チェルノブイリ原発事故とアンドレイ・タルコスフキー監督の『サクリファイス』。
ソ連(現在のウクライナ)のチェルノブイリで原発事故が発生したのは、
いまからちょうど 25年前の 1986年4月26日のことであった。
アンドレイ・タルコスフキー監督の最後の作品『サクリファイス』の撮影が開始されたのは 1985年、完成して
公開されたのは 1986年5月9日である(日本公開は翌年)。
したがって
直接の関係はない。ただあまりもの偶然の符合に、何か暗示するものを感じた人は多かったようなのだ。とくにヨーロッパでは。この映画は、核戦争の恐怖のなかにいきていた時代の人間にとっては、映画が理解できなくても、暗黙のメッセージを感じ取ることができたからなのだ。
大学時代、西洋中世史を専攻したわたしは、その当時はまだヨーロッパを実際に歩いたことはなかったが、チェルノブイリ原発事故の報道を知ったとき、そうでなくても衰退過程にあるヨーロッパは、これで滅亡するのではないかとさえ思ったくらいである。
今回の福島第一原発にヨーロッパ人、とくにドイツ人が過剰なまでに反応するのは理由がないわけではないのだ。
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タルコスフスキー監督の『サクリファイス』は難解な作品
タルコスフスキー監督の『サクリファイス』は、非常に難解でわかりにくい映画だった。いまでも、正直なところよくわからないと告白しておこう。
映画評論家でもないわたしが、わかったようなことをここに書き付けたとしても意味はない。正直いって好みの映画ではない。1986年に一度だけ見たきりで、その後ビデオでもDVDでも見てはいない。
芸術映画をみるのが趣味(?)だった私は、もちろんタルコフスキ監督のこの作品もリアルタイムのロードショーで見ている。といってもリアルタイムでみたタルコスフスキー作品は、『ノスタルジア』と『サクリファイス』の2本だけだが。寡作の監督だったからだ。
アンドレイ・タルコススキー(1932年~1986年)はソ連生まれの映画監督、のちに亡命して、
イタリアで『ノスタルジア』、
スウェーデンで『サクリファイス』を完成後に亡命先のパリで亡くなった。
『ノスタルジア』(1983年)、『ストーカー』(1979年)、『鏡』(1975年)、『惑星ソラリス』(1972年)、『アンドレイ・ルブリョフ』(1967年)、『僕の村は戦場だった』(1962年)、『ローラーとバイオリン』(1960年)。監督した映画作品はきわめて少ない。
三田線の千石駅の近くにあった、いまはなき「三百人劇場」で、「ロシア・ソビエト映画の全貌」だったと思うが、大半の作品をみた。
『惑星ソラリス』は好きで何でも繰り返し見ているし、ポーランドのSF作家スニスワフ・レムの原作も読んでいるので、まったくわからない映画ではない。『惑星ソラリス』以降は、いずれも難解な作品だが、映像詩として、アタマで考えて見るのではなく、素直に感じるのがいちばんいいのかもしれない。
抑圧体制下のソ連で撮影した映画も、一貫して「絶対者」つまり「神」について語ったものだが、共産主義統治下ではストレートな映画表現ができなかったために、かなりわかりにくいのも仕方がない。
ついにソ連崩壊を見ることなく、異国の地で没したのは無念なことであったろう。まさに自ら監督した作品『ノスタルジア』をなぞるかのような生涯となった。だが、ソ連崩壊後の宗教事情をみたら、いったいどう思うのだろうか?
1980年代には、パンフレットを買う習慣のあった私は、
『サクリファイス』のパンフレットも購入して、捨てずにもっている。今回、ここから何枚かスキャンして掲載しておこう。1990年から米国留学して以降、米国の映画館ではパンフレットを売る習慣がないことを知ってからは、パンフレッットは滅多に買わなくなってしまった。パンフレット発行は、日本の映画文化の貴重な財産といえよう。
『サクリファイス』の簡単なあらすじについては、
wikipedia の記述を参考にしてもらうといいと思う。もっとも、あらすじがわかったからといって、この作品はアタマで考える映画ではない。コトバを介さない映像でもって、感じなければならない映画なのだ。
「サクリファイス」(sacrifice)は、「犠牲」という意味とともに、神への「捧げ物」という意味がある。キリスト教の文脈で考えるべきなのである。キリスト教の信仰をもたない人間には、感覚的にわからないのもムリはないのではないかと思う。
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奇しくもチェルノブイリ原発事故の直後に公開されることになった『サクリファイス』
1986年という年は、さきにも書いたようにソ連(現在のウクライナ)のチェルノブイリ原発事故が起こった年である。
時代はまだ「米ソ連戦時代」のまっただなか、いつ核戦争がおこってもおかしくない、そういう時代の空気のなかで生きていた。いまとなってはすでに過去の話だが、
核戦争の恐怖は現在よりもはるかにアクチュアルなものがあったのだ。
表紙には一本の弱々しい木が一本(・・下の写真を参照)。映画では、
核戦争が勃発したまさにその日に、「日本の木」を植えたことになっている。未来に向けて花が咲くことになっている枯れ木。これは
人類の未来への投企なのである。
三陸の大津波の被災地でも、松の木が一本だけ残ったという、そういう映像をTVで見た。
奇しくも、同じ光景だ。デジャヴュー(既視感)を感じたのは、この『サクリファイス』という映画のことを思い出したからでもある。
『サクリファイス』そのものは難解で好みの作品ではないとはいえ、
なによりも記憶に残っているのは、インタビューでタルコススキーが語っているコトバである。
原発事故の起こった土地の名前であるチェルノブイリとは、ウクライナ語では「にがよもぎ」という意味だそうだ。しかも、
その「ニガヨモギ」は『黙示録』に出てくるのだと。
パンフレットに収録されている、「Interview タルコスフキー自作を語る」から、該当箇所を引用しておこう。このインタビューは 1986になされたものである。
-(インタビュアー) あなたは黙示録に熱中しているようですが、その到来が速まることを望んでいるからですか?
タルコフスキー 黙示録というのは、やがて起こるであろうことではありません。それはとうの昔に始まっことなのです。問題にできるのはその終わりだけなのです。私はただわれわれがどこまできたか見ているだけです・・・黙示録というのは、「終わりの書物」ですから、悲しみにみちた思想はそこからおのずとやってくるのです。チェルノブイリ(これはウクライナ語でにがよもぎのことです)のタイプは、「にがよもぎの星」 (訳注--『黙示録』のなかで、終末に空から降ってくるとされる破壊の星のこと。(ドストエフスキーの)『白痴』で言及されている)と関係があるのです。(鴻 英良訳)
チェルノブイリは、ウクライナ語で『ヨハネ黙示録』にでてくる「にがよもぎの星」を連想させるという驚愕の事実!
偶然にしては、あまりにも奇妙なまでの符合である。
チェルノブイリ原発事故は、たんに「レベル7」の大事故であっただけでなく、「死の灰」という「黙示録の四騎士」が解き放たれたのである。そういう
「黙示録」のイメージもまたまき散らされたのであった。まさに
終末意識そのものに、キリスト教世界が覆われていたのである。
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『ヨハネ黙示録』はキリスト教の「終末論」を代表する、新約聖書の最後に置かれた特異な一書
『ヨハネ黙示録』(The Revelation of St. John the Divine)の該当箇所を、日本聖書協会の「文語訳聖書」と英国の「欽定訳聖書」(King James Version)から引用しておこう。ギリシア語の原文は省略する。
第八章 10 第三の御使ラッパを吹きしに、燈火(ともしび)のごとく燃ゆる大(おほい)なる星天より隕ちきたり、川の三分の一と水の源泉(みなもと)の上におちたり。 11 この星の名は苦艾(にがよもぎ)といふ、水の三分の一は苦艾となり、水の苦くなりしに因りて多くの人死にたり。
8:10 And the third angel sounded, and there fell a great star from heaven, burning as it were a lamp, and it fell upon the third part of the rivers, and upon the fountains of waters;
8:11 And the name of the star is called Wormwood: and the third part of the waters became wormwood; and many men died of the waters, because they were made bitter.
*太字ゴチックは引用者(=私)による
「にがよもぎの星」が墜ちてきて、水が苦くなった、そして多くの人が死んだ・・・。あまりにも直接的なイメージを喚起するではないか!
『黙示録』(Revelation)は、新約聖書のいちばん最後の最後におかれたもの。その他の文書とは、かなり性格の異なるものである。Revelation とは、隠れているものを明らかにするという動詞 reveal の名詞形だ。
日本でも
「アポカリプス」の名で知られているのは、フランシス・コッポラ監督のベトナム戦争もの
『地獄の黙示録』(Apocalyps Now)のおかげだろう。ギリシア語の元タイトルは Aπōκάλυψις Ιωάννης、ラテン語: Apocalypsis Johannis、直訳すれば「ヨハネのアポカリプス」である。
「黙示録」の作者のヨハネは、「洗礼者ヨハネ」(John the Baptist)とは区別され、「使徒ヨハネ」(John the Apostle)と呼ばれている。エーゲ海の小島パトモス島に籠もって、黙示録を書き上げたといわれる。
『黙示録』の全篇には、虐げられたもののルサンチマン、呪詛と復讐にみちみちた文章。異様なまでのレトリックが充ち満ちている。キリスト教をベースにした西洋文明の根底に存在する「終末論」を代表する文書である。
何もいまここで、福島第一原発の事故が「黙示録」を想起すると言いたいわけではない。キリスト教の伝統のない日本では、
『エヴァンゲリオン』をはじめとする、サブカルチャーの世界では「黙示録」が繰り返し再生産されて語られているにしても、欧米のキリスト教世界とは違って、ほんとうの意味でのリアリティはない。
以前このブログにも書いたが、
リーマンショック後の強欲資本家たちの狼狽ぶりに見られた「終末論」とは様相を異にする。
だが、
原発が立地している土地に住んでいたがゆえに、放射能汚染によって住み慣れた故郷を強制的に追われ、ディアスポーラ(離散)を強いられている福島県人の怒りが解き放たれたことも確かである。
ある意味では
「封印が解かれた」という「黙示録」の比喩的表現で語ることも不当とは言えまい。この事件が、すくなくとも離散を強いられた福島県人のあいだで半永久的に語り伝えられであろうことは間違いない。
福島県人は文字通り、原発事故という人災の「サクリファイス」(犠牲)となってしまったのか・・・?
だが、日本史を振り返れば「末法思想」も何度も現れているが、今回の原発事故が「末法の世」や「終末」にあたるとはわたしは思わない。
なぜかというと、
むしろ、1995年のほうがその感が強かったのではないかと思うからだ。言うまでもなく、阪神大震災とオウムのサリン事件が続いた年である。
永井荷風のコトバを借りれば、「近年世間一般奢侈(しゃし)驕慢(きょうまん)、貪欲飽くことを知らざりし有様」(『断腸亭日常』)だったバブルが崩壊してから 5年、すべてが加速度をつけて崩壊しつつあるという感は 1995年当時のほうが強かった。バブル期とのコントラストがあまりにも強かったこともある。
わたしは、
今回の大震災と大津波、そして原発事故は、日本人の「新生」にむけての「覚醒」を促すキッカケとなったと、後世からは位置づけられることになると考えている。
これまで何度も大きな危機をくぐり抜けてきた、復元力のある日本人のことである。
日本人の危機からの復元力は、すでに文字通り DNA に確実に刻まれた「民族の集合記憶」というべきだろう。
これがわたしの時代認識だ。
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「使徒ヨハネ」が隠棲していたパトモス島にいってみたことがある
「使徒ヨハネ」が隠棲して「黙示録」を執筆していたという、エーゲ海のパトモス島にいってみたことがある。チェルノブイリ原発事故から 6年たった 1992年のことだ。
パトモス島は、とくに何の変哲もないが、農業と牧畜が主要産業の、急坂の続く、静かな小島である。
ギリシアからトルコにかけて、エーゲ海の島巡りをしていたわたしは、
日本人にはあまりなじみはないが、「使徒ヨハネ」と「黙示録」の連想をともなうパトモス島に興味がひかれたのだった。
たしか、ロドス騎士団で日本人にもおなじみのロドス島からフェリーに乗って渡ったのだろうか。ちょっと記憶が確かではないのだが。
パトモス島には一泊した。宿泊先では、隣の部屋に長期滞在していたドイツ人女性と、テラスでいろいろ会話したことを思い出した。
その際の会話では、「ヨハネの黙示録」の話は、なぜかいっさい出なかった。
ドイツ人にとってのギリシアの島々は、日本人にとっての東南アジアの島々のようなものだ。つまりアイランド・リゾートということである。
そのことがよくわかったのが、パトモス島を含めたエーゲ海の島々での滞在の収穫であった。
<関連サイト>
チェルノブイリ事故25年を前に集会
<ブログ内関連記事>
『ソビエト帝国の崩壊』の登場から30年、1991年のソ連崩壊から20年目の本日、この場を借りて今年逝去された小室直樹氏の死をあらためて悼む
スリーマイル島「原発事故」から 32年のきょう(2011年3月28日)、『原子炉時限爆弾-大地震におびえる日本列島-』(広瀬隆、ダイヤモンド社、2010) を読む
・・1979年の米国でスリーマイル島で原発事故があった年はまた、ソ連によるアフガン侵攻が起こった年だ。そして、1986年のチェルノブイリ原発事故が、ソ連崩壊につながっていく
書評 『聖書の日本語-翻訳の歴史-』(鈴木範久、岩波書店、2006)
・・日本では明治時代以降は主流のプロテスタント聖書を中心に
『新世紀 エヴァンゲリオン Neon Genesis Evangelion』を14年目にして、はじめて26話すべて通しで視聴した
・・「核戦争後」の世界における、さらなる「終末論」的闘争の世界。サブカルチャーの世界に充満する疑似キリスト教的「終末論」
「宗教と経済の関係」についての入門書でもある 『金融恐慌とユダヤ・キリスト教』(島田裕巳、文春新書、2009) を読む
・・一神教世界における「終末論」について。キリスト教、ユダヤ教、イスラームのそれぞれについて解説。
書評 『ギリシャ危機の真実-ルポ「破綻」国家を行く-』(藤原章生、毎日新聞社、2010)
・・「ユーロ危機」の震源地ギリシアは、欧州というよりもアジア・アフリカの発展途上国に近い
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