偉大な功績をあげた割には一般的に知られていない、明治時代の日本人を主人公にした伝記小説である。
この歴史小説の主人公の名は高木兼寛(たかき・かねひろ)。おそらく彼が創設者であった慈恵医大関係者などの例外を除けば、一般にはなじみがないものだろう。
かつては日本人を大いに苦しめてきた脚気(かっけ)という病気をめぐり、その撲滅を使命として予防法の究明と確立に情熱を燃やした人だ。脚気患者の撲滅によって、日清・日露の両戦争においては海軍の勝利に裏方として多大な貢献をなした軍医であった。慈恵医大や看護学校の創設、生命保険会社創設への参加など、日本近代化に多大な貢献をなしている。
「皇国の興廃この一線にあり」で有名な日本海海戦も、海軍将兵の脚気対策が大幅に進んでいたからこそ勝利が可能になったのだ。脚気患者が大量に発生していたのでは、とても戦える状況ではない。将兵の健康は戦争を勝利に導くためのソフトウェアであったのだ。戦争はハードウェアだけで戦われるわけではない。
まさに一国の運命を決定する戦いの背後には、高木兼寛という熱い思いと不屈の信念に支えられた軍医がいたのである。
高木兼寛(1849~1920)は、幕末に薩摩藩の郷士(ごうし)として生まれた人。父親は大工で生計を立てていた手わざの人でもあった。向学心が高く、医学を学ぶことのできた彼は、戊辰戦争では薩摩藩軍医として会津まで転戦し、負傷した将兵の治療にあたる。
戦場では敵味方をこえた悲惨な状況に心を痛めるとともに、目の前で苦しむ負傷者に適切な治療を行うことのできない悔しさをいやというほど味わうことになる。これが医者としての高木兼寛の原点となる。
「薩摩の海軍」というフレーズがあるが、薩摩出身の高木兼寛もまた、草創期の日本海軍に軍医としてかかわることになる。この事実がきわめて重要だ。薩英戦争で互角に戦いながら英国の実力を心底から悟った薩摩藩は、英国との関係を密接にもつようになりった。だからこそ海軍なのであり、それが英国流の実践性を重んじた医学へとつながり、英国への留学でさまざまな医療実践の実態を知ることになったのであった。
よく知られているとおり、かつて日本の医学は圧倒的にドイツ医学の影響下にあった。医学の頂点に立っていた東京帝国大学、ドイツ陸軍の圧倒的影響のもとにあった陸軍がドイツ医学を採用したのに対し、高木兼寛もその一人であった海軍のイギリス医学は、日本ではマイノリティの立場にあったのである。
(海軍時代の高木兼寛 wikipediaより)
そんな海軍軍医の高木兼寛の人生のハイライトは、なんといっても脚気の撲滅と予防医学の実践にあった。
統計によるデータ分析をベースにした方法から見出した白米摂取と脚気との関係。メカニズム究明にまではいたらなかったものの、あきらかに脚気発病と相関関係にある白米摂取を減少させたことで海軍の脚気患者は激減したのであった。この間の高木兼寛の情熱的な奔走振りには大いに感銘するものがある。
だが、海軍軍医の高木兼寛の「食物原因説」の前に大きく立ちはだかったのが、帝国大学医学部と陸軍軍医部の中心にいた森林太郎の「細菌原因説」であった。森林太郎とは、文学者の森鴎外のことである。森鴎外は本書の主人公ではないが、そのプライドの高いエリート官僚ぶりには辟易するものを感じる読者も少なくないだろう。
脚気患者を大幅に減少させたという実績を出し、日本国民からも評価されていたにもかかわらず、学理的にあらずという理由で拒否し続けた日本の医学界。しかし同時代の英米の医学会では高木兼寛の業績を独創的であるとして高く評価していたという内外の認識ギャップの存在。読んでいてやりきれない思いをするのはわたしだけではないだろう。
森鴎外にくらべて知名度がはるかに劣る高木兼寛だが、こと医学の発展と独創的発想という点においては、はるかに勝る存在であったことをアタマのなかにいれておきたいものである。高木兼寛の業績は、その後のビタミンの発見につながるのである。このような人物をもったことは日本にとってはきわめて大きなことであった。
地味なテーマで淡々とした記述であるのにかかわらず、読み進むにつれて高木兼寛の情熱に共感、共鳴していくことを覚えることだろう。
「目の前にいる患者を救いたい」、という医療の原点。そのために「医学を本格的に学びたい」という強烈な思い、そして医療をつうじて社会に広く貢献したいという思い。これらの「医の原点」を高木兼寛という激動の時代に生きた一人の人物に見出すからなのだ。
作家・吉村昭氏の精力的な発掘のおかげで、高木兼寛という知られざる人物とその業績について知ることができるのである。すでに故人となった吉村氏にもおおいに感謝しなくてはならない。
<関連サイト>
高木兼寛関連 - 東京慈恵会医科大学
・・慈恵医大では高木兼寛は「学祖」とされている
高木 兼寛(ビタミンの父)|宮崎県郷土先覚者
板倉聖宣『模倣の時代』仮説社、1988年 (科学史入門講座)
・・脚気論争を扱った科学史の大著の「目次」と内容紹介
<ブログ内関連記事>
書評 『三陸海岸大津波』 (吉村 昭、文春文庫、2004、 単行本初版 1970年)-「3-11」の大地震にともなう大津波の映像をみた現在、記述内容のリアルさに驚く
■戊辰戦争における薩摩と会津
NHK大河ドラマ 『八重の桜』がいよいよ前半のクライマックスに!-日本人の近現代史にかんする認識が改められることを期待したい
「敗者」としての会津と日本-『流星雨』(津村節子、文春文庫、1993)を読んで会津の歴史を追体験する
■佐倉順天堂は幕末から明治時代初期にかけての西洋医学の人材を輩出
幕末の佐倉藩は「西の長崎、東の佐倉」といわれた蘭学の中心地であった-城下町佐倉を歩き回る ③
・・オランダ医学を佐倉順天堂で学んだ医師たちが、幕末から明治時代にかけての日本近代医学の基礎をつくった。ドイツ医学への流れを決定的にしたのは、佐倉順天堂の関係者である
書評 『オランダ風説書-「鎖国」日本に語られた「世界」-』(松方冬子、中公新書、2010)-本書の隠れたテーマは17世紀から19世紀までの「東南アジア」
・・・なぜ17世紀オランダが世界経済の一つの中心地であったのか、その理由の一つが日本との貿易を独占していたことは日本人の常識とならねばならない
■英国と薩摩の海軍
海軍と肉じゃがの深い関係-海軍と料理にかんする「海軍グルメ本」を3冊紹介
■明治天皇と昭憲皇太后
「エンプレス・ショーケン・ファンド」(Empress Shoken Fund)を知ってますか?-国際社会における日本、その象徴である皇室の役割について知ることが重要だ
・・慈恵医大の「慈恵」は昭憲皇太后から賜ったもの
「聖徳記念絵画館」(東京・神宮外苑)にはじめていってみた(2013年9月12日)
・・乃木大将と同様、高木兼寛もまた、明治天皇によって心を支えられた人であった
■「脚気と兵食問題」の論争相手であった森林太郎
語源を活用してボキャブラリーを増やせ!-『ヰタ・セクスアリス』 (Vita Sexualis)に学ぶ医学博士・森林太郎の外国語学習法
・・文理融合の・・・ともいうべき森鴎外であったが、なぜ脚気論争では細菌説に固執し、結果として大量の脚気死亡者を陸軍で発生させるにいたったのか? 組織人としての森林太郎の限界
書評 『正座と日本人』(丁 宗鐵、講談社、2009)-「正座」もまた日本近代の「創られた伝統」である!
・・明治時代になってから普及した「正座」。明治時代になってコメを食えるようになってから増大した「脚気」。この意味をよく考える必要がある
(2016年3月18日 情報追加)
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