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2010年1月31日日曜日

アッシジのフランチェスコ 総目次 (1)~(5)


    
 私は、キリスト教徒でも、カトリックでもありませんが、アッシジのフランチェスコのような生き方は、決して真似ることはできないものの、たいへん素晴らしいものだと思ってきました。

 そんな私の感想、映画や本を中心に5回にわたってつづってみました。

 リリアーナ・カヴァーニ監督による『フランチェスコ(ノーカット・イタリア語版)』(主演:ミッキー・ローク、ヘレナ・ボナム=カーター)の日本版が、ようやく2010年1月に発売されたのを機会に、「総目次」を作成しました。

 さまざまな人によって、さまざまに語られるフランチェスコ、お楽しみください。


<アッシジのフランチェスコ 総目次>

アッシジのフランチェスコ (1) フランコ・ゼッフィレッリによる  
アッシジのフランチェスコ (2) Intermesso(間奏曲):「太陽の歌」   
アッシジのフランチェスコ (3) リリアーナ・カヴァーニによる  
アッシジのフランチェスコ (4) マザーテレサとインド 
アッシジのフランチェスコ (5) フランチェスコとミラレパ 


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2010年1月30日土曜日

書評『折口信夫 独身漂流』(持田叙子、人文書院、1999)ー 非常に新鮮で鮮やかな切り口による折口信夫像



     
 女嫌いで有名だった<折口信夫=釋迢空>に鮮烈に惹かれ、その作品に惚れ込み読み込んできた、1999年の出版当時39歳の女性研究者が書いた、非常に新鮮で鮮やかな切り口で折口信夫像

 著者の高校二年生のときの出会いの一冊とは、古書店の店頭で見た漆黒の装丁のハードカバー、折口信夫の小説『死者の書』だっというのだから、それは運命的なものだったといえよう。

 折口信夫のような複雑な人物の全体像を描くためには、さまざまな切り口から迫っていくしかない。「群盲象をなでる」という格言に陥る危険をもちながらも、キラキラ光る断片から迫っていくしか方法はないのである。

 その点、著者は1995年から2000年まで、新編『折口信夫全集』(中央公論新社)に編集に携わっていたという強みがある。テクストのすべてを読み込んだ上で浮かび上がってきた断片の数々。拾い上げた断片のいくつかは、目次に表現されいる。

 目次を紹介しておこう。

  餓鬼の思想-大食家・正岡子規と折口信夫
  <伝承>をめぐって
  誕生の系譜・母胎を経ない誕生
  折口信夫の内なる<父>
  奴隷論-創造の原風景
  釋迢空『安乗帖』と田山花袋『南船北馬』
  汗する少年-「口ぶえ」論-
  碩学を描く-折口信夫における懐疑の思想-
  結婚の文化/独身の文化
  折口信夫における水への郷愁

 すべてが面白いといってしまうと、何もいっていないことにつながりかねないが、硬軟取り混ぜた切り口は、ある程度、濃厚な、肉体をもった存在であったの折口信夫象の再現に成功しているといえよう。

 私はとくに最終章の「折口信夫における水への郷愁」で描かれたイメージが、非常に強く記憶に残っている。

 古代日本人が、海の彼方から漂う舟でやってきたという事実にまつわる集団記憶。著者の表現を借りれば、「波に揺られ、行方もさだまらない長い航海の旅の間に培われたであろう、日本人の不安のよるべない存在感覚」(P.212)。歴史以前の集団的無意識の領域にかつわるものであるといってよい。板戸一枚下は地獄、という存在不安。

 著者はあとがきで非常に面白いことをいっている。

 女性読者に限っていえば、おそらくその好みは柳田國男と折口信夫のいずれかに、きれいに二極分化するのではないだろうか。柳田も折口も両方ともに好き!という人は希有の存在に違いにない。
 ・・(中略)・・
 ともあれ、結婚し子をなす人生に疲れ、行き暮れる世代にとって、柳田はあたたかい擁護者であり、理論的支柱でもある。それに比べ、しゃがれ声でぼぞぼそと同性愛を語り、<まれびと>の孤独を語る折口信夫の文章は、彼女たちにとっては「エキセントリック」「気もちがわるい」「わからない」ということになるのかもしれない。
 しかし逆に、柳田の語り口に感動する母たちの娘である私の世代はもう、柳田の言葉にそう素直に感応することはできない。それどころか、柳田國男の温順に対すると、どうにも居心地のわるさと面映ゆさを感じざるを得ない。私たちは、優しいおだやかな女性として、語りかけられたくないないのだ。<家>に定住する根源的な存在としてなど、評価されたくないのだ。
 ・・(中略)・・
 折口信夫の声は、人をそのあるべき位置に定位する力強い確信に満ちた声とは異なるものである。その声はむしろ人を、固着するそれぞれの位置から解き放ち、浮遊させる。根を離れ、たゆたい、ゆらぐことにより、私たちはひどく醜怪な存在にもなり、この世ならぬ貴やかな存在にもなり得る。聖女ににもなり、少年にもなり得る。
 おそらく現実には、折口信夫読者の大多数は、定住を旨とする堅実な人生を送るのだろう。しかしその胸底には、そのような人生を相対化し、越えようとする不逞で豊穣な想像力が育まれ、それが時に私たちを大きく自由にし、身動き取れぬ崖っぷちから救い、飛躍させるであろう。(P.241-243)


 1999年の本書出版当時、39歳の著者による発言である。著者自身は子供もいるようだが、であるからこそ、上記のような文章がつづられるのだと読む。

 折口信夫を読む、この関わり方に私は共感をもつ。

 著者は本書執筆後、研究テーマを永井荷風に移行させてしまったようで、折口関連の単行本は執筆していないのは残念だ。いうべきことは、いいつくしてしまったのだろうか。


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<ブログ内関連記事>

書評 『折口信夫―-いきどほる心- (再発見 日本の哲学)』(木村純二、講談社、2008)
・・「折口信夫は敗戦後、弟子の岡野弘彦に、憂い顔でこう洩らしていたという。「日本人が自分たちの負けた理由を、ただ物資の豊かさと、科学の進歩において劣っていたのだというだけで、もっと深い本質的な反省を持たないなら、五十年後の日本はきわめて危ない状態になってしまうよ」(P.263 注23)。 日本の神は敗れたもうた、という深い反省をともなう認識を抱いていた折口信夫の予言が、まさに的中していることは、あえていうまでもない」

書評 『折口信夫 霊性の思索者』(林浩平、平凡社新書、2009)
・・「私は大学時代から、中公文庫版で『折口信夫全集』を読み始めた。日本についてちっとも知らないのではないかという反省から、高校3年生の夏から読み始めた柳田國男とは肌合いのまったく異なる、この国学者はきわめて謎めいた、不思議な魅力に充ち満ちた存在であり続けてきた」


「神やぶれたまふ」-日米戦争の本質は「宗教戦争」でもあったとする敗戦後の折口信夫の深い反省を考えてみる
・・逆説的であるが、折口信夫のコトバのチカラそのものは激しい

「役人の一人や二人は死ぬ覚悟があるのか・・!?」(折口信夫)                       

(2013年12月19日 追加)


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グルマン(食いしん坊)で、「料理する男」であった折口信夫


 折口信夫 独身漂流』(持田叙子、人文書院、1999)の第一章は「餓鬼の思想-大食家・正岡子規と折口信夫」と題されている。著者の文章をそのまま引用させていただく。


二人とも生涯独身の借家住まい。身辺のあれこれについて、驚くべき無頓着と淡泊を示す一方、食生活への執着が異様に激しいこと。そしてその執着を隠蔽しようとしなかったこと。実際、両者とも、それぞれが自分が生きた時代の、”知識人” ”学者”としては珍しく、肉・臓物類まで歓び貪る己の口腹の貪婪・希有な大食をその文章において標榜してはばかることがない。さらに問題は、彼らにおけるそのような執着が、あまりにも脂ぎり、あまりにも情けないほどに子供めき、およそ美食・大食の伝統の志向する”洗練された感覚” “卓抜した生活思想”という主題とは無縁なことである。(P.6)


 折口信夫は、最近の表現を使えば、文字通り「肉食系」の人であったようだ。「食い倒れの町」大阪出身の人である。

 この第一章には、アララギ派の同人で、『野菊の墓』の作者・伊藤左千夫が自ら庖丁を握ってウサギを屠り、料理する姿も引用されており、意外な感を抱くものである。

 歌人・釋迢空として、自らを、むさぼり食う”餓鬼”(ガキ)になぞらえた歌を作っている。


前(サキ)の世の 我が名は、
人に、な言ひそよ。
藤澤寺の餓鬼阿弥(ガキアミ)は、
我ぞ


神奈川県の藤沢にある時宗(一遍宗)の寺、藤沢の遊行寺(ゆぎょうじ)の餓鬼阿弥(ガキアミ)のことを語った歌だ。

 説教節の主人公・小栗判官(をぐりはんがん)は舅に毒殺されて地獄に堕ちるが、遊行寺の坊さんに救済されて、醜い餓鬼の姿のまま生き返る。

 手押し車に乗せられ、妻である照手姫(てるてひめ)がさまざまな人たちの助けをかりなが熊野まで連れて行き、熊野の湯で湯治してもとの小栗に甦った、という伝説にもとづく。

 この話は、『説教 小栗判官』(近藤ようこ、ちくま文庫、2003)というマンガに描き尽くされている。私が好きな物語である。折口信夫はこの物語を「餓鬼阿弥蘇生譚」とよんでいる。

 大学一年生のとき、フランス語会話の授業で習ったのは、グルメとグルマンとは違う!ということだ。グルメ(gourmet)は美食家グルマン(gourmands)は食いしん坊。フランスでは、グルメとよばれてストレートによろこぶ人はあまりいないようだ。

 日本人はやたら何かと「グルメ」と口にするが、フランス語のニュアンスでは、必ずしもほめコトバではないらしい。スノッブな響きがあるためか。

 この意味でいえば、正岡子規も折口信夫もグルマンであったといえるだろう。

 大食漢であり、「食いしん坊ばんざい!」である。私もグルメではなく、グルマンである。何よりも旨いものを食って、旨い酒を飲むのがすきな、関西人の DNA を100%受け継いでいる。

 各種の回想録によれば、折口信夫はグルマン(食いしん坊)であり、酒は日本酒は飲まずビールのみだったという。

 日本の「古代」を研究する学者がビールしか飲まなかったというのも面白い。コメつくりが弥生人によっってもたらされる以前、縄文人は「日本酒」は知らなかったわけだが、それとは関係はないだろう。趣味嗜好の問題に過ぎないと思われる。

 また、折口信夫は、自ら料理する男、でもあった。


●集合写真のキャプションより

大正10年信夫宅で。前列左より金田一京助、ニコライ・ネフスキー、柳田國男、後列左より信夫・・(中略)・・この時か、20人分位の天麩羅を信夫が一人で揚げてもてなし柳田はこんなに料理を熱心にする人の学問は果たして大成するのかと思ったという
(出典:『新潮日本文学アルバム26 折口信夫』(新潮社、1985) P.40 太字は引用者による)

●わがまま料理

折口信夫は料理をつくるのが好きだし、上手だった。ところが夜中に急に「しるこをつくろう」などといい出し、弟子たちに用意させる。それができあがるころには夜もしらじらと明けかかるのだった。

(出典:『世界史こぼれ話』(三浦一郎、辻まこと=イラスト、角川文庫、1976)


 料理は、女が作るものと頭から決めてかかっていた柳田國男には理解不能なことだったのだろう。「あなた作る人、私食べるひと」という固定観念である。

 料理作りほど身近にあってクリエイティブな行為はない、と実際に料理作りをする私は思うのだが・・。料理作りとは、素材を使った加工という側面だけではなく、情報編集そのものであり、創造性そのものにかかわる行為である。

 「料理をつくる男」としての折口信夫、私が編集者だったら、誰かに書いてもらいたいテーマなんだけどねー。檀一雄の『檀流クッキング』は有名なのだが。



PS 読みやすくするために改行を増やし、写真を大判にした(2014年3月12日 記す)

PS2 よくよく考えてみれば、アララギ派の歌人であった伊藤左千夫は、正岡子規に心酔してその弟子になったわけであり、折口信夫(=釈迢空)もまた最初はアララギ派に属していた人たちである。
アララギ派とグルマンにかんしては、なんらかの関係があるのだろうか?
(2025年5月9日 記す)


<ブログ内関連記事>

「料理する男」たち

『檀流クッキング』(檀一雄、中公文庫、1975 単行本初版 1970 現在は文庫が改版で 2002) もまた明確な思想のある料理本だ

『こんな料理で男はまいる。』(大竹 まこと、角川書店、2001)は、「聡明な男は料理がうまい」の典型だ         
・・「料理する男」はもてる!?

邱永漢のグルメ本は戦後日本の古典である-追悼・邱永漢
・・「投資の神様」は「料理する男」でもあった

書評 『缶詰に愛をこめて』(小泉武夫、朝日新書、2013)-缶詰いっぱいに詰まった缶詰愛
・・発酵学者もまた「料理する男」

『きのう何食べた?』(よしなが ふみ、講談社、2007~)
・・男が男のために料理する

『聡明な女は料理がうまい』(桐島洋子、文春文庫、1990 単行本初版 1976) は、明確な思想をもった実用書だ
・・「女が「女性化」すると料理がヘタになる」という名言

(2014年7月20日 情報追加)


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2010年1月29日金曜日

書評『折口信夫 霊性の思索者』(林浩平、平凡社新書、2009)ー キーワードで読み込む、<学者・折口信夫=歌人・釋迢空>のあらたな全体像




「プネウマ」、「西方浄土」、「霊性」といったキーワードで読み込む、<学者・折口信夫=歌人・釋迢空>のあらたな全体像

 ここ数年、折口信夫(1887-1953)にかんする本が次から次へと出版されており、再び大きく脚光を浴び始めている。そんななかでも本書は出色のものといってよい。  

 本書は体裁は新書本だが、折口信夫の入門者だけでなく、私もその一人であるが、長く読み続けてきた読者の双方を満足させる内容となっている。前者にとっては、非常の中身の濃い充実した内容であり、後者にとっては自分の「読み」をひとつひとつ点検することが可能な内容となっているためだ。  

 作家・富岡多恵子、文芸評論家・安藤英二が切り開いてきた、折口信夫の学問形成期における謎の解明は、<学者・折口信夫=歌人・釋迢空>像を大きく塗り替えようとしている。本書もまたこういった新しい知見を踏まえた最新の成果である。

 目次を紹介しておこう。  

  序 章 折口信夫像の揺れ  
  第1章 折口信夫の「発生」  
  第2章 折口学とは何か  
  第3章 プネウマとともに-息と声の詩学  
  第4章 浄土への欲望と京極派和歌  
  第5章 霊性の思索者

 「プネウマ」、「西方浄土」、「霊性」・・こういったキーワードは決して奇をてらったものではない。私自身が感じていた、ある種の感じをうまくコトバとして表現してくれた、という思いがしている。  

 著者自身、かつては「霊性」(スピリチュアリティ)には懐疑的であったというが、この視点で折口信夫を読み込むことの重要性を認識するにいたったことを述懐している。折口信夫の全体像を表すのに、これほど適切な表現はないのではないだろうか。  

 あとがきに記された、哲学者・坂口恵が著者にもらしたという、「ああ、あのひとはどうも日本人じゃないみたいですね」。このコトバには、折口信夫(=釋迢空)という日本人が、たんなる国文学者や民俗学者、そして歌人の域を超えた思索者として、日本語世界においては屹立した存在であり続けていることを示しているように思われた。  

 折口信夫は、さまざまな「読み」が可能な、まだまだその全体像が読み込まれているとはいえない膨大なテクストである。日本とは何か、日本人とは何かを考える人は、必ず読み込まなければならない、日本語で遺された、きわめて貴重な財産なのである。  

 新書本にはもったいないような思索が、集約されて詰め込まれている。読み捨てにはできない内容豊かな一冊である。


<初出情報>

■bk1投稿「「プネウマ」、「西方浄土」、「霊性」といったキーワードで読み込む、<学者・折口信夫=歌人・釋迢空>のあらたな全体像」投稿掲載(2010年1月7日)





<書評への付記>

 折口信夫(おりくち・しのぶ)の略歴を簡単に記しておこう。Wikipedia では以下のように説明される。

折口信夫 明治20年(1887年)2月11日 - 昭和28年(1953年)9月3日)は、日本の民俗学、国文学、国学の研究者。釋迢空(しゃく・ちょうくう)と号した詩人・歌人でもあった。折口の成し遂げた研究は「折口学」と総称されている。

 折口信夫は、一般には、民俗学者・国文学者とされているが、本人の意識としては「最後の国学者」であったようだ。釋契沖、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤などに連なる系統である。もちろん日本人の宗教についての考察も中心テーマの一つであった。

 折口信夫は、日本語の言語研究から始まった国学を、国文学資料と民俗伝承を付き合わせて「古代」を探求した人である。「国学者」としての認識から、和歌をつくることを何よりも重視していた。学者としての折口信夫と、歌人としての釋迢空は、不可分の一体といって良い。

 学者としては國學院大學教授と慶應義塾大学教授を兼任、慶應の文学部では「芸能史」という講座を立ち上げた。主著は『古代研究 全三巻』、有名な小説『死者の書』。歌人の釋迢空としては『海やまのあひだ』など。アララギ派の斎藤茂吉は終生ライバルであった。


 私は大学時代から、中公文庫版で『折口信夫全集』を読み始めた。日本についてちっとも知らないのではないかという反省から、高校3年生の夏から読み始めた柳田國男とは肌合いのまったく異なる、この国学者はきわめて謎めいた、不思議な魅力に充ち満ちた存在であり続けてきた。文庫版全集はすべてもっているし、関連する本はダンボール一箱分くらい集めて読んできた。


 宗教学者の中沢新一は、NHK・ETVで放送したテキストをもとにした古代から来た未来人』(ちくまプリマーブックス、2008)で、「折口信夫のような奇跡的な学問をなんとかして自分でもつくってみたい。それが私をこれまで突き動かしてきた夢だったような気がします」と序文に書き記している。

 南方熊楠について書かれた大著に比べ、折口信夫について書かれたこの本は非常にコンパクトでうすいものだが、中沢新一がやろうとした学問の方向を簡潔に要約したものともなっている。とくに「第6章 心の未来の設計図」には、折口信夫の神道観が中沢新一流に、「魂-生命-物質」の三位一体として構造化し、図解しているのは興味深い。この説明の当否は留保しておくが。

 中沢新一流のややクセのある折口信夫の紹介ではあるが、「折口信夫入門」として本書とあわせて読むことをすすめたい。          







<ブログ内関連記事>

書評 『折口信夫―-いきどほる心- (再発見 日本の哲学)』(木村純二、講談社、2008)
・・「折口信夫は敗戦後、弟子の岡野弘彦に、憂い顔でこう洩らしていたという。「日本人が自分たちの負けた理由を、ただ物資の豊かさと、科学の進歩において劣っていたのだというだけで、もっと深い本質的な反省を持たないなら、五十年後の日本はきわめて危ない状態になってしまうよ」(P.263 注23)。 日本の神は敗れたもうた、という深い反省をともなう認識を抱いていた折口信夫の予言が、まさに的中していることは、あえていうまでもない」

書評 『折口信夫 独身漂流』(持田叙子、人文書院、1999)
・・「古代日本人が、海の彼方から漂う舟でやってきたという事実にまつわる集団記憶。著者の表現を借りれば、「波に揺られ、行方もさだまらない長い航海の旅の間に培われたであろう、日本人の不安のよるべない存在感覚」(P.212)。歴史以前の集団的無意識の領域にかつわるものであるといってよい。板戸一枚下は地獄、という存在不安」

葛の花 踏みしだかれて 色あたらし。 この山道をゆきし人あり (釋迢空)

「神やぶれたまふ」-日米戦争の本質は「宗教戦争」でもあったとする敗戦後の折口信夫の深い反省を考えてみる
・・逆説的であるが、折口信夫のコトバのチカラそのものは激しい

「役人の一人や二人は死ぬ覚悟があるのか・・!?」(折口信夫)                       

(2013年12月19日 追加)


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