昨年(2013年)11月に著者の辻井喬(つじい・きょう)氏=堤清二(つつみ・せいじ)氏が逝去された。86歳であった。
詩人で作家の辻井喬が、同時に西武百貨店を中核としたセゾングループ総帥の堤清二であったことは周知の事実である。この件については、書評 『叙情と闘争-辻井喬*堤清二回顧録-』(辻井 喬、中央公論新社、2009)-経営者と詩人のあいだにある"職業と感性の同一性障害とでも指摘すべきズレ" も参照されたい。2009年に書いた文章だ。
バブル破綻による経営悪化でビジネス界からのリタイアを余儀なくされてから後は、もっぱら辻井喬の名前で著作活動を行っていた。『ユートピアの消滅』(集英社新書、2000)もまたその一冊である。
「ユートピアの死」と「理想主義の死」について考察したこの本をてがかりに、「未来」に魅力なく、「過去」も美化できない時代を生きるということについて考えてみたい。
■「ユートピア」は挫折する運命にある
大学時代に『ユートピアの歴史』(ジャン・セルヴィエ、朝倉 剛/篠田浩一郎訳、筑摩叢書、1972)という本を図書館で借りて熟読したことがある。抜書きしてノートまでつくっていた。
プラトンから共産主義までたどれば、理想である「ユートピア」がいとも簡単に人間抑圧の「逆ユートピア」に転じることを知るのは容易なことだ。人は現実から逃れるためにユートピアを求めるが、かえって現状よりもひどい状態を迎えて終わることが多い。
もちろん、ユートピア思想の原点であるトマス・モアの『ユートピア』は大学時代に中公文庫で読んでいる。エンゲルスの『空想(ユートピア)から科学へ』読んでいる。わたしには、社会主義そのものが否定的な意味でのユートピアとしてしか思えなかったのだが・・・
なぜこれら本を読んだのか動機は思いださないが、おそらく政治学の授業に関連してのものではないだろうか。「第二バイオリン」を弾いていたエンゲルスの著作は、マルクス御大よりも理解しやすいのは否定しない。エンゲルスが工場経営者で資本家あった点にも親近感(?)を感じる。
エリアーデの『聖と俗』を読んで、共産主義の宗教的構造を知ったのも大学のころだ。したがって、ユートピア思考には最初から免疫があったわけだが、その後、1991年のソ連崩壊、1995年のオウム事件など、「ユートピアの死」はなんども同時代人として体験を重ねている。
「戦前」に主流であったの右翼思想におけるユートピアは、「理想」をすでに消え去った「過去」を美化することに求めるものであった。しかし、日本においては敗戦をまたずして、すでに戦中に挫折した。
「戦後」に主流であった左翼思想におけるユートピアは、「理想」をまだ見ぬ「未来」を美化することに求めるものであった。地上世界に理想が実現してしまったとみえたバブル期には退潮が可視化し、1991年のソ連崩壊によって最終的にとどめをさされた。
辻井喬(=堤清二)は1927年生まれ、三島由紀夫は1925年生まれ、ともに日本の敗戦時には「20歳で死ぬ」と思い込んでいた人たちであった。死ぬはずだったのに死ねなかった敗戦後は、虚無主義というニヒリズムを根底に抱えつつ理想主義者として生きたことが共通している。
見果てぬ理想主義というユートピアを、東大経済学部卒の辻井喬(=堤清二)は共産主義に、東大法学部卒の三島由紀夫は天皇主義に見ていたのであったが、ともに挫折して終わったということだろう。
(三島由紀夫から著者あての「盾の会」制服製作の依頼 P.72 )
三島由紀夫が「盾の会」の制服を、辻井喬(=堤清二)の西武百貨店に依頼してつくってもらったことが『ユートピアの消滅』に回想されているが、この二人は主義思想の違いを超えて親しかったというだけでなく、同質の人間として、同じような志向を逆向きのベクトルとして共有していたというわけなのだ。つまり二人とも絵に描いたような「近代人」、しかも「近代知識人」であったということだ。辻井喬(=堤清二)は、『ユートピアの消滅』でこう語っている。
三島事件によって、ひそかに思想としての生命力を失ったもうひとつの理想主義があった。それは前述の『討論 三島由紀夫 vs 東大全共闘』という出版物が暗喩の如く表現していた、新左翼思想であった(P.77)
1970年から数年のうちに、近代の「理想主義」は死んだのである。理想主義者にとってのユートピアは死んだのである。
「近代」が終わったあとの「後近代」においては、たとえばオウム真理教のように近代の鬼子が発生し、左翼思想に近い印象さえうける黙示録的なユートピアがより宗教的な色彩をもった言語で語られ、予言の自己成就をはかった教祖により自壊した。
以後、現実の悪化に対して、さまざまな思想が墓場から呼び起こされるのだが、いずれも主流となることなく空中を浮遊し、さまよいつづけるばかりだ。
ユートピアは、すべて挫折する運命にある。
■「未来」に魅力なく、「過去」も美化できない時代を生きる
そもそもユートピアとは元祖トマス・モアの『ユートピア』にあるように「どこにもない国」。そんなものを求めることじたいが問題なのだ。挫折するのがあたりまえなのだ。
だが、日本人はもちろん、世界中の人がユートピアを求めてきた。千年王国思想、みろくの世、世直し、社会主義・・・。現状を変えたい、現状が自分の実存にとって耐えがたいものであると感じているとき、人は自分を変えるよりも世の中を変えたい、いや誰かに変えてほしいという幻想をもつようになる。
「500年単位」の大転換期、現実のほうがはるかに速いスピードでわれわれを追い詰め、追い越して行く。「未来」に魅力なく、「過去」も美化できない時代を生きているのが、いま現在のわれわれだ。この状態で求められるマインドセットは、現実直視というリアリズムとある種の諦念であろうか。
しかし、世の中から「逃げ場」がなくなっていることが問題だ。アジールがなくなりつつある。
逃げ場がなくなれば、どこかでガスが噴出することになる。逆噴射もありうる。したがって、今後もさまざまな小規模な「ユートピア」が泡のように現れては消え、現れては消えるをくり返して行くことだろう。誰もが「夢」を見たいからだ。たとえそれが「泡」と消えたとしても。
「維新」などの発想もまた「世直し」の一種であり、ユートピア願望の一種にほかならない。多くの人は一瞬その気になるが、時間の経過とともに幻想に過ぎないことに気が付き、またあらたなプチ・ユートピアを夢見る。そしてまた幻滅する。
まあ、泡というならユートピアを求めるのではなく、一時の「逃げ場」を求めて、スーパー銭湯の「湯~とぴあ」でくつろいだほうが賢明かもしれませんね(笑) そんな冗談をいうと、まじめな人には叱られてしまうでしょうが・・・。
<参考資料1>
『ユートピアの消滅』(辻井喬、集英社新書、2000)の「書評」
筆者には、著者はユートピアの消滅を嘆いているような印象を受ける。ユートピアと理想主義を意図的に(?)混同しているためではないか?
筆者にはむしろユートピアは消滅してしかるべき、ユートピアなど口にする人間はいっさい信用するな、という気持ちの方が強い。筆者は、オウム事件もある意味ではユートピアの破綻と受け取っているためだ。
それはさておき、自決前の三島由紀夫の回想、セゾングループ総帥という経営者として接したソ連(当時)の実相など、流通論の興味のある話題が詰まっている本である。
同時期に辻井喬のペンネームで日本経済新聞に連載されていた小説『風の生涯』(上下、日本経済新聞社、2000年)-フジサンケイグループ中興の祖である戦前の初期マルクシストで、文人経営者の水野成夫がモデル-と一緒に読むと、日本の戦前と戦後とは何であったかを考える上で面白い。
(初出情報 2001年 bk1執筆)
http://homepage2.nifty.com/kensatoken/sub2.dokudanhenken.html
目 次
はじめに
ひとつのユートピアの崩壊
二・二六事件の記憶
第1章 60年代のユートピア
はじめてのロシア
アメリカのニューレフト
青年の家
日常生活の貧しさ
組織と人間
感性と想像力への干渉
衣の下から鎧が
共産党宣言
いずれのユートピアも
新しい動き
第2章 ユートピアの諸類型
ハンガリーの苦しみ
浅間山荘事件
三島事件
ベトナム戦争の恩恵
アメリカの成功
ユートピアの諸形態
アジアの理想郷
転換点としての70年代
クメール・ルージュ
第3章 地滑りするユートピア
ソビエト権力との交渉
芸術と革命展
鯉幟(こいのぼり)掲揚禁止
ウクライナへ
マッカーサー解任
訪中使節団
中国の変貌
第4章 消費社会とペレストロイカ
アルカディアと治安維持法
改革の試みの失敗
ゴスアグロプロムとゴルバチョフの苦悩
社会主義初級段階理論
自由世界の崩壊
我が国の発展
消費社会の断面
ペレストロイカは進む
第5章 二十一世紀のユートピアは
フランクフルトのシンポジウム
統一直後のベルリン
欧州連合
ウルグアイラウンドの成立
日本危うし
おわりに
著者情報
辻井 喬(つじい・きょう)
1929年東京生まれ。本名堤清二。東京大学経済学部卒。詩人、小説家。1955年、詩集『不確かな朝』を刊行以来、数多くの詩集、小説を出版。詩集『異邦人』で室生犀星賞、小説『虹の岬』で谷崎潤一郎賞を受賞。政治家であった父親の秘書を経て、経済人となる。その経歴から広い交友関係をもつ。セゾン文化財団勤務。詩、小説の他に『変革の透視図』『消費社会批判』など多数の著書がある。2013年逝去(出版社サイトの情報を編集)。
<参考資料2>
出版社による内容紹介 (集英社)
理想社会は死んだか!?
21世紀への新しい指標ユートピア思想とは何か。古代より人々は理想社会を様々に模索した。桃源郷の夢から哲人政治、共産主義思想、民主主義、自由主義社会。だが社会主義経済の消滅、資本主義経済の破綻などを経て、理想は遠のいた。
日本でも、連合赤軍事件、三島由紀夫事件、そしてバブルの破裂などが起こり、ユートピア思想はその力を失った。本書は著者の海外、特にロシア体験を織りまぜながら、ユートピア思想の消滅と、その再生を考察したものである。
<参考資料3>
書評 『叙情と闘争-辻井喬*堤清二回顧録-』(辻井 喬、中央公論新社、2009)-経営者と詩人のあいだにある"職業と感性の同一性障害とでも指摘すべきズレ" (一部再録)
1980年代後半にビジネス界に入った私にとって、セゾン・グループはかなり近い存在であった。
その当時の経済雑誌「日経ビジネス」のインタビュー記事で、堤清二はなんと「永久革命」などと口にしていたのだ。なんだ、堤清二はトロツキー好きなのか?"赤い資本家"なのか?、と・・・
ソ連に対しては、この回顧録でも政治家との接点の多いビジネスマンとして、かなりのページを割いて扱っているが、最終的にはソ連に代表される社会主義には幻滅したらしい。これは『ユートピアの消滅』(集英社新書、2000)でも語っていたとおりである。理想としていた社会主義が、現実のソ連を知ることによって幻滅にいたった、と。
社会主義に対してなんら幻想をもったことのない私は、辻井喬のいうことにはまったく共感を感じないのだが、本人にとってはどうしても書いておきたい事なのだろう。
やはり堤清二は、イタリアなどに少なからず存在した"赤い資本家"のカテゴリーの人だったのだろうか?少なくとも心情的には。
理想を抱いて不動産開発事業に邁進していたのは、父・堤康次郎も同じであった。
書評 『叙情と闘争-辻井喬*堤清二回顧録-』(辻井 喬、中央公論新社、2009)-経営者と詩人のあいだにある"職業と感性の同一性障害とでも指摘すべきズレ"
書評 『革新幻想の戦後史』(竹内洋、中央公論新社、2011)-教育社会学者が「自分史」として語る「革新幻想」時代の「戦後日本」論
書評 『オウム真理教の精神史-ロマン主義・全体主義・原理主義-』(大田俊寛、春秋社、2011)-「近代の闇」は20世紀末の日本でオウム真理教というカルト集団に流れ込んだ
書評 『ドアの向こうのカルト-九歳から三五歳まで過ごした、エホバの証人の記録-』(佐藤典雅、河出書房新社、2013)-閉鎖的な小集団で過ごした25年の人生とその決別の記録
マンガ 『レッド 1969~1972』(山本直樹、講談社、2007~2014年現在継続中)で読む、挫折期の「運動体組織」における「個と組織」のコンフリクト
・・閉鎖的組織が生み出す悲劇はカルトに共通する
「是々非々」(ぜぜひひ)という態度は是(ぜ)か非(ひ)か?-「それとこれとは別問題だ」という冷静な態度をもつ「勇気」が必要だ
・・ユートピアという全人格的帰依ではなく、「是々非々」でいくべき。現実的な「夢」はユートピア志向ではない現実的に、是々非々に
自分のアタマで考え抜いて、自分のコトバで語るということ-『エリック・ホッファー自伝-構想された真実-』(中本義彦訳、作品社、2002)
・・「自己欺瞞なくして希望はないが、勇気は理性的で、あるがままにものを見る」(エリック・ホッファー) 「希望」はユートピアと同様、つねに現実によって裏切られる。必要なのは希望ではなく勇気だ!
沢木耕太郎の傑作ノンフィクション 『テロルの決算』 と 『危機の宰相』 で「1960年」という転換点を読む
書評 『現代日本の転機-「自由」と「安定」のジレンマ-』(高原基彰、NHKブックス、2009)-冷静に現実をみつめるために必要な、社会学者が整理したこの30数年間の日本現代史
「500年単位」で歴史を考える-『クアトロ・ラガッツィ』(若桑みどり)を読む
書評 『終わりなき危機-君はグローバリゼーションの真実を見たか-』(水野和夫、日本経済新聞出版社、2011)-西欧主導の近代資本主義500年の歴史は終わり、「長い21世紀」を生き抜かねばならない
書評 『世界史の中の資本主義-エネルギー、食料、国家はどうなるか-』(水野和夫+川島博之=編著、東洋経済新報社、2013)-「常識」を疑い、異端とされている著者たちの発言に耳を傾けることが重要だ
(2015年7月25日 情報追加)
(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2022年12月23日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2022年6月24日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2021年11月19日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2021年10月22日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2020年12月18日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2012年7月3日発売の拙著です 画像をクリック!)
end