石原慎太郎もすでに80歳。毀誉褒貶(きよほうへん)相半ばする「暴走老人」であるが、好き嫌いは別にして、きわめて個性のつよい「一橋的」な政治家であることは間違いない。
「一橋的」というのは「一橋大学の卒業生らしい」という意味だ。関係者は一橋と書いて「いっきょう」と読む。
『石原慎太郎-「暴走老人」の遺言-』(西条 泰、KKベストセラーズ、2013)の「第5章 石原慎太郎という生き方」に「嫌いで好きな一橋大学」という節があるが、「好きで嫌いな」という表現ほど石原慎太郎という人物を描くのに適した表現はほかにないだろう。
それは、石原慎太郎みずからの性向であり、また石原慎太郎に対して有権者が抱く気持ちでもある。そう、つまりはアンビバレントな存在であり、アンビバレントな感情を喚起する存在であるのだ。
かくいうわたしも、好きで嫌い、嫌いで好きである(笑) 愛憎相半ばするとまでは言わないが、こういうアンビバレントな感情は男女関係だけではない。
「シャイではにかみ屋」というのは石原慎太郎が母性をくすぐる点でもあるのだろう。嫌われながらも、嫌われきらないのはそのためだ。前歯をチラとみせて恥ずかしげに笑う姿は悪ガキ的な少年っぽさがある。
『石原慎太郎-「暴走老人」の遺言-』(西条 泰、KKベストセラーズ、2013)の「第5章 石原慎太郎という生き方」に「嫌いで好きな一橋大学」という節があるが、「好きで嫌いな」という表現ほど石原慎太郎という人物を描くのに適した表現はほかにないだろう。
それは、石原慎太郎みずからの性向であり、また石原慎太郎に対して有権者が抱く気持ちでもある。そう、つまりはアンビバレントな存在であり、アンビバレントな感情を喚起する存在であるのだ。
かくいうわたしも、好きで嫌い、嫌いで好きである(笑) 愛憎相半ばするとまでは言わないが、こういうアンビバレントな感情は男女関係だけではない。
「シャイではにかみ屋」というのは石原慎太郎が母性をくすぐる点でもあるのだろう。嫌われながらも、嫌われきらないのはそのためだ。前歯をチラとみせて恥ずかしげに笑う姿は悪ガキ的な少年っぽさがある。
本書は一橋大学社会学部で社会心理学を学んだ著者が、TVジャーナリストとして知遇をえて描いた石原慎太郎像である。思想信条がかならずしも一致しなくとも、「同窓」という人間関係はきわめてつよい。いわんや一橋大学をおいておや、だ。
一橋大学出身の政治家はかならずしも多くはないが、その少ない政治家たちは、いずれも好き嫌いのわかれる、いずれも個性のきわめてつよい人物が多い
首相をつとめた大平正芳、首相にはなれなかった渡辺美智雄(=みんなの党の渡辺善美の父)、長野県知事をつとめた田中康夫、名古屋市長の河村たかし、などなど。出身は作家、経営者とさまざまだが、きわめてつよい個性の持ち主であることは共通している。
圧倒的多数の卒業生がビジネスの世界にすすむ一橋大学であるが、政治家をふくめビジネス以外の道を選んだ少数派の人たちが個性的なのはなぜだろうか?
そもそも卒業生の数が圧倒的に少ない。一学年わずか1,000人程度である。経済学的にいえば希少財であるが、いかんせん現実世界においてはマイノリティたらざる得ないという弱点がある。それはビジネス界においても同様だ。人材の質は高いとしても、量が少ないという弱点だ。
質の高さを支えている理由のひとつは、ビジネスという実学の大学ゆえに数学が必修であるという入試の難しさもあるが、なによりもゼミナール制度にあることは間違いない。
ゼミとはゼミナールの略で、後期課程の二年間、専門の勉強をするために10人前後という比較的少人数でみっちり学問を行う教育制度のことだ。これは戦前の東京商科大学以来つづいて一橋大学を一橋大学たらしめている制度である。
理系なら「研究室」に該当するもので、かならずどこかのゼミに所属しなければ卒業できない仕組みになっている。その結果、どのゼミの出身かで、その人がどんな傾向の人間であるかまでわかるほどだ。
本書によれば、石原慎太郎は法学部に在籍しながら、一橋大学独自の制度である「トンネル」を利用して社会学部のゼミに入っていた。社会心理学の南博ゼミである。だから、オフィシャルな経歴としては法学部卒業ということになる。
南博ゼミからは歌手でタレントの山本コウタローなどもでているように、基本的にリベラルな姿勢がある。その意味では、南博と石原慎太郎は結びつきにくいが、もともと作家として出発したという経歴から考えればそれほど違和感はないのかもしれない。
教育社会学者の竹内洋氏に「現代思想における一橋的なるもの」というきわめて興味深い論文がある。『中央公論』に2000年に掲載されたものだが、『大衆モダニズムの夢の跡-彷徨する「教養」と大学-』(竹内洋、新曜社、2001)に収録されている。趣旨は以下のとおりだ。
「教養」という概念でタイプ分けすると、「山の手知識人」と「下町知識人」という両極のあいだに、戦後の「新中間大衆」(都市型)タイプを想定することができる。
「山の手知識人」の代表を丸山眞男(東京大学)、「下町知識人」の代表を吉本隆明(東京工業大学)とすれば、「新中間大衆」(都市型)のとして位置づけられる「一橋的なるもの」を代表するのは作家で政治家の石原慎太郎と田中康夫。政治的信条からいって水と油、右と左のようにみえる石原慎太郎と田中康夫だが、一橋的なるもの(平民的・町人的)で共通しているのだ、と。
たしかに言われてみるとなるほどと思われる視点なので、興味のある方はぜひ竹内洋氏の論文を直接読んでいただきたいと思う。
石原慎太郎は、東京都政改革において複式簿記の導入を功績の第一にあげている。単式簿記では財政の実態を把握することはできない。会計士になることをすすめられて一橋大学に入学し、会計学の勉強は半年で放棄したという石原慎太郎だが、意外や意外、じつはきわめて「一橋的」な側面も見せているわけだ。
石原慎太郎は政治家としてはすでに終わった人だろう。わたしは彼が属する党に投票するつもりはいっさいない。だが、大学の先輩としてその「遺言」には大いに耳を傾ける価値はあると思うのである。
目 次
第1章 日本人よ-暴走老人の遺言
第2章 石原慎太郎、立つ
第3章 石原慎太郎のやり方
第4章 都知事・石原慎太郎の14年
第5章 石原慎太郎という生き方
第6章 石原慎太郎語録
著者プロフィール
西条泰(にしじょう・やすし)
1967年、新潟県生まれ。一橋大学社会学部卒。読売新聞記者、外資系企業広報などを経て、2012年まで東京メトロポリタンテレビジョン(TOKYO MX)報道部で都庁番記者として密着取材を続けてきた。現在、フリーランス(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。
<関連サイト>
暴走できない石原、維新が誤った全国進出計画とブランド戦略 (田部康喜 Business Journal 2013年1月15日)
・・「作品から見える政治家・石原慎太郎」で記事の筆者は「暴走して、自らの政治的な野心を遂げる意志の力はない」と述べている。なるほどと思わされる指摘だ
<ブログ内関連記事>
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