「アタマの引き出し」は「雑学」ときわめて近い・・日本マクドナルド創業者・藤田田(ふじた・でん)に学ぶものとは?

◆「アタマの引き出し」つくりは "掛け算" だ : 「引き出し」 = Σ 「仕事」 × 「遊び」
◆酒は飲んでも飲まれるな! 本は読んでも読まれるな!◆ 
◆一に体験、二に読書、その体験を書いてみる、しゃべってみる!◆
◆「好きこそものの上手なれ!」◆

<旅先や出張先で本を読む。人を読む、モノを読む、自然を読む>
トについてのブログ
●「内向きバンザイ!」-「この国」日本こそ、もっとよく知ろう!●

■■ 「むかし富士山八号目の山小屋で働いていた」全5回 ■■
 総目次はここをクリック!
■■ 「成田山新勝寺 断食参籠(さんろう)修行(三泊四日)体験記 」全7回 ■■ 
 総目次はここをクリック!
■■ 「庄内平野と出羽三山への旅」 全12回+α - 「山伏修行体験塾」(二泊三日)を中心に ■■
 総目次はここをクリック!


「個」と「組織」のよい関係が元気をつくる!

「個」と「組織」のよい関係が元気をつくる!
ビジネス寄りでマネジメント関連の記事はこちら。その他の活動報告も。最新投稿は画像をクリック!



ご意見・ご感想・ご質問 ken@kensatoken.com にどうぞ。
お手数ですが、コピー&ペーストでお願いします。

© 2009~2026 禁無断転載!



2026年4月22日水曜日

企画展「伊東深水 南方風俗・1943」(芳澤ガーデンギャラリー)に行ってきた(2026年4月22日)― 「美人画家」が海軍報道班員としてスケッチした80年前のインドネシアが懐かしさを感じさせる

 

伊東深水といえば美人画。「着物姿の日本美人を描いた日本画家」というのが、わたしのもっていたイメージだった。

それまでまったく知らなかったのだが、先週のこと三菱一同館美術館で開催されている「浮世絵トワイライト新版画  ―  小林清親から川瀬巴水まで」を観覧して、伊東深水が「新版画」作家でもあることを知った。そうだったのか、美人画だけではないのだな、と。

先日たまたま instagram   の投稿をみていたら、この企画展「市川市収蔵作品より 伊東深水 南方風俗・1943」のことを知った。伊東深水が南方でスケッチしてるとはまったく知らなかった。


今回の企画展は、市川市の「芳澤ガーデンギャラリー」での開催だという。

芳澤なんて名前がついているから個人ギャラリーのようだが、名前の由来は「享保年間から市川市真間で地域文化の発展に寄与してきた石井家が営んでいた文房具・書店「清華堂」の屋号「芳澤」にあるのだそうだ。2004年に開館したこのギャラリーは、市川市が所有し運営しているとのこと。

今回の企画展は、市川市がインドネシアのスマトラ島にあるメダン市と姉妹都市の関係にあることから、伊東深水の「南方風俗スケッチ」のうち271点を収集し所蔵しているからだという。

市川なら自分が住んでいる船橋から近いではないか。芳澤ガーデンギャラリーはその存在は前回の市川散策でその存在を知るにいたったが、スルーしていたのだった。では、今回は行ってみようと思った次第。



■なぜか懐かしい気持ちになる1943年当時のインドネシア

伊東深水は、ジャワ島だけでなく、スラウェシ島(=セレベス島)やボルネオ島など大きな島だけでなく、バリ島まで訪問しており、シンガポールにも足跡を記している。

伊東深水のスケッチは、デッサン力が確かなことはいうまでもないが、水彩画で彩色されている作品も多く、あらゆるものに好奇心をそそいでスケッチとして記録しようという画家のマインドが感じられた。

スラウェシ島ではかなりの点数のスケッチを残しており、しかも「トラジャコーヒー」のコーヒー農園まで訪問して、コーヒーの赤い実がなっている農園風景のスケッチを残している。

バリ島では「キンタマニ」まで訪問していることが今回わかった。「キンタマニ展望台 バトール火山活火山」* というスケッチを残している。この地名が案内された際に伊東深水の笑いを誘ったに違いない、そんな想像をしてみるのも楽しい。

キンタマーニ(Kintamani)は、インドネシア・バリ島北東部のバンリ県にある標高約1,500mの高原地帯にある村。活火山のバトゥール山とバトゥール湖がつくる雄大なパノラマ絶景で知られる人気の観光エリアとのこと。気候は涼しく、コーヒーの産地でもあるそうだ。


いまから30年ほど前になるが、1995年頃だったと思うが、自分もジャワ島にはいったことがあるので、懐かしい思いがした。ジャワ島の農村風景は、そんなに大きく変化していなからだ。

その旅の際は、ジャカルタからバンドン、そしてボゴールの植物園、さらには東のジョグジャ(カルタ)まで足を伸ばしている。たまたま飛行機のなかで隣り合わせた人が日系インドネシア人の方で、いきなり父親(日本人)の誕生日祝いに招待されてジョグジャまで出かけたのだ。

ジョグジャカルタは世界三大仏教遺跡のボロブドゥールで有名だが、なぜか伊東深水のスケッチにはボロブドゥールがない。バティックの工房のスケッチはあるのだが・・ 1943年当時のボロブドゥールは、どんな状況だったのだろうか? すでに日本人には知られていたはずなのだが・・・







■伊東深水が派遣された1943年当時の「インドネシア」

1943年当時の「インドネシア」と括弧書きにするのは、当時はまだインドネシアは独立国家とはなっていなかったからだ。インドネシアが最終的に独立を勝ち取ったのは1949年のことである。

伊東深水にかんしては、 wikipedia のインドネシア語版(Bahasa Indonesia)で Shinsui Itō もあって、以下のような記述がある。

Pemerintah Jepang merekrut Itō untuk memproduksi seni propaganda selama Perang Pasifik. Selama periode itu, ia berhasil menyelesaikan 3000 sketsa sepanjang perjalanannya ke berbagai pulau di Pasifik Selatan dan Hindia Belanda yang diduduki Jepang. 


Google で自動翻訳にかけると、以下のような日本語文となる。修正後の訳文を以下に示しておこう。

伊藤は太平洋戦争中、日本政府からプロパガンダ画の制作を依頼された。この期間、彼は南太平洋の様々な島々や日本占領下のオランダ領東インド諸島を旅し、3000点ものスケッチを完成させた。


伊藤は伊東の間違いであるが、ローマ字からも漢字変換でミスが出るのは仕方あるまい。確率論がベースの自動翻訳であるから。また、こちらではスケッチは3000点となっているが、これは記載ミスであろうか。

また、「日本占領下のオランダ領東インド諸島」は、略して「蘭印」とよばれることが多いがその表現にかんしては、正確に表現すれば以下のようになる。

大戦の2年目になる1942年(昭和17年)3月に日本軍が占領しオランダを追放1945年8月の敗戦まで軍政を敷いていた。

で有名な今村均陸軍大将が軍政のトップにいたことは特筆すべきであろう。今村均にかんするWikipediaの記述から引用しておこう。


オランダによって流刑とされていたインドネシア独立運動の指導者、スカルノとハッタら政治犯を解放して資金や物資の援助、諮詢会の設立や現地民の官吏登用等独立を支援する一方で、今村は軍政指導者としてもその能力を発揮し、攻略した石油精製施設を復旧して石油価格をオランダ統治時代の半額としたり、オランダ軍から没収した金で各所に学校を建設したり、日本軍兵士に対し略奪等の不法行為を厳禁として治安の維持に努めたりするなど現地住民の慰撫に努めた。かつての支配者であったオランダ人についても、民間人は住宅地に住まわせて外出も自由に認め、捕虜となった軍人についても高待遇な処置を受けさせるなど寛容な軍政を行った。


ジャワ島やスラウェシ島などの現地人の生活を描いた作品が、戦意高揚につながったとは思えないが、日本の軍政下で平和な暮らしが可能になったという宣伝活動にはつながったことだろう。

基本的に善政が敷かれていたことは、上記の通りであるが、もちろん個人レベルでは異なる待遇もあったことは否定できない。


英国との交戦の末に占領にいたったシンガポールでは、「華僑虐殺」事件が発生、激戦地となったフィリピンでは多数の犠牲者を出すなど、問題を引き起こした帝国陸軍であるが、インドネシアは例外的な存在であったのである。

軍政でありながら比較的善政が敷かれただけでなく、インドネシア独立にあたっては、「大東亜共栄圏」の理念に賛同する日本人が多数協力したことは歴史的事実として記しておかねばなるまい。



■なぜ美人画家の伊東深水が「海軍報道班員」として派遣されたのか

では、なぜ美人画家の伊東深水が「海軍報道班員」として「インドネシア」に派遣されたのだろうか?

たまたま読んでいた『東京美術学校物語  ―  国粋と国際のはざまに揺れて』(新関公子、岩波新書、2025)「第12章 戦時下の東京美術学校とその終焉」に、「戦時下の画家たち」が迫られた生き方について触れられている。


従軍戦争画家になるか否かは自分の意思よりも、そのときの社会的地位と年齢、それに描写力の有無による。2、30代は才能の有無にかかわらず戦闘員、4、50代は従軍画家、6、70代以降は銃後にあって「民族の気概」や「国土の美や文化的優越」を描く。
 

伊東深水(1898~1972)は、1943年当時は45歳であった。なぜ「陸軍報道班員」ではなく「海軍報道班員」として現地に派遣されたかまではわからないが、Wikipediaの記述「日本占領時期のインドネシア」によれば、インドネシア軍政の担当地域は以下のようになっていた。


日本軍は蘭印政府の中央集権体制を解体した[82]。「占領地軍政実施ニ関スル陸海軍中央協定」[83]において、陸海軍はインドネシアを3つの地域に分けた[84]。スマトラ島は第25軍の配下に置かれ、ジャワ島とマドゥラ島は第16軍の配下に、カリマンタン島とインドネシア東部は第二艦隊 (日本海軍)によって統治された。第16軍と第25軍はシンガポールに本部を構え[14]、統治命令がスマトラ島のみに縮小されて本部がブキティンギに移る1943年4月まで英領マレーを統治した。第16軍はジャカルタに本部を置き、第二南方艦隊はマカッサルに本部を置いた[4]。


かならずしも戦意高揚には直接つながらないようなテーマで描くことが許されていたか、日本画界の頂点にいた当時75歳の横山大観(1868~1958)についての『東京美術学校物語』の「第12章 戦時下の東京藝術学校とその終焉」の記述が、その理由を考えるヒントになるだろう。


戦争に燃える若さのない大観が美術界の頂点にたったことは、日本美術界の幸運だった。(・・・中略・・・) 
「国体の精華」をしか描かないと決めている大観は、昭和19年の「文部省戦時特別美術展覧会」において、具体的な戦争主題に加えて、美しい日本の風景や国民生活を明朗闊達ならしめ戦意の昂揚に資するものならなんでもよいとする、いたって緩やかな規制を情報局に打ち出させたのではないか。先に紹介した14の課題は、とても情報局独自の考えとは思えないので、私は大観がそのように情報局を誘導した 推定する。その結果、美人画でも花畑でもお芋ほりの図でも許されたのだった。


「美人画でも許された」とは、まさに美人画家の伊東深水もその一人であったということなる。そして「占領下の現地人の平和な日常生活」もまたそうなのであり、スケッチとして残されることになったわけなのだ。

「従軍画家」や「戦争画」についてはある種のタブー視がされているためだろうか、東京国立近代美術館では展示コーナーがあるものの、世間一般ではなかなか表だって評価の対象となっていないのではないかという印象をもっている。

「従軍作家」の作品については、林芙美子や井伏鱒二のものなど、中公文庫が中心になって復刊が行われているのだが・・・

戦時中の「従軍画家」については、もっと知りたいと思う。



画像をクリック!



<ブログ内関連記事>




オランダ領東インド(蘭領東印度)と日本による占領とその後



書評 『五十年ぶりの日本軍抑留所-バンドンへの旅-』(F・スプリンガー、近藤紀子訳、草思社、2000 原著出版 1993)-現代オランダ人にとってのインドネシア、そして植民地時代のオランダ領東インド
・・『西欧の植民地喪失と日本-オランダ領東インドの消滅と日本軍抑留所』の2年後に日本で翻訳出版された。ともに健忘症の日本人への警鐘と受け取りたい。

スローガンには気をつけろ!-ゼークト将軍の警告(1929年)
・・「第二次大戦中、軍属として「海軍」に徴用され、インドネシアのジャカルタで通訳官として海軍に勤務していた鶴見俊輔の「お守りことば」というフレーズを紹介してある

・・村上一郎の東京商大時代の高島善哉ゼミの先輩であった社会科学者の水田洋は、戦時中は「陸軍」軍属としてジャワ島に駐在、その地でのちに翻訳を完成させることになったホッブスの『リヴァイアサン』の原本を入手したことが、『ある精神の軌跡』(水田洋、現代教養文庫、1985)に記されている。Wikipedia情報には「1942年東亜研究所入所。戦中は大日本帝国陸軍軍属として帝国陸軍南方軍第16軍(ジャワ軍政監部)調査室で農村事情の調査を行う。戦後、日本降伏交渉の通訳として訪れたスラウェシ島で8ヶ月の捕虜生活を経て・・」と書かれている

・・地域は、ビルマ(=ミャンマー)とタイ、インドネシア、そしてベトナムにわたる

・・著者は最終的にオランダ領東インド陸軍植民地軍に投降して武装解除され、無事帰国することになった。インドネシア独立戦争においてオランダ軍がふたたび再上陸するが、最終的に1949年にオランダは撤退する


オランダの植民地時代からつづく文化

・・「オランダ構造人類学」は、植民地時代のオランダで生まれた


「無憂」という事-バンコクの「アソーク」という駅名からインドと仏教を「引き出し」てみる
・・熱帯植物園で有名なインドネシアのボゴールは、オランダ植民者にとっての「夏の避暑地」として建設されバウテンゾルグ(無憂)と命名された




■現代インドネシアと日本との関係





(2025年1月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年12月23日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年6月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年11月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年10月22日発売の拙著です 画像をクリック!

 (2020年12月18日発売の拙著です 画像をクリック!

(2020年5月28日発売の拙著です 画像をクリック!

(2019年4月27日発売の拙著です 画像をクリック!

(2017年5月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2012年7月3日発売の拙著です 画像をクリック!


 



ケン・マネジメントのウェブサイトは

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどう
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!







end

2026年4月20日月曜日

「浮世絵トワイライト新版画 ― 小林清親から川瀬巴水まで」(三菱一号館美術館)に行ってきた(2026年4月16日)― 「逆輸入」された「日本的美意識」を実物でたどる

 

「浮世絵トワイライト新版画  ―  小林清親から川瀬巴水まで」(三菱一号館美術館)に行ってきた(2026年4月16日)。 「新版画」の流れを実物でたどる企画展である。

赤レンガの三菱一号館美術館には、これまで英国美術関係の企画展でなんどか行っているが、今度の企画展は「新版画」。英国そのものではなく、英国の影響もつよかった時代の明治時代を描いた作品から、昭和時代までを扱っている。







■「新版画」とは

「新版画」とは、明治維新後に衰退していった浮世絵版画を、あらたな時代環境のなかで復興しゆようとした試みだ。「新版画」は浮世絵版画と同様に、民間から生まれてきた動きである。

テーマとした対象が、「近代化」しつつあるが「前近代」の姿も残している「江戸から東京へ」を描いた小林清親から、自然を描いて芸術性の高さを発揮した川瀬巴水まで。

「新版画」はむしろ日本よりも海外に熱烈なファンがいあるようだ。スティーブ・ジョブズもまたそうであったらしいことは、2023年に放送されたNHKの特集番組で知った。

英語圏では「3H」なる表現もあるという。浮世絵の葛飾北斎(Hokusai)、歌川広重(Hiroshige)、そして新版画の川瀬巴水(Hasui)の「3H」だそうだ。

「新版画」も「浮世絵」と同様に、そのブーム(・・といっても静かなブームであるが)は「逆輸入」という形でじわじわと拡がってきたようだ。英語でも「Sin-hanga」という名称で定着しているのである。

版画ではなく肉筆画ではあるが、伊藤若冲や河鍋暁斎もそうであるように、日本人はその魅力を外国人コレクターによって「再発見」することになったわけである。

『版画  ―  近代日本の自画像』(小野忠重、岩波新書、1861 *1985年に復刊で第2刷)という本があるが、「新版画」に割かれたページ数は少なく、竹久夢二につながる動きとして記述されているのにとどまっている。
 
わたし自身も、むかしから好みであった橋口五葉が「新版画」というカテゴリーにくくられるひとであることを数年前まで知らなかったのだった。

制作にかんしては、おなじ木版画ではあるが、刷りの方法が格段に浮世絵の段階から複雑化されているだけでない。版元と職人(絵師と彫師、そして摺師)という完全な分業体制ではなく、この構造を維持しながらも、絵師がアーティストとして刷りの段階まで主導権をもって関与することで実現された芸術性の高さも「新版画」の魅力の源泉となっているようだ。

そんな「新版画」を、浮世絵からの過渡期の人であり、原点である小林清親(こばやし・きよちか)から、現代でも人気の高い川瀬巴水(かわせ・はすい)までたどるのが今回の企画展である。作品は、この二者を中心としているが、このほか橋口五葉や伊東深水なども含まれる。

ただし、浮世絵の企画展もそうななのだが、「新版画」もまた基本的にサイズが小さいので会場で鑑賞するのは、ちょっと難がある。ゆったりとした空間で、ゆっくりと眺める、そんなシチュエーションであれば、言うことないのだが・・・・

まあ、ホンモノを購入して自宅でたのしむのがベストだが、画集を購入して自宅でくつろぎながら鑑賞するのがセカンドベストというべきかもしれないな、と。



■「江戸から東京へ」の移行期を描いた小林清親

小林清親は、浮世絵から新版画への移行をスムーズならしめた画家である。絵師という側面もありながら、作家性が前面に浮き出されている。

展示されている作品のなかで、どこかで見た記憶があるなと思ったものがあった。帰宅して確かめてみて、それがなにであるかわかった。





どうりで見たことがあったわけだ。小林清親の「海運橋(第一銀行雪中)」(1876年=明治8年) である。

第一国立銀行は、渋沢栄一によって1873年(明治6年)に設立された日本最古の「銀行」である。まさに「西洋近代」を象徴する制度であり、建築物であった。場所は兜町であるが、第一国立銀行の建物も海運橋も、いまはもうない

そんな雪景色の第一国立銀行の洋風建築の右に海運橋、そした傘を差した和装の女性の後ろ姿。「江戸から東京へ」と移りゆく姿を描いたこの作品は、構図のすばらしさと色彩の美しさがあいまって印象に残る作品である。

ちなみに、思想史家の渡辺浩氏は、前著『明治革命・性・文明: 政治思想史の冒険』(東京大学出版会、2021)でも単行本の表紙に川瀬巴水の傑作「芝増上寺」(東京二十景)(1925年=大正15年)を使用している。渡辺氏は、明治時代を描いた「新版画」作品をこよなく愛しておられるのだろう。




余談だが、今回の企画展で「新版画」作家としての側面が前面に打ち出されている小林清親だが、じつは「団団珍聞」(まるまるちんぶん)という新聞に風刺画を多く描いており、媒体の発行禁止処分を招いている人でもある。

たまたま、 『漫画が語る明治』(清水勲、講談社学術文庫、2005)を読んでいたら、「第2部 諷刺される明治の人々」と「第3部 明治の漫画史」の「3. 漫画家としての小林清親」という章があり、小林清親の諷刺画が多数掲載されていた。

そぼほか今回の美術展でわかったことは、伊東深水が「新版画」に携わっていたことなどがある。しかも、川瀬巴水が伊東深水の影響で新版画を始めたこともまた。


画像をクリック!



■日本の自然美を芸術性まで高めた川瀬巴水の熱烈なファンだった米国人

そもそも川瀬巴水の名前を知ったのは、NHKの特集番組を視聴してからのことだった。

スティーブ・ジョブズが熱心なコレクターとして作品を収集しているということを、「日本に憧れ 日本に学ぶ~スティーブ・ジョブズ ものづくりの原点」という番組だ。

今回の企画展を見たあとに知ったのだが、この番組をつくったのはNHKの取材記者による定年までの8年間にわたる執念のたまものであり、映像作品としての番組に結晶した知られざるジョブズと日本との密接なかかわりと手探りの取材の経緯が記者本人によって書籍化されている。


日本橋のデパートで開催された川瀬巴水の企画展を見に行く前に、NHKの「日曜美術館」のアンコール放送で言及されたジョブズと川瀬巴水のかかわり、1984年に行われたアップルコンピュータのマッキントッシュデモに使用されたモニターに映っていた橋口五葉の「髪梳ける女」(かみすけるおんな)から始まった疑問と違和感、そんな小さなキッカケから始まった取材が、アップル追放前の「ジョブズ1.0」の伝記にもなっている。


画像をクリック!


番組を視聴してからすでに3年、この本を読み、あらためて知ることになったのが、ジョブズが禅仏教に出会う前から日本文化に深く傾倒し、きわめて大きな影響を受けていただけでなく、その原点が中学生時代の親友宅で見ていた川瀬巴水の「新版画」にあったことを確認した。

そしてその「新版画」は、親友の母親がその父、つまり親友の祖父から受け継いだものであり、祖父は1930年代にシカゴで入手しコレクションしたものだったという。

1905年の日露戦争前後がそのブームの頂点であった「アメリカのジャポニズム」が終焉したあとも、1930年代には「新版画」が米国でブームになっていたという事実。その背景には、新版画は積極的に海外市場を意識して打って出たという側面があったようだ。

日本人にとっては当たり前すぎて、ふだんは深く考えることもない「日本的美意識」であるが、その意味を認識の対象として再確認させてくれた恩人として「新版画」と「日本の焼き物」の熱心なコレクターであったスティーブ・ジョブズの名前は深く記憶されるべきであろう。


<関連記事>

「新版画」は英語でも Shin-hanga で通用する




<ブログ内関連記事>


■新版画関連

・・橋口五葉は「新版画」で新境地を開こうとしていた矢先に急死。橋口五葉の作品「髪梳ける女」(かみすけるおんな)もジョブズは愛していた






■「逆輸入」された日本の美意識





■ジョブズと日本文化




(2025年1月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年12月23日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年6月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年11月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年10月22日発売の拙著です 画像をクリック!

 (2020年12月18日発売の拙著です 画像をクリック!

(2020年5月28日発売の拙著です 画像をクリック!

(2019年4月27日発売の拙著です 画像をクリック!

(2017年5月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2012年7月3日発売の拙著です 画像をクリック!


 



ケン・マネジメントのウェブサイトは

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどう
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!







end

2026年4月16日木曜日

「KANZAN 下村観山展」に行ってから常設展を見て、なぜ東京国立近代美術館で開催されたのかを考える(2026年4月16日)― 「日本画」は近代に生まれたコンセプト

 

「KANZAN 下村観山展」に行ってきた(2026年4月16日)。instagramでさかんに宣伝されていたので、企画展の存在を知った。

会場は、竹橋の東京国立近代美術館である。この美術館で「日本画」の展示を見るのは今回がはじめてかもしれない。

東京では13年ぶりの回顧展ということだが、そもそも下村観山の絵を見るのは、じつは自分にとって今回がはじめてのことになる。

下村観山関連の関連書籍はきわめてすくない。下村観山は、岡倉天心の弟子としては、横山大観と菱田春草ほど一般には知られていないようだ。じつはわたしも、最近まで観山のことはよく知らなかった。

事前に行きの電車のなかで、村松梢風の『本朝画人傳 第7巻』(中公文庫、1977)に収録された「下村観山」を読んでおいたのは正解だった。Wikipediaの記事もあるが短すぎて、エピソードのたぐいまでは詳細に知ることができないからだ。「観山会」なるパトロン組織の存在もまた。

岡倉天心が美術院を五浦(いづら)に移転した時代、画業に精進する4人の日本画家の写真が有名だが、いちばん奥にいるのが下村観山である。その手前が横山大観、そして菱田春草である。いちばん手前が木村武山。


日本美術院研究所での制作風景 Wikipediaより)

横山大観と菱田春草が、あらたな「日本画」をつくりだすため、現状を乗り越えるべく家族の生活を犠牲にしてまで苦闘していたのに対し、技巧派として人気の高い下村観山には制作依頼がかなりあったのだという。依頼者はわざわざ五浦まで訪れてきたというのだ。

帰りの電車では、近藤啓太郎の『大観伝』(中公文庫、1976)を途中まで読む。言うまでもなく、大観とは横山大観のこと。岡倉天心がいちばん評価していたのが技巧派の下村観山であった。のちに大成することになる横山大観は、観山にはライバル心を抱いていて画業に精進したとのことだ。

美術展では会期中に「前期」と「後期」で作品の入れ替えがあることはふつうだが、今回はそのことをまったく失念していた。そのため、すでに「後期」に入っていたため下村観山の代表作である肝心要の「弱法師」(よろぼし)という大作を見ることができなかったのは残念。

不幸中の幸いというべきか、後期には四天王寺が所有している小品の「弱法師」を見ることができた。大作バージョンの「弱法師」は東京国立博物館の所有なので、いつか見る機会もあろう。


(東京国立博物館所蔵の「弱法師」 Wikipediaより)


小品のほうの「弱法師」だが、それでも単眼鏡をつかって絵をじっくり見ると、盲しいた弱法師の表情がじつに細かく描き込まれており、大作と引けを取らない作品であると実感。

横浜の三渓園に滞在中のタゴールが大判の「弱法師」を見て感動し、日本画家の荒井寛方(あらい・かんぽう)に頼んで模写してもらってインドに持ち帰ったという話を読んだことがある。タゴール研究家の我妻和男氏の文章だったと記憶している。タゴールはインドで岡倉天心に出会って以来、盟友として互いを尊敬しあっていた。


(上掲の拡大図)


しかも、「弱法師」の主人公である俊徳丸(しゅんとくまる)が目が見えない身ながら、「日想観」で夕日を心眼で視て涙を流すシーンは、その舞台が四天王寺であったことを思えば、ある種の感慨を覚えないわけではない。

俊徳丸といえば、折口信夫の「身毒丸」である。瀬戸内海に面した大阪の四天王寺。四天王寺の西の海に日が沈む。聖徳太子にも縁の深い四天王寺が舞台なのだ。

マグネット収集家のわたしは、今回は実際に見ることがかなわなったにもかかわらず、「弱法師」のマグネット(770円)を購入したのはそのためだ。

美術展でマグネットを買うのはひさびさだが、以前は500円程度だったのが現在は770円か。物価高騰はチケット代だけでなく、さまざまなアイテムにまで及んでいるな。


(「木の間の秋」 Wikipediaより)


さて観山の作品に戻ると、「弱法師」のほか、代表作のひとつである「木の間の秋」、実際のライオンを動物園でみて写生したという「獅子図屏風」、日本画家としての英国留学中の作品である「ディオゲネス」などなど、なかなか盛りだくさんの出展であった。

しかも、後期のみの出品である「天心岡倉先生(草稿)」を見ることができたのも幸いだった。


(単行本初版のカバーに「天心岡倉先生(草稿)」)


岡倉天心の画像として、さまざまな場面で目にする名作であるが、完成品は関東大震災で焼失してしまったという。だが、「草稿」に彩色したものが最終的に東京藝術大学に寄贈され残されているのは幸いである。



画像をクリック!



■なぜ「東京国立近代美術館」(MOMAT)が会場なのか?

下村観山の作品で出品されている作品には、東京国立近代美術館の所有のものがある。通期で展示されている「木の間の秋」(上掲)と「唐茄子図」である。

なぜ「日本画」が近代美術館の所蔵品になっているのか?

じつは「日本画」は、明治時代以降の「近代」になってから生まれた概念なのだ。それ以前には「日本画」も「日本美術」すら存在しなかったのである。

そもそも「美術」という二字熟語じたい、明治5年のウィーン万博出展に際して生まれた翻訳語であり、そのことばが誕生する以前は、そのことばが意味するものも、その対象もまったく意識されていなかったのである。

そんな「日本画」をめぐる歴史的事情は、ひさびさに「常設展示」を鑑賞することで体感することができた。東京国立近代美術館では、日本の近代美術がたどった軌跡を実物を通じて確認することができるのだ。

「常設展示」は、「所蔵作品展「MOMATコレクション」(4-2F)として展示されている。以下のような説明があるので、再録させていただくことにしよう。


東京国立近代美術館では、19世紀末から今日までの美術作品を収集しています。収集対象は、絵画、版画、水彩、素描、彫刻、写真、映像、書、及び関連する資料などの多分野にわたり、点数はおよそ14,000点です(2025年3月現在)。近現代の日本の作品を中心としながら、同時代の海外作品も積極的に収集しています。コレクションには18点の国指定重要文化財(内2点は寄託作品)が含まれます。また、特色あるまとまりとしては、画家、岸田劉生の画稿やスケッチ、日記、手紙など約600点からなる岸田劉生資料(1件として一括登録)や、彫刻家、若林奮(いさむ)の素描約3000点からなる若林奮資料(1件として一括登録)、アメリカ合衆国から無期限貸与された日中・太平洋戦争期の戦争記録画153点があります。コレクションは年間約250点が国内外の美術館に貸し出され、展覧会の核となる作品として活用されています。


4階のフロアでいきなり対面するのが、平櫛田中(ひらぐし・でんちゅう)作の岡倉天心像の木像。「鶴氅」(かくしょう)(1942年)と題されているものだ。近代日本美術の始まりに岡倉天心を置くとは、そういう歴史観なのだな、と。

平櫛田中の岡倉天心像を見るのは、これで3点目である。田中はいったい岡倉天心像をいくるつくったのだろうか?


(平櫛田中による岡倉天心の木像 筆者撮影)


そして、突き当りには現代日本を代表するアーティストである村上隆と奈良美智(なら・よしとも)。後者は、小さな女の子の睨み付けるにらみつける絵で世界的に有名だ。

わたしとは同学年の村上隆が藝大の日本画出身であることを考えると、平櫛田中の天心像と対構造になっていることに、近代美術館が提示する歴史観が見られて面白い。東京藝術大学の前身は東京美術学校であり、「日本画」というコンセプトをつくりだした岡倉天心が創立に奔走した学校である。

村上隆の作品の「DOB」も写真で見るのと違って、実際に近くで見るとずいぶんイメージが違う。どうやら「スーパーフラット」というコンセプトに囚われすぎて、ある種の固定観念がアタマのなかにできあがっていたようだ。

実際の絵画作品は、けっして水彩画のようなフラットではない。コンセプトはフラットでも、絵の具の盛りあがりがあるので、微妙ながら高低差が存在する。平面的な構成だが、高低差のある絵画なのである。

今回の鑑賞でインパクトを感じたのは、明治時代の「洋画」(油絵)作品のなかでも、原田直次郎の「騎龍観音」(1890年)。あまりのもナマナマしいタッチには、観音様のありがたさよりもグロテスクなものを感じてしまう。実物を見たのは今回がはじめてだ。





そして、なによりも感動したのは、萬鉄五郎(よろず・てつごろう)の「裸体美人」(1912年)という油絵である。実物を見たのは今回がはじめてで、思っていたよりも大判の絵画であった。やはり実物は写真とは違う。




藤田嗣治の戦争画「アッツ島玉砕」(1943年)は、前回も見ているので2回目となるが、圧倒的なスケール感である。どう考えても戦意高揚につながるとは思えない画題であり画面なのさが、なぜ制作が許されたのだろうか?





展示品にかんする感想は以上でやめておくが、それにしても東京国立近代美術館は眺めがいい。展望がいい。皇居を前に、パレスサイドビルを左手に。

美術鑑賞だけでなく、景観の鑑賞もできる、まさに一等地に建設された美術館である。

その隣には、第一機動隊の出入り口があるが不思議というか、いや日本近代を象徴的に示しているのかもしれないと思ってみたりもする。



■皇居の周りを歩いて銅像を作品として鑑賞する

東京国立近代美術館をあとにして、皇居の周辺を歩いて都心に向かう。皇居のまわりを固めるのは、和気清麻呂像と楠木正成像


(和気清麻呂像)


和気清麻呂の銅像は、皇紀2600年(=昭和15年=1940年)を記念して制作されたもの。像の右側に設置された銘板にはそう書いてある。「国體擁護」である。

中学校(?)の歴史教科書にも登場する和気清麻呂と道鏡の件については、日本人にとっては「常識」であろう。

楠木正成の銅像は、宮城前をさらに南に歩き、日比谷公園の近くにある。

ところが、和気清麻呂とおなじく「国體擁護」であるはずの楠木正成は、戦後の日本人の「常識」ではなくなってしまった。南朝の後醍醐天皇を護持した楠木正成は、戦後の教科書からは消えてしまったからだ。


(楠木正成像 筆者撮影)


楠木正成像は、東京美術学校による制作である。住友家による寄進であり、別子銅山の銅ををつかって、明治30年(1898年)に完成している。銘板にはそう書かれている。

楠木正成像は、近代日本を代表する彫刻作品のひとつといっていいだろう。この像は。今回はじめて見たのだが、勇壮なその騎馬姿の武者は、たとえそれが楠木正成であることを知らなくても、感嘆せざるをえないものがある。

銅像は木像をもとに鋳造されたものだが、木像制作の主任であった高村光雲の回想録『幕末維新懐古談』(1929年)に「幕末維新懐古談木彫の楠公を天覧に供えたはなし」という一章がある。明治天皇の天覧におけるご下問と、美校の岡倉校長による答弁について詳しく紹介されていることを記しておこう。


陛下には、いろいろこの彫刻の急所々々を御下問になるので、岡倉校長は、一々お答えを申し上げたが、実に御下問の条々が理に叶って尋常のお尋ねではないので、岡倉校長は恐懼(きょうく)致されたと、後に承ったことで御座いました。(・・・中略・・・)なお、聖上にはこの像は、木の材を纏(まと)めて製作したものか、学校の教員たちが力を協(あわ)せて作ったものか、などいろいろ立ち入って御下問があったとの事で、御答えを申すには、実にゆるがせでなく恐れ入ったということをこれまた校長から後に承りました。


さらに歩いて三菱一同館美術館へ(この件は、のちほどブログ記事にて)。


画像をクリック!



PS. 楠木正成像にかんする記述に加筆を行った。(2026年5月9日 記す)


<ブログ内関連記事>


■近代に生まれた「日本画」




(2025年1月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年12月23日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年6月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年11月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年10月22日発売の拙著です 画像をクリック!

 (2020年12月18日発売の拙著です 画像をクリック!

(2020年5月28日発売の拙著です 画像をクリック!

(2019年4月27日発売の拙著です 画像をクリック!

(2017年5月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2012年7月3日発売の拙著です 画像をクリック!


 



ケン・マネジメントのウェブサイトは

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどう
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!







end