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2025年3月29日土曜日

美術展「異端の奇才ビアズリー展」(三菱一号館美術館)に行ってきた(2025年3月28日)ー 19世紀末前後に生きたその短い生涯とその画業の全貌

 


丸紅でボッティチェリを見たあとは、大手町を経由して丸の内へ移動。散歩としては、このくらいの距離がちょうどいい。 

ビアズリーといえば、オスカー・ワイルドの『サロメ』オスカー・ワイルドの『サロメ』といえばビアズリー。そんなイメージが定着している。 


(福田恆存訳の『サロメ』)


『サロメ』は新約聖書に登場する物語である。サロメといえば、ギュスターヴ・モローの幻想的な絵画を想起する。



物語の影響はリリアーナ・カヴァーニ監督の映画『愛の嵐』(The Night Porter 1974年)にまで及んでいる。お皿に載せられた生首という、倒錯的で猟奇的なシーン! 




ビアズリーにはじめて出会ったのは高校時代のことだ。神田の古書店街で英国で出版された画集を手にして、その妖しい魅力に魅入られてしまった。 ビアズリー独自の二次元的でフラットな黒白の線描画の世界。オスカー・ワイルドの作品も好きで英語で読んでいるが、なぜか日本語訳で読んだことはない。 


(マイコレクションよりビアズリーとオスカー・ワイルド)


そんなビアズリーの本格的な美術展である。三菱一号館美術館は、11年前の2014年にも「ザ・ビューティフル 英国の唯美主義1860 ~ 1900」を開催している。ビジネスをつうじて全盛期の大英帝国と縁の深かった三菱ならでは、といえよう。  

基本的に独学で絵画を習得したオーブリー・ビアズリーだが、オスカー・ワイルドもビアズリーもまた、19世紀末英国の日本趣味(アングロ・ジャパニーズ)の影響下にある。そしてビアズリーは、再帰的に日本にも影響をあたえている。 

今回の美術展では言及がなかったが、大正時代に谷崎潤一郎の『人魚の嘆き』の装画を担当した水島爾保布(みずしま・にほふ)のことを想起したい。かれには「ビアズリー張りの」という形容詞が冠せられている。  


(文庫版はサイズが小さいのが残念だが・・)


日本に影響され、ふたたび日本に影響するという、玉突きのような影響関係は、構図において浮世絵の影響下にあるフランス印象派と似ているかもしれない。顔を描く際に鼻を描かない後期ビアズリーの手法は、現代日本のマンガやアニメと共通しているような気もする。


(図録より「恋文」 鼻が描かれていないことに注目!)
 

今回の美術展の監修をおこなったの河村錠一郎・一橋大学名誉教授は、英語と英文学、そして美術史が専門の学者だ。  

40年以上も前のことだが、大学学部時代にはスライドを多用した河村教授の西洋美術史の講義を受講し、大いに蒙を啓かれた経験をしている。

とくに新プラトン主義の影響下にあった、ルネサンス後期からマニエリスム期へや、英国やベルギーの世紀末美術の講義が印象に残っている。 


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■切っても切れないはずのビアズリーとオスカー・ワイルドだが・・・

さて、ビアズリーといえば、オスカー・ワイルドの『サロメ』というイメージが固定化している。

ところが、ワイルド自身はかならずしもビアズリーのイラストには満足ではなかったらしい。そんな話は、この美術展ではじめて知った。 

ビアズリーとオスカー・ワイルドの複雑な関係については、美術史を題材にした原田マハの『サロメ』という小説を読むといい。もちろんフィクションではあるが、ファクトをベースにして作家の想像力で補った作品だ。イメージを膨らませることができるだろう。  


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結核のため25歳で亡くなったビアズリーだが、その短い生涯における短い画業は、『サロメ』の前後で分けることができる。

前期の代表作は、デビューにつながった『アーサー王の死』である。 


男性性器を肥大化して描く猥褻でカリカチュア的な手法は、日本の浮世絵春画の影響があるのだろうか。これらの作品は「18禁!」のスペースに展示されているのでお楽しみに。
 



ビアズリーの画集はもっているので、あえて『図録』(3,500円)は購入しなかったが、マグネット(@650円)は2種類購入した。マイコレクションにまたあらたに加わることになった。






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2025年3月28日金曜日

「ボッティチェリ 美しきシモネッタ 特別公開展」に行ってきた(2025年3月28日)ー 丸紅本社にあるギャラリーで法人所有のボッティチェリを見る

 

 昨日のことだが、ひさびさに丸紅の本社に行った。竹橋駅で下車して皇居の周りをちょっと散歩してから神田一橋へ。外国人インバウンド客が多い。桜はまだ満開にあらず。 

ただし、今回は仕事で行ったのではない。本社の3階に併設されているギャラリーに行くためだ。いま「ボッティチェリ 美しきシモネッタ 特別公開展」を開催している。 


(丸紅本社の1階フロア 筆者撮影)


ボッティチェリは、言うまでもなく15世紀のイタリアルネサンスの全盛期の画家。 

そして「美しきシモネッタ」(La bella Simonetta)とは、代表作の「プリマヴェーラ」(春)や「ヴィーナスの誕生」のモデルとして登場する美女のこと。結核を患っていた彼女は、若くして亡くなったという。 


(「プリマヴェーラ」 Wikipediaより)


(「ヴィーナスの誕生」 Wikipediaより)

そんな「美しきシモネッタ」を総合商社の丸紅が所有しているのは、1969年から10年間にわたって美術品取り扱いのビジネスをやっていたからだという。その一環である。

丸紅がいくらで落札したのかは知らないが、個人ではなく法人のコレクションとしては、じつに趣味がいい。わたしは、ボッティチェリなどイタリアルネサンスの絵画が大好きだ。 

ギャラリーで展示されている絵画は、「美しきシモネッタ」の1品だけだが、その他の関連する書籍や資料なども同時に展示されている。ボッティチェリが生きた時代のフィレンツェを描いた、作家の辻邦生の生誕100年でもあるという。 

入場料は500円で現金不可というのが現代的だ。なお、着物や浴衣など和装なら入場料無料というのも粋なはからいも。会期は5月24日まで。ただし日曜祝日は休館。美術館ではないからね。 

そのあとは、皇居の周りを歩きながら大手町を経て丸の内へ。散歩コースとして、たいへんよろしい。この周辺はビジネスパーソンとしてのわたしの原点でもある。 


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「地下鉄サリン事件」に対する警察と自衛隊の取り組みを一次資料で知る ー『地下鉄サリン事件はなぜ防げなかったのか ー 元警察庁刑事局長 30年後の証言』(垣見隆、手塚和彰他編著、朝府新聞出版、2025)と『「地下鉄サリン事件」自衛隊戦記 ー 出動隊指揮官の戦闘記録』(産経NF文庫、2025)

 

 「地下鉄サリン事件」から30年。1995年3月20日から30年。時間がたつのはあまりにも早い。30年といえば一世代である。 

関西では阪神大震災、関東ではオウム事件。大規模自然災害に宗教テロ。「記憶」の風化は避けられないが、一方では30年もたてば、明らかになってきたことも少なくない。知られざる「記録」が発見され、記憶が消えないうちに記録となる。 

1995年は、日本社会の底が抜けてしまった年として回顧されることになるだろう。 



■オウム事件に対する「警視庁」の対応の真相


事件当時の「警察庁」の責任者に対する聞き取りである。いわばオーラルヒストリーとしての一次資料ということになる。 

ここで「警察庁」とカッコ書きにしたのは、事件が発生した東京都は「警視庁」の管轄が、全国の「都道府県警」を束ねるのが「警察庁」であることが、なにを意味しているのかを知る必要があるためだ。 

現在では事件のかんする時系列が明らかになっているが、リアルタイムでは日本各地で起こった事件が、点と線で結ばれていなかったため、捜査に支障を来していたのである。面で行うべき広域捜査が難しかったのだ。 

戦前は、組織上は内務省の下にあった警察は一元的に捜査をコントロールできたが、「戦後改革」のもとで内務省が解体され、地方自治の観点から都道府県単位に責任権限が委譲された。そのために発生したデメリットである。日本社会の問題点が露わになった事件でもあったのだ。 

興味深いのは、当時は警察庁刑事局長だった垣見氏が、捜査計画を策定するにあたって、まずは先行事例を調査したという回想である。

戦前の宗教がらみの事件といえば、なんといっても1921年と1935年の二度にわたって実行された「大本事件」となる。 

一般には「宗教弾圧」として理解されている大本教への強制捜査と教団施設の徹底破壊であるが、一般的な理解と捜査を担当した警察の立場はだいぶ違うことがわかる。

「大本事件」においても、特高による内偵にもとづいて捜査計画を策定し、強制捜査を実行しているのだ。この関連資料はぜひ見てみたいものだ。 

ジャーナリストの江川紹子さん(・・高校の先輩でもある)は、YouTube番組のインタビューのなかで、それでも垣見氏はまだ語っていないことがあるのではないか、と言っていた。

 「オウム事件」の全容が完全に明らかになるのは、まだまだ時間がかかりそうだ。 


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目 次
巻頭言 手塚和彰
第1章 松本サリン事件 1994年6月~10月 
第3章 対オウム作戦の立案 1994年9月末~121 
第3章 事件の続発と態勢構築 1995年1月~3月 
第4章 地下鉄サリン事件 1995年3月20・21日 
第5章 教団拠点の大捜索 1995年3月22日~3月中 
第6章 國松長官狙撃事件 1995年3月30日~5月 
第7章 麻原逮捕およびその後 1995年5月~1996年8月 
第8章 オウム事件全体の評価(1)― なぜ早期に捜索できなかったのか 
第9章 オウム事件全体の評価(2)― 30年後に振り返る
付掲/事件の時系列表
垣見隆とオウム捜査 ー ある警察官僚の出処進退(五十嵐浩司)
垣見証言の意義(吉田伸八)
終わらない事件と本書の位置 ー 後記にかえて(横手拓治)
参考文献

著者プロフィール
垣見隆(かきみ・たかし)
1942(昭和17)年12月、静岡県浜松市生まれ。1965年、東京大学法学部卒業後、警察庁入庁。警視庁神田警察署長、福井県警察本部長、警察庁刑事局長、警察大学校長などを経て、1996(平成8)年、警察庁退職。1999年、弁護士登録。現在、第一東京弁護士会所属弁護士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)


■「サリン事件」に対する自衛隊の対応とその教訓

警察は事件捜査を行うが、警察だけでは対応できないのではないかという議論が警察内部でなされていたようだ。そのため自衛隊に頭を下げて協力を依頼したということを、垣見氏は語っている。 

強制捜査にあたって、毒ガス対策として必要な防護服を自衛隊から借りたことがあげられる。これは「地下鉄サリン事件」が発生する前のことである。 

そして、オウムと銃撃戦になった場合を想定して自衛隊の出動準備が行われていたことだ。いわゆる「治安出動」である。実際にはオウムは銃撃戦で応酬してくることはなかったが、その事実は知っておいたほうがよさそうだ。 

実際に自衛隊が大車輪で活動したのは、「地下鉄サリン事件」における除染作業であった。世界ではじめて発生した「化学兵器テロ」である。 陸自の化学防護隊がクローズアップされているが、責任者として指揮をとったのは、陸上自衛隊第32普通科連隊長であった福山隆氏であった。化学防護隊との共同作業である。 

その体験記で一次資料ともいうべき『「地下鉄サリン事件」自衛隊戦記 ー 出動隊指揮官の戦闘記録』(産経NF文庫、2025)を読んだ。初版は2009年の改訂版。ノンフィクション系の読み物として面白く読める本でもある。  

都心では高層ビルによる電波障害があって無線がつかいにくいこと、30年前には携帯電話も普及していなかったため、軍隊にとって最重要の通信に苦労したことなど、当事者ならではのリアルの話も多い。 

連隊長自身は除染現場には出動していないので、実際に出動し現場で活動した隊員たちの証言が複数収録されている。記録写真や映像からだけではわからない、当事者の心理状態までわかる。

圧巻とういうべきなのは「第8章 幻の作戦計画」であろう。「最悪の事態の備え」て秘密の作戦計画が策定されていたというのだ。 

先にも見たように、「治安出動」が実行に移されることはなかったが、オウム真理教によるクーデターは未遂に終わったものの、けっして絵空事ではなかったのである。 

問題は、米国はこの事件から多くの教訓を引き出しているのに対して、日本全体では教訓が十分に活かされているとは言い難いという指摘がなされていることにある。政府も防衛省も「公刊戦史」としてまとめていないのである。 

ただし、東京都では石原元都知事のもとで教訓が活かされているというのが、数少ない救いというべきだろうか。2011年3月11日の「東日本大震災」の際にその教訓は活かされたことは記憶にあたらしい。


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目 次
《カラー写真集》自衛隊 "3・20" 出動記録
まえがき
第1章 第32普通科連隊 
第2章 大震災と防災訓練デモ 
第3章 事件発生 
第4章 留守部隊の奮闘 
第5章 出動準備 
第6章 出陣 
第7章 除染現場の闘い 
第8章 幻の作戦計画 
第9章 事件から得た戦訓
資料1 「地下鉄サリン事件2」の概要
資料2 神経剤とはなにかーサリンを中心に
資料3 陸上自衛隊の化学科部隊
資料4 除染隊出動記録ビデオより
あとがき
【特別掲載】地下鉄サリン事件の現場で(芹沢伸生 当時産経新聞写真部記者) 

著者プロフィール
福山隆(ふくやま・たかし)
1947年(昭和22年)、長崎県上五島・宇久島生まれ。佐世保北高から1970年(昭和45年)、防衛大学校(14期生)卒業。幹部学校指揮幕僚課程、外務省安全保障課出向、陸上幕僚監部防衛班・広報室、韓国防衛駐在官、第32普通科連隊長(地下鉄サリン事件時、除染隊派遣の指揮を執る)、陸幕調査第2課長(国外情報)、情報本部初代画像部長(衛星情報)、第11師団(札幌)副師団長、富士教導団長、九州補給処長などを歴任し2005年(平成17年)春、西部方面総監部幕僚長・陸将で退官。同年6月から2年間、ハーバード大アジアセンター上級客員研究員。現在、広洋産業株式会社顧問。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)



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