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2023年10月30日月曜日

映画『ダブル・フェイス』(2017年、フランス・ドイツ・イスラエル)ー モサドの女工作員のミッションは、モサドの協力者となったヒズボラ幹部の元愛人とドイツの隠れ家での共同生活



『ダブル・フェイス』(2017年、フランス・ドイツ・イスラエル)という映画を amazon prime video で視聴した。なにか面白そうなイスラエル映画でもないかなと amazon で探していたら出てきたのがこの作品だ。93分。

モサドの女工作員と、ヒズボラ幹部の元愛人という協力者この2人の奇妙な共同生活を描いたもの。基本はスパイスリラーである。

モサドの女工作員の名前はナオミ。日本人っぽい響きだが、これはもともと旧約聖書に登場する女性の名前だ。2年間の病欠状態で、復帰にはちょうどいいだろうということで、「比較的軽い」任務を打診される。

そのミッションは、イスラエルにとっての仇敵・武装組織ヒズボラの幹部の元愛人で、ヒズボラを裏切ってモサドの協力者(インフォーマント)となっていたレバノン人女性を安全な「隠れ家」で保護するというものだ。

協力者は顔を整形されており、2週間たって傷が癒えたら偽装パスポートで第三国のカナダに逃亡させることになっている。そんな作戦の一環である。だが、作戦の詳細はナオミには知らされていない。

モサドがドイツのハンブルクに確保した隠れ家で、ドイツ人に偽装してクラウディアという偽名をつかって暮らすことになる主人公。この2人の奇妙な共同生活は、最初のよそよそしい関係から、じょじょに心を開いていく関係を描いている。2人はともに人には言えない心の傷を抱いていたからだ。




映画の舞台は、ほとんどがドイツ北部のハンブルクで、2人の女性の会話が映画のほとんどを占め、しかも英語で会話がなされている。隠れ家の近隣住民とはドイツ語。モサド工作員が上司としゃべるときはヘブライ語。ヒズボラの幹部と部下たちはアラビア語。


元愛人を探しだし、抹殺する使命を帯びて複数のヒズボラ隊員たちがハンブルク入りしているが、そんな状態のドイツでは、中東系のテロリストが紛れ込んでいても、それほど目立たなくなっているのである。

この映画が製作され公開された2018年は、「自称イスラーム国」(ISIS)の全盛期で、ドイツ国内はテロ警戒レベルが5段階で4まで上昇していた。

ISIS壊滅を狙っていた米国はクルド人を味方につけ、敵対するイランとの裏取引も行っている。レバノンに拠点を置く武装組織ヒズボラの背後にはイランがいるである。そんな背景は、あっという間に過去のものとなってしまい、2023年の現時点ではすでに理解しにくいものとなっている。この映画を見ていて、ようやく思い出したくらいだ。

この2人の奇妙な共同生活は、モサド上層部の判断で突然終わることになる。味方を裏切って敵の協力者となった人間など、情報機関から見たらしょせん駒に過ぎないのか。悲しいものである。

(主人公のナオミ。トレーラーよりキャプチャ)

だが、ナオミの任務はドイツで終わることなく、直接テルアビブには戻らず、さらに違う偽名のパスポートでレバノンに入国、ベイルートでヒズボラ幹部を・・・(ここから先はネタバレになるので記さない)。


■ヨーロッパを舞台にしたモサドもの映画 

日本での劇場公開はなく、いきなりDVDが発売されたようだ。アマゾンでのカスタマレビューの評価はあまり高くないが、それはそれなりに楽しめる作品である。ただし、日本人には映画の背景が理解しにくいのが難点であろう。

モサドものといえば、スピールバーグ監督の『ミュンヘン』が有名だが、イスラエルにもモサド映画があるわけだ。それもはるか昔の「伝説のスパイ」を描いたものではない。ごく最近のもので、舞台がヨーロッパとレバノン

最後の最後で、主人公のモサド工作員が職員としての継続勤務を拒否するにいたる点は、男性と女性の違いはあっても『ミュンヘン』とおなじである。ただし、『ダブル・フェイス』のほうは、限りなくフィクションであろう。

映画を見ていて思うのは、日本など外国での評価と違って、どうやらイスラエル本国ではモサドの評価はかならずしも高くないようだ。等身大の描き方だといえば褒めたことになるが、すくなくともモサド礼賛とはほど遠い。

日本版の『ダブル・フェイス』となっているが、英語版のタイトルは『Shelter』となっている。「シェルター」は「隠れ家」という意味だが、内容的からみたら日本版のタイトルのほうがすぐれている。整形前と整形後の2つの顔。モサド工作員と協力者の2つの顔。だからダブル・フェイス。
 



■監督と主演女優たち

監督のエラン・リクリス(Eran Riklis)は、ユダヤ系のイスラエル人。

調べてみると『カップ・ファイナル』(1991年) という作品もある。イスラエル人とパレスチナ人のサッカーをめぐる友情と破綻を描いたこの映画は、いつだったか正確に記憶していないが、「イスラエル映画祭」(東京)で見ている。ああ、あの映画の監督か、と。

モサド工作員を演じている女優のネタ・リスキン(Neta Riskin)は、ユダヤ系のイスラエル人。日本での劇場公開作品はないが、イスラエルでは評価されているようだ。

ヒズボラ幹部の元愛人を演じているのは、ハリウッド映画にも出演しているゴルシフテ・ファラハニ(Golshifteh Farahani)というイラン人の女優『バハールの涙』(2019年)ではISISと戦うクルド人戦士を主演している。

イラン人が、敵対国であるイスラエルの映画に出演するなど考えにくいが、この女優はイラン国内ではいろいろ批判されており、現在はイランから出国したままパリ在住なのだそうだ。

中東をめぐる情勢は、ヨーロッパ情勢ともからんで、なかなか外部の人間には理解がむずかしい。ハッキリと白黒がちけらっるほど単純ではないのだ。




<関連サイト> 



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■ヨーロッパとムスリム移民




■米国とイスラエル。イランとヒズボラ




■シリア・レバノン・パレスチナの宗教状況



■「イスラーム国」(ISIS)



(2023年11月13日 情報追加)


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2023年10月27日金曜日

スピールバーグ監督の映画『ミュンヘン』(2005年、米国)を日本公開から17年ぶりに視聴 ー 一般人に対する残虐なテロ事件にどう対応すべきかという困難な課題

 
スピールバーグ監督の映画『ミュンヘン』(2005年)を amazon prime video でひさびさに視聴した。日本公開は2006だから、17年ぶりということになる。

163分とはじつに長い。長いだけでなく、全編に張り詰めた緊張感と、主人公のメンタルダメージもあって、ものすごく消耗してしまう。自宅でPCで視聴していてもそうだ。

ミュンヘン・オリンピック大会の選手村で起こったイスラエル選手団虐殺事件。その報復は、「神の怒り作戦」として、パレスチナのゲリラ組織指導者11人暗殺として実行に移されることになる。

そのミッションのリーダーとしてまかされたのが、対外情報機関「モサド」に所属していた主人公であり、その暗殺ミッションの成功と苦悩を描いた作品だ。

暗殺が実行されるのは、ヨーロッパ域内のローマ、パリ、キプロス、それにベイルート、そしてアムステルダムである。

ターゲットを絞り込み、一般人が巻き添えになることは極力回避するのが基本方針である。暗殺の実行者メンバーは、みな「存在しないはずの人物」という扱いになっている。主人公もモサドから籍を抜いている。

だが、まったくカタルシスのない映画である。爆殺と乱射という暴力シーンが連続するからではない。

報復のための暗殺作戦ミッションの成功ストーリーに見えながら、じつはそうではないからだ。

数人の暗殺に成功したがゆえに生まれてくるジレンマと心理的コンフリクト。もうこれ以上は自分にはできない。そこまで追い詰められる主人公は、最後までコミットすることなく職務の継続を拒否する。

いろんな意味で、あまり後味のよい映画ではない。むしろ、問題をつきつけてくる映画である。

ひさびさに視聴してみると、さすがに17年もたっているためか、鮮烈に覚えているシーンとそうでないシーンがあることが確認される。

ゴルダ・メイア首相じきじきの依頼のシーンと、パリでの爆殺シーンなどは鮮明に記憶していたが、それ以外は忘れていた。記憶というものがじつにあいまいなものであるか実感する。



■1972年ミュンヘン・オリンピック大会

自分は1972年のミュンヘン・オリンピックは、リアルタイムで知っている世代だ。

男子バレーボール代表チームをアニメ化した『ミュンヘンへの道』を毎週見ていた。男子バレーボールは見事に優勝している。その年の2月には、札幌で冬期オリンピック大会があった。東京でも雪が降っていた。

もちろん、イスラエル人選手団の選手たちが虐殺された事件もリアルタイムで知っている。全員が選手村の宿舎で殺害されたと記憶していたが、それはまったく違っていた。2006年にこの映画を見ていたのに、1972年の記憶が修正されていない不思議さ。

イスラエル選手団虐殺事件は、「ミュンヘン・オリンピック事件」とよばれている。1972年9月5日のできごとだ。イスラエルのオリンピック選手11名が虐殺された事件は、それはもう衝撃的な事件であった。

犯行を実行したのは、パレスチナ武装組織「ブラック・セプテンバー」(黒い九月)である。

日本赤軍の岡本公三などが、イスラエルのテルアヴィヴの国際空港で26人の死者をだす乱射事件を起こしたのは、1972年5月30日のことであった。日本人テロリストがイスラエルでテロ事件を起こしていることを忘れてはいけない。

航空機をハイジャックする事件もひんぱんに起こっていた。1968年から1972年にかけては、日本を含めた先進国で極左テロの嵐が吹き荒れた時代である。そんなさなかで発生したのが、ミュンヘン・オリンピック事件だったのである。


■「第4次中東戦争」は「ミュンヘン・オリンピック事件」の翌年

ことし2023年10月7日の、パレスチナのテロ組織ハマスによるイスラエルへのサプライズ・アタックから3週間たった。

「ヨムキプール戦争」とよばれる「第4次中東戦争」は1973年10月6日が起こってから、ちょうど50年目のできごとであった。ただし、この戦争は映画には反映されていない。

2023年10月7日は「ヨムキプール」から始まるユダヤ教の祝祭日の最後にあたる「シムハット・トーラー」でシャバット(安息日)あった。イスラエルは、また隙をつかれたのである。

コンサート会場での一般人虐殺キブツでの住民虐殺人質を拉致するするなどのテロ行為を行ったハマスに対する攻撃が行われている。イスラエル側の死者は1400人にのぼっている。

ガザのパレスチナ人の一般民衆を巻き添えにした攻撃に国際的批判が起こっているが、それは当然だ。すでに5000人以上の一般人が空爆の巻き添えになっている。

イスラエルが公開したキブツでの虐殺現場の動画を見ていると、「ミュンヘン・オリンピック大会」での選手たちの虐殺シーンと重なりあうものがある。軍事衝突ではないのである。抵抗できない人質たちがマシンガンで虐殺されているからだ。

軍事衝突なら、軍人が戦場で解決すればいい。だが、一般人を対象にしたテロの場合は、そうはいかない。テロに対してテロで応酬せよという声が、かならず起こってくるからだ。

被害者遺族よりも、むしろ直接の当事者ではない一般国民の報復感情が燃え上がりやすいからだ。ホロコースト後のユダヤ人の場合は、なおさらであろう。

実際、モサドとシンベットが共同で「ニリ」という特殊部隊を創設している。要人暗殺作戦が何年にもわたって実行されるのであろう。「黒い9月」のケースにおいても、最後のターゲットが暗殺されたのは、事件から約7年後の1979年であった。

だが、テロに対する報復感情は、なにものも生み出さない。なぜなら、テロは行為そのものであるが、テロの背後には思想があるからだ。テロの指導者を抹殺したところで、その思想の継承者がまた生まれてくる

そんなセリフを主人公に語らせているスピールバーグ監督は、ユダヤ系米国人であるが、イスラエル人ではない。この映画は、公開当時はイスラエルでは批判も多かったという。その意味を考える必要がある。

この映画が製作され公開された2005年は、米国で「9・11」テロが起こった2001年から4年後のことであった。






<ブログ内関連記事>

・・連続して暴力シーンを見せられることになる観客は、いったい「ドイツ赤軍」(RAF:Rote Armee Fraktion)とは何だったのかと自問自答せざるを得ない。






■スピールバーグ監督映画




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2023年10月24日火曜日

書評『イーロン・マスク 上・下』(ウォルター・アイザックソン、井口耕二訳、文藝春秋、2023)ー 人類の未来を憂い、資本主義とビジネスの枠組みでフロンティア開拓に突き進むクレイジーな天才。その軌跡をオープンエンドの現在進行形で中継

 

『イーロン・マスク 上・下』(ウォルター・アイザックソン、井口耕二訳、文藝春秋、2023)をようやく読了。ことし2023年の9月13日に「世界同時発売」された本だ。

上巻の帯に「悩める天才」とあるが、それもさることながら「進軍の巨人」というべきかもしれない。

長い、じつに長い本であった。上下あわせて900ページ超。読み終えるまで3日かかったが、正直いって、読むのにくたびれてしまった。イーロン・マスク(Elon Musk)という「超人」が、止まることなく「進軍」している、そのエネルギーの熱量のせいだろう。

上巻の途中からぐんぐん面白くなってくるが、読者は最後の最後までイーロンに振り回されっぱなしである。

レオナルド・ダヴィンチから始まり、アインシュタインからスティーブ・ジョブズまで、「天才の伝記」を書かせたら右にでる者はいないという、伝記作家で経営者のアイザックソン氏。2年間にわたって密着取材を行ったとのことだが、それはおなじだったのではないか? 

イーロンの下で働いてきた人たちにとっては、言うまでもない。いや、現在進行形で振り回されている。

上下あわせて全95章。ほぼ時間軸に沿って進行していく形式になっているのは、イーロンがスペースX や テスラ といったハイテク製造業だけでなく、それ以外のニューラルリンク、さらにはまた昨年2022年からはSNSのツイッター(現在はX)まで同時進行させているからだ。


(とある書店の店頭ショーウィンドウに飾られているもの)


下巻は、2020年から2023年まで、足かけ4年の現在進行形の出来事を、リアルタイムで中継しているような記述である。

とりあえず、2023年4月で中継が終わっているが、まだまだ現在進行形で進軍がつづいている。オープンエンドなのである。


■かつてのモーレツな日本企業と日本人のような

「ひとつの事業に全集中して、すべての資源をその事業に投入せよ」というのは、伝説の大富豪アンドリュー・カーネギーの成功セオリーだ。

だが、そんな「常識」をはなから無視しているのがイーロン・マスクだ。現時点で、全部で6つの会社を陣頭指揮しているのである。

「超人的」というよりも、「超人」そのものではないか!

1971年生まれで、現在52歳のイーロンは、まさに「知力・体力・気力が一体」となって、「前へ前へと進軍」をつづけているディスラプターである。ディスラプターとは、既存事業という過去をスパンと断ち切ってしまうディスラプション(disruption)の実行者のことである。

「撃ちてしやまん」という、日中戦争下の日本のスローガンを想起させるものがある。敵を打ち破るまで戦いはやめるな、というマインドセットである。

しかも、徹底した「現場主義」であり、「コスト削減の鬼」といってもいいマイクロマネジメントの実行者である。まるでかつての日本の製造業のようだ。

経営者が現場で寝泊まりするのも当たり前朝から夜中まで働きづめで、いきなり深夜に部下に召集をかけることもたびたびである。昔風にいえばモーレツ社長そのものだ。現在の日本なら、ブラック企業だとして糾弾されることだろう。

無茶ぶりに見えるが、生産管理の世界でいう「ムリ・ムダ・ムラをなくせ」というセオリーどおりである。その実現のためには無茶も必要だということだ。

マーケティング依存の「マーケットイン」ではなく、製品そのものが魅力的ですばらしければ、かならず売れるはずだという「プロダクトアウト」の発想。ビジョンの実現と危機感の解決のためには、目に見えるカタチとしての、魅力ある製品がなければ説得力がないという哲学。

需要はつくるものだという信念であり、そのためには徹底して設計と製造の融合を実行させる。サプライチェーンは短ければ短いほうがいい。だからアウトソーシングや系列化など論外で、部品からすべて内製化すべしというの姿勢。

製品ユーザーとの距離は、近ければ近いほうが開発には都合がいい。だから、工場は市場の近くにつくる。米国と中国とドイツである。

アイデアはおなじ空間で働いているほうが生まれやすいから、リモートワークはダメだ、全員出社せよ。まるでホンダの「ワイガヤ」だな。

考えてみれば、自分自身の経験を振り返っても、日本企業も昔はこんなこと当たり前だったような気もする。それだけ、日本企業にも、日本製品に魅力がなくなってしまったということか。日本は進むべき方向を間違っているのかもしれない。

だからこそ、イーロン・マスクのような存在は、日本にも必要だ。こんな超人と付き合うのは、それこそミッション・インポッシブル(=実行不可能なミッション)であろう。とはいえ、過激にみられがちなイーロンの言動だが、日本企業にとってもヒントになることは多いのではないか?

たとえば、ミニカーなどおもちゃが量産プロセス構築において参考になるという話や、部品点数はできるだけ減らしてミニマムにする、マテリアル(素材)への注目などなどである。

そんなヒントが、イーロン自身の発言として、この本のなかには無数にちりばめられている。ディテールにも注目してほしい。


(Author Walter Isaacson talks new Elon Musk biography)


■イノベーションはクレージーな人間の意思と行動なしには生まれない

ミッション・インポッシブルであればあるほど燃える男。困難や苦難はエネルギー源なのだ。アドレナリン出しっ放しである。

飽きてしまうことをなによりも恐れている男何もしていないことに耐えられない男。無理矢理にでも問題をつくりだしては、みずからをむち打つだけでなく、関係する人びとを巻き込んで尻を叩きまくる。

超絶的なワーカホリック。「ワーク・ライフ・バランス」などということばは、イーロンの辞書にはないのだろう。「ワーク・イズ・ライフ」なのだ。

どう考えても実現不可能としか思えないデッドライン設定して公表し、自分とチームを崖っぷちに追い込む修羅場。切迫感。無茶ぶり。実現不能と思える高い目標を設定して、みずからが先頭にたってチーム全体を追い込む姿勢。

たしかに、そうでもしなければイノベーションなど生まれないこともたしかだ。人間は追い詰められて、追い詰められて、はじめて局面打開の知恵が生まれてくる。いや、降ってくるというべきか。



Falcon Starship 英語版の裏表紙。日本語版は下巻の裏表紙に)


火星ミッション実現のための第一歩である、民間企業のスペースX が存在しなければ、米国の宇宙開発は過去の話になってしまっていたことだろう。

「スターリンク」がなければ、ウクライナは戦いつづけることなどできなかっただろう(*ただし、イーロン・マスク自身は、スターリンクはあくまでも民生利用に限定したいようだ)。

いまだ道半ばとはいえ、「テスラ」が存在しなければ、ロボタクシーなどの自律走行の自動運転など夢のまた夢というところだろう。

アイザックソン氏が巻頭に記したイーロン・マスクとスティーブ・ジョブズのことばは、説得力をもって迫ってくる。

最後まで読み終えて、ふたたび巻頭にもどってその2つのことばを読むと、心の底から納得しないわけにはいかない。




感情を逆なでしてしまった方々に、一言、申し上げたい。
私は電気自動車を一新した。
宇宙船で人を火星に送ろうとしている。
そんなことをする人間がごくふつうでもあるなどど、
本気で思われるのですか、と。(イーロン・マスク、2021年5月8日)

 




自分が世界を変えられると本気で信じるクレイジーな人こそが、
本当に世界を変えるのだ。(スティーブ・ジョブズ)
 

ただし、イーロン・マスクとスティーブ・ジョブズには決定的な違いがある。

ジョブズはデザインには、それこそクレイジーなまでのこだわりがあるが、製造は外部にまかせてもかまわないという姿勢であった。

これに対して、イーロン・マスクは真逆である。デザインだけでなく、製造も自分でやらなくてはダメだという姿勢である。

その意味では、同類でありながらも、イーロン・マスクはスティーブ・ジョブズのアンチテーゼであり、かつての日本企業のデジタル時代における「超進化形」といえるかもしれない。

日本の企業人も再考が必要だろう。



■本人は人間にはあまり関心がないが、その人物そのものは好奇心を誘発する存在

イーロン・マスクという「人間」は、事業以外の側面でも面白い。

ビジネス活動をつうじて、「人類」を救うという壮大なビジョン実現には邁進するが、個別の「人間」関係にはほとんど関心がない。アスベルガーを自称していることもあり、脳の配線がどうも一般人とは違うようだ。


(イーロン・マスクがモデル?といわれる映画『アイアンマン』2008年)


複数の女性とのあいだに子どもを何人もつくっているが、その多くが人工授精や代理母をつかっている。人類の数を減らすなという理由もあるようだが、どこまで本気なのかでまかせなのかわからない。

浴びせられてきた金持ち批判に嫌気がさして、不動産をすべて売却してしまい、転々と住む場所を変えながら生活している。コレクションや所有には関心はないのである。

そもそも金儲けじたいが目的ではなく、しかも慈善事業にもほとんど関心がない。かれにとっては、ビジネス活動そのものが、人類への貢献なのである。その意味では、松下幸之助にも通じるものがあるというべきかもしれない。

みずからが信じる「フロンティア開拓」に全財産をつぎ込む姿勢掛け金をずべてぶち込む「オールイン」型の新事業投資。のるかそるか、である。

リスクテイカーなんていうレベルではない。ほとんどギャンブルである。リーマンショックの2008年には、それこそ破綻すれすれまでの財務的綱渡りを演じている。それにしても壮絶だが、もしかすると無意識レベルでは破滅願望があるのかもしれない。




「AIが人間を凌駕させないための戦い」はドンキホーテ的でさえあるが、こういう人は世の中には必要だろう。

2023年に突然に始まり、急激に進化する「生成AI革命」で、2045年に想定されていた、AIが人間の能力を凌駕してしまう「シンギュラリティ」(特異点)が一気に早まってしまったといわれる。

わたし自身は、AIが人類を凌駕してしまうかもしれないが、残念ながらなってしまえば、それはそれで仕方ないだろうと思っている。だが、それは「絶対にダメだ」と論陣を張るだけでなく、実際の製品(モノ)をつうじて世の中に訴えかけるイーロン・マスクの姿勢は希有なものである。


(Optimus, aka Tesla Bot Wikipediaより)


テスラで開発をつづける「人型ロボットのオプティマス」もまたその一つである。

遠隔操作するロボットではなく、ロボット自身に人間の言動を「学習」させるヒューマノイドを開発するという姿勢。さすがである。「学習」という点にかんしては、わが子の X の成長ぶりも参考になっているようだ。

そんなイーロンにとって、機械学習のデータ源として、テスラによる動画だけでなく、ツイッターに投稿される文章や画像や動画もつかえることがわかったというのは、予期せぬ副産物だったようだ。

現在は、データを握った者が、すべてを握る時代なのである。だからこそ、その競争に勝つことは、イーロン・マスクにとって至上命題なのである。負けてはいけないのだ。





■はたして火星にコロニーが建設されるのはいつの日か?

壮大なビジョンと強い危機感。最初から最後まで振り回されっぱなしで、ついていくのはたいへんだ。アイザックソン氏によるこの評伝は、まさにイーロン・マスクそのものである。

「撃ちてし止まん」タイプの超人。こんな人間こそイノベーターとして、「フロンティア開拓」を行うのである。サイエンス・フィクション(SF)から、フィクションを取り除くとのがかれのミッションだ。

はたして、かれが生きているうちに火星にコロニーはつくれるのか? いつまで走りつづけることができるのか?

おそらく、というより間違いなく、枯れるということはないだろう。ある日、突然バタンと倒れて終わる。そんなことになるのだろう。まさに「撃ちてしやまん」である。

とはいえ、現在進行形のイーロン・マスクは、まだまだ当分のあいだ目が離せない存在であり続けることは間違いない。

すでに70歳を超えているアイザックソン氏に、続編を書くことはあるのだろうか? 文庫化される際には多少の追補がなされるであろうが・・・。


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<関連サイト>



(南アフリカでの子ども時代のイーロン) 





「講談社の書籍紹介」より
驚異的な頭脳と集中力、激しすぎる情熱とパワーで、宇宙ロケットからスタイリッシュな電気自動車まで「不可能」を次々と実現させてきた男――。シリコンバレーがハリウッド化し、単純なアプリや広告を垂れ流す仕組みを作った経営者ばかりが持てはやされる中、リアルの世界で重厚長大な本物のイノベーションを巻き起こしてきた男――。「人類の火星移住を実現させる」という壮大な夢(パーパス)を抱き、そのためにはどんなリスクにも果敢に挑み、周囲の摩擦や軋轢などモノともしない男――。いま、世界がもっとも注目する経営者イーロン・マスクの本格伝記がついに登場!イジメにあった少年時代、祖国・南アフリカから逃避、駆け出しの経営者時代からペイパル創業を経て、ついにロケットの世界へ・・・・・・彼の半生が明らかになります。(講談社BOOK倶楽部『イーロン・マスク 未来を創る男』
 



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(2023年12月20日 情報追加)


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■先行する「天才」起業家。同類のモーレツなディスラプター





■イノベーションとディスラプション






■宇宙ビジネスと火星移住




■人型ロボット




■イーロン・マスクの原点である南アフリカ



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2023年10月18日水曜日

ヘルマン・ヘッセの最後の長編小説『ガラス玉遊戯』(1943年)をようやく読了 ー ヘッセ最後の長編小説は「音楽」と「瞑想」と「易経」の融合。「自分がほんとうの自分になること」がテーマの集大成

 
 

ヘルマン・ヘッセの最後の長編小説『ガラス玉遊戯』(1943年)をついに読了。今年の8月のことである。

「ようやく読了」というのは、ヘッセ好きでありながら、長きにわたって読まないままだったことを意味している。

ヘッセの『デミアン』と『シッダールタ』は、わたしの愛読書だが、なかなか『ガラス玉遊戯』を読むことはできなかった。

というのは、中編小説の多いヘッセにしては長編であること、タイトルから連想されるテーマがよくわからないというのが大きな理由であった。「ガラス玉遊戯」ってなんだ?


『ガラス玉遊戯』は「易経小説」である!

『ガラス玉遊戯』は「易経小説」である。これは『易経』関連文献を読んでいるうちに、『易の世界』(加地伸行編、中公文庫、1994)に収録されている「西洋人と易」(ジョン・イカム)という論文で見つけたものだ。


『ガラス玉遊戯』は「易経小説」でもある。それでは読まねばなるまいと決意した次第だ。

じつは『ガラス玉演戯』というタイトルの新潮文庫の高橋健二訳と、角川文庫リバイバルの『ガラス玉遊戯』というタイトルの井手賁夫(いで・あやお)訳の2種類をもっているのだが、いろいろ考えた末に角川文庫版で読むことにした。両者はいずれも絶版状態。




というのは、『ガラス玉遊戯』のほうが日本語のタイトルとしてすぐれているからだ。

ドイツ語の原題は Das Glasperlenspiel である。日本語なら『演戯』ではなく『遊戯』とすべきだろう。「遊戯」なら「遊戯王」でも使用されており、ゲームであることがわかる。実際、新訳でも『ガラス玉遊戯』となっている。

「ヘッセ研究会」の初代会長をつとめ、『ヘッセ(人と思想89)』(清水書院、1990)という評伝も書いている井出氏の訳だが、正直いって読みやすい訳ではない。だが、この長編小説を読み込んだ末に訳していることはあきらかである。

ドイツ文学界の大御所であった手塚富雄氏からすすめられて翻訳に取り組んだとある。井手賁夫の訳は1954年に初版がでて、1990年に復刊が再版(=第2刷)である。




■主人公クネヒトは『知と愛』の主人公ナルツィスの系譜

『ガラス玉遊戯』に取り組む前に、未読のままとなっていた『ナルツィスとゴルトムント』(1930年)を読んでおいた。高橋健二の訳で『知と愛』として知られている。

まずは、この長編を読んでおくことが前提条件であると思っていたのだが、それはまことにもって正解だった。じつはこの長編もまだ読んでなかったのだ。

読後感としては、「知と愛」よりも、むしろ「霊と肉」といったほうが、中世ヨーロッパのキリスト教のモチーフとしてふさわしいのだが、その件はここでは脇においておこう。


(『ナルツィスとゴルトムント』は2020年にドイツで映画化されている)


「25世紀のカスターニエン」を舞台にした『ガラス玉遊戯』の主人公のマギステル・ルーディことヨーゼフ・クネヒトは、「中世ドイツのマウルブロン修道院」を舞台にした『ナルツィスとゴルトムント』におけるナルツィスの類型だと思ったからだ。

あくまでも「知」の世界に生きる主人公クネヒト。けっして「情」の世界とは無縁ではないのだが、階梯をひとつひとつ螺旋的に上がっていく姿は、ナルツィスとよく似ている。そして、その最後に弟子に対して深い「情」を示したことにおいてもまた。

そして、『ガラス玉遊戯』には、ほとんど男性しか登場しない。『ナルツィスとゴルトムント』も『デミアン』もまたそうだ。

ヘッセ自身は3回結婚しておりホモセクシュアルではなかったが、作者自身を投影できる主人公は男性であり、男性と男性どうしの友愛であったからだろうか。

こういう性質をもった文学作品であるからこそ、ヘッセが日本の少女マンガに多大な影響を与えたという。そう主張するドイツ文化研究者の森貴史氏の『裸のヘッセ』に収録された「ヘッセと日本の特殊な関係」は説得力がある。


■『ガラス玉遊戯』というタイトル

正式名称は『ガラス玉遊戯 マギステル・ルーディ・ヨーゼフ・クネヒトの伝記的試みおよびクネヒトの遺稿』。凝ったつくりの構成である。


Glasperlenspiel というドイツ語を分解すれば、Glas-perlen-spiel となる。「ガラスのパール(真珠)」のプレイ、あるいはゲームである。ドイツ語の Spiel は英語の play よりも意味的な幅が広い。「ガラスでできたパール」とは「ビー玉」のようなものだろう。



哲学や数学と音楽を総合し、瞑想をつうじて宗教的な境地まで高める「遊戯」であるとするが、最後の最後まで具体的に目に見える形で説明されることはない。

もともとは符号や数式のかわりに「ガラス玉」をつかっていたのでそうよばれたが、つかわれなくなったあとも名前だけが残ったとされる。

「ガラス玉遊戯」は、現代風にいえば、「VR」的なものといっていいのかもしれない。「バーチャル・リアリティ(virtual reality)である。目に見えるガラス玉をつかわない、「目に見えない」ゲーム空中に数式や符号を書いて競いあう精神的なゲーム。そんなイメージなのだろうか。

数学と音楽が親和性が高いことは、「七自由学芸」ともいう「リベラルアーツ」の音楽は数学も意味していることからもわかる。その意味では、この小説は「音楽小説」でもある。

そもそも「25世紀の架空世界カスターリエン」が舞台なので、未来小説的でSF的であるし、あるいははるか過去の話であるかのようにも思える。「はるかに遠い未来」から、「現在より先にある未来」を「回想」するという歴史書という形をとっている。

SFは一般的にサイエンス・フィクション(Science Fiction)の略称として理解されているが、日本語で「思弁小説」と訳されている「スペキュラティブ・フィクション」(Speculative Fiction)の略称と考えれば、ヘッセの『ガラス玉遊戯』はそれそのものだといっていい。


そして、ユートピアは失敗する運命にある主人公もまた、身をもってその兆しを感知する。

それ自体が高貴な存在であっても、存続のための資金をみずから生み出さず、現実世界の資金で成り立っている、ユートピア的存在である「カスターリエン」。そのあり方は、中世のシトー派修道院より後退しているというべきか。

砂上の楼閣である以上、失敗する運命は必然だというべきなのだ。



■「自分がほんとうの自分になる」ために歩むべき道がテーマ


「教養小説」というよりも、むしろ「修養小説」としたほうが内容的にはふさわしいがいうべきだが、「人間形成」小説とか、「自分発見」小説といったほうがいいかもしれない。

「人間はいかにして真の自己となるか」がヘッセの一生のテーマであったから、『ガラス玉遊戯』はその集大成といっていいだろう。『デミアン』も『シッダールタ』もみな、おなじテーマを探求したものだ。

「自分がほんとうの自分になる」ということは、ユングにならって「自己実現の道」といってもいいだろう。

自我(エゴ)を超えて自己(セルフ)になるプロセス。究極的にはインド哲学のウパニシャッドでいう「梵我一如」や、中国哲学の儒学や道教の「天人合一」を目指す道。

『ガラス玉遊戯』の主人公クネヒトは(・・ドイツ語の Knecht は「下僕」という意味)は、自己探求のプロセスをへて、「ガラス玉遊戯名人」(マギステル・ルーディ)となる。最高位を極めたわけである。

ところが、頂点に達して見えてきた風景に違和感を感じることになる。違和感はふくらみつづけ、そこにとどまることをよしとはしない

「ガラス玉遊戯名人」というポジションは、「ほんとうの自分になる」ための最終到達点ではない。そのことに気づいてしまったのだ。

現実から遊離し、現実世界との接点を失った、それこそまさに「VR的な遊戯」となっていた「ガラス玉遊戯」の世界に違和感を疑問を感じた主人公は、用意周到な準備のうえ、最後の最後は「自分の道」に踏み出す。

そして、それこそが人生の完成であった。ことばではなく、行動によって唯一の弟子に道を教えた主人公。禅仏教でいう「不立文字」である。ほんとうに大事なことは、ことばでは伝えられない。行動で、態度で示すしかないのだ。

そして、冷たい湖水を泳ぎ始めた主人公は心臓麻痺をおこし、湖底へと沈んでいく。

死によって人生は完成する。ほんとうの自分になるということは、そういうことなのだ。人間はそれを目指して、死に向かって生きていくのだ。

主人公の最期を読んでいて、詩人でシンガーソングライターのレナード・コーエンの世界観に近いなと思うところがあった。そこでネットで調べてみたら、その直観はまったく正解だった。


初期のアルバム "The best Of"  に収録された曲の数々は、確証はないが、わたしには『ガラス玉遊戯』の世界観が反映されているように思われたのだ。レナード・コーエンに影響を与えたのは、禅仏教やチベット仏教だけではない。




「音楽」と「瞑想」と「易経」の融合

「音楽」と「瞑想」と「易経」。この3つの要素が融合した世界が『ガラス玉遊戯』である。そんな言い方をしても間違いでないだろう。

「音楽」はクラシック音楽に代表される「音楽の国ドイツ」を。「瞑想」は「瞑想の国インド」を。「易経」は「古代中国文明」を意味している。

しかも、古代中国の儒学と音楽が密接な関係にあったことも、ヘッセはこの小説の「序文 ガラス玉遊戯」のなかで『春秋』の「音楽編」からの引用を行って指摘している。宇宙の秩序を表現するのが音楽である。それは西洋も東洋もおなじなのだ。

母方の祖父は、敬虔派のプロテスタントで、インドで宣教活動を行っていた。その祖父の娘として、母もまたインドで過ごしている。そんな家庭に育ったヘッセは、子どもの頃から毎週1回はカレーを食べていたという。

インド世界への親近感に加えて、中国文明への親近感もまた、ヘッセの人間関係のなかで生じてきたものだ。この件については後述する。

「インド文明」と「中国文明」に代表される「東洋文明」によって、生命力を失い衰退しつつあった西洋文明を「再活性化」する。ヘッセによるこの試みは、21世紀の現在では当たり前のものとなった。その意味ではヘッセは時代に先駆けた存在であるといえよう。

ただし重要なことは、東洋文明のエッセンスを取り入れたからといって、西洋人が東洋化したわけではない。逆もまたしかりだ。日本人を筆頭に西洋化した東洋人は、けっして西洋人になったわけではない

それほど、現在でも「東洋」と「西洋」は依然として別個の存在である。これは東洋人である日本人がみずからを徹底的に考えてみれば、わかることだ。表層的には西洋化した日本人だが、その深層は東洋人である。日本につづいて西洋化していった、その他の東洋人もまた同様であろう。




リヒャルト・ヴィルヘルムには、ドイツ帰国後に心理学者C. G. ユングとの共著で出版した『黄金の華の秘密』という、道教の瞑想法についての翻訳と解説の本がある。

人格が「東洋と西洋に引き裂かれていた」というのは、ユングの表現である。



■『ガラス玉遊戯』に登場する『易経』

『ガラス玉遊戯』に登場する、「竹林」に住む中国の賢者のような人物は、おそらくヘッセ自身もよく知っていたリヒャルト・ヴィルヘルムだろう。

かれがドイツ語訳した『易経』は「変化の書」として ドイツで "I Ging: Das Buch der Wandlungen" として出版されているだけでなく、そのドイツ語版から英語に重訳された "I-Ching or Book Of Change" が英語圏でも広く読まれてきた。
 
(リヒャルト・ヴィルヘルム訳の『易経』)


『易経』は「四書五経」のうちのひとつで、儒学では重視されてきたと同時に、道教においても重視されてきた経典である。

易占とその解釈について解説された実用書であるとともに、「宇宙の法則」、すなわち「変化の法則」と「循環の法則」に影響される人間の運命について説いた哲学書でもある。

その『易経』をドイツ語訳したのがリヒャルト・ヴィルヘルム(1873~1930)である。

宣教師としてドイツの植民地であった青島(チンタオ)に赴任しながら、約25年間の中国滞在中、誰一人も改宗させなかったことを誇りにしていたほど、中国文明に魅せられ、のめり込んだ人であった。

(リヒャルト・ヴィルヘルム Wikipediaより)


宣教師の一家に生まれ育ったヘッセと、宣教師であったリヒャルト・ヴィルヘルムは、おなじ精神の持ち主であったと考えていいのではないか。

先にも触れた「西洋人と易」には、以下の文章がある。

ノーベル文学賞受賞者、そしてR.ヴィルヘルムの知人であるH.ヘッセの書いた『ガラス玉演戯』(1943年)という小説は、『易』から広い影響を受けている。この小説の構想展開、主人公がたどった一生の段階は、乾卦の六爻(こう)に即しているとみなすことができる。すなわち、並んでいる6本の爻(こう)において、下から上へ向かって変化する易の展開に沿っているといえるからである。 


全12章で構成されたこの小説は、6本の爻(こう)が2つで構成されているというわけか。

ヘッセが理想とした最終的な境地は「易経」に代表される古代中国文明であるといっていいだろう。

旅を前にして、その道を進むかどうか迷ったとき、主人公クネヒトは易を立てている。「第4章 二つの教団」に、その具体的な易占のシーンがある。(*訳文には一部変更を加えてある)

クネヒトが旅にのぼる前に、セイヨウノコギリソウの茎*で易を占うと、「旅」(Lü)という漢字にあたった。これは「旅人」(Der Wanderer)をあらわし、「乏しきに安んずれば成る。旅人はただ、みずから守ること貞正なれば、すなわち吉なり」(Durch Kleinheit Gelingen. Dem Wnderer ist Beharrlichkeit von Heil)という判断であった。彼は六二(ろくじ)**を見いだして、その書の解釈を追った
 
  旅行して宿舎に安着し 
  充分なる旅費を懐中にし 
  召使いの童僕もきわめて忠実なり 
 
Der Wanderer kommt zur Herberge. 
Er hat seinen Besitz bei sich.
Er erlangt jungen Dieners Beharrlichkeit.
 
* 西洋鋸草。筮竹(ぜいちく)の素材は、キク科の多年草であるノコギリソウ 
 ** 6本線のうち一番下から2番目の爻(こう)を「二爻」といい、「陰/陽」の「陰」である場合、それを「六二」という


(セイヨウノコギリソウの茎を乾燥させた筮竹 Wikipediaより)


(セイヨウノコギリソウ Wikipediaより)


(ヴィルヘルム訳からの英語重訳版 Book1 Text より「56 旅」)



『易経』に表現された秩序については、「第7章 職務にて」につぎのような文章がある。


クネヒトは、ガラス玉遊戯のある着想を心に持ち回っていたので、マギステルとしての最初の祭典遊戯に使用したいと思ったのである。
この遊戯の(これはよい思いつきであった)構造と次元の基礎をなすものは、支那人の家の建築の、孔子の教えによる古い儀式的な図式であって、方位づけは天の方角にしたがい、門、鬼門よけの壁、建築物と中庭の割合と規定、それらの星辰、暦、家族生活への順応、さらに庭園の象徴と様式規定がある。
かつて彼が易経の注釈を研究したさい、この法則のもつ神話的秩序と意義は、宇宙の、また世界のなかへの人類の配列として、とくに心をひく好ましい譬喩と思われたのであった。


日本とのかかわりも深いが、やはり古代インドと古代中国こそ、ヘッセにとっては母語としてのドイツ語圏とならんで「精神的な祖国」であるというべきなのだろう。

インド文明は『シッダールタ』に、そのうえでさらにインド文明と中国文明が『ガラス玉遊戯』に結晶している。『世界文学をどう読むか』(高橋健二訳、新潮文庫、1951 原書は1929年初版)には、インドや中国の古典が多数紹介されている。

下記に示したページには、「わが愛読書」から、リヒャルト・ヴィルヘルム訳の『易経』や、『ガラス玉遊戯』の「序文」にも引用されている『(呂氏)春秋』があげられている。

(赤い傍線部分がヴィルヘルム訳『易経』 筆者所蔵本より)

だからこそ、西欧の精神世界を描いて、インドの瞑想と中国の易経の精神で補完したこの作品は、ヘッセの集大成となるのだろう。

ヘッセは集大成ともいうべき、この最後の長編小説でノーベル文学賞を受賞していることを付記しておこう。西洋文明の再活性化を試みたことが評価されたのであろうか。

行替えが極端に少ないので読みにくく、内容的にもやや難解なところのある長編小説だが、さまざまな切り口でアプローチしてみることが可能だ。ここではその一環を示したに過ぎない。本は、自分が好きなように読めばいいのである。


 
 



目 次
序文 ガラス玉遊戯 ー 遊戯の歴史を一般の人びとにわかりやすく説明しようとする試み
マギステル・ルーディ・ヨーゼフ・クネヒトの伝記
第1章 召命
第2章 ヴァルトツェル(森の僧坊)
第3章 研究時代
第4章 二つの教団
第5章 使節
第6章 マギステル・ルーディ
第7章 職務にて
第8章 二つの極
第9章 一つの対話
第10章 準備
第11章 回章
第12章 伝説
ヨーゼフ・クネヒトの遺稿
生徒時代および研究生時代の詩
三つの履歴
 雨乞い祈祷師
 聴罪師
 インドの履歴
訳注(上・下にそれぞれ収録)
解説(上巻に収録)


日本語訳者プロフィール
井手賁夫(いで・あやお)
1910(明治43)年岡山県に生まれる。慶応義塾大学文学部卒業。東海大学教授総代・学長代理、北海道大学教授・教養部長、北海道薬科大学教授、北里学園大学教授を歴任。北海道大学名誉教授。全国日独協会・日本自然保護協会評議員を歴任。「ヘッセ研究会」の初代会長。勲三等・ドイツ功労勲章受章。1995年逝去。(本データは『ヘッセ(人と思想89)』が刊行された当時に掲載されていたものに補足)



<ブログ内関連記事>


・・リヒャルト・ヴィルヘルムと『易経』



・・『易経』の易占の日本的展開が陰陽師の呪術性につながっていく

・・もちろん易経(I-Ching)は取り上げられている

・・ヘッセの『ナルツィスとゴルトムント』のテーマにも重なる。「俗世の泥や塵にまみれるなかで、修行を積む。 寺院のなかで修行するだけが、仏道修行ではない」のは、宗教は異なり、性は異なるが、ゴルトムントの軌跡とおなじである。ちなみに「ゴルトムント」(Goldmund)はドイツ語で「金の口」。聖クリュソストモスのことである。


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