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2010年8月31日火曜日

猛暑の夏の自然観察 (3) 身近な生物を観察する動物行動学-ユクスキュルの「環世界」(Umwelt)





動物行動学(エソロジー)の観点から

 ネコの生態については、動物行動学(エソロジー)学者コンラート・ローレンツの『人(ひと) イヌにあう』(コンラート・ローレンツ、小原秀雄訳、2009)に描かれている。

 この本は、題名通り、基本的にイヌについて書かれたエッセイ集だが、実はネコについても全体の1/5くらいのページ数を割いている。ネコと比較することでイヌの特性が明確になるからだ。ネコ好きな人も食わず嫌いはやめて目を通してみたらいい。

 家畜化された動物のなかでは、イヌがもっとも変化したものだとすれば、ネコほどまったく変化していないもの、とローレンンツは書いている。

 イヌが家畜化されたのはきわめて古く、だいたい4~5万年前であるのに対し、ネコが家畜化されたのは古代エジプトで、せいぜい数千年前程度である。穀物を食べるネズミの駆除のため、リビアヤマネコを飼い慣らして家畜化された。ネコのミイラや、ネコの神様がいたくらい、古代エジプトでは大事に扱われてきた。ネコさまさまである。

 エジプトから欧州を経て、アジアに拡がるまでかなりの時間がかかっているようだ。ちなみにこの伝播経路は、アルコール飲料のビールと同じである。だいぶ時間差があるが。

 ローレンツは、ネコは野生動物であり、社会に生きる動物ではないこと、瞬発力はあるが疲れやすくおのれの感情にきわめて素直な動物であると書いている。そこが、イヌと違う点である。
 この人は、日本でいえばムツゴロウの元祖みたいな人で、イヌだけでなくネコも、またそれ以外の動物もたくさん飼育して、日々観察していた学者である。イヌもネコも長年飼い続けていて、身近に観察してきた人ならではのものであるといえよう。

 ウィーン生まれのローレンツが開拓した動物行動学(エソロジー)とは、動物そのものの行動を研究する学問である。


ところで、ネコはどうのように世界を認識しているのだろうか?
 
 『動物と人間の世界認識-イリュージョンなしに世界は見えない-』(日高敏隆、ちくま学芸文庫、2007)という本は、日本における動物行動学者の開拓者である日高敏隆が、動物学者ユクスキュルの「環世界」(Umwelt)の考えをベースに、動物がどのように「世界」を認識しているか、どのように「世界」を構築しているかについて、さまざまなケースについて語った、実に読みやすい本である。


 この本の第1章は「ネコたちの認識する世界」として、著者が飼っていたネコで実験してみた面白い話が紹介されている。

 大きめの画用紙にネコの絵を描いて、飼いネコに見せたところ、この平面の画像にネコが大いに反応したというのである。ネコは立体のネコの置物に対してだけでなく、平面のネコの画像にも反応。これは何度繰り返しても「学習」することなく、反応しつづけたということで、著者はこの簡単な実験から、ネコが見ている世界は、人間が見ている世界とは違うという話を導き出して、第2章以降ににつなげている。

 外部に現れた行動から、ネコの「認知構造」を探る試みといってもいいだろう。


 日高敏隆には、そのままズバリのタイトルのエッセイを収めた 『ネコはどうしてわがままか』(日高敏隆、新潮文庫、2008)という本がある。


 このエッセイのなかで、単独で行動する習性をもつネコにとって、親密な関係は親子関係だけであると書いてある。それも母ネコと子ネコの関係。

 子ネコが鳴けば母ネコはすっ飛んでくるが、母ネコが鳴いても子ネコはこない。甘えることのできる対象は、あくまでも母ネコだけである。だから、飼いネコが飼い主に甘えるのは、子ネコが母ネコに対するのに似た「疑似親子関係」なのだと。 
 ネコにそういう気持ちがないときは、飼い主(=親)がいくら期待してもネコは従わない。だから、ネコはわがままに映るわけだ。ネコは自分の感情に素直なのである。


ユクスキュルの「環世界」と日高敏隆のいう「イリュージョン」

 先にも触れたユクスキュルとは、古典的名著である、『生物からみた世界』(ユクスキュル/クリサート、日高敏隆/羽田節子、岩波文庫、2005)の著者のことである。

 エストニア生まれのドイツ人動物行動学者ユクスキュル(1864-1944)の提示した「環世界」(Umwelt)という理論で知られているが、生物ごとに見ている世界が違うという説は、発表当初は科学的でないという評価のため、なかなか認知されなかったという。「客観性」こそが科学の身上だからだ。

 「環世界」とは、ごくごく簡単にいってしまえば、それぞれの生物ごとに知覚をつうじた特有の認知構造があるということだ。人間とイヌは違うし、カラスとチョウもまったく違う世界をみている。人間を取り巻くのが「環境」だとすれば、「環世界」とはそれぞれの生物にとって意味のある世界を指した概念である。

 たとえばダニは動物が発する酪酸の匂いだけに反応し、その発生源めがけて落下、その後は温度を感じる皮膚感覚に導かれて動物の皮膚のうえで毛の少ないところに移動し、そして地を吸うのだと。つまりダニにとっては、臭覚と触覚が認知する世界にだけ生きているのだ。

 日高敏隆はこのことを、「知覚の枠」という表現で説明している。人間には聞こえない超音波、人間には見えない紫外線。匂い、触覚といった知覚には、人間に体感できないものがある。

 人間が見ている世界はそういった制約条件のもとにあることを知っておいた方がいい。超音波や紫外線は体感はできないが、知識として知っており、思考世界のなかでさまざまな操作を行うことができるのは、人間と人間以外の生物との大きな違いである。

 ユクスキュルの本は正直いって読みにくい。日高敏隆の本を読んでから、ユクスキュルの原本を読むと理解が深まる。

 岩波文庫版には、クリサートによるイラストが大量に収められているのでイメージしやすい。これらのイラストの意味を本文で確かめるという読み方もいいだろう。


本能に従って「知覚の枠」内で「環世界」を認識する生物、思考世界で「世界」を再構築する人間

 『動物と人間の世界認識』はいい内容の本なのだが、問題がある。

 著者の日高敏隆は「イリュージョン」というコトバを使うが、これは岸田秀の「唯幻論」からの援用でいただけない。「唯幻論」とは、この世はすべて幻想であると説く、精神分析学者の妄説(?)である。

 私からみれば、「イリュージョン」というよりも「バーチュアル・リアリティ」といったほうが、まだピンとくる。人間が見ているのは現実(リアリティ)だが、自分が見たいようにしか世界を見ていないから、現実は現実であっても、その主体が知覚し、認知する現実に過ぎない。

 あるいは社会学の構成主義風にいえば「社会的に構成された現実」といってもよい。

 社会学者バーガーに、Social Construction of Reality という著書があるが、人間の場合は「社会的に構成された現実」をみているのであって、それは「イリュージョン」というのとはニュアンスが違うように思われる。イリュージョンであろうがなかろが、人間は見たいものしか見ていないので、その見たものがその人にとってはリアリティであっても、他の人からみればイリュージョンであるに過ぎないのである。

 見ても見えず、聞いても聞こえず、というやつである。

 個々の人間の実存は、個々の人間によって異なるのは当たり前だ。

 男女の別、大人と子供、身長の高さ、体重の重さ、さらにいえば、世代間、文化および言語によって認識の枠組みが異なる。

 つまり一言で言えば、まったく同じ認知をもった人間は一人として存在しないのであり、あくまでも主観と主観の重なり合う場面でのみ共通理解を行っているにすぎないのである。

 これをさして、現象学者のフッサールは「間主観性」(Inter-subjectivity)と表現した。主観と主観の間に存在するのが共通理解である、と。

 人間以外の生物では、本能に従って「知覚の枠」内で「環世界」を認識している。これは同じ種に属する生物であれば、大きな違いはないようだ。何万年にわたって進化ノプロセスが止まっている生物であれば、何万年にもわたってそのように行動してきたことになる。

 人間がそうではないのは、脳が異常発達したためだろう。
 ただこのテーマは、やりはじめるとあまりにも拡散しすぎてしまうので、ここらへんでやめておこう。


 いずれにせよ、人間がみている「世界」と、ネコが見ている「世界」、セミが見ている「世界」は、それぞれまったく異なるということだ。

 この事実だけは、しっかりと認識しておきたい。



PS 読みやすくするために改行を増やし、写真を大判に変更した。内容の変更はない。 (2014年8月23日 記す)



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書評 『新・学問のすすめ-人と人間の学びかた-』(阿部謹也・日高敏隆、青土社、2014)-自分自身の問題関心から出発した「学び」は「文理融合」になる

(2014年8月23日 情報追加)



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2010年8月30日月曜日

『ちょっと本気な 千夜千冊 虎の巻 ー 読書術免許皆伝』(松岡正剛、求龍堂、2007)で読む、本を読むことの意味と方法


            
 これまでも自称他称をふくめて、「知の巨人」が現れては消えていった。なかには、「知の虚人」なんてレッテル貼られてしまった人もいる。
 だが、松岡正剛こそ、正真正銘の「本読み」で、「知の巨人」といえるだろう。

 自然科学を含めて、ほぼありとあらゆる分野のジャンルにまたがる本を読んできた人。
 編集者であり著者。
 
 私から見れば、仰ぎ見る巨人ではあるが、何よりも一般読者にもぐっと近づいたのは、まずはウェブで連載していた『千夜千冊』だろう。
 そして、丸善丸の内本店における「松丸本舗」という理想の書店スペースをプロデュースする実験。その舞台裏を30分番組にまとめあげた、TBSの「情熱大陸」の出演。「編集者 松岡正剛」。 

 本に囲まれた、ああいう仕事場をつくりたいものだと思ったのは、もちろん私だけではないはずだ。


『ちょっと本気な 千夜千冊 虎の巻-読書術免許皆伝-』(松岡正剛、求龍堂、2007)

 『千夜千冊』は、知的世界の「千日回峰行」といってよいだろう。「千日回峰行」とは比叡山における荒行のことである。
 このように、継続することで見えてくるものは、私は「三日・三月・三年」という文章で書いているが、それにしても「千夜千冊」、しかも一作家一冊というタガをはめての実行は、驚嘆を越えて壮絶でですらある。
 新刊書もあるが、昔の本も縦横自在に取り上げた1,000回以上のすべてが、一年以上の再編集ののちに7巻の大冊となって書籍化された。全7巻で10万円弱、もちろん書籍版は購入せず、ときにウェブ版をネットサーフィンしながらよんだだけだが(・・ネット版ですらすべてを読んでいない)、よくこれだけ多岐にわたる本を、しかもこれほど深い読みができるものだちお感歎するのみである。

 むかし文化人類学者の山口昌男が『本の神話学』(中公文庫、1977)で試みた「書評」のあり方とともに、松岡正剛の方法論は、ひそかに目標としてきたものである。
 書評じたいというよりも、本の読み方として、本を単独の存在として読むのではなく、本と本、本と人、本と世の中全般・・と関連づけて読む読み方。
 何よりも博学であることの重要性、これは山口昌男にも松岡正剛にも共通するものだ。あるいはここに立花隆を入れてもいいかもしれないが・・・

 実は、私がこのブログでやろうとしている試みは、規模と中身ははるかに及ばないが、松岡正剛のやっていることを私なりにやってみようという試みなのである。これは、ここではじめて書くことだが・・・

 もちろん、関心のあり方は松岡正剛と私とでは重なる面もあるが、そうでない面もある。たとえば、韓国朝鮮への関心、東南アジア、インド中近東世界への関心は、松岡正剛の場合、あまり多くないように思われる。 また、「情熱大陸」では、松岡正剛は食べるものに頓着しないようであったが、その点は私とは違いを感じる点だ。

 『千夜千冊 虎の巻』の第5章では、松岡正剛の読書術も紹介されている。

 松岡正剛自身の表現を使えば、①「暗号解読法」、②「目次読書法」、③「マーキング読書法」、④「要約的読書法」、⑤「図解読書法」、⑥「類書読書法」のそれぞれについて解説されている。
 重要なことは、読む本の内容によって読むシチュエーションを決めること、著者や編集者の視点から目次を読むことである。

 このような独自の読書法が編み出された背景には、なんといっても「編集者」としての本の読み方が大きく働いているようだ。
 継続という時間的な意味での量も必要だし、場数を踏む、体験するという意味でも量が何よりも、ものをいう

インタビュアー そういうのって、目をどうやって鍛えたらいいんでしょう?
セイゴオ たくさん見るしかないね。・・(中略)・・自分で見抜けるまでとことん見ることです。
インタビュアー それしかないですか。
セイゴオ うん、それだけ。(P.268)


 これは書道について交わされた会話だが、それ以外の分野、たとえば骨董でも絵画でも、あるいはまたその他の専門分野でも共通であろう。

 『千夜千冊 虎の巻』は最新のブックガイドであり、現時点における最終形である。「特別付録『松岡正剛スタンプラリー 全巻構成一覧』は、松岡正剛流の整理学、編集の見本ともなっている。


『松岡正剛の書棚-松丸本舗の挑戦-』(松岡正剛、平凡社、2010)


 丸善丸の内本店内の「松丸本舗」は、こんな本棚が欲しかったのだ!という木にさせてくれる日本では数少ないリアル書店である。

 本との、ホントの出会いにおいて、書店や図書館のもつチカラはすさまじく大きい。

 私の場合は、一橋大学小平分館図書館、国立本校の図書館、留学先のRPIの図書館、職場である総研や銀行調査部の図書室などなど。
 とある機会に閲覧できた、琉球銀行調査部の図書室は沖縄本の一大コレクションだった。平凡社からでている『伊波普猷全集』を備えている銀行は、日本ではさすがに沖縄だけだろう。

 書店では、南阿佐谷の「書原」ではいったいいくら散財したことか。
 おかげで膨大な本を買い込み、本に埋もれて生きる人生となってしまったが、これこそまさに本望(ほんもう)である。ただし、実人生においてはさまざまな問題の原因になってはいるが、ここではあえて書かないでおく。

 たとえ、電子書籍が普及しても、印刷媒体としての本の意味は変わらないのではないだろうか。

 松岡正剛は過去にもさまざまなブックガイドを編集出版しており、たとえば『ブックマップ』(工作舎、1991)『ブックマップ・プラス』(工作舎、1996)などは、南阿佐谷の書源で入手しては、耽読していたものである。もちろんいまでも価値のあるブックガイドである。





<関連サイト>

松岡正剛の千夜千冊・連環編
・・1330夜以降、ISIS本座に移行。こちらでは、経済学やリスクにかんする本が多く取り上げられているので、ビジネスパーソンにとっても興味を引くかもしれない。

松岡正剛の千夜千冊 放埓篇・遊蕩篇 - 目次
・・1329冊の総目録レファレンス。知の饗宴はリンク構造活用で縦横無尽に飛び回る。)

情熱大陸に出演した松岡正剛
・・この番組ではじめて松岡正剛の存在を知った編集者も多いとか。

松岡正剛の書棚|特設ページ|中央公論新社



<ブログ内関連記事>

書評 『日本力』(松岡正剛、エバレット・ブラウン、PARCO出版、2010)

書評 『脳と日本人』(茂木健一郎/ 松岡正剛、文春文庫、2010 単行本初版 2007)

書評 『ヒトラーの秘密図書館』(ティモシー・ライバック、赤根洋子訳、文藝春秋、2010)
・・「独裁者」は「独学者」だった!蔵書家ヒトラーのすべて

『随筆 本が崩れる』 の著者・草森紳一氏の蔵書のことなど
・・一橋大学の藤井名誉教授の蔵書処分の件について、私の大学時代のアルバイト体験も記してある

書籍管理の"3R"
・・本はたまるもの。どうやって整理するべきか。蔵書印の是非についても。


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2010年8月29日日曜日

猛暑の夏の自然観察 (2) ノラネコの生態 (2010年8月の記録)




ノラネコに思う

 暑い日の夕方、クロネコの母ネコが、キジトラネコの子ネコに、寝そべりながら授乳していた。のどかというか、警戒心のまったくない状態というか。私がいま住んでいる建物のすぐ近くに、夕方になるとかならず出現する二匹組のノラネコである。
 キジトラネコは、なんだかリスか、瓜子(ウリコ)のような縞模様。イノシシの子供の瓜子みたいだ。母ネコが真っ黒けなので、余計コントラストがはっきりしている。

 先日、「子猫のノラネコがいる。なんでこんなちっちゃな子猫が一匹だけでいるのか。ねこちゃん、母親とはぐれたのかい?」なんて思ってたら、実は模様違いの母子として行動していたのだった。
 「ああ、それなら安心だ」という気持ちとともに、この組み合わせは実の親子なんだろうかと思ってしまった。




 ノラネコであっても、子ネコはかわいい。
 4頭身のカラダが、子ネコらしさいっぱいで、実にかわいいのだ。





 子ネコは、歩き方にもまだ敏捷さがないので、ヒョコヒョコ歩きである。まだまだ筋肉が発達していない。
 芝生のなかによこたわる子ネコは、サファリパークのライオンのようだ。弱そうだが、たくましい。なんせ、生まれてからずっと屋外で生きてきたのだから、たくましくて当然なのだ。





 あまりもの色違いに、まさか母子だとは思っていなかった。
 ネコの場合、捨てネコなどの孤児の子ネコが不憫だからオッパイ飲ませてあげるなんて、母性愛のある(?)メスネコは存在しないと思うので、おそらく間違いなく母子なのだろう。でも、もしかしたら・・・

 子ネコのほうは、まだ乳離れできていないから、生まれてから2ヶ月はたっていないのだろう。ネコにとって、永遠に慕うべき存在は、いうまでもなく母ネコの面影である。これはオスネコだろうメスネコだろうと変わらない。

 この二匹は、いつもつかず離れず、ほぼ一緒に行動している。
 母一匹子一匹。子猫が一匹だけというのは珍しいような気がする。

 同時に生まれたハズの子ネコたちは、生まれてからすぐに母ネコに食べられてしまったのか、あるいはカラスに持ち去られたのか、途中で衰弱して死んでしまったのか・・。ノラネコの世界で起こっていることは、人間にはよくわからない。

 なんせネコの死骸というのは、不幸にも交通事故でクルマにはねられたものぐらいしか目にすることがないからだ。子ネコは動作が敏捷でないので事故に遭遇する確率も高いだろう。

 私は、ノラネコにはエサはやらない、餌付けも絶対にしない。
 集合住宅では、「ネコにエサをやらないでください」という立て札がある。

 別に禁止されていなくても、ノラネコにはエサをやるべきではないと私は考えている。
 なぜなら、ノラネコは「野生動物」(・・"準"野生動物くらいか)、生き抜けるかどうかはネコ次第。自分でエサをとる術をいもたないノラネコは生きのびることができないのは、自然の掟だからだ。
 エサを獲るチカラが衰え、カラダが弱ったら、間違いなくカラスやトンビなどの肉食鳥の"航空部隊"の餌食になる。これが自然界の掟だ。だから、ノラネコの死骸をみることはほとんどないのだろう。死に場所を求めて、こうした肉食鳥の目につきにくい場所に身を潜めるらしいが。

 逆にいえば、ノラネコは小鳥を狙っているし、ネコは本質的に肉食獣なのだ。子供時代以来、ネズミを加えたノラネコは目撃したことがないのだが・・・。

 ノラネコは、イエネコが野生化したものなので、種としてはイエネコと同じだ。
 だが、生活環境がまったく異なるので、飼い猫に比べて寿命が著しく短いようだ。ノラネコの寿命は、せいぜい 4~5年らしい。去勢手術もしないから、基本的に発情期も一年に1~2回(?)だけ。まあこれが、本来の野生動物としてのライフサイクルなのだろう。


ノラネコの生態をフィールドワークする

 やはり面白いことにノラネコの観察を動物生態学として学問としてフールドワークしている研究者が存在するのだ。
 
 子供向きにやさしく書かれた本が2冊入手できる。

『ノラネコの研究-たくさんのふしぎ傑作集-』(伊澤雅子=文、平出 衛=絵、福音館書店、1991)
『わたしのノラネコ研究』(山根明弘、さえら書房、2007)

 この二人は先輩後輩の関係にあり、時間的に前後しているが、同じフィールドでノラネコの生態を研究している。フィールドは福岡県の漁村・・島。全部で200匹くらいノラネコがいるという。
 前者はノラネコの一日の記録を絵本にしたもの、後者は研究を引き継いで、生態学のフィールドワークさらに遺伝子分析を合体させたもの。

 さすが、日本の動物学は、今西錦司に始まる独創的な研究を積み重ねてきた。
 たとえば、「サル学」などは、世界に誇る、日本発の学問である。なんせ、観察対象であるニホンザルはそこら中に住んでいるし(・・最近では市街地に現れては悪さをするもののすくなくない)、「個体識別法」というメソッドによって、サルを一匹一匹ごとに識別して観察するノウハウを確立したことが大きいのだ。
 これは、『高崎山のサル』(伊谷純一郎、講談社学術文庫、2010)という本に詳しく書いてある。大学時代に読んで実に面白いと思った本だ。動物園のサル山の観察も実に面白い。

ノラネコの研究にあたっては、同じく「個体識別法」が採用されているが、ネコはサルに比べると、格段に個体識別は容易である。なんせブチの模様はネコさまざま、素人の私でもネコを一匹一匹ごとに識別するのは簡単だ。

 こうして得られたネコの観察の結果については、ぜひ上掲の二冊をご覧になっていただくのがよい。
 ネコの一日を追跡した伊澤雅子の本は絵本としてもすごく面白いし、ネコの行動範囲と繁殖について調べた山根明弘の本も非常に面白い。
 ネコの行動範囲はけっこう広く、しかしいつも同じ時間帯に同じ場所に出現するのは、行動範囲が決まっているからで、いっけん気まぐれなノラネコの行動も、実はパターン化されたものであることがわかる。

 すごく重要なアドバイスが伊澤雅子の本に書かれている。
 それは、ノラネコとは目をあわせるな(!)ということでる。ノラネコは、ノラネコどうしでも目をあわせないようにしているらしい、なんだか「ガン」をつけるのも、「ガン」を飛ばされるのも、極度にいやがっているようでおかしい。
 そして、ノラネコは上から見下ろされるのを極度にいやがると。自分が上から見下ろすのはいいらしい。ガンを飛ばされたり、上から目線で見られるのが極度にイヤだというノラネコの習性、知ってみると実に興味深い。
 私も授乳中のまっくろ母ネコから、ものすごい形相で睨まれている。

 ノラネコがどういう行動をしているか地道に追跡して調査する姿勢、最近は東京でもタヌキなどが生息しているようだが、なんといってもノラネコほど豊富に存在して、容易に観察できる野生動物はいない。

 身近な動物も、こういう観点からあらためて観察してみると、実に面白いものだ。

 今年はもう遅いが、来年あたり、「子供の夏休みの宿題」のテーマとして面白いかもしれない。


ノラネコと人間の関係

 ノラネコにはノラネコなりの行動論理があり、人間が勝手に感情移入しても、ノラネコの行動論理はいっさいゆるがない。
 これはカイネコ(飼い猫)でも似たようなものだろう。

 ネコにはネコの世界があり、ネコにはネコなりの行動論理がある。
 ネコが考えているのは、ヒトが考えるのと同じことではないのは当たり前といえば、当たり前だ。

 「ヒューマニズム」(humanism)とは「人間中心主義」のことだが、ネコの立場からすれば「キャッティズム」(catism ?)あるいは「アニマリズム」(animalism ?)となろうか。ネコは、あくまでもネコ中心にものを捉えている

 人間との関係でいえば、そりゃあ、ただでエサくれれば、エサを探す苦労がなくなるのでネコの立場からすればラクにはなるが、だからといって人間の勝手な思い込みはネコにはまったく通用しないし、ネコには関係がない。
 
 ノラネコがかわいいとか、かわいそうだとか、あるいは逆に邪魔だとか、そういう観点はいろいろあろう。
 ただし、ネコをいじめるのは論外、人間のすることではない! 
 とはいえ、人為的にノラネコを増やすことになる捨て猫にかんしては、私は捨て猫には賛成ではないので、飼うなら去勢手術すべしといっておきたい。

 ノラネコはノラネコのままほっておくべし(let them be)、絶対に餌付けするなかれ、といっておきたいのは、先にも書いたように、エサを獲れなくなったらノラネコは死ぬのが自然界の掟だからである。



 通りすがりのノーブルな(=高貴な)ネコが、カメラを向ける私を一瞥(いちべつ)して、ゆっくりとした歩みで去っていった。
 ヒョウのようにしなやかで、見事な毛並みと長い脚をもったこのネコは、どこかの家の飼い猫かもしれないが、首輪もなにもつけていない。このネコの目つきからみて、ノラネコっぽいと私は思ったのだが・・・

 このネコからすれば、私はいったいどのような存在として認識されているのだろうか? こういうことにかんしては、擬人化しても意味はない。ネコがネコとしていかなる認識をもっているのかについて、関心があるのだ。

 この件については、次回の 猛暑の夏の自然観察 (3) 身近な生物を観察する動物行動学-ユクスキュルの「環世界」(Umwelt) で考えてみたい。


<読書案内>

『ノラネコの研究-たくさんのふしぎ傑作集-』(伊澤雅子=文、平出 衛=絵、福音館書店、1991)



『わたしのノラネコ研究』(山根明弘、さえら書房、2007)





<関連サイト>

炸裂するキャッツ・ファイト!オスネコどうしのガチンコ対決
・・これはわたし自身が近所で撮影に成功した「キャッツ・ファイト」の動画(1分55秒)。とにかくすさまじのでご覧あれ!(YouTube アップロード: 2011年6月4日)



荒野の決闘! 野良猫対決 オスネコの戦い 【冬枯れの荒野編】

野良猫『白昼の決闘』(1/2) 因縁の対決・・・オス猫バトル再燃!
・・私は眠気覚ましにこの YouTube映像をときどき見る。間合いを取りながら威嚇しあう二匹の雄猫、そしてついに炸裂するキャッツ・ファイトのすさまじさ。「その2」のネコの巴投げがスゴイ。ネコは本質的に猛獣なのだ!

猫バトルcats fight 
 取っ組み合いのすえ、絡み合ったまま屋根から落ちる二匹のネコ。その後どうなったのか?


<ブログにゃい関連記事>

タイのあれこれ (10) シャム猫なんて見たことない・・・
・・旧国名をサヤーム(シャム)といったタイで、私は一度もシャム猫を見なかった。

三度目のミャンマー、三度目の正直 (4) ミャン猫の眼は青かった-ジャンピング・キャッツ僧院にいく (インレー湖 ③)
・・「ネコの国ニャンマー」紀行より

映画 『ペルシャ猫を誰も知らない』(イラン、2009)をみてきた

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2010年8月28日土曜日

映画 『ペルシャ猫を誰も知らない』(イラン、2009)をみてきた




◆イラン(2009年)カラー106分
◆監督:バフマン・ゴバディ
◆出演:ネガル・シャガギ、アシュカン・クーシャンネジャード、ハメッド・ベーダード

 映画 『ペルシャ猫を誰も知らない』(2009、イラン)を見てきた。場所は、東京・渋谷のユーロスペース。

 閉塞感の強い現代のイランの首都テヘラン。

 何よりも自由を求める若者たちは、とくにミュージシャンやアーチストは、とにかく自由に表現したい、それが可能でないのなら海外にでたい、という強い思いを抱いて日々を過ごしている。

 この映画は、2009年現在のイランのミュージシャンたちの思いをそのまま映像作品にした、ドキュメンタリータッチの「音楽映画」である

 最初から最後まで、さまざまなジャンルの音楽が演奏される。インディー・ロックからヘヴィメタ、そしてなんとラップまで。伝統音楽のシーンもでてくる。

 無許可でゲリラ撮影されたという映像をみながらテヘランの若者たちのことを考えつつ、ひたすら彼らが作り出す音の世界に浸ることになる。

 ストーリーは、ロンドンで公演することを夢見る、インディー・ロック系のカップルが、バンドのメンバーを求めて、コネが豊富な便利屋の若者が紹介してくれるミュージシャンたちに次から次へと会ってゆく形で進行する。この便利屋の若者には、偽造パスポートとビザの作成の仲介も依頼している。

 バンドのメンバーは集まったが、なんせ練習する場所を確保するのもままならない。カネが問題なのではない、当局の許可が下りない音楽表現行為は取り締まり対象であり、すぐに有無をいわせず逮捕されてしまうからだ。
 息の詰まる世界。閉塞した現状。鬱積したエネルギーを発散させるため、非合法の「パーティ」に没入する若者たち・・・。痛切なまでの自由への憧れ。


 1979年の「イラン・イスラーム革命」からすでに30年。10年が一昔前ならすでに、30年といえばジェネレーションに該当する。ここに登場する若者たちはみなおそらく30歳以下だろう。革命以後に生まれた世代であり、革命を知らないどころか、イランの閉塞状況からなんとかして脱出したいという気持ちは、ダイレクトに伝わってくる。

 1979年にイラン革命が勃発したとき高校二年生だった私には、きわめて衝撃的な事件であった。あれから30年、日本は急上昇して急降下するというジェットコースターのような30年であった。
 ではイランどうか。この国も激しい動乱をくぐり抜けてきた30年であったことは確かだ。

 雪解けしたかにみえたイランの政治状況も、現在はまた閉ざされたまま、西洋世界を敵に回した孤立路線を邁進している・・・

 この映画を撮影した4時間後に監督は出国し、主演の二人も出国したという。ディアスポーラになる覚悟のもとに。


 私は、イランには行きたい行きたいと思っているが、いまだに実現していない。
 閉塞感が強いとはいえ、その意思さえあれば自由に海外渡航できる自由な日本、パスポートを取得すること自体が困難なイラン。

 どちら国にも、生きているのはフツーの人間である。

 違うのはただ・・・




<公式サイト>

日本語版公式サイト(トレーラーあり)
http://persian-neko.com/index.html

No One Knows About Persian Cats - Official Trailer
(YouTube 英語字幕つきトレーラー)







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2010年8月27日金曜日

猛暑の夏の自然観察 (1) セミの生態 (2010年8月の記録)




          
 「夏休みの自然観察」と書きたいところだが、いかんせん大人は夏休みではない。

 今年の猛暑が原因なのか、私がいま住んでいる千葉県船橋市では、ものすごい量のアブラゼミが発生していて連日鳴きちらしている。
 猛暑日が連続しているのとパラレルに、アブラゼミの鳴く日々も連日続いている今年の夏である。セミが鳴いていると余計暑さも感じられるので、疲労がさらに増す。
 東京都心と違って、ヒートアイランド現象はないようだが。

 お盆の頃がピークだったようで、これを書いている現在は、ツクツクボウシの鳴き声も混ざってきたためか、ピーク時のうだるような暑さと相乗効果になっていたアブラゼミの鳴き声も下火になりつつあるところだ。もちろん、まだまだセミの鳴き声はすさまじい。

 おかげで今年はセミの生態を、いあがおうでも観察する機会にめぐまれた。
 今回は、写真を中心に、セミの生態をアルバムにしておきたいと思う。つれづれなる随想もまじえながら。


空蝉(うつせみ)とはセミの抜け殻


 セミの抜け殻(cicada's shell)が建物の外壁に残っている。源氏物語にでてくる、空蝉(うつせみ)という古風な表現を思い出す。

 『源氏物語』第3帖「空蝉」。源氏と空蝉の歌のやりとりからきている。

空蝉(うつせみ)の身をかへてける木(こ)の下(もと)に 
 なほ人がらの なつかしきかな (光源氏)

空蝉(うつせみ)の羽(は)におく露(つゆ)の木(こ)がくれて
 しのびしのびに ぬるる袖(そで)かな (空蝉)


歌の大意(瀬戸内寂聴訳)

蝉が抜け殻だけを残し
去ってしまった木の下で
薄衣だけを脱ぎ残し
消えてしまったあなたを
忘れかねているこのわたし

薄い空蝉の羽に置く露の
木の間にかくれて見えないように
私も人にかくれて忍び忍んで
あなたへの恋の切なさに
ひとりないているものを

(出典:『源氏物語 巻一』(瀬戸内寂聴訳、講談社文庫、2007)

 源氏17歳、つれなくされた女との思い出である。

 東京の大塚には空蝉橋(うつせみばし)という橋がある。橋じたいは美しくも何ともないのだが、情緒のある命名である。


メタモルフォーシス(変態)

 セミは、バタフライ(蝶)と同様に、幼虫から蛹(さなぎ)を経て、脱皮して成虫になり空を飛ぶようになる。これをさして「変態」という。動物学の専門用語である。

 「変態」は、英語でいうと Metamorphosis である。ひらたくいえば transformation となる。ラテン語経由でギリシア語から入ったコトバである(< Gk metamórphōsis)。分解すれば、meta-、 -morphe、-osis となる。Morphe は形、形態。接尾語の -osis は、形成するという意味の接尾語。meta- はこの場合は after という意味か。もともとの意味は、形が作られたあと、となる。
 
 「メタモルフォーシス」といえば、古代ローマの詩人オウィディウス(Ovidius)の『変身物語』が有名である。原題は「メタモルフォーセス」でそのものずばり。「ナルキッソスとエコー」など変身(メタモルフォーシス)をモチーフとした神話が多数含まれるという意味と、ギリシア神話がローマに受け入れられて変容(メタモルフォーシス)という意味が掛け合わされている。

 フランツ・カフカの短編小説 Die Verwandlung は、日本語訳では『変身』となっている。ある朝、目が覚めたら虫になっていた男の話だが、さすがに「変態」と訳したら、動物学を知らない一般読者からは大いに誤解される可能性が高かったためであろう。ドイツ語の辞書を開いてもらえばわかるが、ちゃんと「変態」という訳が載っているはずだ。ほんとうはこの訳語のほうが。、意味としては正しい。

 カフカの小説においては、人間が甲虫に変態(変身)する。甲虫に変態(変身)した存在から振り返れば、外骨格をもたないので幼虫のような存在である。
 セミも、幼虫からさなぎを経て、外骨格をもつ甲虫としてのセミに変態(変身)する。

 セミは、幼虫として約3~11年間地中で過ごす(・・アブラゼミは6年間)。その前に、夏のあいだに枯れ木に生み付けられた卵は、翌年の梅雨時に孵化して地中に入る。気の長い話でありる。湿気がないとそのまま卵は死んでしまうらしい。


マオリ語でアブラゼミのことを「タタラキヒ」という!

 短い命を燃焼させるかのように、セミが鳴きまくっている。

 セミは英語で cicada (シカーダ)というと高校時代に習った。母音で終わる、スペイン語かイタリア語っぽい響きのコトバですね。英国みたいに寒い地域ではセミもいないはずだ。今年の日本は温帯というより亜熱帯だな。



 Wikipedia の記述によれば、「日本(北海道から九州、屋久島)、朝鮮半島、中国北部に分布し、人里から山地まで幅広く生息し、都市部や果樹園でも多く見ることができる」とある。千葉県の船橋市や鎌ヶ谷市は、梨の一大産地で果樹園が多いから、樹液を好むアブラゼミが多数生息しているのだろうか。

 しかし、アブラゼミの生息域がだんだんクマゼミやミンミンゼミにとってかわられているという。

アブラゼミは幼虫・成虫とも、クマゼミやミンミンゼミと比べると湿度のやや高い環境を好むという仮説がある。このため、都市化の進んだ地域ではヒートアイランド現象による乾燥化によってアブラゼミにとっては非常に生息しにくい環境となっており、乾燥に強い種類のセミが優勢となっている。東京都心部ではミンミンゼミに、大阪市などの西日本ではクマゼミにほぼ完全に置き換わっている

 もちろん例外もあるというが、いま私がいる地域は、その意味ではまだ都市化が進んでいないということうか。たしかにまだまだ畑も多く、土地が乾燥しているといった感じではない。

 また、セミと温暖化の関係については、地面の温度が関係しているという説がある。夏の暑さが厳しい地域はアブラゼミが生息しやすいらしい。

 ところで、wikipedia のアブラゼミの記述は、日本語版のほかは、現在のところ、英語とマオリ語(!)のみがwikipediaがある。生息域には朝鮮半島や中国北部も入っているのに、韓国人や中国人はなぜアブラゼミについて書かないのか不思議である。
 日本人は右脳で虫の鳴き声を聞いているという仮説が、かつては話題になっていたが、韓国人や中国人はセミの鳴き声をどうとらえているのか。いまはなき博品社から出版された『中国セミ考』という本をもっていたはずだが、どこにいったのかわからないので、参照できないのは残念。

 アブラゼミの翅(はね)は茶褐色で、木に止まっているアブラゼミはよく注意して観察しないと、識別しにくい。つまりはこの翅(はね)は保護色だということなのだ。



 参考のために、マオリ語のアブラゼミの記述を掲載しておこう。マオリ語とは、ニュージーランドの先住民マオリ族の言語である。そう、アブラゼミは南半球のニュージーランドにも生息しており、マオリ族はアブラゼミをさすコトバをもっているのだ!

>Tatarakihi
Nō Wikipedia Māori 

kua he species o Graptopsaltria te tatarakihi.

 マオリ語の文章なんて初めて見たが、アブラゼミのことは「タタラキヒ」というそうだ。
 説明文はこれだけだが、また、これを知ったところでどうなるということもないが、なんだかうれしい。

 英語版の記述は短いので一緒に紹介しておこう。アブラゼミは large brown cicada という。特定のコトバがないので、セミ(cicada)を形態模写しただけの表現である。

Graptopsaltria nigrofuscata

The large brown cicada is a species of cicada in the genus Graptopsaltria of the family Cicadidae found across East Asia, including Japan, the Korean Peninsula, and China, as well as in New Zealand. They are called aburazemi (アブラゼミ) in Japanese, and tatarakihi in Māori. The males make a loud chirping that ends with a click caused by a flick of the wings.

Description
Large brown cicadae are usually about 55 to 60 mm long, having a wingspan of roughly 75 mm.


 これにくらべれば日本語の記述はさすがに充実している。

 アブラゼミに限らず、セミの生態は実はよくわかっていないらしい。なにせ地中生活が6年以上と長く、観察もきわめて困難である。成虫になってからも、寿命が短い。



命短し恋せよ乙女、もとい、命短しセミよ鳴け?

 やたらセミの死骸が落ちている。踏みそうになった。



 それにしても不思議なのは、セミは死ぬと手足を折りたたんで仰向けになって斃れていることだ。まるで、エジプトのミイラのように、胸の前で両手をクロスさせている。
 死ぬ間際のセミは、仰向けになって手足を折ったり伸ばしたりしているが、徐々にチカラが尽きて死んで行く。



 アリの一群がセミの死骸を運ぼうとしているシーンに遭遇する。立ち止まって腰をおろして観察していると、セミの大きさに比べてアリのなんと小さいことよ。チームワークを発揮してなんとか運ぼうとしているのをみると、お疲れさんという気分になる。君たちのおかげで処理してくれるわけだ。

 アリの処理能力にも限界か、手つかずのままのセミの死骸があちらこちらに放置されたままになっている。
 いずれ風化され、バラバラになり、バクテリアが分解して再び土に戻っていくのである。
 土から這い出て、また土に還る。
 個体は死んでも、次世代への連続は確保され、種としては残る。

 すでに8月も下旬になるのに、鳴いてるセミはアブラゼミばかり。そろそろツクツクボウシが鳴いてもいい頃だと思うのだが・・・

 
 ところで、日曜日午後7時半からの番組、NHK「ダーウィンが来た-生き物新伝説-」を毎週楽しみにしているが、ほんとうに面白い知的エンターテインメント番組だ。そうとうなカネと時間をかけて作成している番組で、世界中の自然の驚異をお茶の間で見ることのできる知的エンターテインメントになっている。

 そこまでいかなくても、自然はごく身近で観察すればカネはかからない最高のエンターテインメントだ。
 夏場のセミも然り。今年の夏のセミは、いやがおうでも意識せざるを得ないほどの大量発生であったように思う。

 さて、古い殻を脱ぎ捨てて、次のステージに進まねばならないか。




 次回は、(2) ノラネコ の観察につづく



<ブログ内関連記事>

猛暑の夏の自然観察 (3) 身近な生物を観察する動物行動学-ユクスキュルの「環世界」(Umwelt)

猛暑の夏の自然観察 (2) ノラネコの生態 (2010年8月の記録)

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アリの巣をみる-自然観察がすべての出発点!

ミツバチについて考えるのは面白い!-玉川大学農学部のミツバチ科学研究センターの取り組み

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(2014年9月1日 情報追加)


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2010年8月26日木曜日

レビュー 『これを見ればドラッカーが60分で分かるDVD』(アップリンク、2010) ー ドラッカー自身の肉声による思想と全体像






文字通り 「これを見ればドラッカーの全体像がわかる」 一本

 "Peter Drucker - An Intellectual Journey"(ドラッカー 知の旅)の日本語字幕付きバージョン。

 日本語版タイトルどおり、「これを見ればドラッカーが60分でわかるDVD」である。

 最近ドラッカーが話題になっているけど本を読むヒマがない、本を読むのが面倒くさいという人にはもちろん、ドラッカーが「マネジメントの父」と呼ばれており、ドラッカー経営学のエッセンスくらいはわかっている人も見るべき DVD だといえる。

 なぜなら、先入観のない初心者であれば、ドラッカーが単なる経営学者ではないことがわかるから、時間の節約になる。

 一方、ある程度知っている人にとっても、経営学がドラッカー思想の中核をなしているが一部に過ぎないことを自覚する意味で必見だといえるからだ。


 私は、どちらかとえば後者の「ある程度知っている人」に分類されると思っているが、このDVDを見ていて強く思ったのは、なぜドラッカー経営学の思想が米国では定着せず、日本でこそ定着した理由がよく理解できるということだ。

 日本では多くの経営者がドラッカー思想を理解し、実践したからこそ、1970年代から80年代にかけての日本がアメリカを打ち負かすまでの勢いをもったことが理解できるのである。

 いわゆる「日本的経営」の形成に、ドラッカー経営学が与えた思想的な意味合いが大きかったということであり、今回のブームも、あくまでも経営学という範囲内での「ドラッカーブーム」再燃という側面が強い。

 さらにいうと、いまドラッカーに注目が集まるのが、「日本的経営」へのノスタルジーであったとしたら、それはあまり意味のないアナクロニズムではないかという気がしないでもないのだ。

 GE のジャック・ウェルチ元 C.E.O.といえば GE 中興の祖であるが、彼が断行した「業界で一位か二位でない事業からは撤退する」という戦略が、前任者に連れられて初めて出会ったドラッカーのアドバイスであったことが、ウェルチ自身のクチから語られていることの意味をよく考えるべきだろう。

 ジャック・ウェルチほど、「知識社会」における人材育成の意味を理解していた経営者は、ほかにはなかなかいないのではないかと私は考えている。


(DVD再生画面より)

 1990年代の初頭に M.B.A. 取得のためアメリカに留学していた私は、M.B.A.の授業ではドラッカーのドの字も聞いたことがなかったし、その後も同時代体験としてのドラッカーは、経営学者というよりも社会問題への鋭い洞察力で名の知られた、自称「社会生態学者」としてのそれであった。少なくとも米国ではそのように受け取られていたようだ。

 この DVD でも、米国人がドラッカーを「再発見」したのは、狭い意味の企業経営というよりも、むしろ広義の非営利組織の NPO のマネジメントの分野であったことがよく描かれていると思う。

 とくにいわゆるメガ・チャーチ(巨大教会)を取り上げたシーンは、米国社会を知らないと、いまひとつピンとこない内容なのではないかとも思われる。


 ドラッカーの基本思想が、営利であれ非営利であれ、その事業のミッション(=使命)は何か、目的は何かを明確にすること、そしてカネよりもヒトを重視すべきこと、知識社会を担うのはヒトであること、そのゆえにこそ生涯学習が重要なことなど、ドラッカー思想のエッセンスはすべてこの DVD において取り上げられている。

 「経済よりも社会のほうがはるかに重要だ」というドラッカーの発言がすべてを言い表している。「マネジメントはサイエンスでもアートでもない、プラクティス(実践)である」という発言も。

 この DVD は、なによりもドラッカー自身の肉声が収録されており、ドラッカーの教え子や影響を受けた経営者や評論家たちが語るドラッカーは、日本人が捉えているドラッカーとは少し違う観点からのものあって面白い。

 その意味で、ドラッカーの全体像を知るためには、この DVD を視聴する意味があるといえる。日本語字幕と英語音声のズレも興味深い。価格面でもお買い得な一本である。


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<参考サイト>

『これを見ればドラッカーが60分で分かるDVD』予告編(YouTube 映像 日本語字幕つき)



<ブログ内関連記事>

書評 『知の巨人ドラッカー自伝』(ピーター・F.ドラッカー、牧野 洋訳・解説、日経ビジネス人文庫、2009 単行本初版 2005)-ドラッカー自身による「メイキング・オブ・知の巨人ドラッカー」
・・ドラッカー自身によるドラッカー入門

『「経済人」の終わり』(ドラッカー、原著 1939)は、「近代」の行き詰まりが生み出した「全体主義の起源」を「社会生態学」の立場から分析した社会科学の古典
・・ドラッカーは「思想家」として読むべきなのだ

書評 『この国を出よ』(大前研一/柳井 正、小学館、2010)-「やる気のある若者たち」への応援歌!
・・大前研一はドラッカーについては、かつて講演会でともにしたことが何度もあるといい、敬意を表しつつも、1980年以降なぜ米国でドラッカーが読まれなくなったかについて、貴重なコメントを行っている

ドラッカーは時代遅れ?-物事はときには斜めから見ることも必要
・・ホリエモンの発言が印象的

書評 『世界の経営学者はいま何を考えているのか-知られざるビジネスの知のフロンティア-』(入山章栄、英治出版、2012)-「社会科学」としての「経営学」の有効性と限界を知った上でマネジメント書を読む
・・「ドラッカーなんて誰も読まない!?  ポーターはもう通用しない!?」という帯のキャッチコピー

人生の選択肢を考えるために、マックス・ウェーバーの『職業としての学問』と『職業としての政治』は、できれば社会人になる前に読んでおきたい名著
・・「実践」としての政治と、「学問」としての政治学は、まったく別物である

シンポジウム:「BOPビジネスに向けた企業戦略と官民連携 “Creating a World without Poverty” 」に参加してきた
・・バングラデシュでグラミン

書評 『国をつくるという仕事』(西水美恵子、英治出版、2009)
・・広義のNPO(=非営利組織)のマネジメントとリーダーシップ

(2014年8月18日 項目新設)


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