先日のことだが、自宅の風呂が壊れたので、バスタブごと取り換え工事を余儀なくされた。故障した機械はバスタブごと撤去し、あたらしいバスタブを据え付ける工事だ。
玄関からバスルームまで新旧のバスタブを通す導線確保のため、廊下や部屋に積みっぱなしとなっている本を片付ける必要が発生したからである。導線確保のためメジャーで計測し、本の片付けに追われる日々を送ることになった。
バスタブの取り換え工事は今週月曜日(2024年6月3日)に無事完了し、外出しなくてもホットシャワーを浴びることができるようになった。じつにありがたい。
さて、片付けた本をどう元に戻すか考えているうちに、いっそのこと「蔵書整理」に着手したほうがいいと思うようになった。
「引っ越し」などしない限り、面倒臭いことが大嫌いなわたしが蔵書整理に踏み切るキッカケなど、なかなかないからだ。内発的な動機ではなく、外発的で偶発的な事象を利用するのである。
本という物体は、買うのはいいが、処分するのはなかなか難しい。1冊1冊の本は、値段も重量もたいしたことはない。されど、それが気がついたら大量に堆積すると・・・
というわけで、2011年3月11日の「東日本大震災」で発生した「本崩れ」以来となる、大規模な「蔵書整理」に忙殺されている。
処分したのは、ほとんどが2011年以降に購入したものだ。読んだ本もあれば、読んでない本もある。当面のあいだ残しておくべき本もあれば、思い切って処分してしまったほうがいい本もある。
これからの人生の持ち時間を考えたら、「ときめかない」というよりも、まず読まないであろう本は容赦なく処分する。なぜなら、知力と体力と気力のいずれか、あるいはそのすべてが経年劣化していくことは確実だからだ。
処分するかどうか検討していると、プロジェクトとして実ったものもあれば、資料として収集しながらも仕事としては実らなかったたものもある。「自分史」のなかの直近の14年間を振り返る作業にもなるわけだ。
まさに「本と闘う人」状態の日々である。「蔵書整理」は、アタマをつかう作業であると同時に肉体労働でもある。それは、まさに「闘い」としかいいうようがない。
すでにダンボール箱で6箱をネットオフに売却(・・現在査定中だがたいしたカネにはならんだろう)、さらに6箱以上の処分に向けて作業の真っ最中だ。
そんな作業のなか、ひさびさに出てきた『随筆 本が崩れる』(草森紳一、文春新書、2005 その後に文庫化)など読んで、大いに感じ入っているところだ。
草森氏もまた、楽しみのためではなく、本を書くために収集した本の山を築き上げていたが、本の山のなか埋もれて亡くなっていたという。それが本望だったかそうでないかは、本人のみぞ知る。関係者が崩れた本を乗り越えて発見したらしい。心筋梗塞だということだ。
いまわたしの年齢なら、まだ「肉体労働としての蔵書整理」を遂行するにあたって大きな問題はないが、これが5年後、10年後には体力的にどうなのだろうかと考えると、なんともいえない気分になってくる。
今後は、できるだけこまめに「蔵書処分」をしなくてはと思うのだが、おそらくそう思うだけで、実行できないのではいかな、いつもそう思いながら実行してこなかったからね。
現在でも英語で書かれた洋書は、かなりの部分を電子書籍で購入しているが、今後は日本語の本も、いままで以上に電子書籍の比率を高めることになろう。
とはいえ、電子書籍はあくまでも「使用権」を購入しているのに過ぎず、所有権は出版社側にあるので、販売することができないことを忘れてはならない。社会主義国中国の不動産とおなじなのだ。
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