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2011年10月31日月曜日

ケルト起源のハロウィーン-いずれはクリスマスのように完全に 「日本化」 していくのだろうか?


 さて、本日はハロウィーン(Halloween)ですね。米国では子どもたちが "Trick or Treat ?" といいながら、家々を回ってキャンディやお菓子をもらう行事として知られています。

 "Trick or Treat ?" とは、「キャンディーくれなきゃ、いたづらしちゃうぞ」とでも訳したらいいでしょうか。まあ、決まり文句として覚えておけばいいでしょう。

 なんと、カボチャならぬ柿までがハロウィーン仕様に(上掲の写真)! 

 鳥の仕業でしょうか? さすがにくりぬいた柿のなかにロウソクは入ってません(笑)。ランタンではありませんから。もちろん、鳥が意図してやったのではないでしょうが、自然界はときどき思いもつかないことをしてくれるものですね。

 気をつけて見ていると、いろんなものが目に飛び込んでくるようになります。観察力が鋭くなるのか、偶然に対する感受性が強くなるのか。意図しなくても、自然とおもしろいものが向こうから飛び込んでくるようになります。目的意識が脳内で無意識レベルに沈殿しているのでしょうか?

 もちろん、「意図せざる偶然のもの」であっても、気がついて活かすことができるかは本人次第。偶然性を積極的に活かす能力が、発明や発見に際して大きく働いていることはノーベル賞受賞者の談話を読むと実感されるものですね。


ハロウィーンはケルト起源-アメリカ伝来のお祭りは「日本化」するプロセスの途上にある

 ハロウィーンは、アメリカ伝来の季節の行事ですが、日本でも定着しつつありますね。最初はお祭り好きな在日外国人や若者から、そしていまでは幼稚園や保育園の年中行事にまでなっています。

 クリスマスやバレンタインデーほどではないですが、もうかなり定着してきているようです。子どもたちの成長とともに、日本社会に根付いていくのでしょう。

 もともとケルト起源のこのお祭りは、キリスト教以前の祭がキリスト教のベールをまとっているに過ぎないので、キリスト教の教義とは本来なんの関係もないようです。その意味では、日本で受け入れられたのも問題なしとしておきましょうか。ケルトは日本でいえば縄文人に該当する、ヨーロッパの先住民です。

 クリスマスだって、いまの日本ではキリスト教と結びつける人はほとんどいないですし、おそらくハロウィーンも時間がたてばアメリカという異文化的要素も消えて「日本化」していくのでしょうね。現在はまだアメリ文化そのものといった感じで、わたし自身はまだ違和感を感じていますが、「日本化」していくなら、それもまた一興でしょう。

 大学学部時代は、いまは亡き阿部謹也教授のゼミナールで 「ヨーロッパ中世史」 を専攻していましたので、ときどき集まるゼミテン(・・ドイツ語のゼミナリステンの略)の集まりは、ビジネスとはほとんど関係なく、利害関係がまったくありませんから楽しいものです。

 先日の会合で、同席していたケルト学の専門家に質問したところ、キリスト教の「万聖節」は、もともとはケルトの農耕儀礼ですが、ケルト地帯のフランス北部ブルターニュでは、アメリカから逆輸入される形でハロウィーンが行われているとか。巨大カボチャでつくる ジャック・オ・ランタン(Jack-O'-Lantern)はアメリカ生まれのようですね。

 これを書いていてふと思い出したのは、そういえばケルトの歌姫エンヤ(Enya)に、カボチャではなく、日本のボンボリのような吊し灯籠(=ランタン)に火入れしている写真をジャケットにした CDシングル があったな、と。探したらでてきたのが On My Way Home という 1996年発売の欧州版ミニアルバム。なぜ、日本のボンボリなのかは定かでなかったのですが、買ってから 15年たったいま初めて意味がわかりました!


 ところで、おなじく会食会で同席していたカトリック司祭によれば、カトリックではハロウィーンはやらない、とのこと。10月31日の深夜から11月1日にかけて「万聖節」よりも、その翌日11月2日の「万霊節」(=死者の日)のほうが重要だからとのことです。万霊節とは、すべての死者のためにミサを開いて祈る日のことです。

 このように、ハロウィーンをめぐっては、何でもありの日本人はさておき、キリスト教でもカトリックとプロテスタントでは、受け入れに際してかなりの温度差があるようです。

 ところで、歌姫エンヤはアイルランド人。ケルト人の国であり、かつカトリック国でもあるアイルランドの状況はどうなのか、気になるところです。


「仏教国が資本主義化」すると、何でもありの状況になるのだろうか?-伝統行事との関係は?

 タイ人も日本人と同様に、クリスマスやバレンタインデーを祝うようになっています、もちろんキリスト教抜きの習俗としての受け入れですね。とはいえ、タイ人と日本人とでは受け入れの時期が異なるため、受け入れの仕方についても違いがあるような気がしないでもありません。

 「仏教国が資本主義化すると、何でもありの状況になるのだろうか?」、日本人がタイ人の行動をみているとそんな仮説めいたことも考えたくなってきます。

 しかし、いまだタイではハロウィーンは習俗化していないようです。おそらく、バンコク在住の英米人のあいだではパーティが行われているのでしょう。バンコクでは、西洋人と日本人とでは遊び場所が完全に棲み分けだれているのでわかりません。

 今年は大洪水となって被害の拡大しているチャオプラヤ川流域ですが、雨期が終わるこの時期は例年はロイ・カトーンという灯籠祭の季節です。この伝統的な祭が現在でも主流のため、タイ人のあいだにはハロウィーンが入り込めないのかもしれません。タイ人にとっては、灯籠は玄関前に飾るものではなく、水に流すものですから。

 日本でもお盆やお正月は、最近でこそ形骸化しつつあるとはいえ、まだまだ伝統行事としての性格が強く保たれています。伝統行事と時期が重なる祭については、外国から伝来した新たな祭も、旧来のものにとって変わるのは簡単ではないようです。

 この時期の祭礼であるお神楽などとは、完全に棲み分けがされていますが、もしかすると、もともと農耕儀礼であったハロウィーンが神社の祭礼と融合していくなんてことになるかもしれません。

 貪欲に外来文化を取り入れてきた日本人が将来どのような取捨選択をするのか、たいへん興味深いものがあります。




<関連サイト>

Enya Official Site(英語)
・・エンヤはヒーリング・ヴォイスの世界的なアイリッシュ・ミュージシャン

Enya - On My Way Home (video)(YouTube)
・・このビデオのなかに、日本のボンボリのような吊し灯籠(=ランタン)に少女たちが火入れする幻想的なシーンを、帰郷する旅の途中のエンヤが回想するシーンがでてくる


PS 2016年のハロウィンで、ついにある分水嶺を超えてしまったようだ・・・

ハロウィンの何が日本人を夢中にさせるのか 外国人も目を見張る衝撃的な熱狂ぶり (田中道昭 :立教大学ビジネススクール教授、東洋経済オンライン、2015年10月5日)
・・大人のコスプレと参加。すでにクリスマスを超える、都市住民にとっての秋祭りとなったようだ

死者に「更衣」した大勢の若者たち〜仮装が持つ“本当の意味”とは? ハロウィンの夜、渋谷を歩く (畑中章宏:作家・民俗学者、現代ビジネス、2016年11月1日)

(2016年10月30日、11月6日 情報追加)


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かぼちゃ

カンボジアのかぼちゃ
・・かぼちゃはカンボジアから伝来

バンコクで「かぼちゃプリン」を食べる・・最高にうまい東南アジアのスイーツ


「創られた伝統」

「恵方巻き」なんて、関西出身なのにウチではやったことがない!-「創られた伝統」についての考察-


日本では「習俗化」したキリスト教

書評 『日本人とキリスト教』(井上章一、角川ソフィア文庫、2013 初版 2001)-「トンデモ」系の「偽史」をとおしてみる日本人のキリスト教観

書評 『「結婚式教会」の誕生』(五十嵐太郎、春秋社、2007)-日本的宗教観念と商業主義が生み出した建築物に映し出された戦後大衆社会のファンタジー
・・キリスト教的なるものという西洋への憧れは依然として日本女性のなかにポジティブなイメージとして健在

書評 『ミッション・スクール-あこがれの園-』(佐藤八寿子、中公新書、2006)-キリスト教的なるものに憧れる日本人の心性とミッションスクールのイメージ

書評 『日本人は爆発しなければならない-復刻増補 日本列島文化論-』(対話 岡本太郎・泉 靖一、ミュゼ、2000)
・・抜書きしておいた「日本におけるキリスト教の不振」にはぜひ目を通していただきたい。文化人類学者・泉靖一氏の見解に説得力がある

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2011年10月29日土曜日

映画「百合子、ダスヴィダーニヤ」(ユーロスペース)をみてきた-ロシア文学者・湯浅芳子という生き方



 日本映画『百合子、ダスヴィダーニヤ』をみにいってきました。本日から大阪での上映も始まったということだが、東京では渋谷の「ユーロスペース」で、毎日朝10時半からの一回のみ上映です。
 

作品名:『百合子、ダスヴィダーニヤ』(日本、2011年)
監督: 浜野佐知
脚本: 山﨑邦紀
製作: 森満康巳
出演者: 菜葉菜(なはな:湯浅芳子役)、一十三十一(ひとみとい:中條百合子役)、大杉漣(百合子の夫・荒木茂役)、吉行和子(百合子の母役)、洞口依子(野上弥生子役)その他
上映時間: 102分

 『百合子、ダスヴィダーニヤ』の百合子とは、作家の宮本百合子、結婚前は中條(ちゅうじょう)百合子。ダスヴィダーニヤとはロシア語でさよならの意味。百合子に対して「ダスヴィダーニヤ」(さよなら)と呼びかけているのはロシア文学者の湯浅芳子。

 これだけでは情報が少なすぎて、まだピンとこない人も多いかもしれません。そりゃあ、そうかもしれませんね。なんせ、いまからもう 90年も前、大正末期から昭和初期にかけての物語なのですから。


 物語は、この二人のインテリ女性の出会い、熱烈な恋愛とお互いを高め合う友情、そして別離を描いたものです。友情というには濃すぎる関係、レズビアンと言ってしまうと興味本位に受け取られる恐れがなくもない。当事者の二人にのみ秘められた関係であったということでしょう。

 その後なんと100歳まで長生きした、先輩の女流作家・野上弥生子(1885~1985)の仲介で出会ったとき、中條百合子(1899~1951)は25歳、湯浅芳子(1896~1990)は28歳。百合子は新進気鋭の作家、芳子は雑誌編集者。

 17歳でデビューし「天才少女作家」と呼ばれていた百合子は、成功した建築家の娘でブルジョワのお嬢様そのもの。留学先のニューヨークで出会った15歳年上の学者に一目惚れして19歳で結婚。ブルジョワ育ちながらも、すでに自分のチカラで生計を立てていた存在

 京都の裕福な魚問屋に生まれて、養女にいった先が「お茶屋」。花街で育った湯浅芳子は、生前分与された財産で、東京で二階建ての一軒家を一人で借りるほどの資産家。東京にでて大学でロシア語を学びながらも、大学中退後は自分の生きる道を探しあぐねていた「自分探し」の途上にあった状態

 平塚らいてうなどによる『青鞜』の時代によって、すでに切り開かれていたとはいえ、まだまだ女性が主体的に仕事を選択し、自己実現を図るのが難しかった時代、お互いに強い影響を与え合いながら高め合った関係でもあったのでした。



 映画では、最初の出会いから、急速に二人の愛が深まっていくまでの40日間に集中し、共同生活のなかで愛が冷めていくプロセスや、二人で行ったソ連の首都モスクワへの 3年間の私費留学と帰国後の別離については、示唆的にのみ触れています。

 上掲のポスター写真だと、だいぶ実在の二人とは見た目が違う印象ですが(笑)、それでも監督はキャスティングにはそうとう時間をつかったようです。舞台設定やインテリア、モダン着物などの衣装にはそうとう力を入れて「大正ロマン」の再現には成功していますが、2011年の日本人が1924年(大正14年)の日本人を演じるのは、どうしてもやっぱり限界があるのは仕方ありません。善戦しているとは思いますが。

 映像として美しく仕上がっているので、百合子と芳子の二人にとっても本望でしょう。ともにソ連にかかわった二人ですが、モスクワに私費留学(・・いや遊学ですか)するだけの資産をもった、ブルジョワ階級のインテリであったというのは興味深いことです。 


湯浅芳子という「孤高の人」(瀬戸内寂聴)について

 ところで、宮本百合子ときいてピンとくる人は、いまでは果たしてどれくらいいるのでしょうか? また、湯浅芳子といっても、現在ではほとんど忘却されているでしょうねえ。 

 文学愛好家ではないわたしは、"プロレタリア作家" 宮本百合子の作品はまったく読んでいません。また、宮本百合子と聞けば「ああ宮本顕治の妻か」とピンとくる人もいまではそう多くはないかもしれません。日本共産党書記長を長く務めた宮本顕治というだけで避けたくなるのは、わたしだけではないでしょう。

 原作でもあり映画のタイトルにもなった、沢部ひとみ氏の『百合子、ダスヴィダーニヤ』は、学陽書房の女性文庫(1996)で読んだのはいまか10年前くらいでしょうか。ふとしたキッカケでこの本の存在を知ったのは、宮本百合子ではなく、湯浅芳子というロシア文学者には多大な関心があったからです。

 高校時代から大学時代にかけてロシア文学はあらかた読んでいたわたしにとって、岩波文庫のロシア・ソ連文学の翻訳者としての湯浅芳子の名前は、ずっと気になる存在でした。とくに、チェーホフやゴーリキーなど、帝政ロシア末期からソ連にかけての世界的文学者の作品を多く訳しています



 いまではロシア文学者としての湯浅芳子の名前は、ソ連の児童文学作家サムイル・マルシャークによる名作 『森は生きている』(岩波少年文庫、1953)のものとして、かろうじて生き残っているくらいでしょう。そもそもロシア文学じたい、『カラマーゾフの兄弟』の新訳によるプチ・リバイバルがあっても、メジャーな存在ではなくなって久しいですから。 

 わたしの場合は、共産主義はキライでもロシアは好きで、しかもソ連好きな小学校教員などの影響もあって、けっこうロシアソ連にはけっこう詳しいのです。しかも愛読していたのはイリンとセガールによる『人間の歴史』(岩波書店の愛蔵版)。じつは、このセガールはマルシャークの実の弟で、しかもユダヤ系であるとしったのは後年のことですが。

 「湯浅芳子って、いったいどんな人なのだろう?」と思っていたのは、そういう背景があるのです。

 ちょうど時期を同じくして、瀬戸内寂聴さんによる湯浅芳子のの回想録 『孤高の人』が出版されてすぐに読みました。湯浅芳子の印象はこの本でほぼ固まったといっていいでしょう。現在は、ちくま文庫に収録されています。 

 「孤高の人」とは湯浅芳子を評して、まさに言い得て妙と言ったところかもしれませんね。自らを「いっぴき狼」と称した湯浅芳子にはふさわしい。プライドの高い、「凜」とした女性だったのでしょう。

 わたしは湯浅芳子には「精神の高貴さ」を感じます。比喩としては適切かどうかわかりませんが、永井荷風と同じ「精神の高貴さ」を死ぬまで持ち続けたひとだったのではないかと。湯浅芳子は老人ホームで亡くなったのが永井荷風とは違いますが。

 『孤高の人』は、この文章を書く前にもう一回読み返したいと思ったのですが、探さないとでてこないので、瀬戸内寂聴さんの回想としては、そのかわりに『奇縁まんだら 続』(瀬戸内寂聴、横尾忠則=画、日本経済新聞出版社、2009)に収録された湯浅芳子を紹介しておきましょう。

 横尾忠則による肖像画が三枚収録されていることから、新聞連載は3回に及んだのでしょう。おそらく、瀬戸内寂聴と湯浅芳子の交友は通り一遍のものではなかったからでしょう。小見出しは新聞社がつけたのかもしれませんが、参考のためにあげておくと、「レズビアンの先駆者は男装のロシア文学者」、「犬までリリーと名づける百合子への純愛」、「開拓者の孤独と誇りと栄光」。

 瀬戸内寂聴さんの文章を引用させていただきましょう。

 湯浅芳子と宮本百合子(結婚前は中條)のレズビアンの関係は、当人たちが隠しももせず公表しているので、天下周知のことであった。
 山原先生と同棲するまでに、湯浅さんは数々の華麗とも呼べる女性遍歴をしている。その中で生涯、誰よりも愛したのが宮本百合子であった。そして最も残酷な裏切りを与えられたのも百合子からであった。二人の仲は百合子のほうから湯浅さんに惹かれ、情熱的に迫って結ばれたものであった。
 最初の夫との仲が冷えた心の隙に湯浅さんへの恋をしのびこませ、意識的にあおって、燃え上がらせたのは百合子の情熱であった。
 二人の愛にピリオドを打たせたのは、9歳年下の若かりし日の宮本顕治の出現であった。

(出典:『奇縁まんだら 続』(瀬戸内寂聴、横尾忠則=画、日本経済新聞出版社、2009)P.77


 瀬戸内寂聴さんは、湯浅芳子はわがまま三昧な人だったと回想していますが、翻弄されつづけながらも、死ぬまでつきあいのあった瀬戸内寂聴という人もまた、興味深いものがありますね。 



映画「百合子、ダスヴィダーニヤ」にからめて書く、ロシア文学と大正時代についてのよしなしごと

 もともと湯浅芳子への関心から原作を読み、そして映画も見ることになったので、湯浅芳子がらみでいくつか書いておこうと思います。

 フェイスブックの友人からこの映画を教えられるまで、じつは映画化されたことはまったく知りませんでした。
 
 聞くところによれば、浜野監督は14~15年から映画化したかったそうですが、反対が強くてできなかったそうですね。製作資金の調達だけでなく、2007年に宮本顕治が亡くなるまでは、映像作品としては扱いにくいテーマにかかわっていたことは否定できないでしょう。

 いまではすでに「歴史」となったから可能となったわけですね。
 
 ところで、湯浅芳子の翻訳については今後も生き残るかどうかといわれれば、否定的にならざるを得ませんね。

 むかしからロシア文学においては、神西清(じんざい・きよし)のものが名訳とうたわれてきました。とくにプーシキンやチェーホフについては、岩波文庫では改版したうえで発行し続けていますが、チェーホフの戯曲については、湯浅芳子訳は新訳でリプレースしています。

 神西清のチェーホフの翻訳は新潮文庫に収録されているので、いまでも読むことができます。作家・堀辰雄の親友で、作家でもあった神西清の日本語が、とても翻訳だとは感じさせないほど透明で、すばらしいものであるのと比べると、湯浅芳子の訳文が、語学的な面はさておき、劣っているのは仕方がないでしょう。しかも、ソ連文学はソルジェニーツィンなどの例外を除けば、果たして今後も読まれることがあるかどうか。

 なぜ湯浅芳子の翻訳が岩波文庫にたくさん収録されていたかは、「岩波文化人」の大御所であった野上弥生子の存在抜きには考えにくいと思います。野上弥生子の夫の能楽研究家・野上豊一郎、息子のイタリア文学者野上素一ともども「岩波文化人」です。

 ちばみに映画の冒頭に百合子と芳子を引き焦るシーンで、野上弥生子がソーニャ・コヴァレフスカヤについて言及していますが、ソーニャは帝政ロシア時代の女性数学者で、岩波文庫には野上弥生子訳で、英訳からの重訳として『ソーニャ・コヴァレフスカヤ-自伝と追想-』が収録されていました。

 こんなところにも、ロシア・ソ連が、大正末期から昭和初期当時の文化人・知識人のあいだでどう受け止められていたか知ることもできるのではないでしょうか。

 昭和初期はまさに「モボ・モガ」の時代。モボとはモダンボーイ、モガとはモダンガールの略。女性のあいだでは洋装や断髪が流行した時代でした。これが 1929年(昭和4年)の「世界大恐慌」の到来以降は、マルクスボーイ・マルクスガールの流行となっていきますが、この後、共産党が徹底的に弾圧されたことは周知の事実でしょう。宮本百合子もまた、結婚してすぐに配偶者の宮本顕治が獄中の人となり、12年間の別離を強いられることになり、大いに苦労をすることとなります。

 いまでは日本とロシアの関係は、ロシア側の日本への一方的な片思いばかりで日本側はロシアにはつれない状態が続いていますが、1920年代にはそうではなかったことを知ってから、この映画を見ると時代背景がよよく理解されることでしょう。

 湯浅芳子が京都生まれであることに関連して、京都生まれの同時代人について一言触れておきたいものがあります。それは歴史学者の上原専禄についてです。

 上原専禄(1899~1975)は、湯浅芳子(1896~1990)の3歳下になります。宮本(中條)百合子(1899~1951)と上原専禄は同年生まれになります。上原専禄は、わたしの大学学部時代の先生であった阿部謹也先生のの、さらに先生にあたる人です。

 直接の接点があったのかどかどうかわかりませんが、湯浅芳子と上原専禄は、ほぼ同じ頃に京都の商家に生まれ、青春時代と職業人生を東京で過ごした京都人という共通点があることに興味がひかれます。

 上原専禄はドイツ中世史研究のために、関東大震災後の1923年(大正12年)12月から第一次大戦後のウィーンに留学して1925年(大正15年)に帰国、湯浅芳子は中條百合子とともにモスクワに私費留学したのは 1926年(昭和2年)、3年間の滞在ののち、「世界大恐慌」の始まった 1929年(昭和4年)に帰国しています。

 したがって、欧州での遭遇はなかったことになりますが、湯浅芳子と中條百合子はウィーンも旅行しているので、同じ空気を吸ったといってもいいでしょう。もちろん、海外留学したということは、当時としてはきわめてレアな体験の持ち主であることはいうまでもありません。また、留学当時のソ連はスターリンによる大粛清が行われる以前であったことにも触れておく必要があるでしょう。

 思想信条に違いはあっても、同時代人というものはおなじ「空気」のなかに生きていたという点で、なにかしら共通点をもっているものです。

 岩波書店からでている『座談会 明治・大正文学史』(岩波現代文庫、2000)の第三巻では「明治から大正へ」という座談会があって、上原専禄が招かれて発言していますが、上原専禄の発言を読むと明治時代とも、昭和時代前半とも異なる、「大正時代」の雰囲気がなんとなく伝わってくるものを感じます。



<関連サイト>

映画 「百合子、ダスヴィダーニヤ」公式ウェブサイト

湯浅芳子と宮本百合子 | 『百合子、ダスヴィダーニヤ』オフィシャルサイト


<参考文献>

映画「百合子、ダスヴィダーニヤ」カタログ(株式会社旦々社、2011)

『百合子、ダスヴィダーニヤ-湯浅芳子の青春』(沢部ひとみ、学陽書房女性文庫、1996 単行本初版   1990 文藝春秋社)
・・なお、2011年に静山社文庫から新装改訂版による復刊予定。

『孤高の人』(瀬戸内寂聴、筑摩書房、1997 現在は、ちくま文庫 2007)

『奇縁まんだら 続』(瀬戸内寂聴、横尾忠則=画、日本経済新聞出版社、2009)

『断髪のモダンガール-42人の大正快女伝』(森まゆみ、文春文庫、2000 単行本初版 2008)
・・「湯浅芳子-女が女を愛すること」と「中條百合子-生きぬく!書きぬく!」を参照。

なお、上原専禄については、『クレタの壺-世界史像形成への試読』(上原専禄、評論社、1975)に収録された「本を読む・切手を読む」(1974)によった。





<ブログ内関連記事>

バレンタイン・デーに本の贈り物 『大正十五年のバレンタイン-日本でチョコレートをつくった V.F.モロゾフ物語-』(川又一英、PHP、1984)
・・白系ロシア人亡命者モロゾフ一家の苦闘の物語

書評 『西洋史学の先駆者たち』(土肥恒之、中公叢書、2012)-上原専禄という歴史家を知ってますか?
・・「上原専禄(1899~1975)は、湯浅芳子(1896~1990)の3歳下になります。宮本(中條)百合子(1899~1951)と上原専禄は同年生まれになります。上原専禄は、わたしの大学学部時代の先生であった阿部謹也先生のの、さらに先生にあたる人です。 直接の接点があったのかどかどうかわかりませんが、湯浅芳子と上原専禄は、ほぼ同じ頃に京都の商家に生まれ、青春時代と職業人生を東京で過ごした京都人という共通点

日本人が旧ソ連の宇宙飛行船「ソユーズ」で宇宙ステーションに行く時代
・・ソ連と小学生

石川啄木 『時代閉塞の現状』(1910)から100年たったいま、再び「閉塞状況」に陥ったままの日本に生きることとは・・・ 

永井荷風の 『断腸亭日乗』 で関東大震災についての記述を読む
・・関東大震災は 1923年(大正13年)であった

書評『河合隼雄-心理療法家の誕生-』(大塚信一、トランスビュー、2009) 
・・古い岩波文化を打破した編集者が伴走した河合隼雄の評伝

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2011年10月28日金曜日

銀杏と書いて「イチョウ」と読むか、「ギンナン」と読むか-強烈な匂いで知る日本の秋の風物詩


 良い香りで秋の到来を知らせてくれる代表がキンモクセイであれば、逆に強烈な匂いで秋を感じさせてくれるものはギンナンであろう。

 いまここで「ギンナン」と書いたが漢字で書けば「銀杏」。ひらがなで読めば「イチョウ」である。

 「ギンナン」と「イチョウ」。音の響きはまったく異なるが、ともに秋の風物誌といってよいだろう。

金色(こんじき)の小さき鳥の形して
  いてふ散るなり 夕日の丘に (与謝野晶子)


 倒置法を用いた珍しい形式の和歌である。近代歌人の作品であるから和歌というべきではなく短歌というべきか。「いてふ」とは「イチョウ」のこと。「てふてふ」と書いて「ちょうちょう」(蝶々)と読ませるよりは何土は低いだろう。

 イチョウは黄葉する。詩的にいえば金色(こんじき)である。金色の鳥のような形をして秋の空を舞うイチョウの枯葉。秋である。

 一方、強烈な匂いで地面に目を落とすと、そこら中にギンナンの実が落ちてつぶれているのを目にする。アスファルトの舗道であれば、一面に拡がる白い汚れがいやがおうでも目につくことになる。



 「う~む、臭い」と感じるとともに、「ギンナンか」とクチにしてみる。そして、鍋物にいれて食べる串刺しのギンナンの実を思い出す。

 臭いが旨い。臭いものは旨い。不思議な感覚である。

 ところで、イチョウは雄株と雌株にわかれている面白い植物だ。植物でありながら精子と卵子をもち、花粉からつくられた精子が卵子と受精する生殖活動を行う。そしてできるのがギンナンである。植物でありながら、限りなく動物に近い存在。

 そういえば英語では Ginkgo(ギンコ)というのも、音の響きがなんだか不思議な感じのする植物だ。

 何か気になることがあったら、まずは wikipedia で調べてみる。これは基本動作としたいものである。以下にイチョウの項目から一部引いておこう。

イチョウに関する最初の植物学的な記述は、ケンペルの『廻国奇観 (Amoenitatum exoticarum) 』(1712年)にある Ginkgo, Itsjo で、これは「銀杏」を「ぎんきょう」と読んだ上で、Ginkjo, Itsjo (ギンキョウ、イチョウ)と筆記したつもりのものが、製本時に誤植されてしまったのだとされる。
 しかしリンネは『Mantissa plantarum II』(1771年)にこのまま引用し、Ginkgo を属名とした。1819年には、ゲーテが『西東詩集』のなかで Ginkgo の名を用いている。Ginkgo は発音や筆記に戸惑う綴りでもあり、また植物命名規則73条に従うなら誤植などは訂正すべきだが、いまのところはそのまま用いられつづけている。

 なるほど、ケンペル(・・つづりは Kempfer なので正確にはケンプファー)の『・・』は、日本事情を書いた定番の書籍として欧州ではよく知られたものであったが、スウェーデンの分類学者リンネはケンペルからイチョウをしったわけだ。

 ついでだから、ゲーテの『西東詩集』(West-Osterlich Divan, )も見ておこうか。「いちょう葉」(Gingko Biloba:ギンコ・ビローバ)という学名をタイトルとした詩が収録されている。1815年の作である。

東の邦よりわが庭に移されし
この樹の葉こそは
秘めたる意味を味わわしめて
物識るひとを喜ばす

こは一つの生きたるもの
みずからのうちに分かれしか
二つのものの選び合いて
一つのものと見ゆるにや

かかる問いに答えんに
ふさえる想念(おもい)をわれ見いだせり
おんみ感ぜずや わが歌によりて
われの一つにてまた二つなるを

(出典):『西東詩集』(ゲーテ、小牧健夫訳、岩波文庫、1962)P.128


 イチョウの葉がふたつにわかれていることを詠み込んだ詩だが、「二つなのに一つ」というコンセプトは、プラトン的というか、錬金術的なニュアンスを感じる詩である。ゲーテが思いを寄せていたマリアンヌという人妻への愛を歌ったものでもあるらしい。ゲーテはこの詩を、二枚のイチョウの葉とともに自筆の書簡として贈っている(下の写真)。




 植物学者でもあった博物学のひとゲーテならではの愛の詩でもある。科学者としての側面を抜きにしてゲーテを語るのは片手落ちというものだ。まさにイチョウの葉のごとく、科学精神と文学はゲーテの両輪である。

 科学精神といえば、イチョウの精子を発見したのはなんと日本人である! よほどイチョウは日本人に縁が深い植物なのだな。イチョウの生殖は、高校の生物学の授業で習うことだ。

 種子植物であるイチョウにも精子があることを世界で初めて発見したのは、帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)植物学教室に画工として勤務していた平瀬作五郎(1856~1925)で 1896年のことであった。そのことを記念した石碑が、現在は東大に所属する小石川植物園のなかにある。

 明治時代には、専門の教育を受けていない学者が大きな発見を行っている例が少なくない。この記念碑は、ぜひ一度たずねて見てほしいものだ。


 寒くなってきてそろそろ鍋の恋しい季節。ギンナンは鍋物で食べるか、あるいは焼いて塩をつけてビールとともに食べるか。

 「花より団子」ではないが、「枯葉よりギンナン」かな? 

 団子もギンナンも、串に刺すという点は共通しているしね。




<関連サイト>

ゲーテと植物 I 長田敏行 (小石川植物園後援会ニュースレター 第29号)
ゲーテと植物 II 長田敏行 (小石川植物園後援会ニュースレター 第30号)

(2014年5月10日 項目新設)







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ルカ・パチョーリ、ゲーテ、与謝野鉄幹に共通するものとは?-共通するコンセプトを「見えざるつながり」として抽出する
・・今回のイチョウの記事では意図したわけではないが、奇しくも与謝野晶子とゲーテを一緒に扱ったが、この記事では配偶者であった与謝野鉄幹とゲーテを一緒に扱っている

市川文学散歩 ①-葛飾八幡宮と千本いちょう、そして晩年の永井荷風

(2014年5月10日 情報追加)






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2011年10月26日水曜日

スティーブ・ジョブズの「読書リスト」ー ジョブズの「引き出し」の中身をのぞいてみよう!


 先日56歳の若さで亡くなったスティーブ・ジョブズ氏は、会社経営者ではありましたが、独創性のかたまりで、ある意味では「革命家」といってもよい存在でした。

 若き日にインドを放浪し、仏教徒になって禅仏教に傾倒していたことは、最近よく知られるようになってきたといってよいでしょう。

 では、ジョブズ(・・以下、敬称略)の「発想の源泉」は、ほかにはどんなところにあったのか? 手っ取り早く知るには、どんな本を読んでいたかをみるのが一番ですね。

 「蔵書をみれば、持ち主のアタマの中身がわかる」とはよく言われるところです。

 残念ながらジョブズの蔵書は公開されていませんし、「断捨離」の ZEN ライフを実践していたジョブズのことですから蔵書はもたない主義だったかもしれませんし、電子ブックとして iPad でしか読まなくなっていのかもしれません。したがって、詳細は現在のところわかりません。

 ただ、面白い記事がウェブ上に公開されてますので紹介したいと思います。

 The Steve Jobs Reading List: The Books And Artists That Made The Man というタイトルの記事です。日本語なら「ジョブズの読書リスト-この男をつくった本とアーチストたち」となるでしょうか。

 この記事の冒頭に引用されているジョブズのコトバ "I like living at the intersection of the humanities and technology."(人文科学とテクノロジーのインターセクションで暮らすのを好んでいる)に端的に表現されているように、ジョブズがテクノロジーと人文学の両分野で本を読み込んでいたことがよくわかる読書リストです。

 では、この記事にあげられている書名について、具体的に一冊一冊について見ていくこととしましょう。

●Clayton Christensen's "The Innovator's Dilemma
『イノベーションのジレンマ-技術革新が巨大企業を滅ぼすとき-(増補改訂版)』(クレイトン・クリステンセン、玉田 俊平太=監修、伊豆原 弓訳、 翔泳社、2001)
・・これは言うまでもなく、研究開発型企業の関係者の必読本。ジョブズはなんどもなんども読み込んでいたようです。

Ron Rosenbaum's 1971 Esquire article "Secrets of the Little Blue Box"
・・これはウェブ上にアップされていますので、http://www.lospadres.info/thorg/lbb.html から読むことができます。また、“Secrets of the Little Blue Box”The 1971 article about phone hacking that inspired Steve Jobs. という記事も参照。

英文学
ジョブズのコトバが引用されています。
"I started to listen to music a whole lot, and I started to read more outside of just science and technology -- Shakespeare, Plato. I loved King Lear,"Moby-Dick" and Dylan Thomas'."

「読書にかんしては、サイエンスとテクノロジー以外の世界-シェイクスピアプラトンも読んだ。『リア王』、『モビー・ディック(白鯨)』、それにディラン・トーマスの詩が好きだ」(ジョブズ)
・・シェイクスピアのなかでも『リア王』が好きだという人はあまり聞いたことがないですが、「追放された王」というリア王の物語は、なんだか意味深な感じもしないでもありません。


Shunryu Suzuki's "Zen Mind, Beginner's Mind"
『禅マインド ビギナーズ・マインド』(鈴木俊隆 、松永太郎訳、サンガ、2010)

・・2010年に日本語訳がでました。鈴木俊隆老(すずき・しゅんりゅう)師は、サンフランシスコ禅センターを中心に活動していました。ジョブズの禅の先生の一人ですね。


Chogyam Trungpa's "Cutting Through Spiritual Materialism"
『タントラへの道-精神の物質主義を断ち切って-』(チョギャム・トゥルンパ、めるくまーる、1981)

・・チベット仏教の僧侶による英語の説教。日本語訳は入手不能です。「読書リスト」にはチベット仏教の本もこの一冊あげられていますので、ジョブズはあえて禅仏教を選び取ったのだということがわかります。米国では禅仏教とチベット仏教が仏教では二大勢力。後者ではリチャード・ギアが有名です。 


Paramahansa Yogananda's "Autobiography of a Yogi"
『あるヨギの自叙伝』(パラマハンサ・ヨガナンダ、森北出版、1983)

・・とくにこの本は、ジョブズが生涯のあいだに、なんどもなんども読み返し読んだ本だそうです。iPad2 に唯一ダウンロードしていた本だとか。わたしは読んだことがありませんが、amazon のレビューでは高評価を得ていますね。


"Be Here Now"
『ビー・ヒア・ナウ―心の扉をひらく本-』(ラム・ダス、ラマ・ファウンデーション、吉福伸逸/スワミ・プレム・プラブッタ/上野圭一訳、平河出版社、1987)

・・「いま、ここに」というのは、刹那を重視する仏教の教えでもあります。ジョブズのマインドセットを規定していた思考がうかがえます。


"Diet for a Small Planet" by Frances Moore Lappe
『小惑星のためのダイエット』(フランセス・ムーア・ラッペ)
・・日本語訳はまだないようですが、英語版はすでに出版から20年以上たっているようですね。ぜひ読んでみたい本です。


Arnold Ehret's "Mucusless Diet Healing System"
『無粘液ダイエット・ヒーリング・システム』(アーノルド・エアレット)
・・この本も、日本語訳はまだないようですね。わたしも中身については知りません。断食好きなジョブズらしいチョイスです。


 「ジョブズの読書リスト」、みなさんはどんな感想をお持ちですか?

 正直いって、かなり異質な「変わり者」ではないかという印象を受けませんか?

 禅仏教の本やインド関係の本など、とともに、いかにも1960年代から1970年代の西海岸の影響のなかにどっぷりと浸かっていた人だなあという印象を持ちますね。断食やダイエット関係の本もその延長線上にありそうです。

 若い日の読書として、プラトンの対話編や、シェイクスピアの『リア王』やメルヴィルの『白鯨』などの英文学もあがっていますね。これらはみな若い頃の読書です。

 つまるところ、ジョブズの発想の源泉はビジネス書ではない、ということですね。

 ビジネス書だけ読んでるようじゃ、ジョブズみたいにはなれないということですね。すくなくともジョブズのような独創的な発想はでてこない。もちろん、ジョブズは経営者でありながら、ビジョナリー的要素の強い人であったわけですが。

 ビジネス書をいくら読んでも、人間の中身は形成されないということでしょう。ビジネス書は、あくまでも「術」を書いた本にすぎませんから。人間の生き方にかかわる「道」を説いた本は、ビジネス書にはあまりないといっても言い過ぎではないでしょう。すくなくともジョブズが読んでいたのは、いわゆる「自己啓発本」ではありません。もっと深いレベルの本です。

 誰もがジョブズになれるわけではありませんが、「人文科学とテクノロジーのインターセクション」というジョブズのコトバ、ぜひ若い人たちには味わってほしいものだと思います。豊かな体験や、人文的教養があってこそ、ビジネスの発想力も生まれてくるのです。

 それにくわえて、経営学をはじめとする「社会科学」が加わってきますが、ビジネス書も自己啓発書は別として、経営書のレベルまでいけば、立派な社会科学書ということができるでしょう。

 くれぐれも、ビジネス以外の本はまったく読んだことがないという「つまらない人」になってしまわないように! ちょっと変わっているくらいでいいのです。

 ジョブズがいう "Think different" という発言の背景に何があるのか、すこしでも参考になったのであれば幸いです。





<関連サイト>

日本人が知らないアメリカ起業哲学の源流 アイン・ランドは何を説いたのか (脇坂あゆみ :翻訳家、東洋経済オンライン、 2016年1月18日)
・・「スティーブは大きなことをして成功したいと思っていたし、ちゃんとした儲かる会社を興すことがそのための道だと考えていた。そしてそういう方向に進んでいった。彼という人物のなかでその部分はずっと変わらなかった。(・・中略・・) 彼は最終的に求めるものが違っていた。会社を興して成功したがっていた。指南書みたいな本も読んでいた。当時彼が話していたのは『肩をすくめるアトラス』とかだったかな。彼にとって本は世界で違いを生み出すためのガイドブックだった。で、それは会社を興すことから始まった。製品を作って利益を出す。その利益を投資してもっと利益を出す、さらにいい製品を作る。どれだけいい会社かは、利益によって測られるってね」、とアップル創業時の盟友ウォズニアックはジョブズの死に際して語っているという。
『肩をすくめるアトラス』は、アメリカの哲学小説家アイン・ランド(Ayn Rand)が1957年に発表した小説。ビジネス関係者や起業家に絶大な影響を与えてきたという。

(2016年1月18日 項目新設)


<ブログ内関連記事>

ジョブズ関連

グラフィック・ノベル 『スティーブ・ジョブズの座禅』 (The Zen of Steve Jobs) が電子書籍として発売予定

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巨星墜つ-アップル社のスティーブ・ジョブズ会長が死去 享年56歳 (1955 - 2011)

カリスマが去ったあとの後継者はイノベーティブな組織風土を維持できるか?-アップル社のスティーブ・ジョブズが経営の第一線から引退

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ジョブズの実践と重なるテーマ

「半日断食」のすすめ-一年つづけたら健康診断結果がパーフェクトになった!

成田山新勝寺「断食参籠(さんろう)修行」(三泊四日)体験記 (総目次)

書評 『修道院の断食-あなたの人生を豊かにする神秘の7日間-』(ベルンハルト・ミュラー著、ペーター・ゼーヴァルト編、島田道子訳、創元社、2011)

書評 『インド 宗教の坩堝(るつぼ)』(武藤友治、勉誠出版、2005)-戦後インドについての「生き字引的」存在が宗教を軸に描く「分断と統一のインド」

"Whole Earth Catalog" -「テクノロジーとリベラルアーツの交差点」を体現していたジョブズとの親和性

(2014年9月1日、2015年2月9日、9月5日 情報追加)



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2011年10月22日土曜日

「リスボン大地震」(1755年11月1日)後のポルトガルのゆるやかな 「衰退」 から何を教訓として学ぶべきか?


 ひさびさにポルトガル料理を食べて、赤ワインを心ゆくまで飲んだ。大学学部のゼミナールのメンバーたちと。

 ポルトガル料理店マヌエル四ッ谷店。マヌエル・カーザ・デ・ファド。ファドの家である。

 渋谷店は何度もいったことがあるが、四ッ谷店ははじめてだ。渋谷店が家庭料理をコンセプトに出しているのに対し、四ッ谷店のほうはファドの生演奏をコンセプトにしている。ただし、昨夜は演奏はなかったので、かえって会話に集中できてよかったが。

 シーフードをたっぷり使った料理は日本とよく似ている。というより、日本化した西洋とはポルトガルのことかもしれない。もうそれともわからないくらい日本化してしまっているのかも。

 この原稿は、「3-11」から2ヶ月たっていない、今年の5月にアップすべく準備したのだが、その後忙しくなってほったらかしになってしまっていた。この機会にあらためて、全面的に書き直してアップすることとした次第だ。


ポルトガルは物価も安くてのんびりした風土が心地よい

 個人的にはポルトガルという国も、リスボンという街も大好きで、1999年には10日くらい滞在していたことがある。ユーラシア大陸最西端のロカ岬までいって、認定証にもサインしてもらっている。

 リスボンはある意味、タイのバンコクのようにゆるやかな空気の流れた街で、しかもシーフードが安くて旨いときたら、ついつい長期滞在というより、「沈没」したくなってしまうのもムリはない。作家の檀一雄が晩年に一年間、ポルトガルの漁村サンタ・クルスに移り住んだのも納得できるものがある。

 とはいえ、いやだからこそ、あまり長居するとヤバいなと思ったわたしは、リスボン滞在は切り上げて帰国することにしたのだった。いまから12年前のことである。

 そういえば、わたしがリスボン入りしたその当日、まさに奇しくもファドの女王、ポルトガルの至宝であったアマーリア・ロドリゲスが亡くなったのだった。1999年10月6日である。それから3日間がポルトガルは喪に服していたのだった。

 いま、ファドの女王といわれたアマリア・ロドリゲスのCDをいかけながら書いているが、漁師町で夫の帰りをまつ女性の心情を歌ったファドを聞いていると、東北の三陸海岸とどうしてもオーバーラップしてしまうのを感じる。下の写真は、リスボン滞在中に Virgin Megastore で買ったもの。滞在中は毎夜、赤ワインを飲みながら、持参した CDプレーヤーで聴きこんでいた。



 ドイツの映画作家ヴィム・ヴェンダース監督のロード・ムービー『リスボン物語』(1995年)。これに出演しているポルトガルのバンド、マドレデウスもまたファドの影響を受けていて心地よい。

 衰退した国家の、のんびりとしたライフスタイル。観光客としてポルトガルを訪れる限り、これはけっして悪いものでもないな、と思ってしまう。そう思うのは、わたしだけではないだろう。



「リスボン大地震」(1755年)とその後のポルトガルのゆるやかな衰退

 リスボンでは、1344年、1531年、1755年に大地震が発生して大きな被害をもたらしてきたが、とりわけ 1755年の大地震はリスボンに壊滅的打撃を与えたものとなった。

 まずは、「1755年リスボン地震」がどんなものであったのか、そしてポルトガルの首都リスボンは、はどう復旧、復興し、あるいは復興できなかったのか、ゆるやかな「衰退」をたどることになるポルトガル史の一断面として見ておきたいと思う。

 「リスボン大地震」(1755年)という wikipedia の項目から、ちょっと長くなるが引用させていただこう。
 
「1755年リスボン地震」は、1755年11月1日に発生した地震。午前9時40分に西ヨーロッパの広い範囲で強い揺れが起こり、ポルトガルのリスボンを中心に大きな被害を出した。津波による死者1万人を含む、5万5000人から6万2000人が死亡した。推定されるマグニチュードはMw8.5。「リスボン大震災」ともいう。リスボンは地震の後、津波と火災によりほぼ灰燼に帰した

 これによりポルトガル経済は打撃を受け、海外植民地への依存度を増した。ポルトガルでは国内の政治的緊張が高まるとともに、それまでの海外植民地拡大の勢いはそがれることとなった。

 また震災の悲報は、18世紀半ばの啓蒙時代にあった西ヨーロッパに思想的な影響を与え、啓蒙思想における弁神論と崇高論の展開を強く促したといわれる。それまで存在した「予定調和的世界」が崩壊してしまったのだ。

 「1755年リスボン地震」によって思想的に大きな変化を蒙った思想家にはヴォルテールがいる。これについては、ブログ記事「自分の庭を耕やせ」と 18世紀フランスの啓蒙思想家ヴォルテールは言った-『カンディード』 を読むを参照されたい。

 「1755年リスボン大地震」は当時の西欧世界においては、2011年の「3-11」級のインパクトがあったということだろう。アタマでは知っていた知識も、じっさいに大地震を体験したことで、日本人としてアクチュアルなものと感じることができるようになった。

 今回の「東北関東大震災」が発生する前のことだが、NHKの番組でこういう内容のものを見たのを思い出した。「リスボン大地震」の痕跡が、当時から残っている民家の壁を分析することによって明らかになるというような内容だったと思う。

 さて、引き続き、wikipediaの記述によって、リスボン再建と新生のプロセスについて見ておこう。

震災後

 国王一家は幸運なことに震災で怪我ひとつしなかった。ジョゼ1世らは当日未明にリスボンを出て日の出の時刻にミサに出席した後、王女の願いを聞いて街から離れて祭日を過ごそうとしていた。地震の後、王は壁に囲まれた空間に対する恐怖症となり、破壊された宮殿には戻らず、宮廷を郊外のアジュダの丘に立てた大きなテント群に移した。ジョゼ1世の閉所恐怖症は死ぬまで治らず、娘のマリア1世の時代に木造幕舎が火災に遭うまで宮殿は造られなかった(テント宮殿の焼け跡にマリア1世はアジュダ宮殿を建て、今日まで残っている)。

 宰相のセバスティアン・デ・カルヴァーリョ(後のポンバル侯爵)は王室同様に地震を生きのびた。彼は地震直後「さぁ、死者を埋葬して生存者の手当をするんだ」と命じたと伝えられる。
 彼は、後年ポルトガルに君臨した時と同様の実用主義をもって、すぐさま救命と再建に取りかかった。彼は消火隊を組織し、市街地に送って火災を鎮め、また疫病が広がる前に数千の遺体を処理せよと軍隊に命令した。

 教会の意見や当時の慣習に反し、遺体ははしけに積まれてテージョ川河口より沖で水葬された。廃墟の町に無秩序が広がるのを防ぐため、特に略奪を防ぐため、街の周囲の丘の上に絞首台が作られ、30人以上の人々が処刑された。ポルトガル軍は街を包囲して強壮な者が街から逃げるのを防いだが、これにより廃墟の撤去に多くの市民を駆り出すことができた。

 震災から間もなく、宰相と王は建築家や技師を雇い、1年以内にリスボンから廃墟は消え、至るところが建築現場になった。王は新しいリスボンを、完璧に秩序だった街にすることにこだわった。大きな広場と直線状の広い街路が新しいリスボンのモットーとなった。当時、こんな広い通りが本当に必要なのかと宰相に尋ねた者もいたが、宰相は「いずれこれでも狭くなる」と答えた(現在のリスボンの交通混雑は、彼の知恵が現実になったことを示している)

 当時、宰相の指揮下で建てられたポンバル様式建築は、世界最初の耐震建築でもある。まず小さな木製模型が作られ、その周りを兵士が行進して人工的な揺れを起こし、耐震性が確かめられた。
 こうしてリスボンの新しいダウンタウン、通称「バイシャ・ポンバリーナ」(ポンバルの下町)が作られ、新興階級であるブルジョアジーが都市中心部に進出していった。アルガルヴェ地方のスペイン国境付近にあるヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオなど、ポンバル侯爵のリスボン都市計画を応用して再建された都市はポルトガル各地にある。

 いやな連想はもちたくないが、ポルトガルはその後二度と覇権国になることはなかった。ポルトガルが味わった「短い黄金時代」は、植民地支配と収奪によるものだが、黄金時代の短さにかけては日本と同じかもしれない。

 この大地震のあと、リスボンはまったく新しい都市として再生したが、植民地依存型経済のポルトガルはブラジルも失い、衰退への道をたどっていくことになる。現在のポルトガルは、財政破綻した小国家にすぎない。

 とくに2008年の「リーマンショック」以降は、債務不履行すれすれの状態、国の将来に見切りを付ける若者が増えているという報道もある。書評 『ユーロが危ない』(日本経済新聞社=編、日経ビジネス人文庫、2010)を参照していただきたい。 

 司馬遼太郎の『街道をゆく 23 -南蛮のみちⅡ』(朝日文庫、1988)に収録された「ポルトガル・人と海」によれば、作家・詩人の木下杢太郎こと太田静雄医学博士は、若い頃の南蛮趣味が高じて、キリシタン研究も趣味の域を超えていたようだが、若き日の憧れの地であるポルトガルに中年になってからはじめて訪れたリスボンは、喧噪が甚だしく、「大地震」以前の古いもの建築物が残っていないのであまり興味をひかなかったらしい。

 あえてポルトガルを代表する詩人フェルナンド・ペソアのリスボン案内記『ペソアと歩くリスボン』(近藤紀子訳、彩流社、1999)を引き合いに出さなくても、リスボンは坂の多い、じつに魅力的な街だ。司馬遼太郎も気に入っていたようだ。わたしも大いに気に入っている。



「高校地図帳」からわかる日本とポルトガルの共通性

 日本の東北とポルトガルの海岸線は、距離的にはほぼ同じ400km である。

 「3-11」の大津波の被害のあった東北太平洋岸の海岸線が 400km という話をきいてピンときたので、さっそく高校の地図帳を取り出してみたら、なんとあらかじめ図ったかのように、ポルトガル沖に日本列島をうすいピンク色でプロットされているではないか!

  以下にスキャンしたのは、『新詳高等地図-最新版-』(帝国書院編集部編、帝国書院、2006)である。高校の地図帳ほど役にたつものはない。



 そういえば緯度もほぼ同じ、同じく漁業国で「海洋国家」。この二つの国には、共通点があまりにも多すぎるのだ。

 リスボン大地震の震源は、イベリア半島南西沖のようだ。おなじく wikipedia から、震源地をプロットした画像を引用させていただこう。



 そしてまたあかるのは、「1755年リスボン大地震」では、津波が同心円状に拡がっていったことだ。おなじく wikipedia から、津波の拡散状況をの画像を引用させていただこう。



 この地図からもわかると思うが、ポルトガルは地中海諸国ではないのだ。ヨーロッパでは唯一、大西洋にのみ面した国である。アメリカ大陸ををはさんで、ポルトガルと日本とは隣国といえる。これは地球儀で確認できることだ。

 じっさい、米国東海岸の漁師には、アゾレズ諸島などから漂流して居着いたポルトガル系の人間が多いとも聞く。東海岸のビーチを歩いていると、肌が浅黒く、あきらかにアングロサクソンではない風貌をよく見かける。

 そしてまた、ユーラシア大陸の両端に位置しているのが日本とポルトガルである。ユーラシア大陸はユーラシア・プレートのうえに乗っている。日本もまた西半分がユーラシアプレート上にある。

 wikipedia の「プレート」という項目に掲載されている地図を加工して、ユーラシア・プレートを中心に再構成してみると、3つのプレートがぶつかる日本ほど危険ではないが、ポルトガルもまた沖合で2つのプレートがぶつかりあう危険な地帯であることがわかる。



 日本が「日出づる国」であれば、ユーラシア大陸の西端に位置するポルトガルは「日沈む国」である。対岸北アフリカのマグリブと緯度は違うが軽度はほぼ同じだ。



衰退の作法-ポルトガルの場合

 「大英帝国の興亡」は日本でも大きな話題になるが、おなじく「海洋帝国」であった「ポルトガルの衰退」は、なぜか話題になることは少ない。

 「大航海時代」を切り開いたのは、ユーラシア大陸西端の国家ポルトガルであり、その旗振り役を果たしたのがエンリケ航海王子である。

 インドのゴア、現在のマレーシアのマラッカ、そして中国のマカオを極東の拠点にして日本とも往来するに至ったのは、現在ではもともと存在したイスラーム商人の交易ルートに取って替わったものであると了解されるようになっている。とはいえ、爆発的なエネルギーが根底にあったことは間違いない。

 それに加えて、「進取の気性」の強いのがポルトガル人だろう。 『ウズ・ウジアダス』(ポルトガルの人々)で有名なポルトガルの国民詩人カモンイス(1524年頃~1580年)は、一節によれば、なんとマカオまで足を伸ばしていたという。

 伝統的に海外にでかける人間が多いポルトガルは、本国とは縁が切れて「土着化」してしまっている者もきわめて多い。

 ブラジルでも、インドのゴアでも、マレーシアのマラッカでも、東ティモールでも、現地人と混血して「土着化」が進んでいる。人間も混血すれば、料理も土地の料理と融合してあらたなジャンルを生み出すに至っている。『南蛮料理のルーツを求めて』(片寄眞木子、平凡社、1999)は、土着化したポルトガル人の末裔の料理におけるクリエイティビティをよく描いた本でおすすめだ。

 日本には、ポルトガルの元海軍士官で、外交官として神戸に駐在していたモラエスのような人もいた。モラエスは後半生を徳島に隠棲して過ごしている。

 日本にかんする記事の文筆活動で生計を支えていたモラエスは、ポルトガル本国との縁は切らなかったようだが、現在ではポルトガル国内でも知る人は少ないようだ。

 リスボンに行った際、観光案内所でモラエスの旧家について場所を訊ねたところ、わからないという回答が帰ってきただけでなく、「モラエスとは誰か?」と逆に聞かれてしまった。ある意味では、海外に土着し、その土地の土となって、本国に住み人間からは忘れ去られた人であるのかもしれない。

 海外に出て「土着化」しやすいのは日本人も似ているような気がする。それはそれで、いいではないか。

 徳川幕府の三代将軍家光のときにいわゆる「鎖国令」がでてから、海外在住の日本人は帰国できなくなり、在住先に土着化し歴史のなかに消えていった。こういう点は、移住先にチャイナタウンをつくる中国人とは大きく異なるようだ。

 「鎖国」した日本とは異なり、17世紀以降も、ゆるやかに衰退しながらも 「海洋国家」 でありつづけたポルトガルは、最初で最後の「植民地帝国」として、「1755年リスボン大地震」以降は、国内経済の衰退を植民地への経済的依存で乗り切った。先にも書いたように、ポルトガルは1974年の革命で海外植民地ほほぼすべて放棄したが、マカオは最後の最後まで維持しつづけた。

 わたしがリスボンに滞在していた1999年10月は、旧ポルトガル領の「東ティモール独立運動」がピークに達していた頃だ。音楽による東ティモールへの支援活動も行われていて、バンドの名前は忘れたが、わたしもシングル盤のCDをリスボンで購入している。

 東ティモールは1999年8月に国民投票で独立を選択し、2002年にはようやくインドネシアから独立を勝ち取ることができた。1997年の 「IMFショック」後の弱体化した経済と混乱する政治状況のなか、激しい闘争ののちに勝ち取った独立であるが、陰に陽にポルトガルが支援していたことも記憶しておくべきだろう。インドネシアは、東ティモール以外は大半がオランダの植民地であった。

 そして、1999年12月20日、ポルトガル最後の植民地マカオは中国に返還された。1997年の香港返還の影にかくれて忘れられがちだが、英国が香港を放棄した時点でマカオの運命も決まったといってよい。

 できれば、返還される前にマカオに行きたかったのだが、残念ながらそれはかなわなかった。数年後にようやくマカオにはいくことができたが、予想に反して街中にはポルトガル語表記の看板が生き続けていた。

 まあ、こんなことを考えていると、うまい衰退の仕方が重要なのではないか、と思うのである。大英帝国も、オランダも、フランスも、スペインもポルトガルも、植民地を放棄したかつての覇権国はいずれも、歴史の表舞台から主役を降りた後は、ゆるやかに衰退する道を歩まざるをえない。これは、いい悪いといった次元の話ではなく、歴史的事実である。

 「衰退」という二文字には夢がないというなかれ。 日本はここにきてやっと大人の国に脱皮する重要な時期を迎えつつあるのではないか。

このブログでも、NHKによる「坂の上の雲」ドラマ化に距離をおいて、衰退論として大英帝国に言及した記事を書いているが、重要なのはどのような衰退の仕方を選択するかということではないだろうか。

 衰退の比較論をするにはブログ記事だけではとても書ききれないが、大英帝国も、オランダも、フランスも、スペイン、ポルトガルについて、衰退過程が始まってからの歴史的推移をキチンとトレースすることが重要である。

 海外にでて土着化するもよし、国内に踏みとどまって生きてゆくのもよし。 

 要は、この日本もまた短い黄金時代を享受したのち、間違いなく始まっている衰退過程にあるという歴史的事実から目をそらすことなく、まずは自分自身の生き方を決めて行動していくことが大事なのである。

 他人の行動を非難したり、吠えたりするのはお門違いだというべきだろう。あくまでも自分の人生、他人の発言に右往左往すうることなく、信念を貫いて生きてゆくべきである。


<参考文献>

『ポルトガル史』(金七紀男、彩流社、1996)

『街道をゆく 23-南蛮のみちⅡ-』(司馬遼太郎、朝日文庫、1988)


『ポルトガルへ行きたい(とんぼの本)』(菅原千代志/日埜博司他、新潮社、1995)


『ポルトガルを知るための55章 第2版(エリア・スタディー)』(村上義和/池俊介=編著、明石書店、2011)がつい先日、2011年10月に出版されたが、驚いたことに、1755年の「リスボン大地震」の記述が項目としてたてられていない。「3-11」後の日本ではもっとも大きな話題である「大地震」を、ポルトガルはどう乗り切ったか、乗り切れなかったのかという記述を欠いているのは理解できない。
編者たちも出版社も、時代状況が読み切れずに、ピンぼけしているのではないか?


 


PS 2023年9月8日に発生したM6.8のモロッコ大地震

死者が2000人を超える大地震が発生。世界遺産のマラケシュでも、耐震設計のされていない旧市街やモスクが倒壊。
モロッコはポルトガルとは地中海をはさんで対岸にある。ポルトガルは「ユーラシアプレート」、モロッコは「アフリカプレート」のうえにあり、ともにプレートの境界に近い
詳細は、「2023 Marrakesh-Safi earthquake」(Wikipedia)を参照。

(2023年9月12日 記す)



<関連サイト>

大地震はそれまでの楽観論を覆した-18世紀、リスボンの地震が起こした思想界の激震(上)
・・しかし一七五五年に、リスボンとは遠く離れたケーニヒスベルクの町で大学の私講師になったばかりのカントにとっては、この事件は神の摂理の問題でも、弁神論の問題でもなく、まず地球力学の問題だった。

旧植民地に頼るポルトガル(FINANCIAL TIMES の翻訳記事 2010年1月18日)

イタリアとスペイン国債が下落-ポルトガル格下げで危機拡大を懸念 2011年7月6日

止まらぬ頭脳流出 ~ユーロ危機 ポルトガルの落日~ (NHK・BS1 ドキュメンタリーWAVE 2012年10月6日放送)
・・ポルトガル旧植民地のアフリカ諸国に頭脳流出する若者たち


<ブログ内関連記事>

「自分の庭を耕やせ」と 18世紀フランスの啓蒙思想家ヴォルテールは言った-『カンディード』 を読む

We're in the same boat. 「わたしたちは同じ船に乗っている」

書評 『ユーロが危ない』(日本経済新聞社=編、日経ビジネス人文庫、2010)
・・「ポルトガルがさらに衰退する可能性の岐路にたっている記述を読むと、他国のことながら暗澹(あんたん)とした気持ちになる。若者に夢のない国として、母国に見切りをつける動きがでているらしいのだ」

『檀流クッキング』(檀一雄、中公文庫、1975 単行本初版 1970 現在は文庫が改版で 2002) もまた明確な思想のある料理本だ
・・ポルトガルの漁村で晩年の一年間を過ごした檀一雄の『檀流クッキング』には、ポルトガルの庶民料理も登場する。

「500年単位」で歴史を考える-『クアトロ・ラガッツィ』(若桑みどり)を読む
・・1543年鉄砲伝来、1549年キリスト教伝来。ともにその役割を担ったのは「大航海時代」のポルトガル人であった

書評 『未来の国ブラジル』(シュテファン・ツヴァイク、宮岡成次訳、河出書房新社、1993)-ハプスブルク神話という「過去」に生きた作家のブラジルという「未来」へのオマージュ

NHK連続ドラマ「坂の上の雲」・・・坂を上った先にあったのは「下り坂」だったんじゃないのかね?

秋山好古と真之の秋山兄弟と広瀬武夫-「坂の上の雲」についての所感 (2) 

書評 『大英帝国衰亡史』(中西輝政、PHP文庫、2004 初版単行本 1997)

(2016年2月8日 情報追加)


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