたき
ただひとつの心を、
奪はれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らむとする心を、
われとわがからだを敵に擲(な)げつくる心を――
しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有(も)つかなしみなり。

はてしなき議論の後の
冷(さ)めたるココアのひと匙(さじ)を啜(すす)りて、
そのうすにがき舌触(したざはり)に、
われは知る、テロリストの
かなしき、かなしき心を。


ちょうど110年前の1911年の作品だ。1911年6月15日前後に集中している。「大逆事件」でもっとも有名な「幸徳事件」(1910年)に触発されて作成された? 関係者は翌年1911年1月に処刑されている。

詩集の「呼子と口笛」からの引用は、ネットで無料公開されている「青空文庫」による。この一連の作品は「連作」として、ぜひつづけて全部読むことを薦めたい。

「ヴ・ナロード V NAROD」(=人民のなかへ!)と叫んだロシアの革命家ナロードニキたちのことから始まり、日々の仕事に疲れた勤労少年が、手に入れることのできない夢や希望を意味しているのであろう、空を飛ぶ飛行機を見上げる姿を詩った「飛行機」という詩で終わる。

ロシアでは、啄木が書いているように、1911年の50年前の1860年代に社会運動家のナロードニキたちによる「ヴ・ナロード運動」が行われたが、知識人や学生によるアタマでっかちな運動は農村では受け入れられることはなく挫折に終わっている。

皇帝アレクサンドル2世のもと、ストルイピンの政策によって「農奴解放」が1861年に実行に移されたものの、農民の意識と知識階層のズレはきわめて大きかったのである。そして、改革の不徹底が、テロリストを生み出す遠因となったのであった。

啄木の「はてしなき議論の後  一九一一・六・一五・TOKYO」も見ておこう。啄木が言及しているのは 「ヴ・ナロード運動」を唱えたロシアのナロードニキたちのことである。


はてしなき議論の後  一九一一・六・一五・TOKYO 
われらの且(か)つ読み、且つ議論を闘たたかはすこと、
しかしてわれらの眼の輝けること、
五十年前の露西亜の青年に劣らず。 
われらは何を為なすべきかを議論す。
されど、誰一人、握りしめたる拳こぶしに卓をたたきて、
 ‘V NAROD!’ と叫び出いづるものなし。


「われらは何を為なすべきか」は、レーニンも愛読していたという、ナロードニキのチェルヌイシェーフスキーの『何をなすべきか』(1863年)のことをさしているだろうか? 「五十年前の露西亜の青年」たちが読みふけった小説である。

だが、啄木がこう書いた1911年の時点では、チェルヌイシェーフスキーの日本語訳は登場していなかったようだ。あるいは英訳本が念頭にあったのだろうか?


■かつてのテロの本場は帝政末期のロシアであった

日露戦争後に「血の日曜日事件」(1905年1月9日)が勃発したあと、社会革命党(エスエル)戦闘団の党員たちによるセルゲイ大公爆殺(1905年2月17日)が決行される。

暗殺事件の詳細については、エスエル戦闘団を指揮したサヴィンコフによって『テロリスト群像』に描かれている。馬車で移動していたセルゲイ大公は爆殺された。




暗殺決行前夜の心理状態については、サヴィンコフはペンネームのロープシン名義で『蒼ざめた馬』に描いている。テロの実行者は逮捕されて処刑、仲間2人は自殺し、サヴィンコフ1人が生き残ったのである。

たしかに啄木が詩うような「かなしき心」ではあるものの、テロ実行者の内面の空虚としかいいようのないニヒリズムを感じないわけにはいかない。大義のために人を殺す。その意味に耐えきれない、意味を見出せないテロリストも人の子である。

ロープシンの『蒼ざめた馬』は、かつて日本でも一世を風靡した作品である。「蒼ざめた馬」とは「青い馬」のことであり、出典は『ヨハネ黙示録』6章8節である。

1960年の安保闘争後に現代思潮社で編集者であった陶山幾朗氏の『「現代思潮社」という閃光』(現代思潮新社、2014)には、ロープシンの『蒼ざめた馬』をめぐる晶文社との出版競争の話がでてくる。

全共闘世代によく読まれたようで、異端の文献を発掘し、出版し続けた現代思潮社から出版されていた単行本は、いまでも早稲田あたりの古本屋なら簡単に見つけることができるはずだ。1960年代に出版された単行本が日焼けしてほこりをかぶったまま棚の上方にささったままになっていることだろう。




岩波現代文庫から2007年に復刊されて、ふたたび簡単に入手できるようになった。私はこの岩波現代文庫版ではじめて読んでみたが、テロリストの心理について知るためには第一級の作品であることは間違いないと思う。

岩波文庫版の内容紹介を引用しておこう。

秋の夜が落ちて、星が光りはじめたら、わたしは最後の言葉を言おう―20世紀黎明のロシアの漆黒の闇を、爆弾を抱えて彷徨するテロリストたちの張り詰めた心情と愛と孤独。社会革命党(エス・エル)戦闘団のテロ指導者サヴィンコフがロープシンの筆名で発表した終末の抒情に富んだ詩的小説は、9・11以後の世界の黙示録である。


その後のサヴィンコフについては、『黒馬を見たり 附サヴィンコフの告白』(ロープシン、川崎浹訳、現代思潮社、1968)に記されている。残念ながら、こちらは岩波文庫から復刊はされていない。



1917年の革命ののち、ボルシェヴィキに反対して「ロシア内戦」においては白軍の武装蜂起を指導し、その後は亡命生活を送っていたが、ボルシェヴィキにはめられてソ連に入国後に即逮捕。最期は投身自殺という数奇な運命をとげている。

サヴィンコフにかんしては、芦田均元首相が外交官時代のモスクワ駐在中にロシア革命を現地で体験し、サヴィンコフとパリで面会したことが、回想録の『革命前後のロシア』(自由アジア社、1958年)(*)に記されている。革命干渉戦争が行われている際、サヴィンコフはコルチャーク提督のオムスク政府の代表の1人となっていた。

(*)初版のタイトルは『革命前「夜」のロシア』(1950)であった。『革命前「後」のロシア』はその増補版である。




芦田均によれば、「サヴィンコフはロシア人としては小柄な物静かな男であった。髭のないとがった顔は蒼白な皮膚に小皺が目立った。話すときには低い声でゆるゆると、しかしはっきりと歯切れの良い口調であった。何とはなしに腹に一物ある曲者であることを思わせた」とある。

面会する前にはすでに、ロープシン名義の『蒼い馬』をロシア語の家庭教師について読んでいたそうだ。

『ロシア革命前後』には「ロシアのテロリスト」という1章があるが、サヴィンコフについては5ページを割いて、その最期にかんしても記している。よほど印象に残る存在であったのだろう。


■啄木はロシア革命を知ることなく逝った

ロシアの帝政が倒れたのは第1次世界大戦中の1917年のことであった。そのとき、啄木はすでに亡くなっていた。啄木が亡くなったのは、「呼子と口笛」に収録された一連の詩が書かれた翌年の1912年のことである。

石川啄木が詩人として語っていることは、大塩平八郎を礼賛した三島由紀夫とどれだけ違うというのだろうか?? 

政治的立場の違いはあれ、ともに「知行合一」をモットーにしていた点に違いはない。


  


<ブログ内関連記事>

 



・・「火薬陰謀事件」(1603年)という世界史上初の大規模テロ未遂事件の主人公顔フォークスにヒントを得たアンチヒーロー転じた監視社会と戦うヒーロー

書評 『ロシア革命で活躍したユダヤ人たち-帝政転覆の主役を演じた背景を探る-』(中澤孝之、角川学芸出版、2011)-ユダヤ人と社会変革は古くて新しいテーマである

石川啄木 『時代閉塞の現状』(1910)から100年たったいま、再び「閉塞状況」に陥ったままの日本に生きることとは・・・ 
・・「われは知る、テロリストのかなしき心を-」(石川啄木)

書評 『成金炎上-昭和恐慌は警告する-』(山岡 淳一郎、日経BP社、2009)-1920年代の政治経済史を「同時代史」として体感する
・・「人間の欲望に突き動かされ、意志を乗り越え、制御不能となる暴走するマネー。マネーに蹂躙され、失われる倫理観。暗殺というテロリズムの横行。それが「昭和恐慌」の時代であり、その後、破滅に向かって突き進んでいった日本なのであった」

『エコ・テロリズム-過激化する環境運動とアメリカの内なるテロ-』(浜野喬士、洋泉社新書y、2009)を手がかりに「シー・シェパード」について考えてみる

映画 『ザ・コーヴ』(The Cove)を見てきた
・・「エコ・テロリスト」たちの言動をかれらの視点から描いたドキュメンタリー映画

映画 『バーダー・マインホフ-理想の果てに-』を見て考えたこと
・・「「1968年世代」の中心にあった「ドイツ赤軍」の、1967年から10年にわたる過激な革命運動に焦点を当てた、ドキュメンタリー映画とも見まごうような2時間半の大作」

書評 『グローバル・ジハード』(松本光弘、講談社、2008)-対テロリズム実務参考書であり、「ネットワーク組織論」としても読み応えあり

夢野久作の傑作伝記集『近世怪人伝』(1935年)に登場する奈良原到(ならはら・いたる)と聖書の話がめっぽう面白い


「ドイツ表現主義」の画家フランツ・マルクの「青い馬」

「チェルノブイリ原発事故」から 25年のきょう(2011年4月26日)、アンドレイ・タルコスフキー監督最後の作品 『サクリファイス』(1986)を回想する
・・「原発事故の起こった土地の名前であるチェルノブイリとは、ウクライナ語では「にがよもぎ」という意味だそうだ。しかも、その「ニガヨモギ」は『黙示録』に出てくるのだと」


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2009年11月10日火曜日

ベルリンの壁崩壊から20年 ― ドイツにとってこの20年は何であったのか?





 20年前の1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊した。そのときのユーフォリアにあふれる映像は何度も繰り返し放送されているので、多くの人の脳裏に焼き付いていることであろう。

 このブログでも書いたが、「天安門事件」から20年、「ベルリンの壁崩壊」から20年、そして年末のチャウシェスク大統領処刑から20年、1989年はまさに世紀の大転換が起こった年であった。

 そして翌年1990年には日本の株価が下落が始まってバブル経済も崩壊、グローバル政治経済構造の大変化のなか、新たな秩序はいまだ形成されたとはいえないカオス状態がまだ続いている。 


 その後実現した統一ドイツにおいても真の問題解決からはほど遠く、昨年のリーマンショック以降、中東欧世界の多くはIMF管理下におかれ、この20年間はいったい何だったのか、と自問する人が多くいるのもまた事実である。


 The Economist 最新号の表紙も、この自問自答を壁にまたがる若者のモノクロ写真を使って、グラフィックで表現している。

 私は壁の崩壊後から10年後の1999年、ベルリンのポイント・チャーリーをはじめて訪れてみた。そこのあるのは、いかにして東ベルリンの住民が西ベルリンに脱出しようとしたか、にかんする展示の数々であって、壁崩壊後の幻滅についてはまったく触れられていなかった。

 あくまでも西側の視点だったのだろうか、西側陣営にいた私もその時は何も疑問にすら思わなかった。壁が崩壊したことは自由世界にとって実に素晴らしいことだったのだ、と。
 

 ベルリンの壁崩壊後の世界を、ドイツに限定してみても、旧東ドイツ地域での失業問題はきわめて深刻であり、ドイツ国内にそのまま残存する東西の二重構造は解消する兆しもない。

 東ドイツのライプツィヒに留学し、ドイツをテーマにしたルポ・ライターの平野洋による三部作を読むとその感をいっそう強くする。ドイツ国内のマジョリティである旧西ドイツ住民ではなく、旧東ドイツ住民に焦点をあてたルポルタージュ『伝説となった国・東ドイツ』(現代書館、2002)、『東方のドイツ人たち-二つの世紀を生きたドイツ人たちの証言集-』(現代書館、2006)、そして『ドイツ・右翼の系譜-21世紀、新たな民族主義の足音-』(現代書館、2009)の三部作である。




 旧東ドイツ出身者、ロシアからの帰還ドイツ人・・・といった人たちの立場にたつと、「ベルリンの壁崩壊が東への死刑判決とすれば、90年7月1日の通貨同盟は刑の執行、10月3日の再統一の日は葬式といえるだろう」(『東方のドイツ人たち』(p.82)となるのだろう。




 東ドイツという国は消滅し、その歴史も統一ドイツの公式な歴史からは抹殺された。あくまでもソ連占領地域であった東側ががドイツにとり戻されたたとされるためだ。もっといってしまえば、旧東ドイツは西ドイツに併合されたことになる。南ベトナムが北ベトナムに武力で統一されたのとは、見かけほどの違いは大きくないのではないか。



 
 歴史を抹殺された東ドイツ。

 歴史は物語でもある。ドイツ語では Geschichte、 ほぼすべての西欧語で、歴史と物語は同じ一語で表現される。歴史を共有するとは物語を共有することと同じなのである。

 しかし、共通の歴史(=物語)など果たして可能なのか? 多数派によって書かれた歴史だけが、正統と位置づけられるのか? 

 ソ連が誕生してから崩壊までの70年にくらべれば、東ドイツの50年間(1949年から1990年)は、比較的短いといえるかもしれない。しかし、同じドイツ民族が分断され、異なる歴史を歩んだ結果、国民意識の再統合は今後もきわめて困難であるように思われる。

 『グッバイ、レーニン』のような東ドイツへのノスタルジーを描いた映画とは違って、現実の日々の生活の厳しさ、日々味わう劣等感、疎外感、被差別意識は、階級として固定・・・

 東ドイツの残骸が目に見える形で残っていることは、このブログでも"ドレスデン駅前の団地群"について触れた際に指摘してある。団地はまぎれもなく限りなく社会主義的な社会政策の産物であるからだ。反共反ソを国是とした旧西ドイツにとっては、目障りな歴史的遺産かもしれない。これらの団地群が老朽化していった先は、21世紀の限界集落、まさにゲットーなのかもしれない。


 なお、ドイツ統一後、通貨統合を行った際、東西ドイツマルクの交換比率を1:1に設定したことが、現在まで続く経済的困難の原因となったことは記憶にいれておくべきだろう。この結果、海外直接投資は旧東ドイツを素通りして中欧諸国に向かっていった。ドイツ政府の莫大な資金投下も蟻地獄という結果に終わっている。

 日本でも、本土と復帰した沖縄の関係に似たものがあるような気もする。ヤマト(=本土)とウチナー(沖縄)の関係は、もちろん東西ドイツの関係とは異なるが煮ている面もある。

 沖縄復帰は1972年のことである。それ以前は1945年以降は米国の軍政下におかれていた。さらにさかのぼれば1879年の琉球処分によって、明治日本に統合されたこともあり、そもそもが異なる歴史をもつ王国であった。

 沖縄の日本復帰は沖縄県民の総意だったということだが、復帰後は米国資本の誘致による経済的な自立という試みは、通産省によって事前に阻止され、米ドルから日本円への通貨統一は、結果として本土資本による土地買い占めを容易にしただけであった・・。しかも基地経済からの脱却はいっこうに進んでいない。基地問題は安全保障問題であるとともに、沖縄にとっては経済問題としての性格ももつ。

 ドイツの東西問題は、日本では沖縄問題と類似した問題であるのか・・。もちろん単純な比較は意味はない。明治維新(1868年)とほぼ同じ時期に国家統一を完成したドイツ(1872年)だが、中央集権国家体制を志向した日本と異なり、ドイツは今日にいたるまで地方のチカラが強い、つまり国の形もドイツと日本とでは大きく異なるのである。


 ドイツでは さらに困難にしている問題は、ロシア系ドイツ人のドイツへの大量帰還問題である。
 12~14世紀の東方植民運動はさておき、18世紀ドイツ出身の女帝エカチェリーナの時代、本格的に多くのドイツ人がロシアに大規模に移住した。ロシアへの移住はその当時、米国への移住と並んで多かったという。その後、勤勉な農民として受け入れられたドイツ系移民はロシアでは大きなプレゼンスとなっていた。

 第一次大戦、ロシア革命、そして第二次大戦の独ソ戦により、ロシアに移住したドイツ系住民の運命は翻弄され、少数民族としてのさまざまな権利も奪われることとなった。もっとも痛手を被ったのは、母語であるドイツ語教育の権利が長期間奪われたことである。

 ベルリンの壁崩壊後、とくにロシアからロシア語を母語とするドイツ系住民が血統主義に基づいてドイツに帰還、これがロシア系ドイツ人問題となっているようだ。詳細は、『東方のドイツ人たち』を参照していただきたいが、これは南米からの日系人受け入れと同じ性格の問題にも思われる。

 たとえばブラジル日系人は、日本人移民の末裔であっても国籍がブラジルであるだけでなく、現地に同化しており、母語はすでにブラジル・ポルトガル語であって日本語ではなく、生活習慣も当然ながらブラジルのものであって日本とはまったく異なる。

 ドイツのロシア系ドイツ人も同様のようだ。親がドイツに親近感があっても、連れてこられた子供たちの世代は母語はロシア語であり、ドイツ語の習得はあくまでも後天的なもので自然になされるものではなく、生活習慣もロシアのそれであるから、自然とロシア系ドイツ人だけで集まりがち、ブラジル日系人とよくにた存在になっている。
 

 こういうことを考えさせてくれた平野洋のルポルタージュは、ドイツの見えざる面にかんする証言を集めた、貴重なものであるといってよい。インタビュー相手に対して、聞きにくい質問も投げかけ、罵声を浴びながらも実行したインタビューなど、その果敢な姿勢には敬意を評したい。

 しかし、こと話が自らが属する日本に及ぶと、とたんに陳腐で粗雑な話に終始してしまうのはなぜか。議論の粗雑さは、正直いってとても読むに耐えない。くだらない政治論を聞かされているようでうんざりするのだ。

 あまりにもステレオタオイプな議論は、自分が取り組んでいるドイツ問題を内在的に理解していないためではないか、とさえ思いたくなる。自分のアタマで考え尽くしていないのだ。日本語として表現しきれていないのだ。

 ナショナリズムとは何かの定義も、きわめてあいまいだ。固有名詞の表記にも問題が多い。私がとりあげた日本との対比は、実は平野洋の著書のなかではいっさなされていないのである。


 なぜこのようなステレオタイプな発言がでてくるのか。これはおそらく、歴史というものへの洞察を欠いているためであろう。歴史をただ単に年表としてしか理解していないためではないか。歴史を内在的に、自らもその渦中にある一人として理解しようとする姿勢に乏しいためではないか。

 この点が、旧東ドイツについての良質なノンフィクション『東ドイツ解体工場』(講談社、1991)を書いた作家の杉山隆男などとは大きく異なる点である。

 幅広いコンテクストのなかで複眼的にものを見る、という訓練もされていないようだ。

 
 ドイツは決して模範となるべき理想ではない、これは当然である。

 1968年世代が主導した社会変革の結果、ドイツは人権を政治的な武器として手に入れることとなった。これには誰も表だって異議申し立てはできない。

 しかし、タテマエをあまりにも振りかざしすぎるのに、実は旧東ドイツ人を中心に多くのドイツ人もいらだっている。このナマの声を聞き出した点は、繰り返すが大いに評価したい。

 ドイツ人の抱える内向する不満、鬱積・・日本人もある意味では同様の状況にあるといえるからだ。


 ベルリンの壁崩壊は、結果としてパンドラの箱を開けたことになる。

 封印から解かれた黙示録の四騎士の形をとった歴史という怪物たちに逆襲され、翻弄され続けてきたのが、この20年であったような気がする。

 そして、この混乱はまだまだ収まる気配をみせず、さらに混沌とした状態に進みつつある。
 

 世界もいまだ"五里霧中のなか模索中"なのである。数十年以内には落ち着くのではないかと期待しているのだが・・・

 "500年に一度の大転換期"だから、われわれも渦中を溺れることなく泳ぎ切るしかないのだ。

        
 
(画像をクリック!)


PS 読みやすくするため改行を増やし、リンク先情報もアップデートした。「ブログ内関連記事」も追加したが、本文には手は入れていない。 (2014年1月20日 記す)


<関連サイト>

ヴォルガ・ドイツ人の強制移住(半谷史郎、スラヴ研究、2000)

(2014年2月5日 追加)


PS 2021年には『ロシアドイツ人 — 移動を強いられた苦難の歴史』(鈴木健夫、亜紀書房、2021)が出版されている。 (2025年9月2日 記す)

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2009年6月10日水曜日

イエズス会士ヴァリニャーノの布教戦略 ― 異文化への「創造的適応」




 ビジネスマンとして日本で30年以上を過ごしたイタリア人ヴィットリオ・ヴォルピ(Vittorio Volpi)の、イタリア人向け著書2冊を続けて読了した。  
 
 『巡察師ヴァリニャーノと日本』(原田和夫訳、一藝社、2008) と 『賢者の「営業力」-日本進出の成功例ヴァリニャーノの教え-』(大上順一訳、PHP研究所、2006)である。それぞれオリジナルのタイトルは、『IL VISITATORE』(2004)、『MARKETING MANAGEMENT: Come conquistare un mercato internazionale. Le straordinarie lezioni di Alessandro Valignano, gesuita italiano del Cinquecento』(2005)。  

 前者の『巡察師』は、巡察師ヴァリニャーノの生涯を、主に日本布教にかかわることに絞って、イタリア人読者に紹介した本。  

 後者の『賢者』は、ヴォルピ氏のビジネス経験をもとに、ヴァリニャーノの手法を異文化ビジネスの方法論として、いかにすぐれたものであるかを、イタリアの一般読者向けに書いた本。  
 
 前者の内容は、先に紹介した若桑みどりの『クアトロ・ラガッツィ』の叙述のほうが、ヴァリニャーノの存在を生き生きと紹介しているので、正直言ってあまり新鮮味がなかったが、もともとの執筆意図がイタリア人向けの日本紹介という性格の本であるので、その点は割り引いて読む必要があろう。  



■著者のヴォルピ氏は日本通のイタリア人ビジネスマン

 日本通のヨーロッパ人ビジネスマンの日本知識の確かさは、かなりのものがある。友人にフォスコ・マライーニがいたことでも大きな力となったことだろう。むしろ翻訳者の日本史にかんする知識不足がやや散見されたが、ささいな間違いを訂正しない編集者にも責任がある。   

 Wikipedia でみると、ヴァリニャーノの記述は日本語版の方がイタリア語版より長いのは、イタリアでの認知度がやや低いことを意味しているのだろうか。  

 海外で活躍しながら日本では知られていない日本人がいるが、ヴァリニャーノはこの反対のケースのようだ。著者の問題意識は、この知られざるイタリア人をイタリアにあらためて紹介したいということにあった。  



■ヴァリリャーノ布教方針はローカリゼーション(現地化)のさきがけ

 イエズス会本部から34歳にして全権委譲されたヴァリニャーノは、アフリカから日本に至るまでの地域を「巡察」する責任権限を与えられていた。

 もともとザビエルのことを知って日本で布教したいという熱烈な思いから出発したヴァリニャーノは、結局日本には3度にわたり滞在し、日本布教の黄金期から黄昏の予感を感じる時期までを日本にかかわったことになる。  

 ナポリ近郊に生まれたヴァリニャーノは、日本にくるまでにすでに、パドヴァ、ヴェネツィア、ローマ、スペイン、ポルトガル、モザンピーク、インド、マラッカ、マカオと異文化を豊富に体験していた。この経験の上にたったヴァリニャーノのアプローチが画期的だったことは、著者自身のコトバを借りれば以下のようになる。


原始キリスト教のモデルに倣い、布教しようとする土地の文化を尊重するという健全な教理に基づいたメソッドは、すぐさま予想もしなかった成功を得た。しかし同時に、イエズス会の内外の多くの人によって反対され、アジアでまたとない布教の機会を逃す原因となった。有効で正統(オーソドックス)なアプローチとして認められ、公式に承認を受けるために、この彼の教えは、20世紀の後半の第二バチカン公会議まで、実に400年近い歳月を待たねばならなかったのである」 (『巡察師』P.68~69)。


 ヨーロッパで発展したキリスト教であるが、ヨーロッパ的要素をそぎ落とした原始キリスト教の精神を、ユダヤキリスト教的な伝統がまったくない日本や中国といった高度文明の異文化に移植するには、キリスト教の原理原則を曲げることなく、その土地の文化を内在的に理解し、自らを適応させ、その上で教えを無理なく伝えるべきだ、とということでえある。

 いわば、「現場発の方法論」であるといえよう。ヴァリニャーノの意義は、現場で苦労してきた宣教師たちの実践に「理論づけ」をし、布教の「方法論として体系化」したことに意義がある、といえる。    

 ヴァリニャーノが体系化した方法論のエッセンスは、以下のとおりである。


●現地語に習熟、現地の文化と風習を学んで適応することから始める
●現地に大幅な権限委譲を行い、かつ現地人の担当者を育成する
●将来、現地の統轄をまかせることのできる現地人責任者を育成する教育を現地で行う


 海外現地進出にあたっての心得そのものではないか。そのままビジネスに応用できるメソッドである。これを400年前に実践から導き出したのは、すぐれた頭脳による知的財産であるといえよう。 

 中国では、ヴァリニャーノの弟子であるマッテーオ・リッチが、徹底的に中国語をマスターし、文人たちと幅広く交友することから始めたのは、メソッドの忠実な実行者であったことを示している。
 
 しかしながら、現在では「インカルチュレーション」(inculturation)として公認されているこのメソッドは最終的にローマ教皇庁では否定され、中国布教も失敗に終わることとなった。    

 日本の布教が結局失敗に終わった原因の一つが、スペインのフランシスコ会士たちが、日本の現状を無視して、自分たちのやり方をダイレクトに押しつけようとしたこともあったようだ。
 
 若桑みどりの前掲書によれば、秀吉はフランシスコ会士のことを「蓑虫(みのむし)」といって軽蔑したらしいが、たしかに言い得て妙である。

 清貧も文化を異にすると、まったく理解されない、という好例である。もちろん信長・秀吉の時代は、いわば日本版バロックのような豪華絢爛な時代であったから、裸足できたない修道服をまとったフランシスカンがあの時代の日本にいたということ自体、なかなか想像しにくい。

 南蛮屏風に描かれたのはイエズス会士のみなので、フランシスコ会士の画像は見たことがない。 もしあれば面白いのだが。 



■異文化でビジネスをするという実践(プラクティス)

 異文化でビジネスをするには、まずその現地の文化をよく理解して、できれば現地語も学んで、というのは現在の日本でも常識になっているはずだが、必ずしもそうでないことは、アメリカでもタイでも多数目撃してきた。  
 
 海外の現地企業では、日本人が日本人だけで固まり、日本語のできる人間に「おんぶにだっこ」の状態になる。
 
 日本にある外資系企業もまた、バナナと呼ばれる日本人が幅をきかしている。その心は、見た目は黄色いが、中身は白い、ということ。 英語はできても実務はうとい。これではいつまでたっても、本当の成果は上がらないわけである

 理論というものは、言うは易く行うは難し。実行するに当たっては、それなりのノウハウが必要になるが、これは教科書だけで学ぶことは不可能である。実践の場で鍛えられて初めて自分のもののなるという性格をもつもののなのだ。



PS 読みやすくするために改行を増やし、小見出しをあらたに加えた。「インカルチュレーション」(inculturation)にかんする加筆と<関連サイト>における説明を加えた。 (2014年2月5日)


<関連サイト>

「インカルチュレーション」(inculturation) wikipedia英語版(日本語版はない)
・・以下のように定義がされている。 "Inculturation is a term used in Christianity, especially in the Roman Catholic Church, referring to the adaptation of the way Church teachings are presented to non-Christian cultures, and to the influence of those cultures on the evolution of these teachings." (「インカルチュレーション」とはキリスト教、とくにカトリックで使用される用語で、教会の教えを非キリスト教文化に適応させ、キリスト教の教えの進化に非キリスト教文化の影響させる方法を指している)。 
マッテーオ・リッチの中国布教において「中国化」が問題であったとして、のちに「典礼問題」としてバチカンで大問題になったことが説明されている。なお、日本のカトリック作家・遠藤周作の生涯のテーマは「インカルチュレーション」であったといえるかもしれない



<ブログ内関連記事>

■異文化マーケティングと布教

書評 『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』(マーク・マリンズ、高崎恵訳、トランスビュー、2005)
・・日本への宣教(=キリスト教布教)を「異文化マーケティング」を考えるヒントに

書評 『聖書の日本語-翻訳の歴史-』(鈴木範久、岩波書店、2006)-新しい考え方を普及させるためには必要なことは何だろうか
・・「新しい思想を受容するに際しては、受容する側にその思想を理解するための回路を作らなければならないのだが、その際には従来からの思考の枠組みとコトバが多く利用される」

書評 『新月の夜も十字架は輝く-中東のキリスト教徒-』(菅瀬晶子、NIHUプログラムイスラーム地域研究=監修、山川出版社、2010) 
・・アラブ・ナショナリズムにつながるアラビア語復興運動は、聖書をアラビア語に翻訳する事業に携わったアラブ人キリスト教徒が指導的役割を果たした事実は、ルターによる聖書のドイツ語訳とのアナロジーを思わせるものがある


■ローカリゼーション(現地化)

書評 『「マルちゃん」はなぜメキシコの国民食になったのか-世界で売れる商品の異文化対応力-』(安西洋之、中林鉄太郎、日経BP社、2011)-日本製品とサービスを海外市場で売るために必要な考え方とは?

なぜ「経営現地化」が必要か?-欧米の多国籍企業の歴史に学ぶ




■イエズス会とカトリック

「500年単位」で歴史を考える-『クアトロ・ラガッツィ』(若桑みどり)を読む
・・「クアトロ・ラガッツィ」とはイタリア語で「遣欧少年使節」の4人のこと。第一次グローバリゼーション時代の異文化との出会いと葛藤を描いた大作

「泥酔文化圏」日本!-ルイス・フロイスの『ヨーロッパ文化と日本文化』で知る、昔から変わらぬ日本人
・・イエズス会士のフロイスは日本布教の記録である『日本誌』を編纂

カラダで覚えるということ-「型」の習得は創造プロセスの第一フェーズである
・・イエズス会の創始者・聖イグナティウス・ロヨラの『霊操』(スピリチュアル・エクササイズ)についても触れている

「マリーアントワネットと東洋の貴婦人-キリスト教文化をつうじた東西の出会い-」(東洋文庫ミュージアム)にいってきた-カトリック殉教劇における細川ガラシャ

書評 『神父と頭蓋骨-北京原人を発見した「異端者」と進化論の発展-』(アミール・アクゼル、林 大訳、早川書房、2010)-科学と信仰の両立をを生涯かけて追求した、科学者でかつイエズス会士の生涯

アッシジのフランチェスコ 総目次 (1)~(5) ・・フランシスコ会の始祖フランチェスコ

書評 『バチカン近現代史-ローマ教皇たちの「近代」との格闘-』(松本佐保、中公新書、2013)-「近代」がすでに終わっている現在、あらためてバチカン生き残りの意味を考える

(2014年2月5日 情報追加)


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