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2025年5月6日火曜日

「昭和100年」は「三島由紀夫生誕100年」でもある。『三島由紀夫対談集 尚武のこころ 復刻版』(イーストプレス、2025)が復刊されたことはありがたい

 

ことし2025年は「昭和100年」になるという。そして同時に「三島由紀夫生誕100年」でもある。 

前回の「大阪万博」こと「EXPO' 70」は、1970年(昭和45年)に開催された。万博終了後の11月に自決した作家の三島由紀夫は、「昭和時代前半」そのものといっていいだろう。 

小学2年生のときに親に連れられて「EXPO' 70」を訪れている。新聞一面に載っていた三島由紀夫の自決後の生首のモノクロ写真も見ている。当然のことながら三島由紀夫のなんたるかも知らなかったが、かろうじて同時代に三島体験をしたことになるといっていいかもしれない。

 「三島事件」の衝撃の大きさは、およそ文学などとは縁のないわが家にも、最晩年の『春の雪』や『暁の寺』といった、黒塗りの箱入りのハードカバーの単行本があったことからもわかる。おそらく事件後に便乗商法的に増刷され、飛ぶように売れたのだろう。はたして読まれたものかどうか、いまとなってはまったくわからない。 

さて、そんな「三島由紀夫生誕100年」でもあることし2025年には、三島由紀夫関連の書籍の出版や再刊があいついでいる。 

なかでも、『三島由紀夫対談集 尚武のこころ』が、1970年9月に日本教文社から出版されたオリジナル版に手を入れることなく『三島由紀夫対談集 尚武のこころ 復刻版』(イーストプレス、2025)として出版されたのはありがたい。  

この対談集に収録されている村上一郎との対談「尚武の心と憤怒の叙情 文化・ネーション・革命」を読みたかったからだ。


■「石原慎太郎との対談が非常に重要」という三島由紀夫


対談者は、収録順に石原慎太郎、寺山修司、小汀利得(おばま・としえ)、中山正敏、鶴田浩二、高橋和巳、林房雄、堤清二、野坂昭如、村上一郎である。

作家、演劇人、ジャーナリスト、評論家、空手家、俳優、経済人と多士済々である。 三島由紀夫は、全体を俯瞰してこう書いている。 


対談の相手方の思想傾向は千差万別であるが、右顧左眄(うこさべん)して物を言ふやうな人が、対談者の中に一人もゐなかつたといふことは、私の倖せでもあり、名誉でもあつたと思ふ。敬意を抱くことのできない人と対談したところで仕方がない。(・・・中略・・・) 今回読み返してみて、非常に重要な対談だと思はれたのは、石原慎太郎氏との対談であつた。旧知の仲といふことにもよるが、相手の懐に飛び込みながら、匕首(あひくち)をひらめかせて、とことんまでお互ひの本質を露呈したこのやうな対談は、私の体験上もきはめて稀である。


その石原慎太郎との対談は、「守るべきものの価値 われわれは何を選択するか」と題されている。 

この対談は、『三島由紀夫 石原慎太郎 全対話』(中公文庫、2020)や、ことし復刊された『三島由紀夫の日蝕 完全版』(石原慎太郎、実業之日本社)などにも再録されているが、「天皇」なる存在をめぐって石原慎太郎は三島由紀夫の痛いところを衝いている。

まさに三島由紀夫の述懐どおりである。 

同世代の俳優の鶴田浩二との対談では、「「この過ちは繰り返しません」の原爆碑、あれは爆破すべきだよ」など、過激な発言を繰り出した三島に対して、学徒出陣の体験者である鶴田浩二が共感を示している。発言の趣旨には、わたしも心情的には共感する。

その真意については、本文を参照していただきたい。 


■一橋大学出身者との対談で始まり東京商大出身者との対談で終わる

 石原慎太郎との対談に始まり、村上一郎との対談で締めくくったこの対談集。知的な意味で三島の好敵手であった作家で政治家の石原慎太郎と、心情的な意味での三島の共感者であった歌人で評論家の村上一郎は、奇しくもともに一橋大学の同窓生である。 

石原慎太郎は芥川賞受賞の翌年の1956年(昭和31年)卒、村上一郎は東京商科大学時代の1943年(昭和18年)卒で海軍体験がある。村上一郎は、三島由紀夫の自決から7年後に日本刀で頸動脈を斬って自死している。

大東亜戦争をはさんだ戦後派と戦中派の世代差は大きく、文学の志向性もまったく異なるが、卒業生のほとんどがビジネス界に進む社会科学系の大学から生まれた、この右派的で特異な経歴をもつ文学者たちには、ある種の共通性があるように感じるのだ。 

それがなんであるか、すぐには言語化できないのはわたしの不勉強のためだが、両者のはるか後輩にあたるわたしには、そう感じてならないものがある。 


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2025年3月22日土曜日

書評『「私」という男の生涯』(石原慎太郎、幻冬舎、2022) ― 最後に残したのは自伝的回想録。その生き様は文学的であったといえるのかもしれない

 


自分の死後、そして妻の死後に出版することを条件に書かれた自伝的回想録である。64歳で書き始めて断続的に執筆し、最終的には80歳をはるかに過ぎてから完成したものだとある。この間には東京都知事を務めていた。 

この本が2022年に出版されたとき、丸善丸の内本店で平積みになっているのを見て手にとってはみたが、あえて読むことはあるまいと思った。

この本で初めてあきらかにされた、スキャンダル的ともいうべき愛人たちとの関係に注目が集まっていたが、そんなことはどうでもいいような気がしたからだ。


■全体をとおして流れる主旋律は「老い」と「死」と「スピリチュアル」

たしかに、実際に読んでみると、他人の秘密事をのぞき見るような関心をそそるものではある。

だが、全体をとおして流れている主旋律は、肉体主義者であった作家の衰えゆく肉体と精神、そして未知なる「死」への強い関心と恐れが入り交じった感情の揺れであった。 

身体的な老いと死に抗いながらも受け入れ、受け入れながらも抗いつづけるという、揺れ動く心のあり方が正直に吐露されている。現世へのこだわり。精神的な成熟、あるいは精神的な完成がほど遠い状態であることを隠さない。

人間だれしも免れ得ない「老い」、そして「死」という、間違いなくやってくる現実。そして、80歳を過ぎての脳梗塞によって失ったもの。だが、このような形で言語化できるのは、文学者ならではといえるだろう。圧倒的大多数の人間は、老いや死について考えることがあっても、文字として残すことはない。 

そんな石原慎太郎という「私」を形づくっていたのが、青年時代に読みふけったという、フランス文学や、演劇や絵画を中心にしたフランスの諸芸術であったことは、あらためて強い印象をもつ。石原慎太郎を形作ったのはドイツ的なものはなく、フランス的なものなのである。 

その点、母校の先輩でもあり、作家としての先輩であった伊藤整もまた、在学中はフランス文学の内藤濯のゼミに所属していたことを想起させるものがある。わたしも大学時代の第二外国語はフランス語を選択した人間なので、この傾向には親近感を感じるものがある。

人生観に影響をあたえている思想家も、日本のものをのぞけば哲学者ベルクソンの著作であることも、注目に値することだろう。本書でもたびたび言及されるのは、不可知世界を語るベルクソンであり、『死』の著者であるフランスの哲学者ジャンケレヴィチである。

石原慎太郎自身も、もともと母親が浄霊をやっていたこと、妻が世界救世教関係者の娘であり気学に凝っていたこと、そしてはじめて選挙にでた際に紹介された霊友会から始まった法華経世界への親しんでいる。

ベルクソンへの傾倒は、スピリチュアル時代の先取りといってもいいかもしれない。そのベルクソンを紹介してくれたのは、文芸評論家の小林秀雄だったとある。

人間の生涯は、その人自身のものであるが、他者とのかかわりによって形成されるものだ。その意味でも、この自伝的回想録は交遊録もである

政治家で言及される人は多くはないが、印象に残るのは、フィリピンの政治家ベニグノ・アキノとの交流である。その暗殺直前までつづいた熱い交流は、記録として価値のあるものだ。


■東大でも京大でもなく、一橋大学出身であることの意味

 石原慎太郎といえば、率直な物言いで物議をかもすことの多い右派的な政治家であった、これが一般的な理解であろう。わたしもその例外ではない。 

国会議員であった頃も都知事だった頃も、アメリカに対しての、中国に対しての、そして日本の現状に対して発せられる暴言とも、大言壮語ともいうべき発言には、大いに喝采を送りたい気持ちを抱き、大いに溜飲を下げたものだ。もちろん毀誉褒貶相半ばする存在ではあったが。 

しかも、亡父とは世代的にも近い「戦中派」であり、母校である一橋大学の大先輩でもある。しかしながら、卒業生の大多数がビジネス界に進むなかで、文学や芸術畑に進み、しかも成功した数少ない例外的な人でもあった。 

当然のことながら、わたしの強い関心は、石原慎太郎が1950年代に大学時代を過ごした回想と、その後の卒業生たちとの交流にある。 


それは、しかしそれでもなお東大や京大ならぬ、同じ国大ながらも他の二つとは全く気風の違う一橋という学校が、さまざま私にもたらしてくれた、あの学校ならではの有形無形の恩恵のおかげだった(P.76) 


石原慎太郎という個性は一橋大学なくしてあり得なかったわけだし、しかもまた石原慎太郎という存在がその後の一橋大学の特性を作り出していることも事実である。

石原慎太郎もまた、裕福ならざる寮生活を送っていたということは、大いに親近感を感じるものがある。わたしのときもそうだったが、当時の寮生活は4人部屋だったようだ。

その意味では、もっと一橋大学の学生時代について、一冊分になるくらいの回想を書いて欲しかった。 


■文学者と政治家は両立しうるのか?

政治家で作家、いや作家から政治家になった人物は、石原慎太郎だけでなく、おなじ一橋大学出身の田中康夫もいる。英国の首相であったチャーチルやディスレイリなども想起される。 

作家という、きわめて属人的な職業は、きわめてつよいセルフコントロールが求められるだけでなく、自分が作り出す世界の創造者でもある。自分の思うように政治を設計し実行したい、そんな思いに駆られやすいのだろうか。

政治も文学も、ともにことばの力で人を動かす点は共通している。作家として勝ち得た名声を、そのまま選挙戦につかえるというセルフブランディング上のメリットもある。 

とはいえ、政治家になったがゆえに文学者としてはいまひとつぱっととしたものがない、そんな印象をもつのはわたしだけではないのではないか。 

政治家に転身すると、政治家としてのイメージが大きくなりするぎることもあるだろう。政治家として全身的なコミットメントが求められるので、まとまった時間が取りにくいということもあるだろう。 

経営者で詩人、作家でもあった堤清二は、経営者としては西武セゾングループの総帥であったが、詩人・作家としては辻井喬というペンネームを使用していた。事業への全身的なコミットメントが求められる点において、経営者は政治家とおなじである。

経営と文学という、一般的には交わることのない世界に生きていた堤清二/辻井喬であったが、経営者と文学者で人格を分離することで精神的バランスを保っていたのだろう。どちらの名前が後世に残るかは定かではないが。 

それにくらべて、作家としても政治家としてもおなじ名前を使いつづけたのが石原慎太郎である。政治家としての側面がつよい印象を残すために、その書き物もそのイメージから逃れることができないという弱みがある。 

国会議員としての25年間にはネガティブな感想しか記していないが、都知事としての13年間は思うことができたと回想している石原慎太郎。できれば首相になってほしかったが、都知事として記憶に残る仕事を残したことは、大いに評価されるべきだろう。

ただし、都知事時代の「新銀行東京」の件は、当時東京都民であったわたしは、当初から違和感をもっていたことは記しておく。

最終的に失敗に終わったこのプロジェクトは、責任者としてトヨタから招いた人物が人選ミスであったことに帰しているが、一橋人脈への依存が、政治上の意思決定のミスを招いたことも無視できない事実である。いや、そもそもこの構想じたいが間違いだったのではないか。

また、東京オリンピック誘致にかんしても、税金の無駄遣いになるから。わたしは反対だった。東京都を去って千葉県に移住したのは、自分が払う税金がそのようなことにつかわれるのがイヤだったからでもある。

石原慎太郎は、文学者としては全うできなかったかもしれないが、その人生が文学的であったとはいえるのかもしれない。政治家として成功者だったのかどうか、その点にかんしても後世の評価がどうなるかはわからない。政治家の評価はリアルタイムと後世とでは異なるものだ。

もしかすると、後世の評価は政治家としてよりも、文学者としてのものとなるかもしれない。そんな気もしている。もちろん、わたし自身にその文学的価値を論じる資格はないが。

政治家としての側面ばかりが注目されてきた石原慎太郎だが、文学者としての石原慎太郎にも関心が生まれつつある今日この頃である。


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PS1 石原慎太郎の「虚実」を知る ー 回想録における主観的記述からは知ることができないこと

石原慎太郎の死後のことになるが、かれをよく知るジャーナリストの大下英治氏による『石原慎太郎伝』(MdN新書、2022)が出版されている。

著者が過去に執筆した文章を再構成した内容が中心になっているが、今後でてくるはずの石原慎太郎評伝の先駆けともいうべきものだ。




慎太郎自身が回想録ではあまり語っていない、政治家時代の話や、政治家引退後に都知事選にでて当選するまでの話が詳しく書かれているのが特徴だ。そうでなくても、話を盛る傾向の強い石原慎太郎だけに、回想録における主観的な記述との違いは興味深い。
 
この本を読むと、要所要所で先輩後輩を含めた「一橋人脈」が大きな意味をもっていることがわかる。東大や京大ではなく一橋出身の強みは、実業界に張り巡らされた人脈であったことは確かなことだ。役人的発想ではないということである。本書の強みは、大学の同級生で生涯にわたる盟友だった高橋氏へのインタビューが大きな意味がある。
  
ただし、一橋大学出身であっても、その当人を好きかどうかが是々非々であったことは、後輩にあたる竹中平蔵を嫌っていたことからわかるだろう。慎太郎は、好き嫌いのはっきりしている人であった。
 
また、親しい存在であった三島由紀夫とのあいだでは、まったく相反する立場にあったのが天皇をめぐる見解である。「国家なる幻想」について語った石原慎太郎は、「国体なる幻想」についても、当然のことながら自覚的であったということだろう。
 
その意味では、ナショナリスト的言動の多い慎太郎であるが、本質は別のところに求める必要がありそうだ。

目 次
はじめに
第1章 『太陽の季節』と石原慎太郎
第2章 石原裕次郎 ― 昭和の大スター兄弟
第3章 「天皇陛下、敗戦の日に自決すべし」発言と三島由紀夫の天皇観
第4章 「青嵐会」血判事件と美濃部革新都政への挑戦
第5章 石原裕次郎死す
第6章 「私が尖閣諸島に灯台を建設した」に日本青年社が激怒
第7章 総裁選出馬と最下位得票48票
第8章 1995年、なぜ石原慎太郎は永田町を去ったのか?
第9章 ノーベル賞作家より東京都知事の座
第10章 会見でペットボトルに入った煤を撒く
第11章 外形標準課税導入と「三国人」発言の波紋
第12章 銀座に装甲車と羽田空港再拡張
第13章 東京都「尖閣諸島購入計画」の頓挫
第14章 橋下徹との合流 ― 最後の野望
第15章 小池百合子一族と石原家 ― 半世紀にわたる恩讐
第16章 田中角栄批判の急先鋒から180度転換
終章 我が友・石原慎太郎へ 亀井静香
おわりに


PS2 1960年代の石原慎太郎と文学から政治家への転回点に至るプロセス

さらに『石原慎太郎 作家はなぜ政治家になったか(シリーズ・戦後思想のエッセンス)』(中島岳志、NHK出版、2019)は、慎太郎の存命中にでたものだが、「リベラル保守」なる摩訶不思議な立ち位置を自称する、1975年生まれの思想史家によるものだ。




「戦後派」の石原慎太郎が、なぜ作家から政治家になったのか、そのプロセスを1960年代の状況と重ねあわせながら考察している。芥川賞を受賞し『太陽の季節』でデビューしたのは、「もはや戦後ではない」というキャッチフレーズが流行した1956年のことである。
  
先行する世代を徹底的に批判してデビューするのは、いつの時代でも常套手段であるが、そんな「戦後派」で、軍国主義的な「戦前」を否定する慎太郎がなぜウルトラ・ナショナリストになったのか? 
 
著者は、その理由を慎太郎が時代に対して抱いていた「違和感」と、自分自身に対する「危機感」、そして「焦燥感」に求めている。「挫折」を含めた試行錯誤のプロセスのなかで最終的に見つけたのが、ナショナリズムという「着地点」であったわけだ。当時主流だった左派リベラル系の知識人とは異なり、高度成長時代の一般大衆の気分とも合致していたのである。

だから、それは著者がいうように「再帰的ナショナリズム」であって、原初的な土地に根ざした土の香りのするナショナリズムではなく、あくまでも観念論を経由したものなのである。一般大衆の気分と合致したとはいえ、あくまでも都会人であり、知的エリートであった慎太郎の限界というべきか。

そして、1968年のベトナム戦争取材後の病中の思索が、文学者への踏み台となったのであった。自意識においては、政治は文学の延長線上なのだ、と。


目 次
はじめに 「戦後と寝た」男
Ⅰ『太陽の季節』と虚脱感
Ⅱ「若い日本の会」と60年安保闘争
Ⅲ ベトナム戦争と政界進出
Ⅳ『「NO」と言える日本』とその後
石原慎太郎年譜

(以上、2025年4月1日 記す)



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・・村上一郎氏は東京商大(現在の一橋大学)卒で海軍士官を体験。日本刀で自刃するといいう劇的な最期を遂げた



・・おなじく芥川賞受賞作家・石原慎太郎の逝去から3日後、後を追うように突然死した西村賢太

(2025年4月3日 情報追加)


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2024年7月3日水曜日

いよいよ「渋沢栄一の時代」が始まる(2024年7月3日)

 (如水會舘の渋沢栄一 筆者撮影)


本日(2024年7月3日)から、お札の顔が変わる。 

壱万円札が福澤諭吉から渋沢栄一へ、5千円札が樋口一葉から津田梅子へ、千円札が野口英世から北里柴三郎へ。 

なんといっても渋沢栄一の時代の始まりである。「日本資本主義の父」である。 

写真は、東京は神保町の如水會舘1階に鎮座する渋沢栄一の胸像渋沢栄一は「一橋大学の守護神的存在」なので、当然のことながら在学中から知っている。 

そして、卒業生の会員組織である「如水会」の命名者も渋沢栄一だ。如水會舘はここから来ている。

「如水」というと、戦国武将の黒田如水が想起されるだろうが、出典は『礼記』で、「君子交淡如水」(=君子の交わりは淡きこと水の如し)である。渋沢栄一が選んだものだ。  

「淡き交わり」とは、淡々とした交際ということ。つまり、「君子の交わりは淡きこと水の如し」とは、立派な人を意味する「君子」を経済人となる卒業生たちにあてはめれば、「経済人は癒着が疑われるような、ベタベタした付き合いはするな」、という意味だろう。 


(「如水会会報」(2004年7月)の表紙 筆者撮影) 


ところで、一橋大学の全身は前身は東京商科大学、そもそもは初代文部大臣を務めることになる森有礼(もり・ありのり)が、ポケットマネーでつくった私塾「商法講習所」からに起源がある。一橋大学は来年2025年に建学150年を迎える。 

商法講習所の設立時点からかかわっているのが渋沢栄一、そして「設立趣意書」を書いたのが福澤諭吉である。つまり、ともに旧幕臣であった渋沢栄一と福澤諭吉は面識があり、ともに生みの親なのである。

したがって、お札の顔の交替はきわめて自然なことだといっていいだろう。平和裏にバトンタッチされたと考えていい。もちろん「壱万円」の face value(=額面価値)も変わらない。慶應の福澤諭吉にもエールを送るべきだ。


(新壱万円札の見本 Wikipediaより)


NHK大河ドラマのおかげで、渋沢栄一の国民的知名度が劇的に上がったのは、卒業生としてはじつにうれしい。そして、お札の顔としてホログラムにもなるというのも驚きだ。

新札のサンプルは「紙幣と切手の博物館」(独立行政法人国立印刷局)で実見済みだ。とはいえ、すべてのお札が一気にあたらしくなるわけではない。じょじょに入れ替わっていくわけだが、はたして新札を手にするのはいつの日になるのだろうか?  

自分自身が決済はデジタル化しているので、ほとんどキャッシュは使わなくなっているからねえ・・ 。紙幣(ペーパー・マネー)の新発行は、もしかすると、今回が最後となるのかもしれない。


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2017年9月18日月曜日

写真集 『妖怪の棲む杜 国立市 一橋大学』(伊藤龍也、現代書館、2016)で、ロマネスク風建築にちりばめられた建築家・伊東忠太の「かわいい怪物たち」を楽しむ

(一橋大学の国立キャンパス)


建築家・伊東忠太の代表作といえば、東京は築地本願寺のインド風の寺院建築物ということになうだろう。

ずいぶん昔のことになるが、はじめて築地本願寺を見たとき、ほんとうに不思議な感じがしたものである。浄土真宗のお寺なのに、ぜんぜん日本風ではないからだ。あまりにもエキゾチックな仏教寺院。


(伊東忠太設計になる築地本願寺 筆者撮影)


インド風ということでいえば、千葉県市川市の中山法華経寺にもインド風の建造物があるが、こちらはあまり知られていないようだ。日蓮聖人関連の宝物を収蔵した「聖教殿」である。一般的には、日蓮宗のほうがインド風の建造物は似合っているといえよう。

築地本願寺が浄土真宗でありながらインド風の建築物となったのは、大陸に雄飛した大谷光瑞の趣味も反映しているのであろう。


(伊東忠太設計になる中山法華経寺の「聖教殿」 筆者撮影)


伊東忠太が、法隆寺はギリシアのパルテノン神殿のエンタシスの影響にあるという説を打ち出したのは、みずからの3年におよぶユーラシア大陸横断というフィールドワークで得た知見によるものだ。このように、伊東忠太は建築家であると同時に建築史家であり、スケールの大きさはユーラシア大陸を股にかけた調査旅行から生まれてきたのであった。


インド風建築だけが伊東忠太の代表作ではない

だが、インド風建築だけが真骨頂ではない。一橋大学(当時は東京商科大学)のキャンパスにある兼松講堂もまた伊東忠太の代表作の一つである。

テレビドラマのロケでよく使用されるので、見たことがある人も少なくないだろう。直近では、土曜日午後6時からNHK総合でやっていた土曜時代ドラマ『悦ちゃん-昭和駄目パパ恋物語-』の最終回(2017年9月16日)で兼松講堂と図書館と池が使用されていた。主人公を演じたユースケ・サンタマリアの後ろにあるのが「兼松講堂」だ。獅子文六の原作は1936年(昭和11年)なので、時代的にもこの建築物はドラマのはふさわしい。


(ドラマ『悦ちゃん』のテレビ画面より筆者がキャプチャ) 


この建築物は、現在では講堂以外にコンサートホールとしても使用されているが、外観は西欧中世のロマネスク風である。バロックが近代であれば、ゴチックは後期中世、それ以前がロマネスクとなる。

ロマネスクとは文字通りの意味ではローマ風ということになるのだが、じっさいはキリスト教と土着信仰の融合的存在ともいうべきものであり、そのため建築物の外装には多数の怪物たちが彫刻されているのである。


ロマネスク風建築にちりばめられた「怪物たち」は伊東忠太の創作物

写真集『妖怪の棲む杜 国立市 一橋大学』(伊藤龍也、現代書館、2016)は、伊東忠太が愛した「怪物」たち(・・写真家は「妖怪」と表現しているが)に魅せられた写真家による写真集である。

ヨーロッパ中世史を専攻したわたしは、とくに考えることもなく「ガーゴイル」(・・西欧風建築物にある雨樋の上につけられた怪物の彫刻)だろうと思い込んでいたのだが、建築史家の藤森照信氏によれば、伊東忠太が創作した怪物たちも多数混じっているとのことを知った。この点にかんしては、『伊東忠太動物園』(藤森照信=編・文、増田彰久=写真、伊東忠太=絵・文、筑摩書房、1995)を参照するとよい。

ところで、昭和初期の1931年(昭和6年)に来日して、東京商科大学(=一橋大学)の国立キャンパスを訪れた経済学者シュンペーターは、 暖房設備が不備なことをわびた関係者に対して、"University is not a building."(=大学は建物ではない) と英語で語ったという。

大学の学部が市内に散在しているのが当たり前の西欧出身のシュンペーターとしては当たり前の発言であったことだろうが、伊東忠太の建築物のファンからすれば、「いや建築物こそ大学」と言いたいところだ。

建築史という未開の分野を拓いたパイオニアである一方、「化け物」をこよなく愛し、ひたすら妖怪の画を描き続けた伊東忠太。

ひそかに作り込まれた怪物たちは、じっさいに一橋大学の国立キャンパスに足を運んで見るべきだが、この写真集で楽しんでみるのもいいだろう。





<関連サイト>

「怪物の棲む講堂」 - 一橋大学 (藤森照信)
・・建築史家の藤森照信氏による解説は、伊藤忠太への愛に満ちたオマージュ


<ブログ内関連記事>

書評 『「くにたち大学町」の誕生-後藤新平・佐野善作・堤康次郎との関わりから-』(長内敏之、けやき出版、2013)-一橋大学を中核にした「大学町」誕生の秘密をさぐる

ここにも伊東忠太設計のインド風建築物がある-25年ぶりに中山法華経寺を参詣(2015年1月20日)

「築地本願寺 パイプオルガン ランチタイムコンサート」にはじめていってみた(2014年12月19日)-インド風の寺院の、日本風の本堂のなかで、西洋風のパイプオルガンの演奏を聴くという摩訶不思議な体験 
・・築地本願寺もまた伊東忠太の設計によるインド風建築物


建築家関係

「信仰と商売の両立」の実践-”建築家” ヴォーリズ
・・メンソレータムの生みの親のヴォーリスは、キリスト教伝道のために日本に来たアメリカ人だが、日本に洋風建築を普及させた人でもある

「ルイス・バラガン邸をたずねる」(ワタリウム美術館)
・・ピンクの色調が特徴のメキシコの建築家

『連戦連敗』(安藤忠雄、東京大学出版会、2001) は、2010年度の「文化勲章」を授与された世界的建築家が、かつて学生たちに向けて語った珠玉のコトバの集成としての一冊でもある

本の紹介 『建築家 安藤忠雄』(安藤忠雄、新潮社、2008)
・・いわずとしれた世界的建築家。ヴォーリズとは対照的に、饒舌な人である

(2017年9月30日 情報追加)


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