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2023年5月28日日曜日

「下野牧」の「野馬土手」をめぐり歩く ー 船橋市と鎌ケ谷市を中心に2023年5月に2回ノマド実行

 (野馬土手=土手際遺跡 船橋市)

現在の千葉県には、幕府直轄の「牧」があった。「牧」とは、軍用馬の放牧場のことである。下総の小金牧と佐倉牧、上総の嶺岡牧の3つである。

「牧」には馬が食べる飼料となる草が生えており、水場もあった。いずれも人為的な手の入っていない自然そのものである。

「牧」で放牧されている馬は「野馬」(のま)とよばれていた。だが、それは野生馬を意味しているわけではない。現代語なら「放牧馬」とでもいうべきだろう。北海道の広大な牧場に法賊されている馬を想起すべきだろう。

幕府の「牧」に放牧されていた「野馬」は、1年に1回捕獲されていた。これを「野馬捕り」といい、牧における一大イベントであったらしい。

自然環境のなかでのびのびと育った馬であるから、それはもう暴れ馬だったからだ。捕獲された雄馬からセレクトされた軍馬以外は、農耕用に払い下げられていたらしい。

(小金牧 GoogleMapより)

  
江戸時代前期においては、幕府は軍用馬の調達を盛岡藩を中心とした東北馬に依存していた。だが、江戸時代中期になってからは、8代将軍・吉宗の時代に自前で育成する政策をはかることになる。

軍馬の改良を考えていた吉宗は、東北の馬を取り寄せただけでなく、海外からアラビア馬を取り寄せている。去勢しないので暴れ馬であり、軍馬としての性格は優れていた日本馬だが、日本人の体格にフィットした小柄の馬であった。

吉宗は、軍馬を大型化したかったのだ。だが、その試みは定着することなく終わってまった。本格的に再開されたのは、幕府崩壊後の明治時代になってからである。だが、その結果、日本固有種の「日本馬」がほとんど消滅してしまったのは残念なことである。

(渡辺崋山の「四州真景」より釜原。釜原宿(=現在の鎌ヶ谷大仏)に向って「牧」のなかの木下街道を歩く旅人)

個人的な話になるが、小学生5年のときに都内から千葉県八千代市に移住してきたこともあって、陸上自衛隊の習志野駐屯地には、かつて陸軍騎兵隊がいたことも知っていた。その習志野駐屯地は、かつての「牧」をそのまま活かしたものといっいいだろう。

(陸上自衛隊習志野演習場。往事の「牧」をしのばせるものがある 筆者撮影)

千葉県北西部のこの地域は、馬とは切っても切り離せないほど、馬とかかわりの深い土地なのだ。その名残は、現在でも各地に残っている。

しばらく都内や海外で過ごしたあと、ふたたび千葉県北西部に戻ってきたが、たまたま、かつての「小金牧」のちかくに移住したこともあって、個人的に「牧」に対する関心には深いものがある。

新京成電鉄には船橋市内に「高根木戸」という駅があるが、かつてそこには「牧」のなかに入るための「木戸」があったためだという。「牧」には野馬が放牧されていたが、木下(きおろし)街道などの道が通っていたためだ。木下街道は、江戸と利根川を結ぶ重要な街道であった。


「牧」の周囲には「土手」が築かれて、「野馬」が周辺の耕作地に侵入しないようになっていた。それを「野馬土手」(のまどて)という。なんだか遊牧を意味する「ノマド」っぽい響きがいい。

「野馬土手」や「木戸」のことは、いまから12年まえの2011年ににはじめて知った。「下野牧」の跡をたずねて(東葉健康ウォーク)に参加して、はじめて「野馬土手」を見ることができてからである。

現在ふたたび「牧」と「野馬」、そして「野馬土手」に自分のなかで関心が高まったのは、江戸時代への関心が高まっているからだ。

とくに人口の7%に過ぎなかった武士(・・これは家族全体の数字。成人男子に限定したら2%程度!)については、わかっているようで知らないことがじつに多い。「弓馬の道」が本来の武士のあり方であった以上、武士と馬はきわめて密接な関係にあった。武士本来の職分である「武」にかんする側面について、もっと知りたいと思っている。

そこで、まだ訪れたことのない「野馬土手」を訪ね歩くことにした。1回で終わりにするつもりだったが、いろいろ調べていくうちに、漏れがかなりあることに気づいて、5月のあいだに「ノマド探索」を2回実行することになった次第である。

なんといっても、GoogleMap で検索して地図上に表示できるようになったことは大きい。そうでなければ、地図上で特定するのはむずかしい。


■「ノマド探索」 第1段階(5月初旬)

船橋市内でも、かつての「牧」に近いところに住んでいるので、そのまま「野馬土手」づたいに隣の鎌ケ谷市まで歩いてみることにした。具体的にいうと、御瀧不動尊を経由し、鎌ヶ谷大仏を経て、「牧」にかんする資料のある鎌ケ谷郷土資料館までいくコースである。

今回は、はじめて御瀧不動尊は新京成電鉄の滝不動駅からのアクセスのいい東側の仁王門ではなく、南側の正門から境内に入ることに。1973年に改築されたものだそうだ。


御瀧不動尊は、中世の室町時代の15世紀初頭にさかのぼる由緒ある寺院。湧き水があるので御瀧不動尊。修行場でもあったという。

江戸時代は「牧」のなかに入ってしまうので、現在地より西側に移されていたらしい。

御瀧不動尊の東側に「野馬土手跡」がある。「土手際遺跡」ともいう。船橋市内である。


野馬土手の切れ目に案内看板が立っている。「野馬土手」は文字通りの土手で、人の手によって盛り土で造成されたらしい。

現在では木が生えてしまっているが、江戸時代は野馬土手の維持管理は、周辺に住む農民に課せられていたという。


  
北に向かって歩いていくと、鎌ケ谷市に入る。「牧境の野馬土手」(中野牧・下野牧)がある。住宅街の垣根のような形で現在も残っている。



さらに歩いて、新京成電鉄の鎌ヶ谷大仏駅の前で線路をわたって反対側にいくと、「小金下野牧捕込跡」がある。残念ながら公園となっているが、それとわかるのは看板だけで、「捕込跡」をしのばせるようなものはない。



新京成電鉄を左手にみながら初富駅まで歩いていくと、途中に「野馬土手」がある。「鎌ケ谷ふれあいの森」の一部として「野馬土手」が保存されている。


さて、最終目的に「鎌ケ谷市郷土資料館」に到着。ここで「牧」関連の展示を見て、必要な資料を購入。船橋市民であっても、この鎌ケ谷市郷土資料館にいく価値はある。

縄文時代からいきなり江戸時代になってしまうのは、鎌ケ谷市も船橋市もおなじである。中世もわずかながら存在しているが、発展するのは江戸時代になってからである。

つまり、水田耕作を中心とする弥生文化との親和性がないのが、この地域なのだ。だから、「牧」として利用されていたのであろう。水田耕作には向いていないが、草地としては存在できる土地。しかも、湧き水もある。



■「ノマド探索」 第2段階(5月下旬)

その2週間後にもういちど追加で実施。「小金下野牧捕込跡」は見たものの、そのときは北初富駅の近くに「国史跡下総小金中野牧跡」があることを知らなかったのだ。これを水して「牧」について語ることはできないだろう。

船橋市内の高根に「高根木戸道標」というものがある。「牧」のなかで分かれる三叉路の道標だ。文化5年(1808年)に立てられたものである。馬だけがいる広大な「牧」で迷わないようにという心遣いである。

(高根木戸道標)

馬ではなく牛であるが、「佐久間牧場」まで歩いて行く。新京成電鉄の滝不動駅の東側にいくのは初めてだ。船橋市内にまだ牧場があったとは! 

子ども時代に八千代市の興真乳業の近くに住んでいたが、もはや牧場もないし、牛もいない。「田舎の香水」は、もはや懐かしい思い出と化してしまった。

牧場直結の「佐久間アイスクリーム工房」で食べたアイスクリームはうまかった!



さて、滝不動駅から電車に乗って北初富駅まで。この駅のすぐ近くに「国史跡下総小金中野牧跡」がある。「捕込」(とっこめ)といって、1年に1回おこなわれる野馬捕りの場の遺跡である。








野馬土手が集中しているような風情だが、このような形であれ残ったことはありがたいことだ。わざわざ見に来る人はいないようだが、もっと知られてしかるべきだろう。

そのあと、貝柄山公園」まで足を伸ばす。「野馬の像」を見に行くためだ。かつて「牧」があったことを想起させるため、設置されているのである。





さて、これでだいぶ「牧」と「野馬土手」に詳しくなった。文献とあわせて実地調査すると、イメージは立体的にふくらんでくる。

この関連の本では、なんといっても『「馬」が動かした日本史』(蒲池明弘、文春新書、2020)は出色のものであった。なぜ千葉県北西部に「牧」があったのか、土壌の点からそれがわかるのだ。

縄文遺跡がたくさんあるのに弥生遺跡がほとんどない船橋市と鎌ケ谷市水田耕作には適していないから「牧」となったのだな、と。「牧」は江戸時代以前からあったのである。




PS 「馬の博物館」に行ってきた(2023年6月6日)

横浜の根岸にある「馬の博物館」に行ってきた。JR根岸線の山手駅で下車して、購買差のある丘を登ること15分ほどのところにある。

JRA(日本競馬協会)のミュージアムで、根岸競馬場の跡地につくられたものなので、基本的に近代以降の競走馬が中心であるが、「馬の博物館」らしくウマ全般にかんしての総合ミュージアムとなっている。


「写真撮影禁止」なので内部の紹介はできないが、いま開催中の企画展「浮世絵美人と馬」の展示場には、鐙(あぶみ)の実物が展示されていた。江戸時代までの鐙の実物を見ることができたのは幸いだった。

というのも、日本の伝統的な鐙(あぶみ)は、西洋のものとは違うからだ。日本の鐙はツッカケみたいな形で、鐙の上に足を起きながらも、足の自由が効きやすい。西洋式の足をひかっけるのではなく、足裏を乗せるタイプである。

(左がいわゆる「舌長鐙」 Weblio辞書より


あくまでも戦闘用の軍馬として、「弓馬の道」である武士のための鐙であったからだ。乗馬しながら立ち上がったり、向きを変えたり、弓を射たりがしやすいのである。

このほか、外国大使が信任状捧呈式の際、皇居まで乗ることになる馬車が展示されていた。これは近代になってからのものだが、近距離で観察することができるのはすばらしい。

過去の企画展の図録のバックナンバー数点を購入した。現金のみなので注意が必要。

(2023年6月7日 記す)


PS2 『国道16号線ー日本を創った道』(柳瀬博一、新潮文庫、2023)は、東半分があまり取り上げられていない

『国道16号線ー日本を創った道』(柳瀬博一、新潮文庫、2023)という本を読んだ。話題の本で、文庫化されたのを機会に一読。

面白い内容だが、残念な本であった。というのは、書かれている内容は、ほとんどが国道16号線の西半分の話であって、東半分の千葉の話は付けたし程度でしかないからだ。

『国道16号線ー日本を創った道』というタイトルに惹かれて読んだものの、不完全燃焼感といだいて残念に思う千葉県住民は、『「馬」が動かした日本史』(蒲池明弘、文春新書、2020)をあわせて読むべきだろう。

国道16号線の西半分は、横浜と八王子の「シルクロード」の話がメインなので、むしろここだけ切り離したほうがすっきりするだろう。八王子から見たら、東京都心に行くのも、横浜に行くのもほぼ等距離である。新たな風が吹き込んできたのは、横浜からなのであった。

(2023年6月7日 記す)




PS3 佐藤一斎もまた下野牧を通って「牧」を体験していた

渡辺崋山の「四州真景」の「釜原」は、釜原宿(=現在の鎌ヶ谷大仏)に向って「牧」のなかの木下街道を歩く旅人二人と馬の群れを描いたスケッチ的な作品である。

崋山は33歳、1825年に利根川下流域の香取、鹿島、銚子方面に旅に出立している。公用ではなく、まったくの遊山の旅である。その往路で鎌ケ谷宿で夕飯を食べて酒を飲み、そのまま歩き続けて白井宿で一泊している。

この旅に出立するに当たって、崋山は、その肖像も描いている、儒学の師である佐藤一斎を訪ねて「日光紀行」を借りていったという。芳賀徹の『渡辺崋山 優しい旅びと』(朝日選書、1986)にそう記されている(P.53)。

ただし、「日光紀行」は、ただしくは「日光山行記」(文政元年=1818年)である。崋山の日記にはそう記されていたのだろうか?

その「日光山行記」の末尾は、日光街道による往路の日光行きの帰途は別コースをたどって銚子方面に遊び、利根川を船で移動して、木下では舟ののなかで一泊したのち、鎌ケ谷の「下野牧」を通ったことが記されている。

崋山は、往路にこのコースを佐藤一斎とは逆にたどっているが、おそらくその念頭には一斎から借りてきて読んだ文章の末尾が思い浮かんでいたに違いない。だが、芳賀氏は、その件について言及していないので、「日光山行記」は見ていないのであろう。

一斎の「日光山行記」から引用しておこう。原文は漢文であるが、『佐藤一斎全集第2巻 詩文類(上)』(明徳出版社、1991)の訓読文にしたがうことにする。この文章が全体の締めくくりとなっている。

行くこと里餘。平原を得たり。手鞍原(てくらはら)と曰ふ。放牧地たり。馬多くは洋種なり。 
又た数里にして一大広原を得たり。釜原と曰ふ。亦た牧地なり。東南十五里、南北二里。之を総呼して、小金原と曰ふ。牧は上・中・下に分つ此は其の下牧なり。馬群最も多く、人を見るも避けず牝牡の驪黄(りこう:黄色と黒色のブチのこと)、優遊自適して、羈的(きてき:おもがいと手綱)、槽櫪(そうれき:馬小屋)の屈を受けず。太(はなは)だ吾輩の閒逸(かんいつ)なる者と相類たるも、亦楽しむ可きなり。
八幡を歴て行徳に抵(いた)るに、未だ哺(ほ)ならず(=午後4時になっていない)。舟を買ひて川を下り、薄暮に都に達す。

さすが野馬好きの一斎ならではである。人馬共存の風景が目に浮かぶようだ。ところで、手鞍原は印西牧のことか? 釜原は鎌ケ谷のことである。下野牧についてかかれている。

『言志後録』では、若い頃は「野産」の馬を乗りこなしていたと述懐している一斎だが、別の文章では十代の頃に「野馬捕り」を実見しているようで、「「小金原捉馬図鑑」に題す」という文章を書いている。この文章も「佐藤一斎全集第2巻」に収録されている。

この文章は崋山のスケッチを彷彿とさせるものがある。いや、順番としては逆だな。

一斎は夜明け前に木卸(きおろし=木下)を立ってから、途中で一泊することもなく、そのまま江戸の自宅に戻ったようだ。健脚である。

(2023年6月9日 記す)




<ブログ内関連記事>


・・演習場は、かつての「牧」をそのままとどめている。こういうイベントの機会を利用すれば、一般人でもなかに入って当時の「牧」をしのぶことができる


・・この基地もかつての小金牧のなかにある。中野牧である。
とはいえ、基地が占めるスペースは、かつての「牧」のごく一部に過ぎないのである。

(2023年6月13日 情報追加)


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