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2023年5月28日日曜日

「下野牧」の「野馬土手」をめぐり歩く ー 船橋市と鎌ケ谷市を中心に2023年5月に2回ノマド実行

 (野馬土手=土手際遺跡 船橋市)

現在の千葉県には、幕府直轄の「牧」があった。「牧」とは、軍用馬の放牧場のことである。下総の小金牧と佐倉牧、上総の嶺岡牧の3つである。

「牧」には馬が食べる飼料となる草が生えており、水場もあった。いずれも人為的な手の入っていない自然そのものである。

「牧」で放牧されている馬は「野馬」(のま)とよばれていた。だが、それは野生馬を意味しているわけではない。現代語なら「放牧馬」とでもいうべきだろう。北海道の広大な牧場に法賊されている馬を想起すべきだろう。

幕府の「牧」に放牧されていた「野馬」は、1年に1回捕獲されていた。これを「野馬捕り」といい、牧における一大イベントであったらしい。

自然環境のなかでのびのびと育った馬であるから、それはもう暴れ馬だったからだ。捕獲された雄馬からセレクトされた軍馬以外は、農耕用に払い下げられていたらしい。

(小金牧 GoogleMapより)

  
江戸時代前期においては、幕府は軍用馬の調達を盛岡藩を中心とした東北馬に依存していた。だが、江戸時代中期になってからは、8代将軍・吉宗の時代に自前で育成する政策をはかることになる。

軍馬の改良を考えていた吉宗は、東北の馬を取り寄せただけでなく、海外からアラビア馬を取り寄せている。去勢しないので暴れ馬であり、軍馬としての性格は優れていた日本馬だが、日本人の体格にフィットした小柄の馬であった。

吉宗は、軍馬を大型化したかったのだ。だが、その試みは定着することなく終わってまった。本格的に再開されたのは、幕府崩壊後の明治時代になってからである。だが、その結果、日本固有種の「日本馬」がほとんど消滅してしまったのは残念なことである。

(渡辺崋山の「四州真景」より釜原。釜原宿(=現在の鎌ヶ谷大仏)に向って「牧」のなかの木下街道を歩く旅人)

個人的な話になるが、小学生5年のときに都内から千葉県八千代市に移住してきたこともあって、陸上自衛隊の習志野駐屯地には、かつて陸軍騎兵隊がいたことも知っていた。その習志野駐屯地は、かつての「牧」をそのまま活かしたものといっいいだろう。

(陸上自衛隊習志野演習場。往事の「牧」をしのばせるものがある 筆者撮影)

千葉県北西部のこの地域は、馬とは切っても切り離せないほど、馬とかかわりの深い土地なのだ。その名残は、現在でも各地に残っている。

しばらく都内や海外で過ごしたあと、ふたたび千葉県北西部に戻ってきたが、たまたま、かつての「小金牧」のちかくに移住したこともあって、個人的に「牧」に対する関心には深いものがある。

新京成電鉄には船橋市内に「高根木戸」という駅があるが、かつてそこには「牧」のなかに入るための「木戸」があったためだという。「牧」には野馬が放牧されていたが、木下(きおろし)街道などの道が通っていたためだ。木下街道は、江戸と利根川を結ぶ重要な街道であった。


「牧」の周囲には「土手」が築かれて、「野馬」が周辺の耕作地に侵入しないようになっていた。それを「野馬土手」(のまどて)という。なんだか遊牧を意味する「ノマド」っぽい響きがいい。

「野馬土手」や「木戸」のことは、いまから12年まえの2011年ににはじめて知った。「下野牧」の跡をたずねて(東葉健康ウォーク)に参加して、はじめて「野馬土手」を見ることができてからである。

現在ふたたび「牧」と「野馬」、そして「野馬土手」に自分のなかで関心が高まったのは、江戸時代への関心が高まっているからだ。

とくに人口の7%に過ぎなかった武士(・・これは家族全体の数字。成人男子に限定したら2%程度!)については、わかっているようで知らないことがじつに多い。「弓馬の道」が本来の武士のあり方であった以上、武士と馬はきわめて密接な関係にあった。武士本来の職分である「武」にかんする側面について、もっと知りたいと思っている。

そこで、まだ訪れたことのない「野馬土手」を訪ね歩くことにした。1回で終わりにするつもりだったが、いろいろ調べていくうちに、漏れがかなりあることに気づいて、5月のあいだに「ノマド探索」を2回実行することになった次第である。

なんといっても、GoogleMap で検索して地図上に表示できるようになったことは大きい。そうでなければ、地図上で特定するのはむずかしい。


■「ノマド探索」 第1段階(5月初旬)

船橋市内でも、かつての「牧」に近いところに住んでいるので、そのまま「野馬土手」づたいに隣の鎌ケ谷市まで歩いてみることにした。具体的にいうと、御瀧不動尊を経由し、鎌ヶ谷大仏を経て、「牧」にかんする資料のある鎌ケ谷郷土資料館までいくコースである。

今回は、はじめて御瀧不動尊は新京成電鉄の滝不動駅からのアクセスのいい東側の仁王門ではなく、南側の正門から境内に入ることに。1973年に改築されたものだそうだ。


御瀧不動尊は、中世の室町時代の15世紀初頭にさかのぼる由緒ある寺院。湧き水があるので御瀧不動尊。修行場でもあったという。

江戸時代は「牧」のなかに入ってしまうので、現在地より西側に移されていたらしい。

御瀧不動尊の東側に「野馬土手跡」がある。「土手際遺跡」ともいう。船橋市内である。


野馬土手の切れ目に案内看板が立っている。「野馬土手」は文字通りの土手で、人の手によって盛り土で造成されたらしい。

現在では木が生えてしまっているが、江戸時代は野馬土手の維持管理は、周辺に住む農民に課せられていたという。


  
北に向かって歩いていくと、鎌ケ谷市に入る。「牧境の野馬土手」(中野牧・下野牧)がある。住宅街の垣根のような形で現在も残っている。



さらに歩いて、新京成電鉄の鎌ヶ谷大仏駅の前で線路をわたって反対側にいくと、「小金下野牧捕込跡」がある。残念ながら公園となっているが、それとわかるのは看板だけで、「捕込跡」をしのばせるようなものはない。



新京成電鉄を左手にみながら初富駅まで歩いていくと、途中に「野馬土手」がある。「鎌ケ谷ふれあいの森」の一部として「野馬土手」が保存されている。


さて、最終目的に「鎌ケ谷市郷土資料館」に到着。ここで「牧」関連の展示を見て、必要な資料を購入。船橋市民であっても、この鎌ケ谷市郷土資料館にいく価値はある。

縄文時代からいきなり江戸時代になってしまうのは、鎌ケ谷市も船橋市もおなじである。中世もわずかながら存在しているが、発展するのは江戸時代になってからである。

つまり、水田耕作を中心とする弥生文化との親和性がないのが、この地域なのだ。だから、「牧」として利用されていたのであろう。水田耕作には向いていないが、草地としては存在できる土地。しかも、湧き水もある。



■「ノマド探索」 第2段階(5月下旬)

その2週間後にもういちど追加で実施。「小金下野牧捕込跡」は見たものの、そのときは北初富駅の近くに「国史跡下総小金中野牧跡」があることを知らなかったのだ。これを水して「牧」について語ることはできないだろう。

船橋市内の高根に「高根木戸道標」というものがある。「牧」のなかで分かれる三叉路の道標だ。文化5年(1808年)に立てられたものである。馬だけがいる広大な「牧」で迷わないようにという心遣いである。

(高根木戸道標)

馬ではなく牛であるが、「佐久間牧場」まで歩いて行く。新京成電鉄の滝不動駅の東側にいくのは初めてだ。船橋市内にまだ牧場があったとは! 

子ども時代に八千代市の興真乳業の近くに住んでいたが、もはや牧場もないし、牛もいない。「田舎の香水」は、もはや懐かしい思い出と化してしまった。

牧場直結の「佐久間アイスクリーム工房」で食べたアイスクリームはうまかった!



さて、滝不動駅から電車に乗って北初富駅まで。この駅のすぐ近くに「国史跡下総小金中野牧跡」がある。「捕込」(とっこめ)といって、1年に1回おこなわれる野馬捕りの場の遺跡である。








野馬土手が集中しているような風情だが、このような形であれ残ったことはありがたいことだ。わざわざ見に来る人はいないようだが、もっと知られてしかるべきだろう。

そのあと、貝柄山公園」まで足を伸ばす。「野馬の像」を見に行くためだ。かつて「牧」があったことを想起させるため、設置されているのである。





さて、これでだいぶ「牧」と「野馬土手」に詳しくなった。文献とあわせて実地調査すると、イメージは立体的にふくらんでくる。

この関連の本では、なんといっても『「馬」が動かした日本史』(蒲池明弘、文春新書、2020)は出色のものであった。なぜ千葉県北西部に「牧」があったのか、土壌の点からそれがわかるのだ。

縄文遺跡がたくさんあるのに弥生遺跡がほとんどない船橋市と鎌ケ谷市水田耕作には適していないから「牧」となったのだな、と。「牧」は江戸時代以前からあったのである。




PS 「馬の博物館」に行ってきた(2023年6月6日)

横浜の根岸にある「馬の博物館」に行ってきた。JR根岸線の山手駅で下車して、購買差のある丘を登ること15分ほどのところにある。

JRA(日本競馬協会)のミュージアムで、根岸競馬場の跡地につくられたものなので、基本的に近代以降の競走馬が中心であるが、「馬の博物館」らしくウマ全般にかんしての総合ミュージアムとなっている。


「写真撮影禁止」なので内部の紹介はできないが、いま開催中の企画展「浮世絵美人と馬」の展示場には、鐙(あぶみ)の実物が展示されていた。江戸時代までの鐙の実物を見ることができたのは幸いだった。

というのも、日本の伝統的な鐙(あぶみ)は、西洋のものとは違うからだ。日本の鐙はツッカケみたいな形で、鐙の上に足を起きながらも、足の自由が効きやすい。西洋式の足をひかっけるのではなく、足裏を乗せるタイプである。

(左がいわゆる「舌長鐙」 Weblio辞書より


あくまでも戦闘用の軍馬として、「弓馬の道」である武士のための鐙であったからだ。乗馬しながら立ち上がったり、向きを変えたり、弓を射たりがしやすいのである。

このほか、外国大使が信任状捧呈式の際、皇居まで乗ることになる馬車が展示されていた。これは近代になってからのものだが、近距離で観察することができるのはすばらしい。

過去の企画展の図録のバックナンバー数点を購入した。現金のみなので注意が必要。

(2023年6月7日 記す)


PS2 『国道16号線ー日本を創った道』(柳瀬博一、新潮文庫、2023)は、東半分があまり取り上げられていない

『国道16号線ー日本を創った道』(柳瀬博一、新潮文庫、2023)という本を読んだ。話題の本で、文庫化されたのを機会に一読。

面白い内容だが、残念な本であった。というのは、書かれている内容は、ほとんどが国道16号線の西半分の話であって、東半分の千葉の話は付けたし程度でしかないからだ。

『国道16号線ー日本を創った道』というタイトルに惹かれて読んだものの、不完全燃焼感といだいて残念に思う千葉県住民は、『「馬」が動かした日本史』(蒲池明弘、文春新書、2020)をあわせて読むべきだろう。

国道16号線の西半分は、横浜と八王子の「シルクロード」の話がメインなので、むしろここだけ切り離したほうがすっきりするだろう。八王子から見たら、東京都心に行くのも、横浜に行くのもほぼ等距離である。新たな風が吹き込んできたのは、横浜からなのであった。

(2023年6月7日 記す)




PS3 佐藤一斎もまた下野牧を通って「牧」を体験していた

渡辺崋山の「四州真景」の「釜原」は、釜原宿(=現在の鎌ヶ谷大仏)に向って「牧」のなかの木下街道を歩く旅人二人と馬の群れを描いたスケッチ的な作品である。

崋山は33歳、1825年に利根川下流域の香取、鹿島、銚子方面に旅に出立している。公用ではなく、まったくの遊山の旅である。その往路で鎌ケ谷宿で夕飯を食べて酒を飲み、そのまま歩き続けて白井宿で一泊している。

この旅に出立するに当たって、崋山は、その肖像も描いている、儒学の師である佐藤一斎を訪ねて「日光紀行」を借りていったという。芳賀徹の『渡辺崋山 優しい旅びと』(朝日選書、1986)にそう記されている(P.53)。

ただし、「日光紀行」は、ただしくは「日光山行記」(文政元年=1818年)である。崋山の日記にはそう記されていたのだろうか?

その「日光山行記」の末尾は、日光街道による往路の日光行きの帰途は別コースをたどって銚子方面に遊び、利根川を船で移動して、木下では舟ののなかで一泊したのち、鎌ケ谷の「下野牧」を通ったことが記されている。

崋山は、往路にこのコースを佐藤一斎とは逆にたどっているが、おそらくその念頭には一斎から借りてきて読んだ文章の末尾が思い浮かんでいたに違いない。だが、芳賀氏は、その件について言及していないので、「日光山行記」は見ていないのであろう。

一斎の「日光山行記」から引用しておこう。原文は漢文であるが、『佐藤一斎全集第2巻 詩文類(上)』(明徳出版社、1991)の訓読文にしたがうことにする。この文章が全体の締めくくりとなっている。

行くこと里餘。平原を得たり。手鞍原(てくらはら)と曰ふ。放牧地たり。馬多くは洋種なり。 
又た数里にして一大広原を得たり。釜原と曰ふ。亦た牧地なり。東南十五里、南北二里。之を総呼して、小金原と曰ふ。牧は上・中・下に分つ此は其の下牧なり。馬群最も多く、人を見るも避けず牝牡の驪黄(りこう:黄色と黒色のブチのこと)、優遊自適して、羈的(きてき:おもがいと手綱)、槽櫪(そうれき:馬小屋)の屈を受けず。太(はなは)だ吾輩の閒逸(かんいつ)なる者と相類たるも、亦楽しむ可きなり。
八幡を歴て行徳に抵(いた)るに、未だ哺(ほ)ならず(=午後4時になっていない)。舟を買ひて川を下り、薄暮に都に達す。

さすが野馬好きの一斎ならではである。人馬共存の風景が目に浮かぶようだ。ところで、手鞍原は印西牧のことか? 釜原は鎌ケ谷のことである。下野牧についてかかれている。

『言志後録』では、若い頃は「野産」の馬を乗りこなしていたと述懐している一斎だが、別の文章では十代の頃に「野馬捕り」を実見しているようで、「「小金原捉馬図鑑」に題す」という文章を書いている。この文章も「佐藤一斎全集第2巻」に収録されている。

この文章は崋山のスケッチを彷彿とさせるものがある。いや、順番としては逆だな。

一斎は夜明け前に木卸(きおろし=木下)を立ってから、途中で一泊することもなく、そのまま江戸の自宅に戻ったようだ。健脚である。

(2023年6月9日 記す)




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・・演習場は、かつての「牧」をそのままとどめている。こういうイベントの機会を利用すれば、一般人でもなかに入って当時の「牧」をしのぶことができる


・・この基地もかつての小金牧のなかにある。中野牧である。
とはいえ、基地が占めるスペースは、かつての「牧」のごく一部に過ぎないのである。

(2023年6月13日 情報追加)


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2023年5月9日火曜日

物理学者・池内了氏の『江戸の宇宙論』(集英社新書、2022)と『司馬江漢 ー「江戸のダ・ヴィンチ」の型破り人生』(集英社新書、2018)を読む ー 江戸時代後期に地動説や宇宙論を展開した民間人たちに目をむけることの意味

 
江戸時代の天文学については、800年ぶりに改暦を実現した立役者の渋川春海(しぶかわ・はるみ)がもっとも有名だが、江戸時代後期の「寛政の改暦」を実現した高橋至時(たかはし・よしとき)と間重富(はざま・しげとみ)のコンビもまた、それに劣らず重要だ。

だが、こういった専門の天文学者だけでなく、天文学に多大な興味をいだいて、それぞれ独自の思索を行い、一般向けに啓蒙活動を行った人物にも関心を向けるべきであろう。

それは、サイエンス・コミュニケーターとしての司馬江漢(しば・こうかん)であり、江戸時代後期の1780年から1820年のあいだに「宇宙論」を一気に世界水準に押し上げた志築忠雄(しづき・ただお)、山片蟠桃(やまがた・ばんとう)といった民間人たちである。


■江戸で生まれ育ったが長崎で開眼した司馬江漢

司馬江漢といえば西洋風の銅版画を日本ではじめて実現したアーティストとして知られているが、それは多面的な人物であった司馬江漢(1747~1818)の一面であるに過ぎない。

美術にくわしい人なら、江戸に生まれ育った司馬江漢が最初は鈴木春信の弟子として美人浮世絵からキャリアを開始し、その後さまざまな画法を身につけて、生涯をフリーで過ごした人物であることを知っているだろう。

だが、サイエンス・コミュニケーターとして「地動説」を一般向けに啓蒙し続けた人であることは、なかなか視野に入ってこないのではないだろうか。
 
物理学者の池内了氏のリタイア後の余技というべきであろうか、『司馬江漢 ー「江戸のダ・ヴィンチ」の型破り人生』(池内了、集英社新書、2018)という本を読むと、そのことがよくわかってくる。

さすがに「日本のダヴィンチ」というのは褒めすぎだと思うが、絵も描き、ガジェットも自分でつくって、文章も書いてなると、たしかに多彩多芸で博覧強記の人物であったことは間違いない。しかも、毀誉褒貶相半ばする「奇人」であったことも確かなことだ。
 
もちろん、科学に多大な興味をもつ素人としての限界はあるが、「地動説」を19世紀初頭の日本で普及させた功績は大きいというべきだろう。司馬江漢は長崎遊学で目覚めたのである。


■長崎で発展し大坂で花開いた蘭学

おなじく池内了氏の『江戸の宇宙論』(池内了、集英社新書、2022)によれば、コペルニクスの地動説とニュートンの万有引力について、日本ではじめて認識し、理解したのは、志築忠雄(1760~1806)であった。

長崎のオランダ語通詞出身の翻訳家である。早々と通詞をリタイアして、自分の興味と関心にまかせて、さまざまな科学文献を読んでは自分で日本語に翻訳しながら、理解を深めていった人だ。業務として翻訳を行ったのではなく、あくまでもイニシアティブはかれの側にあった。


志築忠雄については、『蘭学の九州』(大島明秀、弦書房、2022)でも大きく取り上げられている。いわゆる「蘭学」は江戸で始まったという、「『蘭学事始』神話」の解体の一環である。

当然といえば当然だが、漢訳洋書やオランダ語の原書がもっとも入手しやすかったのが長崎である以上、蘭学が長崎から始まったのである。その影響は、地の利からいってまず九州で、その後は瀬戸内海ルートをつうじて大坂で花開いたというべきだろう。

高橋至時と間重富の師匠であった麻田剛立は、もともとは現在の大分県にあった杵築藩の侍医だったが、脱藩して大坂で好きな天文学に打ち込んだ人である。町人中心の大坂の知的風土に魅了されたからのようだ。その麻田剛立と密接な交流をもっていたのが、生まれ故郷の豊後にとどまり続けた自然哲学者の三浦梅園であった。

山片蟠桃(1748~1821)は、大坂の商人であり懐徳堂で学んだ思想家である。ペンネームの「蟠桃」は「番頭」をもじったものだ。辣腕の商人だったからこそ、合理的で現実的な科学思想家でもありえたわけである。主著『夢の代』で、無限宇宙論や複数宇宙論を展開しているのである。18世紀の西欧社会とおなじ知的関心となっていたのである。


池内了氏は、『江戸の宇宙論』の「はじめに」で以下のように書いている。

1780~1820年のほんの短い間に、西洋から天文学・宇宙論を学ぶなかで、日本人はコペルニクスの地動説(1543年)からの250年間の遅れを取り戻しただけでなく、無限宇宙論の描線において一気に世界の第一線に躍り出たのである。
その意味では、一瞬とはいえ日本人の宇宙論が世界の第一線にまで到達したと言えるのではないか。自由な発想で学問を楽しむなかでこそ世界の最前線に立つことができた、このような江戸の文化の豊かさをともに味わいたい、そう思ったのが本書を執筆した動機である。

このように、司馬江漢や志築忠雄、そして山片蟠桃といった人たちは、あくまでも自分の趣味や知的好奇心から出発して、それぞれ独自の世界を探索している。科学がまだ、知的遊戯であった時代の幸せな人物たちであったとえいるかもしれない。

あまりにも専門分化がすすんで個別分野ごとに「バカの壁」ができあがって、相互にコミュニケーション不全状態となっているのが、現在の科学の世界である。

こんな時代だからこそ、司馬江漢や志築忠雄、そして山片蟠桃といった「科学の素人たち」にも目を向ける必要があるといっていいだろう。なんといっても、かれらは科学を楽しんでいた先人たちなのであるから。

  
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2023年5月8日月曜日

書評『星に惹かれた男たち ー 江戸の天文学者 間重富と伊能忠敬』(鳴海風、日本評論社、2014)ー 江戸時代後期の天文学者であった大坂の間重富には、もっともっと注目するべきだ

 
碁打ちから暦学者に転じた渋川春海は、映画化もされた冲方丁氏の小説『天地明察』で有名になったが、それは江戸時代前期の日本の天文学の黎明期の話だ。

江戸時代中期の吉宗の衣鉢を継いで改暦を実現したのが、江戸時代後期のはじめに生きた高橋至時(たかはし・よしとき)と間重富(はざま・しげとみ)である。ともに大坂出身の天文学者で、前者は下級武士、後者は質屋を営む大商人であった。

二人はともに大坂で第二の人生を築いた、天文学者で医者の麻田剛立の弟子たちである。メカ好きで観測機器も自分でつくてしまう実測家の間重富と、もっぱら理論家肌の高橋至時は相補的な関係のいいコンビだったようだ。身分制度の時代であっても、知的探求の世界では身分は関係なかったことをよく示している。

そして、伊能忠敬は高橋至時の弟子でもあった。伊能忠敬は庄屋であったが、当時の江戸のの物流の要となっていた利根川下流域で生業を営んでいた伊能家。したがって伊能忠敬も限りなく商人に近い存在であった。間重富と同様に商才にすぐれ、計数感覚の持ち主であった。

知名度からいったら、測量によって日本全図を完成させた伊能忠敬に軍配が上がる。だが、「寛政の改暦」に大きな貢献をした間重富は、伊能忠敬に勝るとも劣らない存在であったと言わねばならない。

本来なら、高橋至時の考えでは、間重富が西日本の測量を行い、伊能忠敬が東日本の測量を分担するハズだったのだ。


『星に惹かれた男たち ー 江戸の天文学者 間重富と伊能忠敬』(鳴海風、日本評論社、2014)という本を読むと、間重富という大坂出身の天文学者にはもっと注目すべきことが大いに納得される。

総論的な概説書には、『天文学者たちの江戸時代 ー 暦・宇宙観の大展開』(嘉数次人、ちくま新書、2016)というものがある。著者の嘉数次人氏は大坂出身の研究者だが、かならずしも地域びいきだけから大坂の天文学者たちに注目しているのではない。

そのことは、和算作家の鳴海風氏が新潟県出身で、しかも名古屋に本拠をおいたデンソーの元エンジニアであることからもわかる。

鳴海氏は、18世紀後半の大坂の医者たちの、臨床を重視した科学精神と実証精神に注意を喚起している。江戸の医者たちとの違いである。

高橋至時と間重富の師匠であた麻田剛立は、天文学者であると同時に、解剖も多くこなす医者でもあった。江戸中心の『解体新書』神話のワナにはまってはいけないのである。


(松平定信の命によって天文方の高橋至時と間重富が中心になって作成した「新訂万国全図」(1816年)。銅版画は亜欧堂田善 国立歴史民俗博物館にて筆者撮影)


ここで、あらためて間重富と伊能忠敬の経歴について見ておこう。

伊能忠敬(1745~1818)と間重富(1756~1816)は、生没年から見たらわかるように、ほぼ同時代を生きた人物である。伊能忠敬のほうが間重富より9年早く生まれ、2年長く生きている。伊能忠敬は73歳で、間重富は60歳で亡くなっている。伊能忠敬は健康そのもの、間重富は病気がちだったらしい。

この違いが測量事業での大きな違いを生んだのである。伊能忠敬も天文学を学んだ天文学者でありながら、現在ではもっぱら測量家として記憶されている理由となっている。

伊能忠敬は、佐原の庄屋に養子として迎えられ、大いに辣腕を発揮、社会事業でも大きな取り組みをなし、隠居して息子に家督を譲ってから、後顧の憂いなく江戸に出て本格的に天文学を学んだ人物だ。

間重富は六男として生まれたが、兄たちが夭折しているため家業を継ぐことになった。改暦事業のため高橋至時とともに幕府に召し出されたが、大坂に家族と家業を残したままであった。さぞ気がかりであったことだろう。




『江戸の天文学者 星空を翔ける ー 幕府天文方、渋皮春海から伊能忠敬まで』(中村士、技術評論社、2008)では、この間重富と、儒者で最終的に幕府の儒官となった佐藤一斎の交際について取り上げられている。

佐藤一斎は、20歳での大きな挫折を経験しており、出身藩であった岩村藩の士籍を返上し浪人となっていた。師友のすすめで21歳で大坂に遊学したらしい。誰の紹介かよくわからないが、大坂での受け入れ先となったのが間重富であった。

間重富には大坂を代表する学問所であった懐徳堂の老儒者・中井竹山を紹介してもらい、半年という短い期間ではあったが、間重富宅から竹山のもとにほぼ毎日通って濃い内容の個人授業を受けている。

間重富は自宅で天体観測もしていたから、才気煥発であった青年であった佐藤一斎も、間違いなく天文学について多大な関心をいだくキッカケになったはずである。

佐藤一斎の若き日の間重富との出会いと、その後の孫子の世代にいたるまでの密接な交流。幕府天文方との交流は、伊能忠敬の死後にみずから筆を執って墓碑銘を書いたことにも現れている。佐藤一斎は、伊能忠敬の孫の面倒もみていたという。

天文ファンで機械時計マニアだった佐藤一斎の意外な面がわかるだけでなく、間重富という人物の懐の深さ、人脈の豊富さについて納得されるのである。

江戸時代後期の天文学者であった大坂の間重富には、もっともっと注目するべきである。


 
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<関連サイト>

貴重資料展示室 第55回常設展示:2016年10月21日〜2017年10月12日 間 重富

『星学手簡』 高橋至時、間重富他筆 渋川景佑編 写本 上・中・下3冊



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