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2021年1月16日土曜日

書評『他者と働く ー「わかりあえなさ」から始める組織論』(宇田川元一、NewsPicksパブリッシング、2019)ー 自分と相手は違う人間なのだから・・


ベストセラーには、それなりに理由がある。気になってはいたが読んでいなかった本を読むのは、その理由を確かめたいからだ。 

『他者と働く-「わかりあえなさ」から始める組織論』(宇田川元一、NewsPicksパブリッシング、2019)。組織論を研究する経営学者による本だ。2020年11月時点で、すでに7刷となっている。帯のウラには絶賛のことばが並んでいる。

たしかに、読んでいると、この本がなぜ支持を受けているのかが、よくわかる。自分自身、この本に書いていることは、この20年近く実践してきたし、あらためて気づかされる点も少なくないからだ。 

なぜ他者に対して不満を抱いたり、怒りを感じたりするのか。それは、相手も自分とおなじだと無意識のうちに思い込んでいるからだ。 

だが、いったんそういう思い込みを捨て去って、そもそも自分と相手は違う人間だと考えてみる。そうすれば、自分が思っていることが相手もおなじように思っているはずはなく、だから自分の思い通りに他者が動かないのは当たり前だということに気づくはずだ。 

そこで意味をもつのが、本書のテーマとなるダイアローグ(=対話)とナラティブ(=語り)だ。ナラティブとは、人がそれぞれもつさまざまな背景から生み出されてくる個別の語りのことである。自分のナラティブと他者のナラティブは当然のように異なるものであり、だからこそダイアローグの必要が発生する。 

人と人との「関係」、組織と組織との「関係」は、いずれも目に見えない。そしてその「関係」には「溝」(=ギャップ)がある。相手とのあいだに目に見えない「溝」が存在するということに気づき、相手の立場から自分を見る視点でその「溝」を理解し、どうやったらその「溝」に橋を架けることができるかを熟慮して、実際に橋を架ける試みを行う。 

ここで初めて、さまざまな組織変革にかかわるノウハウやツールが使えるようになるのである。組織変革がうまくいかないのは、ここまでのプロセスをすっ飛ばしてしまうからだ。スローガン的に表現すれば、「急がば回れ、ツールのまえに!」とでもなろう。

組織は生身の人間によって構成されている。個々の人間が異なるバックグラウンドをもっており、当然のことながら異なる考えをもっている。だからこそ、ダイアローグが必要なのである。ダイアローグぬきで、一方的に主張を通そうとしても無理なことは、当たり前ではないか。 

この本には、コンサルタント出身者が事業会社の経営ポジションについて、そこではじめてダイアローグの重要性に気づくという 事例がいくつも出てくる。自分の場合も、40歳の頃におなじような体験をして、はじめてダイアローグの重要性に気づいた経験をもっているので、著者の言うことがよくわかるのである。 

経営学の本であり、組織論の本であるが、ふつうのアプローチとは異なる本だ。 

著者をインスパイアしてきたのは、医療現場における医者と患者の相互理解のための実践から得られた知見である。おなじ現象を見ているのに、なぜ医者という専門家と患者とのあいだにスムーズなダイアローグが成り立たないのか、成り立つためにはどういうアプローチをしたらいいのか、その問題意識から生まれてきた実践である。

この本は、営利企業に限らず人間関係によって構成されている組織に生きる人が、どういうポジションにいるにせよ、意識するべき心得といっていいかもしれない。 

自分のなかでダイアローグを行いながら読み、そしてどう日々の実践に落とし込んでいくか、何度も反芻しながら読んで、自分のものとすることが必要なこが書かれた本なのである。

その意味では「セルフヘルプ」の本ということもできよう。




目 次 

はじめに 正しい知識はなぜ実践できないのか
第1章 組織の厄介な問題は「合理的」に起きている 
第2章 ナラティヴの溝を渡るための4つのプロセス 
第3章 実践1 総論賛成・各論反対の溝に挑む 
第4章 実践2 正論の届かない溝に挑む 
第5章 実践3 権力が生み出す溝に挑む 
第6章 対話を阻む5つの罠 
第7章 ナラティヴの限界の先にあるもの
おわりに 父について、あるいは私たちについて
謝辞
参考文献

著者プロフィール
宇田川元一(うだがわ・もとかず) 
経営学者。埼玉大学経済経営系大学院准教授。1977年東京生まれ。2000年立教大学経済学部卒業。2002年同大学大学院経済学研究科博士前期課程修了。2006年明治大学大学院経営学研究科博士後期課程単位取得。2006年早稲田大学アジア太平洋研究センター助手、2007年長崎大学経済学部講師・准教授、2010年西南学院大学商学部准教授を経て、2016年より埼玉大学大学院人文社会科学研究科(通称:経済経営系大学院)准教授。社会構成主義やアクターネットワーク理論など、人文系の理論を基盤にしながら、組織における対話やナラティヴとイントラプレナー(社内起業家)、戦略開発との関係についての研究を行っている。大手企業やスタートアップ企業で、イノベーション推進や組織改革のためのアドバイザーや顧問をつとめる。専門は経営戦略論、組織論。2007年度経営学史学会賞(論文部門奨励賞)受賞。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)


<ブログ内関連記事>




・・ヴォルテールは、人間はそれぞれ違うことを前提にした agree to disagree の重要性を説いた『寛容論』の著者でもある。『論語』なら「和して同ぜず」というところだろう。

(2021年1月26日 情報追加)


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2011年8月27日土曜日

書評『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子、朝日出版社、2009)― 「対話型授業」を日本近現代史でやってのけた本書は、「ハーバード白熱授業」よりもはるかに面白い!


■「対話型授業」を日本近現代史でやってのけた本書は、「ハーバード白熱授業」よりもはるかに面白い!■

 「歴史にはイフはない」とは凡庸な歴史家たちの常套句である。だが、歴史が人間の営みの軌跡である以上、その時点その時点における判断と意志決定がその後の歴史の流れを大きく左右していく。

 その判断と意志決定がなぜ、いかなる状況のもとでなされたかを、当事者意識でもって自分のアタマで考えることこそが、ほんとうの歴史を知ることの意味であるのだ。

 これは政治リーダーだけではなく、日本国民の一人一人に求められていることだ。なぜなら、国民は投票や世論形成など、その他さまざまな形によって意思表示し、歴史の流れを変えることも不可能ではないからだ。

 この「授業」は、受験界でも有名な私立男子校・栄光学院の歴史研究部のメンバーを対象に行ったものだそうだが、ビジネスマンのわたしからみると、ある意味ではハーバード・ビジネス・スクールで用いられる経営史のケーススタディにも近いものがある。歴史を傍観者としてではなく、当事者として考えて見よという姿勢が一貫しているからだ。

 とはいえ、そのときどきの政治指導者や軍事指導者の立場にたって、最善の政策を考えよという授業は高校生にはきわめてヘビーなものだっただろう。大人でも考えながら読むのはヘビーなのだから(笑)。しかし、知的好奇心が強く、向上心のある人間にとっては最高に刺激的な授業であろう。

 その授業がまとめられて1冊になった「『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子、朝日出版社、2009)は、順序に従って「まえがき」と「序章」から読み始めたが、第3章からはがぜん面白くなり始めた。大衆社会が進展するなか、その当時はまだ男子に限られていたとはいえ、一般人が歴史の動きに、さまざまな方法によって参画し始めることが可能となってきたためであろう。

 英雄豪傑や傑出した指導者の人物史ではなく、本書の主人公はじつは「日本国民」そのものである。その時代、その時代を、地政学的条件や社会資本の蓄積がいまだ十分ではないといったさまざまな制約条件のもとで精一杯生きてきた日本国民である。それはわれわれ自身であり、われわれの父母や祖父母、そしてそのまた先の世代の話でもある。

 明治維新以来、徴兵制や義務教育の普及によって「国民国家」(nation state)の「国民」(nation)として成長してきた「日本国民」。名もなき市井の一般人が「国民」の一人として「声」を持ち、「声」の集合がチカラを発揮していったプロセスが日本近現代史そのものである。

 このプロセスは、日清戦争と日露戦争からすでに始まっていたことが著者によって示される。国民の意思が何らかの形で反映していたのである。「総力戦」の時代においては、すでに戦争は政治家と軍人のものだけではなくなっていたのである。戦死という多大な犠牲を払うことになる国民の支持なくしては、たとえ軍部といえども勝手に動くわけにはいかなかったのである。これが著者のいう「社会契約」というものだ。戦争へという「空気」をつくりだしたのは、じつは国民自身による世論であった。

 第3章と第4章がとくに面白いのは、今年(2011年)初頭から始まった中東世界の「民主化革命」、中国やタイの状況を、デジャヴュー感覚でみているような気がするからだろう。

 「フランス革命」後のナポレオン時代のフランスがその典型であったが、国民国家は国民統合の求心力を外敵との戦争に求めやすい傾向がある。軍が権力の中心にいて、農民比率の高い社会というのは、近代化をすすめる発展途上国ではよくある話だ。もちろん安易な比較は禁物であるが。

 第3章と第4章にくらべて、第5章がやや精彩を欠くのは、分量的にすくなく、やや物足りない気がするだけでなく、誰もがその破局的な結末を十分すぎるほど知りすぎているからかもしれない。

 「大東亜戦争」(・・著者は「太平洋戦争」としているが)の結末を知らないという前提で、昭和16年(1941年)までの状況を直観的に理解するのは、じつはなかなか困難な課題なのだ。本書でも、後付けの説明にならないように、著者もかなり努力をして説明を行っているのだが、読者の側にそうとう程度の知的な取り組みとイマジネーションがなければ、ありのままの事実を受け止めるのは難しい。

 本書は、かなり刺激的なタイトルであるが、中身はいたってロジカルなレクチャーと議論がぎっしり詰まった本である。著者の主張に賛成であれ反対であれ、「アタマの体操」として、ぜひ一度は読んでみることを多くの人にすすめたい。


(画像をクリック!)



<初出情報>

■bk1書評「「対話型授業」を日本近現代史でやってのけた本書は、「ハーバード白熱授業」よりもはるかに面白い!」投稿掲載(2011年8月21日)
■amazon書評「「対話型授業」を日本近現代史でやってのけた本書は、「ハーバード白熱授業」よりもはるかに面白い!」投稿掲載(2011年8月21日)



目 次

はじめに
序章 日本近現代史を考える
  戦争から見る近代、その面白さ
  人民の、人民による、人民のための
  戦争と社会契約
  「なぜ二十年しか平和は続かなかったのか」
  歴史の誤用
1章 日清戦争-「侵略・被侵略」では見えてこないもの
  列強にとってなにが最も大切だったのか
  日清戦争まで
  民権論者は世界をどう見ていたのか
  日清戦争はなぜ起きたのか
2章 日露戦争-朝鮮か満州か、それが問題
  日清戦後
  日英同盟と清の変化
  戦わなければならなかった理由
  日露戦争がもたらしたもの
3章 第一次世界大戦-日本が抱いた主観的な挫折
  植民地を持てた時代、持てなくなった時代
  なぜ国家改造論が生じるのか
  開戦にいたる過程での英米とのやりとり
  パリ講和会議で批判された日本
  参加者の横顔と日本が負った傷
4章 満州事変と日中戦争-日本切腹、中国介錯論
  当時の人々の意識
  満州事変はなぜ起こされたのか
  事件を計画した主体
  連盟脱退まで
  戦争の時代へ
5章 太平洋戦争-戦死者の死に場所を教えられなかった国
  太平洋戦争へのいろいろな見方
  戦争拡大の理由
  なぜ、緒戦の戦勝に賭けようとしたのか
  戦争の諸相
おわりに
参考文献
謝辞


著者プロフィール

加藤陽子(かとう・ようこ)


1960年、埼玉県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科教授。1989年、東京大学大学院博士課程修了。山梨大学助教授、スタンフォード大学フーバー研究所訪問研究員などを経て現職。専攻は日本近現代史(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。


PS 2016年6月に新潮文庫から文庫化された。(2016年7月18日 記す)





<書評への付記>

 正直いって前評判どおり面白かった。いや前評判以上というべきだろう。以下に、書評に書ききれなかったことをいくるか書いておきたい。


■「人口膨張」が戦前の日本にとっては大きな問題であった

 地政学的状況、安全保障の観点からの「植民地拡大」という戦略を採用した日本国家。「海洋国家」という地政学的条件について、本書ではあまり強調されていないのが残念だ。

 英国にとってのインドが、日本にとっての台湾と朝鮮、そして満洲であった。日本はそれ以外の植民地は、まさに「海洋国家」としての「安全保障」の観点から、面ではなく、点と線で押さえていたに過ぎない。

 あとは膨張する人口問題解決という意味もあったことは、もっと強調すべきであった。

 現在は、人口減少トレンドにある日本だが、かつては膨張する人口をどう食わせるかが、最大の課題だったのだ。だからこそ、移民問題で米国とは険悪な関係になったのである。


■民主主義が未発達であったために戦前の日本は・・・

 本書のなかで重要なポイントだと感じたのは、日本の場合は国会で第一党をとったナチス党のドイツとは異なるということだ。このドイツの事例は、ワイマール共和国体制の崩壊は民主主義そのものによってなされた「民主主義の鬼子(おにご)」だという議論がよくなされている。
 
 これに対して、日本では、政党政治では要求を満たされなかった農民や中小商工業者を中心とした国民大衆が、軍部を支持したことにあったのだ。これが第4章の内容であり、きわめて重要なことである。

 とくに1925年には25歳以上の成人男子に限定されたとはいえ、「普通選挙」が実現したが、現在2011年の状況と同様、政党政治に対するきわめて大きな失望感が世の中全体にみなぎるに至った。


■事実をベースにした是々非々の「対話」が必要だ
 
 ところで、Amazon でも、bk1 でも、わたしがネット書店に投稿した書評(レビュー)でも賛否両論のようだ。どうもい著者の好き嫌いが、そのまま発言の好き嫌いに反映しているようだ。

 加藤陽子は「贖罪史観」だとかいって非難する論者もいるが、そんなことはどうでもいいことだ。この授業の記録を読んでみれば、かならずしもそうでないことがわかるはず。

 このような非難をする論者は、自分色の色眼鏡をかけたまま、曇った目でレッテル貼りをして、虚心坦懐に読むという知的行為を放棄しているに過ぎないことを、悲しいかな、みずから露呈しているわけだ。

 書評のなかでも書いているように、わたしは「大東亜戦争」と書くべきだという意見の持ち主なので、「太平洋戦争」と書く著者には、その点においては賛同できない。これは、かつてこのブログでも、書評 『新大東亜戦争肯定論』(富岡幸一郎、飛鳥新社、2006) でも書いたことである。現在の東南アジアを舞台に、英国やオランダと戦われた戦争が太平洋戦争ではないからだ。

 米国との戦争は、その大半が「太平洋」を舞台にしたものであり、「太平洋戦争」というのも不思議ではない。ただ、米国に完膚無きまでにたたきのめされたという日本人の記憶が、占領中の米軍による「洗脳工作」とあいまって、日本人の脳裏に焼き付いてしまったのだろう。この点は、江藤淳が明らかにした「米軍による手紙検閲」など、すでに定説となっている。

 そういった点はあるにしても、日本近現代史を「対話型授業」でやってのけた著者の能力と暴勇(?)は、素直に賞賛すべきである。読者は、授業に参加したつもりになって著者や高校生たちとの知的格闘を楽しむべきなのだ。

 ただし、「対話型授業」とはダイアローグ(対話)をベースにしたものであり、ダイローグはディベートではない。これを混同している人が多いので注意が必要だ。

 ものの見方は多元的、複眼的であるべきこと、これこそ歴史を学ぶ意義である。



(amazon レビュー 2011年8月28日現在 右クリックで拡大)


<関連サイト>

日本史近代を楽しむ野島研究室のページ
・・論文執筆名は加藤陽子、戸籍名は野島陽子とのこと。プロフィールと研究活動の履歴など


<ブログ内関連記事>

■民衆(ピープル)が「声」をもっていくのが歴史の不可逆の流れ-これがただしい歴史観というものだ

「主権在民」!-日本国憲法発布から64年目にあたる本日(2011年5月3日)に思うこと
・・民なくして国家なし、されど国家なくして国民なし、とは言っていい。

書評 『ナショナリズム-名著でたどる日本思想入門-』(浅羽通明、ちくま文庫、2013 新書版初版 2004)-バランスのとれた「日本ナショナリズム」入門
・・ナショナリズムは「近代」の産物

書評 『近代の呪い』(渡辺京二、平凡社新書、2013)-「近代」をそれがもたらしたコスト(代償)とベネフィット(便益)の両面から考える
・・フランス革命そのものよりもナポレオン戦争が「近代」のカギであった

石川啄木 『時代閉塞の現状』(1910)から100年たったいま、再び「閉塞状況」に陥ったままの日本に生きることとは・・・ 
・・日本近代史を100年単位で、連続性と断絶をみる

エジプトの「民主化革命」(2011年2月11日)
・・ついにアラブ世界でも「主権在民」の流れがメインストリームに

書評 『バンコク燃ゆ-タックシンと「タイ式」民主主義-』(柴田直治、めこん、2010)
・・いかなる政治的思惑があろうと、大衆に「声」を与えたタクシン元首相は、ただしい歴史観の持ち主だ

映画 『イメルダ』 をみる
・・「ピープル革命」といえばフィリピン。革命された側の視点も重要だ

「500年単位」で歴史を考える-『クアトロ・ラガッツィ』(若桑みどり)を読む 
・・「応仁の乱」以降の日本史についての、内藤湖南の発言を引用しておいた。


■日本近現代史と戦争

書評 『持たざる国への道-あの戦争と大日本帝国の破綻-』(松元 崇、中公文庫、2013)-誤算による日米開戦と国家破綻、そして明治維新以来の近代日本の連続性について「財政史」の観点から考察した好著
・・加藤陽子氏が文庫版の解説を執筆している

書評 『新大東亜戦争肯定論』(富岡幸一郎、飛鳥新社、2006)-「太平洋戦争」ではない!「大東亜戦争」である! すべては、名を正すことから出発しなくてはならない
・・無謀な戦争であったが、その事実を直視するためには「大東亜戦争」と名付けた当時を想起しなくてはならない

書評 『明治維新 1858 - 1881』(坂野潤治/大野健一、講談社現代新書、2010)

NHK連続ドラマ「坂の上の雲」・・・坂を上った先にあったのは「下り坂」だったんじゃないのかね?

秋山好古と真之の秋山兄弟と広瀬武夫-「坂の上の雲」についての所感 (2) 

書評 『ノモンハン戦争-モンゴルと満洲国-』(田中克彦、岩波新書、2009)

書評 『昭和16年夏の敗戦』(猪瀬直樹、中公文庫、2010、単行本初版 1983)-いまから70年前の1941年8月16日、日本はすでに敗れていた!


■「対話型授業」とダイアローグ(対話)

「ハーバード白熱教室」(NHK ETV)・・・自分のアタマでものを考えさせるための授業とは

ダイアローグ(=対話)を重視した「ソクラテス・メソッド」の本質は、一対一の対話経験を集団のなかで学びを共有するファシリテーションにある

「◆未来をつくるブック・ダイアログ◆『国をつくるという仕事』 西水美恵子さんとの対話」に参加してきた-ファシリテーションについて

書評 『ハーバードの「世界を動かす授業」-ビジネスエリートが学ぶグローバル経済の読み解き方-』(リチャード・ヴィートー / 仲條亮子=共著、 徳間書店、2010)
・・これは経済史の授業。加藤陽子教授の授業に近いかもしれない。ただしエグゼクティブ向け

「是々非々」(ぜぜひひ)という態度は是(ぜ)か非(ひ)か?-「それとこれとは別問題だ」という冷静な態度をもつ「勇気」が必要だ

(2014年7月24日 情報追加)


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2011年7月6日水曜日

【アタマの引き出し】のつくりかたワークショップ (2011年7月5日 19時 東京八重洲) を開催しました


 昨日(7月5日)は、 【アタマの引き出し】のつくりかたワークショップ を東京・八重洲で予定通り開催いたしました。

 ワークショップというものは、参加者のみなさんと一体になってつくりあげる「ライブ公演」のようなもの。おかげさまで、参加した皆様にとっても、たいへん充実した「体験」になったのではないかと思います。

 全員に参加してもらったのは 2種類のワーク。「対面型のロールプレイイング」と「全員参加の連想ゲーム」。個人の「学び」とちがって集団での「学び」には、いわば集合知とでもよぶべきものが実現するものです。「人の振り見て我が振り直せ」とはややネガティブな表現ですが、他者からいいとこどりすると考えれば、集団での「学び」の本質をついたものだといってもいいでしょう。

 この点については、ブログに書いた記事 ダイアローグ(=対話)を重視した「ソクラテス・メソッド」の本質は、一対一の対話経験を集団のなかで学びを共有するファシリテーションにある を参照していただけると幸いです。

 初対面での最初の3分が勝負だと、心理学ではよくいわれていますね。初対面では、自分のアタマをフル回転して「引き出し」を駆使し、いかに相手から話を「引き出す」か。

 世の中が複雑化し、趣味や価値観が多様化する現在、営業担当者もかつてのように、昨夜のナイター(・・プロ野球のことです)やゴルフの話題で、すべてが間に合うなんてことはありえません。どんな人とのあいだにも「共通点」を即座に発見し、「共感」するポイントを見つけるワザが必要とされるのです。

 こういった「中身のある雑談」は、偶然の出会いが死命を決することすらある現代世界においては、営業担当者に限らず、必須のスキルやマインドセットといってもいいでしょう。

 「アタマの引き出し」とは、通常は「引き出し」といっています。『大辞泉』によれば以下のように書かれています。

ひき‐だし【引(き)出し/▽抽き出し】
1. 引き出すこと。「預金の―」
2.(「抽斗」とも書く)机・たんすなどに取り付けて、抜き差しができるようにした箱。
3. 臨機応変に活用できる、隠れ持った多様な知識や豊かな経験のたとえ。「―が多く、どんな役でもこなせる俳優」

 「アタマの引き出し」はいうまでもなく「3.」の意味のことですね。「2.」のタンスの引き出しが比喩的に私用されたものでしょう。

 「アタマの引き出し」つくりは、エッセンスだけを抽出すると以下のようになるでしょうか?

●観察するクセをつける
●すぐに検索して調べるクセをつける
●アウトプットすることで、再生された記憶があらたに再編集された記憶として定着する
●違いよりも共通性に注目してアウトプットする

 もちろん、これだけでは抽象的で理解しにくいでしょうが、朝起きたら顔を洗うのと同じくらいまでに、無意識に実行してしまう「生活習慣」にしてしまうことが必要です。「引き出し」つくりには、高速道はありません。くわしくはワークショップで具体的に説明しました。

 これまでブログにも何度か書いていますが、昔ながらの格言にもあるように 「三日三月三年」(みっか・みつき・さんねん) たった段階で、効果が目に見えるものになってくるといっていいでしょうしょう。

 なにごとも「継続はチカラなり」。地道にコツコツと。しかし、日々の取り組みが、三ヶ月後、三年後には大きな差となって現れてくるのは間違いありません。

 日本では昨年2010年あたりから、ようやく「ハーバード白熱教室」のサンデル教授の授業が注目されたことがキッカケになって「参加型でダイアローグ重視のワークショップ」に関心が集まるようになってきましたが、まだまだワークショップが定着したとはいえないのが日本の状況です。

 次回のワークショップは、遠くないうちに開催する予定ですのであらためてご案内させていただきます。その際はぜひ、参加をご検討ください。ワークショップはアタマで考えるものではなく、体感するものだからです。



<関連サイト>

【アタマの引き出し】のつくりかたワークショップ(2011年7月5日実施)

NHK・Eテレ 「スタンフォード白熱教室」(ティナ・シーリグ教授) 第8回放送(最終回)-最終課題のプレゼンテーションと全体のまとめ
・・姉妹編の「佐藤けんいち@ケン・マネジメント代表  公式ブログ」にアップした記事



<ブログ内関連記事>

【アタマの引き出し】のつくりかたワークショップ を開催します (2011年7月5日 19時 東京八重洲)

「ハーバード白熱教室」(NHK ETV)・・・自分のアタマでものを考えさせるための授業とは

ダイアローグ(=対話)を重視した「ソクラテス・メソッド」の本質は、一対一の対話経験を集団のなかで学びを共有するファシリテーションにある

「◆未来をつくるブック・ダイアログ◆『国をつくるという仕事』 西水美恵子さんとの対話」に参加してきた-ファシリテーションについて

"try to know something about everything, everything about something" に学ぶべきこと

「三日三月三年」(みっか・みつき・さんねん)




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2011年2月9日水曜日

ダイアローグ(=対話)を重視した「ソクラテス・メソッド」の本質は、一対一の対話経験を集団のなかで学びを共有するファシリテーションにある


 ETVの番組「ハーバード白熱授業」の放送がキッカケになって、日本全国でサンデル教授のような授業が拡がっているようだ。このこと自体はたいへんウェルカムなことだ。
 
 もちろん「正義」とは何かという、簡単に解答の出せない問題に対して考える内容が支持を受けている理由だろう。

 だがそれだけではなく、大学生のあいだでは大学の授業に対する不満や失望感が強いのではないか?サンデル教授人気は、その裏返しの人気現象という側面もあるのではないかと私は見ている。実際に、私が以前このブログに書いた文章へのアクセスも非常に多い。

 「ハーバード白熱授業」にインスパイアされた授業が、日本の大学でも行われるようになってきており、そのいくつかが同じくETVでも放送されているので、私もたまに見ている。

 サンデル教授がハーバード大学で行っている「白熱授業」。
 サンデル教授が、昨年2010年に来日して東京大学で行った「白熱授業」。
 日本人教授たちが、日本の大学で日本語で行っている「白熱授業」。

 この3つを比較してみると、共通点はあるものの違いもまた大きい。

 一言でいってしまえば、それは日本人と日本人以外(・・より正確にいうと、日本語人と日本語人以外)の大きな違いである。

 それは「個」の確立と主張のスタイルである。

 日本人「個」がないなどというつもりはないが、どうしても日本人の授業では特定の学生に発言が集中しがちである。よく言われるが、小学校ではあんなに発言を求めて活発だった日本人が、成長するにつけておとなしく(?)なっていくのはなぜかという疑問である。

 一方、とくにハーバード大学の学生は、映画『ソーシャル・ネットワーク』でもわかるとおり、米国だけでなく世界中から集まってきた選りすぐりのエリート中のエリートであって、自己主張のかたまりのような存在だ。

 東京大学での授業では、日本語で発言する日本人と、英語で発言する日本人と非日本語人のコントラストが目立つように思った。

 いい悪いは別にして、自己主張がサバイバルの武器となる日本以外の社会と日本社会との大きな違いが目につくのである。自己主張がサバイバルの武器となるのは米国社会だけではない、中国でもインドでも中近東でもみなそうである。日本と似ているのは、タイやインドネシアなど東南アジアくらいか。

 きわめて個性の強い、自己主張する「個」を前提にしたハーバード大学の授業と、主張はもっていないわけではないが、それをあからさまにコトバにすることをためらう日本人への授業、この両者に違いがあって当然だ。

 そこにこそ、日本人の学生(・・学生だけはなく、大人も似たようなもの)向けに、サンデル教授型の授業を行うことの難しさがあるのだろう。


■「ソクラテス・メソッド」の本質はファシリテーションにある

 基本的にサンデル教授の授業スタイルは、米国の大学では特別なものではないことは、このブログにも書いたとおりだ。「ハーバード白熱教室」(NHK ETV)・・・自分のアタマでものを考えさせるための授業とは。

 基礎を教え込む科目ではレクチャーが主体であることは日本も米国も変わりはない。ケースメソッド・スタイルの授業では、ファシリテーション・スタイルが一般的に採用されている。

 複数の受講者とひとりの講師との対話を重視した「ソクラテス・メソッド」の本質は、講師がファシリテーターとなったファシリテーションにある。クラスが活性化し、受講者のそれぞれが「気づき」、ゆたかな「学び」を得ることができるかどうかは、講師の力量それ次第である。

 「ソクラテス・メソッド」は日本では「ソクラテス産婆術」のほうがよく知られているかも知れない。プラトンの『対話篇』で展開されている、哲学者ソクラテスと対話者との問答のことである。西洋哲学の原点にあるダイローグ(dialog)のログ(log)はギリシア語のロゴスからきている。

 ダイアローグは、ジャッジの前で黒白をハッキリさせるディベートではない。ファシリテーションとディベートの大きな違いを認識しておく必要がある。対話者のなかに疑問をもたせ、常識を疑い、自分で考えることを促すことにある。

 ファシリテーションは「術」は「術」でも、技能を意味するスキル(skill)よりもアート(art)に近い。ここでいうアートは芸術ではなく、ラテン語のアルス(ars : 術)に近い意味である。ラテン語の ars amatoria とは恋愛術のこと。テクノロジーの技術ではなく、ワザといったほうが適切だろう。

 ファシリテーションとは、促し、導くワザである。どこに導くか? 授業の場合はあらかじめシナリオは描かれているが、問題発見の場では、それはそのときの状況に応じて変化する。いずれの場合も、軸さえぶれていなければ、許容範囲は多少は広くてもいいのではないか。

 「個」を前提に、「個」の集まりである「集団」の議論を活発にさせる方法。
 そうでなくても発言することに抵抗のある日本人を議論に参加させるためには、別の工夫も必要だ。 

 つねに真剣勝負で取り組むファシリテーションは、その一回一回がライブパフォーマンスとしての作品でもある。



PS 読みやすくするために改行を増やした。内容には手は入れていない(2014年7月8日 記す)。
 





<ブログ内関連記事>

■対話(=ダイアローグ)の本質

書評 『対話の哲学-ドイツ・ユダヤ思想の隠れた系譜-』(村岡晋一、講談社選書メチエ、2008)-生きることの意味を明らかにする、常識に基づく「対話の哲学」


■「NHK白熱教室」関連

「ハーバード白熱教室」(NHK ETV)・・・自分のアタマでものを考えさせるための授業とは

「ハーバード リーダーシップ白熱教室」 (NHK・Eテレ)でリーダーシップの真髄に開眼せよ!-ケネディースクール(行政大学院)のハイフェッツ教授の真剣授業

NHK・Eテレ 「スタンフォード白熱教室」(ティナ・シーリグ教授) 第8回放送(最終回)-最終課題のプレゼンテーションと全体のまとめ

コロンビア大学ビジネススクールの心理学者シーナ・アイエンガー教授の「白熱教室」(NHK・Eテレ)が始まりました

「バークレー白熱教室」が面白い!-UCバークレーの物理学者による高校生にもわかるリベラルアーツ教育としてのエネルギー問題入門

「オックスフォード白熱教室」 (NHK・Eテレ)が面白い!-楽しみながら公開講座で数学を学んでみよう

慶応大学ビジネススクール 高木晴夫教授の「白熱教室」(NHK・ETV)

ビジネスパーソンにもぜひ視聴することをすすめたい、国際基督教大学(ICU)毛利勝彦教授の「白熱教室JAPAN」(NHK・ETV)






■ハーバード大学関連

ハーバード・ディヴィニティ・スクールって?-Ari L. Goldman, The Search for God at Harvard, Ballantine Books, 1992
・・「教師の役割は、ソクラテスの産婆術に擬して語られることも多く、ケースメソッドは別名 Socratic method ともいわる。 この教育メソッドのキモは、ビジネスでは唯一の解答というものはありえない、ということを学生に体得させることにある」 記事ではプロフェッショナルスクール(専門大学院)の一つである「神学大学院」について、ビジネススクールとの対比で書いている

書評 『ハーバードの「世界を動かす授業」-ビジネスエリートが学ぶグローバル経済の読み解き方-』(リチャード・ヴィートー / 仲條亮子=共著、 徳間書店、2010)
・・ハーバード・ビジネス・スクール(HBS)における、国際ビジネスをめぐる政治経済についてのディスカッション用ケーススタディ

映画 『ソーシャル・ネットワーク』 を日本公開初日(2011年1月15日)の初回に見てきた
・・ハーバード大学の学部の寮生活から生まれたフェイスブック

(2014年7月8日 情報追加)





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2011年2月8日火曜日

「◆未来をつくるブック・ダイアログ◆『国をつくるという仕事』 西水美恵子さんとの対話」に参加してきた-ファシリテーションについて



 「◆未来をつくるブック・ダイアログ◆『国をつくるという仕事』西水美恵子さんとの対話」に参加してきた。

 詳細は以下のとおりである。

//////////////////////////////////////////////////////////////////
◆未来をつくるブック・ダイアログ◆
『国をつくるという仕事』西水美恵子さんとの対話

http://www.sophiabank.co.jp/news/japanese/2011/02/post_63.html

【日時】 2011年2月7日(月)19時~21時
【会場】 日本財団CANPANセンター
〒105-0001 東京都港区虎ノ門1-15-16海洋船舶ビル8階
東京メトロ銀座線 「虎ノ門駅」4番出口より徒歩2分
【参加費】無料
【定員】 40名
【ゲスト】 西水美恵子さん(元世界銀行副総裁)
【使用書籍】『国をつくるという仕事』(英治出版刊、定価1,890円)
※必ず書籍をお読みになった上でご参加ください。
【内容】
※ファシリテーター:西村勇也さん(Dialogue Bar主催者)
・ご挨拶
・チェックイン(参加者同士の自己紹介等)
・西水さんからのお話
・対話(ワールドカフェ、オープンスペーステクノロジー等の形式)
・チェックアウト(各人一言ずつコメント)
・西水さんからのメッセージ

【主催】英治出版株式会社
【共催】日本財団CANPANプロジェクト
【協力】Dialogue Bar
///////////////////////////////////////////////////////////////////////

■ファシリテーションというものについて

 実際の進行はシナリオどおりにはならないものだ。ファシリテーションというものは、フロー(=流れ)のなかで臨機応変にフレクシブルに変えてゆくものだからだ。コントロールではなく、マネージするものだ。

 当日の流れはこんな感じだった。まず、ひとりひとりの課題として、A4の紙一枚に3つの項目を書くことから始める。その課題とは、①名前、②職業など日常の活動、③この「ブック・ダイアローグ」に参加するに際して自分の思うことなど。

 そしてこの紙をテープで胸につけた入館証に貼り付けて自己紹介がわりにし、会場のなかを歩き回って、どういう人が参加しているかを知る。その5分間のプロセスのなかで会話(チャット)をかわしながら、4人一組のグループをつくる。そして、このグループのなかで、やや詳しい対話を行う。その対話のなかででてきたキーワードを、自分のコトバでひとりひとりがポストイットに書いて、ホワイトボードに貼る。

 これをもとにファシリテーターが進行役を務めて、会場から著者である西水美恵子さんとの対話を引き出していく。
 せっかくの機会なので、私がいちばん最初に発言させていただいたが、テーマはリーダーシップについてである。質問ではない。

 全体的にどうしても解答を求めた質問が多いように思われた。これに対してノウハウを求められても答えないと、いっけん突き放したようなコトバを返す西水さんの姿勢が印象的であった。解答は自分で考えるべきもの、考えるヒントは与えることはできても、安易な解答を与えること対話ではない、ということだろうか。「気づき」は与える側でなく、受け取る側のものである。

 そもそも人生相談ではないのだから、個々人の問題に的確に答えることができるわけがない。質問者たちの気持ちは、わからなくはないのだが、これらに対しては厳しいレスポンスを行うことも必要である。それこそが真のやさしさというものだろう。  

 仕事では私がファシリテーションする側なのだが、今回は招待されたとはいえ一参加者にすぎないので(・・それはまことにもって正しい扱われ方!)なので、ファシリテートされる側に徹するのは当然のこと。ダイアローグ(=対話)の場においては、すべての参加者が対等であることが前提条件になる。西水さんも "the world is flat" を実践されている方である。

 つくづく思うのは、ファシリテーションというのは、文字で書けば簡単で、技法そのものはそれほど複雑ではないのだが、実践するのはなかなか難しいものだなということだ。あらためてそう思う。

 ファシリテーションは、いつも『ハーバード白熱授業』のサンデル教授のようにはいかないものだ。何よりも、大学の授業とは違って理解へと導くのが求められているのではない。フロー(=流れ)を一定方向に誘導するコントロールではなく、即興性を最大限に活かしながら制御する技術はきわめて何度が高い。ファシリテーターを務めた西村勇也さん(Dialogue Bar主催者)、お疲れ様でした。私にとっての最大の学びは、ファシリテーションそのものであったかもしれない。その意味では、参加者全員に感謝したい。


■「集団としての学び」のアドバンテージ
 
 2時間の対話セッションをいかに内容と意義あるものにするかは、ファシリテーターと参加者の呼吸が合うことが重要なのだ。その意味では、非常に有意義な2時間超であったといえよう。参加者がそれぞれに、さまざまな「学び」をもった。「学び」は、あくまでも受け取る側次第である。これが集団での「学び」のアドバンテージである。

 ここには詳細は書かないが、もちろん私もあらためて学ぶところが多かった。
 人の話を聞くということ自体が、アクティブ・リスニングを前提にした参加となる。
 当日でてきたキーワードは、正直であること、すっぱだかで向かいあうこと、自信をもつこと、信頼感、困難名状況を楽しむこと、などなど。

 ただダイアローグ・セッションが終わったあとに帰宅の電車のなかで思っていたのは、キーワードにまとめてしまうことの危険についてだ。キーワードというのは、コンセプチュアライズした結果の抽象的な表現なので、そうしてもアタマだけの作業に終わってしまいがちだ。

 リーダーシップ、エンパワーメント、ボトムアップ・・・こういったキーワードは、具体的なシチュエーションを想定して、自分ならどうすべきかを考えないと意味がない。

 ココロからそう思うのか、ハラに響いた表現なのか、具体的な実践をつうじて体感できるコトバになっているのか、ということが問われなければならない。キーワード自体はキレイにまとまったコトバだが、コトバだけが浮遊してしまう恐れがある。それが恐い。


■一冊の本がもつチカラ-「ブック・ダイアローグ」について

 「ブック・ダイアローグ」というのは、著者と直接ダイアローグ(=対話)できるきわめて有意義な機会である。私にとっては初体験であったが、強くそう思った。

 私も、自分の本が出版された暁には(・・まだ企画が正式に通ってませんが)、ぜひ実施してみたいと思う。フェイスブックなどの SNS とも違う、リアルの交流の良さというものがあるからだ。

 『国をつくるという仕事』という一冊の本についてブログに書評を書いたことから始まったオディッセイ。

 本のもつチカラというものは、非常に大きなものがあるとあらためて実感している。人と人を結びつけ、ダイアローグ(=対話)をつうじて著者と読者との相互理解が深まり、そして多くの人を動かしていく。そういったチカラについてである。



<関連サイト>

「◆未来をつくるブック・ダイアログ◆『国をつくるという仕事』西水美恵子さんとの対話」にかんしてTwitter上でなされた発言が togetter にまとめられている。


 「ワールドカフェ」と「オープンスペーステクノロジー」(OST)は米国発のきわめて面白い手法であるので、ここで解説を加えておくこととしよう。

「ワールドカフェ」

ワールド・カフェとは、「知識や知恵は、機能的な会議室の中で生まれるのではなく、人々がオープンに会話を行い、自由にネットワークを築くことのできる『カフェ』のような空間でこそ創発される」という考え方に基づいた話し合いの手法です。

HUMAN VALUE 社のウェブサイトより http://www.humanvalue.co.jp/report/positiveapproach/post.html)

「オープンスペーステクノロジー」(OST:Open Space Technology)

1985年にハリソン・オーエン氏が開発した集合的意思形成を目的とした創造的かつ生産性の高いミーティングやコンファレンス手法。OSTは、"コーヒーブレイク"で見られる高い相互作用と創造性を、公式のミーティングの中で具現化することを意図している。OSTは、参加した人々の主体的な発案によってアジェンダや自ら参加するセッションなどが決まっていくなど、OSTの場は参加者の主体性に徹底的に委ねられていて、人々や組織の持つ自己組織化の力を生かすプロセスによって組み立てられている。

(HUMAN VALUE 社のウェブサイトより http://www.humanvalue.co.jp/glossary/ost.html)




<ブログ内関連記事>

書評 『国をつくるという仕事』(西水美恵子、英治出版、2009)

「組織変革」について-『国をつくるという仕事』の著者・西水美恵子さんよりフィードバックいただきました

「雷龍の国ブータンに学ぶ」に「学ぶ」こと-第3回 日経GSRシンポジウム「GSR と Social Business 企業が動けば、世界が変わる」に参加して






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2010年6月21日月曜日

「ハーバード白熱教室」(NHK ETV)・・・自分のアタマでものを考えさせるための授業とは


                 
 「ハーバード白熱教室」という番組が、NHK ETV(教育テレビ)で放送されていた。放送されていたと過去形いうのは、昨日(2010年6月20日)の第12回が最終回だったからだ。

 こんな中身の濃い授業があると知ったのは、実はつい最近のことだ。『これからの「正義」の話をしよう-いまを生き延びるための哲学-』(マイケル・サンデル、鬼澤忍訳、早川書房、2010)という本がベストセラーになっているらしいとネット書店で知ったからだ。この本は、内容紹介文によれば、「ハーバード白熱教室」の授業内容を書籍化したものを日本語訳したものらしい。

 だから、TVで授業内容を見たのは昨日が最初で最後、もっと早く知っておきたかったというのが本当の気持ちだ。ハーバード大学ではもっとも人気のある授業だという。

 NHK ETV で連続放送していた「ハーバード白熱教室」(Justice with Michael Sandel)であるが、第12回(最終回)のテーマは、「善き生を追求する: Lecture23 同性結婚を議論する、Lecture 24 正義へのアプローチ」の2コマ。かなり刺激的なテーマである。

 「正義」(justice)というと法哲学そのものずばりのテーマのようだが、そういった狭い捉え方をしてないのがこの授業の特徴だ。それは、扱ったテーマを一覧してみるとよくわかる。

第1回 「殺人に正義はあるか」
 Lecture 1 犠牲になる命を選べるか
 Lecture 2 サバイバルのための殺人
第2回 「命に値段をつけられるのか」
 Lecture 3 ある企業のあやまち
 Lecture 4 高級な「喜び」 低級な「喜び」
第3回 「「富」は誰のもの?」
 Lecture 5 課税に「正義」はあるか
 Lecture 6 「私」を所有しているのは誰?
第4回 「この土地は誰のもの?」
 Lecture 7 土地略奪に正義はあるか
 Lecture 8 社会に入る「同意」
第5回 「お金で買えるもの 買えないもの」
 Lecture 9 兵士は金で雇えるか
 Lecture 10 母性売り出し中
第6回 「動機と結果 どちらが大切?」
 Lecture 11 自分の動機に注意
 Lecture 12 道徳性の最高原理
第7回 「嘘をつかない練習」
 Lecture 13 「嘘」の教訓
 Lecture 14 契約は契約だ
第8回 「能力主義に正義はない?」
 Lecture 15 勝者に課せられるもの
 Lecture 16 私の報酬を決めるのは・・・
第9回 「入学資格を議論する」
 Lecture 17 私がなぜ不合格?
 Lecture 18 最高のフルートは誰の手に
第10回 「アリストテレスは死んでいない」
 Lecture 19 ゴルフの目的は歩くこと?
 Lecture 20 奴隷制に正義あり?
第11回 「愛国心と正義 どちらが大切?」
 Lecture 21 善と善が衝突する時
 Lecture 22 愛国心のジレンマ
第12回 「善き生を追求する」
 Lecture 23 同性結婚を議論する
 Lecture 24 正義へのアプローチ


 私が昨日みた最終回の放送では、受講する学生に発言させて、教授自身がうまくクラスでの討議を活発にさせるファシリテーター役を果たしながら、議論を収束させていく授業手法をとっており、お見事としかいいようがない。

 私も、米国でM.B.A.を取得した人間だが、M.B.A.の授業で多用されるケースメソッド(事例研究)も、基本的にはこれと同様の手法で行われる授業形態である。

 一方的なレクチャーではないのは、知識を伝授することが目的ではなく、学生に考えさせることが目的であるからだ。学生に自ら考えさせるためには、学生に問題を投げかけ、彼ら自身に発言させ、対論をださせ、活発な議論をさせる必要がある。

 もっとも重要なことは、議論の流れをうまく誘導しながら、何が論点なのか、どこに着目しなければならないかを整理しながら学生自身に納得させることだ。

 しかし、これがもっとも難しく、高度なテクニックと熟練を要するのである。

 
 「ハーバード白熱授業」の場合は、私がみた最終回だけについて話をするが、あらかじめ授業の前に議論の口火を切る役目を二人の学生にさせてから、その後は教授が質問を投げかけ、学生が発言して、さらに反論もさせ、問題点を整理しながら、最後はレクチャーで締めるという形であった。

 それにしても強く印象づけられるのは、現在の米国がいかに「多元的な価値観」のなかに生きている世界であることか、ということだ。

 学生たちも自分の意見を述べる際に、たとえばキリスト教徒でカトリックであるという立場を明言しているケースがあり、キリスト教徒であることは米国社会ではすでに自明の理ではない。こういう点は日本とは大きく異なる状況であろう。


 宗教、道徳、倫理が交差する地平に、さらに法律における判断(justice)が行われることになるのである。

 その意味では、日本語版タイトルが「正義」となっているものの、Justice というコトバの多義的な意味を考慮に入れると、ただ単に「正義」というだけでなく、正義、公正、公平、公明正大、正当、司法、裁判を含めたジャスティスとしたほうが良かったかもしれない。


 いずれにせよ、このような「自分のアタマでものを考えさせるための授業」を受講することのできるハーバード大学の学生は実に恵まれているし、こういう授業を若いうちに受けることができるのは、その後の人生において計り知れない大きな意味をもつはずである。



PS 読みやすくするために改行を増やした。内容には手は入れていない(2014年7月8日 記す)。


<関連サイト>

Harvard University's Justice with Michael Sandel (英語オリジナル版)
 http://www.justiceharvard.org/
・・無料で授業の動画すべてが公開されている!ただし当然のことながら英語(字幕なし)。

その他、「ハーバード白熱教室」で YouTube に動画が投稿されているので参照されたい。





PS サンデル教授の対話術について(2013年9月8日)

『サンデル教授の対話術』(マイケル・サンデル、小林正弥、NHK出版、2011)が、サンデル教授の思想であるコミュニタリアニズムと授業における「対話術」そのものについてのよい解説書となっている。

同書によれば原型は博士号を取得したオックスフォード大学におkえる少人数の対話型授業であるチュトリアルにあるようだ。これを1,000人近い大教室でリベラルアーツの授業として実施していることにサンデル教授の独自性がある。チュトリアルは日本の大学の少人数ゼミナールに近い。

サンデル教授の政治哲学はアリストテレス的でありながら、対話術がまさにソクラテス産婆術以来の哲学的スタイルであることが確認されている。

ぜひ一読することをすすめたい。





<ブログ内関連記事>

■対話(=ダイアローグ)の本質

書評 『対話の哲学-ドイツ・ユダヤ思想の隠れた系譜-』(村岡晋一、講談社選書メチエ、2008)-生きることの意味を明らかにする、常識に基づく「対話の哲学」


■「NHK白熱教室」関連(ハーバード大学とその他の名門大学)

「ハーバード白熱教室」(NHK ETV)・・・自分のアタマでものを考えさせるための授業とは

「ハーバード リーダーシップ白熱教室」 (NHK・Eテレ)でリーダーシップの真髄に開眼せよ!-ケネディースクール(行政大学院)のハイフェッツ教授の真剣授業

NHK・Eテレ 「スタンフォード白熱教室」(ティナ・シーリグ教授) 第8回放送(最終回)-最終課題のプレゼンテーションと全体のまとめ

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「バークレー白熱教室」が面白い!-UCバークレーの物理学者による高校生にもわかるリベラルアーツ教育としてのエネルギー問題入門

慶応大学ビジネススクール 高木晴夫教授の「白熱教室」(NHK・ETV)

ビジネスパーソンにもぜひ視聴することをすすめたい、国際基督教大学(ICU)毛利勝彦教授の「白熱教室JAPAN」(NHK・ETV)






■ハーバード大学関連

ハーバード・ディヴィニティ・スクールって?-Ari L. Goldman, The Search for God at Harvard, Ballantine Books, 1992
・・「教師の役割は、ソクラテスの産婆術に擬して語られることも多く、ケースメソッドは別名 Socratic method ともいわる。 この教育メソッドのキモは、ビジネスでは唯一の解答というものはありえない、ということを学生に体得させることにある」 記事ではプロフェッショナルスクール(専門大学院)の一つである「神学大学院」について、ビジネススクールとの対比で書いている

書評 『ハーバードの「世界を動かす授業」-ビジネスエリートが学ぶグローバル経済の読み解き方-』(リチャード・ヴィートー / 仲條亮子=共著、 徳間書店、2010)
・・ハーバード・ビジネス・スクール(HBS)における、国際ビジネスをめぐる政治経済についてのディスカッション用ケーススタディ

映画 『ソーシャル・ネットワーク』 を日本公開初日(2011年1月15日)の初回に見てきた
・・ハーバード大学の学部の寮生活から生まれたフェイスブック


■英国のオックスブリッジ関連

「オックスフォード白熱教室」 (NHK・Eテレ)が面白い!-楽しみながら公開講座で数学を学んでみよう

日本語の本で知る英国の名門大学 "オックス・ブリッジ" (Ox-bridge)

書評 『イギリスの大学・ニッポンの大学-カレッジ、チュートリアル、エリート教育-(グローバル化時代の大学論 ②)』(苅谷剛彦、中公新書ラクレ、2012)-東大の "ベストティーチャー" がオックスフォード大学で体験し、思考した大学改革のゆくえ

(2013年9月8日、2014年7月8日 情報追加)


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2010年1月24日日曜日

書評『対話の哲学 ― ドイツ・ユダヤ思想の隠れた系譜』(村岡晋一、講談社選書メチエ、2008)― 生きることの意味を明らかにする、常識に基づく「対話の哲学」



 古代ギリシアに始まる、西洋哲学の常識を否定するところにユダヤ人哲学者たちが発見した「対話の哲学」。

 私という「自我」が出発点となる、ひとり語りのモノローグではなく、「あなた」の存在によって成り立つ対話であるダイアローグ。「対話の哲学」は、哲学専門用語ではなく、日常語による哲学で、普通の人のための、常識に基づいた哲学である。

 18世紀の啓蒙の時代に「解放」され、19世紀には西洋社会に「同化」したはずだと思っていたドイツのユダヤ人、しかし彼らは根強く社会に存在する「反ユダヤ主義」のなか、「同化」によるアイデンティティ喪失の道ではなく、自らの内なるユダヤ性探求の方向に向かい出す。新カント派の哲学者ヘルマン・コーヘンもまたその道の探求を始めた一人である。

 そしてその弟子にあたる思想家フランツ・ローゼンツヴァイクが、ドイツ軍の下士官として、第一次世界大戦のバルカン戦線の塹壕のなかで書き始め、ALS(筋萎縮性側索硬化症)という不治の病に苦しみながらも作りあげていったのが「対話の哲学」であった。

 死ぬ存在である人間である「私」と、同じく死ぬ存在である「あなた」とのあいだに成り立ちうる「対話」。「あなた」あっての「私」、「私」あっての「あなた」。「呼びかけ」と「応答」によって成り立つ関係、「話す」よりも「聞く」ことの重要性。

 対話は、絶対他者としての「あなた」あってこそ成り立つ。「あなた」が他者でなければ、それは単に自我を投影しているにすぎないからだ。そこには「他者」から切り離された「自我」ではなく、「他者」とのかかわりのなかではじめて意味を持つ関係が生じている。対話は、つねに偶然性をはらんでいる。

 本書『対話の哲学  ―  ドイツ・ユダヤ思想の隠れた系譜』(村岡晋一、講談社選書メチエ、2008)は研究書の体裁はとっているが、知識を得るための本ではない。

 読むことによって、一気に視界が開けてくる思いをする本。あらたな地平が開けるような思い、目が覚めゆくような思いがする本だ。

 哲学書を読んでいるというよりも、人間が生きていることの意味を、そのまま語っているのを聞くような思いをしながら読み進めている自分を見いだした。もちろんそれは著者との対話なのだが、著者ではなく特定の「あなた」との対話を続けているような気もしていた。

 それは著者の意図とは違うのかも知れないが、生きているということをこれほど、声高でなく、普通の声で肯定する哲学はないのではないか。

 著者は、これらドイツ系ユダヤ人哲学者が開拓していった「対話の哲学」を、ユダヤ教の文脈を離れても成り立つ、より普遍性のある哲学として、われわれ日本人にも示してみせてくれた。

 著者は「反哲学」を説く、哲学者・木田元の弟子である。
 
 ふだんは哲学書や思想書など読まない人も、ぜひ手にとってみてほしい。意義深い読書経験になると思う。


(画像をクリック!)



目 次 
序章 現代の思想状況と20世紀転換期のドイツ・ユダヤ人 
第1章 ドイツ・ユダヤ人と啓蒙主義
第2章 関係は関係なきもののあいだになりたつ ー ヘルマン・コーヘン
第3章 西洋哲学はモノローグの思考である ー フランツ・ローゼンツヴァイク
第4章 モノローグの言語から対話の言語へ ー プラトン、オースティン、フンボルト
第5章 対話の一般的構造 

著者プロフィール
村岡晋一(むらおか・しんいち)
1952年生まれ。中央大学文学部卒業。同大学大学院文学研究科博士後期課程中退。現在、中央大学理工学部教授。専門はドイツ観念論、ドイツ・ユダヤ思想。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。


<初出情報>

■bk1書評「ユダヤ教の文脈を離れて成り立つ、普通の人のための、生きることの意味を明らかにする、常識に基づいた「対話の哲学」」投稿掲載(2010年1月10日)
*再録にあたって、一部字句の修正を行った。


<書評への付記>

 「耳を傾ける」ということについて、私はコーチング理論でいう、アクティブ・リスニング(Active Listening)を想起したが、しかしそれとも若干ニュアンスが違うようだ。

 日本語の「傾聴」は、かしこまって聞くというニュアンスが強すぎる。聴くだけでは「対話」にはらない。

 それが「対話」につながるためには、双方向のコミュニケーションである必要がある。「呼びかけ」の声に耳を傾け、そしてそれに対する「応答」を行う。この無限の可能性をもった有限の連鎖が「対話」である。

 一言でいってしまえば、「呼びかけ」と「応答」の連鎖が対話なのである。

 本書について若干の補足をしておく。

 「対話の哲学」は著者によれば、ドイツ系ユダヤ人の思想家たちが、あらたに再発見した自らのユダヤ性とユダヤ教を出発点に、18世紀の言語学者ヴィルヘルム・フォン・フンボルトの言語論を媒介にして展開した哲学である。ちなみに、探検家アレグザンダー・フォン・フンボルトはヴィルヘルムの弟である。

 ユダヤ教の文脈においては、もちろん超越的な存在である神が「あなた」であり、「私」はその呼びかけに応答し、また「私」の呼びかけに神である「あなた」が応答する、そういう関係にある。この枠組みを人間と人間のあいだの関係として読み替えたものである。

 フンボルトの言語論で、とくに「双数について」で展開された対話的言語論が、「対話の哲学」成立に大きな役割を果たしたらしい。

 孫引きになるが、フンボルトはこう述べているという。「言語の根源的本質のうちには、ある変更不能の二元論がひそんでおり、言語活動の可能性そのものが呼びかけと応答によって条件づけられている」(P.135)と。

 フランツ・ローゼンツヴァイク(1886~1929)については、Wikipedia の項目を参照。以下、『対話の哲学』の記述と、『二十世紀のユダヤ思想家』(サイモン・ノベック編、鵜沼秀夫訳、ミルトス、1996)の第6章を参考に補足し、簡単にまとめておく。

 ユダヤ人コミュニティに属してはいたが、安息日の夕べすら知らないという世俗的な人生を送っていたローゼンツヴァイク(・・日本語に直訳すれば、"バラの小枝")は、キリスト教に改宗してドイツ社会への「同化」の道を選択するか否か、最終的な決断を下す前に訪れたユダヤ教会(シナゴーグ)で参加したコル・ニドレイ(贖罪の日)の礼拝で、ユダヤ教が生きた信仰であることを確信し、ユダヤ教に回帰するという劇的な「宗教的自己発見」をした。そして終生「ユダヤ人として生き続けること」を決意する。

 その後、第一次大戦においては、自ら志願してドイツ軍の下士官として出征、バルカン戦線の塹壕のなかで突然、「新しい哲学」の霊感を受けた。これが後に「対話の哲学」へと結晶していく。

 復員後はアカデミックな道は選ばず、ユダヤ教の研究生活を続けながら、ユダヤ人教育のための機関として「自由ユダヤ学舎」を組織し、7年間にわたって実践活動に専念していたが、まさにその絶頂期に、筋萎縮側索硬化症(ALS)という不治の病に突然冒され、10年以上にわたって闘病生活を続けるという不幸に見舞われる。

 筋萎縮側索硬化症によって全身の筋肉が徐々に萎縮していき、ついには書くことも話すこともできなくなる。しかし、病気で自分を暗くすることなく、家族の助けをえながら、特別に改良されたタイプライターも使いながら、最後の最後まで創造的な仕事をし続けた。

 ローゼンツヴァイクの感動的な人生は、伝説の一つとなって語り伝えられている。

 塹壕のなかで哲学にかんする思索を続けていたという点においては、同じく第一次大戦においてハンガリー=オーストリア帝国軍の兵士として出征していた、論理哲学者ヴィトゲンシュタイン(1889~1951)も想起される。彼はウィーン出身のユダヤ系であったが、父親の代にカトリックに改宗している。後に英国に渡って、ケンブリッジで教鞭をとった。

 ユダヤ系哲学者で「対話」とくれば、のちにイスラエルに移住した、同じくウィーン出身の哲学者マルティン・ブーバー(1878~1965)による『我と汝』を想起する。ローゼンツヴァイクはブーバーと共同して、ヘブライ語旧約聖書のドイツ語訳作業を行っている。

 ただし、ブーバーによる『我と汝』は、著者によれば「対話の哲学」ではない、ということになるらしい。『我と汝』においては、あくまでも中心にあるのは「我」であり、「汝(あなた)」あっての「私」ではないということのようだ。

 また、本書を読んで、「弁証法」こそ「対話的原理」だと思い込んできた私の固定観念が覆された。

 弁証法(dialectique)とは、ヘーゲルに代表される思考法だが、基本的に 「正⇒反⇒合」のループを繰り返しながら歴史が前進するという思考である。

 「正」に対するアンチとしての「反」、この正⇔反のあいだにある対立を乗り越えて「合」になる。この「合」が「生」となり、またアンチである「反」が現れ、それを乗り越えて「合」になり、それが・・・・。 「正⇔反」の対立を乗り越えることをヘーゲルは、アウフヘーベン(aufheben)といった。日本ではかつて、止揚(しよう)なんて意味不明なコトバが哲学用語として使用されていたのだが、一般ピープルにとっては、まったくもって「はあ?」って感じだろう・・・。

 しかし、何が「正」であるのか一義的に前提されることは無理がある。高校時代からそういう疑問は感じてきたが、本書を読むことによって、太陽を覆っていた黒い雲が去った、というような感想も抱いている。対話的原理としての弁証法は、そもそもがプラトンの対話編にもさかのぼるものであり、ギリシア哲学そのものなわけなのだ。

 ヘーゲル哲学を学んだカール・マルクス(1818~1883)は、いわゆる「唯物弁証法」で、さまざまな社会現象を考察しようとした。

 唯物弁証法についての評価はさておき、マルクス自身は19世紀ドイツの改宗ユダヤ人である。弁護士だった父親がドイツ社会への「同化」を選択し、キリスト教に改宗した。マルクス自身は、そもそもデモクリトスの唯物論哲学の研究から出発した人である。プラトンの観念論の対極としてのデモクリトスである。

 したがって、マルクス自身もギリシア哲学の流れのなかにいる人だ、ということになる。

 「反哲学」とはギリシア以来の正統派哲学に反旗を翻したニーチェ以降の哲学的立場であるが、日本人の立場から見れば、まったくもって同感を覚えるものである。ローゼンツヴァイクの哲学もまた、ドイツ観念論哲学に対する反旗であった。

 だから、著者もいうように、「対話の哲学」は日本人にも貴重な示唆を含んでいる。ただし、「対話」は「対決」ではない。「対決」はモノローグのぶつけあいに過ぎないからだ。「対話」はあくまでも「双方向性のダイアローグ」であり、「あなた」と「私」の相互作用である。

 「反哲学」については、また別の機会にふれることもあろう。


 長々と書いてしまったが、「対話の哲学」は、もともとの出発点であるユダヤ教の文脈を離れても、発展可能性の大きな哲学であることが、著者によって示されたといえる。

 おそらく時間がたてばこの本に書かれている細かい内容はは忘れてしまうだろうが、それでも何か一気に視界が開けていくような記がしたという記憶は残るだろう。そんな印象をもった本である。

 たとえ困難であっても、「対話」そのものの窓は開いておかねばならないし、「対話」への努力は放棄してはならない、と反省をこめて思うのである。



P.S. 改行を増やし読みやすくした。ただし、内容にはいっさい手を入れていない(2013年4月27日 記す)。 多少の文言の修正を行い、リンクも増やした(2016年1月20日 記す)。

PS2 画像の位置を変更し、あらたに「目次」と「著者プロフィール」を付け加えた。(2023年12月2日 記す)



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ダイアローグ(=対話)を重視した「ソクラテス・メソッド」の本質は、一対一の対話経験を集団のなかで学びを共有するファシリテーションにある
・・プラトンの対話篇に登場するソクラテスの方法は、対話相手自身に自分を気づかせる「産婆術」と呼ばれていた

『ユダヤ教の本質』(レオ・ベック、南満州鉄道株式会社調査部特別調査班、大連、1943)-25年前に卒論を書いた際に発見した本から・・・
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書評『ユダヤ人とユダヤ教』(市川裕、岩波新書、2019)-「ユダヤ教」が規定してきた「ユダヤ人」を4つの側面からコンパクトに解説した本書は「世界」を理解するための「必読書」だ!

書評 『未来の国ブラジル』(シュテファン・ツヴァイク、宮岡成次訳、河出書房新社、1993)-ハプスブルク神話という「過去」に生きた作家のブラジルという「未来」へのオマージュ
・・ツヴァイク(=小枝)という名字のオーストリア系ユダヤ人の伝記作家は「同化ユダヤ人」であったが、結局はナチスの迫害を逃れてブラジルに亡命することになり、その地で自殺した

書評 『毒ガス開発の父ハーバー-愛国心を裏切られた科学者-』(宮田親平、朝日選書、2007)-平時には「窒素空中固定法」で、戦時には「毒ガス」開発で「祖国」ドイツに貢献したユダヤ系科学者の栄光と悲劇
・・ノーベル化学賞のフリッツ・ハーバーもまた「同化ユダヤ人」であった

書評 『寡黙なる巨人』(多田富雄、集英社文庫、2010)-脳梗塞に倒れた免疫学者による 「人間の尊厳」回復の記録

書評 『トラオ-徳田虎雄 不随の病院王-』 (青木 理、小学館文庫、2013)-毀誉褒貶相半ばする「清濁併せのむ "怪物"」 を描いたノンフィクション
・・ローゼンツヴァイクと同じく、ALS(筋萎縮性側索硬化症)という不治の病に苦しむ「病院王」

(2014年2月20日、7月14日、2016年1月20日、2023年12月2日 情報追加)


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