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2009年9月30日水曜日

矢崎総業がサモア島でワイヤハーネスの現地工場を操業していたとは知らなかった・・・



(YAZAKI ウェブサイトより)

               
 本日、ポリネシア諸島のサモア島(Samoa)沖の近海で、マグニチュード8.3規模の大地震が発生、日本にも津波注意報が発令されたが、このニュースに関連して、アロー(Arrow)という名称で全世界に展開している日系メーカー矢崎総業が、なんとサモア島でワイヤハーネスの現地工場を操業している(!)という情報を知った。

 携帯電話で日経の有料経済ニュース配信サービス(月額300円)を契約しているから入ってきたベタ記事であるが、私にとっては驚きの情報である。日経のウェブサイトから再録しておこう。

//////////////////////////////////////////////////
矢崎総業、サモア現地工場の操業停止
(NIKKEI NET 2009年9月30日)
 サモアに自動車用ワイヤハーネス(組み電線)の工場を持つ矢崎総業は29日、工場の操業を停止し、従業員を帰宅させた。日本人4人を含む約700人の従業員や設備に被害はなく、30日には操業を再開できるとしている。サモアの工場からはワイヤハーネスをオーストラリア向けに出荷している。(14:01)
//////////////////////////////////////////////////

 サモアからオーストラリア向けに輸出しているという。ロジスティクスの観点からいえば、妥当な工場立地であるといえよう。賃金データについてはわからないが、当然のことながらオーストラリア国内よりも水準は低いはずだ。

 いわば自動車の神経系統ともいうべき電線の集合体であるワイヤハーネス(wire harness)の製造現場は、東南アジアで二カ所ほど工場見学をしたこともあるが、まさに絵に描いたような労働集約型産業である。ほとんどが女工さんたちによる手作業なのだ。サモア島で製造していても決して驚くべきことではないはずなのだが、サモア島で製造工場というのは、私によってはまったくもって想定外の出来事であった。恥ずかしや。

 サモアというと観光地というイメージが固定観念となっていたからだ。米領サモアの中心都市パゴパゴとか、西隣のサモア共和国の首都はアピアだとか、いかにも観光地らしい響きの地名である。
 たしかに矢崎総業のウェブサイトを調べてみると、矢崎EDSサモア株式会社という名称で存在している。英語では Yazaki EDS Samoa Ltd. という名称である。

 矢崎総業はなんとラオスでも工場を操業しており、次はミャンマー進出を考えているという話を聞いたことがある。それにしてもすごい会社である。


 大地震の引き起こした津波といえば、2004年暮れの、インドネシア・スマトラ沖大地震による、タイのプーケットや、スリランカの津波大災害が記憶に新しい。YouTube に投稿されたプライベート・ビデオの映像で津波の恐ろしさをあらためて実感してほしい。いったん水が引いてから、津波が襲いかかってくるすさまじさ、その破壊力。

 報道によれば、現地では津波被害で多数の死傷者がでているということだが、被災されたサモア島民の皆様にはこの場を借りて哀悼の意を表します。

 NHKみんなの歌でひろまった「サモア島の歌」を口ずさんで、みなさんサモア島に元気をあげましょう! ソフトウェアの自動音声「初音ミク」の歌声で YouTube で視聴可能(・・人工の合成音声だからなんか聞いててヘンなのだが・・)YouTubeで視聴可能。

 なお、初音ミクについては開発元のソフトウェア会社 Crypton のサイトを参照。

「サモア島のうた」(1962年)
 ポリネシア民謡、訳詞:小林幹治

青い青い空だよ 雲ない空だよ
サモアの島 常夏だよ
高い高いヤシの木 大きな大きなヤシの実
サモアの島 楽しい島よ

青い青い海だよ 海また海だよ
サモアの島 常夏だよ
白い白いきれいな 浜辺の広場だ
サモアの島 楽しい島よ

 風は吹く 静かな海
 鳥が飛ぶ飛ぶ 波間を行く
 ララ 船出を祝い 無事を祈る
 みんなの声がおいかける

吹く風そよそよ 太陽ギラギラ
僕らの島 常夏だよ
手拍子そろえて 元気に歌えば
僕らの島楽しい島よ

みんな集まれ いつもの広場に
僕らの島 常夏だよ
一緒に並んで 元気に歌えば
僕らの島楽しい島よ

 風は吹く 静かな海
 鳥が飛ぶ飛ぶ 波間を行く
 ララ 船出を祝い 無事を祈る
 みんなの声がおいかける

 本日、サモア島沖大地震の影響で、日本の太平洋沿岸に津波注意報がでたが、それにしても太平洋や、遠く南米で発生した地震からくる津波は、途中に遮るものがないから、そのままダイレクトに、北海道から沖縄まで日本列島全体に押し寄せてくるのだ、ということをTV画像を見て実感させられた。

 なるほど、津波は tsunami としてそのまま英語になったのもうなづける。日本は"地震大国"だけでなく、"津波大国"(?)なのだ。

 日本列島のおかげで中国や朝鮮半島は津波の被害から免れているのだから、日本は感謝されてしかるべきではないかと思うのだが・・・

 明日10月1日の国慶節に"建国60周年"を迎える中国も、中国海軍が外洋海軍(ブルー・ネイビー)化するにあたって、日本列島を太平洋への出口をブロックしている障碍(しょうがい)とのみ考えず、太平洋で発生する津波の被害から守ってくれる盾(シールド)になっていると考えてしかるべきであろう。何事も両面で考えなくてはいけない。

 明日の天安門前の軍事パレードの映像が、さまざまな意味で(!)楽しみである。なんせ10年ぶりの軍事パレードらしい。

 津波というと、日本語版のアニメ『キング・コング』の主題歌を思いだす。YouTube で視聴可能 である。

「キングコング主題歌」(1967年)  
 作詞・曲:小林亜星  歌:藤田淑子とハニーナイツ

「ウッホ ウホウホ ウッホッホ ウッホ ウホウホ ウッホッホ」
大きな山をひとまたぎ キングコングがやってくる
こわくなんかないんだよ キングコングは友達さ
火山も 津波も 恐竜も キングコングにゃかなわない
戦えキングコング ぼくらの王者

頭を雲の上に出し キングコングがやってくる
逃げなくっていいんだよ キングコングは友達さ
嵐も 地震も 怪獣も キングコングにゃかなわない
戦えキングコング 世界の王者


 津波や地震が歌い込まれているのは、まさに日本版ならではの主題歌というべきなのであった。小林亜星が主人公を演じた、連続ドラマの『寺内貫太郎一家』が懐かしい。

 自然災害が発生しないとサモア島のことを思い出さなかった、というのもサモアにとってはたいへん失礼な話であるが、サモア島の一日も早い復興を祈ります。               



P.S.
 昨日はさらにインドネシアのスマトラ島沖でM7.6規模の大地震発生、数千人が生き埋めになっているという。
フィリピンでも台風による大洪水、台湾でも台風の大被害、と各地で大規模な自然災害が発生している。 (2009年10月1日)


<付記>
読者の指摘により、作曲家・小林亜星氏にかんする記述を修正しました(2009年10月3日)

                
PS3 アクセスが予想外に多いので、写真を一枚挿入することにしました。 (2014年2月14日 記す)





(2012年7月3日発売の拙著です)







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end

2009年9月28日月曜日

戸籍制度廃止にむけての第一歩


      
 民主党の有志の議員たちが、戸籍制度廃止にむけての研究会を始めたらしい。以下のような短い報道がされていた。マスコミでの取り上げは小さいが、きわめて重要である。

//////////////////////////////////////////////
戸籍制度見直しへ議連 民主有志  
 日経Net 2009年9月20日
戸籍制度の廃止をめざす議員連盟が、民主党の有志議員約30人により10月に発足することがわかった。名称は「戸籍法を考える議員連盟(仮称)」で、呼びかけ人は川上義博氏、松本龍氏ら。個人を単位とした登録制度をつくるため、戸籍法の廃止も含む見直しを提案している。(20日 10:17)
//////////////////////////////////////////////

 たいへんよい動きである。
 なぜなら、戸籍制度こそ差別問題発生の温床、諸悪の根源であることは、日本企業で人事総務関連の仕事にかかわったことがある人なら理解できるはずだ。
 採用実務にかかわった人間なら一度は目にしているはずのパンフレットに、たしか『採用』という名前だっと思う、A4版の小冊子がある。一般にみることはないだろうが、かならずどの自治体でも発行しているパンフレットで、戸籍制度と差別にかんする、簡潔にして要を得た記載があるはずである。

 そこに書かれているのは、明治4年に作成された「壬申戸籍」の問題である。「壬申戸籍」については、詳しくは、wikipedia の説明を読んでほしい。江戸時代まで続いていた身分制度を打破し、四民平等を謳ったはずの明治維新政府は、しかしながら明治4年(壬申)に作成された「壬申戸籍」において、身分制度を温存することとなる。
 "新平民"という記述のある文書そのものは見たことがない。いまは亡き私の祖父の「軍隊手帳」には、"××県士族"と明記してあったことからも、新平民と戸籍に記載された者が存在することは類推可能である。祖父が出征したのは明治時代ではなく、なんと大正時代の「シベリア出兵」である。
 戸籍に記載された住所で、出身地がわかってしまうのである。戸籍記載事項のロンダリングでも行わない限り、出身地情報を抹消してしまうことは難しい、というわけなのだ。「壬申戸籍」そのものは現在では閲覧が禁止されて封印され、情報公開も拒否しているが、いつまたどこでコピーがでまわるかわからない。
 こういう事情があるので、採用時における差別を撤廃し、人権を守るために、これまでもさまざまな形で啓蒙活動が行われてきた。

 しかし、被差別部落の問題だけでなくない。雇用における差別については、男女差別だけでなく、正社員の非正社員への差別、親会社の子会社プロパー社員への差別的取り扱いなど、日本企業のかかえる人権問題はいっこうに改善される見込みがない。こういう問題を抱えているので、海外展開した際に日本からの出向社員と現地採用者への差別的取り扱いがいっこうになくならず、時には訴訟沙汰に発展するのである。
 日本を代表する企業の米国現地法人で、日本人トップが秘書の女性に現地法で訴えられるという件が以前に発生しているが、この場合は、性差別にパワーハラスメント、それにレイシズム(=人種差別)もからんだ複雑なハラスメントとなる。
 日本企業の組織では、セクハラ、パワハラといった、地位を利用した上位者による下位者へのハラスメントがなくなる気配がない。これに「世間」や「空気」という問題がからみ、人間集団である組織での息苦しさを生んでいるのである。
 
 米国にはアファーマティブ・アクション(Affirmative Action、以下AAと略す)というものがあり、とくに職場におけるマイノリティ保護のための措置がある。affirmative は positive と言い換えても良いが、これについては賛否両論が激しく対抗しているのが現状である。
 M.B.A.留学しているときに、人的資源管理(HRM:Human Resource Management、最近では human capital と表現することが多い)の授業でAAについてディベートさせられることになり、働きながら学ぶ黒人学生と組んで、AA肯定サイド、つまり Pro / Con の Pro 側からの議論をすることとなった。
 AAも行き過ぎると逆差別をもたらすことは、じっくり考えればわかることだが、ディベートである以上、このアクションの存在によって、黒人もM.B.A.取得の道が開かれたことを強調すべし、という論点で押し通すこととした。
 とはいえ、いったん定着した差別是正措置も、いざ廃止するとなると既得権という問題が発生しているのできわめて難しい。達成目標と期限を区切った施行が必要となるだろう。

 戸籍制度廃止研究についてだが、民主党の有志議員たちがどこまで考えているのか知らない。また研究会で議論がどこまで進むのか分からないが、議論の主目的がただ単に、単身世帯が増大して、戸単位での生計が減少していることが理由だとしても、戸籍制度廃止に向けた研究をはじめたというメッセージは大きな意味をもつ。
 なによりも"個人の自立"を制度面からも保証するものとなるからだ。
 
 この動きにかんしては、私が読み込み過ぎているのかもしれないが、"意図せざる効果"を期待したいものだ。マスコミには、きちんと報道でフォローしていってもらいたい。
 そしてまた、超党派で(bipartisan)で議論を深めてもらいたいものである。

         



    

2009年9月27日日曜日

Google AdSense について


        
 8月の終わりから、Google の収益化プロジェクトである Google AdSense に参加してみた。
 ブログ書き始めてからしばらくは収益化のためにクリック広告がでてくるのは、レイアウト上、見苦しいのではないかと思っていたのだが・・・
 これで儲けがでたら文字通り儲けもの、なんてつまらないギャグを考えているわけではないが、自分が書いた文章にどのような広告がつくのかを見るのは、実に興味深い。そしてまた意外な思いをすることも多い。

 ブログ作成者本人はクリック広告をいっさいクリックしてはいけないと Google Adsense の規約にあるので、好奇心のかたまりである私は、好奇心が高まるのを覚え、マウスをもつ右手がウズウズしながらも修道士のごとく禁欲的に振る舞っているのだ。
 自由にクリックできる読者の皆さんがうらやましい!私はなんと Google 検索でキーボード入力してからそれらのサイトを閲覧しているのですよ。

 面白いことに私の意に反した広告もでてくる。
 あれだけ"千葉県産の梨"、と書いているのに、なぜか広告は"新潟の梨"ばかり・・おいおい、少しは考えろよ、いや千葉県ももっとネットで広告宣伝せなあかんなあ、森田知事。
 しかしながら、現在に至るまで垣間見ることのなかった世界を知ることもできる。
 たとえば、"キリスト教徒のための墓地の案内"など、まったく考えたことすらなかった。私の人生においては、いわば想定外なものだったからだ。
 
 ネット空間そのものは仮想現実かもしれないが、ネットの先にはリアルな現実世界が控えている。現実世界というのはほんとうに奥が深いというか、底知れないものがあるものだ、と正直に驚いている。
 インターネット普及の初期にさかんにネットサーフィンしていた頃とは、またちょっと異なる感想だ。自分が知っている世界なんてほんの一部にしかすぎないのだと、大自然を前にした人間の小ささと同様の感情を抱く。

 検索によって知りたい情報を探索する、というのが検索エンジンの発達、とくに Google(・・日本語人の耳にはグーゴーと聞こえる)以後の世界となっているが、Google AdSense によって、"未知との遭遇"、"意図せざる邂逅"という、すっかり忘れていた楽しみを味合わうことができるようになったといえるのではないか。
 "森羅万象について考えたことを書く"、というのが私のブログ執筆のスタンスだが、そうはいっても一人の人間が知りうること、体験しうること、書きうることは自ずから限界がある。その限界を補ってくれる存在として Ads by Google で広告をつけるのもいいいのかもしれない。

 もちろん、"収益化"(・・この用語は Google のものです。いかにも英語の直訳くさい日本語だ)のためにも、好奇心旺盛な皆さんには広告をクリックしていただけるとありがたいのですが・・・

                   
                  

2009年9月25日金曜日

泣く子も黙る IRS より督促状!?



   
 メールソフトにはプロバイダーのホスティング段階、さらにウェブメールの Gmail と二段階でフィルタリングをかけている。MS のメールソフトはあまりにも脆弱なので2009年4月をもって完全に使用するのをやめた。
 ごくたまにだが、きわめて重要なメールが"迷惑メール扱い"されていることがあるので、迷惑メールもチェックだけはするようにしている。
 本日午後見てみたら、こんなメールが来ていた。泣く子も黙るというIRSから、所得税の申告書にかんして申告漏れがある、という知らせだ。

差出人:Internal Revenue Service 
題名:Notice of Underreported Income
送信日時:Fri 09/25/2009 13:52:54 JST
宛先: ldb00540@×××.ne.jp  (注:私のメールアドレスではないが念のため××にしておく

Taxpayer ID: ldb00540-00000174073547US
Tax Type: INCOME TAX
Issue: Unreported/Underreported Income (Fraud Application)

Please review your tax statement on Internal Revenue Service (IRS) website (click on the link below):

review tax statement for taxpayer id: ldb00540-00000174073547US
 (←ここはクリックするとウェブサイトに飛ぶ設定になっているが、ウイルス感染はイヤなのでクリックしていない

Internal Revenue Service


まったく同じ内容のメールで、宛先が違うものがフィルタリングに引っかかっていた。

差出人: Internal Revenue Service
題名: Notice of Underreported Income
送信日時: Fri 09/25/2009 13:00:40 JST
宛先: leu05523@×××.ne.jp

Taxpayer ID: leu05523-00000174073547US
Tax Type: INCOME TAX
Issue: Unreported/Underreported Income (Fraud Application)

Please review your tax statement on Internal Revenue Service (IRS) website (click on the link below):

review tax statement for taxpayer id: leu05523-00000174073547US

Internal Revenue Service


 米国向けのフィッシング・メール(=詐欺メール)だろうが、まったく紛らわしいね。@irs.gv はほんとうに実在する、泣く子も黙るIRSだよ。
 Internal Revenue Service 直訳すると内国歳入庁、日本語のニュアンスとしては酷税、もとい国税(=国税庁)だな。
 IRSといえば、1920年代、禁酒法時代のシカゴ、『アンタッチャブル』(The Untouchables)の世界だ。ケヴィン・コスナー演じるエリオット・ネスが、「逮捕する(You're under arrest!)」と、アル・カポネに迫るセリフだ。YouTube で trailer 参照(・・音声に注意!)。おお、ロバート・デ・ニーロがアル・カポネ役だったな。そういえばこの役を演じるために、デニーロは前髪を抜いたという、すさまじいまでの役者根性を示したのだった。
 ロシアの税務警察は、覆面してサブマシンガンをもって突入するから半端じゃない。日本の国税はそこまで過激ではないが、納税は国民の義務とはいえ、それでもやっぱり税務署というのは正直いって好きになれないものだ。
 申告漏れは"未必の故意"、ということもありうるのだから。
 
 Google 検索してみたら、下記のサイトで詐欺について実例を持って説明してくれている。IRS.govを名乗ってFAXを送りつけてくるW-8BEN詐欺について このサイトによれば、IRS詐欺は、2004年から発生しているとのことだ。
 まったくもって、どうしようもないねー

 一時期、"ナイジェリア国際詐欺団"が猛威を振るっていたが、こんどはIRSかよ。気が抜けないねー、まったく。
 ナイジェリア国際詐欺団の典型的な手口とは、それらしい儲け話を、あたかもナイジェリアの政府機関が関与しているような内容の英文書簡で送付してくるものである(・・実際に関与しているのかどうかはわからない)。
 いまから10年以上前の話だが、勤務先の社長との雑談の際、「こんな手紙が来てるのだが、ちょっと読んでみてくれんか?」と頼まれたので、「社長、それは詐欺ですよ!」と教えて差し上げたことがある。
 なんとその社長は元某銀行で取締役も歴任したエライさんだった、というのだから、逆に驚きではありますが・・(笑)

 まあ、有無をいわさずにフィルタリングにかかっていたからいけど、身に覚えのある人はダマされるのだろうなあ。
 私は米国の taxpayer ではないのでまったく関係ない。大学院時代、指導教官のアシスタントをしていくばくかもらったときには米国政府に納税はしているが・・もっとも20年近く昔の話ではある。
 
 A little learning is a dangerous thing. であります。もっとも、英語読めなきゃ関係ありませんわね。
 日本語なら、直訳すると「生兵法(なまびょうぽう)は怪我の元」、いや意味からいえば、「知らぬが仏」というのが適切かな?・・(笑)

 みなさんもお気をつけ遊ばせ。かしこ。

      



   

2009年9月24日木曜日

このオレに温かいのは便座だけ (サラリーマン川柳より)

                

このオレに 温かいのは 便座だけ(「サラリーマン川柳」より)  生命保険会社の第一生命が主催している「サラリーマン川柳」(略称「サラ川」)、その中でもとくにナンバーワンに私が挙げたいのが、この句である。  以前は、日本の職場では個人情報なんかまったく考慮もされていなかったので、いわゆる"保険レディー"(・・法人担当の保険外交員女性のこと)は、昼休みなど勝手に職場内に入ってきて、いろいろカレンダーなどの小物もくれたものだが、第一生命の保険レディーは、サラ川を印刷したピンク色のチラシを配っていたものである。  

現在では、「サラリーマン川柳」は同社のウェブサイトで見ることができる。しかも過去の作品も見れるのはありがたい。  このたび、新居の便座に TOTO のウォシュレットを設置した。ウォシュレット(washlet)とは、温水洗浄便座の登録商品名だが、すでに普通名詞化してしまっている。  

便座に座っていると、しみじみと、「このオレに温かいのは便座だけ・・」、とつぶやきたくなるな。  

そう、せめてこの境地くらい味わいたいからウォシュレットを設置した、ということも否定はしない。  

もちろん、環境問題の観点からトイレットペーパーという紙資源の節約と、おしりの健康(!)が主目的ではあるが。  

そういえば、大学の後輩が TOTO に勤務しているが、インドや東南アジアで売るのは難しいといっていたなあ。インドや東南アジアでは昔から左手つかってウォシュレットするからねー。  

タイでも、中級ホテルや古いオフィスビルなどでは、手動のジェット式ノズルが便器に備え付けのことも多い。でもノズルの水量調整が難しいんだなー、これが。勢い余ってトイレはおろか、ズボンが水浸しなんて災害に見舞われることもある。  

そうだな、「私が選ぶサラリーマン川柳」ベストスリーを挙げておきましょうか。( )内は作者の名。  1. このオレに 温かいのは 便座だけ (宝夢卵)  2. デジカメの エサはなんだと 孫に聞く (浦島太郎)  3. 「課長いる?」 返ったこたえは 「いりません!」 (ごもっとも)  皆さんも自分でセレクトしてみたらよろしいでしょう。   

川柳という5-7-5の形で小さなガス抜きしておけば、大きな爆発に至ることはないだろう。これはまさに日本人の知恵といえる。  

しかし反面、私憤がけっして公憤にまで発達することなく、線香花火のようにちょろちょろと散ってしまう大きな要因でもある。  

為政者の側から見れば前者がいいに決まっている。  

江戸時代においても身分制度を維持するために、公娼制度が維持されたことと同じロジックかもしれぬ。  

キモはガス抜きだ。    

しかし、「サラリーマン川柳」には、しみじみしちゃうねー。こういうのがわかるようになるのが、日本では大人になるということなのかね。私の日本人性もここに極まれりということだろうか・・・  

ウォシュレットに戻るが、以前のマンションで使っていたのは、入居前から設置されていたアプリコットという製品だったが、今回は単機能型である。ウォシュレットK TCF315 というタイプである。  

前回のはセンサーが作動して、勝手に水を流してしまうので、腰を浮かす角度にによっては、完全におしりの処理が終わっていないうちに、トイレを流す水が出てしまうことがあり、落ち着けないものがあった。水資源も無限ではないからね。無料じゃないしね。  

今回のはセンサーなんて洒落たものはついてないので、安心して座っていられる。  最後に手動で水を流すタイプのほうが、かえって省資源型だといえよう。  

日本の携帯電話は、メールやカメラやワンセグ(=TV受信機能)やら、付加機能がたくさん着きすぎて操作が複雑になってしまっている。これをさして、産業界では"ガラパゴス化"という表現がされることもある。  

つまり日本の産業は、絶海の孤島に取り残されて、その他世界とは無関係に進化を遂げた、ガラパゴス島の生物のように異常な進化を遂げてしまった、という比喩的な表現である。  

最近では、携帯電話も通話できればそれで十分じゃないか、というニーズがとくに高齢層にはあるので、単機能をウリにした携帯電話もでてくるようになっている。  TOTOのウォシュレットも、おしりはノズルからの水で洗浄してもらっても、最後に水を流すのは手動のタイプのほうが、かえってありがたいと思う客層もいるはずだろう。  

何事も過ぎたるは及ばざるがごとし、ではないかな。いや、何事もバランスが重要というべきだろうか。  

引越によるダウンサイジングの"ファースト・ステージ"がようやく完了に近づいてきた。 

荷物の収納作業と処分品の選別作業を同時平行で行っているが、はたはたくたびれる。生まれてから一度も本は処分したことがないなどとウソぶいている男もいるが(・・元MS日本法人の社長・成毛眞氏のインタビュー記事「本は"トン"で数えます」前編・後編)、冗談じゃないぜ、といいたくなる。  

収入の半分は本に消えた、とまではいかないものの似たようなものだが、一冊も処分したことがないとはねー  たしかに選別しているヒマがあったら、そのまま捨てずにおいとけばいいいというのは正論だが、まったくもってイヤミなオッサンやねー  立花隆のネコビルみたいに、ビル一棟ごと書斎にしてしまうのは男の夢だが、叶うことはあるのやら・・・  

明日、またダンボール箱で総計11箱の書籍とDVDとCDを買取に出す。ビデオテープはダンボール1箱分を昨日廃棄処分にした。  

こうやっても果たして残り半分の荷物が収納できるかはなはだ不明である。  来週からダウンサイジングの"セカンド・ステージ"が始まるが、"本との闘い"は、考えただけでもぞっとするなー。また大量に処分しなくてはなるまい。  

本の整理というものは、まったくもって人生の棚卸しに似ている。1999年以前に発行された本はすべて廃棄処分にする、みたいな単純明快なクライテリアでもって処分品を決めるわけにはいかないからね。    

トイレで一息ついたオレがつぶやくのはまた:    このオレに 温かいのは 便座だけ  下の句でも詠んでみるか:    プシューと ノズルから 水の出る音    おそ松でした・・          

2009年9月20日日曜日

Vietnam - Tahiti - Paris (ベトナム - タヒチ - パリ)


             

 今月三度目の上京である。

 意図したわけではないのだが、行きたいと思っていたイベントを3つはしごすると、途中で気がついたのだが、面白いことにいずれもフランスにゆかりのあるものとなったのだ。見えざる糸でつながっていたいうべきか。こういうのをユング心理学ではコンステレーションというのかな?

 都心に住んでいないので、いろいろと用事をまとめてこなす必要があるので、こういう次第となったにすぎない、のだが・・

 参加したイベントを時系列に並べると以下のようになる。

 ① ベトナム:「ベトナム・フェスティバル2009」(代々木公園)
 ② タヒチ:「ゴーギャン展」(東京国立近代美術館、竹橋)
 ③ パリ:試写会 『パリ・オペラ座のすべて』(日仏会館、飯田橋)

 この3つのイベント会場をすべてメトロ(!)のネットワークで移動するという、東京にいながらにしてパリを味わったことになる。

 "ネットワーク"も日本語でやわらかく言い直せば"つながり"ということになる。それにしても、現在東京メトロという名称(・・正式には東京地下鉄株式会社)に改称したのはまさに、帝都高速度交通営団(旧称)の英断であったといえよう。このアメリカナイズされた敗戦後の日本にあって、なんと"帝都"(!)と冠したまま約60年をやり過ごし、民営化にあたっての改称に際しても、サブウェイやチューブ(・・ロンドン地下鉄の愛称)などとはせず、フランス起源の由緒正しい"メトロ"にしたというのは、賞賛すべきことであるといってもけっして過言ではないのだ!

 Metropolitan の省略形であるメトロは、一国の首都である東京(・・かつては大日本帝国の首都、すなわち帝都であった)を走る地下鉄にはふさわしい。まさに営団、もとい英断である。その他都市の地下鉄はサブウェイでよろしい。あるいは東南アジア風に MRT(Mass Rapid Transit)でもよいのかも。

 ほんとうの気持ちとしては、帝都高速度交通営団のまま走り続けてほしかったのだが、それを望むのは贅沢というべきだろう。東京と八王子を結ぶ私鉄の京王帝都もなき現在(・・1998年に京王電鉄に改称)、当時を生きてきた人間は国鉄とか、帝都営団、とたまにはクチにしてもよいのだ。若者はけっして(心の中でも)嘲笑しないように。


 さて、東京メトロ千代田線でまずむかったのは明治神宮駅、ここで下車して代々木公園まで徒歩で移動。

 「ベトナム・フェスティバル2009」は、私はいってみたのは今回が初めてだが、すでに今回で何回目か白仁が、ちょっと盛り上がりに欠けるなーというのが正直な感想である。同じ東南アジア・インドシナのライバルである「タイ・フェスティバル」とくらべて、熱気があまり感じられないのだ。本日は好天に恵まれて絶好の外出日和だったのだが、なんせテナントの出店数が比較的少ないこと、ベトナム好きの人数はタイ好きに比べると絶対量がまだまだ少ないのかもしれない。

 また先々週の「ブラジル・フェスティバル」がサンバのリズムであまりにも熱気がありすぎたことも、比較的おとなしい(?)ベトナムを熱気がないなどと思わせているのかもしれない。おそらく、シルバーウィーク(?)などという新語で連休の消費をあおっているので、カネ持っている人間は海外旅行にでてしまって都内のイベントへの参加者は少なかったのかもそれない。

 今回わざわざいった最大の理由はベトナム料理の食材調達である。ベトナム料理はピンキリの差があまりにも大きく、ハノイやホーチミン(旧サイゴン)の高級レストランと、一般庶民の食べるぶっかけ飯ではあまりにも違いが大きすぎて、ベトナム料理はうまいという人間とまずいという人間の二派に分けてしまう。


 私も、東南アジア最高のタイ料理に比べるとベトナム料理はイマイチだなと思っているクチだが、朝食べる牛肉フォー(・・これはどちらかといって北部のハノイ風)だけは何杯もお代わりしてしまうくらい好きなのだ。フォーとはライス・ヌ-ドル、すなわち米粉で作った麺だが、現地では生麺なのに対して外地では乾麺しかないのは残念。しかも日本のスーパーマーケットではパクチー(=香菜)は扱っていても、フォーを扱っている店はほとんどないので、こういう機会に乾麺のフォーを買い置きしておくというわけだ。今回は8食分を250円で購入した。わざわざベトナム食材店までいくのは面倒だしね。

 出店しているテント店で鶏肉フォー(500円・・高いなー)、揚げ春巻き(2本300円)にベトナムビールの333(400円)を昼食に購入して食べる。ちなみに333と書いてベトナム語でバーバーバーというのだが、缶ビール版は今回はじめて見た、輸出用には缶ビールもあるのだろうか・・。ベトナムでもついついシンガポールのタイガービールを飲んでしまう私だが、せっかくだし、珍しさにひかれて今回はバーバーバーにした。


 余談だが、333のバーバーバーとか、ハノイ近郊の焼き物の里バッチャンとか(・・ちなみに私は南部のホーチミン市で親しくなった北部ハノイ出身のベトナム人からもらったバッチャン焼きの大皿をもっている)、日本語人の耳にはなじみのある音声の固有名詞が多いのは面白い。ベトナム語では意味は全然違うんだけどね。

 日本のベトナム料理店ではナマ春巻きが圧倒的だが、現地ではほとんど揚げ春巻きであることもここに書いておく。それもミニサイズのものが多い。

 あとはカラフルなアオザイ姿のベトナム女性を見れたのは目の保養(?)になったというべきだろうか。ホーチーミンなどの南部ではカラフルなものよりも、純白のアオザイが圧倒的で、アオザイでスクーターを飛ばしている女性は颯爽としていてかっこいい。

 ベトナムにはしばらくいく予定がないなあ・・・だからこういうフェスティバルに足を運ぶのである。

 ベトナム料理を食べてから(・・正直いって333ビール以外はあまりうまくはなかったのだが)、東京メトロ千代田線と東京メトロ東西線を乗り継いで竹橋の東京国立近代美術館(The National Museum of Modern Art, Tokyo)へ。天気がいいので美術館よりも皇居を散策したくなるが、時間がないので道を急ぐ。



 「ゴーギャン展」をやっているのだ。今回の目玉は「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」(1897-98年)である。1991年にボストン美術館(Museum of Fine Arts, Boston)で見て以来だ。

 先にも書いたが、連休のためだろうか、思ってたよりも人が少なく、じっくりと時間をかけてこの絵を見ることができたのは幸いだった。正直って他の絵はどうでもいので、ほとんどすべてオミットし、自画像とこの絵だけを見ることにした。だからカタログも購入しない。

 日本ではゴーギャンというが、本当はゴーガンと発音すべきだろう。つづりは Gauguin である。

 大学受験直前に読み始めたら、受験勉強忘れてついつい読みふけってしまった、サマセット・モームの 『月と6ペンス』(The Moon and the Sixpence)は、ペンギンブックスのペーパーバックで読んだのだが、そのときのイメージがあまりにも強い。モームの小説の主人公の名前は覚えていないが、ゴーギャン(・・混乱するので通称に従う)をモデルにしていることは間違いない。

 今回の展覧会であらためてゴギャンの年譜を読むと、パリで株式仲買人(stock broker)として成功したビジネスマンだったゴーギャンは、1882年のパリ株式市場暴落でブローカーをやめて34歳で画家に転向したらしい。

 それ以前にも成功してカネがあったので、印象派の画家の作品を購入しており、自らも絵を描いていたのとはいえ、かなり思い切ったキャリアチェンジである。実際、同時代では受け入れられなかったので病気と困窮のなかで53歳で死ぬ事になるのだが、人生なんてこんなものかもしれない。株式市場暴落ぐらい大きな出来事でもない限り、なかなかキャリアチェンジなんてできないものなのだ。今回の大不況をきっかけにして、元ビジネスマンの画家や作家がでてくることだろう。

 ところで、20歳代はじめにフランス海軍に入隊して外用航海にでているゴーギャンだが、海軍士官だったフランス・アカデミー会員の作家ピエール・ロティとは違って世界中回ったわけではないようだ。フランス領のベトナムには終生いったことがなかったようだが、植民地タヒチの首都パペーテをはじめて訪れた際に、文明化されていることに失望したゴーギャンのことだから、高度文明国ベトナムに惹かれることはなかったであろう。



 「我々は何者か、我々はどこへいくのか」(写真上)という絵についてだが、いかにもメタフィジカル(=形而上的)な、意味ありげなタイトルではある。イメージからいえば、カン・サンジュン的な口調で、したり顔でインテリが語りたがるセリフだが、あまり考えすぎない方がいいと思う。

 もちろんこの絵は中世絵画のようにアレゴリカル(=寓意的)なテーマの寄せ集めなので(・・とくに中央で果実をもぎとる女性はあきらかにイヴ=エヴァを意味しているだろう)、過剰な読み込みを誘発しがちな絵であることは否定はできない。

 しかし一言でいってしまえば、我々は人間であり、我々は母親から生まれて土に還る、それだけのことではないか!?

 このあまりにも当たり前の事実を確認するためにゴーギャンはパリを離れ、タヒチで生涯を過ごすことになったのだ、と私は考える。だからこれがゴーギャンの遺作であり、遺言なのである。近代化の道をひたすらに走る欧州ではすでに失われて久しいアルカディアへの望郷の念いであり、野性であるはずのタヒチですらそれが失われゆく事への嘆きなのだ。なんだか、J.J.ルソーみたいな話になってしまうが。

 たしかヘブライ語のベン・アダム(ben adam)というのは人間のことだが、土くれからできた、という意味だったはず。中東欧ユダヤ伝説の巨人ゴーレム(Golem)も土からできたものだったよね。死ねばまた土に戻る、それだけのことではないか。

 過剰な意味づけを排して、自分自身の感性にのみ従って、虚心坦懐に絵画は鑑賞したいものである。日本人はお勉強がすきなので、知識で目が曇りがちなんじゃはないのかな?

 ミュージアムショップで買った「ゴーギャン展」向け特別制作の、神戸ゴンチャロフ謹製のきれいな缶入りコルベイユ(=ロールクッキー)800円は自宅に持ち帰って食べたら、たいへん美味でありました。食べ終わったあとに美術缶として使えるので、プレゼントにいいと思います。購入を勧めますが、「ゴーギャン展」は9月23日まで。ボストン美術館の日本でのフランチャイズである名古屋ボストン美術館での展示もすでに終わっているようだ。もう入手できないかもね。

 ほんもののタヒチはまだいっていない。ぜひ一度は遊びにいきたいものだ。


 そしてまた東京メトロ東西線を二駅乗り飯田橋へ。フランスの旧植民地ベトナムから始まり、現在でもフランス領のポリネシアの中心タヒチを経て、そしてついにフランスのパリに至る。

 試写会の招待券をもらったので、『パリ・オペラ座のすべて』を見に行く。会場の「日仏会館」は実は訪問は今回が初めてであった。大学時代の第二外国語はフランス語であったが、仕事でフランス語を使うことはまったくないので、語学学校にいくこともないまま現在に至るというわけだ。

 飯田橋のブリティッシュ・カウンシルにも近い日仏会館は、お堀を挟んで神楽坂とは反対方向の坂をあがった丘の中腹にある。いかにも西欧人好みの立地であるが、かなりオシャレな雰囲気を醸し出しており、さすがフランスの文化政策は違うなあと感心することしきり。


 Encore という無料のカルチャー・マガジンも出しており、これがまたなかなかオシャレなつくりになっている。日本語とフランス語で、音楽、文学、シネマの最新情報が紹介されている。

 フランス料理のテラス型レストランを備え、いかにもパリにありそうなフランス語専門書店 Rive Gauche(セーヌ左岸)がある。いい味出してるねー

 文化を国家戦略として前面に押し出すフランスの姿勢は大いに学ぶべきである。実際のフランスという国家は、太平洋の仏領ポリネシアのムルロワ環礁での核実験などに見られるとおり、中央集権の軍事警察国家で植民地帝国という本質をもっているのだが、フランス文化を前面に出すことで、これらはいっさいカモフラージュされる、というわけである。

 赤塚不二夫の『おそ松くん』に、「おフランスざんす」というのが口癖で、シェーというポーズを私を含めて日本全国の男の子たちに流行らせた、イヤミという強烈なキャラクターが登場するが、フランス帰りの日本人デザイナー(という設定)が揶揄する対象であったのも、すでに40年以上も前の話である(・・YouTubeにオリジナル白黒版のオープニング映像あり。なんと、"あたり前田のクラッカーの藤田まこと"が主題歌を歌っている!)。

 マンガしか読まないという評判の麻生太郎・前首相の政権になってから、日本もマンガやアニメの意味にやっと気がついたようだが、マンガ・アニメを国家としての日本の文化戦略として位置づけているのはきわめて正しい。自民党から政権交代した民主党も、この意味はキチンと勉強するように! 「アニメの殿堂」のハコもの建設中止はいいとしても、ソフトウェエアとしてのアニメそのものは否定しないこと! 坊主憎けりゃ何とやら、というのでは困るからねー。何度も書いてるが、フランスでの日本アニメ熱はすごいんだからねー。

 往事に比べると影響力は衰えたといえ、まだまだフランス文化の魅力は依然として大きい。とくに最近はパリで修行した日本人パティシエの存在が大きいのではないかな。結婚戦略における、フランスワインの伝道師(?)川島なおみの目の付け所はさすがである、といわざるをえないな。


 『パリ・オペラ座のすべて』という映画だが、内容は世界を代表するバレエの殿堂、フランス国立パリ・オペラ座のバレエ・カンパニーのウラオモテを追ったドキュメンタリー映画である。160分(=2時間40分)という長編なのだが、振り付け師とダンサーによる稽古の現場や、芸術監督やマネジメントの交渉現場など、舞台裏も臨場感ゆたかにたっぷり見せてくれるので、まったく飽きを感じさせない作品に仕上がっている。もちろん、完成品としての舞台もいくつもみせてくれるので芸術映画にもなっている。

 製作はフランスと米国、監督はフレデリック・ワイズマン、出演はほんもののパリ・オペラ座職員。国立オペラ座に所属するダンサーは定年が40歳で、なんと40歳から年金が支給される(!)というシーンがでてくるが、フランスの国家戦略として文化が位置づけられていることがこのシーンでも確認できるのだ。もちろんダンサーだけは特別で、その他の職員は定年は65歳らしい。  

 バレエは、モスクワ、サンクト・ペテルブルク、東京、ウィーンでは鑑賞しているが、まだ本家本元のパリ・オペラ座にはいったことがないのだ。生きている間に、などといわず、そう遠くない将来に見にいきたいと思っている。どうしても「オペラ座の怪人」のイメージがこびりついてしまっているのも考え物だが・・・

 この映画は、10月10日から渋谷の Bunkamura で一般公開される。


 というわけで、ベトナム⇒タヒチ⇒パリと巡った、フランス・カルチャーの旅もおーしまい。なんだか国内なのに、海外旅行でイベントを駆け足で回ったみたいな感じがするなあ。

 考えてみれば、パリには1992年以来、17年もいってないんだなあー(・・と、ため息)。

 バンコクではフランスのTV番組であるTV5 Monde を衛星放送で見ていたのだが、日本でも Windows で視聴できることを、日仏会館敷地内の書店 Rive Gauche (前出)においてあったチラシで本日はじめて知った。

 パリ再訪に備えて(・・いつ実現するか現時点では不明)、フランス語のリスニング・ケイパビリティを向上させるために、契約しようかな・・・VODだけなら月額900円、24時間ライブ視聴なら月額1,200円だそうだ。考えておこう。

 詩人・萩原朔太郎の時代ではないので、「フランスに行きたしと思へども、フランスはあまりにも遠し・・」と嘆く必要はない。航空券さえ入手できれば12時間後にはパリに着いてしまうのだから。スターアライアンスのマイレージもたまっているのでフランス往復のチケットならオフシーズンなら即ゲットはできる。

 ただ、今度は通りすがりの観光客ではなく、パリにある一定期間住んでみたいなーとは思っているのだ。でも生活費がユーロ建てではそう長くは暮らせないなー、と現実に戻る。はじめてパリにいったときはバックパッカーでカネがなかったので、内部がカイコ棚のようなユースホステルに宿泊したものだ。これはこれで、カルチエ・ラタン(=ラテン街)の近くという好立地ではあったが・・

 やはりフランスは遠し、かな・・・
     
 
PS 読みやすくするために改行を増やした。文章にはいっさい手は入れていない。なおあらたに「ブログ内関連記事」の項目を新設し、その後に書いたブログ記事のリンクを表示することとした。(2015年3月15日 記す)。


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月刊誌「クーリエ・ジャポン COURRiER Japon」 (講談社)2011年1月号 特集 「低成長でも「これほど豊か」-フランス人はなぜ幸せなのか」を読む

「特攻」について書いているうちに、話はフランスの otaku へと流れゆく・・・
・・日本とフランスの関係をサブカルチャーから考えてみる。フランスと日本は、知らず知らずのうちにお互い影響を与え合っている




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2009年9月17日木曜日

"あきづき" という梨の新品種について




(千葉県船橋産の「あきづき」)

日本の秋はなんといっても梨(なし)である。

 果物にはあまたあれど、梨ほど世界一うまい果物はなし(・・ダジャレ、すんません)、と思っている。これは英語には直訳できないなあ。梨は英語で pear というが、このコトバでは洋梨しか思い浮かばない。

 梨はただしく球形であることを希望する!


 熱帯のトロピカルフルーツでは、もちろんマンゴー、マンゴスティン、ドリアン、ライチ、パパイヤ・・・・これらはもちろんうまい。

 ドライフルーツなら、干し柿(日本、中国)、干しイチジク(トルコ)、干しアンズ(トルコ)、干しぶどう(カリフォルニア)、干しナツメ(中国)だろう。それからデーツ(干しナツメヤシの実)か、いあやこれは中近東だな)。

 温帯では、なんといっても梨につきる。梨はどんなに食べたいと思っても秋にしか食べられないのは残念であり、また季節感の非常に強い果物であることは同時に喜ばしい。
 これぞ真の"水菓子"といっていいだろう。中国では西瓜が水菓の代表的存在だが(・・音に注目!)、私は日本の梨こそ水菓であるといいたい。


 秋の韓国農村を旅したときに梨を買って食べたことはある。見事な形ではあったが、品種改良がまだまだ進んでおらず、外観は昔ながらの梨だったものの、味は大味でイマイチであった。

 これに比べると日本の梨のうまさは驚異的である!品質に関しては段違いだからだ。これこそ世界標準というべきなのだ。

 絶えざる品種改良につぐ品種改良栽培農家の努力で、日本の果物が世界に輸出され、高価であるのにかかわらず富裕層から支持されているのは当然だろう。梨の海外での評判については聞いたことはないが・・
 

 東京を離れて久々に千葉県に移ったのだが、なんといっても千葉県でも東京寄りの下総(しもうさ)は、日本でも有数の、梨の一大産地である。

 "二十世紀梨"というと、いまでは鳥取県が生産高日本一だが、発見されたのは千葉県松戸市だ。
 千葉県内では福島産の梨も売られているが、福島産は名産の桃だけにとどめておくべきだろう。
 スローフードの根幹は「地産地消」ではないか。
 しかも味は抜群にうまい! だから私は断固として、梨は千葉県産、とくに船橋産にこだわる、のだ。


 子供の頃は、果肉がザラザラした食感の、甘い赤梨である"長十郎"(ちょうじゅうろう)が支配的であったが、いまでは"豊水"(ほうすい)や"幸水"(こうすい)が甘くてジューシーな梨として、生産の中心になっている。

 つい最近、"あきづき"という銘柄の梨をはじめて店頭でみつけて買ってきた。

 食べてみると、甘さは豊水よりもやや抑え気味な上品なものであり、サクサクした食感に、みずみずしい果汁にあふれた梨である。だいたい1個100円~150円程度である。

 ネットで調べてみると、あきづき(秋月)は、最近数年の新品種らしい。あきづき=(新高×豊水)×幸水、という掛け合わせらしい。 

 花がつきにくいとうこともあり、栽培技術の関係から、まだまだ量が出回っていないので、"幻の梨"といわれているらしい。品評会などでもとても高い評価を受けているという。

 ネット通販での販売価格は、現地価格の2倍以上になっている。
 東京では見たことがなかったのは、"幻の梨"だったからなのか!?


(千葉県産の「あきづき」 2016年9月 写真追加)

 新しい農産物の銘柄(=ブランド)に和風な名付け(=ネーミング)をする、これも乙(おつ)なものだな。
 コメの銘柄でいえば、私の子供の頃は、寒冷地に強いという新品種の農林●号などとまったく無機質なネーミングもあったが、やはりコシヒカリ、ササニシキ、秋田こまち、などの日本語が耳にやさしい。

 日本の梨ほどうまい果物はないと思っている私は、梨のうまい時期に日本にグルメ観光を誘致すべきではないかな、と思う。"梨狩り"のために9月は日本に行くのだ、なんていう人たちがでてくると面白いなあ。
 観光シーズンの10月ではもう遅すぎる。9月こそ本当にうまい梨が食べられるベストシーズンだからだ。
 しかしこの9月という月はまさに台風シーズンで、せっかく実った梨が強風でやられてしまうこともある。

 関東には、今月2本目になる台風14号が接近中である。


          
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2009年9月16日水曜日

CAPITALISM: A LOVE STORY


 このブログでもGM破綻の際に取り上げた、マイケル・ムーア(Michael Moore)監督の新作が、全米で10月2日に公開される。題して、CAPITALISM: A LOVE STORY.(・・Official Site 参照)。 おお、マイケル・ムーアがついに正面切って資本主義との本格的な勝負に出たか!

 Teaser では、マイケル・ムーア自身による視聴者へのお願いが、Official Trailer では、映画のメッセージをドキュメンタリー映像の編集でみることができる(・・いずれも音声に注意!)Trailer の2分間の映像を見ているだけでも、めちゃくちゃ面白そうだ。早く見たい! アポなし突撃取材が、取材される側のホンネを思わず引き出す、しかも映像で(!)という面白さである。


 A LOVE STORY というと日本でも大ヒットした1970年公開の往年の名作 『ある愛の詩』 と同じだが、内容はもちろん皮肉に満ちている。参考のために Ryan O'Neil主演の Love Story の Trailer をYouTubeにて(音声注意!)。

 しかし Love & Hate ではないことに注目しておきたい。つまり、愛する主体は、監督である自分とは別だということだ。

 Capitalism を愛するのは、政財界のエリート特権階級とそのおこぼれにあずかる者たち=持てる者、ということ。これに対して一般大衆である労働者階級=持たざる者との違いが明瞭に浮き彫りにされる。

 前者が They、それに対して Us は、AIGをはじめとする金融危機よって、なけなしの年金(・・401Kのことだろう)も、不動産などの財産も失った人たちのこと。They vs. Us Conflict はさらに拡大したようだ。

 Trailer のなかで、「こいつは全部持っていた野郎どもに対する、持たざる者の反乱だ!」と発言しているライフル愛好家のオッサンは、まさにその象徴といえよう。


 鍛えられて引き締まった肉体と弁舌あざやかなエリート層と、ぶよぶよに肥満したマイケル・ムーアに代表される労働者階級。この違いは映像的にも鮮やかに対比される。

 労働者階級は、ダイエットにはあまり気を遣わないから、ジャンクフードで肥満体になっていしまう。間違ってもスシなどのヘルシーフードや、マクロビオティックなどのオーガニックフードなど口にしない人々である。They vs. Us がここでも対比的に描かれる。


 1990年に、Wall Street をはじめて見たときは、そのあまりもの小ささに驚いたものだ。兜町よりはるかに狭い。この狭い Street が世界の金融の中心というのは、実に感慨深いものを感じたものである。


 資本主義そのものは悪なのか? 

 私は決してそうは思わない。資本主義の暴走をいかに制御するか、これが重要であって資本主義そのものに反対するわけでも、資本主義が崩壊するとも考えない。ただし、資本主義のオルタナティブについて知的な探求は必要だろう。制御方法は時代と共に変化していくからだ。

 誰の発言か覚えていないが、Capital-ism をなぜ日本語人は資本主義と訳したのか疑問であると書いていた人がいる。Alcohol-ism がアルコール"中毒"なら、Capital-ism は資本"中毒"(!)ではないか、と。

 たしかに資本主義とは中毒症状の一種かもしれない。もしそうなら治療には強い意志と痛みとの闘いを伴うだろうが、治癒不能ということはあるまい。


 本日、政権交代を実現した鳩山新首相が、雑誌論文で不用意な発言をして、これが米国で物議を醸したと日本では報道されているが(・・論文の日本語原文と英訳を見ていないので私には何ともいえない)、祖父が日ソ国交回復を実現した首相であるといっても、米国のスタンフォード大学卒業の鳩山氏がまさか反米ということはありえまい。

 彼は、米国型資本主義が問題であると表現せずに、"行き過ぎた米国型資本主義"が問題である、と数学者らしく適用範囲を明確に限定した上で表現すればよかったのである。

 労働者階級出身のマイケル・ムーア自身の思想は知らないが、米国がさまざまな問題を多く抱えていながらも、米国人であることを誇りに思っているはずである。健全なる批判精神の持ち主の表現者である、ということだろう。この意味では米国の許容力の広さはまだまだ大丈夫だといえるだろう。

 この映画の製作を行った Overture Films というプロダクションについてはよく知らないが、そもそもハリウッド自体、ユダヤ系が多数派で、伝統的に民主党(Democrat)の牙城であることは、米国というものを考える上で面白い事象である。

 マイケル・ムーアの新作はまだ米国でも公開されていないし、日本での公開は12月になるようだが、さて日本語タイトルはどんなものになるのだろうか。
 『資本主義:ある愛の詩』、なんてことはさすがにないだろうが・・(笑)


<付記>
 日本公開タイトルは、『キャピタリズム:マネーは踊る』となったようだ。なかなかシャレてるね-、センスいいねー。早く見たいな。(2009年9月24日)







<ブログ内関連記事>

GMついに破綻-マイケル・ムーアの "Roger & Me" から20年
・・ムーア監督の1989年の作品『ロジャー&ミー』

マイケル・ムーアの最新作 『キャピタリズム』をみて、資本主義に対するカトリック教会の態度について考える

書評 『超・格差社会アメリカの真実』(小林由美、文春文庫、2009)

月刊誌「クーリエ・ジャポン COURRiER Japon」 (講談社)2010年3月号の特集「オバマ大統領就任から1年 貧困大国の真実」(責任編集・堤 未果)を読む

映画 『ウォール・ストリート』(Wall Street : Money Never Sleeps) を見て、23年ぶりの続編に思うこと                 





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2009年9月15日火曜日

米国は「熱気」の支配する国か?-「熱気」にかんして一読者の質問をきっかえに考えてみる 


            
 日本のTVでも報道されているが、いま米国ではオバマ大統領が公約として掲げ、政権をあげて実現しようとしている政策、「国民皆保険制度」に対してものすごい逆風が吹きまくっている。

 全米各地で集会が開かれては、反オバマのシュプレヒコールがあげられている。
 その主体となっているのは白人保守層のようである。したがって、これはある特定のデモグラフィック集団の示した反応であって、米国人全体の反応とはいえないだろう。

 
 とはいえ、これはまさに「熱気」である。しかも「空気」であることにはかわらないが、かなり熱を帯びた「空気」ではある。
 「世間」については、とくに日本語を使う日本人を縛ってきたものであるが、「空気」については必ずしも日本に限らず、世界中どこでも観察できる現象だと思われる(・・もちろん「世間」なる現象は日本社会以外でも観察可能だと私は考えているが、これはまた改めて書いてみることとする)。

 もちろん米国も「熱気」」というか、まあ「熱い空気」に飲み込まれやすい傾向がある。

 重要なポイントは、米国人は「空気」には流される度合いが小さいことだと思われる。
 他人の意見に付和雷同する、あるいは自分の意見を述べずに黙って付き従うというビヘイヴィアは米国人には見られない。
 自分の意見を明確な言語(=英語)で表現することが、生きていくための最低必要条件となっているのが、米国社会であるといえる。
 現時点でその頂点に立っているのが、ロジックと巧みなレトリックで構成された弁舌の持ち主、オバマ大統領であることはいうまでもない。
 これには、英語の存在も大きいだろう。ラテン語やロシア語などでは、主語を明示しなくても動詞の変化型で主語を表現できることは学習者は知っているはずである。
 主語がないと文を構成できない英語という言語は、むしろ少数派である。

 米国にはフルに2年間滞在して、さまざまな場面に遭遇したが、「空気」に流される米国人というのは見た経験は一度もない。

 ことあるごとに "make a difference" ということが強調される。極言すると、人と同じことをするのはバカだ(!)という共通了解があるといっても言い過ぎではない。
 子供から大人まで、平気で他人の意見には反論するし、とにかく自分の意見をもて、自分の意見を述べよという圧力の強い社会なので、その場の空気に"過剰同調"するということはまずない。一見そう見えるとすれば、それは力関係が明確な人間集団の場合だけであろう。
 米国人でも力関係から長いものに巻かれろという態度や、勝ち馬に乗るという行動(・・これをバンドワゴン的行動と政治学ではいう)は日常的に目にする。とくに仕事関係では、ボスの命令には絶対服従であり、議論はあっても上意下達の世界である。しかし、仕事を離れれば、別の世界があるので、日本的な「世間」の縛りはゆるいといえる。
 それがある意味、日本とは違って風通しがいい、という印象になるのだと思う。

 「熱気」にかかわる問題といえば、かなりの程度似たような考えをもつ人間が、ある一定のスペースに存在する場合、時の為政者が、ある種の特定の方向性をもった「空気」を作り出して扇動した上で、政策実行に結びつけてしまうことがよくある。かなりが作為的なものである。政治的プロパガンダによる高等戦術といってもよい。
 9-11(ナイン・イレブン)後のアメリカの熱狂は、ほとんど宗教的熱狂に近かったいっても言い過ぎではないだろう。もうだいぶ冷却したようではあるが・・・
 この場合も「空気」を作り出したデマゴーグが確実に存在していることには注意しなければならない。
 現代では、メディアをフル稼働させれば、特定の方向性をもった「空気」の流れを作り出し、燎原の火のごとく広めることは、テクニカルな意味で必ずしも難しくはないだろう。1933年のヒトラーの国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、いわゆるナチス党)が先鞭をつけた手法である。いわゆるポピュリズム(=大衆扇動政治)である。

 また宗教的だといった理由は、米国だけではないからだ。

 イスラエルにいった際、いわゆる「嘆きの壁」にいってみたが、建物内部ではユダヤ過激派集団がいて、何だか近寄りがたい「熱気」を発していた記憶がナマナマしい。サブマシンガンもったラビ(?)と、輪をつくって熱狂的に踊るまくるユダヤ人の集団はおそらくハシディズムの信徒なのだろうが、正直いってなんだか危険な宗教的熱気を感じたものだ。
 宗教的熱気を発している集団は、同じ宗教を信じる一体性の強い集団であり、盲目的になる前提として最初から同質性が強いことがあるので、最初から「空気」は共有しているのである。
 うわさやデマによって特定の敵を作り出すことは、集団の凝縮力を強化するために使われる古典的手法である。こういう状態で醸成された「空気」は暴動という形で一気に広がりやすい性質をもつ。 
 これは宗教集団だけではなく、とくに欧州のサッカーの試合にみられるフーリガンでも同様に観察できる。特定のチームを熱狂的に応援するサッカーファン疑似宗教集団ともいえようか。


 またついでだから書いておくが、米国では論理や議論がすべてとかいってるが、これも真実とはほど遠い。

 反対派は究極的には射殺によって物理的に抹殺するするという、むき出しの暴力、いわばマッチョな原理が支配するのが米国だ。
 これは米国で暮らすと肌身をつうじて理解できる。白人は基本的に男性原理中心で動いており、女性原理が優先するアジアとは根本的に異なる。この点は欧州も基本的にかわらない。


 「熱気」については、一神教世界とそれ以外の多神教世界との比較検討が必要だろう。

 イスラエルについて触れたが、ユダヤ教世界であるイスラエルも、キリスト教世界である米国も、イスラーム世界であるアラブ世界もいずれも一神教世界で、どちらかというと熱くなりがちな世界である。
 カフカース(=コーカサス)を中心にイスラーム圏を含んだ存在であるロシア世界に詳しい、作家の佐藤優(元外務省)が書いていたが、"アルコールに酔える者"、"ハッシシ(麻薬)に酔える者"が存在するが、もっとも手に負えない、恐るべき存在は"神に酔える者"である、と。一神教世界、とくにイスラーム主義者のテロリストの精神構造に存在するのが、この"神に酔える者"である。
 「熱気」が支配しやすい社会は、一神教世界がベースにある社会だという仮説も成り立つかもしれない。キリスト教の支配力が弱まって「世俗化」の進んでいる西欧社会は、これによってある程度まで説明可能だろうか?

 私が滞在していたタイ社会は上座仏教をベースにした多神教世界である。タイ人の人間関係は、うわさが飛び交う社会でありながら、王室というタブー領域を除けば、「世間」のしばりのきわめてゆるい社会であった。
 「熱気」を帯びた政治集団が昨年以来マスコミを騒がしているが、大多数のタイ人は迷惑に思っているようである。仏教的に何事も中道をゆくべし、何事も穏便にというのが、上座仏教圏(タイ、ミャンマー、ラオス、カンボジア)の振る舞いの根底にあるように思う。


 「熱気」は、政治学や社会心理学、宗教社会学が扱うべきテーマであり、正直いって私の手には余る。

 ただ、ひとつはっきりしているのは、「差別化しなければならない!」、「ナンバーワンではなくオンリーワン!」などといいながら、依然として「空気」の流れに同調しやすい日本人は、少なくとも米国人と比較する限り、世の中全体から「熱気」がなくなっていくのに反比例して、冷たい「空気」の支配力が強まりつつあるようにも思えなくはない。

 あまり熱くなりすぎる「熱気」も考え物だが、冷めた「空気」もうっとおしい。

 何事も中庸がよろしいようで。
  




PS 
 政権交代を手放しで喜べない、国家公務員の一読者からの質問にも、そろろろ答えなければなりませんね。
 ここのところ引越しにともなうゴタゴタでゆっくりとものを考える状況にはなかったのですが、明日9月16日には「首相指名選挙」があり、いよいよ「政権交代」が現実のものになる以上、ここへんをデッドラインとして、とりあえず考えをまとめておきましょう。
 何事であれ、自分が主体的に変化するのであれば、たとえつらい現実が待っていようと立ち向かうことはできますが、他人に変化を余儀なくされるのは正直いって面倒だし、うっとおしいものですね。これはよくわかります。
 公務員経験ない一民間人の私にはわからない点も多いので、またお話聞かせていただけると幸いです。       
                

PS2 読みやすくするために改行を増やした。執筆時点のドキュメントとして、内容にはいっさい手は加えていない。あらたに「ブログ内関連記事」の項目を新設した。(2016年7月27日 記す)


<ブログ内関連記事>

書評 『反知性主義-アメリカが生んだ「熱病」の正体-』(森本あんり、新潮選書、2015)-アメリカを健全たらしめている精神の根幹に「反知性主義」がある
・・「熱気」について、とくにアメリカの熱気について考えるためには必読書だ

不動産王ドナルド・トランプがついに共和党の大統領候補に指名(2016年7月21日)-75分間の「指名受諾演説」をリアルタイムで視聴して思ったこと

(2016年7月27日項目新設)



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end

2009年9月13日日曜日

人間の身体感覚というものは実に面白い。インターネットは高速に限るが、散策はスローに限る。


            
 サクサクと春の桜にあらねども 秋桜待つコスモスの道 (里犬)

などと即興の戯れ歌(ざれうた)を脳内で口ずさみつつ(・・まるで意味のない歌だな)、周辺の散策に乗り出した。
 秋桜(=コスモス)などまだ全然咲いていないのだが・・・。高速インターネット開通がうれしくて、サクサクというコトバを読み込んでみたかっただけのことなのだ。

 新居のすぐ近くには県立高校がある。正門まで歩いてみたら、ちょうど「文化祭」をやっているようだったが、なんと本日の午後3時でおしまいということで、残念なことにちょろっと見ただけで終わってしまった。
 「学園祭」というのが大学のものだとすれば、「文化祭」というのは一般に高校のものをさした日本語の表現である。歳時記にのっているのかな?

 そうねえ、秋なんだんなあ、文化祭の季節か、懐かしいねーなんて、私から見ればまだまだ初々しい高校生の姿を見ながら思ったのだが、実はわが母校の文化祭は秋ではなかったんですなー。
 「たちばな祭」というネーミングのとおり、季節は初夏、高校の文化祭では珍しいかもしれない。

   五月(さつき)まつ 
   花(はな)橘(たちばな)の香(か)をかげば 
   昔の人の袖の香ぞする  (紀 貫之)

 これは昔つきあった女性を匂いで思い出すという、嗅覚記憶を歌い込んだ、表現は平易だが、かなり高度な内容を歌い込んだ和歌である。
 洋菓子のマドレーヌの匂いに子供時代を思い出した『失われた時を求めて』の著者マルセル・プルーストより千年(!)近く前の話だ。
 日本という国は、実に高度文明国なのだなあー、ほれぼれするねー。私の戯れ歌とは千倍どころか、無限大倍くらい中身が違います。

 さて「たちばな祭」に戻るが、一説によれば大学受験に専念できるように文化祭は秋にやらないのだ、という"学校伝説"(?)があったが、高校3年生のときも文化祭にかかわったから、必ずしもそうではないのだろう。
 神奈川県の某進学校では、高校3年間の授業を2年までに終わらせて3年生は受験勉強に専念するという話を聞いたことがあるから、千葉県というのはおっとりした土地柄(?)だったのかもしれない。
 いやただ単に田舎というだけのことか。チバラギ(=千葉+茨城)なんて蔑称もあるしね。でもダサイタマ(=ダサい+埼玉)よりかはましだな、なんていうのも目クソ鼻クソを笑うのたぐいで恥ずかしい・・・
 進学校でも男女共学だったし、アファーマティブ・アクションのクォータ制なんて馬鹿な考えはいっさい無視して成績順に入学者を決定していたから、学校によっては女子が極端に少なかったり、またその逆の高校もあったことから考えると、世の中の風潮には媚びずに原理原則に筋を通していたといえる。
 その意味では、その当時の千葉県の、我が道をいくという姿勢はたいへんよろしい。現在も県知事は森田健作だしね。時代遅れの青春一直線という路線もまた悪くないではないか。筋を貫いてもらいたいものだ。
 私は幸いなことに某国立大学にスレスレの成績で滑り込むことができましたが・・・まあ長い人生、浪人して回り道してもよかったかなとも思う。
 いまこうして人生の寄り道しているから、というより道なき道を手探りで歩いているからだが、人生を均らしてみれば(=levelize してみれば)同じ事かもしれないな。何が幸か不幸なのか一概にはいえないのが人生ですねー。これは私の座右の銘である「人間万事塞翁が馬」のことであります。

 しばらく歩いて行くと、ボックス型の野菜直売所がある。ちょっと覗いてみたら無人ではなく、農家のおばあちゃんが一人で店番をしていた。
 きうりが5本で100円、というのは実に安い! 今年は冷夏で長雨が続いて野菜が高いのだ。スーパーで買ったら2倍はするのが、たったの100円、さっそく購入することとした。
 中間流通を中抜きして、生産者がダイレクトに消費者に販売するのであれば、小売価格は劇的に(!)下げることが可能だ、というよき実例である。


 お金を払いながら見ると、ラグビーボールのような、見事な深緑色の冬瓜(とうがん)が置いてある。これも一個100円(!)とめちゃくちゃ安いので、重いけど買って、そのまま散策を続けることとした。なんせワンコインだからね。それも500円玉ではなく、100円玉ひとつだ!

 数日中に、冬瓜に鶏肉とドンコ(=堅い干し椎茸)で、沖縄風というか、台湾風のスープを作ることにする。これが実に美味いんだなあー。しかし夏なのになぜ冬瓜(winter gourd or winter melon)なんだろうか?いまだに解けぬ謎である。

 おばあちゃんに聞いてみると、いつもは火木土の午後にやっているとのことだが、昨日は大雨だったので日曜日に急遽変更にしたとのことだ。口べたなおばあちゃんにあまりしゃべらすのも気が引けたので、会話を打ち切ることに。

 農業というのは、自然の天候に大きく左右されるのだなあ、と深い感慨をいだく。

 古本屋に入ってみる。ネットで存在を探索してから本日確認しにいったのが、実は本日の散策の主目的である。
 いい本を置いてるなあ、と感心するが、いまはとても本など買う気にはなれない。なにせ、本を整理して大幅に処分している最中なのだ。
 隣にあるブックオフもひやかしてみたが、just looking のみ。
 ところで、本は古本屋には売るのだが、自分が住んでいる近所では売らないことにしている。
 自分が売った本が安く買いたたかれて、しかも買い取り価格より高めの売価がついて売られているのをみるのがイヤだからだ。
 だから、本は自分が住んでいるところから離れた、おそらく一度も店を訪ねることがないであろう店に売ることにしている。最近は着払いでダンボール送ったら査定した上で買取金額を銀行口座に振り込んでくれる古書店も少なからずあるので重宝している。
 自分が売った本を買い戻したことなど、いまのいままで一度もない。自分の手を離れたあとは、売価がつくことによって、中古品として流通制度のなかで回流してくれればいいと思っている。ほんとうに必要なひとの手に渡るならば、手放した人間にとっては冥利につきるというものだ。
 一対一で手渡しで本を人にあげることもあるが、金銭を介在させないそういう関係も悪くはない。しかし、金銭を介在させないとその関係には人格が反映してしまう。これにはメリットもあれば、デメリットもある。人間関係というのは思っている以上に面倒なこともあるからだ。
 その点からいうと、手放したものが人知れず別の知らない誰かの手に渡るという、金銭を媒介にした関係もけっして悪いものではない、とは思う。匿名性というか、無人格性のメリットということだ。

 などと考えつつゆっくりと散策を続けること約三時間、大きめの日系GMS(=スーパーマーケット)でコメなど食料品を買い込んで自宅に戻る。
 冬瓜だけでなく、重い荷物が肩に食い込むので、優雅とはいえない散策ではあったが。

 インターネットは高速に限るが、散策はスローに限る。使い分けも必要なわけだ。
 人間の身体感覚というものは実に面白い。要はバランス、なんだな。

                           


   

Bフレッツ工事完了!本日よりサクサクなり


               
 やっとNTTの工事が完了した。
 ネット接続は光速、いやいくらなんでもさすがに"光速"はムリというものだな、とりあえず"高速"に限る!

 無線はパケット通信なので、いくら定額契約にしていても遅くてかなわん。
 もともと性格的にややセッカチなところがあるとはいえ、やはり自宅や職場では高速インターネットでないと、神経症になってしまう。ウツ病よりかはマシかもしれんが。
 
 工事なんて、若いあんちゃんが来て、ささっと10分くらいで終わってしまったのに、工事までなんと10日間も待たされた。
 しかもNTTからはセッットアップを説明した書類を送付したといっているのだが、ぜんぜん届いていない。郵便配達はいったい何をやっておるのか!? なんのための民営化だー

 仕方ないからNTTの技術担当に電話で問い合わせて手動で接続設定したが、これもやってみればあっという間の3分もかからない。

 物理的制約条件から人間は解放されることはないのだなあ、とため息をつきたくなるねー
 情報系と物質系との乖離は永久にうまることはないだろう。
 テレポーテーションなど夢のまた夢か?

 まあ、文句たらたら、2週間ぶりの高速ネット接続復旧で、これからは神経症も解消の方向に向かうと期待したい。

 天気がいいから気晴らしに外出するか。
 ではまた。

        

2009年9月12日土曜日

オペラ  『ドン・カルロ』(ミラノ・スカラ座日本公演)に行ってきた(2009年9月12日)




ミラノ・スカラ座日本公演の二本目、『ドン・カルロ』を見るために再び上京した。これもヴェルディの名作である。本日の会場は上野の東京文化会館。

 本日の指揮はダニエレ・ガッティ、演出はシュテファン・ブラウンシュヴァイク、ミラノ座では昨年からの新しい演出版という。簡素な舞台装置は、登場人物たちの内面描写にはむしろふさわしいものであったといってもよいだろう。『ドン・カルロ』もまた、基本的に愛と苦悩、すなわち外面的な事件よりも内面の精神的葛藤のドラマである。

 舞台設定はフェリペ二世(・・オペラはイタリア語版なのでフィリッポ二世)統治下のスペイン王国、原作はドイツの文豪フリードリッヒ・フォン・シラー(・・戦前風にシルレルといったほうが古風でいいかも)の『スペインの太子ドン・カルロス』(岩波文庫)、作曲はイタリアのジュゼッペ・ヴェルディという、まさに18-19世紀欧州チームの作品である。しかも初演はパリ・オペラ座でフランス語版であった。

 今回の上演はイタリア語版である。

 欧州のように多言語使用地帯では映画も吹き替えが当たり前で、ヴィスコンティ作品のなかで米国人俳優のバート・ランカスターやフランス人俳優のアラン・ドロンがイタリア語をしゃべっていても、残念ながらそれは吹き替えであって肉声ではない。

 このオペラもスペインが舞台だが、セリフはすべてイタリア語なので、固有名詞はみなイタリア語の発音になってしまい、西洋史の知識があっても、すぐにはピンとこないこともある。
 簡単に整理しておこう。

 オペラはカール五世(・・オペラではカルロ五世)の葬儀で始まり、deus ex machina としての再登場で幕を閉じる。
 時代背景は、フェリペ二世時代に欧州最強となり、中南米だけでなくフィリピン(・・この命名はフェリペ二世にちなむ)も領有するに至った"太陽が沈まぬ帝国"、スペイン・ハプスブルク家の絶頂時代である。
 われらが遣欧日本人少年使節が謁見したのもこのフェリペ二世である。これはすでにこのブログでも『クアトロ・ラガッツィ』にふれた投稿で触れている。
 絶頂期スペインが抱えていた問題はフランドル地方の反乱で、これに王妃をめぐってのドン・カルロと父親であるフェリペ二世との父子の葛藤、異端審問などの要素が重なり、歴史好きにはたまらない内容となっている。
 もっとも、シラーの原作と史実とはイコールではなく、シラーはドン・カルロを理想化しているらしい(・・・原作は所有しているのだが読んでいない。しかも引っ越し荷物整理中につき内容確認不能)。
 すばらしいオペラなのだが、最後の締めくくり方がイマイチというのが、正直なところである。作曲者のヴェルディ自身も苦労したらしが、もうすこし別の方法があったかもしれないという気はする。


 ところで、本日も"ブラボー男"が絶叫していた。先週日曜日と同じ音声なので、同じ日本人男性なのだろう。
 この日本人の発音がベラボーとしか聞こえないのは、V音がでていないためである。スペイン語ならいいだろうが、イタリア語のつもりならブラヴォー(bravo)といってもらいたい。また何度も繰り返し絶叫するくらいなら、ブラーヴィー(bravi)と複数形でいってもらいたいものだ。
 もっとも日本語(関東弁)のベラボーというのは extremely magnific という意味もあるから、賞賛の意味として使ってもあながち間違いとはいいきれない(笑)。
 "ブラボー男"の連れの女性は、彼氏のこの行為が恥ずかしくないのだろうか、と内心思ってしまう私である。
 とはいえ、大学時代までずっと体育会(=運動部)に所属していた私は、"声出し"と称して公衆の面前で大声を出す訓練をさせられたし、また上級生になってからは下級生にも強いていたわけだが、恥も捨てれば快感に変わることは体験として知っている・・・
 

 日本にいても年に最低2本はオペラをみれるのは、NBS(財団法人日本舞台芸術振興協会)の会員になっているためである。 
 もちろん欧州の歴史あるオペラ劇場で見るに越したことはないのだが、歴史的建築物である劇場という要素をのぞけば、決して手抜きのない舞台を日本で見ることができるのはありがたいことだ。ユーロ・ベースの高い航空運賃と宿泊費を考えれば、またエコノミカルではある。
 本日も"大入り満員"、この景気の悪い時勢に(!)・・という感想もあろうが、どこの国でもカネをもっている者はもっているのである。もっとも私の場合は金持ちというわけではなく、チケットはリーマンショックの前に確保しているので景気状況とは関係ない、ということに過ぎない。


 本日の上野公園はなぜか白人観光客が多かったように思う。以前より間違いなく増えている。
 公園というものは、日本が開国して明治維新政府が欧化策を遂行したことによる、後生への贈り物である。白人も違和感なしに落ち着ける場所なのだろう。
 植民地となった開発途上国では、美しい公園や植物園があるのは当たり前だが、植民地にならなかった日本では、自らの意志によって公園やミュージアムを作り上げた。 
 明治の先人たちの努力は、日本人として誇ってしかるべきことである、といってよい。
 
 9月にしては肌寒い秋の一日であった。オペラがはねたあとは大雨となり参ったが・・・




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2009年9月11日金曜日

ナイン・イレブン


     
 本日は、ニューヨークの9-11から8年になるという。こういうことはいわれてはじめて思い出すものだ。

 ラジオかけながら部屋の片付けをしていたら、AFR(=米軍放送、旧 FEN)で、元ビートルズのポール・マッカートニーの話を紹介していた。
 いままで全然知らなかったのだが、まさにテロのあったその日、ポールはラ・ガーディア空港で離陸待ちだったという。
 しかし、その飛行機は離陸することはなかった。彼自身、ツインタワーが崩壊するさまを機内からみることとなった、というのだ。

 こういう経験をする人もいるのだなあ、と思った。


 自分自身はというと、その日は日本時間で午後9時頃まで会社で仕事をしていて、帰宅してTVをつけたら10時から久米宏のニュース番組「ニュース・ステーション」で渡辺真理が実況中継していた。
 いままさにTVの画面を見ているその前で、二機目の飛行機がビルに突っ込んでいく映像を見ることとなった私は、これはテロ以外の何ものでもないと、その場で強く思ったのだった。

 大学の後輩には、某地方銀行のNY支店勤務で、まさに崩壊したそのビルに勤務していた者もいたらしい。これはあとから知った事実である。
 その後、当時NYで勤務していた友人が日本に帰国した際に、ナイン・イレブンと口にするのを聞いても最初は何のことかわからなかった。米国から帰国してから何年もたっていたので、リアルタイムで作られてゆく新語を知らなかったのだ。セブン・イレブンのことか?、などと間抜けな質問をしてしまった自分が恥ずかしい。

 CSという小売り業態があるのを知ったのは高校時代。
 Convinience Store であって Convinient Store ではない(!)という説明はモノクロのグラビア写真とともに強く記憶に残っている。でもその当時は文字通り、朝7時から夜11時までの営業であったのだったが。
 いまでは深夜営業どころか24時間営業も当たり前になってしまっている。

 だいぶ前になるが、ローソンの社長が、深夜営業を見直すという発言をしていたが、それはもっともなことだと思う。少年少女がたむろして社会問題になっているというよりも、販売効率が悪く、しかも割増賃金の対象となるので採算性が悪い、というのがその理由だろう。
 統計をとれば明らかな事実で、これは科学的経営以外の何ものでもない。
 以前、私が仕事で石油業界に関わっていたとき、外資系のエッソ石油(現在エクソン・モービル)はいち早く深夜営業をやめていた。さすが米国流の合理主義経営だなあと感心した覚えがある。

 しかし、いまの犯罪増加傾向にある日本では、治安上の観点から24時間あいている店があるというのは、コミュニティにとってはほぼラスト・リゾートといってもよい状況にある。
 私企業の観点、株主の観点から深夜営業をしないというのも、なかなか許されにくい状況であるといえるのだろう。企業の社会的責任が問われるからである。

 米国でもGMS、いわゆるスーパマーケットも、ATMも24時間営業が当たり前だったが、実質的には夜明け前はほとんど客はいない。
 留学先の大学で、早朝にATMで現金をおろそうとしたら、プア・ホワイトに殴られて歯を折られたという日本人がいた。裁判にも参考人として出廷していたようだが、さぞかし生きた英語が身についたことだろう。代償としては高すぎたようだが・・・

 9-11のような大規模なテロでは同時に多数の人間が犠牲になるので、人々の記憶に刻みつけられるが、死傷者が少数の事件は、被害者にとっては意味合いが大きくても、世の中の関心を引くことはない。
 私自身、留学時代の感謝祭前日の隣の部屋から出た火事で焼け出された経験がある。
 とんだ Thanksgiving Day Present であった。命には別状はなかったのは幸いだったが、もし夜中熟睡しているあいだに煙に巻かれていたら、と思うとぞっとしない。しかし、着の身着のままで飛び出したので、ニューヨーク州の11月の寒さは実に身にこたえた。Danger のテープをドアの前に巻かれて数日間自分の部屋のなかに入れなかったのだ(・・特別に警察の許可を得て、身の回り品だけは持ち出すことができたのだが・・・)

 何よりもこうやって生きて、ブログを書けるだけでもありがたい、と思うべきなのだな。

 9-11の犠牲者の霊に鎮魂。Rest in Peace.


PS
 まだNTTの工事まで日にちがあるので、ブログ書くのはいいけど、アップしてから、誤字脱字を修正する作業が苦痛以外の何ものでもない。高速スピードに慣れた身体は、いくらスローライフ時代といっても、もはや二度と昔には戻らないことを痛感。インターネットは高速以外はごめんだな。
               



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2009年9月6日日曜日

20年ぶりのオペラ『アイーダ』




 1989年12月、代々木国立競技場で上演されたのをみて以来20年、2009年9月、東京で久しぶりにぶりにヴェルディの『アイーダ』(AIDA)をみた。
 前回は、ヴェローナ野外劇場をそのまま東京にもってきたステージ、今回はミラノ・スカラ座の公演を代々木のNHKホールでの上演である。
 人生で一番はじめにみたオペラ初体験が『アイーダ』であったので実に感慨深い。

 今回のミラノ・スカラ座は、指揮はダニエル・バレンボイム、演出はフランコ・ゼッフィレッリ、豪華絢爛な舞台を日本で再現するというのはカネがかかるが、円高ユーロ安傾向にあるので主催者のNBCも少しはラクになったのではないだろか?
 
 20年前見た AIDA は私にとってはオペラ初体験だったが、「バブル期」ならではの大規模で豪華な演出だった。そのときのパンフレット、というには豪華なカタログがをもっているが、まさにあの時代の雰囲気をそのままに伝えている。
 そもそも、1871年の初演自体、エジプトのカイロで行われた、というのが、このオペラの本質を表している。古代エジプトを舞台にしたこのオペラは、1869年のスエズ運河開通を記念したものである。

 ところで、AIDA といえば、プレス機を想起してしまうのは、機械部品産業にいたためだろうか、欧州人はこの工作機械メーカーを展示会でみてそう思うのではないか。アイダエンジニアリング株式会社のことである。
 もちろんこの AIDA のプレス機は、50トン(!)クラスもあり、同名のオペラと違わず規模は大きく圧倒的だ。プレス機が稼働している場面を見れば、その力強さに圧倒されるはずである。

 私にとっては AIDA といえばオペラのことなのだが、ある人と話していたら話がなんかズレていた。
 彼はずっとミュージカルの AIDA のことをしゃべっていたのだ。AIDA がミュージカルなんて私には想定外であったので、話が通じているようでまったく通じていなかったのだ。
 オペラ⇒オペレッタ⇒ミュージカルという音楽史、というかエンターテインメント史の流れからいえば、決して・・・ではないのだが、それにしても・・・・

 本日の指揮をふるダニエル・バレンボイムは、よく知られているとおり、アルゼンチン出身のピアニストでユダヤ系である。その彼にとって、ユダヤ人に縁の深いエジプトやエチオピア関連のオペラの指揮をするのも、なんらかの感慨もあるだろう。主人公アイーダはエチオピア王の娘でエジプトでは奴隷として処遇されている。
 もちろん、ワーグナーを指揮するときのような関心はよばないだろうが。小柄だが精力的なバレンボイムは、小さな巨人、いや巨匠(マエストロ)と呼ぶのがふさわしい。
 
 あらすじについては、有名な作品であるので、あらためてここに書くことはしないが、本日の舞台は、20年前にみた野外劇場版とくらべるとスケールは小さいものの、フランコ・ゼッフィレッリによる豪華絢爛な演出と舞台装置には十二分に堪能させられた。
 ゼッフィレッリについては、このブログでもすでに『ブラザーサン・シスタームーン』で触れているが、私の大好きな映画監督であり、オペラ演出家である。彼が監督したオペラ映画『ラ・トラヴィアータ』と『オテロ』は、映画館でもDVDでも何度もみているが、プラシード・ドミンゴの声とともに、映像として実にすばらしい。


 本日は、新居に引っ越してから初めての上京であった。

 少し早めにいったら代々木公園では「ブラジル・フェスティバル」をやっていた。
 オペラの幕間が二回あったが、その都度ブラジル・フェスティバルも楽しんだ。同じラテンといっても、イタリア・オペラとブラジル音楽ではノリがまったく違う。とはいえ、ブラジルはジャマイカとは違って、なんといってもやはりラテンである。今年5月のジャマイカ・フェスティバルとは相性がよくなかったが、ブラジルとは相性がいいような感じがしたのは不思議な感じだ。


 引っ越してからまだ1週間たっていない現在の状態は、まだまだ復旧途上の被災地並みである。最短でも1ヶ月、完全復旧まで3ヶ月といったところだろうか。
 ミニノートから無線でアップするのは制約条件が多すぎて不満も大きい。高速通信が再開するには工事が必要なので、NTTの工事待ちのためまだ時間がかかる。
 というわけで、ブログはぼちぼち再開していく予定である。

 ではまた。See ya.