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2020年9月28日月曜日

書評『帝国としての中国 - 覇権の論理と現実』(中西輝政、東洋経済新報社、2004)-「中華秩序」の本質に迫る


中国と日本の関係は、きわめて難しい。ただ単に地政学という観点からだけでは理解できない力学が働いているからだ。

日中の二国間関係を理解するためには文明史論的アプローチが必要だとして、それを実践した思索の軌跡が、本書『帝国としての中国-覇権の論理と現実-』(中西輝政、東洋経済新報社、2004 新版2013)の内容である。中国史の専門研究者ではなく、政治学者による「中華秩序」の本質に迫る試みである。

ただ本書は、思索の軌跡であって、結論ありきの本ではない。その意味では、整理されきった内容を説明するというよりも、読者と一緒になって過去にさかのぼりながら考え、一歩一歩手探りで進むという叙述の仕方になっている。著者の思考プロセスを追体験することになる。


■「帝国としての中国」が主導した東アジアの国際秩序

本書で考察が加えられるのは、「帝国としての中国」である。現在は中華人民共和国という共産主義国家で「皇帝」はいないが、中国は秦の始皇帝以来「帝国」という枠組みで統治が行われてきた。

「帝国」といえば、古代ローマ、ペルシア、トルコ、インド、ロシア、英国・・と世界史上に大きな存在感を示してきた。だが、「帝国」といっても、十把一絡げにはできないのである。さまざまな形態が存在してきたのであり、文明の個性がそのまま帝国の個性となっている。

中国もまた秦の始皇帝以来、ラストエンペラー溥儀に至るまで、2000年以上にわたって「帝国」として存在してきたが、きわめて特殊な統治形態をとってきたことはいうまでもない。

端的にいえば「華夷秩序」というあり方である。みずからを文明の中心とみなす中国を「華」とし、その周辺を非文明的な「夷」という存在が取り囲んでいるという世界認識にもとづく秩序のあり方だ。

政治経済的には「朝貢体制」にもとづき、「帝国としての中国」とのその周辺諸国家との関係で形作られる国際秩序のことだ。上下関係と階層構造で成り立っている「垂直的な秩序」である。

17世紀半ばの西欧で生まれて、現在ではデファクト・スタンダードとなっている「ウェストファリア体制」という、主権国家どうしの対等な関係をもとにした「水平的な国際秩序」とは異なり、華夷秩序は基本的に上下関係と階層構造をもって秩序である。

もちろん、主権国家どうしの関係が対等であるとする西欧のウェストファリア体制においても、現実には「覇権国」が存在し、政治経済そして軍事におけるスーパーパワーとして君臨し、国際秩序を維持してきた。19世紀の英国と20世紀の米国というアングロサクソン勢力である。

面白いことに、第2次世界大戦後の米国主導の秩序のあり方と、伝統的な華夷秩序は似ていると著者は指摘している。・・・・米国中心の国際関係において「同盟国」の位置づけが、実質的に上下関係となっているからだろう。現在の日本を考えれば、容易に理解できる小おtだ。ということであれば、現在2020年代の米中対立は、似た者どうしの対立ということになる。


■「帝国」と周辺諸国家との「関係」に着目する

著者の中西教授は、「中国という帝国」そのものを真っ正面から分析しているわけではない。帝国の内部には、さまざまな少数民族が包含されているが、帝国の「内部」ではなく、帝国の「外部」に着目した分析だ。あくまでも中国の周辺諸国との「関係」のあり方に着目した分析である。

「中国という帝国」が、その影響力の及ぶ範囲内で、いななる「関係」を結んできたか、そしてその結果できあがった秩序とはいかなるものかに着目した、いわば搦め手のアプローチである。

中国の「中」は、中心の「中」ではないという指摘は重要だ。国(=國)という漢字が
意味するのは、囲いのなかに囲まれているという発想だ。

中国文明は「都市」において、商業活動を囲い、すなわち城壁のなかに囲い込むことで成立したのである。中国語で都市のことを「城市」というのはそのためだ。

中国文明の本質は、都市と商業であって、地方の農村ではない。この姿勢は現在まで一貫してつらぬかれてきたことは、現在においても「都市戸籍」と「農村戸籍」が別個の存在として併存し、国民として同等の権利を認められていないことにも示されている。

「ウチ」が中国であれば、当然のことながら中国の「ソト」との関係が問題になってくる。

中国大陸はユーラシア大陸の北東に位置し、東側の沿海部で海に節している。前者が「陸の中国」であれば、後者は「海の中国」となる。陸地でつながっている以上、ユーラシア大陸に発生した文明の影響を受けるのは当然だが、中国の「ソト」は内陸部だけではない。海の向こうにも存在することになる。海からの影響もあるということになる。

問題は、中国のウチとソトの境界がどうなるのかということだ。言い換えれば、中華秩序の限界についての認識はいかなるものかということだ。

具体的には、大陸においては西はトルキスタン、東は朝鮮半島となる。そして北はモンゴルなどの遊牧民南はベトナムなど海の向こうには日本と琉球があった(・・ここではかつて「化外の地」とされていた台湾は考察からはずしておく)。直接の脅威を防ぐバッファーとして西にトルキスタン、東に朝鮮があったと考えることも可能だ。帝国としての中国には、なくてはならない存在である。

東アジアの歴史的世界における中国と周辺諸国と諸民族の関係は、以下の3つの要因の相互作用と対峙のあり方で見るべきだと著者はいう。

① 中国と周辺各国とのあいだの政治・軍事的な力関係
② 華夷思想にもとづく、相互の「地位」と権威の上下関係(ハイアラキー)および、その実態や真の意図にかかわる現実との乖離
③ 周辺の側における、中国ないし「中華」との交流を求める貿易・文化的な動機

膨張と収縮を繰り返してきたのが「中国という帝国」だ。辺勢力がが軍事的に弱体化すれば膨張し、周辺勢力が軍事的に強大化すると収縮する。中華というのは文明概念であるが、タテマエ的な要素も強い。

国際政治においてモノをいうのは、なんといってもハードパワーとしての軍事力であり、そしてそれを支える経済力だ。ソフトパワーとしての文化はもちろん重要だが、それはあくまでも平時に限られる。有事にはむきだしの軍事力が浮上する。これは中国においても、なんら変わりはない。




■「朝貢国」であった朝鮮とベトナム、中国とはひたすら距離をとってきた日本の共通点と相違点

日中韓の東アジア3カ国というくくりは日常的に行われるが、儒教と道教、そして大乗仏教を受け入れたのは日中韓(・・韓国は朝鮮といいかえてよい)だけではない、ベトナムもまたそうだったのだ。

朝鮮とベトナム、そして日本の対中関係を歴史的に比較すると見えてくるものがある。

ベトナムは、地理的には東南アジアに位置し、現在の枠組みではASEAN加盟国家だが、インド文明の影響下にある上座仏教圏のタイやカンボジア、イスラーム圏のインドネシアやマレーシア、キリスト教圏のカトリック国フィリピンなどの国々とは異なる性格をもっている。

ベトナムは、日本や朝鮮とおなじく、儒教・道教・仏教の中華文明圏三点セットを受け入れた「中国文明」に属する国である。ただし、その濃淡に差異があることはいうまでもない。しかも、ベトナムは近代になってから西欧文明のフランスの植民地支配を受けている。

だが、中華文明に対する「求心力」と「遠心力」、地政学的なポジションから、東アジアの日本、朝鮮、ベトナムでは、中国との関係において共通点と相違点がある。

著者の枠組みにしたがえばこうなる。①順応、②対峙(たいじ)、③対決 である。対峙はもうすこしくわしく紹介しておこう。対峙と対決は、いっけんすると似ているが異なる概念である。

①順応: 積極的に華夷思想にもとづいて、いわゆる王化と事大の中華理念に則って行動するパタン。典型は、朝鮮。
②対峙: 重大な齟齬を双方が認識しつつ「相互の沈黙」を基調とする永続的な「対峙」。典型は日中関係。
③対決: ときとして正面から力の論理によってぶつかり合う。典型はベトナム。

「対決」の事例は3つの類型があった。中華が積極的な「外征」に出るケース。北方民族の「中原」進出によって逆に「征服王朝」として中華に君臨するケース。「北虜南倭」のような、周辺が恒常的に侵略してくるケースである。

地政学上の立ち位置から、朝貢国として「順応」して生きることを余儀なくされてきた朝鮮。おなじく朝貢国でありながら、中国文明以外との接点をもってきたため、「対決」と「融和」を巧みに使いこなしてきたトナム。そして、中国とは一貫して距離をとって「対峙」してきた島国・日本

とくに重要なのが、日本ではあまり顧みられることのない「中朝関係」について、過去事例を題材にかなり突っ込んだ分析を行っていることだろう。

ベトナムはさておき、日中韓の三国間の枠組みのなかで、朝鮮と日本は対照的な位置にあるからだ。朝貢国として生きてきた朝鮮と、そうならなかいよう距離をとってきた日本の大きな、そして根本的な違いである。

余談だが、日中関係と日米関係にかんしては膨大な蓄積がありながら、米中関係にかんして蓄積がないのと同様である。どうも日本人は三国間関係のなかで自分とは直接関係ない二国間関係について関心が薄いようで、イマジネーションするのが不得意のようだ。

朝鮮の朝貢負担の重さは、気の毒とさえいわねばなるまい。朝貢は、じつは経済的にうまみのある行為だったという理解されることが多くなっているが、朝鮮の場合はそうではなかったのである


16世紀末の「朝鮮出兵」、19世紀末の「日清戦争」、20世紀半ばの「朝鮮戦争」の共通性

16世紀末の「朝鮮出兵」、19世紀末の「日清戦争」、20世紀半ばの「朝鮮戦争」は、いずれも大陸勢力の中国と海洋勢力の日本(その後、日本を飲み込んだ米国)との戦いが朝鮮を舞台に行われたことが共通している。

この状況は「H」というローマ字の大文字で理解が可能だ。著者の中西氏は、『歴史としての冷戦-超大国時代の史的構造』(ルイス・ハレー、サイマル出版会、1970)の記述に言及しているので、ここではこの本から当該部分を長くなるが直接引用しておこう。

国際政治学者のルイス・ハレー氏は、冷戦時代の「朝鮮戦争」を地政学的現実だけでなく、歴史的背景を踏まえて的確に指摘している(*引用に際しては、仮名遣い等にかんして引用者=さとうが適宜修正を加えている)

(引用)
「戦略につうじた人が地図を眺めたら一目瞭然である。もし、中国と日本をHという字の2本タテの線と考えると、朝鮮半島は2本の線をつなぐヨコの線である。それは双方にとってお互いの侵略ルートであり、その結果双方の安全は、朝鮮半島を軍事的に占領するか否かいかかっていた。これは朝鮮人にとって不幸なことであった。ちょうどドイツ人とロシア人のあいだに挟まれたポーランド人が不幸であるのと同様であった。しかしそれは、北東アジアの安全と安定を考える上で、見逃すことのできない戦略的事実であった」(P.146)


引用を続けよう。ハーレー氏のような歴史的な見方をすると、1950年代の「朝鮮戦争」における米中激突が、けっして偶発的なものでなかったことが理解されるのである。


(引用 つづき)
朝鮮戦争をめぐる中国と日本の争いは、日本の建国以来絶えず続けられており、現在は米国が日本に代わって行っている。660年代には中国と日本は朝鮮で戦い、中国が勝った。  
 1590年代の朝鮮戦争は、1950年代の朝鮮戦争と驚くほど形が似ている日本は当時も、今日と同じく中鮮国境であった鴨緑江まがけて前進し、中国の大規模な反撃にあって、38度線以南に追い返された
 1890年代には、中国の国家が崩壊しつつあった反面、日本の勢力が増大し、ふたたび行われた朝鮮戦争では、今度は日本が勝って朝鮮は1945年まで日本の属領となった。
 しかし、米国が日本の力を継承し、同時に朝鮮の南半分を占領したとき、米国は以上の長い歴史が何を意味をするか気がついていなかった。朝鮮半島をめぐって、後に米国が中国と対決したのが、まったくの偶然的出来事であったというのは疑わしい
 

「1590年代の朝鮮戦争」とは、いわゆる「朝鮮出兵」のことである。明の征服を目的とすた秀吉が朝鮮半島に大軍を送った戦争のことだ。「1890年代の朝鮮戦争」とは、「日清戦争」のことである。清朝末期の日本との対決は、朝鮮半島と台湾を舞台に行われたのである。

大文字のHは、2本のタテ棒にはさまれた1本の横棒。2本のタテ棒は、それぞれ中国と日本(and/or 米国)、1本のヨコ棒は朝鮮である。大国に挟まれた小国という、半島という地政学上のポジションがもたらす苦難と悲哀である。

著者の中西氏は、16世紀末の「朝鮮戦争」に1章をあてて分析を行っている。朝鮮からの援軍要請に対して宗主国の明は、当初は援軍覇権を渋っていたという事実がある。朝貢国の朝鮮がひそかに日本と通じて中国に侵略してくるのではないかと疑っていたからだ。

援軍が派遣され明軍が日本軍と向き合うと、今度は明は朝鮮の頭越しに日本と講和交渉を開始している。宗主国にとっては、あくまでも自国が危険を感じたからこそ援軍を派遣したのであり、その脅威を取り除くために戦争をするか講和するかは、あくまでも宗主国次第なにだ。無条件で朝貢国を支援したわけではない。この冷厳たる事実こそ、「帝国としての中国」の支配の本質があると著者は見ている。

こういった歴史上の事例を追っていくと、おのずから中国と朝鮮の関係が明確になってくる。日清戦争の際もまた、朝鮮の頭越しに日中間で講和条約が交渉され、締結している。朝鮮戦争においても、実質的に米中戦争であったというのが、その本質というべきだろう。

となると、21世紀の現在、朝鮮半島情勢がどう動くか予断は許さないが、「旧宗主国」としての中国がどう朝鮮半島を「属国」とするかに注目すべきなのである。朝鮮が日本の植民地であった期間も、米国の同盟国となった韓国の歴史も、中国史のなかで見たら、ひじょうに短い期間であったに過ぎないのだ。


■「西洋の衝撃」(ウェスタン・インパクト)への対応

清朝の乾隆帝の時代、「三跪九叩頭礼」を拒否した英国使節のマッカートニー(・・同時期にオランダ使節はそれを苦もなくおこなっている)から約50年後、「アヘン戦争」(1840年)に中国はアングロサクソン勢力に屈服する。

そして、それからさらに約50年後、今度はいち早く「西欧近代化」路線を採用し、「ウェストファリア体制」に入った日本が「日清戦争」(1894年)で清朝を屈服させ、朝貢国の朝鮮を失ったことで、中華帝国は崩壊したのである。以後、中国は伝統的な支配システム放棄を余儀なくされることになった。

だが、「辛亥革命」(1911年)による清朝崩壊から、現在はまだ100年と少ししか立っていないのである。秦の始皇帝以来2000年に及ぶ中国王朝史の、わずか100年にしか過ぎないのである。

無意識レベルにまで浸透している華夷意識が、はたしてそう簡単に消えてしまうものかどうか、答えは自ずから出ているというべきだろう。国際協調を主張する中国だが、その根底部分では華夷意識が払拭されていないことは、北朝鮮と韓国への対応に明らかである。

本書が最初に出版されてから、すでに16年になるが、分析内容は古びていない。出版時点での「現在」はすでに過去のものだが、それよりはるかに古い「過去」を分析しているから、その分析内容には古びないものがあるのだ。

読者としては、その分析結果を「現在」にあてはめ、自分なりの現状分析に応用してみることに意義がある。





目 次  *( )は、内容の括りとして引用者(=さとう)が追加

まえがき
第1章 中国とアングロ・サクソンとの対峙

(「中国」とは、その本質)
第2章 「外に対する中」こそ「中国」の本質
第3章 中華秩序の膨張論理
第4章 「中華」と「周辺」との距離感覚
第5章 「アジア的粉飾」としての中華秩序

(中国と朝貢国・ベトナムとの関係)
第6章 「アジア的本質」を映す中越関係
第7章 中越のアジア的平和の構造

(中国と朝貢国・朝鮮との関係)
第8章 極東のコックピット(=闘鶏場)
第9章 北東アジアの「歴史的モザイク構造」 
第10章 中朝「唇歯の関係」の本質

(中国と異文明の北方遊牧民、異文明の西方との関係)
第11章 中華文明に対抗する「北方の壁」 

(中国と「西欧近代」を体現したアングロサクソン勢力との対峙と対決)
第12章 中国は「西欧の衝撃」を超えられるか 
第13章 現代中国が抱える「大いなる歴史の宿題」 
第14章 21世紀の中国と世界、そして日本

結びにかえて
参考文献


PS 本文の内容を増補して小見出しを1つ付け加えた。(2020年10月4日 記す)


現代中国


現代中国を考えるために読んだ5冊(2019年11月24日)ー『幸福な監視国家・中国』・『スッキリ中国論』・『習近平のデジタル革命』・『戸籍アパルトヘイト国家・中国の崩壊』・『食いつめものブルース』

書評 『語られざる中国の結末』(宮家邦彦、PHP新書、2013)-実務家出身の論客が考え抜いた悲観論でも希望的観測でもない複眼的な「ものの見方」
・・「中国崩壊」をシミュレーションする

書評 『中国外交の大失敗-来るべき「第二ラウンド」に日本は備えよ-』(中西輝政、PHP新書、2015)-日本が東アジア世界で生き残るためには嫌中でも媚中でもない冷徹なリアリズムが必要だ
・・「近代以降の中国にとっての重要な課題は日本対策。重要なことは、すでに建国から70年を経過した中国は成熟段階に達しており、習近平のあとにつづく指導者も、毛澤東以来の「中国の夢」(チャイナ・ドリーム)の実現を追求する、という著者の指摘である。問題は、特異なパーソナリティの持ち主の習近平だけではない。中国共産党そのものにある、とする」

書評 『習近平-共産中国最弱の帝王-』(矢板明夫、文藝春秋社、2012)-「共産中国最弱の帝王」とは何を意味しているのか?


書評 『中国は東アジアをどう変えるか-21世紀の新地域システム-』 (白石 隆 / ハウ・カロライン、中公新書、2012)-「アングロ・チャイニーズ」がスタンダードとなりつつあるという認識に注目!

近代世界の国際秩序への挑戦者 カリフ制復活を主張する自称イスラーム国もまた


ユーラシア大陸の「専制国家」-ときに崩壊するがけっして死滅しない専制国家の本性

書評 『「東洋的専制主義」論の今日性-還ってきたウィットフォーゲル-』(湯浅赳男、新評論、2007)-奇しくも同じ1957年に梅棹忠夫とほぼ同じ結論に達したウィットフォーゲルの理論が重要だ
・・中国はユーラシア大陸の「中心」に位置する「大陸国家」である

梅棹忠夫の『文明の生態史観』は日本人必読の現代の古典である!
・・ユーラシア大陸と接していない島国の日本は「海洋国家」である

書評 『自由市場の終焉-国家資本主義とどう闘うか-』(イアン・ブレマー、有賀裕子訳、日本経済新聞出版社、2011)-権威主義政治体制維持のため市場を利用する国家資本主義の実態
・・「こういった権威主義政治体制のもとにおいては、なによりも国内問題を意識し、体制維持のための財源が必要だからだ。王政のもとにおいては臣民、それ以外の政治体制のもとにおいての一般民衆、かれらをすくなくとも経済的に満足させておけば、体制転換という誘惑を回避させることができるからだ。そのために国家は富を蓄積する必要がある」

『ソビエト帝国の崩壊』の登場から30年、1991年のソ連崩壊から20年目の本日、この場を借りて今年逝去された小室直樹氏の死をあらためて悼む

ジャッキ-・チェン製作・監督の映画 『1911』 を見てきた-中国近現代史における 「辛亥革命」 のもつ意味を考えてみよう
・・なぜ孫文は「革命いまだ成らず」と言い残して死んだのか?


朝鮮半島問題は中国問題

書評 『日本文明圏の覚醒』(古田博司、筑摩書房、2010)-「日本文明」は「中華文明」とは根本的に異なる文明である

書評 『中国に立ち向かう日本、つき従う韓国』(鈴置高史、日本経済新聞出版社、2013)-「離米従中」する韓国という認識を日本国民は一日も早くもたねばならない
・・「離米従中」という国際秩序への貴族をめぐる朝鮮半島の先祖返り的状況

書評 『朝鮮半島201Z年』(鈴置高史、日本経済新聞出版社、2010)-朝鮮半島問題とはつまるところ中国問題なのである!この近未来シミュレーション小説はファクトベースの「思考実験」


「海洋国家」日本の取るべき道

「脱亜論」(福澤諭吉)が発表から130年(2015年3月16日)-東アジアの国際環境の厳しさが「脱亜論」を甦らせた

書評 『新 脱亜論』(渡辺利夫、文春新書、2008)-福澤諭吉の「脱亜論」から130年、いま東アジア情勢は「先祖返り」している

書評 『帝国陸軍 見果てぬ「防共回廊」-機密公電が明かす、戦前日本のユーラシア戦略-』(関岡英之、祥伝社、2010)-戦前の日本人が描いて実行したこの大構想が実現していれば・・・

(2020年10月13日 情報追加)


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end

2020年9月26日土曜日

書評『世界史とつなげて学ぶ中国全史』(岡本隆司、東洋経済新報社、2019)-「ユーラシア大陸における中国」を古代から現代まで一気通貫に



『世界史とつなげて学ぶ中国全史』(岡本隆司、東洋経済新報社、2019)は、今年(2020年)の初めに読んだ本だ。バタバタしていて書評を書くヒマがなかったので、今回自分にとって意味のある部分を中心にまとめておきたいと思う。

あくまでも自分用のメモとしての位置づけなので、かなり長くなっている。

まずは、多産型の気鋭の中国史研究者である岡本隆司氏によるベストセラーを見る前に、「中国史」というものについて、簡単に振り返っておく。


■中国史を一気通貫に把握するという試みの最新成果

1冊で中国史を通観するという趣旨の本は、これまで日本では無数といっていいほど出版されてきた。

その昔、いまからすでに40年以上前に読んだ本だが、『黄河の水-中国小史』(鳥山喜一、角川文庫)というものがあった。中高生向けの中国史だ。

角川文庫版は1960年に出版されているが、初版の1951年版では「支那小史」となっているようだ。本文には「ニコヨン」だか「ニコポン」なるコトバが登場していた記憶があるが(・・この本ではじめて知った日本語)、すでに死語ではないかな。この本を通読して、なんとなく中国史がわかったような気になった。

いまはもう読まれることもほとんどないが、岩波新書から出ていた貝塚茂樹の『中国の歴史』など、上中下の3冊本で1冊本ではないが、かってはよく読まれたものだ。

貝塚茂樹氏は、ノーベル物理学賞の湯川秀樹博士の兄。湯川博士の実弟の中国文学者・小川環樹氏とともに天才兄弟といわれていた(姓が異なるのは、小川環樹氏以外は養子に出たため)。

この岩波新書本が読まれなくなったのは、1964年という出版年が何よりも雄弁に物語る。「文化大革命」(1966~1976)以前の出版であり、私もその昔に読んでいるが、毛沢東評価が異様に高いように感じられたものだ。

「(腐敗していたた国民党時代とは違って中国人民共和国は清潔であり)中国にはハエなどいない!」と強調する学者もいたくらい、いまでは誰も信じないだろうが、1970年代にはこの国ではそれほど中国共産党が無邪気にも礼賛されていたのだ。隔世の感がある。

岡本氏は、「(中国の)地理的孤絶性」という概念に疑問を呈するために、あえて
本書のなかで貝塚氏の著書に言及している。この点も、貝塚氏の本が旧式の中国理解に基づく通史だと言えるのかもしれない。

中国は孤絶どころか西でユーラシア全体とつながっているのであり、古代中国文明は西から入ってきた古代オリエント文明の影響下にある。このポイントの強調は、岡本氏の本書をユニークなものにしている。

現代でも流通しているのは、中国史を中心にしたアジア史の大家であった宮崎市定氏による『中国史』(岩波全書、1977 現在は岩波文庫に収録)であろう。

岡本氏によれば、宮崎氏は中国史の「時代区分」を西洋のそれを基準にした点が明解で理解しやすいので、多くの読者を引きつけているのだという。日本の中国史研究を飛躍的に高度化した内藤湖南につらなる京都学派である。江戸時代以来親しまれてきた『史記』や『十八史略』などの、旧来型の王朝交替史観とは性格を異にするというわけだ。

さらにいえば、「中国史」という概念は中国では生まれたものではないようだ。日本で出版された宮崎市定氏の中国史が逆輸入されて、中国史という歴史叙述が中国で受け入れられるようになったという話をどこかで読んだ記憶がある。岡本氏の田の著書かもしれない。

中国には新しく興った王朝が、滅亡した先の王朝の正史を編纂するという伝統がある。したがって、中国には王朝交替史という形の歴史記述しかなかったので、「時代区分」という概念が新鮮に映ったようなのだ。



■『世界史とつなげて学ぶ中国全史』の特徴は「ユーラシア大陸における中国」

前置きが長くなってしまった。まずは、目次を通観してみるのが早道だろう。

まえがき-中国をとらえなおす
第1章 黄河文明から「中華」の誕生まで 
第2章 寒冷化の衝撃-民族大移動と混迷の三〇〇年
第3章 隋・唐の興亡-「一つの中国」のモデル
第4章 唐から宋へ-対外共存と経済成長の時代
第5章 モンゴル帝国の興亡-世界史の分岐点
第6章 現代中国の原点としての明朝
第7章 清朝時代の地域分立と官民乖離
第8章 革命の二〇世紀-国民国家への闘い
結 現代中国と歴史
あとがき
文献リスト

『世界史とつなげて学ぶ中国全史』はベストセラーになっている。それには理由がある。タイトルにもあるように、中国史を中国の範囲だけで捉えずに、「世界史」全体のなかに位置づけて捉えているからだ。

だが、より正確にいえば、「ユーラシア大陸における中国」という視点といっていいだろう。この視点で、一気通貫に古代から現代まで語り尽くすのが特徴だ。「ユーラシア史としての中国史」である。

中国大陸はユーラシア大陸の東に位置しており、しかも南に位置していること、つまりユーラシア大陸の東南部に位置しているのが中国大陸である(・・ユーラシア北部はロシアとモンゴルである)。

ユーラシア大陸が陸でつながっている以上、中国がユーラシア全体の動きに影響をうけるのは当然であり、同時にユーラシア全体に影響を及ぼすのも当然だ。

これは13世紀にユーラシア大陸をほぼ制覇したモンゴル帝国のことを想起するだけでも、すぐに理解できる話だろう。元朝と同様に「異民族」が支配した清朝はいうまでもなく(・・それにしても、日本人の立場からすると「異民族」というのは違和感の残る表現だ)、ローマ帝国と通商のあった漢代も、ウイグル族などさまざまな異民族の存在の大きかった唐代もしかり、である。


地球環境全体のなかで中国を捉える

さらにいえば、「地球環境全体のなかで中国を捉えた」ことが、本書の大きな意味があるといえよう。端的にいえば、気候である。そのなかでも「地球寒冷化」が大きな衝撃をもたらしたことが強調される。

寒冷化すると、まずはもっとも重要な生命維持装置である食糧の調達が困難となるだけでなく、それにともなって経済活動も停滞し、社会問題に十分に対応がとれない統治者に対して不満が蓄積し、反乱が頻発するようになる。その結果、新興勢力が台頭し、既存の王朝を倒して、天命を得たとしてあらたな王朝を建てる。中国史でいう、いわゆる「易姓革命」である。

中国史に限らないが、このパタンがなんども繰り返されてきたのが実態だ。歴史上もっとも有名な寒冷化は17世紀と14世紀のものである。もちろん、それ以前も地球は温暖化と寒冷化を繰り返してきた。太陽黒点の影響であるとされる。

寒冷化の影響がもっとも大きかったのが、13世紀のモンゴル帝国だろう。モンゴル帝国はユーラシア全域に版図を拡大したが、その一部の中国を元朝として支配していた。モンゴル帝国がわずか1世紀で崩壊したのは、地球寒冷化が主たる原因である。

14世紀の「地球寒冷化」の影響を受け経済が衰退、しかも中国で発生した感染症の黒死病(ペスト)によって、西欧と地中海世界にいたるまで大きな人的被害と経済破壊をもたらした。ユーラシア大陸が陸路でつながっていたから起きたのである(*)。

(*)なぜか、日本列島と朝鮮半島は14世紀のペストから逃れている。したがって17世紀にもペストの被害はなかった。大陸から離れた島国の日本はさておき、大陸とは地続きの朝鮮半島がペストから逃れたのは、ペスト移動の方向が西向きだったからだろうか?)。

グローバリゼーションは経済過熱化をもたらし、大戦争やパンデミックで終わるのがパタンといえようか。

地球環境の影響で考える議論の前提にあるのが、梅棹忠夫が『文明の生態史観』で図式化したものである。歴史で梅棹理論を援用する人はあまり多くない。地球環境を考えるにあたって、梅棹理論をつかっている点も、本書の大きな特徴だといえよう。


上記の図で(Ⅰ)に位置するのが中国大陸である。著者の岡本氏は、さらにこの図に加工している。


(本書 P.25 所載の図)


以下、簡単に中国史の流れを整理した上で、個人的に関心の高い「明清時代」については、やや詳しく書いておきたいと思う。


■中国のイノベーションは宋朝で終わり、元朝時代にモンゴルがユーラシア全体を1つにした

中国史全体を通観すると、宋の時代に「中国文明」がピークを迎えていることが確認される。

つまり、宋の時代にあらたな発展要素はほぼ出尽くしているのであり、その後の中国史は基本的になんらあたらしいものは生み出していないのだ。

宋代の成果としては朱子学をあげるべきだろう。日本では儒学というと「朱子」学ということになるが、それは儒者の朱子(=朱熹)が創始者だからだ。

だが、この朱子学は日本以外では、より広い概念として「新儒教」とすることが多い。英語だと Neo- Confucianismである。宋の時代には中国に浸透していた大乗仏教の影響を受けて、理気説に基づいて体系化された思想なのである。これが、朝鮮半島を中心に普及し、さらには江戸幕府の正学となる。

宋朝に続くのが「転換期」のモンゴル時代である。この時代の中国王朝は元朝だが、あくまでもモンゴル帝国の一部であったことは、すでに述べたとおりだ。中国は、北方の遊牧民の脅威にさらされつづけたのであり、なんども支配されてきた。

モンゴルは「世界史の分岐点」と岡本氏は本書で述べている。

だがむしろ、モンゴルが「世界史の始まり」だと『世界史の誕生』で述べた岡田英弘氏の史観のほうが正確ではなかろうか。なぜなら、モンゴル帝国以前は東洋世界と西洋世界は、各地の経済圏をつなぐ形で互いに通商は行われていたとはいえ、直接つながることはなかったからだ。

先に見たように、14世紀の地球寒冷化によってモンゴル帝国は崩壊モンゴル人は北に去って、中国はふたたび漢民族の王朝となる。

元の時代が国際商業が活発化さいた時代であったのに対し、漢民族の王朝となった明朝は、きわけて排他的で閉鎖的な「鎖国」ともいうべき体制を採用したのである。経済そのものの否定といったニュアンスさえ感じられる。

明朝の時代には、「朝貢体制」に基づく、中国的国際関係システムというべき「華夷秩序」が完成している。「海禁」政策に基づく「鎖国」政策である。17世紀日本の「鎖国」は、日本発のオリジナルというよりも、明朝の影響を受けたものと考えるべきであろう。

ただし、日本の「鎖国」は、朝貢を前提としない管理貿易であった。「海禁」的要素が強かった。


■現代につながる「明清時代」をしっかり見ておくことが重要だ

明清時代は現代中国につながる時代なので、やや詳しい小見出しを見ておこう。小見出しの文言を読めば、なんとなく時代がイメージされてくるだろう。

第6章 現代中国の原点としての明朝
 漢民族だけの王朝を目指した明朝
 「朝貢一元体制」を築く
 貨幣と商業の排除
 貨幣経済を否定した明朝
 南北格差解消のために江南を弾圧
 靖難の変が起こる
 首都を南京から北京に移す
 南北関係と鄭和の遠征
 江南デルタが綿花・生糸の一大産地に変化
 「湖広熟すれば天下足る」
 非公式通貨として銀が流通し始める
 世界中の銀が中国へ向かった
 朝貢よりも民間の経済活動が活発に
 鎖国体制は事実上の崩壊
 民間のヘゲモニーと庶民文化
 陽明学の位相
 官民乖離が始まった
 都市化の差異に見る官民の乖離


「鎖国」政策を行った明朝だが、その後期には、いわゆる「北虜南倭」状態となっている。

「北虜」とは、北方の満洲の女真族などの諸民族の脅威のことだ。

女真族は、毛皮と朝鮮人参の交易で財をなし、ヌルハチに率いられた女真族は国名を後金とし、さらに清と改めたのち、ヌルハチの孫の時代に最終的に明朝を滅亡させ王朝交替を実現している。中国はふたたび「異民族王朝」となった。

「南倭」とは、読んで字の如く、南方海域で荒らし回った倭寇のことである。

14世紀の「前期倭寇」は主として瀬戸内海・北九州を本拠とした日本人が中心で一部が高麗人だったが、15世紀以降の「後期倭寇」は中国人主体になっている。前期倭寇は、朝鮮半島南部の沿海部を中心に中国沿海部まで活動していたが、元朝から明朝に移って以降、足利義満が明朝に朝貢した勘合貿易の発展によって、日本人が主体の倭寇は消滅した。

「後期倭寇」は、私貿易を行う中国人が中心となったが、名称はそのまま倭寇が使い続けられた。日本人の格好を偽装し、活動を行っていたからだ。

明朝の「海禁政策」を回避するためマラッカ、シャム、パタニなど南洋に移住した浙江省と福建省出身の華人が中心であった。一部には九州沿岸部の日本人も含まれていたようだ。

後期倭寇は、東シナ海の海域を舞台に掠奪と交易を行った集団だが、中心は密貿易にあった。「鎖国」体制をとる明朝が、「朝貢貿易」と「海禁政策」という管理貿易にこだわったため、自由貿易を求めた勢力が武力に訴えたのである。

16世紀から17世紀にかけての後期倭寇は、石見銀山などで豊富に産出された「日本銀」を手に、中国の物産の「押し買い」を求める武装集団であった。聞き入れられないと掠奪に走るのであり、貿易商人と海賊は、裏表の関係にあった。最初は日本銀、その後は「新大陸」の銀がスペイン経由で中国に流入することになる。

倭寇の頭目としては王直(おうちょく)が有名である。倭寇に加わった新興勢力のポルトガル商人が王直の手引きで1543年に種子島に来島し、鉄炮を伝来したとされる。

倭寇の脅威にさらされつづけたのが明朝末期と清朝初期であった。明清交代後に明朝復興を掲げて台湾をベースに抵抗を続けた鄭成功らのグループもまた、倭寇のような存在であったといえよう。貿易によって軍資金をつくり、抵抗活動を続けていたのである。

鄭成功の死後、後継者が抵抗を続けたものの、1661年から清朝によって開始された「遷界令」(せんかいれい)によって抵抗活動は終息に向かう。中国の沿海部との貿易をさせない政策であった。遷界令は1684年に廃止され、以後は中国船は「鎖国」時代の長崎に殺到することになった。

清朝になってからの中国は、基本的に明朝の延長線上にある。漢民族にも弁髪を強いたなどの理由で、明朝と清朝は異なる性格をもっていたというイメージがあるが、経済発展をベースに人口が急増した18世紀以降の中国社会は、明清時代として一括したほうが理解しやすい。


■「人口が急増」し「官民乖離」が進展した清朝以降の近現代

キーワードは「官民乖離」である。明朝の時代の構造的問題が、清朝の時代にはさらに
量的に拡大したのである。

官民乖離とは、官と民のあいだが乖離したというのが文字通りの意味だが、より詳しくいえば、明朝末期から清朝にかけて人口が急増し、民間人に対する公共サービスが、行き届かなくなったことを意味している。官僚不在の集落が増え、行政に対する不満が下から上に吸い上げられることなくたまっていくことになる。

目次の小見出しを見ておこう。清朝前期と清朝後期で中国社会の性格が変わってくるので、便宜的に区分してみた。

清朝後期には、「官民乖離」の結果として、民衆による反乱が頻発するようになる。問題は先送りされるばかりで、結局は清朝は滅亡することになったのである。


第7章 清朝時代の地域分立と官民乖離
 明から清へ-清代の意味
 満洲人が打ち立てた清朝
 「華夷殊別」から「華夷一家」へ
 「因俗而治」の清朝
 雍正帝の改革の対象は官僚機構だけ
 朝貢国を実態に合わせて大幅に削減
 銀不足によるデフレを、イギリスの茶需要が救う
 究極の「小さな政府」としての清朝
     ***(清朝後期)***
 民衆による反乱が頻発
 経済的に各地域が分立状態に
 「瓜分」の危機
 国民国家「中国」の誕生


「華夷一家」とは、明朝のように「華」(=漢民族)と「夷」(=異民族)を区別する「華夷殊別」ではなく、「三族」(=満洲人、漢人、モンゴル人)を一体にした運営を行おうとしたことである。そのスローガンが「華夷一家」であった。

「因俗而治」は、「俗に因りて治む」と読む。「華夷一家」を構成する漢人、満洲人、モンゴル人、チベット人、ムスリム(=イスラーム教徒)を、それぞれの「俗」すなわち在地の統治システムをそのまま活かして、皇帝のもとに統治するというスタイルのことだ。

少数民族の女真族が、圧倒的多数の漢民族を統治する難しさを反映した策である。

清朝が目指した統治方法と、現在の中国共産党の目指す方向性とは真逆であることがわかる。版図の大きさはそのまま清朝を引き継いだ中華人民共和国だが、統治のあり方は漢民族中心主義であることは明朝とおなじで、としかも同化主義によって少数民族を中国化してナショナリズムをつくりあげようとしている点は「近代化日本」の影響だ。はたしてこれが成功するかどうか。ムリとしか思えないのだが。

清朝は明朝とは違って、朝貢国を実態に合わせて大幅に削減している。この点は大いに強調しておくべきだろう。華夷秩序や朝貢体制というと、どうしても中国史を一貫して変化がなかったような錯覚をもちがちだが、けっしてそうではなく歴史的な変遷を経ているということなのだ。

江戸幕府の日本が清朝とのあいだで朝貢国とならずに貿易関係だけを続けることになった。これを中国史では「互市」(ごし)という。このような関係が維持されたのは、日本側の事情だけでなく、中国側の事情もあったのである。

できるだけやっかい事にはかかわらないという姿勢が、幕府と清朝の双方に存在したわけだ。ある意味では、「内政不干渉」を前提とした、経済文化関係のみの関係であった。日本は、足利義政の数年間をのぞいて、一貫して中国文明と経済には強い関心(憧れの時期が長い)をもちながら、政治と軍事にかんしては距離を保とうとし続けてきた。

しかしながら、明朝時代に朝貢国であった朝鮮と琉球、ベトナムなどは、清朝においても朝貢国となっている。清朝になってからも朝貢国であり続けた朝鮮と、けっしてそうならなかった日本の違いはきわめて大きいのである。朝鮮は中国とは、あまりにも距離が近すぎるため、適度なスタンスを保つのはきわめて困難なのである。

現在でも韓国から中国に対する属国意識が消えないのは、そういった歴史的経験によるものだ。


■終わりに

著者の専門は中国近現代史なので、もっと詳しい叙述を行いたかったのではないかと思うが、時間の流れに沿って歴史を書くとどうしても現代史を簡単に済ませてしまうことになりがちだ。本書も場合も、その例外ではいようだ。

著者には、ぜひ現代から過去にさかのぼる「逆回しの中国史」をお願いしたいものである。

また、著者のことば遣いについて言わせていただく。「つとに」という日本語が多用されるのが、たいへんうっとおしい。

口癖、書き癖だから仕方ないのだろうが、日常用語ではないので、あまりにも多用するのは好ましくない。「すでに」あるいは「以前から」と言い換えるべきだろう。

編集者は、こういう点にかんして著者に注意を促すべきではないか? 一般読者の感想を著者にフィードバックすべきだろう。


 


著者プロフィール
岡本隆司(おかもと・たかし)
1965年、京都市生まれ。現在、京都府立大学教授。京都大学大学院文学研究科東洋史学博士後期課程満期退学。博士(文学)。宮崎大学助教授を経て、現職。専攻は東洋史・近代アジア史。著書に『近代中国と海関』(名古屋大学出版会・大平正芳記念賞受賞)、『属国と自主のあいだ』(名古屋大学出版会・サントリー学芸賞受賞)、『中国の誕生』(名古屋大学出版会・樫山純三賞、アジア太平洋賞特別賞受賞)など多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの


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2020年9月25日金曜日

書評『そのとき、西洋では ー 時代で比べる日本美術と西洋美術』(宮下規久朗、小学館、2019)ー 同時代の西洋と日本をで美術作品を比較しながら見ていくと、いろいろ発見があって面白い。


コロナのせいで、美術館もなかなか正常稼働とはいかない状況だが、そんなときだからこそ、美術作品ではなく本を読む機会としたいものだ。


バロック時代の西洋美術、とくにカラヴァッジョを専門にしている著者による東西美術比較のエッセイ。同時代の西洋と日本を、先史時代から現代まで美術作品を比較しながら見ていくと、いろいろ発見があって面白い

ユーラシア大陸の西端にある西洋で発達した美術、ユーラシア大陸の東端の島国・日本で発達した美術。とくに日本美術は、中国美術の圧倒的影響下にあって独自進化してきたものだけに、西洋と日本を比較するには、中国美術にも目を向けざるをえない。したがって、本書の内容は、西洋と東洋(日本と日本に影響を与えた中国)との比較となる。

16世紀から18世紀にかけての「近世」が、日本美術にとっては大きな意味をもつ。大航海時代にポルトガルを筆頭に西洋文明と接触した日本だが、キリスト教を禁教化したために、同時代の西洋のバロック美術の圧倒的影響を免れることになったことになる。

日本美の極地ともいうべき琳派の存在。こういう視点で見ると日本美術の意味も明確になってくる。

とくに興味深いのが18世紀の「二都物語」。京都とヴェネツィアの二都物語。18世紀の京都は伊藤若冲を筆頭に「日本美術の黄金時代」。衰退期にあったヴェネツィア共和国は、平和を享受するなかで文化の花が開いた。ともに世界的な観光都市となって現在に至る

このほか、第2次世界大戦中の日本とドイツの「戦争画」を再評価すべきだとの見解など、なかなか面白い記述が多い。収録されているのが、すべてモノクロ写真であるのが残念だが、美術ファンなら、読めば得ること多い本だと思う。


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目 次
第1章 先史から古代-オリジナルの誕生
第2章 中世-相違するものと類似するもの
第3章 近世-並行する二つの歴史
第4章 近代から現代-共振する美術
結 西洋美術と日本美術 

著者プロフィール
宮下規久朗(みやした・きくろう)
神戸大学大学院人文学研究科教授、美術史家。1963年名古屋市生まれ。東京大学文学部卒業、同大学院人文科学研究科修士課程修了(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。


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■日本美術(*独自の発展を遂げた近世日本美術を中心に)







■西洋美術(・・同時代の近世日本美術が影響を受けなかったバロックを中心に)


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「グエルチーノ展 よみがえるバロックの画家」(国立西洋美術館)に行ってきた(2015年3月4日)-忘れられていた17世紀イタリアのバロック画家がいまここ日本でよみがえる!

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上野公園でフェルメールの「はしご」-東京都立美術館と国立西洋美術館で開催中の美術展の目玉は「真珠の「●」飾りの少女」二点


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