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2010年9月30日木曜日

書評 『梅棹忠夫 語る』(小山修三 聞き手、日経プレミアシリーズ、2010)-本質論をズバリ語った「梅棹忠夫による梅棹忠夫入門」


こんなおもろい本はないで! 関西弁で語りつくしたホンネの放談集は、本質論をズバリ語った「梅棹忠夫による梅棹忠夫入門」

今年(2010年)7月、残念なことに、知的世界の巨星がまた一つ墜ちた。老衰のために90歳で亡くなった梅棹忠夫である。

この本は、戦後日本の「思想」をリードした知的巨人の、死の直前まで語り通した回顧録である。

関西弁で語りつくしたホンネの放談は、しかしながら本質論をズバリ語って尽きることがない。

時代の証言者として、昔の話をする際のライブ感が実にすばらしい。目の前でその光景が見えるようだ。

学者としての業績として残された梅棹忠夫の著作集は実に23巻にも及ぶものだが、その人生はまた、挫折とその克服によって全うされたものであることも語られる。

山歩きにのめり込んで授業に出なかったために放校された三高時代から始まって、日本隊が初登頂を実現したマナスル登頂計画の前にして肺結核で二年間療養、学者としては致命的な両目の失明、と挫折につぐ挫折も経験している。

しかし、「困難は克服するためにある」という精神力がそれらを乗り越えさせてきた。このように、人生論としても実に骨太で、まさに知恵のかたまりの一冊にもなっている。

梅棹忠夫というと『知的生産の技術』という連想しか思い浮かばない人も、『文明の生態史観』『情報の文明学』など主要著作を読んできた人も、梅棹忠夫については何も知らない人も、この本はぜひ読むべきだと強く薦めたい。番外編であるこの本は、すぐれた「梅棹忠夫による梅棹忠夫入門」になっている。

こういう本が、日本経済新聞社から出たということの意味は実に大きい。もちろん、対象とされたビジネスパーソンだけでなく、広く一般に読まれて欲しい本である。ホンネをいうと、ぜひ本という形ではなく、ライブで見たかった対談だ。

こんなおもろい本はないで!、といっておこう。

読めば絶対に元気になることを保証します。


<初出情報>

■bk1書評「こんなおもろい本はないで! 関西弁で語りつくしたホンネの放談集は、本質論をズバリ語った「梅棹忠夫による梅棹忠夫入門」になっている」投稿掲載(2010年9月19日)
■amazon書評「関西弁で語りつくしたホンネの放談集は、本質論をズバリ語ってめちゃオモロイで!」投稿掲載(2010年9月19日)

*再録にあたって、字句の一部を修正した。



目 次

第1章 君、それ自分で確かめたか?
第2章 文章は誰が読んでもわかるように書く―記録と記憶の技術(1)
第3章 メモ/スケッチと写真を使い分ける―記録と記憶の技術(2)
第4章 情報は分類せずに配列せよ―記録と記憶の技術(3)
第5章 空想こそ学問の原点
第6章 学問とは最高の道楽である
第7章 知識人のマナー
第8章 できない人間ほど権威をかざす
第9章 生きることは挫折の連続である
エピローグ つねに未知なるものにあこがれてきた


著者プロフィール

梅棹忠夫(うめさお・ただお)

1920年京都市生まれ。京都大学理学部卒。理学博士。京都大学人文科学研究所教授を経て、1974年に創設された国立民族学博物館の初代館長に就任。1993年に退官し、同館顧問、名誉教授。文化勲章受章。民族学・比較文明学。2010年7月死去。

聞き手:小山修三(こやま・しゅうぞう)

1939年生まれ。国際基督教大学教養学部卒。Ph.D.(カリフォルニア大学デイヴィス校)。1976年、国立民族学博物館助教授。同教授を経て、2002年より名誉教授。2004年より吹田市立博物館館長。文化人類学。縄文研究の第一人者(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものに引用者=私が加筆)



<書評への付記>

梅棹忠夫の自伝は、日本経済新聞社の「私の履歴書」に掲載された原稿をもとにした、『行為と妄想 わたしの履歴書』(日本経済新聞社、1997)がある。連載中は楽しみにしていたものだが、新聞掲載中に見ることのできた写真が単行本化の際には省略されてしまったのが残念。現在は、文庫化されている。『行為と妄想 わたしの履歴書』(中公文庫、2002)
梅棹忠夫の発想の原点がどこにあるのか、なぜ京都からはこのように次から次へと独創的な学者がでてくるのかについてのヒントを得ることができるだろう。

また、オモテの自伝に対して、ウラの自伝があって面白い。

『裏がえしの自伝』(講談社、1992)というタイトルの本である。目次は、「わたしは大工」、「わたしは極地探検家」、「わたしは芸術家」、「わたしは映画製作者」、「わたしはスポーツマン」、「わたしはプレイボーイ」となっているが、いずれも「わたしは・・・になれなかった」という意味を含みとしてもっているもの。
人生には無数の分かれ道があって、可能性自体はいくらでもあるのだが、選択の結果その多くを断念し、捨てなければならない。果たせなかった多くの夢について語る著者の姿勢からは、後悔というよりも、これが人生というものなのだ、という骨太の姿勢がうかがわれる。
この本は読むと実に面白いのだが、残念ながら絶版なので図書館で探して読むか、著作集でよむしかないだろう。文庫化したらいいと思うのに。

(追記)『裏がえしの自伝』は、2011年4月に中公文庫から復刊された。実によろこばしいことである。一読をぜひすすめたい。(2011年5月1日)

(追記2) 書評 『裏がえしの自伝』(梅棹忠夫、中公文庫、2011 単行本初版 1992)という記事をブログに書いているので、ご参照していただけると幸いである。(2012年7月22日)




『梅棹忠夫 語る』では、『裏がえしの自伝』に書かれているような話も含めて、オモテもウラもあわせてこそ人生という姿勢で一貫している。だからこそ読んで面白いし、実に痛快(!)な内容の一冊となっているわけだ。

聞き手の小山修三は、「はじめに」のなかで、本書を勝海舟の『氷川清話』になぞらえているが、まさにその内容と語り口はよく似ている。勝海舟のベランメエ調の語りに対し、梅棹忠夫の語りは関西弁ではあるが。
違いはそれにとどまらず、勝海舟が生粋の江戸っ子で貧乏旗本の息子であったのに対し、梅棹忠夫は生粋の京都人で町人の出身であるということもある。しかし、功成り遂げた人間が、オモテもウラもあわせて語り尽くすという姿勢は共通している。

西陣に生まれ育った梅棹忠夫の実家は、祖父の代までは大工の棟梁であったという。そういう気質が、梅棹忠夫の合理主義でプラクティカルな発想とシンプルなスタイル(文体)を生んだ背景にあるのかもしれない。


<ブログ内関連記事>

梅棹忠夫関連

梅棹忠夫の『文明の生態史観』は日本人必読の現代の古典である!

企画展「ウメサオタダオ展-未来を探検する知の道具-」(東京会場)にいってきた-日本科学未来館で 「地球時代の知の巨人」を身近に感じてみよう!

書評 『梅棹忠夫-知的先覚者の軌跡-』(特別展「ウメサオタダオ展」実行委員会=編集、小長谷有紀=責任編集、千里文化財団、2011)

書評 『梅棹忠夫のことば wisdom for the future』(小長谷有紀=編、河出書房新社、2011)

書評 『梅棹忠夫-地球時代の知の巨人-(KAWADE夢ムック 文藝別冊)』(河出書房新社、2011)

書評 『ひらめきをのがさない! 梅棹忠夫、世界の歩き方』(小長谷有紀・佐藤吉文=編集、勉誠出版、2011)

書評 『梅棹忠夫-知的先覚者の軌跡-』(特別展「ウメサオタダオ展」実行委員会=編集、小長谷有紀=責任編集、千里文化財団、2011)

梅棹忠夫の幻の名著 『世界の歴史 25 人類の未来』 (河出書房、未刊) の目次をみながら考える

書評 『まだ夜は明けぬか』(梅棹忠夫、講談社文庫、1994)-「困難は克服するためにある」と説いた科学者の体験と観察の記録

書評 『裏がえしの自伝』(梅棹忠夫、中公文庫、2011 単行本初版 1992)

『東南アジア紀行 上下』(梅棹忠夫、中公文庫、1979 単行本初版 1964) は、"移動図書館" 実行の成果!-梅棹式 "アタマの引き出し" の作り方の実践でもある

書評 『回想のモンゴル』(梅棹忠夫、中公文庫、2011 初版 1991)-ウメサオタダオの原点はモンゴルにあった!

梅棹忠夫の「日本語論」をよむ (1) -くもん選書からでた「日本語論三部作」(1987~88)は、『知的生産の技術』(1969)で黙殺されている第7章とあわせ読むべきだ

梅棹忠夫の「日本語論」をよむ (2) - 『日本語の将来-ローマ字表記で国際化を-』(NHKブックス、2004)


知的生産の技術

書評 『知の現場』(久恒啓一=監修、知的生産の技術研究会編、東洋経済新報社、2009)

書評 『達人に学ぶ「知的生産の技術」』(知的生産の技術研究会編著、NTT出版、2010)

書評 『知的生産な生き方-京大・鎌田流 ロールモデルを求めて-』(鎌田浩毅、東洋経済新報社、2009)

*2012年7月22日に増補した





(2012年7月3日発売の拙著です)





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2010年9月29日水曜日

書評 『ギリシャ危機の真実-ルポ「破綻」国家を行く-』(藤原章生、毎日新聞社、2010)-新聞記者が足で稼いで書いた 「ギリシアからみたギリシア危機」レポート




新聞記者が足で稼いで書いた 「ギリシアからみたギリシア危機」レポート

 特派員としてローマに駐在する毎日新聞社の記者が、足で稼いで書いた 「ギリシアからみたギリシア危機」レポートである。日々のマスコミ報道では知りようのない「ギリシアのいま」を伝えてくれるものだ。
 
 「ユーロ危機」の引き金となった「ギリシア財政危機」。一時期に比べたら、「日本はギリシアになっていいのか!」というトンチンカンな叫びは沈静化したが、そもそも日本とギリシアはいっけん似たような地政学的ポジションにはあるものの、全く異なる歴史と文化をもつ国と国民であることが本書では確認される。

 一言でいってしまえば、現代ギリシアは、アングラ経済の発達した、いまだ近代化されていない「前近代社会」なのである。政治家が世襲される点は似ていなくもないが、すでに近代を通過し、「後近代」に入っている日本とは根本的に違う国なのだ。なんせ、統計データがまったくあてにならないのがギリシアである。

 経済的にみれば、民間需要に乏しく、公的支出に依存する比率のきわめて高い経済。公務員が増殖しても、一人あたりの給与は欧州の水準よりは低いため、副職を掛け持ちして生計を成り立たせている多くの人々。

 海運業と観光業と農業以外に、これといった産業のない輸入超過の貿易赤字国ギリシア。海外からの援助と借金、海外移民からの送金で対外収支の帳尻を合わせてきた島国ギリシアは、アジアでいえばフィリピンのようなものか。

 「欧州文明の原像」という他者イメージをうまく利用し、欧州のフリをして多額の援助を引き出してきたギリシアであるが、今回の危機でこの虚像は崩壊してしまった。しかし、アングラ経済の発達でもわかるとおり、かなりしたたかに生き抜いてきた国であり、国民であるようだ。

 過去に特派員として駐在した経験をもつアフリカやラテンアメリカを踏まえた記述は、ギリシアをあくまでも 「南の発展途上国」 と位置づける視角を提供しており、「北の先進国」からすべてを断罪するワナを回避させている。

 ギリシア駐在ではなく、またギリシア語ではなく英語で取材する新聞記者のレポートであるが、「ギリシアからみたギリシア危機」という姿勢を貫いており、興味深く読むことができた。性急にわかりやすい結論を出そうとはしない姿勢に共感を感じた。

 ギリシアの行く末はギリシア国民自身の問題だ。日本の行く末は日本国民自身の問題だ。安易な比較論にはあまり意味がないことを、本書によって確認すべきだろう。一読の価値はある。





<初出情報>

■bk1書評「新聞記者が足で稼いで書いた 「ギリシアからみたギリシア危機」レポート」投稿掲載(2010年9月16日)
■amazon書評「新聞記者が足で稼いで書いた 「ギリシアからみたギリシア危機」レポート」投稿掲載(2010年9月16日)


目 次

序章 ギリシャ危機の実像
第1章 アテネ暴動はガキ大将の喧嘩か
第2章 「デモは文化」とみなが言う
第3章 シュールなドラマ
第4章 「事業仕分け」を我が国に
第5章 世襲がもたらした「全ギリシャ借金運動」
第6章 はしっこ国のツール、共産党
第7章 ヨーロッパ人じゃない?
付記 ギリシャ政府はどう改め、何を国民に強いるのか


著者プロフィール

藤原章生(ふじわら・あきお)

1961年生まれ。北海道大学工学部卒業後、鉱山技師を経て毎日新聞記者。アフリカ、ラテンアメリカ特派員の後、2008年よりローマ特派員(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)



<書評への付記>

 この国の首相が、つい先日再選される前、「ギリシアが、ギリシアが・・」とバカの一つ覚えのように絶叫していたのを皆さんは覚えているだろうか?

 流行り廃りの激しいこの国のことだから、もう覚えている人も少ないかもしれないが・・・。
 しかしそのギリシアの実態はどうなのかというと、デモの光景は大量に映像として流れたものの、実際のところはよくわからない。

 本書は、その意味では、ギリシアのいまを知るための格好の一冊になっている。

 書評のなかで、「現代ギリシアは、アジアでいえばフィリピンみたいなものだ」と書いたが、これは別にギリシアもフィリピンもおとしめるつもりは一切ない。

 フィリピンは、米国企業や日本企業の外資によって支えられていた第二次産業の産業基盤が崩れて、近年はコールセンターなどのサービス産業中心の方向へ進んでいるが、国内の製造基盤がまったくないわけではない。

 一方、ギリシアは、基本は農業と牧畜の国で、国内に雇用を吸収するだけの産業基盤がないので、海外に移民として大量に流出している。とくに米国のシカゴ、オーストラリアのメルボルンは、たしかアテネよりギリシア系市民の人口は多い。

 もちろん人口規模でいえば、国内人口8千4百万のフィリピンは、同1千万人強のギリシアの8倍近いので大きな違いがある。一人あたりGDPでは逆に、US$27,790 のギリシアは、 同 US$1,390 のフィリピンの20倍近い。

 とはいえ、ギリシアもフィリピンも、ともに海外移民や海外就労者からの送金が、国家財政の少なからぬ割合を占めている点は共通している。

 また、共通しているのは、船員の供給国であることだ。
 欧州ではギリシアやクロアチアなど、アジアではフィリピンとミャンマーが船員の主要な供給源である。国内産業基盤の弱い国は、人的資源の輸出で稼ぐしかない

 また、フィリピンでは、外貨を稼ぐのは、エンターテイナー、ベビーシッターなどの女性労働力のチカラが大きい。分野は違うが、女がせっせと働く一方、男はカフェでだべるか将棋をさしている光景は、ギリシアを初めとして南欧、地中海世界では不思議でもなんでもない地中海世界の例外は、イスラエルくらいだろう。イスラエルにはシエスタの習慣はない。

 貧富の大きな格差、ファミリー政治の腐敗、巨大なアングラ経済・・・ギリシアとフィリピンの共通性は多い。違いは、ギリシアがギリシア正教に対して、フィリピンはカトリックが主流でイスラーム人口も多いとおいうことくらいか。

 同じ島国といっても、日本とギリシアは大きく異なるし、日本とフィリピンも大きく異なる。むしろ、ギリシアとフィリピンを比較したほうが、共通性が多いので、比較としては面白いのではいか、と思う。

 複眼的思考が求められるところだ。



<関連サイト>

ギリシャ現地レポート:「破綻国家」を救うのは「EU」か「中国」か (フォーサイト、2015年1月30日)

ギリシア-ヨーロッパの内なる中東 (中東-危機の震源を読む(88) )(池内恵、フォーサイト、2015年7月8日)
・・「ギリシア問題は、歴史的に遡ってみれば、「中東問題」の一部とも言えるのではないのか」という視点からの論考

(2015年1月30日 項目新設)
(2015年7月10日 情報追加)


<ブログ内関連記事>

書評 『物語 近現代ギリシャの歴史-独立戦争からユーロ危機まで-』(村田奈々子、中公新書、2012)-日本人による日本人のための近現代ギリシア史という「物語」=「歴史」

書評 『本当にヤバイ!欧州経済』(渡邉哲也、 三橋貴明=監修、彩図社、2009)

書評 『ユーロ破綻-そしてドイツだけが残った-』(竹森俊平、日経プレミアシリーズ、2012)-ユーロ存続か崩壊か? すべてはドイツにかかっている 

書評 『国家債務危機-ソブリン・クライシスに、いかに対処すべきか?-』(ジャック・アタリ、林昌宏訳、作品社、2011)-公的債務問題による欧州金融危機は対岸の火事ではない!

書評 『ブーメラン-欧州から恐慌が返ってくる-』(マイケル・ルイス、東江一紀訳、文藝春秋社、2012)-欧州「メルトダウン・ツアー」で知る「欧州比較国民性論」とその教訓

書評 『終わりなき危機-君はグローバリゼーションの真実を見たか-』(水野和夫、日本経済新聞出版社、2011)-西欧主導の近代資本主義500年の歴史は終わり、「長い21世紀」を生き抜かねばならない

(2014年1月15日 情報追加)






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2010年9月28日火曜日

「庄内平野と出羽三山への旅」 全12回+α - 「山伏修行体験塾」(二泊三日)を中心に (総目次)




 現在までに、47都道府県のほぼすべてにいっている私が、いまだ訪れたことがなかったのが山形県。その日本海沿岸部に拡がる庄内平野と背後になだらかな山容をしめしている出羽三山。

 「庄内平野と出羽三山への旅」と題した今回の旅のテーマは以下のとおりであった。

① 「山伏修行体験塾」(二泊三日)に参加すること
② 出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)をすべて歩くこと
③ 即身成仏による「ミイラ仏」を実際に見ること
④ 庄内地方が生んだ 大川周明、石原完爾ゆかりの地をまわること


 1週間にしてはかなり盛りだくさんの旅であったが、かなり充実したものとなった。

 記憶が失せてしまわないうちに、旅の記録を紀行文風に綴ってみたのが、「庄内平野と出羽三山への旅」全12回である。
 紀行文あり、修行体験記あり、背景解説のコメントあり、書評あり。これまた盛りだくさんの内容になっている。

 編集長兼ライターという特権を享受できるのが、このブログという「個人雑誌の」の強みであり、面白さでもある。

 この文章が、みなさんのお役に少しでも立つのであれば、執筆者冥利に尽きるというものです。どうぞご覧あれ。

 ボナペティ(Bon Appetit !)


(1) はじめに

(2) 酒田と鶴岡という二つの地方都市の個性

(3) 「山伏修行体験塾」(二泊三日)に参加するため羽黒山方面に移動

(4) 「山伏修行体験塾」(二泊三日) 初日の苦行は深夜まで続く・・・

(5) 「山伏修行体験塾」(二泊三日) 二日目は早朝から夜中まで実に長い一日だった・・・

(6) 「山伏修行体験塾」(二泊三日) 最終日の三日目が終了! 精進落としの楽しみとは・・・

(7) 「神仏分離と廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)が、出羽三山の修験道に与えた取り返しのつかないダメージ

(8) 月山八号目の御田原参籠所に宿泊する

(9) 月山八号目から月山山頂を経て湯殿山へ縦走する

(10)松尾芭蕉にとって出羽三山巡礼は 『奥の細道』 の旅の主目的であった

(11) 湯殿山で感じる「出羽三山の奥の院」の意味

(12) 庄内平野の湯殿山系「即身仏」(ミイラ仏)を見て回る


<番外編>

書評 『世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか』(岡田芳郎、講談社文庫、2010 単行本 2008)

「山伏修行体験塾 2011 東京勧進」 に参加-ヤマガタ・サンダンデロ(銀座)にて山形の食材をふんだんにつかった料理とお酒を存分に楽しんできた(2011年11月11日)



<参考サイト>

山伏(体験)wikipedia

「いでは文化記念館」(羽黒山)の「山伏修行体験塾」

宿坊・大聖坊が主催する山伏修行体験・・民俗写真家・三好祐司が日本各地の民俗・風習を訪ね歩いた記録。「いでは文化記念館」以外が主催する「山伏修行体験塾」以外の山伏修行。



(2012年7月3日発売の拙著です)









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2010年9月27日月曜日

書評 『世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか』(岡田芳郎、講談社文庫、2010 単行本 2008)




地方発の文化発信を実践した、類い希な「文化プロデューサー」の生涯とその時代

 つい先日、今年(2010年)の9月の初めのことだが、生まれて初めて酒田市にいっていきた。

 47都道府県のほとんどに足を運んでいる私だが、山形県が数少ない未踏地帯となっていた私は意を決して庄内平野と出羽三山への旅にでかけたのだが、庄内平野を代表する二つの地方都市である酒田と鶴岡を訪れたのはいうまでもない。

 この旅から帰宅して数日たった頃、文庫本の新刊でこの本が出版されたことを知った。まさにシンクロニシティというべきか、セレンディピティというべきか。『世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか』・・・おお、そんな映画館とフランス料理店が戦後の酒田にあったとは知らなかった。そんなことをやり遂げた経営者がいたとはまったく知らなかった。これは読まなければと思ってさっそく読み出した。熱中して一気に読んでしまった。旅の前に読んでいたら、おそらく酒田にはまた違った印象をもったことだろう。

 酒田は東北の地方都市というよりも、日本海側の地方都市というのがふさわしい。江戸時代に河村瑞賢が開設した西回り廻船の繁栄によって、「西の堺、東の酒田」と並び称された湊町。裏日本と蔑称された日本海側こそが、本来はオモテ日本だったのだ。交通物流体系が抜本的に変化したいまは、その面影はイマジネーションで再現してみるしかないのだが。

 現在では発展から取り残された、レトロ感漂う、落ち着いた地方都市といった印象が強い酒田であるが、往事の繁栄はそれはすごいものだったのだろう。その痕跡は市内の随所に残っている。アカデミー賞受賞の映画『おくりびと』のロケ地に選択されたのもむべなるかなと思わされる。私が生まれた、同じく日本海側の地方都市・舞鶴にも似たものを感じるのだ。

 食材の豊富さは、とくに庄内平野と出羽三山を背後にもつ酒田は、日本海の海の幸だけでなく、山の幸もともに供給できる素晴らしい土地なのである。こんな土地柄の地方都市で、名家の長男として生まれたのが本書の主人公・佐藤久一であった。遊び好きで、金に糸目をつけず感性を大事にする酒田っ子、「結構人」(けっこうじん)の系譜に連なる男であった。


 酒田の地で取り組んだ事業である「世界一の映画館」と「日本一のフランス料理店」。これらは戦前ではなく、戦後の酒田に存在したのだ。現在でこそ、「地方発の文化発信」は当たり前のものとなっているが、行政の働きかけではなく、経営者としての感性、こころざしによって、自らの意思に基づいて「文化事業」を実行し、成し遂げた男がいたのである。

 佐藤久一(さとう・きゅういち)が成し遂げたことは、ほぼすべてが時代を突き抜けて先駆けていた。進みすぎてはいたが、けっして地に足がついていなかったのではない。地方都市・酒田において、地域住民のニーズを先取りし、むしろ一歩進んだものを提供することで教育し、需要を作り出していったのである。

 私は、この佐藤久一という人物に多大な関心を抱いただけでなく、この本は「ビジネス書ではないビジネス書」として、多くの人に薦めたいと思った。サービス産業の生きた事例として、いやホスピタリティ産業の生きた事例として、大いに研究し、大いに学ぶべきものがこの一冊には凝縮して詰まっているからである。

 著者の岡田芳郎氏は、電通でイベントや CI を推進したビジネスマンであったとともに、自らの詩集も出版している詩人だという。主人公の佐藤久一と同年生まれだが、サラーリマンとして満ち足りたビジネス人生を送った著者は、自らしゃしゃり出ずに、佐藤久一という類い希な文化プロデューサーの人物を描き出すことに専念している。そしてそれは十二分に成功しているといっていいだろう。

 「世界一の映画館」グリーン・ハウスの支配人ではあったが映画製作者ではなく、「日本一のフランス料理店」ル・ポトッフーの支配人ではあったが料理人ではない。つまりものを創り出すクリエーターではないが、プロデューサーとして、またバツグンの目利きとして、海外の映画を、その土地に根付いたフランス料理を、地域住民を中心に提供することをつうじて、日本全国から集客することも可能にした男。映画館では満たされなかった夢を、舞台としての料理店、ライブとしての料理ともてなしで実現した男。

 経営は、夢と数字とのバランスを両立させることにあるのだが、佐藤久一の場合は、やや前者が勝りがちであったようだ。現実的だが、理想化肌の人だった。現実的なだけでは面白くない、理想を実現するためには現実の数字は無視できない。まさにバランスであるのだが、経営とは難しいものだ。パトロンとしてのオーナーがいたからこそ成り立った「日本一のフランス料理店」だったが、積もり積もった累積赤字のため、ついに引導を渡され、その後は燃え尽きるように消えて行く。

 子供の頃から最高の文化を享受し、ホンモノに触れて育った男が実現した夢。やりたいことをやり抜き、走り抜け、見果てぬ夢を抱きながらついに燃え尽き、倒れた一人の男。こんな人がいたのだということを知るためにも、ぜひ一読を薦めたい本である。


<初出情報>

■bk1書評「地方発の文化発信を実践した、類い希な「文化プロデューサー」の生涯とその時代」投稿掲載(2010年9月17日)
■amazon書評「地方発の文化発信を実践した、類い希な「文化プロデューサー」の生涯とその時代」投稿掲載(2010年9月17日)





目次

プロローグ 酒田大火
第1章 グリーンハウスその1 1950~55年
第2章 グリーンハウスその2 1955~64年
第3章 東京・日生劇場 1964~67年
第4章 レストラン欅 1967~73年
第5章 ル・ポットフー(清水屋)1973~75年
第6章 ル・ポットフー(東急イン)その1 1975~83年
第7章 ル・ポットフー(東急イン)その2 1984~93年
第8章 ふたたび、レストラン欅 1993~97年
エピローグ 見果てぬ夢


著者プロフィール

岡田芳郎(おかだ・よしろう)

1934年、東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。1956年、電通入社。コーポレート・アイデンティティ室長(局長)を経て、電通総研常任監査役を務め、1998年、退職。1970年の大阪万博では「笑いのパビリオン」を企画。1980年代は電通の CIビジネスで指導的役割を果たす(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)



<書評への付記>

 この本の書評は、「庄内平野と出羽三山への旅」の番外編として掲載することとした。

 「庄内平野と出羽三山への旅」から帰ってきたら、講談社文庫の新刊として9月に本書が出版されたことを知った。まさに、シンクロニシティというべきか。
 おそらく、この旅をしなかったら、このタイトルを見ても記憶に残らなかったであろうし、ましてや読むことなどしなかっただろう。偶然によって本と出会うこと、これもまた多くある出会いのうちの一つである。その意味ではセレンディピティでもある。

 書評のタイトルに「文化プロデューサー」というコトバを使ったが、これはこの本の主人公である佐藤久一(さとう・きゅういち)が名乗ったわけではない。私が勝手に命名しただけだ。
 映画文化に食文化。ともにすぐれた知性を提供するサービス産業、いやホスピタリティ産業であり、経営者というよりも、すぐれたクォリティの文化を提供するjことで、顧客を啓蒙・教育し、市場を創造していったという点について「文化プロデューサー」というネーミングがふさわしいと感じたからだ。

 私と名前がそっくりだが、もちろん血縁関係はまったくない。


庄内地方は「食の国」

 酒田のある庄内地方の素材がすぐれていることは、私も実際にいろんなものを食べてみて実感した。



 車窓に拡がる水田風景。庄内平野はなんといっても量質のお米が生産されている。「庄内米」である。その庄内米の流通基地が、江戸時代以来の酒田港の繁栄を支えてきたのである。

 「さかた海鮮市場」で撮影した写真を掲載しておこう。撮影は、2010年9月2日。
 日本海ならでは、庄内浜ならではの魚が多数水揚げされ、販売されている。佐藤久一(さとう・きゅういち)もまた、かつて自ら足を運んで買い付けを行っていたという。料理は素材がすべてである。


 「はたはた」は秋田が有名だが、隣の山形でも水揚げされる魚。


 「すずき」も東京湾で獲れるありふれた魚だが、庄内浜でも水揚げされる。「ネジリ」とはどういう魚であるのか。


 「そい」という魚。


 「ホウボウ」に「甘ダイ」。

 「イワガキ」については、庄内平野と出羽三山への旅 (2) 酒田と鶴岡という二つの地方都市の個性 に写真とともに書いておいた。
 だが、佐藤久一(さとう・きゅういち)は、イワガキは酒田産ではなく、吹浦(ふくら)産が最高であるとしていたという。なぜなら、鳥海山の伏流水が湧き水として海に流れ込み、ここで育ったイワガキが最高の味になるためであると。



<関連サイト>

たった1軒のレストランが庄内平野を変えた
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20100914/216227/?P=1
・・鶴岡のイタリア料理店アル・ケッツァーノ。酒田のフランス料理店「ル・ポトッフ」を越える存在になるか?


<ブログ内関連記事>

「庄内平野と出羽三山への旅」 (2) 酒田と鶴岡という二つの地方都市の個性

書評 『わたしはコンシェルジュ-けっして NO とは言えない職業-』(阿部 佳、講談社文庫、2010 単行本初版 2001)
・・ホスピタリティとサービスの違いとは?

クレド(Credo)とは
・・ホスピタリティ産業のなかでも代表的なホテルである、リッツ・カールトンの「クレド」とその背景





(2012年7月3日発売の拙著です)







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end 

2010年9月26日日曜日

「ナマステ・インディア2010」(代々木公園)にいってきた & 東京ジャーミイ(="代々木上原のモスク")見学記




 ナマステ!

 きょう9月26日(日)、 「ナマステ・インディア2010」(代々木公園)にいってきた。
 代々木公園で開催される恒例のお祭り。「タイ・フェスティバル」はこのところ毎年いっているが、「インド・フェスティバル」は今回が初めて。

 「ナマステ!」(Namaste !)とは、インドだけでなく、ネパールでも使われる合掌スタイルをしながらする挨拶のコトバのことだ。

 中央ステージでは、大音響のインド音楽にあわせて、インド舞踊のパフォーマンス。
 見て、聞いて、そして・・・


「ナマステ・インディア2010」会場をぶらつく

 会場は、物販や飲食が中心で、日本にいながらにしてインド気分を味わえる。
 来ているのは日本人が圧倒的に多いが、インド人の姿もかなり見られる。インド人は男どうし、カップルや家族などで来ている。
 もちろん、白人の姿もちらほら見られる。このエリア一帯は、東京でも有数の国際的観光スポットんあおで、在住者以外に観光客らしい姿も見られる。

 まあ、なんといっても楽しみはインド料理だろう。


 まず、マサラ・チャイ(masala chai)をホットで一杯 200円。紅茶にミルクと砂糖をたっぷり入れたインドティー。ここで売っているのはインスタント粉末のもの。
 チャイはホットに限る。インド北部のラダックで飲んだ一杯の甘いチャイを思い出す。小さなグラスで飲むチャイは、寒いときに飲は、ほんとうにカラダとココロが暖まる。きょうは晴天でそれほど寒くはなかったが。


 昼は軽く食べてから出かけたのだが、せっかくこれだけ本格インド料理店が出店しているのに、まったくカレーを食べずに帰るのももったいない。
 というわけで、シディークという店で、サグ・チキン(Saag Chicken)カレーとナンのセット500円を買って食べる。これで500円なら安い、うまい、早い。
 ほんとうは一緒にラッシー(=ヨーグルト飲料)でも買いたいところだが、すでに食べる場所は占拠されて見つけにくいので今回は断念。また、今度どこかインド料理店でもいった際に食べることとしよう。

 KingFisher という銘柄のビールも売っているが、今回は飲まない。きょうは休肝日としているので。
 このビールは、インドで飲んだことはあるが、わざわざ日本でも飲みたいとは思わない。味は悪くないが、プレミアム・プライス払ってまで飲むことはあるまい。ちなみに、KingFisher 社は、同名の格安航空会社の一事業である。

 また、インドのワイン(!)を扱っている出店も複数あった。ワインも前回2~3年前に仕事でインドにいった際に飲んだが味は悪くない。とはいえ、あえて日本国内でインド・ワインを飲みたいとは思わないのは、とくに不思議ではないだろう。安くてうまいワインは南半球からいくらでも入ってくる。

 しかし、私がはじめてインドにいったのは、いまから15年前だが、敬虔なインド人は酒を飲まないという好印象を抱いた。ところが、前回仕事で行ったときはまったく様変わりしていた。
 「酒を飲むインド人」というのは、どうもしっくりこないのである。


セレンディピティ(偶察力)を大いに発揮!

 今回はほとんど何も期待せずに出かけたのだが、本屋が何店か出店しているので覗いてみる。


 そのうちの一つで、インドで出版されている Lord Buddha という、子供向けの絵入りの英語版仏陀伝を 380円にて購入。インド人がインド人のために書いた仏陀伝は、インド色が色濃く出ているので興味深い。
 インドでは仏教は完全にマイノリティだが、ブッダはヒンドゥー教の聖者の一人になっているので、インド人にとっても違和感のない存在のようである。


 もう一軒で、「スリランカの王子様セレンディップ」ではないが、これこそセレンディピティ、なんと『星の王子様』のヒンディー語版を発見、600円にて購入。とくに探していたわけではないが、向こうから飛び込んできた表紙絵は、まさに「星の王子様」。偶然がもたらした、うれしい発見。

 なぜこれがセレンディピティかというと、実は私は各国語版の『星の王子様』(サン・テグジュペリ)を収集しているのだ。
 これまで集めたのは、フランス語オリジナル(Le Petit Prince)は本と朗読CD、翻訳版は日本語(・・もちろん内藤櫂の古典的名訳+池澤夏樹訳など)、英語版、ドイツ語版、スペイン語版、イタリア語版、ラテン語版、ポルトガル語版、ロシア語版、チェコ語版、韓国語版、タイ語版、である。

 もちろん、ヒンディー語版を買ったところで読めるわけではないのだが、読まなくても中身はわかっている(!)。まあ、威張ってみたところで意味ないな(笑)。さすがに、この本の内容を知らない日本人は少ないだろう。あくまでもコレクションに加わった一冊です。


 このほか、アパレル関係やインドグッズ関係、それから少なくないのがヨーガ関連。ヒンドゥー教の聖者ラーマ・クリシュナ関連グッズのお店なども出店していた。



天気がいいので明治神宮へ。本日もパワースポット「清正井」は満員御礼

 天気がいいので明治神宮へ。明治神宮はいついっても杉木立の参道が歩いて心地よい。


 相変わらず「清正井」は入場者の列ができているが、本日は整理券終わり。いつ来てもこうだなあ、というよりもこれを見る目的で明治神宮に来るわけではないので、当然といえば当然だが。
 自分の目で見たことがないので何ともいえないが、湧き水がでているこの井戸は、東京都内では有名なパワースポットらしい。しかしまあ、猫も杓子もパワスポ流行りですな。それもたいへんお手軽な。

 参道を歩いていると、シャッターを押して下さいというジェスチャーをされたので快くOKする。写真を撮ったあと、「どこから?」と聞いてみたら「インドネシアから」という。逆に「どこから?」と聞かれたので、「日本だ」と答えると、思わず二人でニコっとしあう。無意識にでる笑顔はアジア人ならではのもの。
 まあ、明治神宮においては、私が日本人であるという保証はまたくないわけだ。国際的観光スポットなので、中国人も台湾人も韓国人もタイ人も、その他西洋人も実に外国人が多いから。「ナマステ・インディア2010」が代々木公園で開催されていたからだろう、参拝客にはインド人も多かった。



東京ジャーミイ(="代々木上原のモスク")を見学

 今回は、代々木には何度もきているのに、いまのいままで行ったことがなかった「代々木上原のモスク」にいくのも目的の一つとしていた。
 地下鉄千代田線の明治神宮前駅から二駅目、終点の代々木上原駅で下車、西に歩いて数分の坂の上にある。

 戦前から親しまれてきたという「代々木上原のモスク」は老朽化のため取り壊され、現在のものは、建て直されて、2000年に完成したもの。
 正式名称を「東京ジャーミイ & トルコ文化センター」という。トルコ共和国政府が多額の資金提供をして再建された、それはもうたいへん立派な、まさに壮麗なモスクである。


 ミナレット(尖塔)のあまりの高さに、近くからでは全体像が写真に納まらない。道路の反対側にいって、離れた位置からだと、ようやくレンズに納まった。


 内部は自由に見学できるということなので、入ってみる。イスラーム関連の各種のパンフレット類、「アッラーの使徒ムハンマドの40のハディース」をいただいて帰る。
 お祈り前にカラダを洗う洗浄ルームがあり、水道の蛇口やシャワーが完備している。禊ぎではないが、イスラームは神道とよく似て、何よりも清浄であることを重んじる宗教である。


 礼拝場は階段を上がって二階。これはもう壮麗の一言に尽きる。すばらしい。イスタンブルのブルー・モスクよりは規模は小さいが、内装はよく似ている。新しいので、ブルーの色彩がとくに美しい。
 さすが、トルコ政府がカネ使っただけのことはあるが、果たして建設費はいったいどれくらいかかったのだろうかと、ついついそういうことを考えてしまう。

 地下鉄千代田線の終点である代々木上原駅で下車したのは今回が初めてだが、駅前には「古賀政男音楽博物館」という建物があった。音楽著作権管理の JASRAC の施設らしい。
 入場料が 525円と半端であったが、無料ではないので入るのはやめた。もちろん、古賀政男の名前と音楽は知らないわけではないが、とくだんファンというわけではないので。
 もし古賀政男の名前を若い世代にも伝えたいのであれば、入場無料にしたらいいのに。

 想定外の明治神宮参拝を加えたために、本日は万歩を越えて 15,000歩 になった。


インドの多様性について一言。まさに Incredible India !

 ところで、インドはヒンドゥー教と思い込んでいる人も多いだろうが、実はインドの総人口の1割以上がムスリムである。
 パキスタンとバングラデシュ(・・かつては東パキスタン)が分類した際に、ムスリムは大多数が移住したが、いまでもインド国内にはムスリムはキリスト教徒や、仏教徒よりも多く居住しているのである。
 英国の植民地になる前のムガール王朝がムスリム王権であったことを考えれば、不思議でもなんでもない話なのである。


 これは、「ナマステ・インディア2010」の会場に出店しているインドグッズ販売店で売っていた、ムスリム男子がかぶる帽子である。

 多様性の国インド。インド政府観光局のキャッチフレーズではないが、まさに Incredible India ! である。

 
 
<関連サイト>

●インド関連

 「ナマステ・インディア2010」(代々木公園)公式サイト

Incredible India(インド政府観光局 音声に注意!)

KingFisher Airline
・・インドの新興格安航空会社
KingFisher Beer
・・こちらはビール


●イスラームとムスリム関連

「東京ジャーミイ & トルコ文化センター」 (音声に注意!)



<ブログ内関連記事>

●インド関連

書評 『インドの科学者-頭脳大国への道-(岩波科学ライブラリー)』(三上喜貴、岩波書店、2009)

アッシジのフランチェスコ (4) マザーテレサとインド

書評 『男一代菩薩道-インド仏教の頂点に立つ日本人、佐々井秀嶺-』(小林三旅、アスペクト、2008)

タイのあれこれ(17) ヒンドゥー教の神々とタイのインド系市民


●イスラームとムスリム関連

書評 『日本のムスリム社会』(桜井啓子、ちくま新書、2003)

書評 『帝国陸軍 見果てぬ「防共回廊」-機密公電が明かす、戦前日本のユーラシア戦略-』(関岡英之、祥伝社、2010)

本日よりイスラーム世界ではラマダーン(断食月)入り






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2010年9月25日土曜日

庄内平野と出羽三山への旅 (12) 庄内平野の湯殿山系「即身仏」(ミイラ仏)を見て回る




旅の最終日、残ったミッションは鶴岡駅に戻る途上にあるミイラ仏を見ていくこと

 さて、いよいよ「庄内平野と出羽三山への旅」も最終日を迎えた。 
 またまた、繰り返しになるが、今回の旅のミッションは以下の4つである。

① 「山伏修行体験塾」(二泊三日)に参加すること
② 出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)をすべて歩くこと
③ 即身成仏による「ミイラ仏」を実際に見ること
④ 庄内地方が生んだ 大川周明、石原完爾 ゆかりの地をまわること

 最後に残ったのが、③ 即身成仏による「ミイラ仏」を実際に見ること であった。

 すでに旅の初日(・・正確にいうと夜行高速バスで過ごした翌日)、酒田の海向寺で二体、鶴岡の南岸寺で一体を参拝している。これらについては、すでに (2) 酒田と鶴岡という二つの地方都市の個性 で簡単に触れておいた。

 鶴岡市内で現在一般公開されている「ミイラ仏」はあと二体、これらはいずれも湯殿山麓にある。注連寺と大日坊だ。そこで、最終日に湯殿山から鶴岡への帰途に立ち寄る計画を立てていたのである。

 湯殿山参籠所前からは、公共交通機関であるバスは、調べてみたところ午前11時までない。そもそも、鶴岡方面から早朝やってきて、湯殿山本宮でお参りをすませ、お昼までには鶴岡方面に戻るのが主流であろう。早朝に参籠所前から出るバスはない。 

 これでは午前中の時間を浪費してしまうことになるので、前日にタクシーを呼んでもらういことにした。鶴岡市内までタクシーで約9千円、注連寺と大日坊までなら7千円くらいという話だった。
 けっして安くはないが、ときにはカネで時間を買うことも必要になる。とりあえず。注連寺と大日坊までタクシーでいって、そこから先はバスに乗って鶴岡駅までいくこととした。

 翌朝は、九州に台風接近中のため前線が東北地方にと天気予報でいってたとおり、土砂降りの大雨。この意味でもタクシーを呼んだのは正解だった。
 タクシー運転手との会話から、この地方にかんするさまざまな情報を聞くことができたことも、私の庄内平野と出羽三山理解に大いに役立った。


湯殿山の千人沢は即身仏修行の"メッカ" であったこと

 さて、「ミイラ仏」参拝紀行を再開する前に、湯殿山が「一世行者」あるいは「木食(もくじき)行者」の修行場所であったことの痕跡を示す「千人沢」について語っておかねばなるまい。


 昨日、参籠所に着いたあと、温泉につかって一休みしたわけだが、思い立って周辺を歩いてみた。何ごとも明日でいいやと思うと、朝起きるのが遅れたり、なにかしら予想外の事態が発生して計画が狂うことが生じがちである。前倒しにするにしくはない。

 現在では参籠所前がバスのロータリーになっているが、その一角に行者の修行跡を示す石碑が集中的におかれている一角がある(・・冒頭の写真)。一般人の供養碑(参り墓)にまじって、丸石の石碑が多数建っている。


 「湯殿山」と刻まれた多数の石碑は、即身成仏できた行者以外の、途中で失敗して亡くなった行者のものであるという。満願成就できなかった行者のほうが、数からいったら多かったのだ。


 現在一般公開しているお寺でも、即身仏はすべて写真撮影禁止なので、この地に奉納された模擬像の写真を撮影しておいたので、参考のために掲載しておこう。


 千人沢の石碑群は、翌日が台風の影響で土砂降りの大雨になったので、前倒しで見ておいてよかった。

 「出羽三山の奥の院」と呼ばれてきた湯殿山は、形態としては神仏分離を崩していないものの、実態としては神道と仏教が併存しており、神仏習合よりも、なおいっそう不思議で、奇妙な様相を呈している。これは千人沢も同様である。供養碑のある一角には注連縄(しめなわ)が張られている。


湯殿山参籠所からタクシーで注連寺と大日坊にいく

 土砂降りの雨のなか、タクシーで注連寺と大日坊にいく。タクシーは朝の7時半に来てもらった。

 タクシー運転手の話では、この地域は冬はいまでも豪雪地帯で、高速道路以外は除雪しないので、完全に雪の中に埋もれてしまうという。この旅の前に読んでおいた、森敦(もり・あつし)の『月山』の記述も、雪にかんしては昔も今も変わっていないことがわかる。

 まず注連寺へ。運転手の話では、昨年の集中豪雨で、注連寺の前の集落が土砂崩れで崩壊したという。村人は再建は断念して別の場所に移住したらしい。しかし注連寺はまったくの無傷。最初から地盤の安定した高台に寺を建設しているためだろう。

 タクシーは待っていてもらうことにして注連寺を拝観。私がくる直前にバスの団体観光客が参拝していたようで、私が一人でいくと案内役の中年女性は見るからに面倒くさそうな感じで、通り一遍の説明をする。あまり有り難いという感じはまったく受けなかった。見るからに観光寺に堕しているのだろう。

 即身仏の説明のあと、先ほど運転手から聞いた崖崩れの話を振ってみた。「即身仏の功徳でしょうかねえ?」と私が聞いてみたら、「とにかくみな神様のおかげだといっている」という答えが返ってきた。寺の人間なのにこのざまだ。即身仏は、そもそも客引きの一要素に過ぎないようだ。


 注連寺の境内には、森敦(もり・あつし)文庫が併設されている。放浪時代の森敦はこの注連寺で一冬を過ごし、のちに62歳で芥川賞(!)を受賞した名作『月山』を執筆している。

 『月山』は、この旅を始める前に読んでみた。まさに文学、である。森敦の『星霜移り人は去る-わが青春放浪-』(角川文庫、1981 単行本初版 1974)という回想録は、ずいぶん昔の大学時代に読んで、「10年働いて、10年遊ぶ」という生き方に憧れを抱いたものであったが、小説作品は実はまったく読んでいなかった。『月山』といえば森敦、という連想はいつも働いていたのだが・・・

 注連寺は、なんだか観光寺に堕しているのに対し、次にいった大日坊は大違いだった。再び、先ほどの団体観光客のあとになったが、私一人なのに、お坊さんがちゃんと梵天(・・長い棒の先に房がついたもの)でお祓いしてくれる。

 ロウソクに祈願してお供えもした。もちろん選んだのは「商売繁盛」。


 大日坊では、このあと住職の老僧から「即身仏」についての詳しい説明を受けた。ここに安置されている「即身仏」は死んでから遺体処理を施されたのではないので「ミイラ仏」ではないこと、死後も内蔵は取り出さないので腐敗を防ぐため五穀断ち(・・コメなどの穀物を食べず、木の実や草の根などだけ食べる苦行)をしていたこと、腐敗防止のためさらに漆(うるし)を飲んでいたことが語られた。うるしは手はかぶれるが、クチビルはかぶれないそうだ。

 こういう修行を千日なり二千日行った上で、土中入定(どちゅうにゅうじょう)し、竹筒からの空気と持ち込んだ水だけで過ごし、ひたすらお経を読みながら入滅を待つのである。

 成田山新勝寺で断食参籠修行した際にも聞いたが、人間は水さえ飲んでいれば一ヶ月は生きているらしい。即身仏志願者の場合は、すでに五穀断ちもしているし、土中入定する前から断食行の準備に入っている。

 読経の声が聞こえなくなったら死んだと思って埋めてくれ、三年たったら掘り起こすこと、と。

 こういう説明は、すでに一冊関連本を読んでいたので知っていたが、あらためて肉声で聞かされると、アタマのなかでイメージができあがってくる。説明のあと、心ゆくまでじっくりと即身仏を左右斜めから観察したが、しかしまあ、なんで即身仏なんかになって、また参拝の対象として安置あれているのか、なんともいえない気分になる。

 湯殿山は真言宗系であり、弘法大師空海の「即身成仏」の理論を実際に適用したのが「即身仏」だという説明がされることもあるが、そもそも空海のいう「即身成仏」とは、unio mystica のことであって、物理的な存在であるミイラ仏のことではない。

 江戸時代以降も鶴岡方面から湯殿山に巡礼する人たちは多かったが、注連寺と大日坊は、湯殿山参詣の入り口としての位置づけられていたらしい。
 羽黒山には即身仏がなく、湯殿山麓の大日坊と注連寺にのみ「即身仏」があるのは、羽黒山との参詣者争奪戦が背景にあったのではないかと宗教民俗学者の五来重は推測しているが、この見解はかなりの程度までただしいのではないかという気がする。


「ミイラ仏」を実際にみた正直な感想-カトリックの聖遺物信仰、社会主義諸国の聖遺体信仰との連想から

 これで現在、庄内地方で一般公開されている「ミイラ仏」はすべて拝観することができた。いずれも湯殿山系である。
 
 次の二枚の写真は、酒田の海向寺の「即身仏」入定跡と石碑。湯殿山と書いてある。「即身仏」はみな、生前は湯殿山の千人沢で修行していたのである。



 次の写真は、鶴岡の南岸寺の石碑。湯殿山と書いてある。「即身仏」はみな、生前は湯殿山の千人沢で修行していたのである。


 すべての「即身仏」に共通しているが、12年に一回衣替えをするという。
 ちょうど昨年がその衣替えの年に当たっており、どの寺でも、古い衣を細切れにして、特別なお守りのなかに入れて頒布している。

 この話の説明を受けても、とてもその特別お守りを買いたいという気持ちにはならなかった。なんせ、ミイラ仏が身につけていた衣である。これを間接的にせよ、肌身離さぬお守りとして自分の身につけるのは・・・。よっぽどの信仰がないかぎりその気にはならないだろう。信仰がなければ、たとえ購入したとしても効果も薄いだろう。

 なんだか、グロテスクな感じがして不快感を感じるのは、私に「即身仏」信仰がないためだろう。

 このあまりにも日本的ではない「ミイラ仏」、似たような存在に、カトリック世界には「聖遺物」(relics)信仰がある。聖者信仰の一環である。

 イエズス会の聖ザビエルの右手(=聖腕)は写真で見たことがあるが、五来重は戦後まもなく日本各地でベネディクションを行って巡回した際に見たが、異常な感を受けたことを書いている。
 私も、スペインのアビラの教会では、カルメル会の聖テレサの、瓶に入った手(?)の実物を見た記憶があるが、遺体を切り刻んであがめるという習慣は、一般的な日本人には違和感しか感じないのは不思議ではない。家畜を処理するのが当たり前の欧州では、さほど奇異なことではないのだろうが・・・

 また、カトリック世界では聖者信仰があるが、聖者に認定されることを列聖というが、その認定においては生前に数々の奇蹟を行っただけでなく、死後に遺体が腐敗していないことが条件とされる。現代医学を修めた医者が鑑定を行うことになっており、何年にもわたって厳密な科学的調査が行われるらしい。
 とはいえ、ここらへんの感覚も、アタマではわかっても、なんだかしっくりこないものを感じる。

 社会主義諸国のファウンダーたちが、いまでも廟内で祀られている。私はこれまで、モスクワの赤の広場でレーニン、天安門広場で毛澤東、ベトナムのハノイでは胡志明(ホー・チミン)の「聖遺体」もみたが、ミイラではなくエンバーミングを施した、みな蝋人形みたいな感じで痛々しかった。
 まだ見ていないのは、金日成(キム・イルソン)だけである。その機会があるかどうかわからないが。

 これら社会主義諸国の聖遺体は、間違いなくカトリック世界の聖遺体信仰の延長線上にあるものだろう。まだ、実際に見てはいないが、ルルドの奇跡で有名な聖ベルナデッタの聖遺体も表面を蝋で塗って保存されており、写真でみた限りでも生きた人間のようである。

 なお、「即身仏」の場合は、保存のため表面に漆を塗っているので、燻製みたいな感じに黒光りしている。

 さきに、「即身仏」は内蔵を取り出していないという話を聞いたことを紹介したが、一説によれば、これらのミイラ仏のうちの一部は、死後に臓物を取り除いてから、天上から鈎でつるし、護摩の炎と煙で燻製状態にしてミイラ化されたという。

 この話は、森敦の『月山』にもでてくるが、なんとなく、そうであっても不思議ではないような気がする。


即身仏とは何だったのか

 今回の旅に出る前に、すでに入手していたが読んでいなかったミイラ仏関連本を読み始めることとした。

 準備というわけでもないが、こういう機会を逃すと読む機会を半永久的に逸してしまう恐れがあるからだ。


 まずは、『増補 日本のミイラ仏(臨川選書)』(松本昭、臨川書店、2002、初版は 1993)。旅に出る前に読み終えたのは結局この本だけ。しかしこの本だけでも読んでおいて良かったと思ったのは、まず旅の初日に訪れた酒田で即身仏二体を拝礼する機会を得たからだ。この本で読んでおいた予備知識が役に立ったのは、単なる興味本位からではなく(・・もちろん知的好奇心が初発の動機ではあるが)、お寺さんの説明を聞いて質問もできたからだ。

 この本の著者の松本氏は、毎日新聞の記者として、ミイラ仏の学術調査にマスコミの立場から深く関与した経験をもっている人。それだけに1950年代に行われた学術調査の臨場感迫る記述は貴重である。

 庄内地方の湯殿山系即身仏を中心に書かれているが、冨士講の身禄行者のものや、中国や台湾の禅僧のミイラ仏についても言及されており、これ一冊で「日本のミイラ仏」がわかるハンドブックとなっている。


 『日本のミイラ信仰』(内藤正敏、法蔵館、1999)は、「庄内平野と出羽三山への旅」から戻る、鶴岡駅から新潟行きの特急いなほのなかで読み始め、乗り換えた上越新幹線が東京に着く前に読み終えた。

 読みながら思ったのは、この順番で読んで良かったということだ。

 著者の内藤氏は、写真家で民俗学者というだけでなく、大学では化学を専攻した経験を活かして、金属民俗学という分野を切り開いた人でもある。

 東洋の錬金術である錬丹術、高野山と弘法大師と水銀、これと出羽の湯殿山との関係など独特の視点から、ミイラ仏現象を幅広く統一的に把握、説明しようという試みの決定版となっている点が、知的好奇心をいたく刺激してくれる。

 以上の二冊を読むと、日本の「即身仏」は、厳密にいえば「ミイラ仏」ではない、ということが確認される。ミイラとは古代エジプトのものがその最たるものであるが、死者を永遠に保存するための手法であり、即身仏は生者が生きながらなったものなのでミイラではない。


 最後に、これは旅から戻ってきてから入手した本だが、『日本のミイラ仏をたずねて』(土方正志、酒井 敦=写真、晶文社、1996)。この本は現在品切れ中だが、古本で入手は可能。著者は、庄内地方以外の「ミイラ仏」についても訪れて紀行文を書いている。

 以上の三冊が、現在でも入手可能な一般書である。この三冊を読んで、実際に即身仏を見て回れば、それなりに掴むことができるはずである。私は、知的好奇心に応えてくれるという点では、最初の二冊だけで十分だと思う。

 松本氏がいっているように、ミイラ仏を専門に研究する人は、まだまだ未解明なことが多いのにかかわらず、もはや日本人にはいないらしい。むしろ外国人の研究者が熱心であるそうだ。まあそうであってもいいのではないかという気もする。

 日本人が科学的研究に専念するには、あまりにも多くのタブーが多すぎるような気がするからだ。私自身も含め、多くの日本人は「即身仏」には科学的な関心のほうが強いだろうが、信仰の対象である以上、なかなか即物的に取り扱うことも難しいものがありそうだ。

 学術調査はそれぞれ一回行われたきりである。
 

今回の旅のミッションがすべて完了し、ここから先もひきつづきタクシーで鶴岡駅へ、そして羽越本線特急で新潟まで、上越新幹線を乗り継いで帰京

 タクシー運転手から、「ここから先はメーター倒さないから、全部あわせて9千円で鶴岡までいきますよ」という申し出があったので、渡りに船とばかりに快諾する。注連寺と大日坊だけでもすでに8千円近くなっていたので、これは好都合だった。しかも、台風が九州接近中とのことで山形県も土砂降りの大雨になっていたので、ずぶ濡れになりながらのバス待ちは避けたいところだったのだ。

 運転手と「即身仏」の話をしていると、「行方不明の高齢者がらみで年金詐取事件が続発しているが、その端緒となった事件では当人が即身成仏するといっていた」ことなどが話題になる。やはり、「即身仏」の地に生きる運転手は、同じ関心があるのだなと納得。私も、年金詐取事件に対する怒りよりも、その老人がほんとうに「即身成仏」したのか、即物的な関心がある。メディアはなぜこの話題を掘り下げないのか?

 途中、国道が冠水していたために市内で迂回して鶴岡駅まで。猛暑日の続く関東でも、降ってくれるといいのだが…などと思いつつ。
 駅前のビジネスホテルまでクルマを回して貰い、ここで預けておいた荷物を引き取る。パソコンと本を預けておいたのだ。さすがに重いので、カタツムリのように担ぎ回るわけにはいかない。鶴岡駅前のビジネスホテルは、出羽三山の山行のベースキャンプとして活用できるのだ。

 鶴岡駅からは新潟駅経由で帰宅する。新潟まで在来線の羽越本線の特急列車、新潟からは上越新幹線に乗り継いで帰るのが時間的にも金銭的にも節約できる。高速バスのほうが安いが、さすがにまた夜行でで帰るのはくたびれるからパス。

 鶴岡駅午前11時発の羽越本線の特急は自由席でも十二分に座席はあった。進行方向右手の窓際に陣取り、日本海を車窓の右手に見ながら新潟まで。


 鶴岡と新潟間は、海岸線すれすれを走っており、気象条件によってはときどき不通になるというのもむべなるかな。
 日本海は、かつて福岡から城崎まで、城崎と西舞鶴は何度も、西舞鶴と敦賀は一度、敦賀から金沢までは一度、まだ一度もとおして走ったことはない。

 さて、ようやく15時20分に東京駅に到着。
 「上越新幹線で新潟から東京に戻る。東京駅で下車したとたんに熱風にあてられた。なんだこれは!生き地獄だよ…(posted at 15:23:22)」と twitter に投稿した私である。

 出羽三山で過ごした、比較的涼しい日々から一転、関東ではまだまだ猛暑日が続くのであった。


旅の終わりに

 今回の「庄内平野と出羽三山への旅」、非常に有意義なものであった。1週間と短い旅であったが、実に盛りだくさんの内容の旅であった。

 あまり東北地方には縁のない私にとって、自腹を切ってでもいくのはそう滅多にあることではないし、もしかするとこれが最初で最後だという気持ちで臨んでいる。
 旅から帰ってきてもしばらくの間、この文章を書いてきましたので、一粒で二度おいしい思いを味わうことができました。

 次回の「庄内平野と出羽三山への旅」が、いつになるかわかりませんが、何ごとであれ初体験というのは印象が強いもの。二回目以降の経験は、ほぼ間違いなくここまで詳細に再現して語ることはないと思います。

 その意味では、ブログという発表媒体をもっていることは実にありがたいものだと思う次第です。

 ブログというのは、まあいってみれば「個人雑誌」のようなものですから。編集長で執筆者で原稿打ち込みも校正も写真割り付けもすべて私一人で実行。
 手間がかかるといえばそのとおりですが、何を書こうと私が最終意思決定者。このセルフコントロール感は、何者にも代え難いものがあります。


 この紀行文(?)が、これを読んだ皆様に、何らかの形でお役に立てれば幸いです。長々と書いてきましたが、ご愛読ありがとうございました。 (完)



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(2014年8月25日、2015年7月28日 情報追加)




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2010年9月24日金曜日

庄内平野と出羽三山への旅 (11) 湯殿山で感じる「出羽三山の奥の院」の意味





湯殿山が「奥の院」であることの物理的な理由

 湯殿山は、まさに出羽三山の奥の院である。

 かつて信仰登山が中心であった頃は、羽黒山から歩いて月山を越え、月山から下って、やっとのことでたどりつくのが奥の院である湯殿山であったのだ。前回書いた芭蕉の『奥の細道』の旅の記述にあるとおりである。

 ただし、もちろん、江戸時代以降も鶴岡方面から歩いて巡礼する人たちは多かった。
 羽黒山と湯殿山は参詣者獲得を巡って競合関係にあり、江戸時代には訴訟も起こされて対立が先鋭化したこともあったらしい。
 私の場合は、芭蕉も含めた古人の跡を求めただけのことであるが、芭蕉のたどったコースだけが参拝コースではないことを明記しておく。


 なお現在では、道路が整備されているので、夏期のシーズン中であれば、鶴岡駅から庄内バスの直行バスがでているので直接いくことができる。クルマで1時間くらいだから、そう遠くはない。
 森敦(もり・あつし)の『月山』は、湯殿山麓の注連寺を舞台にした小説だが、戦後の昭和20年代にはすでにバスが開通したことが書かれていたから、いまでは鶴岡方面から日帰りでいくのが当たり前になっているのだろう。

 ところが、湯殿山周辺は、冬期は豪雪で完全に雪に閉じ込められてしまうという。除雪もされないので、湯殿山のご神体も参籠所の建物も、雪解けまで完全に雪のなかに埋もれてしまう。
 翌朝、参籠所に来てもらったタクシー運転手の話では、冬は完全に雪に埋もれてしまうらしい。何メートルもつもるのでアクセス不能。幹線道路は除雪するが、湯殿山神社への道は除雪はないので冬期は完全閉鎖。
そんな雪深いというのは私のイマジネーションを越えている
 このこともまた、「奥の院」という性格を示すものといえよう。

 湯殿山参籠所に予約の電話をいれたとき、「いちおう15時を予定しているが、何時に入るかわからない」というと「下ってくるんですね」と即答されたのは、そういう状況が背景にあるのだろう。わざわざ宿泊するのは、湯殿山で祈祷をお願いする人か、観光コースのなかでそこに宿泊するかに限られるのだろう。参籠所前は観光バスが何台も横付けできるスペースが用意されている。


湯殿山が「奥の院」であるほんとうの理由-「神仏習合」いや「神仏併存」?

 「出羽三山の奥の院」と呼ばれてきた湯殿山は、形態としては神仏分離を崩していないものの、実態としては神道と仏教が併存しており、神仏習合よりも、なおいっそう不思議で、奇妙な様相を呈している。

 そのことを実感できるのが、湯殿山参籠所である。
 この参籠所は、実に不思議な宿である。参籠所であるから、当然といえば当然なのであるが、参籠所の一階には畳敷きの大部屋の祈祷所がある。


 この祈祷所で、神主(?)が、神式(・・写真の真ん中)と仏式(・・写真の左側、卒塔婆が並んでいる!)の両方で勤行を行う声が参籠所中に響きわたる。定時の勤行開始時には、ドンドンと太鼓が打ち鳴らされ、そのあと祝詞とも読経ともつかぬ声が参籠所のなかを響き渡るのである。まさに不思議空間である。


 祝詞なのか読経なのかよくわからないが、これをすべて一人で兼ねるのは、そもそもの姿なのか私には知るよしはない。

 「神仏習合」はコトバでは知っていても、これほど明らかに実行している例はみたことがない。
 出羽三山のなかでも、湯殿山はやはり例外的なポジションというべきなのではないか。

 実は、ご神体について書いた際に、ご神体のある祠では、神だけでなく仏も祀られていることには触れなかった。
 神社の境内(?)に、卒塔婆が大量にある祠がある。これは先祖祭祀の祈祷を行う場所であるが、なんか不思議な印象がぬぐえないのは、私が「神仏分離後」の世界に生きる、ごく一般的な日本人であるためだろうか?
 なんだか、水木しげる先生が描く、前近代のおどろおどろしい世界のようでもある。
 合理主義時代に生きるわれわれは、不可思議ものに対する人間の「耐性」を低下させてしまっているのかもしれない。
 
 さらにまた、湯殿山は行者修行のメッカであった。この件については、次回(12)で詳しく書くことにするが、即身仏(ミイラ仏)となるべく修行を行った一世行者たちの修行のあとが、参籠書前にいまでも残っている。
 千日や三千日を、五穀断ちに。。。という厳しい修行をここ、湯殿山に籠もって修行を行った行者たち。
 湯殿山がもつイメージを、おどろおどろしたものにしているのは、これらかつての修行者たちの・・・であろうか。

 湯殿山は、かつての命懸けの修行の地としても、まさに「奥の院」というのにふさわしい。


成田山新勝寺の成田修験と湯殿山との関係


 千葉県の成田山新勝寺(真言宗)と湯殿山権現の関係については、成田山新勝寺「断食参籠(さんろう)修行」(三泊四日)体験記 (3) 断食体験初日-いよいよ断食修行に入る には以下のように書いているので再録しておこう。

(山伏姿の成田修験)

なお、写真はいずれも今年(2010年)の成田祇園会の際に撮影した、山伏姿の成田修験である。

 私が寝泊まりしていた男子参籠堂は、二階建ての建物で、一階がが男子断食道場、二階が成田山修法師(先達)の修行道場となっている。
 ちなみに修法師(先達)とは、加持祈祷(かじきとう)を行う山伏姿の行者(ぎょうじゃ)で、荒行を行い修行する僧侶のことである。成田山新勝寺はもともと出羽の湯殿山権現と密接な関係をもっており、密教と修験道がきわめて密接な関係にあることを示している。
 二階の修行道場は、たまたま翌日のご縁中に掃除のため入ることができた。立派なお不動様が鎮座した部屋であった。

 たまたま、私が断食参籠修行をしていた時期がちょうど成田祇園会に重なっていたのだが、山車(だし)が何台も繰り出す勇壮な祭礼である。

 この成田祇園会は現在では、奥の院のご本尊大日如来の祭礼になっているが、もともとは湯殿山権現の祭礼として始まったものだという。

 成田山もまた、「神仏分離」によって湯殿山権現社が切り離されてからは、新勝寺の祭礼となっているが、お寺なのに山車が曳かれる祭礼であるのは、そういう歴史があるからだ。「神仏分離」されたとはいえ、成田山の場合はうまくやり過ごしたといえそうだ。これは密教の真言宗の性格が大いに反映しているのかもしれない。

(紫の袈裟を着た高僧と山伏姿の成田修験)

 湯殿山権現は、JR成田駅前にあり成田山が管理している。現在では小さな祠と多くの石碑が立っているが、祇園会の御輿はここで一泊するとのことである。

 湯殿山の本地仏は大日如来と説明書にはある。成田山新勝寺は真言宗豊山派、湯殿山麓の大日坊は真言宗豊山派、酒田の海向寺は真言宗智山派である。真言密教と修験道の関係は深いといっていいのだろう。

 詳しいことはよくわからないが、成田修験と湯殿山修験の関係は深そうだ。

 湯殿山修験の信仰圏は、関東は現在の千葉県まで及んでいたといわれる。

 たとえば、茨城県日立市出身の宗教民俗学者・五来重は、『新版 山の宗教 修験道』(五来重、淡交社、1997)のなかかで、三山詣に際して精進潔斎が行われていたことを、子供の頃の思い出として書いている。

 また、『出羽三山 山伏の世界』(片山正和、新人物往来社、1985)を書いた朝日新聞記者も、転勤で千葉県銚子市に住んでいたときに、お札を配る山伏の訪問を受けたことを記している。また、「秋の峰入り」に毎年参加している、船橋市で祈祷師をやっている人のことを取材紹介している。

 こういう意味でも、千葉県に住んでいる私は、湯殿山に対する興味は俄然増していたのである。ぜひ実際に歩いて、この目で見てみたいと思っていたのである。



 では、次回 (12) はいよいよ最終回で「即身仏」(ミイラ仏)について。湯殿山から即身仏の寺を回って鶴岡駅へ。あわせて、即身仏(ミイラ仏)についての感想をまとめておきたいと思う。



PS 若干の字句の修正と、成田修験関連の写真の大判化を行った。(2014年9月26日 記す)


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・・成田山新勝寺の成田修験

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2010年9月23日木曜日

庄内平野と出羽三山への旅 (10) 松尾芭蕉にとって出羽三山巡礼は 『奥の細道』 の旅の主目的であった





 これまでも何度も書いてきたが、松尾芭蕉は、『奥の細道』の旅において、出羽三山を巡礼している。元禄二年(1691年)のことである。旧暦6月3日に羽黒山に入っている。

<羽黒>

 六月三日、羽黒山に登る。図司左吉(ずし・さきち)と云者を尋て、別当代会覚阿闍利に謁す。南谷の別院に舎(やど)して、憐愍の情こまやかにあるじせらる。

 四日、本坊にをゐて誹諧興行。

  有難や雪をかほらす南谷

 五日、権現に詣(まうづ)。当山開闢(かいびやく)能除大師(のうぢょたいし)は、いづれの代の人と云事をしらず。延喜式に「羽州里山の神社」と有。書写、黒の字を里山となせるにや。羽州黒山を中略して羽黒山と云にや。 出羽といへるは、「鳥の毛羽を此国の貢に献る」と風土記に侍(はべる)とやらん。月山、湯殿を合て三山とす。当寺武江東叡に属して天台止観の月明らかに、円頓融通の法の灯かゝげそひて、僧坊棟をならべ、修験行法を励し、霊山霊地の験効、人貴且恐る。繁栄長にしてめで度御山と謂つべし。

 八日、月山にのぼる。木綿(ゆふ)しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに 道びかれて、雲霧山気の中に氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶身こゞえて頂上にいたれば、日没て月顕る。笹を鋪篠を枕として、臥て明るを待。日出て雲消れば、湯殿に下る
 谷の傍に 鍛治小屋と云有。此国の 鍛治、霊水を撰て爰に潔斉して劔を打、終(つひに)「月山」と銘を切て世に賞せらる。彼龍泉に剣を淬とかや。干将莫耶のむかしをしたふ。道に堪能の執あさからぬ事しられたり。岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花爰にかほるがごとし。行尊僧正の哥の哀も爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ。惣而此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとゞめて記さず。坊に帰れば、阿闍利の需に依て、三山順礼の句々短冊に書。

  涼しさや ほの三か月の 羽黒山

  雲の峯 幾つ崩て 月の山

  語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな



  湯殿山銭ふむ道の泪かな  曾良

(出典)Japanese Text Initiative Oku no Hosomichi および 『芭蕉 おくのほそ道』(萩原恭男校注、岩波文庫、1979) 太字ゴチックは引用者=私)



 荒俣宏は『「歌枕」謎ときの旅ー失われた幻想の地へ-』(荒俣宏、光文社知恵の森文庫、2005)のなかで、「芭蕉が出羽三山の拝礼を旅のピークに設定した」のではないかという仮説を示している(P.220)。

 もしそうであったとすれば、芭蕉の『奥の細道』の旅の意味を考える上で、きわめて重要な指摘だといえるだろう。出羽三山は「死と再生」の重要な霊場であったからだ。「死と再生」といえば、小栗判官蘇り伝説の熊野もそうであるが、出羽三山のほうは、死んで再び生まれる(新生する)という性格が強いようだ。芭蕉もそこを狙ったのか。

 たしかに、『奥の細道』を最初の1ページからたどってみると、出羽三山の巡拝がピークであり、クライマックスであることは理解できる。

 出羽三山とその後に続く象潟(きさがた)訪問にいたる前半と、それ以降の後半の密度がかなり違うことに気がつかされるからだ。前半は旅の喜びと決死の覚悟、悲壮感がないまぜになった複雑な感情に彩られているのに対し、後半はとにかく目的を達成して、旅をこなしているという印象が否定できなくはないからだ。
 前半で詠んだ俳句のほうが有名なものも多い。もちろん後半に詠んだ俳句や旅のエピソードなど面白いものも多いが、感情の陰翳という点では前半が勝っているような気がする。後半は、上方に近づくにつれて、故郷に帰ってきた安心感(・・芭蕉は忍者の里・伊賀上野生まれ)のようなものが感じられる。


 修験道にも造詣の深い日本宗教研究者の久保田展弘は、『日本の聖地-日本宗教とは何か-』(久保田展弘、講談社学術文庫、2004 単行本初版 1994)のなかで、このようにいっている(P.322~323)

 全行程二千四百キロを百五十六日かけて行脚した『奥の細道』行で、芭蕉は三山滞在中に四句を記している。先の一句(・・引用者注;「27 語られぬ湯殿に濡らす袂かな」)と左記の三句である。

 24 有難や雪をかをらす南谷
 25 涼しさやほの三日月の羽黒山
 26 雲の峰幾つ崩れて月の山


 片雲の風にさそわれて旅だった『奥の細道』行の全旅程に五十句を配した芭蕉は、出羽三山での四句を、出発に際して詠んだ「草の戸も住替る代ぞひなの家」から数えて、ぞれぞれ二十四・二十五・二十六・二十七句目に当てている
・・(中略)・・
 芭蕉の『奥の細道』行脚にとって、出羽三山の巡礼は、あるいはその時代における体験修行であったと解することもできるかもしれない。私は、俳人芭蕉の旅を支えていたものは、一貫して修験者的な意欲と感性にあると考えている。その芭蕉が出羽三山で、五十句の折り返し点に配した四句を詠み、そのなかに「雲の峰幾つ崩れて月の山」などの、森羅万象を内面に受けとめたような句のあることは、芭蕉に三山詣での体験の反映が、感性深くにまであったと見なけれならない
 木綿しめ(注連)をかけて、強力(ごうりき)に導かれ、「雲や雫山気のなかに、氷雪を踏んで登るこ
と八里ばかり、さらに日や月の通路である雲関に入るかと疑われるほど、呼吸も苦しく、身もこごえ、ようやく頂上に登ると・・・・・」と月山登拝の苦しさを記したが、それはまさに峰入り修行の山駆けを体験しているに等しい修行ぶりだった。

(注:引用は講談社学術文庫版から。太字ゴチックは引用者=私による。また芭蕉の句の前につけたナンバリングは私による)


 文学作品としての『奥の細道』は、この旅が終わってから3年後に亡くなっているので死後の出版になる。旅が終わってから3年近く推敲に推敲を加えた上で完成した文学作品である。芭蕉はこの作品を、精緻に構築していたことが、久保田氏の記述から知ることができる。

 なお、芭蕉一行は、尾花沢から、「閑かさや岩にしみ入(いる)蝉の声」で有名な立石寺を経て、最上川を下るルートで羽黒山に入っている。月山から湯殿山まで往復しているようだ。健脚である。もちろん強力に荷物は背負わせていたようであるが。

 われわれが「山伏修行体験塾」で着た道着に宝冠の行者姿(・・この格好については、(6) に掲載した私のポートレートを参照)は、芭蕉も同じ格好で羽黒山や月山に登ったことを知れば、『奥の細道』の読みも深まるというものだろう。

 芭蕉一行は、月山山頂には日没に合わせて登ったようにも思われる。月山山頂から真西は日本海、日本海に沈む夕陽をみながら、月山において東の空に月を見る。
 月山が山中他界であったことを考えれば、神秘的で幻想的というだけにとどまらず、信仰を感じる瞬間であったのだろうと想像している。

 なお、芭蕉が月山山頂で宿泊した藁葺きの小屋は、いでは文化記念会館に模型が展示されており、内部に入って当時を体感することができる。山頂の気温はそうとう下がったことであろうから、芭蕉たちの旅もなまはんかなものではなかったであろう。

 芭蕉一行は、『奥の細道』には直接書かれていないが、羽黒山から月山山頂を経て湯殿山に下ったあとは、また同じ道を通って羽黒山に戻っている。

 当時はもちろん、女人禁制の聖地であったことを記しておく。



<ブログ内関連記事>

行く春や 鳥啼き 魚の目は泪 (芭蕉)
・・芭蕉の『奥の細道』の旅、その最初の一歩について書いた。

グルマン(食いしん坊)で、「料理する男」であった折口信夫
・・小栗判官と蘇りについて。餓鬼阿弥の話。


 では、次回 (11) では、湯殿山で感じる「出羽三山の奥の院」の意味について 書いてみる。



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