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2023年5月8日月曜日

書評『星に惹かれた男たち ー 江戸の天文学者 間重富と伊能忠敬』(鳴海風、日本評論社、2014)ー 江戸時代後期の天文学者であった大坂の間重富には、もっともっと注目するべきだ

 
碁打ちから暦学者に転じた渋川春海は、映画化もされた冲方丁氏の小説『天地明察』で有名になったが、それは江戸時代前期の日本の天文学の黎明期の話だ。

江戸時代中期の吉宗の衣鉢を継いで改暦を実現したのが、江戸時代後期のはじめに生きた高橋至時(たかはし・よしとき)と間重富(はざま・しげとみ)である。ともに大坂出身の天文学者で、前者は下級武士、後者は質屋を営む大商人であった。

二人はともに大坂で第二の人生を築いた、天文学者で医者の麻田剛立の弟子たちである。メカ好きで観測機器も自分でつくてしまう実測家の間重富と、もっぱら理論家肌の高橋至時は相補的な関係のいいコンビだったようだ。身分制度の時代であっても、知的探求の世界では身分は関係なかったことをよく示している。

そして、伊能忠敬は高橋至時の弟子でもあった。伊能忠敬は庄屋であったが、当時の江戸のの物流の要となっていた利根川下流域で生業を営んでいた伊能家。したがって伊能忠敬も限りなく商人に近い存在であった。間重富と同様に商才にすぐれ、計数感覚の持ち主であった。

知名度からいったら、測量によって日本全図を完成させた伊能忠敬に軍配が上がる。だが、「寛政の改暦」に大きな貢献をした間重富は、伊能忠敬に勝るとも劣らない存在であったと言わねばならない。

本来なら、高橋至時の考えでは、間重富が西日本の測量を行い、伊能忠敬が東日本の測量を分担するハズだったのだ。


『星に惹かれた男たち ー 江戸の天文学者 間重富と伊能忠敬』(鳴海風、日本評論社、2014)という本を読むと、間重富という大坂出身の天文学者にはもっと注目すべきことが大いに納得される。

総論的な概説書には、『天文学者たちの江戸時代 ー 暦・宇宙観の大展開』(嘉数次人、ちくま新書、2016)というものがある。著者の嘉数次人氏は大坂出身の研究者だが、かならずしも地域びいきだけから大坂の天文学者たちに注目しているのではない。

そのことは、和算作家の鳴海風氏が新潟県出身で、しかも名古屋に本拠をおいたデンソーの元エンジニアであることからもわかる。

鳴海氏は、18世紀後半の大坂の医者たちの、臨床を重視した科学精神と実証精神に注意を喚起している。江戸の医者たちとの違いである。

高橋至時と間重富の師匠であた麻田剛立は、天文学者であると同時に、解剖も多くこなす医者でもあった。江戸中心の『解体新書』神話のワナにはまってはいけないのである。


(松平定信の命によって天文方の高橋至時と間重富が中心になって作成した「新訂万国全図」(1816年)。銅版画は亜欧堂田善 国立歴史民俗博物館にて筆者撮影)


ここで、あらためて間重富と伊能忠敬の経歴について見ておこう。

伊能忠敬(1745~1818)と間重富(1756~1816)は、生没年から見たらわかるように、ほぼ同時代を生きた人物である。伊能忠敬のほうが間重富より9年早く生まれ、2年長く生きている。伊能忠敬は73歳で、間重富は60歳で亡くなっている。伊能忠敬は健康そのもの、間重富は病気がちだったらしい。

この違いが測量事業での大きな違いを生んだのである。伊能忠敬も天文学を学んだ天文学者でありながら、現在ではもっぱら測量家として記憶されている理由となっている。

伊能忠敬は、佐原の庄屋に養子として迎えられ、大いに辣腕を発揮、社会事業でも大きな取り組みをなし、隠居して息子に家督を譲ってから、後顧の憂いなく江戸に出て本格的に天文学を学んだ人物だ。

間重富は六男として生まれたが、兄たちが夭折しているため家業を継ぐことになった。改暦事業のため高橋至時とともに幕府に召し出されたが、大坂に家族と家業を残したままであった。さぞ気がかりであったことだろう。




『江戸の天文学者 星空を翔ける ー 幕府天文方、渋皮春海から伊能忠敬まで』(中村士、技術評論社、2008)では、この間重富と、儒者で最終的に幕府の儒官となった佐藤一斎の交際について取り上げられている。

佐藤一斎は、20歳での大きな挫折を経験しており、出身藩であった岩村藩の士籍を返上し浪人となっていた。師友のすすめで21歳で大坂に遊学したらしい。誰の紹介かよくわからないが、大坂での受け入れ先となったのが間重富であった。

間重富には大坂を代表する学問所であった懐徳堂の老儒者・中井竹山を紹介してもらい、半年という短い期間ではあったが、間重富宅から竹山のもとにほぼ毎日通って濃い内容の個人授業を受けている。

間重富は自宅で天体観測もしていたから、才気煥発であった青年であった佐藤一斎も、間違いなく天文学について多大な関心をいだくキッカケになったはずである。

佐藤一斎の若き日の間重富との出会いと、その後の孫子の世代にいたるまでの密接な交流。幕府天文方との交流は、伊能忠敬の死後にみずから筆を執って墓碑銘を書いたことにも現れている。佐藤一斎は、伊能忠敬の孫の面倒もみていたという。

天文ファンで機械時計マニアだった佐藤一斎の意外な面がわかるだけでなく、間重富という人物の懐の深さ、人脈の豊富さについて納得されるのである。

江戸時代後期の天文学者であった大坂の間重富には、もっともっと注目するべきである。


 
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<関連サイト>

貴重資料展示室 第55回常設展示:2016年10月21日〜2017年10月12日 間 重富

『星学手簡』 高橋至時、間重富他筆 渋川景佑編 写本 上・中・下3冊



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