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2010年12月3日金曜日

書評『失われた場を探して ー ロストジェネレーションの社会学』(メアリー・ブリントン、池村千秋訳、NTT出版、2008)ー ロスジェネ世代が置かれた状況を社会学的に分析




長年にわたって日本社会をフィールドワークしてきた米国人社会学者による、ロスジェネ世代男子の置かれた状況を社会学的に分析した、暖かいまなざしに満ちた日本社会論

 いわゆる「ロスジェネ世代」(=ロスト・ジェネレーション)の男子が置かれた厳しい状況を、日本社会の地殻変動に目を凝らし社会学的に分析した本である。

 ここにあるのは、ためにする議論や精神論ではなく、現状を正確に観察して正しい処方箋を書くための基本的な見取り図である。
 しかも無味乾燥な分析ではなく、長年にわたって日本社会をフィールドワークしてきた米国人社会学者による、日本社会への暖かいまなざしに満ちたものだ。

 カイシャも学校も、日本人にとって帰属すべき「場」としては、もはや希薄な存在になりつつあるようだ。
 日本社会においては、人間関係を決めるのは個人がもつさまざまな属性といった「資格」ではなく、いかなる組織や集団に帰属しているかという「場」である。

 ロスジェネ世代の男子、とくに最終学歴が普通科高校出身の男子には帰属すべき「場」は学校でもカイシャでもなく、宙ぶらりんのまま社会を浮遊しているのは、高校と企業をつないでいた「就職指導」という、強い制度的な仕組みが機能不全状態になってしまったことにある。1990年代の半ばに、日本で一年間のフィールドワークを行った著者はこの事実に気づき、ここから探求が始まった。

 本書で明らかにされた事実は、私なりにまとめると以下のようになる。

●高校から職場へと連続していた「就職指導」が強力に機能していたのは、1960~1980年代にかけての期間であり、世界的にみてだけでなく日本においても特殊な時期であったこと
サービス経済化によって、中下位レベルの普通科高校卒の男子は、特定のスキルをもたないのでアルバイトなど非正規社員しか道がなく、「ワーキングプア」になる可能性が高い。女子と違って男子は、まだこういう状況を生き抜く術を身につけていない
帰属すべき「場」が意味をもっていた日本社会はかなりの程度まで崩壊、米国流の「資格」重視の社会に変化しつつある
●このためには、仕事を見つけるにはスキルをもつことが必要であり、さらにそこで意味をもつのは人間関係の「強いつながり」だけでなく、対人関係能力を磨いて人間関係の「弱いつながり」を活用することが必要
●高校までの教育で、「将来どこに行きたいか」という「場」ではなく、「将来なにをしたいか」という「資格」に重点を置いた職業前教育が必要

 日本社会は、1990年代にわれわれの足元で、知らないあいだに大きく地殻変動していたのだ。

 この事実を直視しなくては、ロスジェネの若者たちの置かれている状況を理解できないだけでなく、格差を未来永劫に固定化させてしまうことになる。これは個人の問題ではなく、日本社会全体の地殻変動に起因する問題であり、日本社会に与える影響も無視できるものいではないのだ、と。

 本書を読んでいて、1960年代に確立した「就職指導」システム確立以前はどうだったのかなど、本書では直接扱われていない論点についてもっと知りたいと思った。また、工業高校における技能訓練が、現在でも就職先の確保をもたらしているという著者の分析結果からは、ドイツ型の職業教育という解決方法もあるような気もする。米国型の世の中になりつつあるとはいっても、解決策が米国流でなければならないことはない。

 本書は翻訳書の体裁はとっているが、日本語に堪能な著者が作成にかかわっているので、実質的には日本人向けに書き下ろされた日本語の本である。社会学の研究書スタイルではあるが、読みやすく理解しやすい内容になっている。

 「ロスジェネ」について論じる際の必読書として、また日本社会論としてもすぐれた作品なので、ぜひ一読することを薦めたい。



<初出情報>

■bk1書評「長年にわたって日本社会をフィールドワークしてきた米国人社会学者による、ロスジェネ世代男子の置かれた状況を社会学的に分析した、暖かいまなざしに満ちた日本社会論」投稿掲載(2010年11月16日)
■amazon書評「米国人社会学者による、ロスジェネ男子の置かれた状況を社会学的に分析した日本社会論」投稿掲載(2010年11月16日)





目 次

第1章 ロストジェネレーションの誕生-「場」が消えて、格差が生まれた
第2章 若者を仕事の世界に送り込むメカニズム
第3章 「場」が重要な社会、「場」が崩壊した世代
第4章 高校と企業の「実績関係」に起きた変化
第5章 ニート・フリーターはどこから生まれる?
第6章 モバイル型ワーカーの生きる道
第7章 ロストジェネレーションとポスト・ロストジェネレーションの可能性


著者プロフィール

メアリー・ブリントン(Mary C. Brinton)

ハーバード大学ライシャワー日本研究所教授。専攻は社会学。シカゴ大学、コーネル大学を経て、2003年より現職。主な研究テーマは、ジェンダーの不平等、労働市場、教育、日本社会など。日本研究歴は30年以上。1990年代に日本に長期間滞在し、神奈川県の高校、職業安定所などで丹念な聞き取り調査を行い、日本の経済状況の変化が若者の雇用環境にもたらした影響を研究(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。



<書評への付記>

 本書は翻訳書の体裁はとっているが、日本語に堪能な著者が作成にかかわっているので、実質的には日本人向けに書き下ろされた日本語の本であり、英語版は出版されていない。

 英語タイトルが Lost in Transition : Youth, Education, and Work in Postindustrial Japan となっているが、これは英語人ならすぐにピンとくる表現だろう。巨匠フランシス・コッポラ監督の娘で、同じく映画監督のソフィア・コッポラの、東京(Tokyo)を舞台に、米国人男女を主人公にした映画 Lost in Translation(ロスト・イン・トラスレーション)のもじりであることは明らか。
 米国と日本、男と女のあいだの異文化コミュニケーションをテーマにした映画である。Lost in Translation のトレーラー参照。

 Lost in Translation の Translation を Transition(トランジション:移行)に置き換えたもじり。「移行する」日本社会といったところか。こういうダジャレというか、遊び心も面白い。

 監修者に労働経済学者・玄田有史の名前があがっているが、これだけで本書の価値が下がるわけではないので、食わず嫌いはやめておいたほうがよい。
 私は、玄田氏の提唱する「希望学」などまったくのナンセンスだと思っているが、このことは、このブログでは、自分のアタマで考え抜いて、自分のコトバで語るということ-『エリック・ホッファー自伝-構想された真実-』(中本義彦訳、作品社、2002)で触れておいた。

 混迷する時代、裏切られがちな「希望」にすがるよりも、「勇気」をもって運命を切り開いていくことのほうが、はるかに大事なことを主張した沖仲仕の哲学者ホッファーのアフォリズム(格言)には耳を傾ける価値が大きい。


補足説明:日本社会における「場」のもつ重要性についての社会人類学者・中根千枝の説明

 本書の分析のキー概念の一つは「場」であるが、これは基本的に社会人類学者・中根千枝の『タテ社会の人間関係-単一社会の理論-』(講談社現代新書、1967)に拠っている。いい機会なので、「場」について簡単に説明しておこう。
 
 「場」とその対概念である「資格」の意味については、『タテ社会の人間関係』の「2.「場」による集団の特性」で説明されている。

 一定の個人からなる社会集団の構成の要因を、きわめて抽象的にとらえると、二つの異なる原理-資格と場-が設定できる。すなわち、集団構成の第一条件が、それを構成する個人の「資格」の共通性にあるものと、「場」の共通性によるものである。
 ここで資格とよぶものは、普通使われている意味より、ずっと広く、社会的個人の一定の属性をあらわすものである。
 ・・(中略)・・
 これに対して、「場による」というのは、一定の地域とか、所属機関などのように、資格の相違をとわず、一定の枠によって、一定の個人が集団を構成している場合をさす。たとえば、××村の成員というように。産業界を例にとれば、旋盤工というのは資格であり、P会社の社員というのは場による設定である。(P.26~27)
 *太字ゴチックは引用者(=私)による 

 英語版 Japanese Society(1970)では、attribute と frame というテクニカルタームを使用している。それぞれ、属性と枠(ワク)に該当する。ba と表記しているのは最初だけだが、この抽象化作業によって、日本以外の社会との比較が可能になる。

 どの社会においても、個人は資格と場による社会集団、あるいは社会層に属している。この両者がまったく一致して一つの社会集団を構成する場合はなきにしもあらずであるが、たいてい両者は交錯して各々二つの異なる集団を構成している。そこで興味あることは、筆者によれば、社会によって資格と場のいずれかの機能を優先したり、両者が互いに匹敵する機能をもっている場合があることである。
 この機能のあり方は、その社会の人々の社会的認識における価値観に密接な相関関係をもっている。そしてそこにその社会の構造を端的に考察することができる。この点において最も極端な対照を示しているのは、日本とインドの社会であろう。
 すなわち、日本人の集団意識は非常に場におかれており、インドでは反対に資格(最も象徴的にあらわれているのはカースト-基本的に職業・身分による社会集団-である)におかれている。インドの社会については本論で述べる余地がないが、社会人類学の構造分析のフィールドとして、日本とインドほど理論的アンチテーゼを示す社会の例は、ちょっと世界中にないように思われる。この意味では中国やヨーロッパの諸社会などは、これほど極端なものではなく、その中間(どちらかといえば、インドよりの)に位するように思われる。(P.27~28) 
 *太字ゴチックは引用者(=私)による

 日本の特性をよりコントラストをもって浮かび上がらせるのはインド社会である、という指摘は実に興味深い。

 日本社会の場合、△△大学を卒業し、○○会社に勤務しという、この△△や○○にあてはまる固有名詞が「場」なのである。日本人のアイデンティが帰属する「場」によって規定されていることは、歴史学者・阿部謹也のいう「世間」の議論とも重なる面がある。

 帰属する「場」を超えたヨコの関係をつくりにくいのが日本社会の特性であり、これは『失われた場を探して』で描かれている、普通高校卒男子の姿にも顕著に現れているといえそうだ。
 なんらかの「場」に帰属しないと、限りなく「孤独」地獄に落ちて生きやすいのが日本社会である。
 しかし果たしてそう簡単に来属すべき「場」が見つかるのだろうか、いや難しいのではないかというのが『失われた場を探して』の著者の見解である。

 特定の「場」に帰属しない関係、すなわち複数の「場」に横断的にかかわる存在も、日本では必然的に「孤独」を友とえざるをえない。たとえば、白洲次郎などの突出した、非日本的日本人がそれにあてはまるだろう。日本の大学を卒業せず、日本の会社には経営者としてしか働いたことはなく、財界とも政治家とも距離を置いていた人生だ。
 
 フツーの日本人にとっては、どこかの「場」に帰属していないことは、社会的に存在しないも同然とみなされるのである。この「孤独」に耐えられる者は少数派である。
 
 ただし、「場」に帰属することによって得る「安心」と、個人と個人、あるいは個人と集団とのあいだいに成立する「信頼」が、本質的に異なるものであることにも注意する必要がある。これは、 『失われた場を探して』に推薦のコトバを寄せている社会学者・山岸俊男が詳細に分析しており、『信頼の構造-こころと社会の進化ゲーム-』(山岸俊男、東京大学出版会、1998)を参照されたい。

 なお、「場」については、西田幾多郎的の哲学的アプローチを応用発展させた経営学者・野中郁次郎の「知識経営」にかんする一連の仕事もあるが、ここでは触れないでおく。野中郁次郎のものは、あくまでも組織内での知識創造にかんする分析である。

 『タテ社会の人間関係』は、日本社会はもちろん、日本企業の組織論について考える者にとってだけでなく、国際際ビジネスの観点からも、日本人と中国人の根本的な違い日本人とインド人の根本的な違いを考えるうえでも、あらためて再読する価値の十二分にある古典である。
 フィールドワークの結果によるものであり、つまらない異文化論の本よりはるかに面白い。『社会人類学ーアジア諸社会の考察-』(中根千枝、講談社学術文庫、2002)とあわせて読むべきだ。

 『タテ社会の人間関係』は、出版からすでに43年たっっているが、まったく内容は古びていないといってよい。社会の基本的構造というものは、そんな簡単に変化しないようだ。分析の枠組み(フレームワーク)の確かさを示している。

 まだ未読であれば、この機会にぜひ手にとってほしい。必ずや得るところ大であることを保証する。
 





<ブログ内関連記事>

書評 『リスクに背を向ける日本人』(山岸俊男 + メアリー・ブリントン、講談社現代新書、2010)-社会学の視点から見た日米比較論
・・『失われた場を探して-ロストジェネレーションの社会学-』の著者メアリー・ブリントンと、その友人で日本人社会学者の共著

自分のアタマで考え抜いて、自分のコトバで語るということ-『エリック・ホッファー自伝-構想された真実-』(中本義彦訳、作品社、2002)
・・重要なのは「勇気」。とかく裏切られやすい「希望」などいっさいもたないこと。

書評 『「空気」と「世間」』(鴻上尚史、講談社現代新書、2009)
・・「場」の議論とも重なる面の多い「世間」について

書評 『蟻族-高学歴ワーキングプアたちの群れ-』(廉 思=編、関根 謙=監訳、 勉誠出版、2010)
・・「大学はでたけれど・・」、中国のケース。たくましく生き抜く「ワーキングプア」たち

書評 『キャリア教育のウソ』(児美川孝一郎、ちくまプリマー新書、2013)-キャリアは自分のアタマで考えて自分でデザインしていくもの

書評 『仕事漂流-就職氷河期世代の「働き方」-』(稲泉 連、文春文庫、2013 初版単行本 2010)-「キャリア構築は自分で行うという価値観」への転換期の若者たちを描いた中身の濃いノンフィクション

働くということは人生にとってどういう意味を もつのか?-『働きマン』 ①~④(安野モヨコ、講談社、2004~2007)

『重版出来!①』(松田奈緒子、小学館、2013)は、面白くて読めば元気になるマンガだ!

書評 『キャリアポルノは人生の無駄だ』(谷本真由美(@May_Roma)、朝日新書、2013)-ドラッグとしての「自己啓発書」への依存症から脱するために

月刊誌「クーリエ・ジャポン COURRiER Japon」 (講談社)2010年5・6月合併号「ビジネスが激変する「労働の新世紀」 働き方が、変わる。」(SPECIAL FEATURE)を読む

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「ワークライフバランス」について正確に理解すべきこと。ワークはライフの対立概念ではない!?

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「就活生」はもっと中小企業に目を向けるべき-「就活生」と中小企業とのあいだに存在するパーセプション・ギャップを解消せよ!

書評 『日本でいちばん大切にしたい会社』、『日本でいちばん大切にしたい会社2』(坂本光司、あさ出版、2008、2010)

(2014年8月14日、2015年10月25日 情報追加)


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