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2014年11月30日日曜日

書評『裁判官と歴史家』(カルロ・ギンズブルク、上村忠男・堤康徳訳、ちくま学芸文庫、2012)ー 初期近代の「異端審問」の元資料を読み込んできた歴史家よる比較論



歴史家と裁判官は、資料をもとに事実関係を明らかにする職業であるという点では共通するものがある。
  
裁判官は公平無私との原則があるので、特定の立場から自分たちに有利に事を進める検察官や弁護士とは違う、とはよくいわれることだ。だが、じっさいには裁判官の公平無私という立場はタテマエの場合は少なくない。神ならぬ人間である以上、バイアスがかかるのは当然だし、100%公正な判断など下せるわけがない。

歴史家も公平無私という立場で事実に向かい合い、史実にかんするジャッジを行っているとみなされがちだ。この点において裁判官(=ジャッジ)と同じだと思われている。だが、裁判官と同様、じつはかならずしもそうではないことが多い。生きている時代やその本人の思想傾向によるバイアスが生じるのは当然といえば当然だ。

裁判官と歴史家には共通点もあるが、根本的な違いがある。

事実関係を明らかにして解釈し下し判断を示すことは共通していても、歴史家は判断材料を提供することはできるが、他者の人生を左右する意志決定まで踏み込むことはない。あくまでも間接的な仕方で影響を与えるのみだ。

一方、裁判官が下した結論は判決という形で、被告人という他者の人生に多大なる影響を与える。裁判官と歴史家の違いは、影響力が直接的か間接的かという違いであるが、裁判官の権力の根源は、司法制度という制度の枠組みのなかで担保されている。

そう考えていくと、裁判官は検察官や弁護士とそう大きくかけ離れた存在ではないし、歴史家もまた裁判官と対比されるだけでなく、検察官や弁護士と対比して考えることも不可能ではない。


初期近代の「異端審問」の元史料を読み込んできた歴史家よる比較論

これくらいの対比であれば、なにも 『裁判官と歴史家』(Il giudice e lo storico)なるタイトルの本を読むまでもないだろう。

だが、本書を読む意味があるのは、歴史家の親友が巻き込まれた20世紀後半の裁判事件を徹底的に検証する作業をつうじて、裁判官と歴史家の共通点と相違点を考察している点にある。

しかも、著者のカルロ・ギンズブルクは、ミクロストーリア(=マイクロヒストリー)という歴史学方法論を開拓し、魅力的な歴史書を発表してきた現代イタリアを代表する歴史家だ。わたしも異端審問記録を徹底的に読み込んだ成果である、『チーズとうじ虫-16世紀の一粉挽屋の世界像-』『ベナンダンティ-16~17世紀における悪魔崇拝と農耕儀礼-』など、初期近代のヨーロッパを生き生きと描いた作品には魅了されてきた。

親友が被告となった裁判記録を解読した感想として、歴史家としての出発時点から読み込んできた17世紀から18世紀という初期近代の異端審問記録との類似性に言及しているのは、その意味では当然といえば当然なのである。

裁判をつうじて歴史が形成される、あるいは歴史が捏造されていくプロセスを、20世紀後半の裁判記録に読み取っているのである。


(イタリア語2006年新版カバー 著者の親友アドリアーノ・ソフリ)


イタリア現代史というコンテクスト

裁判が扱っているイタリア現代史は、ドイツや日本と共通する点が多い。1960年代から1970年代にかけて激しい政治対立がテロリズムにまで発展した、いわゆる急進派の新左翼による極左テロである。

歴史家の親友は新左翼の活動家であったが、その後は足を洗っていた。だが、事件から16年後に突然出現した「告発者」の「自白」によって、警視殺害事件の黒幕とされ、裁判に巻き込まれることになる。

本書執筆のそもそもの動機の第一は、親友の無実を晴らしたいという歴史家の「個人的動機」である。

日本人読者にとっては縁のない話であるし、よほどイタリア好きか、イタリア現代史に深い関心をもっている人でなければ、極左組織「赤い旅団」による1978年のモロ元首相誘拐暗殺事件に代表される極左テロ事件の詳細については、それほどつよい関心はないだろう。わたしも、もちろん同様だ。そもそも、わたしは左翼にも新左翼にもなんの共感も感じない。

イタリアの司法制度や、警察と憲兵(=カラビニエーレ)の違いなど、日本の制度とは大きく異なる点も多いので、ディテールを理解するのはやっかいだ。イタリアの政治は複雑怪奇で・・・ その点は日本でも京都など伝統ある地域と似たようなものだ。

そもそも日本の現実でさえ理解するのがむずかしいのに、ましてやイタリアの状況を正確に理解することなど専門家でもなければ困難であるし、また関心もないだろう。

歴史家の親友が「冤罪」なのかどうかも、わたしには判断しかねるし、それほど関心があるわけではない。



■「歴史学方法論」の考察として読む

歴史家の個人的な動機が個人的なものであったとしても、この動機が本書誕生のキッカケとなっただけでなく、この事件の解読をつうじて著者自身の歴史学方法論にかかわる考察が展開されているので読む価値があるのだ。

その意味では、「2. 裁判官と歴史家」、「6. 歴史的実験としての裁判」、「18. ふたたび裁判官と歴史家について」という3つの章が面白い。わたしが面白いと思った点をいくつか紹介しておこう。

まずは、「2. 裁判官と歴史家」では、古代ギリシアに出現した歴史(=ヒストリア)というジャンルは、「医学」と「法学」(・・とくに法定陳述としての「弁論術」)が交叉する地点で構成されるという指摘が興味深い。歴史の陳述においては、人物を生き生きと表象する能力が求められていたのであり、歴史学と証拠物件を扱う古物研究とは18世紀後半まで、それぞれ相互に独立していたのだという。

「6. 歴史的実験としての裁判」では、資料に語らせるためには、明確な見取り図と作業仮説が必要だという歴史家リュシアン・フェーヴルの文章を引用しながら、司法関係者と同様、歴史家においても「適切な質問を提出して訊問する能力」が必要なことが指摘される。

「18. ふたたび裁判官と歴史家について」においては、そもそも「歴史」と「人物伝」は古代ギリシア以来、異なるジャンルとして発展してきたことを指摘し、世界史と一体化した英雄を扱った「政治史」から、「事件史」を経て、隠蔽されてしまった次元を示唆するために開発された歴史学の技法としての「社会史」に至る推移について語っている。

社会史においては、欠落した事実を推測するためのコンテクストが重要である。アイリーン・パウアーとナタリー・デイヴィスという、世代の異なる英米の女性歴史家の詳細な対比が具体的で興味深い。前者は、英国中世史を題材にした『中世に生きる人々』、後者はフランス近世史を題材にした『帰ってきたマルタン・ゲール-16世紀フランスのにせ亭主騒動』が代表作である。



裁判官が歴史家となることの危険性

歴史家が裁判官になる時代は終わっていると著者はいう。それは倫理的な意味でそうあるべきという主張のようにも聞こえるが、歴史家の役割が変化したことが背景にあるのだろう。つまり歴史家の社会的役割が大幅に減少したということだ。

むしろ、裁判官が歴史家となる危険のほうが大きいかもしれない。裁判の判決をつうじて実質的に歴史が形成されるからだ。あるいは冤罪判決がひっくり返らないまま、歴史が捏造されるといっても差し支えないケースも少なくない。最高裁までいって判決が下されると、もはや司法制度の枠組みのなかでの「歴史書き換え」は困難になる。

17世紀の異端審問と同様、後世の歴史家があらたなコンテクストのもので、史料の「読み換え」をつうじてはじめて可能となることだ。いや、じっさいにはそのような「読み換え」すら起こらないことのほうが圧倒的に多いというべきか。

「歴史家は理解、裁判官は判決」を行うという著者の指摘は、まさにそのとおりだ。現実世界においての歴史家のチカラには限界がある。人々のパーセプションを変えるのは、きわめて困難な課題なのである。

本書が提起しているテーマに「告発者の自白」というものがある。

複数の証言をもとに事実関係を明らかにすることよりも、自白の内容を重視する傾向は、著者が批判している親友の裁判だけでなく、17世紀の異端審問にも見られるものだ。魔女のサバト、空中飛行を見たという告発や証言、魔女とされた人の自白。

自白と証言は似て非なるものだが、日本の裁判制度では、自白が過度に強調されている。いわゆる「被疑者泥を吐かせ」てえられた自白を重視する傾向である。

現代のイタリアにおいても、自白に見られる心理的動機が重視される傾向がなくもないことを著者は指摘しているが、自白と証言の関係については考えなくてはならない問題が多い。

著者は、古代ギリシアにおいて歴史が医学と法学の交叉する点に出現したと指摘しているが、医学と法学のまさに核心にある因果関係の議論には深く突っ込んでいない。

この点をさらに深掘りすると、さらに面白い議論になるのではないかと個人的に考えている。


 
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目 次

新版へのまえがき
序文
 1. 窓から舞い落ちた死体-十六年後の告発
 2. 裁判官と歴史家
 3. 予審判事ロンバルディの報告
 4. 裁判長ミナーレの追及
 5. 殺害指示
 6. 歴史学的実験としての裁判
 7. 謎の十七日間
 8. 憲兵たちの証言
 9. 闇に包まれた夜の面談
 10. ヴィンチェンツィ司祭の証言
 11. いつ始まったのか
 12. 記録からもれた面談
 13. マリーノの動揺
 14. 陰謀はあったのか
 15. 目撃証言
 16. 第三の説明
 17. ミナーレ裁判長と異端審問官
 18. ふたたび裁判官と歴史家について
 19. 結論
後記
新版へのあとがき
年譜
訳者あとがき
ちくま文芸文庫版への訳者あとがき
原注


著者プロフィール

カルロ・ギンズブルグ(Carlo Ginzburug)
1939年生まれ。イタリアの歴史家。ミクロストーリア(=マイクロヒストリー)の創始者。ボローニャ大学教授、カリフォルニア大学ロスアンジェルス校教授、ピサ高等師範学校教授などを歴任。著書に『チーズとうじ虫-16世紀の一粉挽屋の世界像』『歴史を逆なでに読む『糸と痕跡』など。(出版社サイトより)




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左派による世界的な「革命幻想」の時代

マンガ 『レッド 1969~1972』(山本直樹、講談社、2007~2014年現在継続中)で読む、挫折期の「運動体組織」における「個と組織」のコンフリクト

映画 『バーダー・マインホフ-理想の果てに-』を見て考えたこと
・・ドイツ赤軍を描いたドイツ映画

「航空科学博物館」(成田空港)にいってきた(2013年12月)-三里塚という名の土地に刻まれた歴史を知る
・・成田空港闘争の史実や反対派のヘルメットなどを展示した資料館「成田空港 空と大地の歴史館」についても紹介しておいた

書評 『革新幻想の戦後史』(竹内洋、中央公論新社、2011)-教育社会学者が「自分史」として語る「革新幻想」時代の「戦後日本」論


イタリア現代史

書評 『プリーモ・レーヴィ-アウシュヴィッツを考えぬいた作家-』(竹山博英、言叢社、2011)-トリーノに生まれ育ち、そこで死んだユダヤ系作家の生涯を日本語訳者がたどった評伝
・・ギンズブルクと同じくイタリア北部トリーノに生まれ育ったユダヤ人であるプリーモ・レーヴィは、ギンズブルクの20歳年長

書評 『バチカン株式会社-金融市場を動かす神の汚れた手-』(ジャンルイージ・ヌッツィ、竹下・ルッジェリ アンナ監訳、花本知子/鈴木真由美訳、柏書房、2010)
・・イタリア政治経済の複雑怪奇さが集約的にあらわれているのがバチカン銀行

(書評再録) 『ムッソリーニ-一イタリア人の物語-』(ロマノ・ヴルピッタ、中公叢書、2000)-いまだに「見えていないイタリア」がある!

書評 『想いの軌跡 1975-2012』(塩野七生、新潮社、2012)-塩野七生ファンなら必読の単行本未収録エッセイ集


あたらしい歴史学としての「社会史」

書評 『向う岸からの世界史-一つの四八年革命史論-』(良知力、ちくま学芸文庫、1993 単行本初版 1978)-「社会史」研究における記念碑的名著


証言と自白の違い

『形を読む-生物の形態をめぐって-』(養老孟司、培風館、1986)は、「見える形」から「見えないもの」をあぶり出す解剖学者・養老孟司の思想の原点
・・「証人が、その事態について、感情の上で同意か不同意かを、日本語は見事に表現してしまう。そうしないためには、日本語ならざる日本語、つまり官庁式答弁をするほかはない。他方、現実のその事態がどんなものかについては、ややいい加減で済む。だから、われわれは伝統的に自白を重視する。これは言語の特性だから、しかたがない。日本語は、使用者の心理状態と、ことばとの間の関節が固いのである」  告発者の「自白」と心理的動機の関係について考察するヒントになる


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2014年11月29日土曜日

書評『1914年 ー 100年前から今を考える』(海野弘、平凡社新書、2014)ー「センチュリー」(=100年)の最初の「デケイド」(=10年)をハード・ソフトの両面から振り返る


ことし2014年は、第一次世界大戦が勃発してから百年。さまざまな機会に振り返りが行われているが、一般的な日本人が想像する以上に、第一次世界大戦が時代の「大転換」になったことは、あらためて強調しておきたい。1914年当時は「第一次」でなく、人類がはじめて体験した「世界大戦」であったのである。

この本は、文化史から出発して百冊以上の本を出してきた博識の著者が、1914年に始まる「センチュリー」(=100年)の最初の「デケイド」(=10年)を振り返ったものだ。1914年についてのみ書かれた本ではない。

新書本なので、深く突っ込んだ議論がなされているわけではないが、1914年が大転換点になったことをさまざまな側面から見るオムニバス方式の内容だ。

二部構成で、前半は政治経済と軍事、情報といったハードな側面後半は、文化というソフトな側面から。1914年からの最初の10年について要領よく知りたい人は、前者はコンパクトにまとまっているので、これを読むだけで十分だろう。

ただし事実誤認と思われるような点や、参照や依拠している文献の問題点を感じざるをえない箇所が散見される。治安維持法関連の項目など、最新の研究成果を踏まえているとは言い難い。日本関連のことにかんしては、一言でいえば史観が古くさいのだ。

第一次世界大戦については、2014年には、あらたに何冊も出版されているので、別の本を読むことを薦めたい。これらについては後日このブログでも取り上げる予定だ。

むしろ、後半の文化面こそ著者本来の関心分野であるだけに、モダン・アートにかんする章など面白いものもある。ただし、総花的で薄い記述に終わっているという印象は免れえない。ラフスケッチといった印象である。

細かい事実関係の誤りなどに目をつむれば、1914年前後がいかに、大転換期になったかの概観をつかむことは可能だろう。


「100年単位」をタイムスパンとすることの意味と限界

著者も書いているように、10年はデケイド(・・著者はディケイドと書いているが間違い。英語の発音としては「デケイド」でなくてはならない)、30年は世代(=ジェネレーション)、100年(=センチュリー)は3世代強となる。

人間の一生は通常100年を越えることがないので、自分が体験していないことはイマジネーションの限界を超えている。最近よく思うのだが、30年前のことですら、ほとんど覚えていない。遠い国の話のような気もするくらいだ。自分とは関係ないような気さえする。

だから100年前のことが、かえってあたらしく感じられるのだ。自分が体験していないからこそ新鮮なのである。

だが、100年単位でみることは重要だが、わたしは、いまを考えるにあたっては、100年単位というよりも500年単位でみたほうがより正確だと考えている。現在は100年前と似ているというよりも、16~17世紀に似ていると考えるべきなのだ、と。

歴史を考えるに当たって、どの程度のタイムスケールで考えるかという問題なのだ。

出版社がつけた帯には、「歴史は再び繰り返されるのか」というキャッチコピー書いてあるが、これは愚問というべきだろう。著者もまた同様の感想を書いているが、歴史そのものは繰り返されることはない。似たようなパターンは出現しても、内容は同一ではない

歴史は短期・中期・長期でみるべきだと強調したのは、20世紀最大の歴史家フェルナン・ブローデルである。この見方は経済学を,学んだ者であれば違和感はないだろう。景気循環にかんするジュグラーの波やコンドラチェフの波など聞いたことがあるはずだ。

その意味では、100年前を振り返ることの意味はあるが、あくまでも限定された意味であると捉えるべきなのだ。100年は長期だが、さらなる長期の300年あるいは500年で見ないと見えてこないものがある現在はその500年周期の移行期と考えるべきなのだ。

したがって、本書は軽い読み物として、ざっと読み飛ばす程度でちょうどよいのである。


目 次 

プロローグ

第1章 第一次世界大戦はいかに起こったか
第2章 ヴェルサイユ条約の責任
第3章 国家の秘密と情報戦
第4章 日本と第一次世界大戦-シベリア出兵

第5章 少女趣味の時代-宝塚少女歌劇の誕生
第6章 ジェンダーとセックス-女性の出発
第7章 モダン・アートの革命-光と闇
第8章 世界は曲がりはじめた-相対性理論と量子論
第9章 生命と遺伝子-人間とはなにか
第10章 メディアが若かった時-大衆文化の神話時代
エピローグ

著者プロフィール
海野弘(うんの・ひろし)
1939年東京都生まれ。評論家。早稲田大学文学部卒業。出版社勤務を経て、美術・映画・音楽・都市論・歴史・華道・小説などの分野で執筆活動を展開。著書多数。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。



<ブログ内関連記事>

1914年と世界大戦

「サラエボ事件」(1914年6月28日)から100年-この事件をきっかけに未曾有の「世界大戦」が欧州を激変させることになった

書評 『未完のファシズム-「持たざる国」日本の運命-』(片山杜秀、新潮選書、2012)-陸軍軍人たちの合理的思考が行き着いた先の「逆説」とは 
・・日本国民にとって「第一次世界大戦」は直接の関係はなかったが、陸軍軍人たちにとっては必ずしもそうではなかったという事実

漱石の 『こゝろ』 が出版されてから100年!-漱石と八雲の二つの Kokoro (心) (2014年)


歴史を見るタイムスパン

「500年単位」で歴史を考える-『クアトロ・ラガッツィ』(若桑みどり)を読む
500年単位

書評 『100年予測-世界最強のインテリジェンス企業が示す未来覇権地図-』(ジョージ・フリードマン、櫻井祐子訳、早川書房、2009)-地政学で考える

書評 『終わりなき危機-君はグローバリゼーションの真実を見たか-』(水野和夫、日本経済新聞出版社、2011)-西欧主導の近代資本主義500年の歴史は終わり、「長い21世紀」を生き抜かねばならない

書評 『1492 西欧文明の世界支配 』(ジャック・アタリ、斎藤広信訳、ちくま学芸文庫、2009 原著1991)-「西欧主導のグローバリゼーション」の「最初の500年」を振り返り、未来を考察するために

書評 『歴史入門』 (フェルナン・ブローデル、金塚貞文訳、中公文庫、2009)-「知の巨人」ブローデルが示した世界の読み方

『なんとなくクリスタル』から出版されてから33年-あらためて巻末の「統計資料」に注目してみよう
・・30年前なんて遠い星の出来事のような感じがする

書評 『1995年』(速水健朗、ちくま新書、2013)-いまから18年前の1995年、「終わりの始まり」の年のことをあなたは細かく覚えてますか?
・・ついこないだと思っていたことも、じつはほとんど記憶のなかにないという驚愕の事実


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2014年11月26日水曜日

「チューリヒ美術館展 ー 印象派からシュルレアリスムまで」(国立新美術館)にいってきた(2014年11月26日)ー チューリヒ美術館は、もっている!


「チューリヒ美術館展」(国立新美術館)にいってきた。「フェルディナント・ホドラー展」 と同時開催のこの美術展は、日本とスイスの国交樹立150年を記念するイベントの一環として開催されているものだ。

この美術展の感想を一言で言えば、「チューリヒ美術館は、もっている!」、とでもなるだろうか。

ポスターに掲示されているモネ、セザンヌ、ゴーギャン、ドガ、シャガールといった日本人好みの印象派とポスト印象派の画家たちや、ピカソ、ミロ、ダリ、ムンクといった20世紀の大物カンディンスキー、モンドリアン、キリコ、ジャコメッティといった現代美術まで網羅しているからだ。

(モネの「睡蓮の池、夕暮れ」がデザインされたチケット)

ポスターには登場していないが、スイスの国民画家ホドラーの作品も展示スペース一つ分が確保されている。ホドラー展とあわせて鑑賞すべきだろう。半券があれば互いの美術展は100円引きになる。スイス出身の画家ではこのほか、パウル・クレーやセガンティーニの作品も展示がある。

さらにいえば、わたしの好きなドイツ表現主義ではベックマン、さらにウィーン分離派のオスカー・ココシュカの展示もある。さすが、ドイツ語圏のなかでも特筆されるべき文化都市チューリヒの美術館ならではだな、と思わされるのだ。

(会場図面 水色が「巨匠の部屋」 黄色は「時代の部屋」)

ドイツ世界の文化都市といえば、ドイツのベルリンとオーストリアのウィーンはまず誰もが想起することだろう。そして南ドイツのミュンヘン、ミュンヘンから近いザルツブルクといったところだろうか。

だが、「ドイツ語」世界ということでいえば、チェコのプラハやスイスのチューリヒも入ってくるようだ。国書刊行会から1987年に出版された『ドイツの世紀末』というシリーズがあるが、全五巻の内容は、①ウィーン、②プラハ、③ミュンヘン、④ベルリン、⑤チューリヒ、となっている。

たまたま内容紹介のパンフレットがあるので、スキャンして掲載しておこう。『ドイツの世紀末Ⅴ チューリヒ-予兆の十字路-』(土肥美夫編、国書刊行会、1987)の紹介文には、ドイツ語圏におけるスイスとチューリヒの意味が書かれている。


スイスは、そもそもドイツ語圏とフランス語圏を中心に盟約で結成された連邦国家であり、しかも永世中立国である。民族主義(=ナショナリズム)の色合いの強いドイツやオーストリアとは異なるインターナショナルな風土がある。さらにチューヒりはスイスの他の都市と異なる性格があるという。

静かな湖畔にあるスイス最大の都市チューリヒとその周辺には、世紀末以来国内はもとより国外からも、圧政に追われ、ナショナリズムに病んだ思想家や芸術家たちが往来し、寄留し、あるいはまた転進していった。人文主義の伝統を背負うバーゼルと異なり、ここには重荷になるほどの伝統もなく、あらゆる文化の国際的な普遍主義が形づくられる。(*太字ゴチックは引用者=さとう)

チューリヒとはそういう都市なのである。芸術分野でみてもダダイズムを生み出した都市でもあるのだ。ダダというとパリという連想があるが、じつは第一次大戦中のチューリヒから生まれたものである。

チューリヒは、ビジネスパーソンにとっては、まず第一に「チューリヒの小鬼(=グノーム)たち」というフレーズで象徴されるファイナンシャル・シティー(=金融都市)だが、同時に芸術都市でもある。この関係は、英国のロンドン、米国のニューヨークは当然、イタリアの金融都市ミラノも同様だ。もちろん日本の東京もそうだ。資本が集中する都市に美術品が集積し、芸術都市としてのインフラも形成されるのだ。

チューリヒといえば国際金融都市チューリヒといえばレーニンの亡命地チューリヒといえばユング派心理学など、それぞれ連想するものは異なるだろうが、美術館もまたチューリヒを代表する施設のようだ。


「のようだ」と書いたのは、チューリヒには国際列車の乗り換え時間の数時間を利用して英語の市内ウォーキングツアーに参加しただけなので、残念ながらチューリヒ美術館には一度も行ったことがないからだ。

その意味でも、チューリヒ美術館の収蔵品の粋を鑑賞できる今回の企画展は、わたしにとってはありがたい企画であった。

ざっと駆け足で見るだけでもいい。行く価値のある美術展である。






<関連サイト>

「チューリヒ美術館展」
 ●東京展: 2014年11月26日~12月15日 国立新美術館(東京・六本木)
 ●神戸展: 2015年1月31日~5月10日 神戸市立博物館(神戸)


<ブログ内関連記事>

「フェルディナント・ホドラー展」(国立西洋美術館)にいってきた(2014年11月11日)-知られざる「スイスの国民画家」と「近代舞踊」の関係について知る

「カンディンスキーと青騎士」展(三菱一号館美術館) にいってきた

「ドイツ表現主義」の画家フランツ・マルクの「青い馬」


スイス関連

「小国」スイスは「小国」日本のモデルとなりうるか?-スイスについて考えるために

書評 『ブランド王国スイスの秘密』(磯山友幸、日経BP社、2006)-「欧州の小国スイス」から、「迷走する経済大国・日本」は何を教訓として読み取るべきか

書評 『マネーの公理-スイスの銀行家に学ぶ儲けのルール-』(マックス・ギュンター、マックス・ギュンター、林 康史=監訳、石川由美子訳、日経BP社、2005)

ペスタロッチは52歳で「教育」という天命に目覚めた

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2014年11月23日日曜日

解体工事現場は面白い! ー 人間が操縦する重機に「人機一体」(=マン・マシン一体)を見る


解体工事現場は面白い。小学生でなくても、解体現場というのは、なぜだが興味津々でついつい見入ってしまうものだ。とくに男子ならその気持ちはわかると思う。

この現場で解体しているのはRC造(=鉄筋コンクリート)の建造物。コンクリートを破砕して、コンクリートと鉄筋を分別する作業を行っていた。これは、なかなか大変な作業だ。鉄筋コンクリート造の建造物が頑丈なのは当然だ。

(重機の先端部分のアタッチメントは着脱自由)

油圧ショベル(重機)の先端に装着されたアタッチメントのグラップルの形が面白い。グラップルというのはハサミのことだが、この現場で使用されているグラップルは鳥のアタマのようだ。

クレーンは鳥のツルという意味だが、パワーショベルは怪鳥のようである。怪鳥がクチバシでガリガリとコンクリートの塊をかみ砕いていくさまは見応えがある。破砕音や振動、ガソリンの匂いなど五感を再現できれば臨場感が増すのだが、やはり観察はリアルな現場に限るのである。


建築と解体は対(つい)で考えることが必要

鉄筋コンクリート(RC:Reinforced Concrete)は、コンクリートの補強として鉄筋を入れたものだが、鉄筋とコンクリートが融合しているので、鉄筋に錆がでて劣化しない限り、きわめて堅固なものである。

建築の際には、いかに堅固な建築物を構築するかばかりを考えるものだが、解体の際には、コンクリートの瓦礫から鉄筋を分別するのがいかに大変であるかがわかる。それほど、鉄筋コンクリートは基本的に頑丈なのである。

解体した建築廃材(=ガラ)は分別したうえで、産業廃棄物として処分される。解体業は産廃事業であり、いわゆる静脈(じょうみゃく)産業である。これは、人体をめぐる血管のアナロジーとして命名された産業分類だ。動脈と静脈は対(つい)の関係にある。

同様に、建築と解体は対(つい)にして考えるべきなのだと、あらためて納得する。スクラップ・アンド・ビルドという表現があるが、建築が解体され更地となるだけでなく、解体のあとには建築が行われることも多々あるのだ。




人機一体(=マン・マシン一体)

パワーショベル(重機)で作業している現場を見ていると、人間が操縦する巨大なロボットを連想させるものがある。重機という機械と、操縦する人間が一体化しているのだ。

小学生が引き込まれるのもそのためだろう。かつて小学生だった大人だってワクワクするのも当然だ。重機の操縦はバランスをとるのが、なかなかむずかしそうだ。

「人馬一体」という表現がある。乗り物としての馬と、それに乗る人の息がピッタリとあって一体化しているさまを表現したものだ。自動車が馬車の延長線上にあることは、技術史の常識である。

この表現になぞらえれば、重機の場合は「人機一体」だ。「マン・マシン一体」である。マン・マシン・システムというと、一般には人とコンピュータの一体化のことをいうが、重機もコンピュータ(・・そもそもの意味は計算機)も機械であることは共通している。

かつて「コンピューター付きブルドーザー」と呼ばれた田中角栄という首相がいたことを思い出した。1970年前後の話であるが、現在の重機は電子制御化が進んでいるので、文字通り「コンピューター付きブルドーザー」となっている。

とはいえ建設機械の大半は無人化された自動操縦ではない。アームの操作によって作業を行う点は産業用ロボットに似ているが、自動運転ではなく人間が操縦するのでロボットではない。人工知能ではなく、人間の頭脳が状況を判断し、手でスティックを握って操作するのである。重機という道具(ツール)もまた、手の延長線上にあるわけだ。

原子炉の内部などは無人化したロボットの導入が行われているが、市街地の解体現場に無人化した重機が登場することはあるのだろうか?

技術の進歩は経済性との関数でもあるので、将来の解体現場がどのようなものになるのか判断がつきかねるものがある。だが、当分のあいだは、「人機一体」の解体シーンを観察することができそうだ。






<関連記事>

「日本一難しい解体工事」に深夜潜入  鉄道3路線を止めずに渋谷駅直上で東急百貨店を壊す(日経ビジネスオンライン、2015年6月2日)

(2015年6月2日 情報追加)


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