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2014年5月31日土曜日

書評『西欧の植民地喪失と日本 ー オランダ領東インドの消滅と日本軍抑留所』(ルディ・カウスブルック、近藤紀子訳、草思社、1998)ー オランダ人にとって東インド(=インドネシア)喪失とは何であったのか


原著のタイトル Het Oostindisch Kampsyndroom を直訳すると『蘭領東印度シンドローム』となるらしい。1992年にオランダで出版された570ページを超える大著だそうだ。

本書は、そのなかから、とくに日本に関連する14章を選んで、再編集した日本語版だ。『西欧の植民地喪失と日本-オランダ領東インドの消滅と日本軍抑留所-』というタイトルは日本語版オリジナルである。

つい最近、この本の2年後に出版された『五十年ぶりの日本軍抑留所-バンドンへの旅-』(F・スプリンガー、近藤紀子訳、草思社、2000)という現代オランダ文学を読んだ。ともに、第二次大戦前のオランダ領東インド(=現在のインドネシア)に生まれ、その地で少年時代を過ごした著者の体験をベースにしたものだ。

2000年が日蘭交流400周年であったためだろう、オランダ関係の本が多数出版されているが、この本もその一冊である。わたしはこの本を出版後の1999年に読んでいるが(・・自分がもっている本にそう記録してあるのでトレースできる)、15年後の2014年にに再読して思うのは、内容についてほとんどなにも覚えていなかったという、わたしにとっては衝撃的な事実だ。

15年前は、インドネシア独立は日本のおかげだという考えに支配されていたためだろうか。どうも、この本をオランダ人による贖罪の書のように捉えていたのかもしれない。読みの浅さには恥じ入るばかりである。



オランダの「反日」もまた「被害者意識」からくるもの

いわゆる「自虐史観」という表現が日本でつかわれるようになったのは冷戦構造崩壊後のようだが、本書にも自虐史観っぽい側面があることは否定できない。だが、ほんとうは「自虐」ではなく、「自省」なのだ。

オランダの世論を知る立場にはないからわからないが、冷戦構造が崩壊した1992年頃は、第二次世界大戦終了から約半世紀にあたる時期であり、同様にステレオタイプな通説を否定する議論が出始めたのかもしれない。

日本とは真逆の世論だが、オランダの世論は「植民地喪失」の原因となった日本による占領と4年間の軍政には全面的に否定的な立場が通説であったようだ。それほど「植民地喪失」という事実は、オランダ人にとっては受け入れがたいことだったようだ。満洲などの植民地を喪失した日本人とはまったく違うのである。

一言でいえば、オランダ社会には根強い「反日意識」が底流に存在するようだ。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というあれである。ただし、「反日」といっても中国や韓国のそれと大きく異なるのは、オランダは植民地だったのではなく日本のせいで植民地を喪失したという身勝手な被害者意識である。 

昭和天皇が訪欧した際に、英国やオランダで厳しい出迎えを受けたことは、日本人に世の中の現実を知らしめてくれる衝撃的な事件であった。このことを覚えている人は、ある一定上の年代層だろうが、若い世代も、「事実」として価値判断抜きで知っておく必要がある。ロイヤルファミリーどうしの関係と一般市民の意識とはイコールではない。


オランダと日本とのあいだのパーセプションギャップ

オランダについては、もっぱら「鎖国」時代の唯一の通商相手であることばかりが日本の教科書で強調され、戦後のオランダはチューリップと風車のイメージでしか一般には語られてこなかった。あとは画家ゴッホと浮世絵の関係などだろうか。「格闘技大国」オランダというイメージを持っている人もいるだろう。

ビジネス界では、日本にとって経済的にみればオランダよりもインドネシアのほうがはるかに重要であり、デヴィ・スカルノ夫人の存在を持ち出すまでもなく、日本とインドネシアの関係は切っても切れない関係であったことも、植民地からインドネシアを解放した日本軍は賞賛されこそすれ、非難される筋合いはない、というコンセンサスがあったのではないだろうか。

そんなこともあって、オランダにとって東インド(=インドネシア)という植民地を喪失したことの意味を、なかなか日本人は想像することができないようだ。どうも、日本人が満洲を喪失したのとは同列で論じることはできない、被害者意識やトラウマのようなものかオランダ社会には長く存在したようだ。

オランダが東インドに進出したのは16世紀から。ちょうどその頃、日本との貿易をつうじた関係が開始されたわけだが、オランダは東インド会社という半官半民の植民会社をつうじてジャワ島のバタヴィア(=現在のジャカルタ)を中心にして日本貿易を行っていたのである。だからオランダと東インドは、なんと4世紀以上わたる関係があったわけだ。

日本による軍政はたった4年であり、400年に及ぶ日蘭関係のなかの、たった1%に満たない期間であったが、日本側とオランダ側ではまったく異なるとらえ方がされている。

日本人は健忘症の傾向があるとはいえ、その後の敗戦と復興のどさくさで、日本国民はそれどころではなかったことが第一にあげられよう。

オランダもまた、第二次大戦中はドイツに占領され、国土が荒廃したことは日本と同じであったのだが・・・。


著者ルディ・カウスブルック氏の立ち位置と「自省」という行為

本書の著者ルディ・カウスブルック氏は、1929年にオランダ領東インドに生まれ、少年時代には日本軍の民間人抑留所で厳しい抑留生活を送った人である。

同じような立場にあった人たちが、第二次大戦後の植民地喪失後のオランダで、日本を糾弾する言論活動を続けていたなか、さまざまな資料とみずからの体験をもとに、オランダ人にとっての植民地、植民地の住民であったインドネシア人、そして日本について、冷静な反省を行った記録である。だから、「自虐」ではなく、「自省」の記録なのである。それは知的でかつ、誠実な行為といえよう。

この「自省」という行為は「理性」に基づくものであり、決まり文句とステレオタイプな見解に真っ向から反論することである。だが、それを活字として世に問うことは、さすがにヨーロッパであるとはいえ、かなりの勇気をともなうものであったに違いない。あの自由なオランダですら、ある種の「空気」が支配する社会であることが本書の記述からうかがわれるのだ。

著者の記述にみられるように、同じ事実であっても、インドネシア国民から見れば「独立」だが、オランダから見れば「喪失」であるという、立場によってまったく異なる意味である。

そして日本はたった4年間の軍政であったとはいえ、被統治者であったインドネシア人の民族意識を高め、結果としてオランダによる植民地の終わりを早めたことは否定できない。日本の敗戦後オランダは戻ってきてふたたび圧政を敷いたが、ほどなくして植民地からの撤退を余儀なくされることになる。日本占領時代に、オランダへの帰属意識は一掃されていたからである。

著者の立場は、いわば「複眼的」といってよいものであろう。いや、日本語の『きけわだつみの声』にまで目を通し、内容について言及する姿勢からうかがわれるのは、「複眼的視点」を超えた「三点測量」(トライアンギュレーション)とでもいうべき視点が感じられる。

日本人でもこのような三点測量(トライアンギュレーション)で見ることのできる人は、そう多くはあるまい。なによりも日本人に求められのは、相手の立場に立ったイマジネーションであるとつよく思うのである。

(原著カバーは著者が収容されたスマトラ島の収容所)


オランダのオランダ人と植民地のオランダ人は同じか?

オランダ人植民者たちが東インドの現地人に対してとった過酷な態度。こういう態度で接してからこそ、独立運動を誘発し、日本軍による占領によって独立への流れが加速したことは否定でのできない事実である。

本書の記述によれば、1929年にはオランダの現地人への過酷な態度はアメリカから非難を受けているし、欧州の植民地帝国であった英国もフランスも、この時点においては、「道徳的」とはほど遠い状況であったが、オランダより植民地経営は巧妙であったようだ。

大英帝国の「分割統治策」は現在でも「負の遺産」として大きな禍根となっているが、それでも植民地経営においては、きわめて有効なものであったことは否定できない事実ではある。なによりも証拠に、ごく一部の国を除いては、旧英国植民地はほとんどが英連邦に加盟している。

本書には言及はないが、南アフリカの支配者であるブール人(=ボーア人、アフリカーナー)もまたオランダ系であったことを想起すべきかもしれないと考えることに意味があるかもしれない。以下の記述を読んでみてほしい。

そして非ヨーロッパ世界にかんするかぎり、プロテスタンティズムの与えた影響はあまりないか、あっても望ましくないものであった。というのもプロテスタンティズムの予定説は、選民思想と結びついて、ヨーロッパ人以外を「人間」として認めない方向に向かったからである。・・(中略)・・北米大陸のインディアンの場合に明らかなように、プロテスタントは彼らを人間として認めず、殺戮、殲滅をもって恥じないどころか、それを神の摂理の名のもとに正当化したのである。地球上で最後まで公式にアパルトヘイト(人種隔離)政策を維持しつづけたのがオランダ系カルヴァン派の子孫の建国した南アフリカ共和国であったのは、偶然ではない。(『宗教改革とその時代(世界史リブレット)』(小泉徹、山川出版社、1996) P.85~86 より引用 太字ゴチックは引用者=さとう)


昨年アパルトヘイト廃止の闘志であったネルソン・マンデラ元大統領がお亡くなりになったが、アパルトヘイトはなんと1991年(!)まで撤廃されなかったのである。

もちろんオランダ系移民が建国した共和国であった南アフリカの状況と、オランダ王国の直轄領となったオランダ領東インドを同列で論じることに無理はあるかもしれないが、植民者の現地人への態度はある程度まで似たようなものがあったと言っても過言ではないように思う。

オランダ領東インドの末期から、日本による軍政を経てインドネシア独立に至るまでの歴史については、『インドネシ民族意識の形成(歴史学叢書)』(永積昭、東京大学出版局、1980)という知られざる(?)名著がある。ぜひ機会があれば読んでいただきたいと思う。

フランス人は『ラマン』や『インドシナ』といった映画で植民地時代のベトナムをノスタルジックに語る映画を作成してきた。大英帝国崩壊後の英国人も、大英帝国消滅という「受け入れたくない現実」を受け入れるために苦闘してきたことは、比較的知られているようだ。

だが、オランダからはそういう映画は日本に来ないし、オランダが植民地を喪失して「小国」となったという事実すら日本人の常識とはなっていないようだ。

植民地消失がそのまま衰退につながらなかった日本だが(・・なんせ「戦後」に人口が5,000万も増えて、人口規模が1.5倍になったのだ!)、さすがに少子化により人口減少が顕在化し、国民一般に衰退が感じられるようになってきている。

縮小する母国の現実をいかに受け入れるか、オランダの事例もまた日本人にとっては研究に値するものではないかと、2014年のいま感じるようになっている。

重要なことはバランスのとれた「ものの見方」。夜郎自大にならず、卑屈にも自虐的にもならず、「事実」を「事実」として受け取り、とるべきアクションを冷静に検討し、そして行動に移すという、冷めた知性をにもとづいた言動を行っていきたいものだ。





目 次

序文-憂いと哀れみ
オランダ領東インドの日本化
無人地帯の予言者
沈思一千年の美
きけわだつみのこえ
決まり文句と暗示
山の人間
あるギリシャ悲劇
デリの大地

太平洋のポンペイ
ボーフェン-ディグルの十五年間
神々の黄昏-オランダ領東インドの没落
日本茶に塩入れて
訳者あとがき
原註および訳註
参考文献
関連年表


著者プロフィール

ルディ・カウスブルック(Rudy Kousbroek)オランダの著名な評論家、エッセイイスト。コラムニスト。哲学博士。1929年、旧蘭領東インド(現インドネシア)生まれ。1942年オランダ軍降伏により、スマトラ島の日本軍民間人抑留所に収容される。1946年オランダに引き揚げる。アムステルダム大学で数学・物理学を専攻。同時に有名な文学運動 "五十年代派" に参加。パリに移る(1950~1990年)。1953年、処女短編「南回帰線時代を葬る」を発表。1968年、エッセイ集『パリ1968年革命について』。1975年、全作品によって、オランダの最高の文学大賞であるP.C.ホーフツ賞を受賞。1995年には『蘭領東印度シンドローム』(本訳書)、さらに自伝的エッセイ『再び生国の土を踏んで』はベストセラーに。その他、哲学的エッセイな多数の作品がある。(カバー記載の情報より)。

訳者プロフィール

近藤紀子(こんどう・のりこ)
翻訳家。1941年、山梨県生まれ。1963年、東京外国語大学インドネシア語科卒業。六四年オランダ政府給費生としてライデン大学に留学。オランダ近代文学を専攻する。以来ライデン市に在住、紀子ドゥ・フローメン(De Vroomen)の名前で日本文学の紹介につとめる。翻訳書に大江健三郎『みずから我が涙をぬぐいたまう日』『芽むしり仔撃ち』『万延元年のフットボール』、大岡信『遊星の寝返りの下で』、安部公房『短編集』、オランダ語から日本語への訳書として『西欧の植民地喪失と日本』(草思社刊)、著書として『連句・夏の日』『大江源三郎・文学の世界』などがある。(カバー記載の情報から)。



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オランダ領東インドと日本

書評 『五十年ぶりの日本軍抑留所-バンドンへの旅-』(F・スプリンガー、近藤紀子訳、草思社、2000 原著出版 1993)-現代オランダ人にとってのインドネシア、そして植民地時代のオランダ領東インド
・・『西欧の植民地喪失と日本-オランダ領東インドの消滅と日本軍抑留所-』の2年後に日本で翻訳出版された。ともに健忘症の日本人への警鐘と受け取りたい。重要なことはバランスのとれた「ものの見方」。夜郎自大にならず、卑屈にも自虐的にもならず・・

『戦場のメリークリスマス』(1983年)の原作は 『影の獄にて』(ローレンス・ヴァン・デル・ポスト)という小説-追悼 大島渚監督
・・日本占領時代のジャワ島の捕虜収容所が舞台

スローガンには気をつけろ!-ゼークト将軍の警告(1929年)
・・「第二次大戦中、軍属として海軍に徴用され、インドネシアのジャカルタで通訳官として海軍に勤務していた鶴見俊輔」の「お守りことば」というフレーズを紹介してある


オランダと植民地

「無憂」という事-バンコクの「アソーク」という駅名からインドと仏教を「引き出し」てみる
・・熱帯植物園で有名なインドネシアのボゴールは、オランダ植民者にとっての「夏の避暑地」として建設されバウテンゾルグ(無憂)と命名された

書評 『ニシンが築いた国オランダ-海の技術史を読む-』(田口一夫、成山堂書店、2002)-風土と技術の観点から「海洋国家オランダ」成立のメカニズムを探求
・・オランダにとっての東インドとは?

なぜ「経営現地化」が必要か?-欧米の多国籍企業の歴史に学ぶ
・・・グローバルビジネスの原型である「オランダ東インド会社」についての記述あり  「「植民地」における企業経営の経験が非常に大きいと思われます。 英領インドにおける英国の東インド会社(East India Company)、蘭領東インド(=現在のインドネシア)におけるオランダの東インド会社が典型的な事例です。英国とオランダの双方に本社のある、エネルギーのロイヤル・ダッチ・シェル(Royal Dutch Shell)や、食品のユニリバー(Unilever)のような英蘭系グローバル企業は、その最右翼というべきでしょう。 要は、限られた駐在員ですべてをこなすのは不可能なので、「二重支配体制」を創り上げたのです」


17世紀以降のオランダ

「フェルメールからのラブレター展」にいってみた(東京・渋谷 Bunkamuraミュージアム)-17世紀オランダは世界経済の一つの中心となり文字を書くのが流行だった
・・フェルメールとスピノザをつなぐものは光学レンズであった

書評 『チューリップ・バブル-人間を狂わせた花の物語』(マイク・ダッシュ、明石三世訳、文春文庫、2000)-バブルは過ぎ去った過去の物語ではない!
・・17世紀オランダの「バブル経済」

書評 『学問の春-<知と遊び>の10講義-』(山口昌男、平凡社新書、2009)-最後の著作は若い学生たちに直接語りかけた名講義
・・「1920年代から1930年代にかけて全盛期を迎えたオランダのライデン学派という知的サークルのなかから生まれてきたのが『ホモ・ルーデンス』(ホイジンガ)という比較文化論の傑作。山口昌男がフィールドワークの地として選んだインドネシアの島々は、かつてオランダの植民地であり、戦時中は日本に占領されていたことも語られる。その意味では、中心であるジャワではない、辺境のインドネシアについて知ることもできる内容である。ブル島、アンボン島、フローレス島・・・。さきに独立した東チモール以外はほとんどだれも知ることない島ばかりだ」


日本にとってのオランダ

幕末の佐倉藩は「西の長崎、東の佐倉」といわれた蘭学の中心地であった-城下町佐倉を歩き回る ③
・・蘭学とオランダ語書籍がなぜ佐倉に集積しているのか?

書評 『オランダ風説書-「鎖国」日本に語られた「世界」-』(松方冬子、中公新書、2010)-本書の隠れたテーマは17世紀から19世紀までの「東南アジア」


ヨーロッパによる植民地支配

コンラッド『闇の奥』(Heart of Darkness)より、「仕事」について・・・そして「地獄の黙示録」、旧「ベルギー領コンゴ」(ザイール)
・・ベルギー領コンゴという「闇の奥」

会田雄次の『アーロン収容所』は、英国人とビルマ人(=ミャンマー人)とインド人を知るために絶対に読んでおきたい現代の古典である!
・・英国人を代表とする西欧人(=白人)のアジア人に対する蔑視が鮮明に表現された名著


「ものの見方」

書評 『知的複眼思考法-誰でも持っている創造力のスイッチ-』(苅谷剛彦、講談社+α文庫、2002 単行本初版 1996)

書評 『座右の日本』(プラープダー・ユン、吉岡憲彦訳、タイフーン・ブックス・ジャパン、2008)-タイ人がみた日本、さらに米国という比較軸が加わった三点測量的な視点の面白さ

書評 『国際メディア情報戦』(高木 徹、講談社現代新書、2014)-「現代の総力戦」は「情報発信力」で自らの倫理的優位性を世界に納得させることにある
・・欧州諸国は植民地支配について謝罪はいっさいする姿勢は見せないとはいえ、それ以外の点にかんしては「倫理的優位性」を示すことが国際社会における生き残りの条件であることを示している


■その他-本論との関係で

「われわれは社会科学の学徒です」-『きけわだつみのこえ 第二集』に収録された商大生の手紙から



(2022年12月23日発売の拙著です)

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(2020年5月28日発売の拙著です)


 
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end

2014年5月28日水曜日

書評『五十年ぶりの日本軍抑留所-バンドンへの旅-』(F・スプリンガー、近藤紀子訳、草思社、2000 原著出版 1993)-現代オランダ人にとってのインドネシア、そして植民地時代のオランダ領東インド


『五十年ぶりの日本軍抑留所-バンドンへの旅-』(F・スプリンガー、近藤紀子訳、草思社、2000)は現代オランダ文学である。第二次大戦中のオランダ領東インド(=現在のインドネシア)に生まれ、その地で少年時代を過ごした著者の体験をベースにしたものだ。

2000年が日蘭交流400周年であったためだろう、オランダ関係の本が多数出版されているが、この本もその一冊である。じつはその当時購入したまま積ん読状態だったのだが、14年目(!)にして初めて読んでみた。そして小説であることに気がついた。

同時期に購入して、すでに読んでいた『西欧の植民地喪失と日本-オランダ領東インドの消滅と日本軍抑留所-』(ルディ・カウスブルック、近藤紀子訳、草思社、1998)と同様の、社会問題を扱った評論かノンフィクションだと思い込んでいたので、すこし意外な感じがしたのである。

オランダの文学作品など日本語ではめったに読めるものではない。おなじく第二次大戦中のユダヤ人迫害を扱った世界的ベストセラー『アンネの日記』くらいしか思い浮かばないのは、そもそもわたしがあまり小説を読まない人間だということもあろうが、かならずしもそうとは言えないと思う。

現代オランダ人の著者といえば、日本文化の研究者でもあるイアン・ブルマ(Ian Buruma)の本くらいしか読んだ記憶はない。しかも英語である。オランダ語では読者人口が小さすぎる(・・調べると、世界全体で2,300万人程度らしい)からだろう。

「2000年が日蘭交流400周年」であったと書いたが、また大多数の日本人の認識においては、オランダといえば出島や長崎、蘭学といったポジティブな話に終始しているのだろう。江戸時代からいきなり現代に飛んで、風車やチューリップといったイメージ。

だが、日本とオランダは第二次大戦で戦った、しかもアジアで(!)ということが、日本人の知識にすらなっていないのは困ったことだ。日本は大東亜戦争の4年間、インドンシアを占領して軍政を敷いていたわけだが、その当時はオランダの植民地であったのである。日本の歴史教育は現代史を軽視しているので、こういう致命的な知識の欠落が生じてしまうのである。

『五十年ぶりの日本軍抑留所-バンドンへの旅-』は、外交官だった著者がリタイア後に書いた「帰国文学」である。「帰国文学」というジャンルがオランダにあるらしいが、植民地への「ノスタルジーを語ったものが大半であるようだ。日本でいえば満洲ものなどの「引揚者文学」がそれに該当するのだろうか。

(カバー裏 現地ジャワ人の乳母と著者 モノクロ着色写真)

主人公は、政界からの引退を余儀なくされたオランダの国会議員に設定されている。オランダ領東インドに生まれ育った彼は、少年時代には占領軍である日本軍の民間人抑留所に収容され、日本の敗戦後は両親とともにオランダ本国に「引き揚げ」た。以後、少年時代の記憶は心の中に封印し、東インドには一度も戻ることはなかった・・・

以下は、出版社による要約をそのまま引用させていただこう。文学趣味のあまりないわたしが下手に要約するよりもはるかに秀逸であるから。

党の長老にして首相のご意見番でもあるレーヘンスベルフは、同僚の突然の裏切りで議員辞職に追い込まれ、仕方なく回顧録でも書こうかと思う。そこへインドネシアへの経済使節団に加わる話が舞い込んできた。現地に着くと、記憶の底に押し込めたはずの光景が次々に蘇ってくる。彼のことを知っているかのごとくガイドする運転手(実は小学校の友人)、能天気な妻、残されていた母の手紙…。すべてに苛立ちながら、彼は少年の頃に収容されたバンドンの日本軍抑留所に引き寄せられていく。日本軍抑留所ですごした少年時代の体験を文学作品に昇華させた秀逸な作品。

生き馬の目を抜く政治の世界もさることながら、ビジネスマンのわたしには経済ミッションに参加するという設定が面白い。主人公のモノローグという内面のつぶやきを多用した文体は、現代に生きるオランダ人の心性(メンタリティ)に触れることができて興味深い。先進国という点で、現代オランダ人が現代日本人とさして変わりないこともわかる。

「植民地支配者と被支配者の間にいまだに微妙に残る心理的な葛藤を、バンドンの日本軍抑留所ですごした少年時代の体験と交差させながら描いた」(内容紹介から)作品だが、この小説は1993年の出版で、オランダ語の原題は、Bandoeng-Bandung というらしい。

(原著オランダ語版カバー)

バンドンとは、インドネシア独立後に第三世界の旗手となったスカルノ大統領が「バンドン会議」を開催した、あのバンドンである。

Bandoeng-Bandung というのは前者の Bandoeng がオランダ領東インド時代のつづりで、後者の Bandung は現代インドネシアのつづりである。前者で「過去」を、後者で「現代」を表現しているだけでなく、植民地と被植民地の関係、植民地支配者と被支配者の関係もまた表現しようとしているのだろう。ノスタルジーと苦い悔恨のないまぜになった、微妙な感覚である。

植民地時代のバタヴィアがジャカルタに、ボイテンゾルク(=無憂)がボゴールにと、植民地時代の記憶を断ち切るかのようの地名の変更を行った独立後のインドネシアだが、つづりはかわってもバンドンは発音は同じままバンドンで変化はない。そんなこともアタマのなかにいれておきながら読んでみるといい。

現代オランダ、現代インドネシア、そして植民地時代のオランダ領東インドと、時空と虚実がさまざまに交錯しながら、封印していた過去がよみがえり、苦い味を感じる人生。

英国人やフランス人は東南アジアを舞台にした植民地ノスタルジーものが多く日本にも紹介されているし、映画作品も多く公開されているが、オランダのものはきわめて少ない。

大人向けの文学作品として読むもよし、オランダ人にとってのインドネシアの意味を垣間見ることで、オランダ人のメンタリティーを知ることのできる作品でもある。






著者プロフィール

F・スプリンガー(F. Springer)
本名カーレル・ヤン・スフネイデル(Carel Jan Schneider)。1932年、旧オランダ領東インド(現インドネシア)のバタヴィア(現ジャカルタ)生まれ。父親はプロテスタント系高校のドイツ語教師(のちにアムステルダム大学のドイツ語教授)。マランとバンドンで幼年時代をすごし、10歳のとき日本軍民間人抑留所に、14歳でオランダ本国に引き揚げ、ライデン大学法学部を卒業。1961年、行政官としてニューギニアに駐在(当時まだオランダ領)。1964年から1989年まで、外交官としてニューヨーク、バンコク、ブリュッセルなど各国に勤務。駐東ドイツ大使を最後に退官。外交官時代から作家活動をはじめ、『ブーゲンヴィル』『さよならニューヨーク』など駐在地を舞台にした小説を執筆。1981年刊行の『ブーゲンヴィル』でボルテウェイク文学大賞を受賞、一躍脚光を浴びる。1995年、全作品でコンスタンテイン・ハイヘンス文学大賞を受賞。(カバー記載の情報から)。

訳者プロフィール
近藤紀子(こんどう・のりこ)
翻訳家。1941年、山梨県生まれ。1963年、東京外国語大学インドネシア語科卒業。六四年オランダ政府給費生としてライデン大学に留学。オランダ近代文学を専攻する。以来ライデン市に在住、紀子ドゥ・フローメン(De Vroomen)の名前で日本文学の紹介につとめる。翻訳書に大江健三郎『みずから我が涙をぬぐいたまう日』『芽むしり仔撃ち』『万延元年のフットボール』、大岡信『遊星の寝返りの下で』、安部公房『短編集』、オランダ語から日本語への訳書として『西欧の植民地喪失と日本』(草思社刊)、著書として『連句・夏の日』『大江源三郎・文学の世界』などがある。(カバー記載の情報から)。


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なぜ「経営現地化」が必要か?-欧米の多国籍企業の歴史に学ぶ
・・・グローバルビジネスの原型である「オランダ東インド会社」についての記述あり  「「植民地」における企業経営の経験が非常に大きいと思われます。 英領インドにおける英国の東インド会社(East India Company)、蘭領東インド(=現在のインドネシア)におけるオランダの東インド会社が典型的な事例です。英国とオランダの双方に本社のある、エネルギーのロイヤル・ダッチ・シェル(Royal Dutch Shell)や、食品のユニリバー(Unilever)のような英蘭系グローバル企業は、その最右翼というべきでしょう。 要は、限られた駐在員ですべてをこなすのは不可能なので、「二重支配体制」を創り上げたのです」

「フェルメールからのラブレター展」にいってみた(東京・渋谷 Bunkamuraミュージアム)-17世紀オランダは世界経済の一つの中心となり文字を書くのが流行だった
・・フェルメールとスピノザをつなぐものは光学レンズであった

書評 『チューリップ・バブル-人間を狂わせた花の物語』(マイク・ダッシュ、明石三世訳、文春文庫、2000)-バブルは過ぎ去った過去の物語ではない!
・・17世紀オランダの「バブル経済」

幕末の佐倉藩は「西の長崎、東の佐倉」といわれた蘭学の中心地であった-城下町佐倉を歩き回る ③
・・蘭学とオランダ語書籍がなぜ佐倉に集積しているのか?

書評 『オランダ風説書-「鎖国」日本に語られた「世界」-』(松方冬子、中公新書、2010)-本書の隠れたテーマは17世紀から19世紀までの「東南アジア」

映画 『レイルウェイ 運命の旅路』(オ-ストラリア・英国、2013)をみてきた-「泰緬鉄道」をめぐる元捕虜の英国将校と日本人通訳との「和解」を描いたヒューマンドラマは日本人必見!
・・これはシンガポール陥落で捕虜となった英国人将校の回想録



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2014年5月27日火曜日

東西回廊とメコン川を横断する「第2タイ=ラオス友好橋」-開通記念セレモニー(2006年12月20日)出席の記録

    (国境を挟んで流れるメコン川のタイ側からみた「第2タイ=ラオス友好橋」 筆者撮影)

「東西回廊」というものがある。東南アジア、とくにメコン圏のインドシナ半島を東はベトナムから西はミャンマーまで東西に結ぶ道路のことだ。

ここ数年は「民主化」されたミャンマーが話題になることが多く、東西回廊の話題もタイから西のミャンマーへのアクセスがいっこうに開発されないことに集中しがちだが、それは東のラオスからベトナムへかけてのルートがすでに完成しているからだろう。、

いまから8年前の2006年のことだが、また、2006年12月20日の、Thai-Laos Friendship Bridge Ⅱ(第2タイ=ラオス友好橋)の開通記念セレモニーに、ラオス政府の招待で参加しているので、そのときのことを、以前書いた文章を再編集する形で紹介しておきたい。

第二メコン橋は、日本の経済援助によって作られたものである。国境を接する中国の影響圏にあるラオスを少しでも日本に引き戻すためにはどうしたらいいか。まずは事実関係の確認の意味で、2006年当時を振り返っておきたい。


ラオスと「第2タイ=ラオス友好橋」について


(日本の経済協力によることを示した掲示板)

第2タイ=ラオス友好橋は、タイ側のムクダハーンとラオス側のサヴァナケットを結ぶ、メコン川にかけられた二番目の橋である。日本の ODA 資金による援助ローンで建設された、日本の息もかかったものである。

インドシナ半島には国跨いだ2つの回廊(コリドー)がある。東西回廊と南北回廊である。東西回廊が日本の息のかかったものであれば、南北回廊は中国の息のかかったものである。中国は海に出るためのルートとして南北回廊の建設にはチカラを入れてきた。

タイとラオスを結ぶ橋は、いちばん最初にできたのは、タイ側のノンカイとラオス側のヴィエンチャンを結ぶもので、現在では鉄道線路も敷設された。三番目の橋は中国のカネによるものだ。

(東西回廊とメコン第二友好橋 出典:毎日新聞 2007年2月12日)

面白いことにタイは日本と同じくクルマは左側通行だが、ラオス側はフランスの植民地であったこともあり右側通行である。このため、橋のまんなかで交通レーンが入れ替わることになっている。先日TV番組でみたが、タイとミャンマーのあいだも同様であるようだ。

インドシナ半島を陸路で結ぶ交通ルート、いわゆる「東西回廊」がだんだんと整備されてゆく状況にあるが、この点は面倒なものであるといわざるをえない。ラオス、カンボジア、ベトナムの三カ国は右側通行である。

「東西回廊」など陸路だけでなく、空路と海路も含めた東南アジアのロジスティクスについては、『ドキュメント アジアの道-物流最前線のヒト・モノ群像-』(エヌ・エヌ・エー ASEAN編集部編、2008) が、実用書としても、読み物としても面白いので推薦しておこう。


タイ側の主賓はシリントーン王女

ちなみのこの式典には、タイ側からはタイ国王ラーマ9世の長女であるシリントーン王女(・・下の写真で左から二人目)が主賓として列席されていた。

(シリントーン王女とタイのプリンセスたち 筆者撮影)

私たちと行動をともにしていた通訳のタイ人女性は、この式典のあと聞いた話だが、感激のあまり涙がこぼれたと漏らしていた。タイにおけるシリントーン王女の存在はスーパースター並である。

私がシリントーン王女をナマで、しかも至近距離から拝顔させていただいたのはこの一回限りだ。

(タイの仏教僧侶たちの読経 筆者撮影)

セレモニーにつきものなのが仏教僧侶たちである。これはタイ側のものだが、仏教僧侶たちの読経が行われる。日本ではこのようなセレモニーにおいては、とくに地鎮祭においては神道の領域であるが、上座仏教圏ではもっぱら仏教僧侶が行うことになっている。

ラオスもまた上座仏教圏である。世界遺産に指定されている古都ルアンプラバーンの早朝の托鉢シーンは有名であり、わたしも実見しているが、やや観光化してしまっているような印象を受ける。とはいえ、それ以外は熱心な仏教国であるといえよう。

(微笑む制服姿のタイの女性文官たち 筆者撮影)


ラオスは「美少女大国」

左に掲げる写真は、ラオスの美少女たち。ラオスは知られざる(?)「美少女王国」である。タイ北部のチェンマイ方面とラオスはもともと同じ民族で、タイ北部に美人が多いのは理由があるのだ。

(日本の旗をもって歓迎してくれるラオスの美少女たち 筆者撮影)

記念式典にあたって、ラオス国旗とタイ国旗にまじって日本の日の丸も振ってくれているのはうれしいかぎりだ。

(ラオス側の国境ゲート 筆者撮影)

ラオスは人口500万人と国土の割には人口密度が低く首都ヴィエンチャンも人もバイクもまばらにしか走っていない。それでも「昔よりクルマが増えた!」と現地の人から聞くと、なんだか不思議な気分になる。むしろ古都ルアンプラバーンのほうが、欧米からの観光客であふれているので賑やかなくらいだ。

観光地といえばヴィエンチャンとルアンプラバーンというイメージが定着しているが、じつはそれ以外の地方都市が面白い。とはいえ、まだまだ危険な箇所も多く、仕事でもなければなかなか行く機会もないかもしれない。

まずはラオスという国がどこにあるかという地理的な位置関係をつかんでほしいと思う。


(Google Map でみる内陸国ラオス)


<関連サイト>

「東西回廊」整備はアセアン全体に影響及ぼす-抑えておきたいミャンマー特有の物流事情(ダイヤモンドオンライン、2014年5月29日)
・・「インドシナ半島のベトナム、ラオス、タイ、ミャンマー4ヵ国を結ぶ東西経済回廊を通じた物流は、タイ・ムクダハンとラオス・サバナケット間を流れるメコン川にかかる第2メコン友好橋が2006年12月に開通して以降、年々増えている。ベトナム・タイ間の陸上物流の増加は目覚ましく、北ベトナム発タイ向け貨物の増加は特に顕著だ。 道路と橋が整備される頃には、タイ・ミャンマー間の輸送は、タイ・ベトナム間の陸上輸送と同様に、飛躍的に増加することが予想される。そのころには、アセアンにおいてより重要度を増したミャンマーの姿が見られているであろう」





<ブログ内関連記事>

ラオス関連

ラオスよいとこ一度はおいで!-ラオスへようこそ!

「ラオス・フェスティバル2014」 (東京・代々木公園)にいってきた(2014年5月24日)

「ラオス・フェスティバル2010」 (東京・代々木公園)にいってきた

仏歴2553年、「ラオス新年会」に参加してきた(2010年4月10日)-ビア・ラオとラオス料理を堪能

本の紹介 『鶏と人-民族生物学の視点から-』(秋篠宮文仁編著、小学館、2000)-ニワトリはいつ、どこで家禽(かきん=家畜化された鳥類)になったのか?
・・「メコン第二友好橋」の話は、もともとこの秋篠宮の記事の付録として書いたが、関連性が薄いので切り離して独立の記事とすることにした


インドシナとメコン圏

『東南アジアを学ぼう-「メコン圏」入門-』(柿崎一郎、ちくまプリマー新書、2011)で、メコン川流域5カ国のいまを陸路と水路を使って「虫の眼」でたどってみよう!

書評 『消費するアジア-新興国市場の可能性と不安-』(大泉啓一郎、中公新書、2011)-「新興国」を消費市場としてみる際には、国全体ではなく「メガ都市」と「メガリージョン」単位で見よ!




物流・ロジスティックス

タイのあれこれ (21) バンコク以外からタイに入国する方法-危機対応時のロジスティクスについての体験と考察-

『ドキュメント アジアの道-物流最前線のヒト・モノ群像-』(エヌ・エヌ・エー ASEAN編集部編、エヌ・エヌ・エー、2008)で知る、アジアの物流現場の熱い息吹

書評 『空洞化のウソ-日本企業の「現地化」戦略-』(松島大輔、講談社現代新書、2012)-いわば「迂回ルート」による国富論。マクロ的にはただしい議論だが個別企業にとっては異なる対応が必要だ




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2014年5月26日月曜日

ラオスよいとこ一度はおいで-ラオスへようこそ!


(ラオスの首都ヴィエンチャン空港にて)

♪ ラオスよいとこ一度はおいで!

わたしはラオスには、仕事と観光で、​これまで二回いってます。【♪ ラオスよいとこ一度はおいで!】と題して、3年前の2011年にフェイスブックに投稿した記事がありますので、ここに再編集して再録しておきたいと思います。


内陸国ラオスはインドシナの小国

ラオス(Laos)は、東南アジアのインドシナ半島の内陸の小国​。正式名称は、ラオス人民民主共和国。まず、地理的な位​置づけについて写真で確認しておきましょう。この地図は、ベトナ​ムの旅行会社のものですが、左上に Laos の文字がみえるでしょう。

(ベトナムの観光地図に記されたラオス)

人口は600万人超で、人口密度たった 26人/k㎡(!)。首都ヴィエンチャンも、クルマは少しだけで​人もまばらです。

フランス植民地だったため、ベトナム、カンボジ​ア、ラオス三国をあわせて「インドシナ諸国」ということもありますが​、現在でもフランス語の看板のほうが英語よりも多く、フランス語​も比較的通じます。いわゆる「インドシナ三国」のなかでは、発展が遅れたためか、もっともフランス語が残っている国かもしれません。

しかしご心配なく。現在では英語は十分通じます。とくに「世界遺産」の指定を受けた古都ルアンプラバーンは圧倒的に西欧人の観光客があふれているので英語にかんしてはまったく問題ありません。


ラオスを代表する「伝統」

ラオス(Laos) の伝統にかかわるものを2つ紹介いたします。仏教と舞踊について​です。

(ラオスにて筆者撮影)

写真の左は早朝の托鉢風景

「世界遺産」に指定されている古都ル​アン・プラバーンでは朝の托鉢が有名です。大勢のお坊さんたちが​列をつくって市内を托鉢で歩きます。お布施をすれば功徳を積むこ​とができるので、大勢の善男善女が集まってきています。

写真に写​っているのは、隣国のタイから来ている観光客たちですね。ラオスもタイも、ともに上座仏教圏にあります。

写真の右は、ラオスの伝統舞踊の先生。ラオス美人ですね。

手の形に注目優美な舞踊は、隣国のカンボジアやタイと似ていま​す。仏教についてもそうですが、ベトナムとの共通性はほとんどありません​。ラオスは民族的にも、文化的にも、むしろタイ北部に近いのです​。

また、腰にまいた布にも注目ラオスといえば美しい織物。どこ​の国でも、女性は伝統衣裳派が多いですよね。ラオスの織​物はほんとうにバラエティ豊かで、ラオスの女性もおしゃ​れです。

ラオスの布はシルクの織物です。工房も見​学しました。土地による違いもありますし、少数民族の多​い国ですから民族ごとの違いもあります。

市場(いちば)​にいくと、色とりどりの織物を、反物として売っています​。なかなかのものがありますよローカル・マーケットで値切​りながら気に入った布を探すのも旅の楽しみの一つですね。イン​テリアにもなります。


ラオスの一般庶民の食事

いきなり質問ですが、あなたは「パン食い」ですか? それとも「麺食い」で​すか(笑)?  

(ラオスにて筆者撮影)

ラオスならこの両方を満たしてくれますよ。パン食いも麺食いも、ともに満足させてくれるのがラオスです。

写真の上は、フランス​パンでつくるサンドイッチ。ベトナムで食べたことがある方もいら​っしゃるかもしれませんね。フランスの植民地だった名残でしょう​、ベトナムやラオスではパンといえばフランスパン。サンドイッチ​は屋台で食べるものです。

写真の下はラオス麺。ベトナムと同じく米粉でつくった麺ですね。​いずれも屋台で食べることができます。麺料理の種類はじつにバラ​エティに富んでいます。ラオスにいったら 「屋台で麺!」 。これは覚えておきましょう。じつに美味いですよ!

なお、今回紹介していませんが、ふだんの食事はタイ料理に似てい​ます。タイの東北地方のイサーン料理とほぼ同じもの。ソムタムな​どの激辛系ですね。このブログには記事として書いているのでご参照してください。 


ラオスといえばビアラオ!

ということで、ビア・ラオ(Beer Lao)で乾杯!

(ラオスにて筆者撮影)

 ビア・ラオは、コメからつくったビール。ビア・ラオは、ラオスでは数少ない近代的製造設備を備えた醸造所​で生産される「国民ビール」です。日本ではラオスと「ス」までいうことが多いですが、ラオスでは「ラオ」とのみいうことが多いです。

東南アジアではシンガポールの​タイガー・ビア(Tiger Beer)がメジャーですが、わたしは個人的には、ラオスのビア​・ラオとミャンマーのミャンマー・ビアがイチオシですね。日本で​もタイ料理店の一部では取り扱ってますので、機会があれば試して​みてください。

写真は、ラオスの古都ルアン・プラバーンにて。右手に東南アジア​を貫く大河メコン川の流れを見下ろすカフェテラスで、ビアラオ飲​みながら一息ついてみる。うーむ、最高だなあ! 


ラオス側からみる「メコンの夕陽」がすばらしい!

南北に長いが海には面していないラオスにとって、メコン川はまさに天からの恵み。豊かな水量と豊富な水産資源は、ラオスの人々だけでなく、川をはさんで隣国のタイや下流にあるカンボジア、ベトナムにとっても同様になくてはならない存在です。

メコン川はラオスとタイのあいだの国境を流れています。ラオスにとっては西を流れています。

(ラオスにて筆者撮影)

写真は、ラオス中部の地方都市サワナケートにてメコン川をはさんだ対岸はタイ西に沈んでゆく夕陽がじつに美しいですね。

「サンセットはラオスから見よ!」、これがメコンの旅の教訓です。 これだけ美しい夕陽もなかなかないのではないかな? 「百聞は一見にしかず」、写真よりはるかに美しいはずですよ。


さて、いろんな面からラオスを見てきましたが、いかがですか?

ラオスよいとこ一度はおいで!-ラオスへようこそ!




PS ラオスのネコ(番外編)

では、「ラオにゃん」に登場してもらいましょう。ラオスネコを略してラオにゃん。中国語で「おふくろさん」を意味する「老娘」と発音が同じですが(笑)

(ラオスにて筆者撮影)

この写真は、とあるラオスの町でたまたま撮影したネコ。 うっすらとキジ模様がうかびあがってますが、眼も青いし、なんだかシャムネコみたいな感じも。

ラオスの隣はシャム(=現在のタイ)ですからかもしれません。エジプトが原産のネコ、日本にネコがやってくる前に、すでに東南アジアにはネコがいた(!)ということは、アタマのなかにいれておきたいものです。


(Google Map でみる内陸国ラオス)



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「ラオス・フェスティバル2014」 (東京・代々木公園)にいってきた(2014年5月24日)

「ラオス・フェスティバル2010」 (東京・代々木公園)にいってきた

仏歴2553年、「ラオス新年会」に参加してきた(2010年4月10日)-ビア・ラオとラオス料理を堪能

本の紹介 『潜行三千里』(辻 政信、毎日新聞社、1950)-インドシナに関心のある人の必読書
・・敗戦時バンコクにいた陸軍参謀の辻政信は英国から指名手配され、僧侶に身をやつして仏領インドシナ経由の「敵中三千里」の逃避行を実行。帰国後に参議院議員となった辻政信は、ふたたび僧形になって単独ラオスに潜入したが、1961年以後消息を絶ったままである

ディエン・ビエン・フー要塞陥落(1954年5月7日)から60年-ヴォー・グエンザップ将軍のゲリラ戦に学ぶ
・・ディエン・ビエン・フーはラオスとの国境近く


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2014年5月25日日曜日

「ラオス・フェスティバル2014」 (東京・代々木公園)にいってきた(2014年5月24日)


「ラオス・フェスティバル2014」 (東京・代々木公園)にいってきた。二日間の会期の初日(2014年5月24日)である。幸いなことに晴天に恵まれた。

今回が第4回目の開催のようだ。二年に一回の開催のようだが、わたしが前回いったのは2010だから4年前になる。ちょうどワールドカップの年にかさなるのが面白い。

4年前もそうだったが、今回も比較的すいているのがありがたい。その前の週に「タイ・フェスティバル」が開催されているが、こちらは毎年の開催で、しかもすごい数の人が来場してラッシュアワー状態になるので、どうしても足が遠ざかりがちだ。

わたしにとってのお目当ては、いつもながらラオス料理とビアラオ。これに尽きる。

(ビアラオはコメからつくったビール だからうまい!)

まずはラオスそうめん(500円)。つぎにビアラオ(400円)飲みながらソーセージ(400円)。このソーセージは濃厚な味で野趣豊かでじつにうまい。現地で食べればもっと安いのだが、輸入品なので値段が高いのは仕方あるまい。

ラオスも上座仏教国だが、なぜ仏教なのにソーセージなのと思う人もいるだろう。これは日本人だって魚は食べてきたのであって、ただたんに生活形態が違うということでしかない。

国家としてのラオスだけでなく、広い意味のラオス民族圏であるタイ北部やタイ東北部もまたソーセージがうまい。チェンマイ名物がソーセージであることは比較的有名かもしれない。

(ビールもソーセージもうまい! だがビアラオは瓶では売ってくれないのが残念)

ステージではラオスの歌手のパフォーマンスを見た。

ラオスの歌謡曲は、旋律がタイの演歌であるルークトゥンそっくりで、しかもラオス語はタイ語に近いので違和感というものをまったく感じない。バンコクにも多いイサーン(=タイ東北部)出身のタクシー運転手が好んでかけているのがルークトゥンである。

(ラオスの歌手とダンサーたち)

上座仏教圏のラオスも基本的におとなしい人が多いのだが、音楽がかかるとどうしてもカラダが動いてしまうようだ。タイ人もそうだが、ラオス人もまたラテン系(?)なのだろうか。

基本的にラオスのフェスティバルなのだが、タイ料理店の出店もあるので、「タイ・フェスティバル」の
混雑ぶりがイヤな人は「ラオス・フェスティバル」には足を運んだらいいだろう。

二年に一回の開催なので、次回は2016年ということになる。時期は同じく5月となることだろう。






<関連サイト>

ラオフェスに行こう!(ラオス・フェスティバル公式FBページ)
・・フェスティバル前と期間中の情報更新も多い

Laos Festival(ラオス・フェスティバル)公式サイト

ビアラオ (日本正規代理店)
・・このサイトから通販で買えますよ!


<ブログ内関連記事>

ラオスよいとこ一度はおいで-ラオスへようこそ!

東西回廊とメコン川を横断する「第2タイ=ラオス友好橋」-開通記念セレモニー(2006年12月20日)出席の記録

「ラオス・フェスティバル2010」 (東京・代々木公園)にいってきた(2010年5月22日)

仏歴2553年、「ラオス新年会」に参加してきた(2010年4月10日)-ビア・ラオとラオス料理を堪能

イサーン料理について-タイのあれこれ(番外編)
・・ラオス料理とタイのイサーン料理(=タイ東北部の料理)はほぼ同じ

(2014年5月28日 情報追加)





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「ウェーサーカ祭2014」にいってきた(2014年5月24日)-「記念鼎談」におけるケネス・タナカ師の話が示唆に富むものであった



「ウェーサーカ祭」への参加もこれが6回目である。それも6回連続である。仏歴2558年となっているのは、スリランカとタイでは一年ズレがあるためだ。タイでは仏歴2557年である。

ことしは会場がふたたび代々木オリンピックセンターに戻った。正式名称は、国立オリンピック記念青少年総合センター・国立青少年教育振興機構・国立青少年センター。これだけの規模の大きなイベントを行う会場を確保するのは大変なことだろう。

だが、わたしにとっては代々木のほうがありがたい。もしかするとわたしだけではないかもしれない。なぜなら、会場が代々木なら、同時期に代々木公園で開催されているイベントに立ち寄ってから、そのついでにウェーサーカ祭にもいけるから。

例年この時期には代々木公園で「タイ・フェスティバル」などの大型のイベントが開催される。ことしは「タイ・フェスティバル」は前の週であったが、そのかわり「ラオス・フェスティバル」が開催された。タイもラオスもともに上座仏教圏。その意味では、けっして縁のない話ではない。

というわけで、「ラオス・フェスティバル」に立ち寄ってラオス料理を食べたあと、代々木公園から坂をくだって代々木オリンピックセンターまで歩く。下り坂なので歩いても楽勝だ。



日時 2014年 5月24日(土)  13:30開場 14:00開演
開場 国立オリンピック記念青少年総合センター(代々木オリンピックセンター)
    カルチャー棟大ホール(定員735名)
スケジュール
13:30 開場
 ・誕生仏、成道仏、涅槃仏への献花(自由に花をお持ちください)
14:00 開式 ・おねり ・献花 ・祝辞 ・仏讃法要
15:30 特別鼎談(スマナサーラ長老・ケネス・田中師・宮崎哲弥氏)
 休憩
17:30 参加者との質疑応答(スマナサーラ長老)
18:30 祝福の読経/聖糸・聖水の授与
19:00頃 終了予定(延長される場合もあります)

わたしは、先にも書いたように「ラオス・フェスティバル2014」に立ち寄ってから「ウェーサーカ祭2014」に参加した。

ラオスを代表するビールであるビアラオを飲んでいるので、不飲酒戒(ふおんじゅかい)に反しているが、そこのところは片眼をつむって、ということで(笑) 出家しているわけではないので(・・しかも熱心さにはなはだ欠けるざ在徒だ)、お許しいただくということで。



途中から参加して「慈悲の瞑想」のセッションには参加。あまりにもすばらしい日本語の文言は、声を出して朗唱するのがよい。

「私は幸せでありますように」「私の親しい人々が幸せありますように」は当然としても、「私の嫌いな人々も幸せでありますように」とまでクチで唱えると、そういう気持ちになるというものだ。

「生きとしいけるものが幸せでありますように」。

あいかわらずタイムキーピングが厳格でない点は、いただけないのだが・・・


■「記念鼎談」におけるケネス・タナカ師の話が示唆に富む

今回の目玉のイベントで楽しみにしいていたのが「記念鼎談」。スマナサーラ長老とゲストのケネス・タナカ師と宮崎哲弥氏の3人による鼎談。
  
宮崎氏が司会進行役となり、上座仏教のスマナサーラ長老、浄土真宗のケネス・タナカ師匠(アメリカ人・日系三世)と問答を交わすという形式で、質疑応答もふくめて2時間半のセッションであった。

スマナサーラ長老については省略するが、ケネス・タナカ師と宮崎哲弥氏については、このブログでも著書を取り上げているので紹介しておこう。

ケネス・タナカ(Kenneth Tanaka)1947年、山口県生まれ。武蔵野大学教授。日系二世の両親とともに1958年に渡米。スタンフォード大学卒。米国仏教大学院修士課程修了。東京大学大学院修士課程修了。同大学院博士課程退学。カリフォルニア大学(バークレー校)大学院博士課程修了。哲学博士。国際真宗学会会長。日本仏教心理学会会長。仏教キリスト教学会理事。元北カリフォルニア仏教連合会会長。

書評 『目覚める宗教-アメリカが出合った仏教 現代化する仏教の今』(ケネス・タナカ、サンガ新書、2012)-「個人のスピリチュアリティ志向」のなかで仏教が普及するアメリカに読みとるべきもの


宮崎哲弥(みやざき・てつや)1962年、福岡県生まれ。評論家。慶應義塾大学文学部社会学科卒業。政治哲学、仏教論、サブカルチャー分析を主軸とした評論活動を行う。
  
書評 『知的唯仏論-マンガから知の最前線まで ブッダの思想を現代に問う-』(宮崎哲弥・呉智英 、サンガ、2012)-内側と外側から「仏教」のあり方を論じる中身の濃い対談

宮崎氏は、あいかわらず論文のような硬い日本語表現をつかいがちで、この人は論争志向の人であって、ぜんぜん説法向きではないなと思いながら聞いていたが、これに対してケネス師は意外に日本語が堪能で、しかもやたら日本語でダジャレ飛ばしまくりスマナサーラ長老はいつもの調子のくだけた語りでキツイ(?)発言をされていた。

(左からスマナサーラ長老、ケネス・タナカ師、宮崎哲弥氏)

今回のゲストの目玉はケネス師なので、アメリカに仏教事情から見た、「いまという時代の仏教のあり方」についての示唆が興味深いので、何点かメモ書きをもとに記しておこう。

現代は「マインドフルネス」が求められる時代であり、そのなかで仏教が大きな意味をもつようになっている。アメリカでは目覚め(=アウェアネス)という観点で仏教が捉えられることが多い。

現代人の「苦」としては、東洋人は「束縛感」を感じることが多いが、西洋人は「疎外感」を感じることが多い。「疎外感」解消が仏教への接近をもたらしていることは、 Inter-dependence(相互依存)、inter-connectedness(相互の「つながり」=「縁」)といったコトバがよく使用されることにもうかがうことができる。疎外感を癒すここができるのが現代アメリカ人にとっての仏教なのである。

日本でも女性の仏教者が増えるべき。アメリカの仏教改宗者には女性が多い。その点、世襲が当たり前の日本の仏教は閉鎖的であり、在家から出家した僧侶を受け入れて「開かれた仏教」となるべき。

アメリカでは仏教が心理学の窓口になっている。心理学的にいえば仏教は「超自我」であり、健康な「自我」がないと「無我」になれないというのがアメリカでは常識

ケネス師が紹介された「棒高跳びの比喩」が面白い。助走は「自我」により、棒(バー)の助けを借りて高みに上がり(=方便)、その段階で棒(バー)は手放し、結果として「無我」となる。この比喩は、仏教には無意識な日本人には納得しやすいのではないだろうか。いずれにせよ「無我」になるためには「自我」が出発点であることは仏教は否定していない。上座仏教はこの姿勢が顕著だ。

ざっとこんな感じだろうか。

10歳で渡米しアメリカで40年過ごしてから来日し、浄土真宗の僧侶でもあるという立ち位置からの発言は、日米双方の事情を比較して捉える視点からのものであり、じつに示唆に富んでいる。、現代人にとっての仏教の意味は、アメリカ的なものを視野にいれると理解しやすいのではないか。

ケネス・タナカ師がコーディネーターの「世界に広まる仏教の現状と未来:カナダ、韓国、中国、フランス」というシンポジウムが、武蔵野大学の有明キャンパスで2014年8月29日にあるそうだ。ぜひ話を聞いてみたいと思っている。現時点で明らかになっている内容を紹介しておこう。

「世界に広まる仏教の現状と未来:カナダ、韓国、中国、フランス」

http://www.musashino-u.ac.jp/learning/extension_lecture03.html

予約不要・聴講無料(※お車でのご来場はご遠慮ください)

日時: 2014年8月29日(金)18:00~21:00
場所: 武蔵野大学 有明キャンパス 大講義室(3号館301教室)
コーディネーター: 田中 ケネス(仏教文化研究所長/本学教授)
講師: ジェシカ・メイン(カナダ ブリティッシュ・コロンビア大学講師)、金天鶴(韓国 東国大学教授)、張文良(中国人民大学教授)、フレデリック・ジラール(フランス国立極東学院教授)

「生きとしいけるものが幸せでありますように」。
「生きとしいけるものが幸せでありますように」。
「生きとしいけるものが幸せでありますように」。



<関連サイト>

ウェーサーカ祭 2014 公式サイト


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ウェーサーカ祭・釈尊祝祭日 2009

『ブッダのことば(スッタニパータ)』は「蛇の章」から始まる-蛇は仏教にとっての守り神なのだ

書評 『日本の未来-アイデアがあればグローバル化だって怖くない-』(アルボムッレ・スマナサーラ、サンガ新書、2014)-初期仏教の立場から「いま」を生きることの重要性を平易に説いた法話

書評 『「気づきの瞑想」を生きる-タイで出家した日本人僧の物語-』(プラ・ユキ・ナラテボー、佼成出版社、2009)-タイの日本人仏教僧の精神のオディッセイと「気づきの瞑想」入門


■「スマナサーラ長老、ケネス・タナカ師、宮崎哲弥氏による特別鼎談」関連

書評 『目覚める宗教-アメリカが出合った仏教 現代化する仏教の今』(ケネス・タナカ、サンガ新書、2012)-「個人のスピリチュアリティ志向」のなかで仏教が普及するアメリカに読みとるべきもの

ケネス・タナカ(Kenneth Tanaka)
1947年、山口県生まれ。武蔵野大学教授。日系二世の両親とともに1958年に渡米。スタンフォード大学卒。米国仏教大学院修士課程修了。東京大学大学院修士課程修了。同大学院博士課程退学。カリフォルニア大学(バークレー校)大学院博士課程修了。哲学博士。国際真宗学会会長。日本仏教心理学会会長。仏教キリスト教学会理事。元北カリフォルニア仏教連合会会長。


書評 『知的唯仏論-マンガから知の最前線まで ブッダの思想を現代に問う-』(宮崎哲弥・呉智英 、サンガ、2012)-内側と外側から「仏教」のあり方を論じる中身の濃い対談

宮崎哲弥(みやざき・てつや)
1962年、福岡県生まれ。評論家。慶應義塾大学文学部社会学科卒業。政治哲学、仏教論、サブカルチャー分析を主軸とした評論活動を行う。



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(2012年7月3日発売の拙著です)







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