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2023年5月4日木曜日

企画展「大田南畝の世界 没後200年 江戸の知の巨星」(たばこと塩の博物館)に行ってきた(2023年5月2日)- 博覧強記の文人・大田南畝と幕府の能吏・大田直次郎は同一人物であった 

に行ってきた(2023年5月2日)。入場料は100円と破格の安さ。「たばこと塩の博物館」(墨田区)は、今回がはじめての訪問となる。専売公社以来のたばこと塩の常設展示も興味深い。

さて、本題の狂歌で有名な大田南畝(おおた・なんぽ 1749~1823)は、大田蜀山人(おおた・しょくさんじん)、四方赤良(よものあから)、寝惚(ねとぼ)け先生など、複数のペンネームをつかいわけて大活躍した江戸時代後期の文人である。

生涯に残した膨大な書き物は、随筆も含めて岩波書店からでた全集で20巻にも及んでいる。
 
そもそも現在とは違って、名前が一つではなく、諱(いみな)や通称、さらに知識階層なら雅号など含めると複数の名前を同時に使用していたのが江戸時代の人間である。近代人とは違って、アイデンティティはひとつではなかったのだ。

(ミュージアムショップで購入した図録 1,980円也)

現代風にいえば複数の「アバター」(=分身)を生きていたというべきであろう。ミュージアムショップで入手した「図録」の巻頭論文「大田南畝の自由と「行楽」」で、江戸時代の漢詩研究の第一人者である揖斐高氏も「アバター」という表現をつかっている。

大田南畝というと、「世の中に かほどうるさき ものはなし 文武と言ひて 夜も寝られず」という狂歌が連想としてまず思い浮かぶが、そもそもの出発点は漢詩だったのであり、生涯を通じて漢詩を作り続けた人なのである。揖斐高氏の編訳による『江戸漢詩選 上』(岩波文庫、2021)には、大田南畝の漢詩が3つ採録されている。

大田南畝は文人ではあったが、どうじに武士であり官僚でもあった。武士比率の高い江戸に下級武士の子として生まれた大田直次郎は、文武両道であった。武士のたしなみとしての水練も得意で、25歳のことには将軍の前で披露してお褒めもいただいている。

「一足・二水・三胆・四芸」は武士のたしなみのこと。足は健脚、水は水練、胆は胆力、芸は武芸。「三胆・四芸」については知らないが、すくなくとも「一足・二水」には自信があったようだ。近代日本に登場した青白いインテリとはほど遠い。

とはいえ、武張った人ではなかったようだが、エラの張った顔つきだったようだ。
 
こういったことは、今回の企画展をみてはじめて知ったことだ。企画展は以下のような構成になっている。

第一章 南畝の文芸 
第二章 情報編集者としての貌 
第三章 典籍を記録・保存する 
第四章 歴史・地理を考証する 
第五章 公務に勤しむ 
第六章 同時代の証言者として 
第七章 雅俗の交遊圏 
南畝とたばこ屋

「たばこと塩の博物館」だからではあるが、「たばこ屋」との関係もあったわけだ。たばこ屋は、狂歌のグループの一員でもあった。


(四方赤良、寝惚け先生としての若き日の大田南畝 企画展ウェブサイトより)



■下級武士の満たされぬ思いの代償行為としての文芸

狂歌や狂詩だけでなく、そもそもの出発点は漢詩であり、その漢詩は少年時代から培ってきた膨大な漢籍の読書のたまものであった。

下級武士の家に生まれた息子だが、神童とよばれていたらしい。そんな息子の得意分野を伸ばしてやろうという母親の思いによって、漢学の私塾で学ぶことができたのであるい。学んだのは「徂徠派」の儒学である。 

「蘐園学派」(けんえんがくは)ともいう徂徠派は、18世紀後半の江戸では主流であり、古文辞学という形で言語そのものに関心の重点を置いていた徂徠派のなかには、儒学そのものよりも漢詩文に重点を置いている人たちがいた。大田南畝は、後者の影響圏のなかにいたのであろう。

師匠がまた、シャレのわかる人だったことが幸いだったようだ。漢詩のパロディである狂詩でも才能を発揮、狂詩がさらにジャンルを超えて和歌のパロディである狂歌へとヨコ展開していく。大田南畝は、江戸時代後期の「狂歌ブーム」の立役者となったわけである。

下級武士の御徒(おかち)では満たされない思いが、文芸の世界で爆発したというべきであろう。身分制度のなかで生きる下級武士にとって、アバターをつかってイマジネーションの世界で生きることは、ある種の代償行為だったのではないだろうか。

(大田南畝 Wikipediaより)


■能吏であった後半生がまた興味深い

バブル経済の田沼時代が終わって内憂外患の動乱の時代に入っていくと、登場したのが松平定信である。18世紀末に定信が推進した「寛政の改革」が、本来は武士であった大田直次郎の人生を大きく変えることにとなる。

「寛政異学の禁」によって昌平坂学問所ではじめて朱子学が正式に官学化されると、幕臣を対象に「学問吟味」という公的な試験制度が導入されることになる。社会が複雑化し、変化のスピードの速い時代に対応できる人材を発掘し、登用するために開始された制度であった。朱子学による学問の規格化の始まりである。
 
この学問吟味を受験し、2度目のチャレンジで見事に首席となったのが大田南畝である。第1回目も受験しているが、試験を行う側で成績をめぐっての意思統一ができずに合格者がでなかったため、2年後に再度受験して結果をだしたのである。

徂徠学を修めた大田南畝であるが、朱子学の解釈による試験も突破しているわけであり、そうとうな学力の持ち主であったことがわかる。徂徠学をアンラーニングしているのである。

すでに数えで46歳となっていたが、学問吟味で優秀な成績をだしたことで、下級武士ではあったが、抜擢人事の対象となって支配勘定となったのである。御徒(おかち)の職では満たされることのない野心が、アバターとしてではなく、公的な場を得ることで解消に向かい始めたわけだ。

わたし的には、これから先の大田南畝のほうが興味深い。世の中が「知識社会」化し、幕府の人材活用方針が実力主義へと転換していくことで、身分制度が内側から崩れ始めたのである。そんな時代転換期に生きた大田南畝は、より若い世代の近藤重蔵などとともに考えるべきであろう。

漢学の素養をフルに発揮できる、文書管理と文書作成の仕事であった「孝行奇特者取調御用」や「御勘定所諸帳面取調御用」は、まさに適任であったというべきであろう。それらの業務をつうじて知識の運用能力と管理能力が認められ、輸出用の銅の精錬所であった大坂の「銅座」の監督官として赴任し、中国商人とオランダとの貿易港であった長崎奉行所にも赴任しているほか、関東では玉川の堤防調査にも従事している。文書作成能力だけでなく、計数能力もあったことがわかる。*

*大田南畝は息子の勘定所入りを願って、自腹を切って友人の小普請世話役の吉見儀助のもとで関流算術を学ばせていたと、『江戸の役人事情』(水谷三公、ちくま新書、2000)にある(P.185~188)。算盤と算術である。「大田南畝全集第17巻」(岩波書店)に収録されている「会計私記」を参照。(2023年6月9日 記す)

大坂赴任中には、民間博物学者ともいうべき商人の木村蒹葭堂(きむら・けんかどう)にも会っている。公務による大坂滞在中にも、あふれんばかりの好奇心を満たす機会は貪欲に追求しているわけだ。


■ロシア人レザノフと握手した大田直次郎

なんといっても興味深いのは、長崎赴任の時期(1804年)がロシアの「レザノフ来航」と重なっていることだ。

大田直次郎の基本業務は、長崎に滞在している中国商人の監督であったが、時代の変化が押し寄せてきていたのである。レザノフ(1764~1807)は、ロシア帝国の全権大使として、日本との貿易開設のミッションを帯びて来航していたのである。

(ニコライ・レザノフ Wikipediaより)

なんと、大田南畝はレザノフと握手しているのである。レザノフが差し出してきた右手を握って、ことばを交わしているらしい。役人とはいえ、やかましいプロトコルとは縁の遠い下級武士出身で、しかも好奇心の塊のような人であったから、素直に握手できたのであろう。

江戸時代のロシア通といえば漂流民であった大黒屋光太夫だが、それ以外にも直接ロシア人と接した人物として、大田南畝を数えなくてはならないわけである。

ちなみに、レザノフは漂流民たちから日本語を習っていたらしい。ロシア人使節のレザノフ(当時40歳)と握手して、基本的に通詞を介してではあるが、ことばも交わすという得がたい体験もしている。56歳の幕府の役人・大田直次郎であった。日ロ交渉にも幕府側の一員として参加していた筆まめな大田南畝は、この経緯も含めて、ありとあらゆることを記録している。
 
ただし、定信失脚後の幕府とのあいだでは日本貿易開設が実現せず、「ナジェジダ」(=希望)という船にのってきたが、希望を打ち砕かれて失意のなか長崎を離れたレザノフ。

ロシア人が蝦夷地の択捉島で乱暴狼藉をはたらいたのは、帰還後のレザノフの命令によるものであった。ショック療法で幕府に揺さぶりをかけるためである。

だがその結果、幕府の対ロ警戒心がかき立てられ、海軍士官のゴロヴニンが日本側に捕らえられる。報復としてロシア側の捕虜となった商人・高田屋嘉兵衛の活躍で、日ロ間で捕虜交換につながっていく日ロ交渉史は、また別の話として語るべきであろう。


(晩年の大田南畝 Wikipediaより)


■「没後200年」の企画展の意味

企画展に出品されている展示品は、そのほとんどが印刷物や原稿であるが、そういった現物をたどりながら見ていくと、江戸時代後期に生きた一人の日本人が生き生きと蘇ってくるのを感じる。

「没後200年」の企画展である。まだ亡くなってから、たかだか200年しか立っていないのだ。感覚的にも、そうかけ離れた存在ではない。というよりも、武張った明治時代の人間より近しく感じるものがる。

江戸時代の文芸は、漢詩漢文を抜きにして語ることはできないが、それゆえに現代の日本人には、ややバリアが高いことは否定できない。だが、そういったバリアを取り除けば、そこに現れるのは、ごく当たり前に悩み、ごく当たり前に生きた一人の日本人なのである。
 
おなじ日本人として、200年前に生きた人物について考えるのは、じつに楽しいことである。そういえば、亜欧堂田善も「没後200年」だったな。この前後に没した著名人は少なからずいる。

「200年前」について考えるには、いい機会かもしれない。



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PS1 レザノフ側の資料から大田南畝こと直次郎を見る

海軍士官のゴロヴニンや作家のゴンチャロフほど有名ではないが、レザノフも日本滞在記を残している。『日本滞在日記 1804~1805』(大島幹雄訳、岩波文庫、2000)がそれである。


なぜか原書は、ロシア(=ソ連)では1994年まで公開禁止扱いだったらしい。ソ連時代末期のペレストロイカ時代にはじめて公開されたようだが、ソ連外交あるいはロシア外交にとって不都合な事実が記載されているためだろうか。

日本語訳の「5 梅が崎上陸」の章には、1804年12月6日(文化元年11月18日)付けの日誌に以下のような文章がある。

朝、町から来たふたりの役人が岸に面した門を開けた。この門から検使たちがやって来た。奉行からの挨拶を述べ、輸送用の荷船がすでに出発したと告げた。実際、輸送は驚くべき速さで始まった。最初の日だけでひとつの倉庫が一杯になってしまった。何千人もの人夫が駆りだされたということだ。
一日中ひっきりなしに、役人たちが次々と挨拶しにやってきた。彼らにコーヒーをごちそうした。みんなコーヒーがたいへん好きだった。

訳者の大島氏は、最後の文章の「役人たちが次々と挨拶しにやってきた」に訳注をつけて、大田南畝がレザノフと面会していることと、大田南畝の息子宛の手紙を引用している。出典は『大田南畝全集第19巻』。

手紙には、船室内を興味深げに眺め回したこと、一部にかんしてはメモをとったことが記されているが、大田南畝はなぜかコーヒーを飲んだことには触れていない。ロシア語の原文がどうなっているのかわからないが、「みんなコーヒーがたいへん好きだった」とあるので、大田南畝にとっては、はじめてのコーヒー体験ではなかったのかもしれない。

12月8日付けの日誌には、「いままで見てきたところ、日本人たちはコーヒーが大好物のようだ」とある。長崎奉行所勤務の役人たちは、オランダ商館ですでにコーヒー体験を済ませていたのであろうか?

ちなみに、フランス革命が勃発したのは1789年であり、オランダはナポレオンによって1806年に占領され、オランダは消滅していた。その2年後の1808年に長崎で勃発したのが英国船フェートン号による乱暴狼藉事件であった。


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PS2 博覧強記の人・大田南畝は、おなじく博覧強記の全盲の大学者・塙保己一の友人でもあった

全盲の大学者の塙保己一が亡くなったのは1821年、大田南畝が亡くなる2年前のことである。いまから202年前のことになる。

塙保己一は、その死の2年前に畢生の大事業というべき「群書類従」を完成させている。その件については、「塙保己一史料館・温故学会」(東京・渋谷)を初めて訪問してきた(2019年7月3日)-ことし2019年は「群書類従」(全666巻)の刊行が完成してから200年! を参照されたい。

今回はじめて知ったが、博覧強記の人・大田南畝は、おなじく博覧強記の全盲の大学者・塙保己一の友人でもあった。たんなる同時代人ではないのである。

ネットで資料を探していたら、以下のようなものが見つかったので、一部引用させていただくことにしよう。

『群書類従』には、南畝の蔵書が八編も使われているように、南畝も蔵書家だった。塙保己一との関係は、群書類従の宣伝文を南畝が書くなど、親密な交流が行われていたようである。
保己一の母方斉藤家の「加美郡藤木戸村斎藤理左衛門」が奇特者ということで褒美を貰ったということは新編武蔵風土記稿にも記述されているが、この奇特者を載せた『孝義録』の編纂事業を担当したのは南畝である。
この際「此頃学問所にて撰ばせらるゝ所の『孝義録』を校正し、仮名のつかひざま詞ののべやうなど改むべき仰事ありて、あまねく校正して功なりにたればやがて開板となる。」と「温故堂塙先生伝」にあるように、塙保己一は校正を行っている。
この書状は大田南畝が文化元年(1804)に長崎奉行所へ一年間出役したときに、長崎から保己一宛に出したものである。内容は、九州の人たちに群書類従の宣伝をしたいので惣目録を長崎まで送ってほしいというものである。」

(温故学会の塙保己一の銅像 筆者撮影)


 

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・・大田南畝は塙保己一の親友であり、群書類従プロジェクトのパートナーであった




・・頼山陽は大田南畝の一世代(=30年)あとの人

・・ツンベルク、桂川甫周、大黒屋光太夫

・・帆足万里の『東潜夫論』(1844年)の記述より。その40年前の1804年には、大田南畝はすでにコーヒーを飲んでいたことになる


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