千葉県は東京都の隣にあるが、居住者や出身者のほかには意外にもあまりその内情を知られていないような気がする。
わたし自身も京都府生まれで千葉県の出身ではないが、長年にわたって千葉県と東京都に生きてきたので、居住者としての土地勘や愛着といったものがある。
とはいっても、関心の中心はどうしても房総半島まではあまり及んでいない。関心はもっぱら下総国(しもうさのくに)にある。律令制によって定められた下総国の国府は、現在も市川市の国府台(こうのだい)という地名で存在し、江戸川の東岸の高台に立地している。
その下総国だが、現在は利根川をはさんで千葉県と茨城県にまたがっている。利根川が県境になっているが、むかしは「流域」が一つの単位として意識されていた。 歴史を考えるにあたって、廃藩置県後の行政区域で考えると間違いが生じるのはそのためだ。
(下総国における葛飾郡の位置 「葛飾区史」より)
下総国を区分すると北総(ほくそう)と東総(とうそう)になる。南総(なんそう)は房総半島の上総国と安房国。わたしが現在住んでいる船橋市は「葛飾」であり、さらに限定していえば「東葛」となる。現在の東京都葛飾区だけが葛飾ではない。かつて 松戸や柏から船橋あたりは葛飾であった。真間の手児奈伝説のある市川市の真間も葛飾である。
(拡大図 同上)
■「東総」はかつて平田国学の一大中心地であった
「東総」の江戸時代後期から幕末維新に至る歴史は興味深いものがある。先にもみた利根川下流域の一帯である。ここには、「東国三社」とされる鹿島神宮・香取神宮・息栖神社鎮座まします地域。霞ヶ浦の水域でもある。
東総が面白いのは、佐原からは日本全図を完成した伊能忠敬がでているように(・・かれは隠居後に天文学を学ぶため江戸に出た)、江戸時代においては河川物流によって栄えた地域であることだ。太平洋から銚子から利根川に入り、江戸までつながった水路は、かつてはロジスティクスのメインルートであった。
そんな土地柄ゆえか、この地域は「平田国学」を支える重要な地域でもあったのだ。「平田国学」とは平田篤胤による国学で、幕末にかけては水戸学とならんで変革の原動力となったものだ。
この事情については、かつて2004年に国立歴史民俗博物館で開催された「明治維新と平田国学」という企画展示で知られることになった。平田宗家から寄贈された史料を整理して展示したこの企画は、じつに素晴らしいものがあった。特別展でも取り上げられた平田国学と平田篤胤の遺品は、現在でも「常設展示」にその一部を見ることができる。
平田国学というと、島崎藤村の『夜明け前』で知られているように、木曽路の馬籠宿がその中心であったが、東総もまた平田国学を支えた地域であったのだ。 その担い手は豪農層であった。名主や庄屋は、村を代表する存在で教育程度も高かった。しかも、この地域は消費社会化が進展していた。
一方ではこの地域には、農業改革家で教育家の大原幽学が活動した地域でもある。農業改革家としては小田原出身の二宮尊徳ほど知られていないが、「先祖株組合」という世界初(?)の農業協同組合によって地域農業立て直しを行った人物として知られている。教育家としても知られている。
平田国学と大原幽学の性学の関係はどうだったのか、よくわからなかった。ほぼ同時期の現象でありながら、この両者が同時に論じられることがないからだ。
そこで、とりあえず手持ちの『大原幽学と幕末村落社会-改心楼始末記』(高橋敏、岩波書店、2005)と『宮負定雄と平田国学-東総の改革者たち』(宇井邦夫、厳松堂出版、2008)をあわせて読んでみた。
興味深いことに、大原幽学と宮負定雄は、同年に生まれ同年に死んでいる。生年は1797年に生まれ、没年は1858年である。いずれも黒船来航で混乱する幕末期に生き、生涯を終えているのだ。ちなみに二宮尊徳(1787~1856)は、かれらより10年年上で、2年早く死んでいる。
大原幽学は尾張あたりに生まれた武士だが、故あって浪人となり4000人強(!)の友人に支えられて生きてきた人だ。最終的に定住したのが東総、その土地に生まれ名主として地域のリーダーであったのが宮負定雄。大原幽学も宮負定雄も、その当時の主要産業であった農業立て直しに尽力した点は共通している。
『大原幽学と幕末村落社会-改心楼始末記』(高橋敏、岩波書店、2005)によれば、 18歳で勘当されたが、父からは「死ぬまで武士として生きよ」と言われ、そのことばを終生守りきったらしい。
大原幽学は、その教団ともいうべき集団の求心力として建設された「改心楼」が、幕府の疑惑を呼び起こして破壊された「改心楼事件」が、足かけ6年にもおよぶ江戸裁判が決着したあと自決している。
ただ一人で、見事なまでに作法に則り、介錯ないしで割腹自殺したのである!
腹を切ったあとは服装をただし、さらに短刀で喉を突き、流れ込む血を吐き捨てたあと、静かに瞑目して息を引き取ったとのことだ。介錯なしの割腹!であったことには驚きを禁じ得ない。三島由紀夫が霞んでしまう。
(大原幽学 「大原幽学記念館」のウェブサイト画像を加工)
東総の平田国学は、平田篤胤自身が二度にわたって来訪していることもあって、早い段階から門人が誕生しているが(・・船橋大神宮の大宮司も門人であったようだ)、大原幽学の盛名があがりはじめた時期に、平田国学の門人の新規加入者の動きがぱたっと止んだらしい。なるほど、両者は競合関係にあったわけである。
平田国学が「復古神道」であったのに対し、大原幽学の性学は「儒教をもとにした通俗道徳」であった。前者は知識階層にはアピールしても、一般庶民には通俗道徳のほうがしっくりきたのかもしれない。
(宮負定雄 『平田国学と明治維新』より)
平田国学から大原幽学に鞍替えした有力者もいたなかで、宮負定雄は平田篤胤の熱心な門人であることはやめず生涯を貫いている。名主という豪農層の出身であったが、農政家のみならず、国学者として数々の著作をものしている。柳田國男も参照している『奇談雑史』は、平田篤胤の異界研究の系譜にあるフィールドワークの成果で、ちくま学芸文庫として文庫化されており、現在でも入手可能だ。
それやこれやで書いていると長くなるので、ここらへんでやめるが、東総における平田国学と大原幽学は面白いテーマであるので、ひきつづき細々とフォローしていきたいと思っている。
ただ残念なのは、千葉県の地方出版であった崙書房が廃業してしまったため、過去の出版物も入手困難となっていることだ。地方史をささえてきた地方出版の意味はもっとよく意識したほうがいい。 できれば、あらたに立ち上げる人が現れてきてほしいものだ。
<関連サイト>
・・宮地正人氏の基調講演「平田国学の幕末維新」ほか発表資料が Pdfファイルで読める。
「飢饉のとき餓死者を出さないように努めるのが村長の役目だと言い続けてきた下総国香取郡松沢村の名主宮負定雄が気が狂ったと一八三四年三月に手紙で気吹舎(いぶきのや)に急報した同村熊野神社の神職宇井出羽は、大原幽学の性理学に基づいた農村復興運動に参加することになりました。・・」との記述がある。
(2022年2月15日 情報追加)
<ブログ内関連記事>
・・利根川中流域の布川で、柳田國男は少年時代を過ごしている
・・平田篤胤関係の遺品の一部が常設展示されている
・・二宮尊徳は、成田山で21日間の断食修行を行っている
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