「1995年」は現代日本の分水嶺となったという認識、これは1978年生まれの著者より16歳年上にあたるわたしもつよく感じていることだ。
2011年の「3-11」、2001年の「9-11」はともに、それぞれの事象が引き起こされてからしばらくは、自分のなかで巨大なインパクトが続いていたが、時間がたつにつれて「1995年」とは性格を異にするものであることがだんだんとハッキリしてきたことを感じている。
「1995年」とは、阪神大震災で虚をつかれ、そしてオウム真理教によるサリン事件で「覚醒」させられることになった。
その当時、宗教学者の山折哲雄氏は「終わりの始まり」だというような発言をしていたが、まさにその間を強くしたことが記憶に刻み込まれている。
1995年は「平和ボケ日本」に衝撃を与えた年となった。この年から、本格的に国民意識が変化を始めたのである。「正常化」の始まった年としても記憶されるべきである。この件については、現在に至るまで未解決のまま迷宮入りしている「警視庁長官狙撃事件」の当事者である國松孝次氏の著書の書評 『スイス探訪-したたかなスイス人のしなやかな生き方-』(國松孝次、角川文庫、2006 単行本初版 2003)として書いているので繰り返さないが・・・・
時系列でみれば、1989年11月の「坂本弁護士一家殺害事件」から始まり(・・この時点ではオウム真理教の犯罪とは判明していなかった)、1994年6月の「松本サリン事件」あたりからだんだんオウム真理教犯人説が優勢になってきた。そして、阪神大震災で日本全体に「ハルマゲドン」(終末論)感覚が蔓延しはじめた頃、1995年2月28日に「目黒公証人役場事務長拉致監禁致死事件」が発生、世の中でオウム真理教の疑惑が非常に高まってきた頃、3月20日には「地下鉄サリン事件」が発生している。
本書のテーマは、1995年以降の気分が、2001年の「9-11」によって一変した事情を、文学、アニメ、ゲームからテレビドラマというサブカルチャーの具体的な作品に則して縦横無尽に論じた評論だ。「ゼロ年代」とは2000年代のことである。
若い世代に圧倒的な影響力のある著者の発言には、予断をまじえずに耳を傾けてみたいと思う。
かつて日本社会は「高度成長」などの「大きな物語」に支えられていたが、もはやその効力はない。こんなことが言われるようになってからすでに20年以上たっている。
1995年に生まれたのが『新世紀エヴァンゲリオン』であり、この作品がひきこもりを肯定する結果となったことはよく知られていることである。著者はこの1995年の思想を「古い想像力」とする。
これに対して2001年の「9-11」以降、すなわち「ゼロ年代」に生まれた思想を「新しい想像力」とする。
あまりにも煩瑣になるので個々の具体的な作品名はここではあげないし、わたし自身もそのすべてを読んだわけでも視聴したわけでもないので論評しようがないが、著者の評論を読む限り、その評価には納得がいくものがある。
わたしが著者の宇野氏の存在を知ったのは、ETV特集 「"ノンポリのオタク" が日本を変える時-
怒れる批評家・宇野常寛-」(2013年2月10日放送)である。この放送をめぐって30歳代の若者とフェイスブックでいろいろ対話を行ったことも、さらに宇野氏のことを知りたいと思った理由の一つだ。
そもそも人文系の思想書や「批評家」の本などまず読むこともないわたしにとって、この本は例外的に面白いと思った。社会学者も取り上げないようなテーマを丹念に拾い上げているからだ。
「いま」という時代はどういう時代なのか、どんな時代にわたしたちは生きているのか、それが理解できなければ、これからどう生きていくかも決めることはできない。だからこそ、自分よりはるかに若い世代の意見に耳を傾け、著作があれば読んでみる。
著者の指摘で重要なことは、2001年以降の決断主義という「新しい想像力」は、1995年からの「ひきこもり」という「古い想像力」へのアンチテーゼであるだけでなく、1995年の「古い想像力」を踏まえたうえで、さらにそれを乗り越えようとしたものであるということだ。
時代を断絶ではなく、連続していながらもそれを否定し乗り越えるという思考、これはきわめて健全な歴史認識といえるだろう。1995年の「古い想像力」がなければ、2001年の「新しい想像力」も存在し得なかったことを意味しているからだ。
だが、2001年の「決断主義」にもまた大きな問題点がある。それは、狭い人間関係のなかでの動員ゲームとバトル・ロワイヤルになりがちな傾向をもつということだ。動員ゲームとは・・・・・ バトル・ロワイヤルとはプロレス用語で・・・・
そして「決断主義のゼロ年代」のワナにとらわれることなく、それを超える方向性として、第7章から第9章にかけてとりあげられ宮藤官九郎、木皿泉、よしながふみをあげている点には、よしながふみの読者としては十分に納得する内容である。
日常性のなかに物語を読む、物語をつむぎだす、という姿勢、態度こそが大事なのだ。
これはある意味、「自分のなかに歴史をよむ」という歴史家・阿部謹也の過激な姿勢にも通じるものがあるといっていいかもしれない。
このほか、「母性のディストピア」物語としての高橋留美子論や、『三丁目の夕日』にみられるノスタルジイとしての語りのあやうさ、山形浩生の「新教養主義」という態度など、なかなか面白い観点からの論考が収録されている。
単行本が出版されたのは2008年であり、まさに「ゼロ年代」のさなかに発表されたものだ。だから、その後の2011年の「3-11」を踏まえた「10年代」のものではない。
だが、文庫版に収録されたロングインタビューを読めば、多少の。。はあるにせよ基本的な見取り図に変更する必要がないことが確認される。
今後も大いに期待される若手世代の旗手のデビュー作 『ゼロ年代の想像力』は、1978年生まれより上の世代もぜひ読むべきだ。
目 次
第1章 問題設定-九〇年代からゼロ年代へ/「失われた十年」の向こう側
第2章 データベースの生む排除型社会-「動物化」の時代とコミュニケーションの回復可能性
第3章 「引きこもり/心理主義」の九〇年代-喪失と絶望の想像力
第4章 「九五年の思想」をめぐって-否定神学的モラルのあとさき
第5章 戦わなければ、生き残れない-サヴァイヴ系の系譜
第6章 私たちは今、どこにいるのか-「決断主義のゼロ年代」の現実認知
第7章 宮藤官九郎はなぜ「地名」にこだわるのか-<郊外型>中間共同体の再構成
第8章 ふたつの『野ブタ。』のあいだで-木皿泉と動員ゲームからの離脱可能性
第9章 解体者としてのよしながふみ-二十四年組から遠く離れて
第10章 肥大する母性のディストピア-空転するマチズモと高橋留美子の「重力」
第11章 「成熟」をめぐって-新教養主義の可能性と限界
第12章 仮面ライダーにとって「変身」とは何か-「正義」と「成熟」の問題系
第13章 昭和ノスタルジアとレイプ・ファンタジー-物語への態度をめぐって
第14章 「青春」はどこに存在するか-「ブルーハーツ」から「パーランマウム」へ
第15章 脱「キャラクター」論-ケータイ小説と「物語」の逆襲
第16章 時代を祝福/葬送するために-「決断主義のゼロ年代」を超えて
特別ロング・インタビュー ゼロ年代の想像力、その後 (文庫版のみに収録)
固有名索引
著者プロフィール
宇野常寛(うの・つねひろ)
評論家。1978年生。企画ユニット「第二次惑星開発委員会」主宰。批評誌編集長。戦後文学からコミュニケーション論まで、幅広い評論活動を展開する。近著に『リトル・ピープルの時代』。
<関連サイト>
ETV特集 「"ノンポリのオタク" が日本を変える時-怒れる批評家・宇野常寛-」(2013年2月10日放送)
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『きのう何食べた?⑦』(よしなが ふみ、講談社、2012)-主人公以外がつくる料理が増えてきてちょっと違った展開になってきた
(2012年7月3日発売の拙著です)
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