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2023年1月31日火曜日

書評『犢を逐いて青山に入る ― 会津藩士・広沢安任』(松本健一、ベネッセ、1997)ー 目を未来に向けて明治を生きた会津人もいた

 

これまた購入してから積ん読すること四半世紀。これで松本健一氏の旧会津藩士ものは、山本覚馬、秋月悌次郎を含めて、ほぼすべて読んだことになる。 

幕末の激動期を生きた旧会津藩士たちだが、そのなかでも広沢安任(ひろさわ・やすとう 1830~1891)の後半生は、ずいぶんと違うものであった。 

秋月悌次郎が「明治を耐えて生きた」人だとすれば、同時期に幕末の京都で会津藩の公用役(・・藩外の交渉役)をつとめた広沢安任は、いわば「目を未来に向けて明治を生きた」人だといっていいだろう。 

その点においては、幕末維新の動乱後の京都の復興に後半生を過ごし、同志社の創立にもかかわった山本覚馬に近い。 

(広沢安任 Wikipediaより)

タイトルの「犢(こうし)を逐(お)いて青山に入る」は、広沢安任の漢詩の一節だが、かれは明治になってから「刀を売って子牛を買った」人である。 

会津藩が移封された斗南、つまり本州最北の下北の地で旧会津藩の藩士たちを救うために牧畜業を開始し、成功させたのである。人間到る処青山あり。下北の地を青山(せいざん)、すなわち骨を埋める地と定めてのこことである。 

幕末の京都で広沢安任は、秋月悌次郎とともに「会薩同盟」の実現に大きな役割を果たしただけでない。公武合体派の佐久間象山による、最終的に天皇を江戸に移す「遷都計画」において、山本覚馬とともに働いたことにある。この計画は象山が暗殺されたことで失敗に終わったが、幕末史のきわめて重要な事項にかかわっていたのである。 

会津藩が「朝敵」とされ、慶喜や藩主とともに江戸に戻ってきた際には、働きが評価されて側用人となっていた広沢安任も行動をともにしていた。

会津藩の汚名をそそぐため、勝海舟の発案によって西郷隆盛との談判に赴くが、すでに江戸を離れていた西郷に会うことはかなわかった。 帯に書いてあるように、「もしこの男が西郷隆盛に会えていれば、会津藩の悲劇は避けられたかもしれない」とは、そのことを指している。江戸城の無血開城の工作にあたった山岡鉄舟の再現とはならなかったのである。 

西郷に会うことかなわず、江戸で捕縛され獄中に2年強を過ごすことになる。その結果、広沢安任は戊辰戦争に参加することはなかった。もし獄中になければ、秋月悌次郎とおなじく、間違いなく主戦派として籠城することになっていたであろう。 

(後列で真ん中に立っているのが広沢安任 『秋月悌次郎ー老日本の面影』より)

釈放後に会津藩の小参事に就任した広沢安任は、移封にあたって、猪苗代ではなく斗南の地を選ぶよう主張したらしい。このことは初めて知った。 

未開拓の地で新規まき直しを図るべきだというのがその趣旨だが、柴五郎の手記に記された旧会津藩士たちがの過酷な状況を知っていると、長期的視点に立った意思決定とはいえ、現実としてはかなり酷なことだったのではないかと思う。  

農業には適していない下北の地で、経世済民の観点から牧畜を始めることを企画したのも広沢安任であった。スコットランド人の農業技師と5年契約を結び、共同で牧場経営にあたっている。乳牛と肉牛、そして馬と豚の飼育と販売事業。もちろん、当時は西洋文明そのものであった牧畜業である。

昌平黌で朱子学を学んだが、大器晩成型であったかれは、「格物究理」の側面では実学志向の人だったようだ。その意味では、山本覚馬のように直接の門下でなかったものの、志向するとことは師と仰いだ佐久間象山に近かったようだ。 

殖産興業を推進する新政府の方針とも合致していたこともあって、資金調達にかんしては政府資金を必要なだけ借り入れることができた。初年度や翌年度は苦しかったものの、4年目に黒字転換を実現している。どのような事業計画があったのか、見てみたいと思う。

  『イノベーターたちの日本史ー近代日本の創造的対応』(米倉誠一郎、東洋経済新報社、2017)では、旧長州藩士の笠井順八による小野田セメント創業が紹介されている。 新政府が推進する軍事や鉄鋼・造船、機械や製糸などの産業政策に沿ったものであった。

旧幕関係者は、そういったメインストリームからはずれた場に置かれていたこともあるが、維新の負け組であった会津藩にも、牧畜業を成功させた広沢安任のような人がいたのである。教育やジャーナリズムの世界ではなく、実業の世界での成功者がいたのである。この事実を知ってうれしく思う。 

旧会津藩士の後半生として、秋月悌次郎の生き方には深い感動を覚えるが、広沢安任のような生き方には、晴れ晴れとすがすがしいものを感じる。過去を生きるのではなく、当の本人が前向きに未来を生きようとした人生だからだ。 

著者は「あとがき」の末尾でこう書いている。 

広沢安任は、思想家としては師の佐久間象山に及ばず政治家としては勝海舟に及ばず、実業家としては渋沢栄一に及ばず、漢詩人としては雲井龍雄や秋月悌次郎には及ばない。しかし、一人の人間として、わたしは本書を書き始めたときよりもずっと、かれのことを好きになった・・・


わたしもまた同感である。


 

目 次
第1章 瞬く間の人生
第2章 詩人ならざる詩人
第3章 政治的人間
第4章 政治から解き放たれて
第5章 斗南の地で
第6章 日々、日暮れて帰る
第7章 人間到るところ青山あり
あとがき

著者プロフィール
松本健一(まつもと・けんいち)
日本の評論家、思想家、作家、歴史家、思想史家。麗澤大学経済学部教授。 中国日本語研修センター教授、麗澤大学経済学部教授、麗澤大学比較文明文化研究センター所長、一般財団法人アジア総合研究機構評議員議長、東日本国際大学客員教授、内閣官房参与(東アジア外交問題担当)などを歴任した。主な著書に『近代アジア精神史の試み』(岩波現代文庫、アジア・太平洋賞受賞)、『日本の近代1 開国・維新』(中公文庫、吉田茂賞)、『評伝北一輝 全五巻』(中公文庫、毎日出版文化賞・司馬遼太郎賞)など多数。2014年没。(本データは『「孟子」の革命思想と日本』2014年が刊行された当時に掲載されていたものに wikipedia 情報で加筆)

 
PS 「足利三代木像梟首事件」(1863年)の捜査と捕縛

本書には、広沢安任らが「足利三代木像梟首事件」(1863年)の犯人として平田国学派の攘夷主義者達を捕縛した際に、押収したとされる『英将秘訣』なる怪文書の件については触れられていない。『英将秘訣』にかんしては、『自己超越の思想 近代日本のニヒリズム』(竹内整一、ぺりかん社、2001 初版1988)を参照。



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・・「目明かし伝」で山本覚馬が取り上げられている





・・大山捨松は会津藩の山川家の出身。恩讐を超えて薩摩藩出身の大山巌と結婚することになる


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書評『秋月悌次郎 ー 老日本の面影(決定版)』(松本健一、中公文庫、2013)ー「 明治を耐えて生きた」会津人の後半生に静かな、そして深い感動を覚える

 

NHKの大河ドラマ「八重の桜」が放送された際に文庫化され購入したのであったが、あっという間に10年たってしまった。 

原本の出版は1987年とのことだが、不思議なことに読んでいて古さをまったく感じさせない。扱っている素材そのものが、そもそも昔の話であり、しかも時代を越えた存在である。だから、そう思わせるのであろう。 

(ラフカディオ・ハーンの『東の国から』)

熊本の旧制五校で同僚だった英語教師のラフカディオ・ハーン(=小泉八雲)『東の国から』(Out of the East, 1895)で「神のような人」と讃えた人。豊かなあごひげが白かったからだけではない。その前半生は、会津藩士として激動の幕末を生き抜いた人であった。その古武士のような存在に、ハーンは感嘆していたのである。 


(秋月悌次郎 Wikipediaより)


戊辰戦争においては、主戦派として会津藩の軍事奉行添役(副奉行)として奥羽列藩同盟の外交交渉に奔走敗戦に際しては白旗を掲げて降伏の申し役を努めることになった人。それが秋月悌次郎(1824~1900)である。明治維新を境にした後半生は、32年に及んだ。 

藩命によって学んだ幕府の昌平黌では、11年間にわたって学び、寮長として学生たちを教えた人。学識深い漢学者で漢詩人であった。資質と性行の異なる長岡藩の河井継之助との交流も興味ぶかい。はじめての出会いは山田方谷を訪ねた備中松山藩でのことであり、その後に西遊中の二人は長崎で深い交わりを結ぶ。

京都守護職となった藩主のもと、薩摩藩との同盟に大きな功労があった。 尊王的傾向ゆえ公武合体派に近く、会津藩内ではうとまれて左遷され蝦夷地に赴任。ふたたび京都に戻されたもののの、状況は激変していた。薩摩藩による裏切りは、会津藩をして徹底抗戦の途を余儀ないものとしたのであった。 

(戊辰戦争後の集合写真 長州藩士で戊辰戦争では敵味方の関係になったが、漢詩をつうじて心友であった奥平謙輔も一緒に)

戊辰戦争の敗戦後は、敗軍の将として終身刑の判決を受けるが、3年あまりで恩赦がでて、新政府の役人として出仕することになる。

3年あまりで官を辞したのは、生活のためとはいえ、敗者としてそんな生き方には恥ずかしさを覚え、心中では耐えがたいものがあったのであろう。すでに50歳となっていた。 

しかしながら、旧会津藩士の多くがそうであったような薩摩への復讐感情はもたず、極端な途を選ぶことなく保守主義者として人生をまっとうする。朱子学を深く学び、『中庸』の精神そのままを生きた人なのであった。 

(右から二番目の白鬚の老人が秋月悌次郎。真横を向いているのがハーン。真ん中は五校校長の嘉納治五郎)

漢学と倫理の教師として熊本の旧制五校の教壇に立っていたのは、明治23年(1890年)から28年までの5年間。65歳から70歳までの晩年のことである。 

各界で日本を率いていくべきリーダー育成にはたした役割は、「伝説の教師」として、ハーンや漱石と並んで、長きにわたって五校生のあいだで語り継がれていたらしい。 

存在そのものが、人間の生き方の見本となるようだった人。消えゆく旧世界そのものだったような人。そうであるにもかかわらず、学生たちにあたえた感化が大きかったのである。背中で教えたのである。人格そのものが感化したのである。 

著者の松本健一氏は秋月悌次郎のことを「懐かしい人」としているが、まさにその通りの感懐を読者に抱かせる。

70歳で五校生を引率した鹿児島修学旅行の帰途、「加久藤越え」の際のエピソードなど、目に浮かぶようだ。 
  
20歳前後の学生たちの先頭に立って、「エイ、エイ」とかけ声をかけながら気合いをいれて下山する老人。それはぬかるみ道ですべらないよう、枯れ草をまきながらのことであった。学生たちは、まさに背中で学んだのである。

ああ、そんな人がいたのだ。そんな世界がかつてあったのだ。静かな、そして深い感動を覚えるのである。  





目 次
Ⅰ 秋月悌次郎 老日本の面影 
 第1章 神のような人
 第2章 法と道 
 第3章 詩と志
 第4章 永遠に守るべきもの
Ⅱ 非命の詩人 奥平謙輔
 第1章 「戦争」の会津
 第2章 「政治」の佐渡
 第3章 「革命」の萩 
Ⅲ 「老日本の面影」前後 
 秋月悌次郎 ― 維新の激動を越えて 
 加久藤ごえ紀行 
 司馬遼太郎と私 
増補・新版 あとがき
文庫版 あとがき


著者プロフィール
松本健一(まつもと・けんいち)
日本の評論家、思想家、作家、歴史家、思想史家。麗澤大学経済学部教授。 中国日本語研修センター教授、麗澤大学経済学部教授、麗澤大学比較文明文化研究センター所長、一般財団法人アジア総合研究機構評議員議長、東日本国際大学客員教授、内閣官房参与(東アジア外交問題担当)などを歴任した。主な著書に『近代アジア精神史の試み』(岩波現代文庫、アジア・太平洋賞受賞)、『日本の近代1 開国・維新』(中公文庫、吉田茂賞)、『評伝北一輝 全五巻』(中公文庫、毎日出版文化賞・司馬遼太郎賞)など多数。2014年没。(本データは『「孟子」の革命思想と日本』2014年が刊行された当時に掲載されていたものに wikipedia 情報で加筆)


PS 秋月悌次郎の生涯は歴史小説家の中村彰彦氏が小説化している

松本健一氏によれば、司馬遼太郎は「小説に書けるような存在ではない」と記していたそうだ。おそらく、松本氏の著書が呼び水となって「敗軍の将」で降伏の申し役となった秋月悌次郎の名誉回復がなされ、中村彰彦氏による歴史小説『落花は枝に還らずとも』(中央公論新社、2004年)につながったのであろう。


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2023年1月30日月曜日

書評『われに万古(ばんこ)の心あり 幕末藩士小林虎三郎』(松本健一、ちくま学芸文庫、1997)ー 真の「保守主義者」の遠くを視るまなざし

 
『われに万古(ばんこ)の心あり 幕末藩士小林虎三郎』(松本健一、ちくま学芸文庫、1997)を読了。購入してから四半世紀も積ん読となったままだった本。単行本初版は1992年の出版。  

小林虎三郎の名前は、いわゆる「米百俵」と結びついている。有名になったのは、小泉純一郎元首相の就任演説でそのエピソードが紹介されてからだ。2001年のことである。バブル崩壊後の不況のさなかのことである。

そのブームに便乗する形で、新潮文庫からは山本有三の戯曲『米百俵』が出版されている。この戯曲は、戦時中の1943年である。長岡藩の藩是ともいうべき「常在戦場」をモットーにしていた、長岡出身の山本五十六元帥が撃墜死する前のことだ。  



戊辰戦争の敗戦で廃墟となり、荒廃した長岡藩の再建にあたって、長岡藩の支藩から援助された「米百俵」。だが、それを生き残った藩士に配分して消費してしまうのではなく、それを原資にして学校をつくるべきだとして実行した人。それが小林虎三郎である。 

その日暮らしではなく、教育によって人材を育成する取り組みこそ大事なのだ、と。短期的な消費ではなく、長期的な視点を見据えた人材投資である。それがあったからこそ、維新の負け組となった長岡から、山本五十六はじめ多くの人材が生まれたのである。 


(『われに万古の心あり』の口絵より 小林虎三郎は天然痘のためあばた面で、左目を失明していた) 

小林虎三郎(1828~1877)は吉田寅次郎(松陰 1830~1859)とならんで、佐久間象山の愛弟子で「両虎」とよばれた人だった。

「行動の人・松陰」に対して、「思索の人・虎三郎」。 師の象山は、教育者としての素質は小林虎三郎のほうが高いとみていたようだ。

ペリーの二度目の来航を境にして、師と二人の愛弟子の運命は大きく変わる。

密航に失敗した松陰は捕縛、象山も松代に蟄居。松陰の運命については、あえて語るまでもないだろう。虎三郎も藩主への建白書がたたって長岡に蟄居を命じられることなる。失意のなか、虎三郎は病身だったこともあって、表だった活動もできなくなる。 

戊辰戦争に際しては、開戦論を主張した河井継之助に対して、非戦論を主張した小林虎三郎。長岡藩士としての気概から開戦に踏み切った継之助に対して、長岡藩を超えた日本全体の視点から戦争の無意味さを説いた虎三郎。 

二人はともに親しいあいだがらであったが、政策論にあっては対立することになる。そして、敗戦後の再建にあたっては、教育を中心に据えた人材投資を推進したことは、すでに見たとおりだ。 

河井継之助も小林虎三郎もともに佐久間象山のもとで学んでいるが、継之助は山田方谷を生涯の師として選び、長岡藩の財政再建にかんして大きな影響を受けている。 

戊辰戦争における態度は師の方谷とは大きく異なる。むしろ、虎三郎のほうが方谷と近いような印象を受ける。これはわたしの個人的感想である。 

「米百俵」のエピソードにあるように、いま目の前の課題から逃げることなく取り組むことは必要だが、目の前だけを見ていてはならないのである。現実主義にたつ必要があるが、同時に遠くを見通した理念が必要なのだ。 

とはいえ、理念の実現にあたっては、革命のような急進的で破壊的な手段ではなく、ゆるやかであっても、着実に一歩一歩前に進めて実現することが大事なのである。 

その意味では、著者の松本健一氏が指摘しているように、小林虎三郎は英国のエドモンド・バーク的な意味における「保守主義者」であったといえよう。日本の政治世界におけるエセ愛国者やエセ保守主義者とは、まったく異なる存在である。 

小林虎三郎の名前は、小泉元首相の紹介によって全国的な知名度を獲得したが、それからすでに20年を経過したいま、あまり話題になることもない。 

それでもかまわないのではないかと思う。小林虎三郎自身が「万古の心」をもって、遠くを見つめるまなざしをもって生きた人だったからだ。 




目 次 
第1章 小林虎三郎の時代 
第2章 常在戦場という精神 
第3章 河井継之助と小林虎三郎 
第4章 象山と松陰を繋ぐもの 
第5章 精神のリレー 
第6章 幕末のパトリオット 
第7章 戦わない論理 
第8章 遠望するまなざし 
第9章 小林一族の戊辰戦争 
第10章 敗戦国の復興 
第11章 後から来るものへ 
第12章 終焉 
第13章 ながい影

著者プロフィール
松本健一(まつもと・けんいち)
日本の評論家、思想家、作家、歴史家、思想史家。麗澤大学経済学部教授。 中国日本語研修センター教授、麗澤大学経済学部教授、麗澤大学比較文明文化研究センター所長、一般財団法人アジア総合研究機構評議員議長、東日本国際大学客員教授、内閣官房参与(東アジア外交問題担当)などを歴任した。主な著書に『近代アジア精神史の試み』(岩波現代文庫、アジア・太平洋賞受賞)、『日本の近代1 開国・維新』(中公文庫、吉田茂賞)、『評伝北一輝 全五巻』(中公文庫、毎日出版文化賞・司馬遼太郎賞)など多数。2014年没。(本データは『「孟子」の革命思想と日本』2014年が刊行された当時に掲載されていたものに wikipedia 情報で加筆)


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・・田中角栄もまた長岡の出身。ときに河井継之助のなぞらえられることがある

・・長岡藩の家老・稲垣氏の娘による英文の『武士の娘』


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2023年1月29日日曜日

書評『幕末の先覚者 赤松小三郎 ー 議会政治を提唱した兵学者』(安藤優一郎、平凡社新書、2021)ー 「福澤諭吉」になりそこねた男の短い生涯

 
 幕末に非業の死を遂げた「先覚者」は、佐久間象山や坂本龍馬など数知れない。 

赤松小三郎という人もまた、非業の死を遂げた先覚者である。そのことは『幕末の先覚者 赤松小三郎 ー 議会政治を提唱した兵学者』(安藤優一郎、平凡社新書、2021)という本で知った。  

おお、そんな人がいたのか! まったく知らなかった。 

赤松小三郎(1831~1867)は、信州の上田藩に生まれた下級武士。数学が得意で、遊学先の江戸で内田五観(いつみ)の私塾「瑪得瑪第加」(マテマチカ)で数学を研鑽、さらにオランダ語を習得し、のちには英語も身に付けた。勝海舟の従者として長崎で海軍伝習所でさまざまなことを学んでいる。 

だが、よく似た経歴をもつ福澤諭吉(1835~1901)とは違って、「万延元年遣米使節」には加われず、米国に渡航することはできなかった。すでに勝海舟の従者ではなかったからだ。「福澤諭吉」になりそこねてしまったのだ。 

その後は、さまざまな紆余曲折があったが、横浜に駐留する英国陸軍部隊(*)の大尉からナマの英語と英国の歩兵操典を学び、英国式兵学者として身を立てる途が開ける。

(*)英国は居留地における自国民の権益を守るため、幕府の許可のもとフランスとともに陸軍部隊を駐留させていた。「英仏横浜駐屯軍」という生麦事件など攘夷派によるテロが横行してきたことが背景にある。駐留期間は、1863年(文久2年)から1875年(明治8年)に及んだ。その規模は、英軍は1000人強、フランス軍は300人レベルであった。国家主権の観点から、日本の要求によって1875年に全面撤退することとなった。



「第2次長州征伐」に参加した上田の藩士として京都に駐留した小三郎は、帰国要請をかわしながら京都で兵学塾を開く。上田藩という小藩ではなく、日本全体を変革したい、そんな大きな野心を抱いていたからだ。 ちなみに、福澤諭吉も英語から「雷銃操法」「兵士懐中便覧」「洋兵明鑑」などを翻訳していることを付け加えておこう。

英語から翻訳した『英国歩兵操典』が評判となり、教えを請う者が続出。薩摩藩や会津藩などからも招聘され、教官として訓練にあたることになる。 

だが、これが「あだ」になったのだ。変転きわまりない情勢のなか、昨日の友は今日の敵となる。 

同盟を結んでいた薩摩藩と会津藩だが、関係が険悪化する。薩摩藩が倒幕に政策を転換し、長州と組むことで京都の治安維持にあたっていた会津藩を裏切ったのである。

軍事教官として双方に密接にかかわっていた赤松小三郎は、薩摩藩から幕府のスパイ扱いされ、抹殺されることになってしまったのだ。 

斬ったのは、人斬り半次郎こと中村半次郎(のちの桐野利秋)である。護身用のピストルを抜く暇もなく、叩き斬られたのであった。薩摩示現流の遣い手を前にしては、ピストルなどなんら用をなさなかったわけだ。暗殺の背後関係については不明なままだというが、薩摩藩の統一意思であることと考えるべきだろう。 

福澤諭吉の『西洋事情』にもインスパイアされ、議会制度の建白書を幕府にも提出(・・慶喜も目を通したらしい)し、なんとか内戦を回避したと願って奔走していたのだが・・。 

時代に先駆けた「先覚者」は非業の死を遂げる。36歳で死んだ赤松小三郎もまた、その例外ではなかった。 

幕府を倒す原動力になった薩摩藩の陸軍を教練した、「恩人」ともいうべき人物を葬り去った薩摩藩。非情なものである。存在すら知られることなく100年以上も経過していたのである。それだけ、薩摩藩による隠蔽工作が成功していたということだろう。
 
相楽総三もそうであるが、名誉回復をはかる動きが出てきているのである。消し去ってしまったはずの薩摩藩の「黒歴史」に、ふたたび光が当たり始めている。 

数学と英語が得意なこの人物は、もうすこし遅く生まれていたら、どんな分野であっても間違いなく成功を収めたことだろう。現代に生まれていたら、難関大学も突破しているはずだ。生まれる時代は、自分には選べない。 

とはいえ、こんな人物がいたのだということは記憶にとどめておきたい。 




目 次
プロローグ ― 幕末史から消されていた憂国の志士
第1章 上田藩に生まれる ― 学問に励む日々
第2章 勝海舟との出会い ― 長崎での日々
第3章 英式兵制と横浜居留地 ― 内戦の勃発
第4章 幕末政局の舞台・上方に向かう ― 薩摩藩の接近
第5章 憂国の志士として奔走する ― 雄藩の合従連衡
第6章 非業の死 ― 小三郎が夢見た新国家
エピローグ ― 赤松小三郎の遺産
赤松小三郎関連年表
参考文献

著者プロフィール
安藤優一郎(あんどう・ゆういちろう)
1965年千葉県生まれ。早稲田大学教育学部卒業、同大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。文学博士。JR東日本「大人の休日倶楽部」など生涯学習講座の講師を務める。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)




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