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2010年10月31日日曜日

『きのう何食べた? ④ 』(よしなが ふみ、講談社、2010)-けっこう手の込んだ料理を作っているなあ




 ようやく第4巻が出版された。

 『きのう何食べた?』(よしなが ふみ、講談社)の最新刊である第4巻が10月にでたので、さっそく買って読む。約1年ぶりである。

 第4巻は、「モーニング」に連載された 8話分(25話~32話)を収録。

 毎回、けっこう手の込んだ料理を作っているなあ、主人公のスローライフ志向のゲイの弁護士は。 

 料理名でいえば、このようになる。

長ねぎのコンソメ煮
煮込みハンバーグのきのこソース
かぶの海老しいたけあんかけ
キャラメルリンゴのトースト
海老と三つ葉と玉ねぎのかき揚げそば
卵焼き
玉ねぎたっぷり豚のしょうが焼き
ナポリタン

 
 毎回、これらのメインに副菜がつくので、作るのはけっこう手間暇かかっているわけだ。

 このマンガは、"家庭" 料理のレシピ本という情報本としての側面もあるが、主人公の設定と人間模様が面白いので楽しみながら読めるのがいい。

 第5巻が出るのはまた1年後。

 はやくできないかなあ~と待ち遠しい。
 ごはんと同様、できあがるまでの待つ楽しみを味わいたい。




<関連サイト>

モーニング公式サイト - 『きのう何食べた?』作品情報


<ブログ内関連記事>

『きのう何食べた?』(よしなが ふみ、講談社、2007~)

『檀流クッキング』(檀一雄、中公文庫、1975 単行本初版 1970 現在は文庫が改版で 2002) もまた明確な思想のある料理本だ

『こんな料理で男はまいる。』(大竹 まこと、角川書店、2001)は、「聡明な男は料理がうまい」の典型だ





(2012年7月3日発売の拙著です)








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end

2010年10月30日土曜日

「フォーリン・アフェアーズ・アンソロジー vol.32 フォーリン・アフェアーズで日本を考える-制度改革か、それとも日本システムからの退出か 1986-2010」(2010年9月)を読んで、この25年間の日米関係について考えてみる




 月刊誌「フォーリン・アフェアーズ・リポート」(FOREIGN AFFAIRS 日本語版)の「アンソロジー vol.32 フォーリン・アフェアーズで日本を考える-制度改革かそれとも日本システムからの退出か 1986-2010」の献本が、「R+ レビュープラス」から届いたので、目をとおしてみた。


このアンソロジーの構成

 ではまず、論文タイトルと筆者、そして論文のサマリーと論文発表時点の筆者略歴をじっくり読んでみよう。「日本的制度」を軸にして、「フォーリン・アフェアーズ・リポート」に発表された論文、とくに米国人による諸論考を集成したアンソロジーになっている。

 収録された論文は、1986年から2010年までの約25年間をカバーしている。これは元号でいえば、ほぼ「平成」の歴史そのものである。

 「昭和」の後期が、高度成長と盤石な「日本的システム」による「世界の一等国」としての確立の歴史であったとすれば、「平成」の歴史とは、安定していた「日本的制度」に揺らぎが生じ、アイデンティティを巡ってもがき苦しむ年月であるということもできようか。

 とりあえず、ここでは論文タイトルと筆者名を、雑誌掲載順に並べて紹介しておこう。なお、( )内の年月と肩書きは、論文発表時点のものである。


第一章  制度改革、それともシステムから退出するか?

「日本システムから脱出する企業と個人」(2001年9月号 レオナード・J・ショッパ/バージニア大学准教授)

「行政指導と終身雇用の終わり-「日本株式会社」の復活はない」(1993年6月号 ピーター・F・ドラッカー/クレアモント大学院大学教授)

「日本再生の鍵を握る「コーポレート・ジャパン」」 (1997年4月号/マイケル・ハーシュ & E・キース・ヘンリー/それぞれ、「ニューズウィーク」誌国際版ビジネスエディター、MITシニア・リサーチ・アソシエート)


第二章 日本的制度とは何か

「超えられなかった過去-戦後日本の社会改革の限界」(1999年9月号 ウォルター・ラフィーバー/コーネル大学歴史学教授)

「日本問題-異質な制度と特異性に目を向けよ」(1986年1月号(『諸君』) カレル・ファン・ウォルファレン/オランダ人ジャーナリスト)

「1940年体制の弊害を克服するには」(2002年1月号 ウィリアム・H・オーバーホルト/ハーバード大学アジアセンター研究員)

「官僚と政治家が日本を滅ぼす?」(2000年7月号 オーレリア・ジョージ・マルガン/豪州ニューサウスウェールズ大学政治学教授)


第三章 変化する国内・国際環境に日本は適応できるか

「日米安全保障条約50周年の足跡と展望-いまも安保はグランドバーゲンか?」(2010年3月号 ジョージ・パッカード/米日財団会長)

「日本の歴史認識と東アジアの和解を考える-反動を誘発する謝罪路線の危うさ」(2009年5月号 ジェニファー・リンド/ダートマス大学助教授)

「高齢社会が変える日本経済と外交」(1997年6月号 ミルトン・エズラッティ/投資顧問会社ロードアベット パートナー)

「米恐慌型経済への回帰」(1999年2月号 ポール・クルーグマン/マサチューセッツ工科大学教授)

「論争 グローバル経済危機はいつまで続くのか-日米、二つの経済バブルを検証する」(2009年7月号 リチャード・カッツ & ロバート・マッドセン/それぞれマサチューセッツ工科大学国際研究センター シニアフェロ-、オリエンタル・エコノミスト・アラート誌編集長)



タイムラインに沿って、日米関係の枠組みのなかで「日本問題」を考えてみる

 先にも書いたように、このアンソロジーは、「フォーリン・アフェアーズ」編集部によるテーマ別の整理がされている。

 私は、このアンソロジーは、全体が「日本的制度」問題関連の論文集と捉えているので、一つの読み方として、論文発表時点のタイムラインにあわせて読んでみたいと思う。その時々の外部環境を前提に読んだほうが、理解しやすいと思うからだ。

 「フォーリン・アフェアーズ・リポート」という文脈でみれば、これは端的にいって、日米関係における日本の位置づけをめぐる議論ということになる。

 「平成」の歴史そのものとオーバーラップするこの25年間とは、日米関係における日本と米国の力関係の変化が徐々に変化していった歴史である。この時期は、私見では、3つに分類することができる。

 第1期は、1980年代後半は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」に褒め殺されていることにも気がつかずにユーフォリアに浸りきっていた陶酔の時代

 第2期は、日本にとっては、1991年のバブル崩壊後の「失われた20年」。この期間は、米国はクリントン政権のもと、金融と IT を中心としたイノベーションで経済力を回復し、日米逆転状況となる。力関係の逆転状況において、「日本的制度」が徹底的に批判され、米国政府による「日本改造計画」が着々と実行されていった時代。この後、米政権は共和党のブッシュ・ジュニアに移るが、日本の小泉政権との蜜月のもと、前政権の政策はさらに露骨に実行されていった。「日本的制度」の堀り崩しが
 安全保障面では、ソ連崩壊によって冷戦構造が崩壊したあと、米国は次なる仮想敵を求めて模索していた時代である。2001年の「9-11テロ」が発生することによって、イスラーム過激派が仮想敵と決定されるまでは、日本が仮想敵とされていた時代もあったのだ。

 第3期は、2008年の「リーマンショック」に端を発する、米国経済復活を支えていた金融資本主義に大きな欠陥があることが判明して以後と米国経済の弱体化の時代
 しかしこの時期は、日米関係だけをみていれば、米国が日本の失敗を徹底分析する時代であるが、中国の政治経済両面における台頭というファクターが無視できないものとして浮上してくる。この文脈においては、日本も米国も、ともに弱体化しつつあることが、それ以前の時期とは大いに異なる状況だ。
 「日本的制度」をめぐる議論は、日米関係という二者関係のなかだけで論じることはもはや不可能である。日中関係、米中関係、日米関係は、日中米というトライアングルのなかで見ていかなければもはや意味をなさない。
 これ以前の時代がそうでなかったわけではもちろんないが、政治と経済が不可分の実態である以上、「フォーリン・アフェアーズ・リポート」的な、政治経済という視点でものをみることは、従来にまして重要性を増してくるだろう。

 以上みてきた、3つの時代区分は、私なりに整理するとこんな感じになる。

1. 1980年代後半「バブル時代の日本」-「日本異質論」の先駆け
2. 米国による「バブル経済崩壊後の日本的制度」改造計画の外圧
3. 「リーマンショク」後の弱体化する日本と弱体化する米国、そして中国の台頭


 このようにタイムラインで並べ替えてみると、「日本的制度」にかんする議論とは、日本国内からでてきた議論というよりも、「日本異質論」に始まった、日本の外側から指摘が始まった議論であるということがわかる。
 バブル期に自身満々であった日本は、こういった議論にはまったく耳を貸さなかったが、バブル崩壊後、長引くデフレ状況のなか、外部からの批判に対して自己改革できないもどかしさに、鬱積(うっせき)が蓄積していった時期でもある。

 以下、アンソロジーに収録された論文をざっと見ておきたい。米国が日本をどう見ていたのか、どんような圧力をかけようとしていたのか、時系列で振り返ると歴史的経緯がよく把握できる。


1. 1980年代後半「バブル時代の日本」-「日本異質論」の先駆け

 まず、「日本問題-異質な制度と特異性に目を向けよ」(1986年1月号(『諸君』) カレル・ファン・ウォルファレン/オランダ人ジャーナリスト)について。いまから、すでに24年前の論文である。
 この論文によって、「日本異質論者」として登場したのが、オランダ人ジャーナリストのカレル・ファン・ウォルファレンであった。1989年に出版された著書 『The Enigma of Japanese Power 』は私も当時読んだが、「だからどうした、日本は成功しているのだ」という根拠なき自信(?)に充ち満ちていた当時の日本であった。この主著の日本語訳は、現在では『日本 権力構造の謎 上下』(篠原勝訳、ハヤカワ文庫NF、1994)として読むことができる。
 「日本的制度」に切り込む姿勢を見せたこの論文を再録していることは、歴史的記念碑としての意味はあるだろう。ただし、時代背景を正確に再現しながら読むことが必要だろう。


2. 米国による「バブル経済崩壊後の日本的制度」改造計画の外圧

 このアンソロジー集ではもっともボリュームが大きいのが、1990年の「バブル経済」崩壊後から、2008年までのあいだの20年間弱に発表された 7本の論文である。

 テーマは、世界に恐れられた日本のイメージが消え去り、「成功のワナ」に捉えられた日本が、自らの改革を躊躇していた状況。そしてこれに、いらだちを強め圧力をかけ続けていた米国。
 仮想敵であったソ連が1991年に崩壊したあと、冷戦崩壊後いまだ米国にとっての仮想敵が絞り切れていなかったが、9-11でイスラーム過激派にフォーカスが合わされるまでは、日本が仮想敵として想定されていたことも思い出すべきだろう。

 私は、1990年から1992年にかけて米国の工科大学の大学院に留学していたが、ある教授からの依頼で日本の競争力分析プロジェクトの手伝いをさせられたが、この時代の「日本的制度」改造論は、すでに入念に準備されていたことを理解している。

 「日本叩き」、「スーパー301条」、「日米構造協議」、こういったキーワードがこの時期を象徴的に示している。


 「行政指導と終身雇用の終わり-「日本株式会社」の復活はない」(1993年6月号 ピーター・F・ドラッカー/クレアモント大学院大学教授)は、いま再びブームになっているドラッカーによるものである。日本熟知する「社会生態学者」による論考は、「日本的制度」の転換期の状況をよく指摘している。

 「日本再生の鍵を握る「コーポレート・ジャパン」」 (1997年4月号/マイケル・ハーシュ & E・キース・ヘンリー/それぞれ、「ニューズウィーク」誌国際版ビジネスエディター、MITシニア・リサーチ・アソシエート)は、1998年に始まる不良債権問題の決壊前夜の、非金融業の国際的ブランドをもつ製造業動きをマルチナショナル企業化への動きとして肯定的に論じている。

 「高齢社会が変える日本経済と外交」(1997年6月号 ミルトン・エズラッティ/投資顧問会社ロードアベット パートナー)は、2010年の現在すでに顕在化している問題について、かなり早い時期に指摘を行っている。経済的な基盤の変化が外交安全保障に与える影響について。

 「米恐慌型経済への回帰」(1999年2月号 ポール・クルーグマン/マサチューセッツ工科大学教授)は、1997年のアジア金融危機を予言的に警告していた経済学者による論考。1998年には拓銀(北海道拓殖銀行)と山一証券破綻、この論文がでたあと長銀(日本長期信用銀行)と日債銀(日本債券信用銀行)が破綻したことを思い出すべきだろう。日本国内でも「昭和恐慌」の振り返りがさかんに行われていた。

 「超えられなかった過去-戦後日本の社会改革の限界」(1999年9月号 ウォルター・ラフィーバー/コーネル大学歴史学教授)は、日本でも話題になった、ジョン・ダワーの『敗戦を抱きしめて』(岩波書店、2001 原著出版は 1999年3月)の書評の形をとった論考。あくまでも占領軍であった米国の立場からみた「日本的制度」論である。

 「官僚と政治家が日本を滅ぼす?」(2000年7月号 オーレリア・ジョージ・マルガン/豪州ニューサウスウェールズ大学政治学教授)は、このアンソロジーのなかでは唯一の非米国人による論考。著者はオーストラリア人である。2000年7月当時の首相は、自民党の小渕首相が倒れたあとの不透明な経緯で就任した森首相。この時代背景のもとに読むと、アクチュアルな姿勢が感じ取れる。

 「日本システムから脱出する企業と個人」(2001年9月号 レオナード・J・ショッパ/バージニア大学准教授)は、経済学者ハーシュマンの有名な「発言か退出か」というフレームワークをもとに議論を展開している。本アンオロジーの表紙にも記されている、Foreign Affairs Essays on Japan: Voice or Exit from the System ? の "voice or exit" である。この論考の呼びかけに応じるかのように実現した、2009年の「政権交代」は、日本国内からでてきた「発言」(voice)であったのだが、この国民の発言(声)に十分に応えることのできない民主党政権は・・・

 「1940年体制の弊害を克服するには」(2002年1月号 ウィリアム・H・オーバーホルト/ハーバード大学アジアセンター研究員)は、過去の成功を創り出した「1940年代体制」(・・この表現自体は経済学者・野口悠紀夫のものだろう)という「成功のワナ」に捕らわれたまま身動きのできない日本への、投資銀行のエコノミストとしてアジア各地で過ごしてきた執筆者からみた正確な見取り図はバランスのとれたもので、2010年の現時点から読んでも説得力がある。


3. 弱体化する日本と弱体化する米国、そして中国の台頭

 2008年の「リーマンショック」によって、米国経済自体の脆弱化が明らかになってきており、この前の時代のような、米国による一方的な対日圧力という構図が成立しなくなってきた時期である。

 そして、2009年は周知のとおり、「政権交代」によって民主党が政権を握り、自民党政権が野に下った年である。以後、現在にいたるまで、台頭する中国をめぐって日米関係が漂流していることは、とくに安全保障面において大きな問題を引き起こしている。

 米国に次ぐナンバーツーの一からの転落傾向の始まっていた日本は米国にとってどのように写っているのだろうか。


 「日本の歴史認識と東アジアの和解を考える-反動を誘発する謝罪路線の危うさ」(2009年5月号 ジェニファー・リンド/ダートマス大学助教授)の原題は、The Perils of Apology(謝罪の禍い)、Jennifer Lind, Sorry State: Apologies in International Politics, Cornell Univ. Press, 2008(日本語未訳)の抜粋。近隣諸国への「謝罪」外交について、1950年代の西ドイツ(当時)が採用した「アデナウナー・モデル」の有効性と日本への応用を論じている。「謝罪」と「謝罪を否定する(国内の)反動」の中間路線である。政治経済が密接にからみあう現代世界に生きる日本人にとっても、日中関係を考えるうえで、賛否両論が当然あろうが読む価値のある論文といえよう。

 「論争 グローバル経済危機はいつまで続くのか-日米、二つの経済バブルを検証する」(2009年7月号 リチャード・カッツ & ロバート・マッドセン/それぞれマサチューセッツ工科大学国際研究センター シニアフェロ-、オリエンタル・エコノミスト・アラート誌編集長)は、米国は日本の「失われた20年」の失敗原因を的確に学んだかにかんする論争である。日本人の目からみれば、米国の経済バブル崩壊はデジャヴュー(既視感)のある現象だが、ともに弱体化の道をすすむ日米両国をめぐる論争といってしまうと言い過ぎだろうか。

 「日米安全保障条約50周年の足跡と展望-いまも安保はグランドバーゲンか?」(2010年3月号 ジョージ・パッカード/米日財団会長)は、近著『ライシャワーの昭和史』(森山尚美訳、講談社、2009)の著者であり、駐日大使時代の特別補佐官として、ライシャワー博士の側近として過ごしてきた日本通である。漂流する「日米安保条約」体制を、日本の立場もよく踏まえたうえでバランスのとれた論述を行っている。このような人を一人でも増やすことが、同盟国である日米双方にとって必要なことをあらてめて感じるのである。


 以上、あえて編集部によるテーマ分類のワクを外して、論文発表のタイムライン順に内容を概観してみた。


アンソロジーを読む意味とは

 そもそも「論文」(essay)とは何のために執筆され、発表されるのか、その意味をこのアンソロジーをよむうえで考えておきたい。

 「論文」とはそもそも、ある特定のテーマに対して論を立て、その論を展開して主張を行い、論文を読んだ者になんらかの形でアクションを起こすべく仕向けるために執筆されるものである。

 したがって、すでに「論文」発表後の結末を知っている現在から、過去に執筆された「論文」を読むとき、なにかしら強い違和感を感じることもあるのは、「フォリン・アフェアーズ・リポート」に登場した諸論文の性格によるものであろう。

 その意味では、アンソロジーとは、投資銀行で使う意味とは異なるが、Tombstone のようなものであるのかもしれない。その心は、その後の展開を知っている立場からみれば、論点をハズしている論文もあるが、発表時点においてはそれなりに意味や影響力をもった論文であるということだ。だから、「記念碑」の意味で Tombstone といってみた。

 基本的に「フォーリン・アフェアーズ」掲載の論文は、米国の利害をなんらかの意味で反映したものだとみてよい。しかし、この米国の見解だけを見ていたのでは公平とはいえまい。

 たとえば、関岡英之という論者がいる。米国による「日本改造計画」に警鐘を鳴らしている論客である。その著書 『拒否できない日本-アメリカの日本改造計画が進んでいる-』(文春新書、2004)『奪われる日本』(講談社現代新書、2006)の二冊をつうじて米国の戦略性について逆照射した論考を発表しているが、こういった本を読んでみることも、インパーシャルな視点を身につけるためにも必要だといえるだろう。

 今回、1986年から2010年までの約25年にわたって「フォーリン・アフェアーズ・リポート」に発表されてきた、「日本的制度」をめぐる論文のアンソロジーを通観してみて、「自分史」を振り返る機会ももつことができた。私は1985年に大学を卒業してから約25年間、ビジネスマンとして過ごしてきた人間である。

 そのときどきの批判や悲観論、さまざまな見解が示されているが、日本も米国も25年間のあいだ、国家として続いてきたわけである。外部環境の激変のなか、今後の日本、そして日米関係がどう変化していくのか、今後も思索を行ううえで、「フォーリン・アフェアーズ・リポート」の意義は大きなものがある。


終わりに

 なお最後になるが、「R+ レビュープラス」担当者によれば、「今回は過去にFARをレビューして頂いたことのある方の中から、編集長自らこの方にレビューを書いて頂きたいという方を直接選んで頂きました」ということでの指名である。

 たいへん名誉なことであるので、よろこんでお受けすることにした。

 こういう機会を与えていただいた「R+ レビュープラス」と月刊誌「フォーリン・アフェアーズ・リポート」の双方に、この場を借りて感謝の意を表したい。





<参考サイト>

フォーリン・アフェアーズで日本を考える-制度改革か、それとも日本システムからの退出か 1986-2010
・・「フォーリン・アフェアーズ・リポート」の公式サイト


<ブログ内関連記事>

月刊誌 「フォーリン・アフェアーズ・リポート」(FOREIGN AFFAIRS 日本語版) 2010年NO.3 を読む

月刊誌 「フォーリン・アフェアーズ・リポート」(FOREIGN AFFAIRS 日本語版) 2010年NO.5 を読む-特集テーマは「大学問題」と「地球工学」-

日米関係がいまでは考えられないほど熱い愛憎関係にあった頃・・・(続編)・・マンガ家・石ノ森章太郎による『マンガ 日本経済入門』(日本経済新聞社、1986)の英語版 JAPAN Inc.: Introduction to Japanese Economics (Comic Book、1988) を題材に・・・







(2012年7月3日発売の拙著です)











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2010年10月29日金曜日

書評『「気づきの瞑想」を生きる ー タイで出家した日本人僧の物語』(プラ・ユキ・ナラテボー、佼成出版社、2009)ー タイの日本人仏教僧の精神のオディッセイと「気づきの瞑想」入門




タイの日本人仏教僧の精神のオディッセイと「気づきの瞑想」入門

 日本の大学を卒業後、タイの大学院に留学中に3ヶ月の予定で「短期出家」したまま、以後20有余年、還俗することなく「開発僧」として森で瞑想修行を続けている日本人テーラヴァーダ仏教僧の精神のオディセイ。そして、「気づき瞑想」をつうじた仏教入門である。

 現在の日本では、スリランカ出身のスマナサーラ長老によるウィパッサナー瞑想法がメインストリームとなっているが、テーラヴァーダ仏教(上座仏教)の瞑想法はスリランカのものに限定されるわけではない。同じく上座仏教であるミャンマーの仏教僧による瞑想法指導もある。

 ただ、タイの仏教僧、しかも日本人によるものはあまりないようだ。「気づきの瞑想法」もウィパッサナー瞑想法であるが、レベリング(・・カラダの動きのひとつひとつにコトバでラベルを貼る瞑想法のテクニック)を行わない、比較的新しいメソッドである。

 米国では「ダイナミック・メディテーション」、中国では「動中禅」といわれているそうだ。詳しくは直接、第3章「気づきの瞑想」をみていただきたいが、なによりも「気づき」と「観察」を重んじる点が、ブッダ本来のあり方なのである。

 本書の著者は1962年生まれの日本人男性、いわゆる "オウム世代" でもあり、現代日本人が抱える精神的な問題を肌身をつうじて熟知している。それだけに、著者の紹介するタイ仏教とその瞑想法は、日本人にココロとカラダにも響くものが大きいのではないだろうか。実際に著者のもとを訪れて、精神的なウツ状態を乗り越えた日本人のケースを読んでいると、そう実感される。

 第2章「タイのテーラワーダ仏教」に描かれた、森の修行僧の一日、朝起きてから、托鉢、食事も含めて行住坐臥すべてが瞑想修行であるという姿勢は、ある意味では、カタチから入ってココロを整えていく生活主観としての瞑想法といっていいかもしれない。日本人にとっても無理なく実践できるものであるといっていいだろう。「気づき」と「観察」によって「観る人」になることが重要なのだ。これがすべての出発点になる。

 仏教学者が書いたのではない、テーラヴァーダ仏教の実践者が書いた智慧に満ちた本。いわゆるスピリチュアルなどの安直な癒しではない、ほんとうの癒しを求めている、悩み、苦しすべての人にぜひ薦めたい本である。


<初出情報>

■bk1書評「タイの日本人仏教僧の精神のオディッセイと「気づきの瞑想」入門」投稿掲載(2010年10月29日)
■amazon書評「タイの日本人仏教僧の精神のオディッセイと「気づきの瞑想」入門」投稿掲載(2010年10月29日)

*再録にあたって加筆した。




目 次

プロローグ
第1章 出家の経緯と開発僧
第2章 タイのテーラワーダ仏教
第3章 気づきの瞑想
第4章 一期一会の出会い
第5章 「気づきの瞑想」を生きるキーワード
あとがき


著者プロフィール

プラユキ・ナラテボー(Phra Yuki Naradevo)

1962年生まれ。タイ・スカトー寺副住職。上智大学卒業後、タイのチュラーロンコン大学大学院に留学。研究テーマは農村開発におけるタイ僧侶の役割。1988年、瞑想指導者として有名なルアンポー・カムキアン師のもとで出家。以後、村人のために物心両面の幸せを目指す「開発僧」として活動する一方、日本とタイを結ぶ架け橋としても活躍。また、在日タイ人の支援活動にも携わっている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)



<書評への付記>

 本文中にも触れられているが、1962年生まれの著者は、オウム真理教(当時)の上祐某とは同い年である。上智大学の卒業。こう書いている私自身、実は1962年生まれであり、おなじ時代の空気を吸った人間として、著者の志向するところには大いに共感するものを感じている。

 バブルにまみれて生きてきた人間は、同時につよく精神性に惹かれていたこと、深い欲望世界のまっただなかにいたからこそ、深い精神性への志向が強いこと、この両者は逆説的に見えながら、実は合わせ鏡のような存在である。

 著者自身、アジア農村支援の NGO活動などにのめり込み、その意味では非常に欲望の強い人間なのではないかと思う。しかし、その NGO活動もそれ自体が、彼自身を苦しめるようになる。捕らわれすぎていたためだ。

 そして、人生をリセット(人生刷新)するために選んだのが「短期出家」であったということなのだ。

 タイでは、男子に生まれた以上、短期であれ出家することは、両親、とくに母親に対する孝養としてもっとも重んじられる徳行の一つである。なぜなら、上座仏教では女性は出家できないからだ。

 著者も、開発学を学ぶために留学した名門チュラロンコーン大学の指導教官に短期出家の件を切り出すと、自分も翌年短期出家するからと非常に喜ばれた、という。まさか、著者本人も指導教官も、そのまま還俗しないで修行を続けることになろうとは夢にも思わなかっただろうが。その後の指導教官の発言が記されていないのが残念だ。

 タイで出家して、手記を書いている日本人は少なくない。

 『タイの僧院にて』を書いた文化人類学者の青木保、『タイ仏教入門』などの著書をもつ元外交官で東南アジア学者の石井米雄といった、「短期出家」を行った体験記を書いている学者以外に、『タイでオモロイ坊主になってもうた』を書いた不動産業から足を洗って出家した元実業家などなど。ちなみにこの藤川チンナワンソ清弘は、現在も還俗することなく出家者を続けている。

 その意味では、本書の著者は、純粋に仏教の道を探求すべく修行し、かつ「開発僧」として活動しているという意味では異色の存在かもしれない。

 「開発僧」とは、1980年代からタイに登場してきた、実際の社会問題を解決するために、ブッダの教えに基づき、瞑想修行だけでなく、一般民衆のなかに入ってともに活動する仏教僧侶のことである。急激な経済成長がもたらす社会問題は、とくに都市部と地方との経済格差だけでなく、環境破壊という形でも顕在化している。「開発僧」の「開発」とは、「経済開発」という意味だけでなく、「人間開発」という意味を兼ねているのである。

 援助するという上から目線ではなく、民衆とともに森林保護や環境保全に取り組んでいるのが、「開発僧」なのである。

 こうした著者の立場は、上座仏教の研究者ではなく、あくまでも実践者としてのものである。著者の発言が実に貴重なものであるのはそこにある。


 著者が監修者になっている『「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方』(カンポン・トーンブンヌム、プラ・ユキ・ナラテボー=監訳、浦崎雅代訳、上田紀行=監修・序、佼成出版社、2007)も一緒に薦めたい。

 もともと体育教師であった1955年生まれのカンポンさんは、24歳の時、水泳の授業の飛び込みで誤って全身打撲の重傷を負い、全身麻痺の障害者となってしまった人。しかし、「気づきの瞑想法」に出会い、すべてをありのままに受け入れることができるようになってからは、苦しむことなく生きることができるようになったという。タイの「乙武君」(『五体不満足』の著者)とでもいうべき人である。

 『「気づきの瞑想」を生きる』にも登場するカンポンさん在家信者だが、同じスカトー寺にいるプラ・ユキ師を訪れる悩み深き日本人に、生きる勇気を与え続けている人でもある。

 「気づき」、そして「観察する」。苦しむ人から苦しみを「観る人」になる。これがすべての解決方法なのである。

 悩み、苦しすべての人にぜひ薦めたい本である。いわゆるスピリチュアルなどの安直な癒しではない、ほんとうの癒しを求めている人は、「気づき」と「観察」から、まず第一歩を始めるべきなのだ。たとえ、仏教者でなくても、瞑想法そのものは身につかないとしても。



<ブログ内関連記事>

書評 『目覚めよ仏教!-ダライ・ラマとの対話-』 (上田紀行、NHKブックス、2007. 文庫版 2010)
・・日本仏教へのアンチテーゼとなっているのは、上座仏教だけではない。大乗仏教のダライラマ法王もまたその一人である。

書評 『銃とジャスミン-アウンサンスーチー、7000日の戦い-』(ティエリー・ファリーズ、山口隆子/竹林 卓訳、ランダムハウス講談社、2008)
・・アウンサンスーチーさんはウィパッサナー瞑想法によって軟禁生活の20年間を乗り切った!

今年も参加した「ウェーサーカ祭・釈尊祝祭日 2010」-アジアの上座仏教圏で仕事をする人は・・
・・「書評への付記」で紹介した、日本人が書いたタイ仏教修行体験記についても言及している

タイのあれこれ(4)-カオパンサー(雨安吾入り)
・・上座仏教の「短期出家」はこの雨安吾の三ヶ月間に行われる

タイのあれこれ (16) ワットはアミューズメントパーク
・・バンコク市内のお寺について

書評 『講義ライブ だから仏教は面白い!』(魚川祐司、講談社+α文庫、2015)-これが「仏教のデフォルト」だ!
・・ミャンマーのヤンゴンで瞑想実践と教理研究を行う「仏教研究者」による「初期仏教」入門

(2014年5月17日、2016年1月4日 情報追加)


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2010年10月28日木曜日

『Sufficiency Economy: A New Philosophy in the Global World』(足るを知る経済)は資本主義のオルタナティブか?-資本主義のオルタナティブ (2)




 先週(2010年10月20日)バンコクにいった際に、サイアム・パラゴン内の紀伊国屋書店で買ってきたのが、この『Sufficiency Economy: A New Philosophy in the Global World. 100 Interviews with Business professionals.』である。

 The Thai Chamber of Commerce と Board of Trade of Thailand の編著になるもの。出版社は Amarin Publishing Services. 定価は B90、初版第1刷は2010年、発行部数は 3,500部。

 Sufficiency Economy は、タイ王国のラーマ9世プーミポン国王が、1974年から提唱している経済哲学である。タイ語では、セタキット・ポーピアン、日本語でいえば、「知足経済」、「足を知る経済」とでもなろうか。

 表紙は、刈り入れの終わった田んぼを歩いて視察する壮年時代のプーミポン国王。

 「足を知る」という日本語表現からも類推できるように、江戸時代の日本のような農本主義にフィットした経済哲学であることはベースにあることは間違いない。

 いまでもタイは、世界最大のコメ輸出国で、世界のコメ相場を決定するメージャー・プレイヤーであるが、1970年代と2010年代の現在を比較すれば、農業と工業の調和のとれた発展というよりも、やや工業化の道への傾斜具合が大きい・・かもしれない。

 近年、サステイナブル経済(sustainable economy)というコトバが話題に上ることも多い。サステイナブル経済とは、急激な経済成長のもたらすネガティブな側面を回避するため、身の丈にあった経済成長を志向する経済思想である。

 その意味においては、「足を知る経済」も「サステイナブル経済」と歩調をあわせたものだといえるだろう。むしろ経済哲学の表明としては、「足を知る経済」のほうが先行しているのかもしれない。

 では、「足を知る経済」は、「資本主義のオルタナティブ」なのだろうか?

 いやそうではない。あえていえば、資本主義の一(いち)バリエーションとして捉えるべきだろう。プーミポン国王自身、経済発展そのものを否定はしない。ただ、環境破壊ももたらさず、人間精神の破壊ももたらさない、調和のとれた発展が望ましいということなのだ。

 実際、本書においては、「足を知る経済」についての、100人のビジネス・プロフェッショナルへのインタビューを収録しているが、経済諸団体から11人、食品産業を含む農業から12人、製造業から24人、医療産業から3人、不動産業から6人、メディア産業から6人、小売業から18人、金融保険業から10人、教育産業から6人、観光ホテル業から4人の構成となっている。いずれも、タイを代表する経済人の面々であり、もちろん華人系が大半であるが、どのような経営哲学をもって経営にあたっているか語っており面白い。

 もちろん、国王陛下が提唱する経済哲学にコンプライアンスすることは、自らのビジネス追求にあたっても損になることはないだろう。そういった計算が働いているのも当然だろう。

 同じく華人系とはいえ中国大陸の「中国人」とは共通性もありながら、かなり異なる印象を受けるのは、移民先のホスト国であるタイ国民として受け入れられていることが成功の条件となっている以上、当然の行動様式であるといっても当然のことなのである。

 ただ、華人といっても、エスタブリッシュメントに限りなく近い層と、新興成金層(ニューリッチ)とでは、経済哲学においても行動様式においても大きく異なるのは、どの国においても観察できることである。

 タイという文脈において、後者の新興成金層の代表は、クーデターで追放されたタックシン・チナワット元首相のことだ。

 以前、私は、書評 『タイ-中進国の模索-』(末廣 昭、岩波新書、2009)において、以下のようにエスタブリッシュメント層と新興成金層との、資本主義に対する態度の違いについて書いたので、再録させていただく。

 本書を読むと、中進国となった工業国タイの問題とは、米国が主導するグローバル資本主義にいかに対応するかという課題に対する、二つの解答のあいだのせめぎ合いであると見ることもできる。
 ひとつは、1997年の金融危機以後、タイの政治では例外的な、5年以上にわたる長期政権を実現したタクシン元首相の、積極的にアングロサクソン流のグローバル資本主義の流れに乗っかっていこうとした経済・社会政策
 もうひとつは、現国王ラーマ9世(=プーミポン国王)が提唱する「足るを知る経済」。後者は、仏教の経済思想に立脚し、サステイナブル経済を志向する、いわばオルタナティブ資本主義といえる。


 今回取り上げた「Sufficiency Economy」(足を知る経済)とは、ある意味では、タイ王国という文脈においては、エスタブリッシュメントの経済哲学、経済思想といえなくもない。すでに成り上がって時間のたつ事業家と、それに対するアンチテーゼとして成り上がってきた一代目の事業家との違いである。一代目の事業家であっても、前者の志向する側に立つ者がいるのは、処世術という観点からいえば当然である。

 このように整理してしまうと、誤解があるかもしれないが、ある意味では当てはまる話であると思われる。

 もちろん、プーミポン国王の提唱する「Sufficiency Economy」(足を知る経済)の中身については、私としては異論はない。

 タイ王国という文脈を離れても成立可能だと思うし、上座仏教の経済思想という点においては、シューマッハーの「Small is Beautiful」において展開された思想(・・シューマッハーはスリランカで考えた)とも共通するものがある。

 仏教は儒教とは異なり、イスラームと同様に商人層を主たる支持層として発展した宗教であることは、知っておいて損はないだろう。少なくとも原始仏教の段階ではそうなのであった。

 アジア発の経済思想として、「Sufficiency Economy」(足を知る経済)を取り上げる意味があると、私はと思うのである。





<関連サイト>

Sufficiency Economy 公式サイト(英語)

New Mandala: New perspectives on mainland Southeast Asia に掲載された書評
・・表紙カバーがなぜ農村地帯なのかと皮肉めいたツッコミがされているのは、豪州の大学関係者の執筆によるためだろう。


<ブログ内関連記事>

「タイのあれこれ」 全26回+番外編 (随時増補中)

資本主義のオルタナティブ (1)-集団生活を前提にしたアーミッシュの「シンプルライフ」について

資本主義のオルタナティブ (3) -『完全なる証明-100万ドルを拒否した天才数学者-』(マーシャ・ガッセン、青木 薫訳、文藝春秋、2009) の主人公であるユダヤ系ロシア人数学者ペレリマン

大飢饉はなぜ発生するのか?-「人間の安全保障」論を展開するアマルティヤ・セン博士はその理由を・・・

アマルティア・セン教授の講演と緒方貞子さんとの対談 「新たな100年に向けて、人間と世界経済、そして日本の使命を考える。」(日立創業100周年記念講演)にいってきた

シンポジウム:「BOPビジネスに向けた企業戦略と官民連携 “Creating a World without Poverty” 」に参加してきた
・・マイクロファイナンスを実践するグラミン銀行総裁のムハンマド・ユヌス博士





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2010年10月27日水曜日

書評『観光(Sightseeing)』(ラッタウット・ラープチャルーンサップ、古屋美登里訳、2007、早川書房 2010 に文庫化)ー 若手タイ人作家による「英語文学」




若手タイ人作家による「英語文学」への登場

 この短編集『観光』は、タイ人の若手作家が英語読者向けに最初から英語で書いたものだ。たしかに、比較対象にされる、同じく英国在住の英語作家のカズオ・イシグロ(Kazuo Ishiguro)に迫るものがあるといえよう。

 しかも、舞台はタイに設定しているが、テーマはかなり普遍的なものに触れるものがある。人生とはこういうものという事実に対する著者のやさしさが身に沁みる。若いのによくここまで書けるものだ、と。

 読者によって受け止め方はさまざまだろうが、私は読みながら、なぜか中島みゆきの歌の世界を想起させるものを感じていた。

 しかし、英語のほうがはるかに堪能なイシグロとは違って、ラッタウットの母語はタイ語であり、なぜあえて最初から英語で書いたのか、ここらへんについて考えてみることが、この小説集味わう上で意味がありそうだ。

 日本人作家が、日本語読者向けに、最初から日本語で書いた小説であれば、日本人にとって当たり前すぎることはテーマにはなりにくい。同様に、タイ人作家が、タイ語読者向けに、最初からタイ語で書いた小説であれば、タイ人にとって当たり前すぎることは、あえてテーマとして取り上げられることもないだろう。

 この短編集が、最初から英語読者向けに英語で書かれたからこそ、タイ人にしか知ることのできないが、タイ人がふつうテーマとしない内容とディテールが英語で語られるのである。

 この小説集が英語圏で賞賛されたのは、「観光」をつうじて熟知していると思っていたタイの、知られざるタイを知る思いをしたからだろう。

 『観光』(Sightseeing)というタイトルは、その意味でかなり逆説的だ。日本語訳も奇をてらわずに、そのままタイトルを日本語に移し替えているのが評価できる。


 収録されている短編を簡単に紹介しておこう。


「ガイジン」(Farangs)
「どうしても白人の女に惹かれてしまうタイの少年と、それを諌める母親との葛藤」(紹介文より)。タイでは白人のことを「ファラン」という。尊敬と蔑視の入り混ざったこの表現は、日本語でいう「ガイジン」とはニュアンスがやや異なるが、日本語訳のタイトルとしては適切だ。だが、タイを熟知している英語読者にとっては、なかなか意味深な内容だろう。

「カフェ・ラブリー」で(At the Cafe Lovely)
「11歳の少年が、いかがわしい酒場で大人への苦い一歩を経験する」(紹介文より)

「徴兵の日」(Draft Day)
徴兵制をしくタイ王国では、カネと地位で徴兵回避できるという話。将校に華人系はいても兵士には皆無。徴兵で貧乏くじを引いた兵士たちはみな、色の浅黒い若者たちだけだ。

「観光」(Sightseeing)
「美しい海辺のリゾートへ旅行にでかけた失明間近の母とその息子の心の交流」(紹介文より引用)

「プリシラ」(Priscilla the Cambodian)
バンコクのスラム街に生きるカンボジアからの不法移民の娘との交流。カンボジアやミャンマーなど周辺諸国からの不法移民なしに、バンコクの3K労働は成り立たない。

「こんなところで死にたくない」(Don't Let Me Die in This Place)
息子の住むタイで晩年を過ごすことになった老アメリカ人(紹介文より引用)。このような「ファラン」の老人は、タイ全土に数多く存在する。

「闘鶏師」(Cockfighter)
タイ人はほんとうに賭博好きだ。ムエタイやサッカーだけでなく、昔から人気があるのが闘鶏。そんな闘鶏にはまり込んで、財産を食いつぶして家庭を崩壊に追い込む父。そしてそれを見守る娘。


 文学作品としての完成度はさておき、知られざるタイを知ることのできる短編集として、タイ好きな人には推奨したい一冊だ。
 この味わい深い小説集を読むと、より深くタイとタイ人を理解できるようになるだろう。

 2010年には、同じく早川書房から文庫化された。


<初出情報>

 このブログへの書き下ろし。





著者プロフィール

ラッタウット・ラープチャルーンサップ(Rattawut Lapcharoensap)

1979年シカゴに生まれ、タイのバンコクで育った。タイの有名教育大学およびコーネル大学で学位を取得後、ミシガン大学大学院のクリエイティブ・ライティング・コースで創作を学び、英語での執筆活動を始める。『観光』でデビューするや、“ワシントン・ポスト”“ロサンゼルス・タイムズ”“ガーディアン”など英米の有力紙が大絶賛し、書評専門誌“パブリッシャーズ・ウィークリー”も「この一年で全米で最も書評される本になるはずだ」と激賞した。20062006年には全米図書協会による「35歳以下の注目作家」に選出された(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)



<ブログ内関連記事>

書評 『座右の日本』(プラープダー・ユン、吉岡憲彦訳、タイフーン・ブックス・ジャパン、2008)
・・高校大学時代の6年間をニューヨークで過ごした、英語に堪能なタイ人による「日本論」。アメリカと日本とタイの「三点測量」

「タイのあれこれ」 全26回+番外編 (随時増補中)


日本語で書くということは・・・リービ英雄の 『星条旗の聞こえない部屋』(講談社、1992)を読む
・・ラッタウット氏とは反対に、自分の母語の英語ではない日本語で書くことを選択したアメリカ人作家の「日本語文学」

ハンガリー難民であった、スイスのフランス語作家アゴタ・クリストフのこと
・・自分の母語ではない「敵語」フランス語で書くことを余儀なくされた亡命ハンガリー人作家

(2014年1月24日 情報追加)


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2010年10月26日火曜日

書評 『座右の日本』(プラープダー・ユン、吉岡憲彦訳、タイフーン・ブックス・ジャパン、2008)-タイ人がみた日本、さらに米国という比較軸が加わった三点測量的な視点の面白さ




タイ人がみた日本、さらに米国という比較軸が加わった三点測量的な視点の面白さ

 1973年生バンコクまれのタイ人現代作家が書いた日本についてのエッセイ集。

 バンコクに住む日本人青年を主人公にした、浅野忠信主演でタイ人監督による映画『地球で最後のふたり』(2003)の原案を起草し、脚本を担当している人だといえば、だいたいどういう人物なのか想像できるのではないだろうか。

 「タイが保護者であれば、日本は恋人だ」と広言する著者の視点は、タイ人のものであって西洋人のものではない。しかし、高校時代から大学時代にかけてという、もっとも多感な6年間をニューヨークで過ごした著者は、英語は堪能だが、日本語の読み書きはできないのが残念でならないようだ。

 「英語をつうじて西洋人の目に映る日本」と、「タイ語をつうじてタイ人の目に映る日本」のいずれにも熟知しているこの作家がみる日本は、サブカルチャーからハイカルチャーまで実に幅広い。日本を恋人として、全体として捉えたいという思いがそのまま反映しているのであろう。日本に魅せられた人なのである。

 「西洋人の目」とは、いわゆる「オリエンタリズム」のプリズムをいったん通過した日本であり、龍安寺の石庭や高野山といった、伝統的で、精神的な日本である。後者の 「タイ人の目」とは、著者と同世代以下のタイ人がものごころついてからドップリと浸かってきた日本のマンガでありアニメをつうじたものであり、また日本映画をつうじて同世代以下の一般のタイ人には親しい世界である。

 この両者が作家のなかで同居し、両立することで、あくまでも同時代人とて、等身大の日本をみる視点ができあがっているようなのだ。著者は冗談めかしてアニメ「一休さん」の世界というが(・・このアニメもタイで人気がある)、深い精神性を示した日本と「かわいい」が支配するこども的な日本明るい側面と暗い側面これらすべてがあわさってこそ日本であり、それがまた著者には限りなく魅力的に映るのだ。

 この本に収められたエッセイは、日本人が読んでもあまり違和感の感じないだけでなく、むしろ日本人があまり意識していない側面をみているのが面白く感じられる。

 しかも、単純に自文化であるタイと異文化である日本を比較しているのではない、さらに米国という比較軸が加わることによる、三点測量的な視点に面白さがあるのだ。もしかするとこの視点は、英語はできるがタイ語があまりできない日本人(・・これは私自身のことでもある)が、タイ文化をみる視点に共通するものがあるのかもしれない。 
 
 西洋人が書いた日本論は読んでも、アジア人が書いた日本論を読む機会があまりない人にはぜひすすめたい、「エキゾチックではない日本」のポートレート集である。


<初出情報>

■bk1書評「タイ人がみた日本。さらに米国という比較軸が加わった三点測量的な視点の面白さ」投稿掲載(2010年10月2日)
■amazon書評「タイ人がみた日本。さらに米国という比較軸が加わった三点測量的な視点の面白さ」投稿掲載(2010年10月2日)

*再録にあたって一部加筆した。




目 次

日本をあばく
閑座の芸術と十五の石の謎
日本への旅
日本の文化
日本とタイ
東京日記
時間を描くアーティスト
透き通って大きくてつまらない世界
哀しみの美しさ
騒がしい心


著者プロフィール

プラープダー・ユン(Prabda Yoon)

タイの作家。他に編集者、脚本家、評論家、グラフィック・デザイナー、イラストレーター、フォトグラファーとしても活躍している。1973年バンコク生まれ。中学卒業後に渡米し、ニューヨークの Cooper Union for the Advancement of Science and Arts で美術を学ぶ。卒業後、1998年にタイへ帰国。2000年に出版した2冊の短編小説集がともにベストセラーを記録する。2002年、『存在のあり得た可能性』で、タイの最も権威ある「東南アジア文学賞」を受賞した。同年、初の長編小説『Chit talk!』を発表。そのサウンドトラックというコンセプトのもと、音楽活動も展開した(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)



<関連サイト>

Last Life In The Universe (U.S. DVD trailer)
・・タイを舞台にした映画 「地球で最後のふたり」(2003)のトレーラー。
 監督:ペンエーグ・ラッタナルアーン
 脚本:ペンエーグ・ラッタナルアーン、プラープダー・ユン
 撮影:クリストファー・ドイル

 なお、ペンエーグ監督については、タイのあれこれ (25) DVDで視聴可能なタイの映画 ④人生もの=恋愛もの映画「わすれな歌」を紹介してある。私が大好きな映画。
 また、バイオレンス&サスペンスものの映画 「6ixtynin9 シックスティナイン」(1999)では、監督・製作・脚本をすべて担当している才人。この映画については、タイのあれこれ (23) DVDで視聴可能なタイの映画-① ムエタイもの、② バイオレンス・アクションもの で紹介してある。
 ペンエーグ監督は、タイのニューウェーブを代表する映画監督の一人である。


<ブログ内関連記事>

書評 『観光(Sightseeing)』(ラッタウット・ラープチャルーンサップ、古屋美登里訳、2007、早川書房 2010 に文庫化)
・・タイ語ではなく、英語で作家活動を行う若手タイ人の短編集について

世界のなかで日本が生き残るには、自分のなかにある「日本」を深掘りしてDNAを確認することから始めるべきだ!
・・ジェトロがタイ政府の依頼で企画し、2006年にバンコクで開催した 「日本デザインの遺伝子展」の日本語カタログ (2012年12月12日 追加)

書評 『「マルちゃん」はなぜメキシコの国民食になったのか-世界で売れる商品の異文化対応力-』(安西洋之、中林鉄太郎、日経BP社、2011)-日本製品とサービスを海外市場で売るために必要な考え方とは?
・・文化の内在的ロジックを知ることの重要性


「タイのあれこれ」 全26回+番外編 (随時増補中)

タイのあれこれ (6) 日本のマンガ

タイのあれこれ (7)-日本のアニメ

(2014年1月25日 追加)





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2010年10月25日月曜日

書評 『バンコク燃ゆ-タックシンと「タイ式」民主主義-』(柴田直治、めこん、2010)-「タイ式」民主主義の機能不全と今後の行方




クーデタが実質的な政権交代であった「タイ式」民主主義の機能不全と今後の行方

 ほとんど内戦状態に陥ったといってもよい、2010年4月から5月にかけての「バンコク騒乱」。バンコク市内中心部に籠城する赤服組と治安部隊との激しい銃撃戦、放火されて焼け落ちた中心街の百貨店は、新聞情報やインターネット情報、YouTube映像で見る限り、きわめて激しいものであった。

 本書は、この「バンコク騒乱」に至るまでの、ここ数年のタイ王国の政治状況を、アジア総局長として2005年9月から2009年8月までバンコクに駐在していた朝日新聞記者がまとめたものである。

 タイトルは 『バンコ燃ゆ』 となっているが、2010年4月の「バンコク騒乱」そのものの記述は、全16章のうちたった1章をあてているに過ぎない。著者自身が帰国後に起こった事件ということもあろうか、新聞記者としては現場にいなかったということは致命的なことなのかもしれない。

 むしろ、副題の「タックシンと「タイ式」民主主義」が、本書の主要テーマであるといえる。ここ数年間のタイ政治は、タックシンという、いい意味でも悪い意味でも、タイの政治史上でもまれに見る個性的で強力な指導者をめぐって展開してきた。

 2006年9月のタックシン首相(当時)のクーデタによる追放と、その後の不安定な政治状況について扱った本書は、「バンコク騒乱」に至るまでの政治状況を時系列で淡々と整理しながら、ときおり著者自身のコメントを交えながら記述しており、タイの国内政治の背景を知るためには不可欠の情報になっている。ただし、少し細かすぎるのではないかという感想もあるかもしれない。ただし索引が完備しているのでレファレンスとしては役に立つだろう。

 本書の特色は、なんといっても、海外追放中のタックシンとの単独インタビューを逃亡先のドバイのホテルで行ったことだ。タックシン自らの見解が正しいかどうかはさておき、肉声を直接確かめて随所に引用していることは、本書の内容に厚みを増している。著者はこのために、タイではタックシン寄りと誤解されて苦労したと本書のなかで漏らしている。

 「タイ式」民主主義とは、西欧や日本の民主主義とはやや異なる、タイならではの政治的安定装置のことを意味する表現であるが、1992年以来、もはやあるまいと思われていた15年ぶりのクーデタによって、アジアの「民主主義」優等生としてのタイのイメージは完全に崩れ去った。と同時に、クーデタが実質的な政権交代であった「タイ式」民主主義が、もはや機能不全状態にあることも明らかになったのである。

 おそらく著者はこの本を執筆するにあたって、相当量の情報を捨てたものと推察されるが、それでも、タイの政治を扱った本なかでは例外的に、かなりきわどい側面にまで踏み込んで記述している。

 このため、著者の個人的見解にすべて賛成する必要はないが、事実関係と著者の解釈を区分して読むことさえできれば、タイ王国の今後を考えるうで、読む価値のある一冊になっているといってよいだろう。


<初出情報>

■bk1書評「クーデタが実質的な政権交代であった「タイ式」民主主義の機能不全と今後の行方」投稿掲載(2010年10月2日)
■amazon書評「クーデタが実質的な政権交代であった「タイ式」民主主義の機能不全と今後の行方」投稿掲載(2010年10月2日)

*再録にあたって、一部の字句の修正を行った。




目 次

まえがき
第1章 異形の政治家タックシンとその時代
第2章 二一世紀のクーデター
第3章 軍の盛衰
第4章 新憲法制定から総選挙へ
第5章 黄色い王党派・PAD
第6章 サマック政権の崩壊
第7章 三度目の10月の流血
第8章 空港占拠とタックシン派政権の崩壊
第9章 王党派最後の砦、裁判所
第10章 PADに偏るメディア
第11章 流血のソンクラーン
第12章 プレームとタックシン
第13章 首都燃ゆ
第14章 地域対立と階級闘争
第15章 王国覆う不安
第16章 タイとアジアの民主主義
あとがき
関連年表・タイと近隣諸国
参考文献
索引

著者プロフィール

柴田直治(しばた・なおじ)

1955年生まれ。早稲田大学第一文学部卒。1979年朝日新聞社入社。徳島支局、神戸支局から大阪社会部員、マニラ支局長(1994年~1996年)、大阪社会部、東京社会部デスク、論説委員、神戸総局長、外報部長代理を経てバンコクにてアジア総局長(2005年~2009年)。現在、特別報道センター長(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものに加筆)



<書評への付記>

 先週の後半、「バンコク騒乱」から半年後に初めてバンコクに行ってきた。

 「騒乱」終結後に放火され延焼した ISETAN は再オープンし、全焼した隣接する ZEN は現在立て直し中。骨組みは作り終わったという状態で、これを機に増床して再出発するという。


 MRT(地下鉄)やBTS(高架鉄道)の駅では、あれから半年たった現時点でも、迷彩服を着てライフル銃を肩にかけた陸軍兵士が二人組みで警戒にあたっている。あまり感じがよくないが、「反日デモ」に荒れる中国より危険度は低いだろう。


 私自身は、2009年4月までビジネスマンとしてバンコクに滞在していたので、本書の著者の滞在と重なる期間もあり、この間に現地で見聞きしていた情報を再確認しながら読んでいたが、新聞記者とビジネスマンとでは、現地にいて同じ情報を見ていながらも、大筋としては同じだが、情報の解釈には若干相違があるものだなと感じながら読んだ

 「バンコク騒乱」は、タイ人も比較的慣れているクーデタの比ではなかったのだ。タイ人にとっても、そうとう精神的に大きなダメージになったようだ。しかし、「騒乱」直後の清掃ボランティアや社会再建にむけての自主的なグループ活動の開始など、明るい面も多い。

 もちろん半年たった現在は、そんなことがあったこともとうの昔の出来事であるかのように、完全に平常生活に戻っている。

 本書で興味深く思ったのは、著者自らが日本の新聞に日本語で執筆した記事の内容が、英訳を介してタイ国内にフィードバックして思わぬ波紋を引き起こした状況について語っている箇所だ。こういうシーンが何度もでてくる。情報のウラを取らずに報道する傾向の強い、タイのメディアの状況の問題点である。ただし、これは外国メディアの報道に盲従というよりも、自陣営に有利になるように外国報道を利用しているタイ人のしたたかさという面もある。

 本書で展開している、第14章「地域対立と階級闘争」という捉え方は正しくない。正確には「地域対立と身分闘争」というべきだろう。地方=低い「身分」、として扱われているのがタイの本質。なんせ、奴隷解放は米国より遅かったというタイである。また東北地方や北部はラオス系であり、民族も厳密にいうと同一ではない。階級と身分を区分して考えないのは、著者は早稲田出身のくせに社会科学的ではない。

 些末な点かもしれないが、本書ではソンティー・リムクントーンの出自が潮州系となっているがこれは間違い。海南系である。本書には言及がないが、アピシット首相は、奇しくもタックシンと同じく客家(ハッカ)系だ。

 こういった華人系の出自についての理解不足は、タイの政治経済を見るうえで問題となる。なぜなら、今後ますます中国の影響力が増して行くであろうタイにおいては、これら華人系政治家や華人系経済人の動向は注意して観察する必要があるからだ。

 いや政治家や経済人は、ほとんどすべてが、血の濃度に違いはあれ、華人系であるといっても言い過ぎではない。

 本書は政治について書いているが、政治が不安定なこの期間も、「リーマンショック」の打撃を受けた一時期を除き、経済は輸出を中心にきわめて好調である。この面にほとんど触れていない本書は、やや一面的な感を受けないでもない。

 かつて日本は「経済は一流、政治は二流」と揶揄されてきたが、現在のタイはある意味では似たような状況であるともいえなくはないからだ。
 政治と経済は分離可能であり、しかしながら不可分の関係にある。

 首都のあるバンコクとそれ以外はまったく違うのである。この点は協調しておかねばならない。




<関連サイト>

21 Guns - Green Day (made for Thailand) 
・・「騒乱」直後、バンコク在住のタイ人の友人が教えてくれた。タイ人のココロを捉えている動画。再生回数22万回以上。


<ブログ内関連記事>

「タイ・フェスティバル2010」 が開催された東京 と「封鎖エリア」で市街戦がつづく騒乱のバンコク・・2010年5月

「バンコク騒乱」について-アジアビジネスにおける「クライシス・マネジメント」(危機管理)の重要性

書評 『村から工場へ-東南アジア女性の近代化経験-』(平井京之介、NTT出版、2011)-タイ北部の工業団地でのフィールドワークの記録が面白い ・・大都市はすでに「後近代」だが、タイでも農村部では現在も「近代化」が進行中

書評 『赤 vs 黄-タイのアイデンティティ・クライシス-』(ニック・ノスティック、めこん、2012)-分断されたタイの政治状況の臨場感ある現場取材記録 ・・「黄色」=バンコク大都市部の支配層と都市中間層(前近代+後近代)と、「赤色」=東北部と北部の農民層(前近代+近代化まっただなか)の対立が反映されていると考えることも可能

「バンコク騒乱」から1周年(2011年5月19日)-書評 『イサーン-目撃したバンコク解放区-』(三留理男、毎日新聞社、2010)

書評 『タイ-中進国の模索-』(末廣 昭、岩波新書、2009)
・・関連書もふくめて、ややくわしくタイの政治経済に言及


タイのあれこれ 総目次 (1)~(26)+番外編

来日中のタクシン元首相の講演会(2011年8月23日)に参加してきた
                  
(2014年1月22日、2014年2月1日 情報追加と関連記事再編集)





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2010年10月24日日曜日

ついにタイでシャム猫を発見!




  
 バンコクに一度でもいったことのある人は知っているだろうが、バンコクは人もあふれているが、イヌもあふれている。一年をとおして暑いので、イヌは日中は死んだようにダラダラと寝そべっている。

 以前に比べると処分されたのか、市街地ではイヌの数が減ったような感じがしなくもないが、郊外に出なくても、路地裏に入るとくさるほどイヌに遭遇することになる。
 夕方になって気温が下がってくると、イヌも起き上がって動き始めるので、こういった路地裏ではイヌに気をつけなくてはならない。野良犬と飼い犬が混在しているが、ともに狂犬病にかかっている可能性もあるので、嚼まれるとちょっとまずいことになるからだ。

 イヌが多いが、不思議なことにネコをほとんど見ない、これは以前このブログでも、タイのあれこれ (10) シャム猫なんて見たことない・・・と題して書いたが、集中的にネコがいるのはお寺の境内などで、そのほかではあまりネコを見ないのである。ミャンマーのヤンゴンよりネコの数が少ないような感じがする。

 ところが、今回は短い滞在なのに、なぜかネコには三度遭遇した。
 しかも、念願かなって、生まれて初めて、タイでシャム猫に遭遇したのである!(前掲写真を参照)

 シャム猫は、シャム(=暹羅、現在のタイのこと)で出現したネコで、非常に特徴のあるネコである。エジプト原産のネコが交易をつうじてタイ(シャム)にもたらされ、突然変異して出現したのがシャム猫だ。

 今回は、土曜日にオンヌットの市場(いちば)を歩いているときに、屋台のまわりをうろつくシャム猫に遭遇。高貴なネコも市場(いちば)でみると、シャムだからシャム猫なのだ(!)と納得するのであった。

 もう一匹は、アソークの交差点にて。こんな市街地でネコを見るのは珍しい(・・写真はなし)。

 そして、驚いたのが、ホイクワン駅近くで爆睡中のトラネコに遭遇したことだ。快晴であったこの日の日中の気温は30度を超えていたが、このネコは日陰であるとはいえ、泥酔したオッサンが帰宅途中に道路で眠ってしまったというような格好で、大股ひらいてドテ寝していた。


 すぐ近くによっても、まったく気がつかない爆睡ぶり。REM睡眠中だったのだろう。片目が開いていたが白目、片耳がアタマのしたになっていることにも気がついていないようだ。いったい、このネコはどんな夢をみていたのだろうか?

 反対側からお坊さんが歩いくるのが見えたので、トラネコの安眠妨害はやめにした。生き物をいじめていると勘違いされてはまずいので・・・


 別に問題意識をもって町歩きをしていたわけではないが、デジカメは持ち歩くようにしている。こういう生活習慣をもっていると、ときどき面白いものに遭遇するというわけなのだ。



<ブログ内関連記事>

タイのあれこれ (10) シャム猫なんて見たことない・・・

タイのあれこれ(8)-ロイヤル・ドッグ






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