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2025年9月15日月曜日

書評『越前福井藩主 松平春嶽 ― 明治維新を目指した徳川一門』(安藤優一郎、平凡社新書、2021)― 幕末の政局で「第三極」であった福井藩

 

 ここのところ福井藩が気になっている。越前の国・福井の福井藩である。 

福井藩がらみの人物としては、幕末の開明的な藩主であった松平春嶽、安政の大獄で斬首された橋本左内、五箇条の御誓文のドラフトを書いた由利公正、そして熊本から招聘された政治思想家の横井小楠や、維新後に米国から招聘された御雇い外国人のグリフィスなどがあげられる。 

だが、そういった個性的な人物も  さることながら、幕末から明治維新にかけて重要な役割をはたした福井藩そのものについては、その全体像をつかんでいなかった。 

語りすぎるほど語られてきた薩長はいうまでもなく、幕府そのものや土肥と比較すると、情報量にかんしては雲泥の差である。 


江戸時代、とくに江戸時代後期をわかりやすく叙述するプロの著作家になる本書を読むと、福井藩の徳川体制における出発点から始まるビミョーな位置づけ、そして幕末の政局において「第三極」ともいえる役割をはたした松平春嶽(しゅんがく)という藩主について、ザックリとつかむことができた。 


(松平春嶽 Wikipediaより)


福井県人にとっては、あえて語るまでもないだろうが、県外の人間にとって、松平春嶽という名は知っているものの、いかなる働きをいかに遂行したかということがよくわかっていなかった。 

松平春嶽がはたした役割とはなにか、著者による要約を引用しておこう。 


春嶽の歴史的役割とは、徳川一門の大名でありながら、公論をキーワードに徳川家独裁の政治体制ではなく、挙国一致の国家造りを牽引したことにつきる」(エピローグより) 


「公論」こそ、まさにキーワードである。五箇条の御誓文にある有名なフレーズ「広く会議を興し、万機公論に決すべし」は、春嶽自身の理念であったのだ。 それがそのまま、家来であった由利公正が「五箇条の御誓文」のドラフト執筆につながってくる。

最終的に「薩長同盟」が倒幕に成功し、明治維新革命となるわけだが、薩摩は長州と手を組む前は、藩主どうしの関係から薩摩は福井と密接な関係にあったのである。 

とはいえ、親藩の福井藩の藩主である松平春嶽にとっては、当然のことながら倒幕に組みするわけにはいかなかった薩摩との距離が開いたのはそのためであり、福井藩と春嶽にとっては限界であったのだ。まさに著者のいうとおりであろう。 

そんな福井藩だが、新政府のメンバーであったため、戊辰戦争においては薩長を中心とした官軍と行動をともにせざるをえなくなる福井藩は長岡藩と戦い、会津まで転戦している。 本書ではそれ以上の記述はないが、維新後の江戸庶民の福井に対する視線に冷たいものがあったのは、そこらへんに理由があったのだろう。

 本書の主たるテーマではないので、横井小楠については福井藩とのかかわりが記されてているのみだが、政治構想と財政再建が目的の殖産興業などの観点から、横井小楠についてはもっと深掘りしてみたい。 

最近気がついたのだが、いままで福井を訪れたことがなかった。おなじく若狭湾に面した舞鶴から近い敦賀には行ったことがあるが、肝心要の越前には行ってないのだ。いずれ現地踏査をしなくてはならないなと思っている。 


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目 次
プロローグ ― 幕末の第三極・松平春嶽 
第1章 春嶽、越前福井藩主となる ― 親藩大名の苦悩 
第2章 大老井伊直弼との対決 ― 安政の大獄 
第3章 政事総裁職への就任と横井小楠 ― 慶喜・春嶽政権の誕生 
第4章 薩摩藩との提携路線を強める ―「薩越同盟」の可能性 
第5章 戊辰戦争という踏絵 ― 新政府の主導権を奪われる 
第6章 維新後の春嶽 ― 福井藩の消滅 
エピローグ―春嶽の歴史的役割 
松平春嶽関係年表 
参考文献

著者プロフィール
安藤優一郎(あんどう・ゆういちろう)
1965年千葉県生まれ。早稲田大学教育学部卒業、同大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。文学博士。JR東日本「大人の休日倶楽部」など生涯学習講座の講師を務める。著書多数。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)



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2024年1月14日日曜日

『安政江戸地震 ー 災害と政治権力』(野口武彦、ちくま新書、1997)を出版から27年目にはじめて読む ー 幕府崩壊への道筋をつけた自然災害のインパクトを、阪神大震災(1995年)の体験者ゆえの着眼点と洞察力で読ませる好著。事例研究としてもすばらしい

 


1855年に江戸を直撃した「安政江戸地震」が、いかに13年後の幕府崩壊への道筋に大きな影響を与えたか、徹底的に調査し詳細に跡づけたものである。

江戸時代の文学と思想史の研究者の野口氏は、出版当時は神戸大学教授で1995年1月の阪神大震災の体験者である。研究室の書棚が崩れ去って、必要な本が取り出せないなか調査と執筆であったという。

1997年の出版時に購入していながら、東日本大震災の際にも読んでなかったこの本を、2024年1月に読むことにしたのは、元旦に発生した能登半島地震をがあったからだ。購入してから、なんと27年後のことである。

大震災の体験者ゆえの着眼点と洞察力。じつに読ませる本であった。もっと早く読んでおくべきだったかもしれない。



■「安政江戸地震」と「関東大震災」、「元禄地震」(1703年)との違い

「安政江戸地震」(1855年)は、「関東大震災」(1923年)とは異なる「都市直下型」の大地震であっただ。

「安政江戸地震」は実質上の首都であった江戸の心臓部を直撃した。「安政東海地震」(1854年11月)の翌日に連動して発生した「安政南海地震」(1854年12月)の翌年、1855年10月に襲ってきたのが「安政江戸地震」である。安政年間に発生したこの三者は、あきらかに連動してている。

マグニチュードは 6.9~7.4で、最大震度は江戸で震度6と推定される大地震であった。地震による死者数は、4千人から1万人のあいだとされているが、正確な統計はない。

自然災害が社会体制に与える影響を考えるとき、「大地震」は発生した時期がいつであったかが決定的に重要である。著者は指摘は重要だ。

「元禄地震」(1703年)も220年後の「関東大震災」と同様に相模トラフ巨大地震であり、江戸にも被害をもたらした。だが、江戸時代前期から中期への移行期であり、「元禄バブル」に水を浴びせかけることになったもの、幕府じたいは安定期に入っており盤石であった。

だが、「安政江戸大地震」(1855年)は江戸時代後期で、いわゆる「幕末」であり、幕府の能力も信頼もゆらぎつつあった時期である。文字通りがたがたになってしまった。 

「元禄地震」から150年間にわたって、江戸では大規模地震は発生していなかった。だから、江戸時代初期の大地震の記憶も、埋め立てによって造成した土地であることも、とおの昔に忘却されてしまっていたのだ。


(本書 P.99 に掲載の地図。地形・地盤、地震被害の相関関係がわかる)



■「安政江戸大地震」が幕府上層部に与えた深刻なダメージ

幕府の崩壊は1868年、安政大地震から13年後のことである。ペリー艦隊の来航が1853年と翌年のことであり、いわゆる「幕末」となる。

だが注意しなかればならないのは、後世に生きるわれわれは結末を知っているから「幕末」というのであって、その時代にリアルタイムで生きていた人びとにとっては、「幕末」などという時代認識はなかったのは当然のことである。

「安政大地震」についても同様で、「ビフォア&アフター」式に捉えて、地震前をカウントダウン式に歴史を理解すべきではない。著者の注意喚起には傾聴する必要がある。

地震は突然、いきなり突き上げるように襲ってきたのである。地震予知なることばも概念もなかった時代のことである。江戸では元禄地震以来、150年以上も巨大地震はなかったのだ。

地震に襲われるまでの江戸社会は、厳しい社会統制を行った「天保の改革」の失敗後に、ある種の自由化が実現した社会であったのだ。そのある種の享楽的な社会は、夜の10時頃に発生した大地震によって崩れ去ったのである。

関東大震災のような流言飛語による悲劇はなく、暴動も発生しなかったのは、江戸時代後期には救済システムがそれなりに確立していたからだという。


(大地震の直後から大量に販売された「鯰絵」の1つ 「ピクシブ百科事典」より)


備蓄白米の供出がただちに可能だったのは、「寛政の改革」による「七部積み金」による被害救済体制ができあがっていたからであり、「お救い小屋」という仮設住宅の建築が震災後にすばやく行われたのは、災害慣れしており対応もノウハウ化していたからである。その年が、たまたま豊作だったのも幸いだった。

偶然とはいえ、南北の町奉行所は比較的被害が小さかったこともある。町奉行所の立地していた地盤は軟弱ではなかったからのようだ。奉行所の役人たちが大車輪で活躍し、その指示のもとで町民の相互扶助のシステムが機能的に動いている。

これに対して、幕府の上層部は地震の直撃をくらっているのだ。徳川幕府の心臓部は、開府後に埋め立てられた軟弱地盤のうえにあったからだ。もともとは入り江だった土地である。

震源地の東京湾北部と荒川河口付近にあった「下町」が壊滅的被害を受けただけではないのだ。しかも、対外防備のために急ぎ建設された品川の砲台もほぼ全損し、江戸は無防備都市状態になっていた。

被害を受けた上層部のあわてふためきぶりと当事者能力の欠如に対して、先に見た奉行所の大車輪ぶりは大きなコントラストを示している。なんだか「現場」の下士官と兵が強かった旧日本陸軍を想起させるものがある。

民間の死者数が正確に記録されているのは、寺社奉行が比較的正確に把握していたからだという。お寺で行われる葬式で死者数がわかるからだ。

ところが、武家の被害は低めに報告されていたらしい。地震に対応できなかったことを批判され、お家取りつぶしを恐れていたためだという。こういうところにも、リアリズムにもとづくファクトよりも名誉を重視していた江戸時代の武家の弱点が露呈しているとみるべきだろうか。

幕府の上層部の当事者能力の欠如に対して、町人層の支配層への期待感ゼロ状態と徹底的な政治無関心。なるほど、こんな状態のなかで徳川幕府はずるずると沈んでいったわけだ。



首都東京を襲うつぎの大地震は「安政江戸大地震」タイプの可能性が高い

大規模自然災害がいかに社会体制に大きなダメージを与えるか、その重要な事例研究として「安政大地震」を捉えることも必要だろう。

初版の新書版がでたのは、阪神大震災から2年後の1997年だが、現在までに文庫化もされていたことをはじめて知った。

タイトルの変更なく、『安政江戸地震 ー 災害と政治権力』としてちくま学芸文庫から2004年に出版されているが、そちらもすでに重版未定のようだ。ぜひ重版すべきではないか? 

なぜなら、つぎに首都東京を襲う大地震は1923年の「関東大震災」タイプではなく、1855年の「安政江戸大地震」タイプの可能性が高いからだ。

ただし、次回の大地震がどのような形で、どれくらいの規模になるのかわからないが、南海地震と東南海地震に連動して発生する可能性がある。しかも、規模の大きな地震が数回起こる可能性すらあるのではないか?


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目 次 
第1章 歴史は揺り返す 
第2章 地震前夜の江戸 
第3章 江戸官庁街直撃ー安政2年10月2日夜・その1 
第4章 日本橋と深川 ー 安政2年10月2日夜・その2 
第5章 世は安政、民のにぎわい 
第6章 運命の卯年
あとがき
参考文献一覧

著者プロフィール
野口武彦(のぐち・たけひこ)
1937年東京生まれ。作家、文芸評論家、神戸大学名誉教授。早稲田大学第一文学部卒業。東京大学大学院博士課程中退。近世日本文学、日本思想史専攻。1970~72年、ハーバード大学イエンチン研究所客員研究員、1975~6年、プリンストン大学極東言語学部客員教授、1981~2年ブリティシュ・コロンビア大学アジア学部客員教授。
1973年、『谷崎潤一郎論』(中央公論社)で亀井勝一郎賞、1980年、『江戸の歴史家』(筑摩書房)でサントリー学芸賞、1986年、『「源氏物語」を江戸から読む』(講談社)で芸術選奨文部大臣賞、1992年、『江戸の兵学思想』(中央公論社)で和辻哲郎文化賞、2003年、『幕末気分』(講談社)で読売文学賞を受賞。代表作として『石川淳論』(筑摩書房、1969年)、『江戸がからになる日―石川淳論第二』(筑摩書房、1988年)『三島由紀夫の世界』(講談社、1968年)などがある。(野口武彦 公式サイト から転載)



PS 佐藤一斎が数え88歳で天寿を迎えられた理由

儒者の佐藤一斎は、70歳のときに幕府の儒官に任命され、「愛日楼」と命名していた八重洲の自宅を引き払って湯島の昌平坂学問所に併設された官舎に移っている。1841年のことだ。

『言志録』シリーズの最後となった『言志耊録』を出版したのは82歳。1853年のことだ。この年にはペリー艦隊の第1回遠征があって、佐藤一斎はペリーが持参した国書の解読を命ぜられている。国書はオランダ語と漢文の2通あったが、一斎がかかわったのは漢文のほうである。
 
「安政東南海地震」は1854年、その翌年の1855年に江戸を直撃した「安政江戸大地震」では、八重洲周辺に集中していた大名屋敷の多くで大きな被害がでている。佐藤一斎の自宅があったのは林大学頭の屋敷の隣地だが、林大学頭の屋敷地では倒壊などなかったようだ。

とはいえ、84歳の老人が被災していたら、かなりこたえていたのではないか? 昌平坂学問所は本郷台地に立地しており、地震の被害はそれほど大きくなかったのだ。八重洲が江戸時代初期の埋め立て地であるのに対し、本郷台地は縄文時代から台地であった。

佐藤一斎は82歳以降は、公の記録には登場しないので、その間の消息は不明だが、88歳で天寿を全うしたのは、被災しなかったことも大きいのではないか。本書を読みながら、そんなことを考えていた。



<関連サイト>


・・阪神大震災(1995年1月17日)に記録。揺れた時間は「たった10秒」

(2024年1月17日 情報追加)


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2023年1月30日月曜日

書評『われに万古(ばんこ)の心あり 幕末藩士小林虎三郎』(松本健一、ちくま学芸文庫、1997)― 真の「保守主義者」の遠くを視るまなざし

 
 

『われに万古(ばんこ)の心あり 幕末藩士小林虎三郎』(松本健一、ちくま学芸文庫、1997)を読了。購入してから四半世紀も積ん読となったままだった本。単行本初版は1992年の出版。  

小林虎三郎の名前は、いわゆる「米百俵」と結びついている。有名になったのは、小泉純一郎元首相の就任演説でそのエピソードが紹介されてからだ。2001年のことである。バブル崩壊後の不況のさなかのことである。

そのブームに便乗する形で、新潮文庫からは山本有三の戯曲『米百俵』が出版されている。この戯曲は、戦時中の1943年である。長岡藩の藩是ともいうべき「常在戦場」をモットーにしていた、長岡出身の山本五十六元帥が撃墜死する前のことだ。  




戊辰戦争の敗戦で廃墟となり、荒廃した長岡藩の再建にあたって、長岡藩の支藩から援助された「米百俵」。だが、それを生き残った藩士に配分して消費してしまうのではなく、それを原資にして学校をつくるべきだとして実行した人。それが小林虎三郎である。 

その日暮らしではなく、教育によって人材を育成する取り組みこそ大事なのだ、と。短期的な消費ではなく、長期的な視点を見据えた人材投資である。それがあったからこそ、維新の負け組となった長岡から、山本五十六はじめ多くの人材が生まれたのである。 


(『われに万古の心あり』の口絵より 小林虎三郎は天然痘のためあばた面で、左目を失明していた) 


小林虎三郎(1828~1877)は吉田寅次郎(松陰 1830~1859)とならんで、佐久間象山の愛弟子で「両虎」とよばれた人だった。

「行動の人・松陰」に対して、「思索の人・虎三郎」。 師の象山は、教育者としての素質は小林虎三郎のほうが高いとみていたようだ。

ペリーの二度目の来航を境にして、師と二人の愛弟子の運命は大きく変わる。

密航に失敗した松陰は捕縛、象山も松代に蟄居。松陰の運命については、あえて語るまでもないだろう。虎三郎も藩主への建白書がたたって長岡に蟄居を命じられることなる。失意のなか、虎三郎は病身だったこともあって、表だった活動もできなくなる。 

戊辰戦争に際しては、開戦論を主張した河井継之助に対して、非戦論を主張した小林虎三郎。長岡藩士としての気概から開戦に踏み切った継之助に対して、長岡藩を超えた日本全体の視点から戦争の無意味さを説いた虎三郎。 

二人はともに親しいあいだがらであったが、政策論にあっては対立することになる。そして、敗戦後の再建にあたっては、教育を中心に据えた人材投資を推進したことは、すでに見たとおりだ。 

河井継之助も小林虎三郎もともに佐久間象山のもとで学んでいるが、継之助は山田方谷を生涯の師として選び、長岡藩の財政再建にかんして大きな影響を受けている。 

戊辰戦争における態度は師の方谷とは大きく異なる。むしろ、虎三郎のほうが方谷と近いような印象を受ける。これはわたしの個人的感想である。 

「米百俵」のエピソードにあるように、いま目の前の課題から逃げることなく取り組むことは必要だが、目の前だけを見ていてはならないのである。現実主義にたつ必要があるが、同時に遠くを見通した理念が必要なのだ。 

とはいえ、理念の実現にあたっては、革命のような急進的で破壊的な手段ではなく、ゆるやかであっても、着実に一歩一歩前に進めて実現することが大事なのである。 

その意味では、著者の松本健一氏が指摘しているように、小林虎三郎は英国のエドモンド・バーク的な意味における「保守主義者」であったといえよう。日本の政治世界におけるエセ愛国者やエセ保守主義者とは、まったく異なる存在である。 

小林虎三郎の名前は、小泉元首相の紹介によって全国的な知名度を獲得したが、それからすでに20年を経過したいま、あまり話題になることもない。 

それでもかまわないのではないかと思う。小林虎三郎自身が「万古の心」をもって、遠くを見つめるまなざしをもって生きた人だったからだ。 


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目 次 
第1章 小林虎三郎の時代 
第2章 常在戦場という精神 
第3章 河井継之助と小林虎三郎 
第4章 象山と松陰を繋ぐもの 
第5章 精神のリレー 
第6章 幕末のパトリオット 
第7章 戦わない論理 
第8章 遠望するまなざし 
第9章 小林一族の戊辰戦争 
第10章 敗戦国の復興 
第11章 後から来るものへ 
第12章 終焉 
第13章 ながい影

著者プロフィール
松本健一(まつもと・けんいち)
日本の評論家、思想家、作家、歴史家、思想史家。麗澤大学経済学部教授。 中国日本語研修センター教授、麗澤大学経済学部教授、麗澤大学比較文明文化研究センター所長、一般財団法人アジア総合研究機構評議員議長、東日本国際大学客員教授、内閣官房参与(東アジア外交問題担当)などを歴任した。主な著書に『近代アジア精神史の試み』(岩波現代文庫、アジア・太平洋賞受賞)、『日本の近代1 開国・維新』(中公文庫、吉田茂賞)、『評伝北一輝 全五巻』(中公文庫、毎日出版文化賞・司馬遼太郎賞)など多数。2014年没。(本データは『「孟子」の革命思想と日本』2014年が刊行された当時に掲載されていたものに wikipedia 情報で加筆)


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・・田中角栄もまた長岡の出身。ときに河井継之助のなぞらえられることがある

・・長岡藩の家老・稲垣氏の娘による英文の『武士の娘』


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2023年1月28日土曜日

書評『佐久間象山 上・下』(松本健一、中公文庫、2015)― 「殖産興業」と「富国強兵」路線を先取りした「革命思想家」の生涯

 

『佐久間象山 上・下』(松本健一、中公文庫、2015)を読了。帯によれば、著者が「病床で手を入れた最後の本」だという。原本は『評伝 佐久間象山』というタイトルで2000年に出ている。  

文庫化されて購入してから8年、積ん読のままだった。先日ようやく陽明学の山田方谷(やまだ・ほうこく)の評伝を読んだこともあり、「佐門の二傑」と呼ばれたライバルの佐久間象山も読まねばなるまいと思って、ついに読むことにした次第。  




読み応えのある評伝であった。上下あわせて700ページ近いボリュームだが、まったく飽きさせない。

「革命思想家」であったと著者がいう象山の生涯を描いて、この作品を越えるものはなかろう。 

明治維新後の殖産興業と富国強兵路線を先取りし、その見取り図を描いた先覚者である。朱子学者として出発し、「格物究理」(=格物致知)から西欧の科学と技術の「理」を「究」めようとした洋学者でもあった。 


(『省諐録』のなかで「詳証術」=数学の重要性を説く象山)


尊王も攘夷も超えた次元での「日本」を想定していた愛国者であり、最期はテロの嵐が吹き荒れた幕末の京都で、長州攘夷派による凶刃に倒れている。 愛弟子であった吉田松陰の弟子達によるものだけに、なんとも皮肉な話である。

山田方谷とのからみでいえば、昌平黌では朱子学を講じながらも、陽明学への傾斜を隠さなかった儒者の佐藤一斎。その陽明学の側面に大きな影響を受けたのが方谷であれば、徹底的に朱子学にこだわったのが象山であった。 その意味では、象山にとっての佐藤一斎は反面教師であったようだ。

プライドのきわめて高い象山は、朱子学については自分でやるから教わる必要はない、文章については一斎に学ぶべきものがあるとして実行していたという。象山らしいエピソードである。 


(文庫版の帯)


そんな象山を代表するものとして著者が引き出し、本書を貫く主要旋律となるがのが、帯にも引用されている、つぎの2つのフレーズである。 

●「夷の術を以て夷を制す」 
●「宇宙に実理は二つなし」 

あくまでも愛国者の立場から、「夷」(=西欧)の技術でもって「夷」(=西欧)を制するとする。地球が一体化した時代に真理は一つしかないとする。東洋だろうが西洋だろうが、真理は一つである。だから、西洋の技術を徹底的に身につけることで、他者に侮られない強い自分をつくることができるのだ、というのが趣旨である。 

象山といえば、「東洋道徳・西洋芸術」(・・ここでいう芸術とは技術のこと)がよく知られている。のちに「和魂洋才」という通俗的なフレーズで一般に知られることになるが、著者はそれでは象山をつかみきれないとする。だから、先の2つのフレーズなのだ。 とくに後者の「宇宙に実理は二つなし」は、象山の思想の歴史的意味を考えるうえできわめて重要である。

もともと朱子学者であった象山は、アヘン戦争(1840年)の衝撃のなかで「夷の術を以て夷を制す」を歩むことになる。34歳ではじめてオランダ語を学び、たった2ヶ月でマスターしたという猛烈ぶりだ。 

佐久間象山といえば、愛弟子の吉田松陰を黒船に密航させようとして失敗したことでも知られているが、その本意は「夷の術を以て夷を制す」にあったのである。間者として米国に送り込んで敵情を知る。「敵を知り己を知れば・・」の孫子の兵法である。あくまでも軽挙妄動を戒めていた。 

「宇宙に実理は二つなし」は、もう一人の愛弟子であった長岡藩士の小林虎三郎が帰郷する際にあたえた文章にでてくるという。小林虎三郎は「米百俵」の人である。かれは吉田寅次郎(=松陰)と並んで象山門下の「両虎」と呼ばれていたという。


(象山の『省諐録』は明治4年に勝海舟の尽力で出版された)


佐久間象山については、ずいぶん昔から親しくその名前を知っていた。たぶん勝海舟の『氷川清話』を中学生のときに愛読していた以来のことだろう。

だが、あくまでも蘭学者(=洋学者)としての興味に限定されていたように思う。 今回、松本健一氏による評伝を通読して、朱子学者として出発したその生涯をはじめてくわしく知った。


(中学時代に購入した岩波文庫の『省諐録』 もちろん読みこなせるはずもなかったが・・)


象山の『省諐録』(せいけんろく)は昔から読んできたが、松本健一氏の本書はその注釈書にもなりうる。 逐条解説というわけではないが、重要な文章を取り上げて論じているからだ。

引用された象山の文章にのほぼすべてに現代語訳がなされている。ややうっとおしい感もなくはないが、漢文訓読体になれていない人には、大いに助けとなるだろう。 

明治維新から150年、途中にはさまざまな紆余曲折があったものの、基本的に佐久間象山が見通していた道を歩いてきた日本。

あらためて佐久間象山という思想家について知ることは、日本の行く末について考えるためにも重要ではないか。


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目 次 
序章 象山暗殺
第1章 宇宙に実理は二つなし
第2章 非常の時、非常の人
第3章 『省諐録』 
第4章 異貌のひと 
第5章 東アジア世界図の中に 
第6章 夷の術を以て夷を制す 
第7章 黒船来航 
第8章 開国
第9章 幽閉生活のなかで
第10章 再び幕末の動乱へ
第11章 統一国家のために
終章 人事の尽くるところ
佐久間象山人間関係図


著者プロフィール
松本健一(まつもと・けんいち)
日本の評論家、思想家、作家、歴史家、思想史家。麗澤大学経済学部教授。 中国日本語研修センター教授、麗澤大学経済学部教授、麗澤大学比較文明文化研究センター所長、一般財団法人アジア総合研究機構評議員議長、東日本国際大学客員教授、内閣官房参与(東アジア外交問題担当)などを歴任した。主な著書に『近代アジア精神史の試み』(岩波現代文庫、アジア・太平洋賞受賞)、『日本の近代1 開国・維新』(中公文庫、吉田茂賞)、『評伝北一輝 全五巻』(中公文庫、毎日出版文化賞・司馬遼太郎賞)など多数。2014年没。(本データは『「孟子」の革命思想と日本』2014年が刊行された当時に掲載されていたものに wikipedia 情報で加筆)


<関連サイト>

・・冒頭に米国の思想家エマソンの一節が引用されている。
Trust thyself : every heart vibrates to that iron string. ――Emerson.


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