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2017年1月26日木曜日

スコセッシ監督が28年間をかけて完成した映画 『沈黙 ー サイレンス ー』(2016年、米国)を見てきた(2016年1月25日)ー 拷問による「精神的苦痛」に屈し「棄教者」となった宣教師たちの運命


マーティン・スコセッシ監督が28年間をかけて完成した映画『沈黙 Silence』(2016年、米国)を見てきた。上映時間は2時間41分と長い。重いテーマの宗教映画を見るには、正直いって体力も精神力も要するのだが、。救いとなるのは登場人物の大多数が日本人で、演じているのは日本を代表する役者たち、しかもセリフの多くが日本語(!)であることだろう。

1988年に遠藤周作の原作を英訳版で読んで映画化を決意したものの、脚本を書くだけで15年間、映画の完成まであわせて28年もかかったという。すでに篠田正浩監督によって同タイトルで1971年に製作されているようだが、つい最近まで存在すら知らなかった。

イエス・キリストにかんする独自の解釈を映画化した問題作『最後の誘惑』(1988年)が、カトリック教会から批難を浴びていたさなか、ニューヨークのカトリック教会の司祭から、ぜひ読むようにと『沈黙』を手渡され、さっそく一読して映画化を決意したのだという。

ニューヨーク出身のスコセッシ監督はシチリアから移民してきたイタリア系移民三世で、少年時代にはカトリックの神学校に在学し、将来は司祭になることを夢みていたという人だ。そのためもあろうか、製作する映画の多くには濃淡の違いはあれ、宗教色が感じられる。

先にも触れた『最後の誘惑』(1988年)はイエスの時代の原始キリスト教にかんするものであり、ダライラマ14世がチベットからインドに亡命するまでの半生を描いた『クンドゥン』(1997年)など直接に宗教をテーマにしたものだけではない。スコセッシ監督の作品には宗教色があると感じて視聴すると、それなりに見えてくるものもあるだろう。『シネマの宗教美学』(服部弘一郎+編集部編、フィルムアート社、2003)のスコセッシ監督の項目が参考になる。




『沈黙-サイレンス-』の率直な感想

『沈黙-サイレンス-』の話題に戻ろう。この映画の時代設定は1637年の「島原の乱」後の「隠れキリシタン」の時代である。幕府による「キリシタン弾圧」が激しさを増していた弾圧完成までの最終段階である。

信仰という精神の内面まで監視対象としていた徳川幕府。その意向は上意下達で末端にまで徹底しており、信仰に不可欠な典礼をつかさどる司祭、とくに外国人司祭の存在は、もはや隠し通せるものではなくなっていた。本質的に軍事政権であった徳川幕府はすみずみまで諜報網を張り巡らせており、密告を奨励していたのだ。

原作でも映画でも取り上げられていないが、幕府の弾圧対象となったのはキリシタンだけではない。「日蓮宗の不受不施派」(ふじゅふせは)もまた、徹底的に弾圧されていた。幕府による弾圧理由は、世俗の権威である幕府より以上のものを信仰していたことに尽きる。一向宗(=浄土真宗)をはじめとする宗教的権威は、幕府という世俗の権威のもとに屈服することで存続を許され、幕府による統治を支える機構の一つとして活用されたのである。

「キリシタン」は「カトリック」のことであり、カトリックにおいてはバチカン、すなわちローマ教皇の権威が、「主権国家」の主権者である国王よりも上位に位置づけられていた。だから、幕府の立場からすれば絶対に許すことのできない不倶戴天の敵とみなされたのである。

(米国版ポスター 2016年公開)

そんな状況の布教地の日本において、信頼の厚かったポルトガル出身のイエズス会司祭フェレイラが拷問に耐えきれずに「転んだ」、つまり「転向」してカトリックの信仰を捨て「棄教者」となったという衝撃的なニュースがマカオにまで届いてきた。イエズス会は、ポルトガルの極東拠点マカオを中国布教のベースキャンプとしていたのである。

師匠であったフェレイラの「棄教」(apostasy)のニュースを知った弟子の二人の司祭が、真相を確かめるべく日本に密航することを決意する。彼ら自身が、日本に滞在して布教活動に従事した最後の宣教師となろうとは知るよしもなく(・・その後、1709年に種子島から密航したシドッティは布教活動を行うことなく、江戸で軟禁生活を送ることになる)。

日本に密航した二人の司祭の運命は過酷なものであった。「ミイラ取りがミイラになった」といえば、表現としても過酷すぎるかもしれない。


この小説を読んだのはずいぶん前のことになるが、それは心理療法家の河合隼雄氏がつよく推奨していたからだ。わたしも一読してみて、日本の風土というものがキリスト教信仰を根腐れさせてしまうと、棄教した司祭に語らせる遠藤周作氏の解釈に納得を覚えたものだ。日本の「世間」のもつ閉塞感に自分自身もウンザリしていたこともその理由の一つであった。

世界史上に例のない過酷な宗教弾圧が行われた17世紀前半の日本。キリスト教弾圧の歴史からいえば、キリスト教が公認されるまで続いたローマ帝国時代の弾圧に匹敵するだろう。ポーランドの歴史小説家シェンケヴィッチの『クォ・ヴァディス』に描かれた世界だ。

この映画で映像化された拷問の数々もすさまじい。十字架に磔になって海水責めされる拷問、司祭もふくめて実行された「逆さづり」という拷問。いずれも一気に殺してしまうのではなく、じわじわと真綿で首を絞めるタイプの、心身ともに苦痛を与えるタイプの拷問だ。拷問はただ単に肉体に苦痛を与えるだけでなく、内面の精神にまで苦痛を与えるものとして実行されていたのである。

幕府は、拷問による肉体的苦痛による死が、殉教として特権的な地位を与えてしまうことに気がついたのである。ある特定の宗教を根絶するには、戦場で敵を処刑するのとは性質が異なるのである。

苦難にあえぐ信者たちを前に、キリスト教信仰に根ざした精神的苦痛を与え、良心の呵責を引き起こし、最終的に「転向」(=棄教)させるという、きわめて高度なテクニック。フランスの思想家ミシェル・フーコーは『監獄の誕生』で、肉体苦痛を与える拷問から精神的苦痛を与える方法に転換したのは、西欧では18世紀末以降であったと述べているが、適切な事例とは言い難いものの、精神的苦痛をもって「転ばせる」手法を編み出していた当時の日本が、いかに「高度文明国」であったかの証左になっていると考えることもできる。

「裏切り者のユダは、銀貨30枚でイエスを売った」がキリシタン弾圧時代の日本では、密告者には銀貨300枚(!)を与えているというセリフが映画のなかに登場する。当時の日本が、スペインの植民地ボリビアのポトシとならんで、世界でも有数の銀山を有していたことが背景にあるのだが、オランダが日本貿易を独占したかったのは、日本で産出される銀が目当てだった。



日本にキリスト教が根付かなかったのは・・・

日本でキリスト教が根付かなかったのは、根腐れさせてしまうような風土だからだというのは、あくまでも遠藤周作の解釈である。以前はそう思っていたのだが、最近はかならずしもそう思わなくなっている。

そもそも、切支丹(キリシタン)をもって、西欧生まれのキリスト教をすべて代表させるような言説が誤解のもとであるのではないか? 

キリシタンはあくまでもカトリックのことであり、幕府はカトリック国のスペインとポルトガル、プロテスタント国のオランダと英国(イングランド)は、明確に区別していたことを確認しておく必要がある。幕府はプロテスタント国だと知っていたうえでオランダと付き合っていたのだ。英国は日本ビジネスが採算がとれないため10年で撤退したのであって、追放されたのではない。

プロテスタント国が宣教に熱を入れはじめたのは19世紀の米国であり、16世紀から17世紀にかけて布教に熱心だったのはカトリックであった。もっぱらポルトガル王国をバックにつけていたイエズス会と、スペインをバックにつけていたフランシスコ会などである。

現在のわたしは、在野の社会科学者であった小室直樹が『日本人のための宗教原論』(徳間書房、2000)などで主張するように、「本地垂迹」(ほんじすいじゃく)という形でなら、キリスト教は日本の信仰体系のなかに組み込まれて定着していた可能性があるという説に組みしたい。日本で仏教が定着したのは神仏習合であり、それは「本地垂迹」説による「土着化」であった。

スコセッシ監督が映画をつじて表現したかったこととは異なるかもしれないが、映画をじっさいに見た日本人としての率直な感想を書いておいた。


***********

いろいろ雑多なことを書いてきたが、映画そのものは、じつによくできるといえよう。

ポルトガル出身の司祭たちに英語をしゃべらせたり(・・母語が共通ではなかったら、本当はラテン語で会話しているはずだ)、必要以上に日本人の登場人物に英語をしゃべらせている点が気にはなるが、時代劇というものは舞台を過去に設定した現代劇だと思えば、とくに問題はない。

日本人のわたしからから見ても、日本と日本人についての描写は、とくに問題なく受け取れる。逆に、日本以外ではどう受け取られたのか知りたいところだ。





<関連サイト>

映画 『沈黙-サイレンス-』(公式サイト 日本版)

スコセッシは『沈黙』をどう映画化したのか 遠藤周作の名著を日米俳優で映画化(日経トレンディ、2017年1月20日)

Silence Official Trailer (2016) - Paramount Pictures (米国版)






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(2017年2月6日・8日 情報追加)


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