先週末、生まれてはじめて京成電鉄の臼井駅で下車。白井(しらい)ではない、臼井(うすい)である。
成田空港や成田山にいくために利用してきた京成電鉄だが、おそらく最低でも数十回は往復しているはずだが、いまのいままで臼井駅で下車したことはなかった。
(勝川春亭による雷電の画 Wikipediaより)
臼井で下車したのは、江戸時代後期に生きた力士・雷電為右衛門(らいでん・ためえもん 1767~1825)の墓を詣で、顕彰碑を見るためである。
生涯の黒星が通算10個だけで、「勝率 0.962!」の大相撲史上未曾有の最強力士とされている。身長197cmの巨漢であった。
雷電が晩年を現在の千葉県佐倉市の臼井で過ごしたことは、今年(2023年)になってからはじめて知った。
松本健一氏の『佐久間象山』(中公文庫)を読んでいて、松代に蟄居中の象山が頼まれて信州出身の雷電の碑を書いていたことを知った。気になって雷電について調べてみたら、晩年は臼井で暮らしていたことを知ったのだ。
臼井の甘酒茶屋の看板娘を見初めて結婚し、一人娘をもうけたらしい。妻と娘といっしょの墓が臼井にあり、顕彰碑も建立されていることも知ったというわけだ。臼井は雷電で町おこしをしようというわけだろう。
(雷電為右衛門夫妻と一女の墓 筆者撮影)
それなら臼井に行かなくてはなるまい、と思った次第。「佐倉雷電祭」(妙覚寺)というのが2月11日あるようだが、そういう日は避けるに限る。人混みは嫌いだからね。
はじめて臼井駅で下車して歩いたわけだが、臼井もまた坂の多い、高低差の大きな町だ。こういうことは、実際に歩いてみないとわからない。あらてめて現地・現物・現実の「三現主義」でいかねばならないと実感。
雷電の墓を詣で、顕彰碑を見たあとは臼井城趾へ。この知られざる城は1604年に廃城となったままで、現在は公園になっている。
(臼井城趾より印旛沼を見下ろす 筆者撮影)
印旛沼や市街を見下ろす高台に建っていた、天然の要害ともいうべき臼井城は難攻不落で、籠城戦の末、上杉謙信の軍勢を退けたこともあったという。 1566年のことだ。
(上杉謙信の臼井城攻め 千葉市立郷土博物館の展示より)
高校時代に入手してパラパラ読んでいた赤松宗旦の『利根川図誌』(柳田國男校訂、岩波文庫、1938)には、臼井城趾が掲載されていて気になっていた。40数年たって、ようやく懸案事項の解決となったわけだ。
そのあとは下って印旛沼の西岸を歩き、成田街道に入って佐倉へ。途中の江原刑場跡(・・佐倉藩の処刑場で、ここで蘭医による解剖が行われた)を訪れ、旧佐倉藩領を佐倉城趾(・・現在は国立歴史民俗博物館)まで歩く。
そのあとは旧佐倉藩校の県立佐倉高校の「鹿山文庫」を10年ぶりに再訪し、さらに武家屋敷をこれまた10年ぶりに再訪。3万2千歩のウォーキングツアーであった。
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