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2023年5月9日火曜日

物理学者・池内了氏の『江戸の宇宙論』(集英社新書、2022)と『司馬江漢 ー「江戸のダ・ヴィンチ」の型破り人生』(集英社新書、2018)を読む ー 江戸時代後期に地動説や宇宙論を展開した民間人たちに目をむけることの意味

 
江戸時代の天文学については、800年ぶりに改暦を実現した立役者の渋川春海(しぶかわ・はるみ)がもっとも有名だが、江戸時代後期の「寛政の改暦」を実現した高橋至時(たかはし・よしとき)と間重富(はざま・しげとみ)のコンビもまた、それに劣らず重要だ。

だが、こういった専門の天文学者だけでなく、天文学に多大な興味をいだいて、それぞれ独自の思索を行い、一般向けに啓蒙活動を行った人物にも関心を向けるべきであろう。

それは、サイエンス・コミュニケーターとしての司馬江漢(しば・こうかん)であり、江戸時代後期の1780年から1820年のあいだに「宇宙論」を一気に世界水準に押し上げた志築忠雄(しづき・ただお)、山片蟠桃(やまがた・ばんとう)といった民間人たちである。


■江戸で生まれ育ったが長崎で開眼した司馬江漢

司馬江漢といえば西洋風の銅版画を日本ではじめて実現したアーティストとして知られているが、それは多面的な人物であった司馬江漢(1747~1818)の一面であるに過ぎない。

美術にくわしい人なら、江戸に生まれ育った司馬江漢が最初は鈴木春信の弟子として美人浮世絵からキャリアを開始し、その後さまざまな画法を身につけて、生涯をフリーで過ごした人物であることを知っているだろう。

だが、サイエンス・コミュニケーターとして「地動説」を一般向けに啓蒙し続けた人であることは、なかなか視野に入ってこないのではないだろうか。
 
物理学者の池内了氏のリタイア後の余技というべきであろうか、『司馬江漢 ー「江戸のダ・ヴィンチ」の型破り人生』(池内了、集英社新書、2018)という本を読むと、そのことがよくわかってくる。

さすがに「日本のダヴィンチ」というのは褒めすぎだと思うが、絵も描き、ガジェットも自分でつくって、文章も書いてなると、たしかに多彩多芸で博覧強記の人物であったことは間違いない。しかも、毀誉褒貶相半ばする「奇人」であったことも確かなことだ。
 
もちろん、科学に多大な興味をもつ素人としての限界はあるが、「地動説」を19世紀初頭の日本で普及させた功績は大きいというべきだろう。司馬江漢は長崎遊学で目覚めたのである。


■長崎で発展し大坂で花開いた蘭学

おなじく池内了氏の『江戸の宇宙論』(池内了、集英社新書、2022)によれば、コペルニクスの地動説とニュートンの万有引力について、日本ではじめて認識し、理解したのは、志築忠雄(1760~1806)であった。

長崎のオランダ語通詞出身の翻訳家である。早々と通詞をリタイアして、自分の興味と関心にまかせて、さまざまな科学文献を読んでは自分で日本語に翻訳しながら、理解を深めていった人だ。業務として翻訳を行ったのではなく、あくまでもイニシアティブはかれの側にあった。


志築忠雄については、『蘭学の九州』(大島明秀、弦書房、2022)でも大きく取り上げられている。いわゆる「蘭学」は江戸で始まったという、「『蘭学事始』神話」の解体の一環である。

当然といえば当然だが、漢訳洋書やオランダ語の原書がもっとも入手しやすかったのが長崎である以上、蘭学が長崎から始まったのである。その影響は、地の利からいってまず九州で、その後は瀬戸内海ルートをつうじて大坂で花開いたというべきだろう。

高橋至時と間重富の師匠であった麻田剛立は、もともとは現在の大分県にあった杵築藩の侍医だったが、脱藩して大坂で好きな天文学に打ち込んだ人である。町人中心の大坂の知的風土に魅了されたからのようだ。その麻田剛立と密接な交流をもっていたのが、生まれ故郷の豊後にとどまり続けた自然哲学者の三浦梅園であった。

山片蟠桃(1748~1821)は、大坂の商人であり懐徳堂で学んだ思想家である。ペンネームの「蟠桃」は「番頭」をもじったものだ。辣腕の商人だったからこそ、合理的で現実的な科学思想家でもありえたわけである。主著『夢の代』で、無限宇宙論や複数宇宙論を展開しているのである。18世紀の西欧社会とおなじ知的関心となっていたのである。


池内了氏は、『江戸の宇宙論』の「はじめに」で以下のように書いている。

1780~1820年のほんの短い間に、西洋から天文学・宇宙論を学ぶなかで、日本人はコペルニクスの地動説(1543年)からの250年間の遅れを取り戻しただけでなく、無限宇宙論の描線において一気に世界の第一線に躍り出たのである。
その意味では、一瞬とはいえ日本人の宇宙論が世界の第一線にまで到達したと言えるのではないか。自由な発想で学問を楽しむなかでこそ世界の最前線に立つことができた、このような江戸の文化の豊かさをともに味わいたい、そう思ったのが本書を執筆した動機である。

このように、司馬江漢や志築忠雄、そして山片蟠桃といった人たちは、あくまでも自分の趣味や知的好奇心から出発して、それぞれ独自の世界を探索している。科学がまだ、知的遊戯であった時代の幸せな人物たちであったとえいるかもしれない。

あまりにも専門分化がすすんで個別分野ごとに「バカの壁」ができあがって、相互にコミュニケーション不全状態となっているのが、現在の科学の世界である。

こんな時代だからこそ、司馬江漢や志築忠雄、そして山片蟠桃といった「科学の素人たち」にも目を向ける必要があるといっていいだろう。なんといっても、かれらは科学を楽しんでいた先人たちなのであるから。

  
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2023年5月8日月曜日

書評『星に惹かれた男たち ー 江戸の天文学者 間重富と伊能忠敬』(鳴海風、日本評論社、2014)ー 江戸時代後期の天文学者であった大坂の間重富には、もっともっと注目するべきだ

 
碁打ちから暦学者に転じた渋川春海は、映画化もされた冲方丁氏の小説『天地明察』で有名になったが、それは江戸時代前期の日本の天文学の黎明期の話だ。

江戸時代中期の吉宗の衣鉢を継いで改暦を実現したのが、江戸時代後期のはじめに生きた高橋至時(たかはし・よしとき)と間重富(はざま・しげとみ)である。ともに大坂出身の天文学者で、前者は下級武士、後者は質屋を営む大商人であった。

二人はともに大坂で第二の人生を築いた、天文学者で医者の麻田剛立の弟子たちである。メカ好きで観測機器も自分でつくてしまう実測家の間重富と、もっぱら理論家肌の高橋至時は相補的な関係のいいコンビだったようだ。身分制度の時代であっても、知的探求の世界では身分は関係なかったことをよく示している。

そして、伊能忠敬は高橋至時の弟子でもあった。伊能忠敬は庄屋であったが、当時の江戸のの物流の要となっていた利根川下流域で生業を営んでいた伊能家。したがって伊能忠敬も限りなく商人に近い存在であった。間重富と同様に商才にすぐれ、計数感覚の持ち主であった。

知名度からいったら、測量によって日本全図を完成させた伊能忠敬に軍配が上がる。だが、「寛政の改暦」に大きな貢献をした間重富は、伊能忠敬に勝るとも劣らない存在であったと言わねばならない。

本来なら、高橋至時の考えでは、間重富が西日本の測量を行い、伊能忠敬が東日本の測量を分担するハズだったのだ。


『星に惹かれた男たち ー 江戸の天文学者 間重富と伊能忠敬』(鳴海風、日本評論社、2014)という本を読むと、間重富という大坂出身の天文学者にはもっと注目すべきことが大いに納得される。

総論的な概説書には、『天文学者たちの江戸時代 ー 暦・宇宙観の大展開』(嘉数次人、ちくま新書、2016)というものがある。著者の嘉数次人氏は大坂出身の研究者だが、かならずしも地域びいきだけから大坂の天文学者たちに注目しているのではない。

そのことは、和算作家の鳴海風氏が新潟県出身で、しかも名古屋に本拠をおいたデンソーの元エンジニアであることからもわかる。

鳴海氏は、18世紀後半の大坂の医者たちの、臨床を重視した科学精神と実証精神に注意を喚起している。江戸の医者たちとの違いである。

高橋至時と間重富の師匠であた麻田剛立は、天文学者であると同時に、解剖も多くこなす医者でもあった。江戸中心の『解体新書』神話のワナにはまってはいけないのである。


(松平定信の命によって天文方の高橋至時と間重富が中心になって作成した「新訂万国全図」(1816年)。銅版画は亜欧堂田善 国立歴史民俗博物館にて筆者撮影)


ここで、あらためて間重富と伊能忠敬の経歴について見ておこう。

伊能忠敬(1745~1818)と間重富(1756~1816)は、生没年から見たらわかるように、ほぼ同時代を生きた人物である。伊能忠敬のほうが間重富より9年早く生まれ、2年長く生きている。伊能忠敬は73歳で、間重富は60歳で亡くなっている。伊能忠敬は健康そのもの、間重富は病気がちだったらしい。

この違いが測量事業での大きな違いを生んだのである。伊能忠敬も天文学を学んだ天文学者でありながら、現在ではもっぱら測量家として記憶されている理由となっている。

伊能忠敬は、佐原の庄屋に養子として迎えられ、大いに辣腕を発揮、社会事業でも大きな取り組みをなし、隠居して息子に家督を譲ってから、後顧の憂いなく江戸に出て本格的に天文学を学んだ人物だ。

間重富は六男として生まれたが、兄たちが夭折しているため家業を継ぐことになった。改暦事業のため高橋至時とともに幕府に召し出されたが、大坂に家族と家業を残したままであった。さぞ気がかりであったことだろう。




『江戸の天文学者 星空を翔ける ー 幕府天文方、渋皮春海から伊能忠敬まで』(中村士、技術評論社、2008)では、この間重富と、儒者で最終的に幕府の儒官となった佐藤一斎の交際について取り上げられている。

佐藤一斎は、20歳での大きな挫折を経験しており、出身藩であった岩村藩の士籍を返上し浪人となっていた。師友のすすめで21歳で大坂に遊学したらしい。誰の紹介かよくわからないが、大坂での受け入れ先となったのが間重富であった。

間重富には大坂を代表する学問所であった懐徳堂の老儒者・中井竹山を紹介してもらい、半年という短い期間ではあったが、間重富宅から竹山のもとにほぼ毎日通って濃い内容の個人授業を受けている。

間重富は自宅で天体観測もしていたから、才気煥発であった青年であった佐藤一斎も、間違いなく天文学について多大な関心をいだくキッカケになったはずである。

佐藤一斎の若き日の間重富との出会いと、その後の孫子の世代にいたるまでの密接な交流。幕府天文方との交流は、伊能忠敬の死後にみずから筆を執って墓碑銘を書いたことにも現れている。佐藤一斎は、伊能忠敬の孫の面倒もみていたという。

天文ファンで機械時計マニアだった佐藤一斎の意外な面がわかるだけでなく、間重富という人物の懐の深さ、人脈の豊富さについて納得されるのである。

江戸時代後期の天文学者であった大坂の間重富には、もっともっと注目するべきである。


 
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<関連サイト>

貴重資料展示室 第55回常設展示:2016年10月21日〜2017年10月12日 間 重富

『星学手簡』 高橋至時、間重富他筆 渋川景佑編 写本 上・中・下3冊



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2023年5月4日木曜日

企画展「大田南畝の世界 没後200年 江戸の知の巨星」(たばこと塩の博物館)に行ってきた(2023年5月2日)- 博覧強記の文人・大田南畝と幕府の能吏・大田直次郎は同一人物であった 

に行ってきた(2023年5月2日)。入場料は100円と破格の安さ。「たばこと塩の博物館」(墨田区)は、今回がはじめての訪問となる。専売公社以来のたばこと塩の常設展示も興味深い。

さて、本題の狂歌で有名な大田南畝(おおた・なんぽ 1749~1823)は、大田蜀山人(おおた・しょくさんじん)、四方赤良(よものあから)、寝惚(ねとぼ)け先生など、複数のペンネームをつかいわけて大活躍した江戸時代後期の文人である。

生涯に残した膨大な書き物は、随筆も含めて岩波書店からでた全集で20巻にも及んでいる。
 
そもそも現在とは違って、名前が一つではなく、諱(いみな)や通称、さらに知識階層なら雅号など含めると複数の名前を同時に使用していたのが江戸時代の人間である。近代人とは違って、アイデンティティはひとつではなかったのだ。

(ミュージアムショップで購入した図録 1,980円也)

現代風にいえば複数の「アバター」(=分身)を生きていたというべきであろう。ミュージアムショップで入手した「図録」の巻頭論文「大田南畝の自由と「行楽」」で、江戸時代の漢詩研究の第一人者である揖斐高氏も「アバター」という表現をつかっている。

大田南畝というと、「世の中に かほどうるさき ものはなし 文武と言ひて 夜も寝られず」という狂歌が連想としてまず思い浮かぶが、そもそもの出発点は漢詩だったのであり、生涯を通じて漢詩を作り続けた人なのである。揖斐高氏の編訳による『江戸漢詩選 上』(岩波文庫、2021)には、大田南畝の漢詩が3つ採録されている。

大田南畝は文人ではあったが、どうじに武士であり官僚でもあった。武士比率の高い江戸に下級武士の子として生まれた大田直次郎は、文武両道であった。武士のたしなみとしての水練も得意で、25歳のことには将軍の前で披露してお褒めもいただいている。

「一足・二水・三胆・四芸」は武士のたしなみのこと。足は健脚、水は水練、胆は胆力、芸は武芸。「三胆・四芸」については知らないが、すくなくとも「一足・二水」には自信があったようだ。近代日本に登場した青白いインテリとはほど遠い。

とはいえ、武張った人ではなかったようだが、エラの張った顔つきだったようだ。
 
こういったことは、今回の企画展をみてはじめて知ったことだ。企画展は以下のような構成になっている。

第一章 南畝の文芸 
第二章 情報編集者としての貌 
第三章 典籍を記録・保存する 
第四章 歴史・地理を考証する 
第五章 公務に勤しむ 
第六章 同時代の証言者として 
第七章 雅俗の交遊圏 
南畝とたばこ屋

「たばこと塩の博物館」だからではあるが、「たばこ屋」との関係もあったわけだ。たばこ屋は、狂歌のグループの一員でもあった。


(四方赤良、寝惚け先生としての若き日の大田南畝 企画展ウェブサイトより)



■下級武士の満たされぬ思いの代償行為としての文芸

狂歌や狂詩だけでなく、そもそもの出発点は漢詩であり、その漢詩は少年時代から培ってきた膨大な漢籍の読書のたまものであった。

下級武士の家に生まれた息子だが、神童とよばれていたらしい。そんな息子の得意分野を伸ばしてやろうという母親の思いによって、漢学の私塾で学ぶことができたのであるい。学んだのは「徂徠派」の儒学である。 

「蘐園学派」(けんえんがくは)ともいう徂徠派は、18世紀後半の江戸では主流であり、古文辞学という形で言語そのものに関心の重点を置いていた徂徠派のなかには、儒学そのものよりも漢詩文に重点を置いている人たちがいた。大田南畝は、後者の影響圏のなかにいたのであろう。

師匠がまた、シャレのわかる人だったことが幸いだったようだ。漢詩のパロディである狂詩でも才能を発揮、狂詩がさらにジャンルを超えて和歌のパロディである狂歌へとヨコ展開していく。大田南畝は、江戸時代後期の「狂歌ブーム」の立役者となったわけである。

下級武士の御徒(おかち)では満たされない思いが、文芸の世界で爆発したというべきであろう。身分制度のなかで生きる下級武士にとって、アバターをつかってイマジネーションの世界で生きることは、ある種の代償行為だったのではないだろうか。

(大田南畝 Wikipediaより)


■能吏であった後半生がまた興味深い

バブル経済の田沼時代が終わって内憂外患の動乱の時代に入っていくと、登場したのが松平定信である。18世紀末に定信が推進した「寛政の改革」が、本来は武士であった大田直次郎の人生を大きく変えることにとなる。

「寛政異学の禁」によって昌平坂学問所ではじめて朱子学が正式に官学化されると、幕臣を対象に「学問吟味」という公的な試験制度が導入されることになる。社会が複雑化し、変化のスピードの速い時代に対応できる人材を発掘し、登用するために開始された制度であった。朱子学による学問の規格化の始まりである。
 
この学問吟味を受験し、2度目のチャレンジで見事に首席となったのが大田南畝である。第1回目も受験しているが、試験を行う側で成績をめぐっての意思統一ができずに合格者がでなかったため、2年後に再度受験して結果をだしたのである。

徂徠学を修めた大田南畝であるが、朱子学の解釈による試験も突破しているわけであり、そうとうな学力の持ち主であったことがわかる。徂徠学をアンラーニングしているのである。

すでに数えで46歳となっていたが、学問吟味で優秀な成績をだしたことで、下級武士ではあったが、抜擢人事の対象となって支配勘定となったのである。御徒(おかち)の職では満たされることのない野心が、アバターとしてではなく、公的な場を得ることで解消に向かい始めたわけだ。

わたし的には、これから先の大田南畝のほうが興味深い。世の中が「知識社会」化し、幕府の人材活用方針が実力主義へと転換していくことで、身分制度が内側から崩れ始めたのである。そんな時代転換期に生きた大田南畝は、より若い世代の近藤重蔵などとともに考えるべきであろう。

漢学の素養をフルに発揮できる、文書管理と文書作成の仕事であった「孝行奇特者取調御用」や「御勘定所諸帳面取調御用」は、まさに適任であったというべきであろう。それらの業務をつうじて知識の運用能力と管理能力が認められ、輸出用の銅の精錬所であった大坂の「銅座」の監督官として赴任し、中国商人とオランダとの貿易港であった長崎奉行所にも赴任しているほか、関東では玉川の堤防調査にも従事している。文書作成能力だけでなく、計数能力もあったことがわかる。*

*大田南畝は息子の勘定所入りを願って、自腹を切って友人の小普請世話役の吉見儀助のもとで関流算術を学ばせていたと、『江戸の役人事情』(水谷三公、ちくま新書、2000)にある(P.185~188)。算盤と算術である。「大田南畝全集第17巻」(岩波書店)に収録されている「会計私記」を参照。(2023年6月9日 記す)

大坂赴任中には、民間博物学者ともいうべき商人の木村蒹葭堂(きむら・けんかどう)にも会っている。公務による大坂滞在中にも、あふれんばかりの好奇心を満たす機会は貪欲に追求しているわけだ。


■ロシア人レザノフと握手した大田直次郎

なんといっても興味深いのは、長崎赴任の時期(1804年)がロシアの「レザノフ来航」と重なっていることだ。

大田直次郎の基本業務は、長崎に滞在している中国商人の監督であったが、時代の変化が押し寄せてきていたのである。レザノフ(1764~1807)は、ロシア帝国の全権大使として、日本との貿易開設のミッションを帯びて来航していたのである。

(ニコライ・レザノフ Wikipediaより)

なんと、大田南畝はレザノフと握手しているのである。レザノフが差し出してきた右手を握って、ことばを交わしているらしい。役人とはいえ、やかましいプロトコルとは縁の遠い下級武士出身で、しかも好奇心の塊のような人であったから、素直に握手できたのであろう。

江戸時代のロシア通といえば漂流民であった大黒屋光太夫だが、それ以外にも直接ロシア人と接した人物として、大田南畝を数えなくてはならないわけである。

ちなみに、レザノフは漂流民たちから日本語を習っていたらしい。ロシア人使節のレザノフ(当時40歳)と握手して、基本的に通詞を介してではあるが、ことばも交わすという得がたい体験もしている。56歳の幕府の役人・大田直次郎であった。日ロ交渉にも幕府側の一員として参加していた筆まめな大田南畝は、この経緯も含めて、ありとあらゆることを記録している。
 
ただし、定信失脚後の幕府とのあいだでは日本貿易開設が実現せず、「ナジェジダ」(=希望)という船にのってきたが、希望を打ち砕かれて失意のなか長崎を離れたレザノフ。

ロシア人が蝦夷地の択捉島で乱暴狼藉をはたらいたのは、帰還後のレザノフの命令によるものであった。ショック療法で幕府に揺さぶりをかけるためである。

だがその結果、幕府の対ロ警戒心がかき立てられ、海軍士官のゴロヴニンが日本側に捕らえられる。報復としてロシア側の捕虜となった商人・高田屋嘉兵衛の活躍で、日ロ間で捕虜交換につながっていく日ロ交渉史は、また別の話として語るべきであろう。


(晩年の大田南畝 Wikipediaより)


■「没後200年」の企画展の意味

企画展に出品されている展示品は、そのほとんどが印刷物や原稿であるが、そういった現物をたどりながら見ていくと、江戸時代後期に生きた一人の日本人が生き生きと蘇ってくるのを感じる。

「没後200年」の企画展である。まだ亡くなってから、たかだか200年しか立っていないのだ。感覚的にも、そうかけ離れた存在ではない。というよりも、武張った明治時代の人間より近しく感じるものがる。

江戸時代の文芸は、漢詩漢文を抜きにして語ることはできないが、それゆえに現代の日本人には、ややバリアが高いことは否定できない。だが、そういったバリアを取り除けば、そこに現れるのは、ごく当たり前に悩み、ごく当たり前に生きた一人の日本人なのである。
 
おなじ日本人として、200年前に生きた人物について考えるのは、じつに楽しいことである。そういえば、亜欧堂田善も「没後200年」だったな。この前後に没した著名人は少なからずいる。

「200年前」について考えるには、いい機会かもしれない。



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PS1 レザノフ側の資料から大田南畝こと直次郎を見る

海軍士官のゴロヴニンや作家のゴンチャロフほど有名ではないが、レザノフも日本滞在記を残している。『日本滞在日記 1804~1805』(大島幹雄訳、岩波文庫、2000)がそれである。


なぜか原書は、ロシア(=ソ連)では1994年まで公開禁止扱いだったらしい。ソ連時代末期のペレストロイカ時代にはじめて公開されたようだが、ソ連外交あるいはロシア外交にとって不都合な事実が記載されているためだろうか。

日本語訳の「5 梅が崎上陸」の章には、1804年12月6日(文化元年11月18日)付けの日誌に以下のような文章がある。

朝、町から来たふたりの役人が岸に面した門を開けた。この門から検使たちがやって来た。奉行からの挨拶を述べ、輸送用の荷船がすでに出発したと告げた。実際、輸送は驚くべき速さで始まった。最初の日だけでひとつの倉庫が一杯になってしまった。何千人もの人夫が駆りだされたということだ。
一日中ひっきりなしに、役人たちが次々と挨拶しにやってきた。彼らにコーヒーをごちそうした。みんなコーヒーがたいへん好きだった。

訳者の大島氏は、最後の文章の「役人たちが次々と挨拶しにやってきた」に訳注をつけて、大田南畝がレザノフと面会していることと、大田南畝の息子宛の手紙を引用している。出典は『大田南畝全集第19巻』。

手紙には、船室内を興味深げに眺め回したこと、一部にかんしてはメモをとったことが記されているが、大田南畝はなぜかコーヒーを飲んだことには触れていない。ロシア語の原文がどうなっているのかわからないが、「みんなコーヒーがたいへん好きだった」とあるので、大田南畝にとっては、はじめてのコーヒー体験ではなかったのかもしれない。

12月8日付けの日誌には、「いままで見てきたところ、日本人たちはコーヒーが大好物のようだ」とある。長崎奉行所勤務の役人たちは、オランダ商館ですでにコーヒー体験を済ませていたのであろうか?

ちなみに、フランス革命が勃発したのは1789年であり、オランダはナポレオンによって1806年に占領され、オランダは消滅していた。その2年後の1808年に長崎で勃発したのが英国船フェートン号による乱暴狼藉事件であった。


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PS2 博覧強記の人・大田南畝は、おなじく博覧強記の全盲の大学者・塙保己一の友人でもあった

全盲の大学者の塙保己一が亡くなったのは1821年、大田南畝が亡くなる2年前のことである。いまから202年前のことになる。

塙保己一は、その死の2年前に畢生の大事業というべき「群書類従」を完成させている。その件については、「塙保己一史料館・温故学会」(東京・渋谷)を初めて訪問してきた(2019年7月3日)-ことし2019年は「群書類従」(全666巻)の刊行が完成してから200年! を参照されたい。

今回はじめて知ったが、博覧強記の人・大田南畝は、おなじく博覧強記の全盲の大学者・塙保己一の友人でもあった。たんなる同時代人ではないのである。

ネットで資料を探していたら、以下のようなものが見つかったので、一部引用させていただくことにしよう。

『群書類従』には、南畝の蔵書が八編も使われているように、南畝も蔵書家だった。塙保己一との関係は、群書類従の宣伝文を南畝が書くなど、親密な交流が行われていたようである。
保己一の母方斉藤家の「加美郡藤木戸村斎藤理左衛門」が奇特者ということで褒美を貰ったということは新編武蔵風土記稿にも記述されているが、この奇特者を載せた『孝義録』の編纂事業を担当したのは南畝である。
この際「此頃学問所にて撰ばせらるゝ所の『孝義録』を校正し、仮名のつかひざま詞ののべやうなど改むべき仰事ありて、あまねく校正して功なりにたればやがて開板となる。」と「温故堂塙先生伝」にあるように、塙保己一は校正を行っている。
この書状は大田南畝が文化元年(1804)に長崎奉行所へ一年間出役したときに、長崎から保己一宛に出したものである。内容は、九州の人たちに群書類従の宣伝をしたいので惣目録を長崎まで送ってほしいというものである。」

(温故学会の塙保己一の銅像 筆者撮影)


 

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・・大田南畝は塙保己一の親友であり、群書類従プロジェクトのパートナーであった




・・頼山陽は大田南畝の一世代(=30年)あとの人

・・ツンベルク、桂川甫周、大黒屋光太夫

・・帆足万里の『東潜夫論』(1844年)の記述より。その40年前の1804年には、大田南畝はすでにコーヒーを飲んでいたことになる


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2023年4月23日日曜日

「近世人」!「金星人」? ー 国立科学博物館の「近世人」の展示で考えたこと

 (「近世人」の蝋人形 筆者撮影)

 東京・上野の国立科学博物館に前回いった際(*2023年2月のこと)、気に入ったものがこれだ。「近世人」。 

いついっても「縄文人」しか興味が向かわないが(・・まあ、国立科学博物館だからね)、たまたま目についてのが、この「近世人」

「金星人」ではなく「近世人」。 日本史で「近世」といえば、いわゆる「江戸時代」のこと。

(上掲の蝋人形の説明板 筆者撮影)

この蝋人形(?)は、子どもを寺子屋に入門させるためにやってきた母親と寺子屋のお師匠さま。江戸時代後期を想定しているようだが、なんだかリアルだな。お師匠さまのモデルは誰なのだろうか? 

原寸大(life size)の「近世人の蝋人形館」があると面白いな、と。もしかしたら、すでにあるのかもしれないが・・。


■「近世」という時代区分には問題がある

だが、「近世」という時代区分には大きな問題がある。

「近世」はヨーロッパ史の「初期近代」(Early Modern)に該当するものだが、明治時代の歴史家がモデルとした西欧に当てはめたに過ぎない。徳川幕府を「後期封建制」として、その崩壊までを「近世」とする歴史観だ。

この蝋人形の「江戸時代後期」というのは、西暦で言うと「19世紀前半」であって、じつはすでに「近代」に入っていると、わたしは考えている。「近世」ではないのである。

18世紀末の松平定信による「寛政の改革」以降、日本は実質的に「近代」に入っていたのだ。西洋史でいえば、ちょうど「フランス革命」の時期と重なる

アイスランドのラキ山と浅間山の噴火による噴煙の影響で寒冷化となり、食糧危機が招いた暴動がフランスでは革命をもたらし、日本では田沼政治を終わらせ、定信が満を持して登場することになったのだ。

西洋史では、一般にフランス革命(・・より正確にいえば1776年のアメリカ独立革命が先行する)を「近代」の始まりとしている。寛政の改革が近代の始まりというのは、その意味でも西洋とパラレルな関係にある。

老中の定信による「寛政の改革」は、幕府崩壊を30年遅らせたと言われるが、それなくして明治維新はありえない。いわゆる「内発的発展」だ。

「外圧」は変革のきっかけにはなるが、それだけでは不十分である。いわゆる「啐啄」(そったく)である。親鳥はタマゴの殻をくちばしでつつき、ひな鳥はタマゴの殻のなかから出ようとする。「外圧」と「内発的発展」という、この内外二つの動きが同時になされることは必要なのだ。 

バブルの頃には、江戸時代における日本の「近代化への準備」がクローズアップされたこともあったが、日本の衰退と共にそれも消えていった。だからこそ、いまようやく「近代」を相対化できるようになったわけだ。

江戸時代後期に始まった「近代」は、第1次オイルショックの1973年前後に終わったというのが、わたしの見解だ。正確にいえば、近代の終わりが顕在化したといっていいういだろう。したがって現在は、ゆるゆると「近代が死につつある移行期」とは言えるだろう。

だからこそ、この日本で「近代」が始まった時期である19世紀前半を振り返ることの意味があるのだ。


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