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2023年6月25日日曜日

陸軍工兵学校(松戸)と陸軍鉄道部隊(津田沼)の「軍事遺跡」をむすんで走る新京成電鉄 ー 「広域葛飾」を回る小旅行を実行(2023年6月23日)

(旧陸軍工兵学校正門 松戸中央公園)

 
「葛飾」というと、かの国民的映画『寅さん』シリーズの「葛飾柴又」という連想が浮かぶので、葛飾といえば東京都葛飾区ということになるが、じつは「葛飾」は現在の「葛飾区」に限定された地域ではなく、江戸川をはさんだ両岸に拡がる広域の地域のことを指していた。

その「広域葛飾」には、葛飾区と松戸市が入るだけでなく、千葉県ではその東に隣接している柏市や、その南に拡がる鎌ケ谷市や船橋市にまで及んでいる。

千葉県下では2番と3番を争う柏市にある「千葉県立東葛高等学校」(東葛高校)は読んで字のごとく「東葛飾」であり、千葉県立船橋高等学校(いわゆる県船)のある船橋市には、かつて京成電鉄の「葛飾駅」も存在した。

「葛飾駅」は、紛らわしいと理由で現在は「京成西船駅」という、風情もなのもない合理性一点張りの駅名になってしまっている。まあ、JR西船橋駅から徒歩10分以内なので、乗換駅としての意味合いがすぐにわかるのは良いのであるが・・。

(下総国の葛飾郡 葛飾区のサイトより)


というわけで、一度は「広域葛飾」をぐるっと回ってみる必要があるなと思って、小旅行にでてみた。もちろん宿泊なしのワンデイコースである。

京成電鉄で京成船橋駅から乗車して江戸川を渡って、上野方面でお花茶屋駅へ。そこで下車して「葛飾区郷土と天文の博物館」へ。これについては昨日アップした投稿で触れておいた。

そこから曳舟側親水公園を歩いてJR亀有駅へ。歩くとけっこう長い。こち亀の両さんの銅像にあいさつして、亀有駅から常磐線に乗って江戸川を渡り、千葉県内の松戸駅で下車。ここで乗り換えて、新京成電鉄で八柱駅で途中下車、ふたたび船橋に戻るというループの小旅行であった。


■新京成電鉄の両端には陸軍基地の遺跡が残る

地元で利用している住民は知っていることだが、新京成電鉄はもともとは陸軍鉄道部隊の演習線であり、松戸の軍事基地と津田沼の軍事基地を結んだ路線であった。




現在でもその途中の「くぬぎ山駅」の周囲に陸上自衛隊松戸駐屯地がある。

新京成電鉄は、「陸上自衛隊松戸駐屯地」のなかを通り抜ける。電車のなかから、金網越しに基地にあるヘリコプターが見える。なかなかオツなものである。桜の季節には一般開放しているそうだが、まだ一度も訪れたことはない。

しかも、これらの軍事基地が立地している場所は、すべてかつての「牧」のなかなのである。「牧」とは、江戸幕府の「軍馬放牧地」のことであった。

さて今回、松戸駅で下車したのは、「陸軍工兵学校」の跡地を見るためである。


(陸軍工兵学校跡の石碑 筆者撮影)

陸軍工兵学校の跡地は現在は公園になっているが、松戸駅の東口にある。

そもそも松戸の地理について明るいわけではないが、松戸駅にいくときは、いつも西口(すなわち江戸川より)ではなんども下車している。かつてジュンク堂がテナントとして入っていたビルにいくためだが、その反対側の東口にいったことはまったくなかった。

(・・伊勢丹が撤退後には、あらたにジュンク堂とも縁の深い喜久屋書店が、居抜きで入居しており安心した。大型書店の存在は地域の文化程度を示すバロメーターである)




松戸駅の東口は、西口とは違って高低差がじつに大きい。これは実際にいってみてはじめてわかることだ。駅からは長い遊歩道を歩いて道路の上を歩いて対岸にわたる。このおかげで公園のふもとまで直接いくことができる。


公園を歩いて行くと、そこはかつての山城
であることがわかる。相模台城趾である。その土地を利用して陸軍工兵学校が建設されたわけだ。いまから100年近く前の1919年のことだ。第一次世界大戦の結果をうけて、陸軍が本格的に機械戦と工兵教育に取り組むことになったためである。

陸軍工兵学校は敗戦にともない1945年には閉校になっている。わずか26年の歴史しかもたなかったわけだが、松戸がじつは軍事都市であった名残が遺跡として残っているわけだ。

公園のはずれには、赤レンガづくりの陸軍工兵学校正門門柱が保存されている。

(旧陸軍工兵学校正門門柱 筆者撮影)

JR津田沼駅近くの千葉工大には、陸軍鉄道部隊の正門門柱が保存されており、それとは好対照といっていい。

(千葉工業大学正門 総武本線をまたぐ橋の上から筆者撮影)

陸軍工兵学校正門門柱からすこし歩いて、「陸軍石標」を見に行く。現在は住宅街のなかにある石標は、そこまでが陸軍の所有地だったことを示している。

(陸軍石標 筆者撮影)

松戸駅からは新京成電鉄に乗る。八柱駅で下車したのは、松戸市立博物館を訪れるためだったが、なんと休館中。だが、「金ヶ崎陣屋跡」の存在を知ることができたのは幸いだった。単に木製の表示が立っているだけだが、この陣屋が「牧」にとっては重要な意味をもっていたのだ。

(金ヶ崎陣屋跡の木柱 筆者撮影)


松戸駐屯地についてはすでに触れたので省略し、先を急ぐと海上自衛隊下総航空基地に近づくことになる。新鎌ヶ谷駅で東武野田線に乗り換える。この地域の住民は、P-1対潜哨戒機や大型ヘリコプターの爆音には慣れっこになっている。

そして、終点ではなく、一駅手前の駅だが、JR津田沼駅の乗換駅である新津田沼駅で下車して千葉工大にいくと、先にもふれたように、かつての陸軍鉄道部隊の正門がそのまま残っている。


新京成電鉄がかつての陸軍鉄道部隊の演習線であるだけでなく、薬園台駅から近い陸上自衛隊習志野駐屯地には、かつての「牧」がそのまま残されている。

かつての「牧」は、その広大な土地の一部を利用して、現在でも軍事基地として使用されているのだ。そして、その「牧」は「広域葛飾」の大きな部分を占めていたのである。



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2023年6月24日土曜日

「葛飾区郷土と天文の博物館」でティコ・ブラーエを体感する(2023年6月23日)ー 教育目的の「天文の博物館」と「郷土の博物館」という不思議な組み合わせ

 (「ティコ・ブラーエの<大アーミラリー>」の原寸大模型 筆者撮影)


気になっていた「葛飾区郷土と天文の博物館」にはじめて行ってきた(2023年6月23日)。

なにが気になっていたかというと、そこに「フーコーの振り子」が設置されていると知ったからだ。東京・上野にある国立科学博物館では、子どもの頃から何度も見ているが、科学博物館以外にも設置している施設があるとは知らなかった。

(葛飾区郷土と天文の博物館の「フーコーの振り子」 筆者撮影)

「フーコーの振り子」とは、地球が自転していることを見える化した実験装置のことである。1851年にフランスの科学者レオン・フーコーが考案し、公開実験したものだ。ちなみに、20世紀フランスを代表する哲学者ミシェル・フーコーは、おなじく(Foucault)の姓をもつが、おなじ一族であるかどうか?

(同上)

さて、「葛飾区郷土と天文の博物館」の「フーコーの振り子」だが、基本的な構造はおなじである。違うのは外見的なデザインだけである。


(国立科学博物館の「フーコーの振り子」 筆者撮影)

「フーコーの振り子」もさることながら、「葛飾区郷土と天文の博物館」で特筆すべきなのは、「ティコ・ブラーエの<大アーミラリー>」の原寸大模型があることだ。これはじつにめずらしい。そもそもティコ・ブラーエは、ケプラーやコペルニクスとくらべて日本での知名度はけっして高くないのは残念なことだ。


ティコ・ブラーエ(1546~1601)は、ケプラーの先行者
である。デンマーク貴族のティコ・ブラーエは、「大アーミラリー」を使用して肉眼で天体観測し、膨大な観測データを残した人だ。ケプラーはその観測データを利用して、かの有名な「ケプラーの法則」を導き出したとされる。晩年は、神聖ローマ帝国の皇帝ルドルフ2世の招きでプラハで過ごした。


「大アーミラリー」とは、望遠鏡が発明される前に使用されていた、巨大な分度器のことだ。最高レベルの観測機と肉眼だけで得られた観測データが、「ケプラーの法則」につながっていくのであるが、ティコとケプラーの人間関係もドラマティックで興味深い。

西洋天文学の歴史において、「大アーミラリー」で観測中のティコ・ブラーエの画像は、比較的知られたものであるかもしれない。


(観測中のティコ・ブラーエ Wikipediaより)

このほか、ガリレオから始まり、ケプラーからニュートンにいたるまでの歴代の天文学者たちがつかっていた望遠鏡の模型も展示されていて興味深い。じっさいに望遠鏡を覗いてターゲットを見ることができる。教育目的である。



また、所蔵品のなかには江戸時代に使用されていた「天文尺時計」もある。これは日本国内では唯一のものだという。



「葛飾区郷土と天文の博物館」は、もちろん前者の「郷土」の博物館でもある。後者の「天文」の博物館が教育的要素のつよいものであるとすれば、前者は郷土について知るための実物展示が中心となっている。

国立歴史民俗博物館には「戦前の日本」の展示があるが、ここ「葛飾区郷土と天文の博物館」には「昭和30年代の日本」の実物展示があって、レトロ感にみちあふれている。


平日だったので入場者はまばらでしかなかったが、入場料100円だがなかなか楽しめる博物館であった




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・・「この展示会は、そんなルドルフ2世とその時代を、お抱えの天才アーチストのアルチンボルドなどによる絵画作品や、ティコ・ブラーエやケプラーなどの天文学をはじめとする科学者や魔術師たちの書籍やアイテム、その他もろもろの収集品で再構成しようとした試みだ。」



・・2018年の企画展の図録『天文学と印刷』についても


・・麻田剛立の時代はまだ地動説ではなく、天動説のティコ・ブラーエの学説であった



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2023年6月18日日曜日

「近代」に創建された「明治人」たちを祀った神社を訪ねる(2023年6月17日)ー 明治神宮から東郷神社、そして乃木神社まで歩いてみた

(明治神宮 「第一鳥居」。昨年2022年に立て替えたばかり)

明治神宮から東郷神社、そして乃木神社まで歩いた。「近代」になってから創建された「明治人」たちを祀った神社を訪ね歩いたことになる。

明治神宮の創建は、1920年(大正9年)11月。乃木神社の創建は、1923年(大正12年)、東郷神社の創建は、だいぶ後れて1940年(昭和15年)。それぞれ明治天皇ご夫妻、乃木大将ご夫妻、そして東郷神社は東郷元帥を祀っている。

日露戦争という国難を乗り切った明治大帝とその臣下たち。まさに「皇国の興廃」がかっていたのだ。


■明治神宮と乃木神社は創建100年。東郷神社は比較的あたらしい

明治神宮は、ことし2023年のの2月に参詣したばかりだ。はたして何度目かの参詣か記憶にさだかではない。さすがに100回ということはないが、どんなに低く見積もっても10回以上は行っているはずだ。

外国人観光客がじつに多い。はたしてそのうちのどれだけの人たちが、明治大帝の偉業を知っているのか?「人が神になる」という日本人の信仰を知っているのか?

そう思ったわたしは、賽銭箱の前に立って二礼し、柏手の音を高らかと響かせて一礼、これ見よがしに「日本人ここにあり」と示すのである。コトバではなくカタチで、つまり態度でもって、日本人は外国人観光客に手本を示さなくてはならない。

明治神宮を参詣した後は、ひさびさに太田記念美術館を訪れた。美術展を見るためである。

そのあと東郷神社へと向かう。細い路地をたどりながら、若者のあふれる原宿を通り抜ける。クレープ屋が立ち並ぶにぎやかさとは真逆の、静かで落ち着いた神域が印象的だ。


(東郷神社 裏門)

神社に奉納された多数の「必勝祈願」ののぼり旗が目に焼き付く。なんといっても「Z旗」のカラリングは目立つ。「皇国の興廃この一戦にあり」の「Z旗」。そう、日本海海戦を完勝に導いたのが東郷元帥なのだ。

東郷神社は、今回の参詣を含めて最低3回は行っている。そのうち1回は、かつての勤務先の部下の結婚式であった。東郷會舘である。正門の鳥居をくぐることなく、原宿方面の裏門から入ったのは、今回がはじめてのことだ。

(東郷神社の「勝守」)


東郷神社では「勝守」(かちまもり)を購入「Z旗」が縫い込まれたお守りは、効験あらたかな感じがあるではないか!

なんといっても、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を壊滅させた東郷元帥である。これほど「必勝」にふさわしいものはなかなかない「近代の八幡宮」というべきか。東郷元帥は「武神」となったのである。

社務所に展示されている額には、「トラファルガーの海戦」のネルソン提督と、日本海海戦の東郷元帥が並べて賞賛されている賞状があった。英国から贈られたものという。

トラファルガーの海戦は1805年、日本海海戦は1905年奇しくも100年の時を挟んだ偉業である。「東洋のネルソン」(Nelson of The East)という異名もむべなるかな。

エジプト出身のブトロス・ガリ事務総長は、生前に日本を訪れた際には、かならず東郷神社に参詣したという。社務所にはガラスケースのなかにその展示品もあった。トルコだけでなくエジプトでも、強国ロシアを破った日本の英雄は、多くの人びとに勇気を与えたのである。


(明治神宮から東郷神社、乃木神社まで)

東郷神社から乃木神社までは、Google Map によれば、だいたい35分くらいのようだ。とはいえ、梅雨の中日の真夏日の炎天下を歩くのは、正直いって心地よいものではない。当日の東京都心は31℃まで上昇したという。だが、どんな夏日でも緑陰は気持ちよい。

Google Map が推奨する最短ルートは、途中で青山霊園を通り抜けることになる。青山霊園も近くには何度も行っているが、霊園のなかに入るのは久々だ。お墓が並ぶ向こう側に高層ビル群が見えるのも、なんだか不思議な風景である。

(青山霊園の「乃木将軍墓道」の石標)


青山霊園に乃木大将の墓地があることは今回はじめて知った。なるほど、乃木神社は青山からも近いわけだな。乃木将軍墓道の石標にしたがって歩く。

(乃木将軍墓所)

もちろん、乃木大将の墓を詣でる。墓は子息のものを含めた小墓地といったおもむきであった。


(正面からみた「旧乃木邸」)

霊園を通り抜けてしばらく歩くと、まずは通りに面して「旧乃木邸」があることを知る。訪問は今回がはじめて。google mapに従った結果たどりついたわけである。

旧乃木邸は内部には入れないが、外から見学することはできる。回廊づたいに歩いて行くと、それぞれ乃木大将と夫人が自刃した部屋の前を通ることになる。

旧乃木邸から下っていくと乃木神社に。またまた正門からではなく裏門から入ることになった。神社の境内は、思ったよりも狭い。比較的こじんまりとした神社だった。


(乃木神社の境内)

じつは乃木神社は今回はじめてであることに、訪れてみてから気がついた。行ったつもりでいたのだが、まったくの初めての参詣だったのだ。

この事実には、少なからぬ驚きを感じている。それほど、乃木大将の存在は、わたしにとって、いや日本人の多くにとって、その好悪や是非は別にして、現在にいたるまできわめて大きな存在なのだろう。だから、なんとなく行ったことがあるような、ニセの記憶が作られていたのだ。漱石の『こころ』の影響も大きいと思う。

(「乃木神社御鎮座百年」と記されたのぼり旗)

冒頭にも記したように、乃木神社は今年令和5年が創建100年なのだそうだ。明治神宮はすでに3年前に創建100年を迎えている。明治天皇の崩御に際して「殉死」した乃木大将夫妻。神社の創建の日が近いのはそのためでもあり、たとえ場所は離れていても、この主従関係はきっても切れない関係にあるのだろう。

宝物館を訪れ、乃木大将関連の遺品の数々を拝観。入場無料である。

創建から100年を迎えた乃木神社の境内は、すでに神さびた雰囲気さえ醸し出している。こうして神社というものは、あたかもはるか昔から存在していたかのように受け取られていくのだろう。

(乃木神社の隣は乃木坂駅)


これに対して、東郷神社の創建は、88歳の天寿を全うした東郷元帥の死後のことだから、歴史は思ったほど長くない。海軍ということもあって、東郷元帥は乃木大将よりも、より合理主義精神の持ち主のような印象を受ける。もちろん、敬神の念の強い人ではあった。

東郷神社と同様に乃木神社でも、結婚式場だけでなく「勝守」が販売されている。

だが、日本海海戦で完勝した東郷元帥とくらべると、最終的に戦略的要地である「203高地」を落としたとはいえ、多大な犠牲者をだした乃木大将が、たいへん失礼ながらやや見劣りすることは否定できない。本人も死ぬまで自責の念を持ち続けている。

だから、乃木神社の「勝守」はあえて購入はしなかった。


「創建100年」といっても、日本の歴史においては古いようで新しい

その後、急坂を登って10分ほどにある「赤坂氷川神社」を参詣。氷川神社は大宮にある武蔵国一宮として有名。素戔嗚尊(スサノヲ)を祀る出雲系である。

赤坂の氷川神社の創建は江戸時代。江戸時代中期の将軍吉宗の時代にこの地に遷御されたとのこと。やはり近代以降に創建された神社とはテイストがずいぶん異なる。いやがおうでも、そう感じないかんじないわけにはいかない。

(赤坂氷川神社の「茅の輪くぐり」 さすが古社ならでは)

いまの季節は「茅(かや)の輪くぐり」。さすが古社の氷川神社ならではだ。明治時代に創建された「近代の神社」とは、そこが違うのである。近世日本の民俗に即した年中行事にもとづいているのである。

明治神宮と乃木神社の創建100年という月日は、日本の歴史においては長いようで短いのである。

とはいえ、これから100年、200年とたっていくと、「近代」に創建された神社はどういう受け取り方をされることになるのだろうか?


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・・明治大帝の聖徳を記念する絵画が展示されている美術館


・・東郷元帥の旗艦であった戦艦三笠が修復保存されている

・・「Z旗」



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2023年6月17日土曜日

美術展「ポール・ジャクレー フランス人が挑んだ新版画」展(太田記念美術館)に行ってきた(2023年6月17日)ー 日本を拠点に活動した在日フランス人の「新版画」の世界

 
「ポール・ジャクレー フランス人が挑んだ新版画」展(太田記念美術館)に行ってきた(2023年6月17日)。太田記念美術館は、神宮前にある浮世絵が専門の私設美術館。ひさびさの再訪である。

偶然だが、本日(6月17日)の夜21時からBS1で放送された「日本に憧れ 日本に学ぶ~スティーブ・ジョブズ ものづくりの原点」において、少年時代のジョブズの心をわしづかみにした「新版画」の川瀬巴水が取り上げられていた。生涯の最後まで川瀬巴水(かわせ・はすい)の作品を愛し続けたという。

恥ずかしながら、わたしが川瀬巴水のことを知ったのは、ジョブズが愛していたという話をつうじてのことであった。日本人なのに日本のことをよく知らない日本人。わたしもその例外ではなかったのだ。

そして川瀬巴水をつうじて知った「新版画」ポール・ジャクレーもまた「新版画」の主要な担い手であった。もちろん、このことも最近知ったばかりである。

しかも、ポール・ジャクレー(1896~1960)はフランス人子ども時代に親に連れられて日本に来て以来、生涯を日本で送った在日フランス人。そのかれが心血注いで制作に取り組んだのが「新版画」。ジャクレーは、川瀬巴水とも交流があったという。

浮世絵と違うのは、絵師と彫り師、摺師が専門ごとに分業しながらも、絵師がすべての工程にかかわって、自分が描きたいもの、自分が出したい色を実現させることに徹底的にこだわったという点だという。

BS1の番組では、その点にジョブズが大いに感銘し、自分のものづくりにおいても、その点に徹底的にこだわったのだという。美意識だけでなく、ものづくりのヒントの一つも「新版画」の制作プロセスにあったのだと。

もちろん、川瀬巴水に限らず、ポール・ジャクレーの場合もおなじだったようだ。彫り師と摺師はパートナーとしての位置づけだったのであろう。その版画作品ををよく見ると、フランス語よる版画のタイトル彫だけでなく、日本語で彫り師と摺師の名前も書き込まれている。

今回の展示(*前後期にわけているが、今回は前期)で気に入った作品は、ポスターにも採用されている「満州の女性シリーズ」のあでやかさな色彩はいうまでもなく、「南洋セレベス島(・・現在のスラウェシ)の男女」、日本では「大島のあんこ椿」と「伊豆の大漁の若い漁師」、そして朝鮮の風俗などである。

日本を拠点に北はもモンゴルや満州から、南は南洋のセレベスまで、アジアの人物を描いた作家であった。

浮世絵版画もそうだが、新版画も同様に、実物を見るに限る。ガラスゲース越しとはいえ、質感を味わうのは実物を鑑賞するしかないのである。

なんといっても、ほんとうは手に取って眺めたいところだが、それはコレクターや美術商、学芸員にのみ許された特権であろう。

図録も販売されていたが、どうもホンモノの質感が再現されているとは言いがたいものだったので結局は購入しなかった。

ホンモノの刷りではなくとも、使用する紙も含めて複製に近い再現がほしいところである。そんな画集があればぜひ購入したいものだ。





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・・橋口五葉は「新版画」で新境地を開こうとしていた矢先に急死。橋口五葉の作品もジョブズは愛していたようだ





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