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2010年1月31日日曜日

アッシジのフランチェスコ 総目次 (1)~(5)


    
 私は、キリスト教徒でも、カトリックでもありませんが、アッシジのフランチェスコのような生き方は、決して真似ることはできないものの、たいへん素晴らしいものだと思ってきました。

 そんな私の感想、映画や本を中心に5回にわたってつづってみました。

 リリアーナ・カヴァーニ監督による『フランチェスコ(ノーカット・イタリア語版)』(主演:ミッキー・ローク、ヘレナ・ボナム=カーター)の日本版が、ようやく2010年1月に発売されたのを機会に、「総目次」を作成しました。

 さまざまな人によって、さまざまに語られるフランチェスコ、お楽しみください。


<アッシジのフランチェスコ 総目次>

アッシジのフランチェスコ (1) フランコ・ゼッフィレッリによる  
アッシジのフランチェスコ (2) Intermesso(間奏曲):「太陽の歌」   
アッシジのフランチェスコ (3) リリアーナ・カヴァーニによる  
アッシジのフランチェスコ (4) マザーテレサとインド 
アッシジのフランチェスコ (5) フランチェスコとミラレパ 


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2010年1月30日土曜日

書評 『折口信夫 独身漂流』(持田叙子、人文書院、1999)-非常に新鮮で鮮やかな切り口による折口信夫像




     
女嫌いで有名だった<折口信夫=釋迢空>に鮮烈に惹かれ、その作品に惚れ込み読み込んできた、1999年の出版当時39歳の女性研究者が書いた、非常に新鮮で鮮やかな切り口で折口信夫像

 著者の高校二年生のときの出会いの一冊とは、古書店の店頭で見た漆黒の装丁のハードカバー、折口信夫の小説『死者の書』だっというのだから、それは運命的なものだったといえよう。

 折口信夫のような複雑な人物の全体像を描くためには、さまざまな切り口から迫っていくしかない。「群盲象をなでる」という格言に陥る危険をもちながらも、キラキラ光る断片から迫っていくしか方法はないのである。

 その点、著者は1995年から2000年まで、新編『折口信夫全集』(中央公論新社)に編集に携わっていたという強みがある。テクストのすべてを読み込んだ上で浮かび上がってきた断片の数々。拾い上げた断片のいくつかは、目次に表現されいる。

 目次を紹介しておこう。

  餓鬼の思想-大食家・正岡子規と折口信夫
  <伝承>をめぐって
  誕生の系譜・母胎を経ない誕生
  折口信夫の内なる<父>
  奴隷論-創造の原風景
  釋迢空『安乗帖』と田山花袋『南船北馬』
  汗する少年-「口ぶえ」論-
  碩学を描く-折口信夫における懐疑の思想-
  結婚の文化/独身の文化
  折口信夫における水への郷愁

 すべてが面白いといってしまうと、何もいっていないことにつながりかねないが、硬軟取り混ぜた切り口は、ある程度、濃厚な、肉体をもった存在であったの折口信夫象の再現に成功しているといえよう。

 私はとくに最終章の「折口信夫における水への郷愁」で描かれたイメージが、非常に強く記憶に残っている。

 古代日本人が、海の彼方から漂う舟でやってきたという事実にまつわる集団記憶。著者の表現を借りれば、「波に揺られ、行方もさだまらない長い航海の旅の間に培われたであろう、日本人の不安のよるべない存在感覚」(P.212)。歴史以前の集団的無意識の領域にかつわるものであるといってよい。板戸一枚下は地獄、という存在不安。

 著者はあとがきで非常に面白いことをいっている。

 女性読者に限っていえば、おそらくその好みは柳田國男と折口信夫のいずれかに、きれいに二極分化するのではないだろうか。柳田も折口も両方ともに好き!という人は希有の存在に違いにない。
 ・・(中略)・・
 ともあれ、結婚し子をなす人生に疲れ、行き暮れる世代にとって、柳田はあたたかい擁護者であり、理論的支柱でもある。それに比べ、しゃがれ声でぼぞぼそと同性愛を語り、<まれびと>の孤独を語る折口信夫の文章は、彼女たちにとっては「エキセントリック」「気もちがわるい」「わからない」ということになるのかもしれない。
 しかし逆に、柳田の語り口に感動する母たちの娘である私の世代はもう、柳田の言葉にそう素直に感応することはできない。それどころか、柳田國男の温順に対すると、どうにも居心地のわるさと面映ゆさを感じざるを得ない。私たちは、優しいおだやかな女性として、語りかけられたくないないのだ。<家>に定住する根源的な存在としてなど、評価されたくないのだ。
 ・・(中略)・・
 折口信夫の声は、人をそのあるべき位置に定位する力強い確信に満ちた声とは異なるものである。その声はむしろ人を、固着するそれぞれの位置から解き放ち、浮遊させる。根を離れ、たゆたい、ゆらぐことにより、私たちはひどく醜怪な存在にもなり、この世ならぬ貴やかな存在にもなり得る。聖女ににもなり、少年にもなり得る。
 おそらく現実には、折口信夫読者の大多数は、定住を旨とする堅実な人生を送るのだろう。しかしその胸底には、そのような人生を相対化し、越えようとする不逞で豊穣な想像力が育まれ、それが時に私たちを大きく自由にし、身動き取れぬ崖っぷちから救い、飛躍させるであろう。(P.241-243)


 1999年の本書出版当時、39歳の著者による発言である。著者自身は子供もいるようだが、であるからこそ、上記のような文章がつづられるのだと読む。

 折口信夫を読む、この関わり方に私は共感をもつ。

 著者は本書執筆後、研究テーマを永井荷風に移行させてしまったようで、折口関連の単行本は執筆していないのは残念だ。いうべきことは、いいつくしてしまったのだろうか。





<ブログ内関連記事>

書評 『折口信夫―-いきどほる心- (再発見 日本の哲学)』(木村純二、講談社、2008)
・・「折口信夫は敗戦後、弟子の岡野弘彦に、憂い顔でこう洩らしていたという。「日本人が自分たちの負けた理由を、ただ物資の豊かさと、科学の進歩において劣っていたのだというだけで、もっと深い本質的な反省を持たないなら、五十年後の日本はきわめて危ない状態になってしまうよ」(P.263 注23)。 日本の神は敗れたもうた、という深い反省をともなう認識を抱いていた折口信夫の予言が、まさに的中していることは、あえていうまでもない」

書評 『折口信夫 霊性の思索者』(林浩平、平凡社新書、2009)
・・「私は大学時代から、中公文庫版で『折口信夫全集』を読み始めた。日本についてちっとも知らないのではないかという反省から、高校3年生の夏から読み始めた柳田國男とは肌合いのまったく異なる、この国学者はきわめて謎めいた、不思議な魅力に充ち満ちた存在であり続けてきた」


「神やぶれたまふ」-日米戦争の本質は「宗教戦争」でもあったとする敗戦後の折口信夫の深い反省を考えてみる
・・逆説的であるが、折口信夫のコトバのチカラそのものは激しい

「役人の一人や二人は死ぬ覚悟があるのか・・!?」(折口信夫)                       

(2013年12月19日 追加)


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グルマン(食いしん坊)で、「料理する男」であった折口信夫


 折口信夫 独身漂流』(持田叙子、人文書院、1999)の第一章は「餓鬼の思想-大食家・正岡子規と折口信夫」と題されている。著者の文章をそのまま引用させていただく。


二人とも生涯独身の借家住まい。身辺のあれこれについて、驚くべき無頓着と淡泊を示す一方、食生活への執着が異様に激しいこと。そしてその執着を隠蔽しようとしなかったこと。実際、両者とも、それぞれが自分が生きた時代の、”知識人” ”学者”としては珍しく、肉・臓物類まで歓び貪る己の口腹の貪婪・希有な大食をその文章において標榜してはばかることがない。さらに問題は、彼らにおけるそのような執着が、あまりにも脂ぎり、あまりにも情けないほどに子供めき、およそ美食・大食の伝統の志向する”洗練された感覚” “卓抜した生活思想”という主題とは無縁なことである。(P.6)


 折口信夫は、最近の表現を使えば、文字通り「肉食系」の人であったようだ。「食い倒れの町」大阪出身の人である。

 この第一章には、アララギ派の同人で、『野菊の墓』の作者・伊藤左千夫が自ら庖丁を握ってウサギを屠り、料理する姿も引用されており、意外な感を抱くものである。

 歌人・釋迢空として、自らを、むさぼり食う”餓鬼”(ガキ)になぞらえた歌を作っている。


前(サキ)の世の 我が名は、
人に、な言ひそよ。
藤澤寺の餓鬼阿弥(ガキアミ)は、
我ぞ


神奈川県の藤沢にある時宗(一遍宗)の寺、藤沢の遊行寺(ゆぎょうじ)の餓鬼阿弥(ガキアミ)のことを語った歌だ。

 説教節の主人公・小栗判官(をぐりはんがん)は舅に毒殺されて地獄に堕ちるが、遊行寺の坊さんに救済されて、醜い餓鬼の姿のまま生き返る。

 手押し車に乗せられ、妻である照手姫(てるてひめ)がさまざまな人たちの助けをかりなが熊野まで連れて行き、熊野の湯で湯治してもとの小栗に甦った、という伝説にもとづく。

 この話は、『説教 小栗判官』(近藤ようこ、ちくま文庫、2003)というマンガに描き尽くされている。私が好きな物語である。折口信夫はこの物語を「餓鬼阿弥蘇生譚」とよんでいる。

 大学一年生のとき、フランス語会話の授業で習ったのは、グルメとグルマンとは違う!ということだ。グルメ(gourmet)は美食家グルマン(gourmands)は食いしん坊。フランスでは、グルメとよばれてストレートによろこぶ人はあまりいないようだ。

 日本人はやたら何かと「グルメ」と口にするが、フランス語のニュアンスでは、必ずしもほめコトバではないらしい。スノッブな響きがあるためか。

 この意味でいえば、正岡子規も折口信夫もグルマンであったといえるだろう。

 大食漢であり、「食いしん坊ばんざい!」である。私もグルメではなく、グルマンである。何よりも旨いものを食って、旨い酒を飲むのがすきな、関西人の DNA を100%受け継いでいる。

 各種の回想録によれば、折口信夫はグルマン(食いしん坊)であり、酒は日本酒は飲まずビールのみだったという。

 日本の「古代」を研究する学者がビールしか飲まなかったというのも面白い。コメつくりが弥生人によっってもたらされる以前、縄文人は「日本酒」は知らなかったわけだが、それとは関係はないだろう。趣味嗜好の問題に過ぎないと思われる。

 また、折口信夫は、自ら料理する男、でもあった。


●集合写真のキャプションより

大正10年信夫宅で。前列左より金田一京助、ニコライ・ネフスキー、柳田國男、後列左より信夫・・(中略)・・この時か、20人分位の天麩羅を信夫が一人で揚げてもてなし柳田はこんなに料理を熱心にする人の学問は果たして大成するのかと思ったという
(出典:『新潮日本文学アルバム26 折口信夫』(新潮社、1985) P.40 太字は引用者による)

●わがまま料理

折口信夫は料理をつくるのが好きだし、上手だった。ところが夜中に急に「しるこをつくろう」などといい出し、弟子たちに用意させる。それができあがるころには夜もしらじらと明けかかるのだった。

(出典:『世界史こぼれ話』(三浦一郎、辻まこと=イラスト、角川文庫、1976)


 料理は、女が作るものと頭から決めてかかっていた柳田國男には理解不能なことだったのだろう。「あなた作る人、私食べるひと」という固定観念である。

 料理作りほど身近にあってクリエイティブな行為はない、と実際に料理作りをする私は思うのだが・・。料理作りとは、素材を使った加工という側面だけではなく、情報編集そのものであり、創造性そのものにかかわる行為である。

 「料理をつくる男」としての折口信夫、私が編集者だったら、誰かに書いてもらいたいテーマなんだけどねー。檀一雄の『檀流クッキング』は有名なのだが。




PS 読みやすくするために改行を増やし、写真を大判にした(2014年3月12日 記す)




<ブログ内関連記事>

「料理する男」たち

『檀流クッキング』(檀一雄、中公文庫、1975 単行本初版 1970 現在は文庫が改版で 2002) もまた明確な思想のある料理本だ

『こんな料理で男はまいる。』(大竹 まこと、角川書店、2001)は、「聡明な男は料理がうまい」の典型だ         
・・「料理する男」はもてる!?

邱永漢のグルメ本は戦後日本の古典である-追悼・邱永漢
・・「投資の神様」は「料理する男」でもあった

書評 『缶詰に愛をこめて』(小泉武夫、朝日新書、2013)-缶詰いっぱいに詰まった缶詰愛
・・発酵学者もまた「料理する男」

『きのう何食べた?』(よしなが ふみ、講談社、2007~)
・・男が男のために料理する

『聡明な女は料理がうまい』(桐島洋子、文春文庫、1990 単行本初版 1976) は、明確な思想をもった実用書だ
・・「女が「女性化」すると料理がヘタになる」という名言

(2014年7月20日 情報追加)


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2010年1月29日金曜日

書評『折口信夫 霊性の思索者』(林浩平、平凡社新書、2009)ー キーワードで読み込む、<学者・折口信夫=歌人・釋迢空>のあらたな全体像




「プネウマ」、「西方浄土」、「霊性」といったキーワードで読み込む、<学者・折口信夫=歌人・釋迢空>のあらたな全体像

 ここ数年、折口信夫(1887-1953)にかんする本が次から次へと出版されており、再び大きく脚光を浴び始めている。そんななかでも本書は出色のものといってよい。  

 本書は体裁は新書本だが、折口信夫の入門者だけでなく、私もその一人であるが、長く読み続けてきた読者の双方を満足させる内容となっている。前者にとっては、非常の中身の濃い充実した内容であり、後者にとっては自分の「読み」をひとつひとつ点検することが可能な内容となっているためだ。  

 作家・富岡多恵子、文芸評論家・安藤英二が切り開いてきた、折口信夫の学問形成期における謎の解明は、<学者・折口信夫=歌人・釋迢空>像を大きく塗り替えようとしている。本書もまたこういった新しい知見を踏まえた最新の成果である。

 目次を紹介しておこう。  

  序 章 折口信夫像の揺れ  
  第1章 折口信夫の「発生」  
  第2章 折口学とは何か  
  第3章 プネウマとともに-息と声の詩学  
  第4章 浄土への欲望と京極派和歌  
  第5章 霊性の思索者

 「プネウマ」、「西方浄土」、「霊性」・・こういったキーワードは決して奇をてらったものではない。私自身が感じていた、ある種の感じをうまくコトバとして表現してくれた、という思いがしている。  

 著者自身、かつては「霊性」(スピリチュアリティ)には懐疑的であったというが、この視点で折口信夫を読み込むことの重要性を認識するにいたったことを述懐している。折口信夫の全体像を表すのに、これほど適切な表現はないのではないだろうか。  

 あとがきに記された、哲学者・坂口恵が著者にもらしたという、「ああ、あのひとはどうも日本人じゃないみたいですね」。このコトバには、折口信夫(=釋迢空)という日本人が、たんなる国文学者や民俗学者、そして歌人の域を超えた思索者として、日本語世界においては屹立した存在であり続けていることを示しているように思われた。  

 折口信夫は、さまざまな「読み」が可能な、まだまだその全体像が読み込まれているとはいえない膨大なテクストである。日本とは何か、日本人とは何かを考える人は、必ず読み込まなければならない、日本語で遺された、きわめて貴重な財産なのである。  

 新書本にはもったいないような思索が、集約されて詰め込まれている。読み捨てにはできない内容豊かな一冊である。


<初出情報>

■bk1投稿「「プネウマ」、「西方浄土」、「霊性」といったキーワードで読み込む、<学者・折口信夫=歌人・釋迢空>のあらたな全体像」投稿掲載(2010年1月7日)





<書評への付記>

 折口信夫(おりくち・しのぶ)の略歴を簡単に記しておこう。Wikipedia では以下のように説明される。

折口信夫 明治20年(1887年)2月11日 - 昭和28年(1953年)9月3日)は、日本の民俗学、国文学、国学の研究者。釋迢空(しゃく・ちょうくう)と号した詩人・歌人でもあった。折口の成し遂げた研究は「折口学」と総称されている。

 折口信夫は、一般には、民俗学者・国文学者とされているが、本人の意識としては「最後の国学者」であったようだ。釋契沖、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤などに連なる系統である。もちろん日本人の宗教についての考察も中心テーマの一つであった。

 折口信夫は、日本語の言語研究から始まった国学を、国文学資料と民俗伝承を付き合わせて「古代」を探求した人である。「国学者」としての認識から、和歌をつくることを何よりも重視していた。学者としての折口信夫と、歌人としての釋迢空は、不可分の一体といって良い。

 学者としては國學院大學教授と慶應義塾大学教授を兼任、慶應の文学部では「芸能史」という講座を立ち上げた。主著は『古代研究 全三巻』、有名な小説『死者の書』。歌人の釋迢空としては『海やまのあひだ』など。アララギ派の斎藤茂吉は終生ライバルであった。


 私は大学時代から、中公文庫版で『折口信夫全集』を読み始めた。日本についてちっとも知らないのではないかという反省から、高校3年生の夏から読み始めた柳田國男とは肌合いのまったく異なる、この国学者はきわめて謎めいた、不思議な魅力に充ち満ちた存在であり続けてきた。文庫版全集はすべてもっているし、関連する本はダンボール一箱分くらい集めて読んできた。


 宗教学者の中沢新一は、NHK・ETVで放送したテキストをもとにした古代から来た未来人』(ちくまプリマーブックス、2008)で、「折口信夫のような奇跡的な学問をなんとかして自分でもつくってみたい。それが私をこれまで突き動かしてきた夢だったような気がします」と序文に書き記している。

 南方熊楠について書かれた大著に比べ、折口信夫について書かれたこの本は非常にコンパクトでうすいものだが、中沢新一がやろうとした学問の方向を簡潔に要約したものともなっている。とくに「第6章 心の未来の設計図」には、折口信夫の神道観が中沢新一流に、「魂-生命-物質」の三位一体として構造化し、図解しているのは興味深い。この説明の当否は留保しておくが。

 中沢新一流のややクセのある折口信夫の紹介ではあるが、「折口信夫入門」として本書とあわせて読むことをすすめたい。          







<ブログ内関連記事>

書評 『折口信夫―-いきどほる心- (再発見 日本の哲学)』(木村純二、講談社、2008)
・・「折口信夫は敗戦後、弟子の岡野弘彦に、憂い顔でこう洩らしていたという。「日本人が自分たちの負けた理由を、ただ物資の豊かさと、科学の進歩において劣っていたのだというだけで、もっと深い本質的な反省を持たないなら、五十年後の日本はきわめて危ない状態になってしまうよ」(P.263 注23)。 日本の神は敗れたもうた、という深い反省をともなう認識を抱いていた折口信夫の予言が、まさに的中していることは、あえていうまでもない」

書評 『折口信夫 独身漂流』(持田叙子、人文書院、1999)
・・「古代日本人が、海の彼方から漂う舟でやってきたという事実にまつわる集団記憶。著者の表現を借りれば、「波に揺られ、行方もさだまらない長い航海の旅の間に培われたであろう、日本人の不安のよるべない存在感覚」(P.212)。歴史以前の集団的無意識の領域にかつわるものであるといってよい。板戸一枚下は地獄、という存在不安」

葛の花 踏みしだかれて 色あたらし。 この山道をゆきし人あり (釋迢空)

「神やぶれたまふ」-日米戦争の本質は「宗教戦争」でもあったとする敗戦後の折口信夫の深い反省を考えてみる
・・逆説的であるが、折口信夫のコトバのチカラそのものは激しい

「役人の一人や二人は死ぬ覚悟があるのか・・!?」(折口信夫)                       

(2013年12月19日 追加)


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書評 『折口信夫-いきどほる心- (再発見 日本の哲学)』(木村純二、講談社、2008)-折口信夫が一生かけて探求した問題の解明




「いきどほり」と融合した「さびしさ」という情念を軸にすえた、折口信夫が一生かけて探求した問題の解明

 学者・折口信夫は、歌人・釋迢空の名において、次のような歌を詠んでいる。

 いきどほる心すべなし。
 手にすゑて、
 蟹のはさみを もぎはなちたり

 自らの生の根底に、「怒り」や「いきどほり」といった情念を抱えていた折口信夫。しかし、激情しての「怒り」は、他者とのあいだで共感を作り出さない限り、世間からは受け入れられない、孤独な怒りに終わってしまう。そこに残るのは一人感じる「さびしさ」という諦念に近い感情である。

 著者は、「いきどほり」と融合した「さびしさ」という情念を軸にすえて、折口信夫が一生かけて探求した問題について解明を試みている。それは、日本の「神」とはいったいどのようなものなのか、という問いである。

 宗教的熱情を根底にもっていた学者が一生かけて探求した問題、これを著者はまず、折口信夫を「新しい国学」を樹立しようとした「国学者」として規定し(第一章 国学者折口信夫)、その上で戦前(・・第二章 『古代研究』における神)および戦後(・・第三章 戦後の折口学)の言説を、子細に検証する作業をつうじて明らかにしていく。

 折口信夫は、明治維新後、廃仏毀釈による神仏分離令によって、宗教ではなく道徳体系にされた神道ではなく、あくまでも「己自身の抱える罪や苦しみからの解放と、死者との交流という二つの側面を十分に納得させてくれる」宗教としての神道を、生涯にわたって探求を続け、思想体系として確立しようと格闘をし続けた。

 折口信夫が明らかにした古代日本の神とは、人間からみた道徳を説く神ではなく、善悪の両面を兼ね備えた、人間の意志とは関係なく、その深い情念のままに振る舞う神である。人々を祝福するだけでなく、愛欲・狡智・残虐といった正と負の両義的なエネルギーに充ち、「一挙にすべてを破壊する事のできる」ような「怒り」や「憎しみ」をもった神であった。

 それは、ある意味で、同じく民族宗教であるユダヤ教の一神教の神に限りなく近い印象すら与える「超越神」である。折口信夫のいう「既存者」という表現は、「ありてあるもの」という旧約聖書の表現さえ想起させる。

 最後の「第4章 罪、恋、そして死」において著者は、学者・折口信夫の実人生の軌跡をたどり、歌人・釋迢空として作った歌に、一人の生きた思想家の無意識の心性の深淵まで、ともに寄り添いながら下降し、思想が発生する根源を見つめようとする。  

 出生の秘密に苦しみ、悩み、罪の意識を抱いて、若き日に何度も自殺未遂をした男の、罪や苦しみからの解放。そして、若き日に最愛の人を喪い、弟子であり養子でもあった一人息子を硫黄島の玉砕戦で喪った男の、死者たちとの交流・・・

 国学者としての折口信夫、浄土真宗の法名でもある歌人・釋迢空、この二つの人格が交差し乖離する、ねじれた関係を凝視する著者は、思索の糸を一本一本とより分け、丹念に検証を加えてゆく。著者の論述の進め方は、詰め将棋のような執拗さというか、あるいは神経の一本一本もゆるがせにせず、慎重に手術を進めてゆく外科医の手さばきを想起させる。

 韜晦(とうかい)に充ち満ちた表現をする折口信夫その人の思考をときほぐすためのアプローチは、鮮やかというよりも、粘着質なものといってもいいだろう。あるいは折口信夫が愛した探偵小説(=推理小説)のような、息の詰まるような執拗な追跡といってもいいだろうか。

 折口信夫は敗戦後、弟子の岡野弘彦に、憂い顔でこう洩らしていたという。「日本人が自分たちの負けた理由を、ただ物資の豊かさと、科学の進歩において劣っていたのだというだけで、もっと深い本質的な反省を持たないなら、五十年後の日本はきわめて危ない状態になってしまうよ」(P.263 注23)。

 日本の神は敗れたもうた、という深い反省をともなう認識を抱いていた折口信夫の予言が、まさに的中していることは、あえていうまでもない。

 著者は、折口信夫がついにその生前には到達し得なかった、宗教としてみた日本の神とは何かという残された問題を、問題を問題として認識することの重要性を指摘している。この問題は、現代に生きるわれわれ自身が考え続けなければならない問題である。

 「近代の日本社会が抱える矛楯をそのままに体現していた」(P.253)折口信夫という人間存在その思索と生の軌跡をたどる意味がここにあるといってよいだろう。

 現在もなお続く、この国の精神的な漂流状態がいったい何に起因するのか、これについて深く考えるための道標(みちしるべ)として。
         


<初出情報>

■bk1書評「「いきどほり」と融合した「さびしさ」という情念を軸にすえた、折口信夫が一生かけて探求した問題の解明」投稿掲載(2010年1月20日)





<書評への付記> 

 「国学者」としての認識から、和歌をつくることを何よりも重視していた。学者としての折口信夫と、歌人としての釋迢空は、不可分の一体といって良い。

 さて、「いきどほる心すべなし。・・」の歌は、私が初めて知ったのは大学生のときだが、非常に気に入ってそらんじていたものだ。この歌を皮切りに論を進めたこの著者の姿勢が何よりも気に入った。

 この歌は、有名な「葛の花・・」で始まる14首の連作「島山」に含まれる。一般に女嫌いであったといわれている、折口信夫=釋迢空の唯一の女弟子といわれている歌人・穂積生萩(ほづみ・なまはぎ)は、宗教学者・山折哲雄との共著執深くあれ-折口信夫のエロス-』(小学館、1997)で次のようにいっている(P.154)

 迢空の作品は、一首ずつ独立はしているが、一首だけ覗き込んではいけないようである。すべての連作は、序破急、又は起承転結に構成されている。
 とにかく狙って書く人だし、自分の狙いの的を外したくない一心で、推敲もし、編集も綿密に行う人だから、一連を一幕物の演劇と思って読む方がいい。

 では、連作「島山」を全首掲載しておく。沖縄での民俗調査の帰途、調査のため訪れた壱岐(いき)での連作らしい。壱岐は九州・福岡の、玄界灘に浮かぶ島である。

『海やまのあひだ』 釋迢空
 大正十三年 -五十二首- 島 山


葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり

谷々に、家居ちりぼひ ひそけさよ。山の木の間に息づく。われは

山岸に、昼を 地(ヂ)虫の鳴き満ちて、このしづけさに 身はつかれたり

山の際(マ)の空ひた曇る さびしさよ。四方の木(コ)むらは 音たえにけり

この島に、われを見知れる人はあらず。やすしと思ふあゆみの さびしさ

わがあとに 歩みゆるべずつゞき来る子にもの言へば、恥ぢてこたへず

ひとりある心ゆるびに、島山のさやけきに向きて、息つきにけり

ゆき行きて、ひそけさあまる山路かな。ひとろごゝろは もの言ひにけり

もの言はぬ日かさなれり。稀に言ふことばつたなく 足らふ心

いきどほる心すべなし。手にすゑて、蟹のはさみを もぎはなちたり

澤の道に、こゝだ逃げ散る蟹のむれ 踏みつぶしつゝ、心むなしもよ

いまだ わが ものに寂しむさがやまず。沖の小島にひとり遊びて

蜑(あま)の家 隣りすくなみあひみつみ、湯をたてにけり。
 荒(アラ)磯のうへに

雛(ひな))の子の ひろき屋庭に出でゐるが、
 夕焼けどきを過ぎて さびしも

(*カタカナは釋迢空自身による読み。ひらかなは私が補足したもの)


 ちなみに「葛の花・・」の一首は、一般におもわれているような内容ではなく、匂い立つような、かなりセンシュアルでセクシュアルな意味を秘めた歌のようである。

 折口信夫の「いきどほり」は、岡本太郎の「怒り」にも似て、きわめてストレートに表現されたものである。ともに、日本的「世間」への違和感の強い人だったように思われる。

 阿部謹也は、「世間」から距離をとった人として、とくに金子光晴永井荷風が好みのようだが、私は永井荷風は当然のことながら、折口信夫岡本太郎の二人がとくに好みだ。
 この二人には共通性もある。

 恋人で秘書の岡本(旧姓 平野)敏子を養女にした岡本太郎。
 恋人で弟子の折口(旧姓 藤井)春洋を養子にした折口信夫。

 異性愛と同性愛という違いがあるものの、その性をめぐる関係は、日本の一般常識、すなわち「世間」から大きく逸脱していることは、否定できない事実である。宗教学者の山折哲雄風にいえば、「脱血縁の思想」といえようか。ともに自らの血を引く子供は残さなかった、あるいは遺すことを拒否したのかもしれない。

 岡本太郎が日本の学校制度に適応できず、フランスで学業を終了し長く滞在したことは、日本を他者の眼で見る姿勢を植え付けたことはいうまでもない。

 折口信夫は外遊経験はないが、自殺未遂を3度も繰り返し、学校も一度落第、大学も家業である医学を選ばず、大阪から逃げるようにして東京の國學院に学んでいる。哲学者・坂口恵が『折口信夫 霊性の思索者』9)の著者・林浩平にもらしたという、「ああ、あのひとはどうも日本人じゃないみたいですね」という表現(・・この件については「書評『折口信夫 霊性の思索者』(林浩平、平凡社新書、2009)」参照)は、折口信夫が「世間」から距離をとって「古代」に生きてきたことの証左となろう。


 「近代の日本社会が抱える矛楯をそのままに体現していた」(P.253)折口信夫という人間存在、という表現が何を意味しているかというと、神仏分離と廃仏毀釈によって、日本人の自然な宗教感情をズタズタに引き裂いてしまった、明治維新政府の"合理的な"宗教政策のことを指している。

 明治政府の設計者は、西洋近代の精神的支柱となっていたキリスト教の代替物として神道(しんとう)を据えることとし、これを近代天皇制とセットになった国家神道という形に作り替え、国家神道は宗教ではない(!)としたのである。この事情については、安丸良夫の名著神々の明治維新-神仏分離と廃仏毀釈-』(安丸良夫、岩波新書、1979)を必読文献としてあげておく。

 国家神道となった神道からは、一般民衆の宗教感情を拾い上げることは不可能となり、天理教や大本教のような新宗教である「教派神道」にゆだねられることとなった。穂積生萩の回想によれば、折口信夫は大本教には深い共感を抱いていたようだ。

 折口信夫には、キリスト教徒の文芸評論家・富岡幸一郎をはじめとする、さまざまな人たちに引用される有名な述懐がある。

まさか、終戰のみじめな事實が、日々刻々に近寄つてゐようとは考へもつきませんでした。その或日、ふつと或啓示が胸に浮かんで來るやうな氣持ちがして、愕然と致しました。それはこんな話を聞いたのです。あめりかの青年達がひよつとすると、あのえるされむを囘復する爲に出來るだけの努力を費やした、十字軍における彼らの祖先の情熱をもつて、この戰爭に努力してゐるのではなからうか、と。もしさうだつたら、われわれは、この戰爭に勝ち目があるだらうかといふ、静かな反省が起こつても來ました。

(出典:『折口信夫全集 第二十巻』(中公文庫版)所収「神道の新しい方向」昭和24年 斜体部分は原文では傍線)

 この話は戦争末期の昭和19年(1944年)の秋の一日、プロテスタント教会牧師の養成を目的とする東京神学大学教授となった、日本基督教団の比屋根安定(ひやごん・やすさだ)が折口信夫に頼み込んで実現した、牧師たち向けの「古事記」講義の席で耳にしたらしい。この件は、『神道学者・折口信夫とキリスト教』(濱田辰雄、聖学院大学出版会、1995)の第二部「折口信夫の戦後神道論とキリスト教」(P.106)を参照。

 「日本の神、敗れたもう」という認識をもった折口信夫の敗戦後の課題とは、神道を人間の合理的な解釈や人間からみた道徳から解放し、再び宗教としての意味づけを行うことであった。しかし、神道界では主流となることはなかったようである。

 折口信夫のいう、「日本人が自分たちの負けた理由を、ただ物資の豊かさと、科学の進歩において劣っていたのだというだけで、もっと深い本質的な反省を持たないなら、五十年後の日本はきわめて危ない状態になってしまうよ」(P.263 注23)は、残念ながら実現してしまった。天皇と神道にかんする考えは異にしながらも、三島由紀夫の予言と重なるものも感じる。

 しかし、最近のスピリチュアル・ブームは、神道の宗教的側面を復権するための兆しともいえるかもしれない。もちろんTV番組でのブームとは距離を置く必要はあるとは思うが、パワースポットという英語由来の表現ではあるにしても、とくに若い女性のあいだで、神社が再び脚光を浴びるようになってきたことは、たいへん喜ばしいことである。

 神社で、「二礼二拍一礼」するとき、神さまの名前はわからなくても、何かしら荘厳な、厳粛な気分になるのは、日本人の自然な宗教感情である。そこに目に見えない超越的な存在を感じるのは、限りなく一神教に近い、といってもいいすぎではないと思われる。あるいはスピノザ的な汎神論といってもいいかもしれない。遍在する神、エーテルのように充満する神。八百万の神という表現があるが、これは「ひとつの神」を分節化された表現として捉えるべきではないか。一般的にも、私自身も、神さまの名前などまったく意識せずに、神社で礼拝している。ただ単に「神さま」として。

 西行法師の有名な歌、「何ごとのおはしますかはしらねども かたじけなさに涙こぼるる」は、まさにその超越的存在について語っているのである。


 折口信夫は、大学時代から読んできた。いまあらためて再び新しい視点で読み込むことの必要を感じている。





            
<ブログ内関連記事>

書評 『折口信夫 独身漂流』(持田叙子、人文書院、1999)
・・「古代日本人が、海の彼方から漂う舟でやってきたという事実にまつわる集団記憶。著者の表現を借りれば、「波に揺られ、行方もさだまらない長い航海の旅の間に培われたであろう、日本人の不安のよるべない存在感覚」(P.212)。歴史以前の集団的無意識の領域にかつわるものであるといってよい。板戸一枚下は地獄、という存在不安」

書評 『折口信夫 霊性の思索者』(林浩平、平凡社新書、2009)
・・「私は大学時代から、中公文庫版で『折口信夫全集』を読み始めた。日本についてちっとも知らないのではないかという反省から、高校3年生の夏から読み始めた柳田國男とは肌合いのまったく異なる、この国学者はきわめて謎めいた、不思議な魅力に充ち満ちた存在であり続けてきた」

「神やぶれたまふ」-日米戦争の本質は「宗教戦争」でもあったとする敗戦後の折口信夫の深い反省を考えてみる
・・逆説的であるが、折口信夫のコトバのチカラそのものは激しい

「役人の一人や二人は死ぬ覚悟があるのか・・!?」(折口信夫)



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end

2010年1月27日水曜日

『ユダヤ教の本質』(レオ・ベック、南満州鉄道株式会社調査部特別調査班、大連、1943)ー 25年前に卒論を書いた際に発見した本から・・・

    

(ドイツで発行されたレオ・ベックの切手 wikipediaより)

以前にブログに書いたことだが、私は大学時代に歴史学を専攻し、西洋中世史の分野で卒業論文を執筆して卒業した。いまから25年前のことである。

 卒論のタイトルは、『中世フランスにおけるユダヤ人の経済生活』。この論文では、ユダヤ人信用業者、ひらたくいえば金貸しの実態について扱ったものだ。

 1985年当時は日本語でずばりこの問題を扱った単行本も論文もなく、えらく苦労させられたが、たまたまフランスの社会経済史の専門学術誌「アナール」(Annales. Histoire, Sciences Sociales・・いわゆる「アナール派」である)に格好な論文が掲載されていたのを発見し、このフランス語の論文をもとに、卒業論文をまとめあげたのであった。13世紀南フランスの事例をもとにしたものである。

 400字詰め原稿用紙で250枚という長編になってしまい、一冊に製本できず、二分冊となったしまった。卒業論分はすべて製本して図書館に保存される決まりになっている大学なので、いまでも図書館に架蔵されているはずである(・・確かめたことはない)。



 なぜ卒論でユダヤ人をテーマに取り上げたのか? 

 基本的に阿部謹也ゼミナール(阿部ゼミ)では、卒論のテーマは何でもよい、とされており、選択の自由が完全に学生に任されている点が非常に魅力的であった反面、自分で考えて、最終的に結論を出さなくてはならないというのは、実に厳しい要求であったような気もする。

 われらが恩師であった阿部謹也教授は、「そのテーマを選ばなければ生きていけないテーマを選ぶことです」と、さらにその先生であった上原専禄教授からいわれたという。このアネクドートはわれわれも口頭で聴かされたものであるが、『自分のなかに歴史をよむ』(阿部謹也、ちくまプリマーブックス、1988)という名著にも書かれているので、よく知られていることだろう。現在は、ちくま文庫からも出ている(2007年)。この本には、上原専禄ゼミで哲学者の三木清について書いた学生の話もでてくる。活字になっていない面白い話は他にもあるので、また機会があれば書いてみたいと思う。

 しかし阿部先生ならずとも、「そのテーマを選ばなければ生きていけない」なんてテーマがあるはずはない。一年間考えに考えた末、私は「ユダヤ人」をテーマに取り上げることにした。中世西洋史のゼミナールなので、せっかくなので中世ヨーロッパにこだわることにした。

 卒論指導に際して、何冊か先生の蔵書を貸していただいたが、コピーをとって夏休みに辞書を片手に読んでみた。そのうちの一冊が L.K. Little, Religious Poverty and the Profit Economy in Medieval Europe というタイトルのハードカバーであった。

 ところどころに先生自身がした、鉛筆による線引きと書き込みが多数なされており、「あ~、学者というのはこういう風に本を読むのか~」という感想をもった。ある意味では、大学院生でもないのに実地教育を受けたような気もする。

 その本は、タイトルを日本語にすると、『中世ヨーロッパにおける清貧と営利経済』とでもなるのだろうか。卒論執筆には、Chapter 3. The Jews in Christian Europe(キリスト教ヨーロッパにおけるユダヤ人) と Chapter 10. Scholastic social thought(スコラ派の社会思想)が役にたった。同書のペーパーバック版は現在でも入手可能のロングセラーである。


 なぜ卒論でユダヤ人をテーマに取り上げたのか?  

 理由はいくつかある。間違いなくあったのは、ユダヤ人がヨーロッパのキリスト教世界のなかではつねに「少数派」(マイノリティ)であった、という事実への共感とでもいったものである。

 私自身は日本人としては多数派に属するはずであるが、なぜかある時期から周囲に馴染めず、つねに違和感を感じている、というタイプの人間となっていた。高校時代くらいからだろうか。

 その当時はうまく表現できなかったが、その後に阿部謹也先生による「世間論がでて、昔から日本にも同じような思いを抱いて、周囲からスタンスを取ることによって精神の安定を得てきた人たちがいるのだ、と知った。

 大学時代から、読んでいた折口信夫(国文学者・民俗学者)の文庫版全集に収録されていた、若き日の「日記」に、こういう一節をみつけて非常に同感を覚えていた。「・・・また、同化せられざる悲しみを覚えに行くに過ぎないのだらう。」

 いま手元にないので確認できないのだが、折口が同じ日記のなかで「ちょうずんぴーぷる」なんて表現をひらがなで書いているのも興味深い。Chosen People とはユダヤ人についてしばしばいわれる「選民」のことである。

 キリスト教への違和感が、マイノリティであるユダヤ人への共感を感じたのは不思議ではない。ユダヤ人の歴史に決めてからも、さらにテーマを絞り込むのに時間がかかった。迫害を逃れてスペインのコルドバからモロッコ経由で移動し、最終的にエジプトのカイロに落ち着いたマイモニデス(=モゼス・ベン・マイモン)について書こうかなどとも考えた。

 最終的に、中世フランスにおけるユダヤ人の経済生活としたのは、就職活動にも有利になるかもしれない、などという不埒(ふらち)なものがあったことも否定しない。この話題をしたとき、銀行の就職面接では受けが悪くなかったのは事実である。結局、銀行そのものには就職しなかったが、これは結果としては良かった。人間万事塞翁が馬、である。

 同時期に受講した「華僑問題特別講義」も、大いにインスパイアしてくれたものである。自らが台湾・客家(はっか)出身である、立教大学の戴国煇(たい・くおふぇい)教授のこの授業は、東洋のユダヤ人とすらいわれた「客家」の立場からの講義は、私としては大いに得るものがあった。後に東南アジアのタイに深く関わった際にも大いに役立ったことはいうまでもない。



 さて、資料収集にあたって大いに役だったのが、たまたま見つけた、『増補 ユダヤ人論考-日本における論議の追跡-』(宮沢正典、新泉社、1982)という本だった。

 1877年(明治10年)から1981年(昭和56年)まで、日本で出版されたユダヤ関連文献を、すべて網羅した資料編がことのほか有用で、のちにさらなる増補版もでている。定価2,500円もする高い本だったが、実に価値の高い本だ。

 この資料編をみていて気がついたのは、1935年(昭和10年)から1943年(昭和18年)にかけて、満鉄調査部(南満洲鉄道調査部)からユダヤ問題関連の調査資料が大量に発行されていた事実であった。

 『タルムード研究資料』(昭和18年)、アルトゥール・ルッピンの『猶太人社会の研究』(昭和14年)など多数あり、大学図書館で図書カードを繰っては探しだし、片っ端から借り出してみた。その多くが、満鉄から東京商科大学(当時)に直接寄贈されたもので、いずれも「マル秘」か「取扱注意」の赤い印が押されていた。
 

 そんななかの一冊が、『猶太教』 (南満州鉄道株式会社・調査部特別調査班、大連、昭和18年3月)である。「猶太」と書いて「ユダヤ」と読む。

 大学図書館にあったのか、それとも国会図書館で借りてみたのか正確な記憶がないのだが、最初の部分を読んでみて、非常に共感を覚えてコピーを取った。

 その後、当時普及の始まったワープロに打ち込んだみた。フロッピーディスクはすでにないが、先日資料を整理していたら、クリアファイルに挟まったプリントアウトがでてきた。

 あらためて、ここに転載しておきたい。なぜユダヤ人で卒論を書いたのか、その答えの一つになるからだ。


 『猶太教』は、「第一部 ユダヤ教概説」(B.D.コーホン) 「第二部 ユダヤ教の本質」(レオ・ベック)の二篇を合本したものであり、引用は後者の「第1章 ユダヤ教の性格 第1節・統一と発展」(P.102-103)から抜き書きしたものである。

 これはむしろ当然の結果であった。何となればユダヤ人を取囲む現実は、疑う余なき程明白に物語った。冷酷な現実によって打ち建てられ、それに新しき迫害や圧迫の一つが環を加えた長き証しの連鎖からは、それと同じ数の打ち消し難い結論が生まれ来る。

 しかもそれらの結論は、ユダヤ教の指向に反するごとくでさえあった。とにかく、古(いにし)えの預言者たちによって約束されたものと、それぞれの新時代が肯定せんとしたとこのものとの間に生じた矛盾は強き緊張を生み、それがユダヤ人をして、ただ自らの殻の中に引龍ることを許さなかった。

 踏みひしがれた人や喧嘩に負けた犬は、自然自らを頼りとするに至る。さもなくば滅亡あるのみであろう。しかし、彼が世界の真中に立っている限り、自分自身をのみ知り、かつ眺めるために、閉込められた自己自身の観念にのみ生きるは不可能である。これができるのは権威の嗣子(しし)にのみ許された特権である。

 更にユダヤ人は常に少数者であった。少数者はとかく思索に耽りがちであるが、これが彼等の不運が与えた賜物(たまもの)である。彼等は闘争と思索とによってしばしば真理の認識を新にさせられた。

 その意識は支配者やこれを囲繞(いにょう)する多数者にとっては、権力や社会的成功によって容易に確証せられるところのものである。

 多数者の確信は所有の重みを有するが、少数者の確信は探求してやまぬ溌剌(はつらつ)たる精力を有する。この内的活動はユダヤ教の内に浸み渡った。それ自体で完成し、満足している世界の平静さはユダヤ教には見られないところのものである。

 自己を信ずるという事は、ユダヤ教にとっては当然のこととして約束せられたのではなく、実に絶えず繰り返されたる要求として、またすべての望みをかけた目標として存在した。

 而(しか)して外的生活が極限されればされる程、人生の義務に関するの確信がいよいよ熱心に求められ獲得されねばならなかった。

(* 太字の強調、漢字の読みは引用者が行ったもの。OCRで読み取った原稿はバグつぶしに意外と時間がかかる・・・)



 『ユダヤ教の本質』(レオ・ベック)の原本は、Leo Baeck, 》Das Wesen des Judentums《, 1936. だが、この本が満洲国の大連で昭和18年(1943年)3月に出版されたとき、著者であるレオ・ベックはすでに強制収容所の一つであるテレージエンシュタットに送られていたのだった! 1943年1月(!)、70歳のときであった。 

 この事実は、今回あらためてレオ・ベック(Leo Beack)について調べてみて初めて知ったことである。まさかそんなことがあろうとは、さすがに満鉄調査部関係者も知らなかっただろうし、1984年に卒業論文を書いていた当時の私も、とくに考えてもいなかった。

 これは、『二十世紀のユダヤ思想家』(サイモン・ベック編、鵜沼秀夫訳、ミルトス、1996)「第5章レオ・ベック」(執筆ヘンリー・ウォルター・ブラン)に詳細が書かれており、はじめて知ることができた。なお同書は、米国のユダヤ人向けの本で1963年に出版されている。


 この本によれば、しかもレオ・ベックは強制収容所のテレージエンシュタットを生きのびたのである!

 『二十世紀のユダヤ思想家』によって、レオ・ベックの生涯を簡単に振り返っておこう。なお、レオ・ベックの肖像写真は同書カバーの左下にある(写真参照)。

 1873年ドイツ北部のプロイセン王国ポーゼン州のリサに代々ラビ(ユダヤ教律法学者)の家系に生まれた。本人も社会人人生をラビとして過ごした人である。

 代表的著作である『ユダヤ教の本質』は初版が1905年にでており、ドイツだけでなく英語に翻訳されて、ユダヤ人のあいだでは広く読まれたという。ベルリンのラビに任命され、偉大な学者との評判を得る。

 第一次大戦ではドイツ軍の従軍ラビに任命され、ドイツ敗戦までその任にあった。戦後は、ベルリンのラビに戻り、カイザーリンク伯の「叡智学園」に招かれ、ユダヤ教についての講義も行っている。


 ナチズムの台頭する時代にあって、1935年のニュルンベルク法施行に際しては、ナチスを恐れずに批判し、特別の祈祷文をつくって全ドイツのユダヤ人コミュニティで、新年祭の礼拝式に説教壇から読み上げさせている。このため、たびたびゲシュタポから召喚され、何度も拘引されている。

  周囲から亡命を何度勧められても断ったという。「ユダヤ人と一緒に留まって彼らの苦しみを和らげることがラビとしての道徳的義務であると考える」といっていたという。

 しかしついに、1943年1月、70歳前に強制収容所のテレージエンシュタットに移送される。ユダヤ人の扱いが人間的であると示すためのショーケースの役割を担わされたのである。

 ドイツ敗戦により、2年後の1945年に解放されたベックは、ユダヤ教の中心はドイツから米国に移ったという考えのもと、米国への招致に応じ客員教授として講義をもち、80歳のときには市民権を得ていた英国に移住、1956年に83歳で英国で没した。

 思想・教説・行動が完全に一致し、外部の圧力に対しては不死身であった、と評されている。日本的にいえば、陽明学で言う「知行合一」の人だった、ということができようか。

*****


 最後に、レオ・ベックの考えていた「ユダヤ教の本質」について、『二十世紀のユダヤ思想家』の担当執筆者による要約を紹介しておく。
 
 ベックにとってユダヤ教の本質とは、正義と愛をとおして悪から人類を贖う(あがなう)ようにとの神の命令(戒め)である。・・(中略)・・ユダヤ教は個人の宗教よりも民族と共同体の宗教、即ち「律法のまわりの垣」として捉えられると考えた。・・(中略)・・
 ベックの見解では、ユダヤ教をキリスト教から区別する基本的な原理は教理がないことである。(P.188-189)


 「ユダヤ教は民族と共同体の宗教」であり、「ユダヤ教には教理がない」という指摘は実に重要である。

 民族宗教で教理がない、といえば基本的には日本の神道(しんとう)と同じではないか。

 さらに、「ユダヤ教の独自性」については、私が書き抜きを作っていなかった箇所について、『二十世紀のユダヤ思想家』からレオ・ベック自身による文章を孫引きしておく。英訳からの重訳のようだが。

 ユダヤ教に主要な形式は、体系よりもむしろ方法を生み出す哲学、探求の宗教哲学のそれであった。原理は常に結果よりも重要であった。表現の様式には常に寛大であり無頓着ですらある。中心にあるべきものはその理念であった。・・(中略)・・教理という支柱をもたないことがユダヤ教の性格そのもののなかにあり、それはまたその歴史的発展の本質的な結果でもある。・・(中略)・・それは絶えず思考する労働を義務づけられた宗教であった。(P.189 )(*太字ゴチックは引用者=さとう)


 もうひとつ執筆者が書いていることで、日本人からみて面白い指摘があるので引用しておく。

 近代の聖書批判を論破するにあたって、ベックが強調した他の重要な要素はユダヤ人の宗教の独創性である。関わりをもった外国文明の多くの異なった要素を吸収するユダヤ人の天与の才は、しばしば創造性の欠如の証拠として引き合いに出されてきた。しかし厳密にユダヤ教の伝統を見るならば、正にその逆である。ユダヤ教はこれらの外国の影響をそれ自身の伝統の中に取り入れ、それらに全くユダヤ的な性格を与えた。あらゆる概念はユダヤ人特定の言葉に改鋳(かいちゅう)され、完全にそれらの言葉に適応し改鋳できる理念だけが、永続するユダヤ的遺産の一部となった。(P.189) (*太字ゴチックは引用者=さとう)


 ユダヤ人が「創造性の欠如」? いやしかしその逆である、と。

 どうだろう、文中の「ユダヤ」をすべて「日本」に置き換えることが可能ではないだろうか。面白いと思うのは私だけだろうか。

 やはりユダヤ人と日本人は、かなり大きな共通性をもっているのである。

 相違点は、徹底性の度合いだけかもしれない。この点については、昨日書いた、本の紹介 『ユダヤ感覚を盗め!-世界の中で、どう生き残るか-』(ハルペン・ジャック、徳間書店、1987)を参考にしてほしい。

 ユダヤ人と日本人は、「律法」に対する態度を軸にしてみれば、対極の位置にあるといってよい。ユダヤ人は「律法」に過度にこだわり、日本人は「律法」についてはあまりにも無意識な態度に終始してきた。だから合わせ鏡のような存在なのである。

 ユダヤ教でも、神道でも、神の像はつくられないあくまでも不可視の存在である。


 なお、国策会社であった南満洲鉄道株式会社の調査部(いわゆる満鉄調査部)が、なぜユダヤ関係の報告書を翻訳ふくめて大連(満洲国)で多数出版しているのか、この理由についてはまた機会をあらためて、後日書いてみることとしたい。

 あまりにも面白い話なのだが、このためには「満鉄」そのものと「フグ計画」(Fugu Planについて知っておく必要がある。

 キーパーソンの一人は、小辻節三(=小辻誠祐 a.k.a. Abaraham S. Kotsuji)である。


*****


PS この記事を書いてから3年以上たってようやく課題の一つに決着をつけた。小辻節三(こつじ・せつぞう)については、書評 『命のビザを繋いだ男-小辻節三とユダヤ難民-』(山田純大、NHK出版、2013)-忘れられた日本人がいまここに蘇える という記事を2013年4月に執筆しブログにアップしたのでご参照いただきたい。(2013年11月22日 記す)

PS2 読みやすくするために改行を増やした。またレオ・ベックの肖像画をあらたに記事の冒頭に挿入した。(2013年12月19日 記す)

PS3 『猶太教』 (南満州鉄道株式会社・調査部特別調査班、大連、昭和18年3月)は、すでに著作権が切れているので、ネットから国会図書館デジタルアーカイブで読むことができるhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041150 

B・D・コーホンの『猶太教概説』(Beryl D. Cohon, Introduction to Judaism)レオ・ベックの『猶太教の本質』(Leo Baeck, Das Wesen des Judentums)の二書を合本して翻訳したと例言にある。翻訳は外部に委嘱したとある。例言には記されていないが、翻訳に携わったのが小辻節三であることは言うまでもない。(2018年7月28日 記す)



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