『スッタニパータ』とは仏陀釈尊(ブッダ)の言行録です。日本では、『ブッダのことば-スッタニパータ』(中村元訳、岩波文庫、1984)として簡単に入手することができます。
仏典を原語から簡明な日本語に翻訳していただいた故中村元博士の解説によれば、『スッパニパータ』は、日本に伝来した大乗仏教経典のなかにはない。だから、仏教を原典研究するようになった明治時代までは日本人にはまったく知られていなかった経典なのです。
シッダールタ王子として生まれたブッダがしゃべっていたのはマガダ語ですが、その言行録はマガダ語からパーリ語に翻訳されて、現在でも上座仏教圏ではポピュラーな経典となっているわけなのです。
『スッタニパータ』は、いきなり「第一 蛇の章」から始まります。すべての文末が、「蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである」で終わる章句が17並んでいるのです。
なぜ蛇なのでしょうか?
中村元博士は、『ブッダのことば(スッタニパータ)』の註で以下のように述べておられます。
蛇・・-この聖典の最初に蛇のことばかり出てくるので、日本人は異様な感じを受けるであろう。しかしインドないし南アジアでは、どこへいっても蛇が多い。従ってインド人にはむしろ親しく感ぜられるのである。こういう風土的背景があるために、仏像やヒンドゥー教の神像には、光背が五頭とか七頭とかの蛇になっている場合が少なくない。蛇が霊力を以って神々を、また人々を護ってくれるのである。仏伝にも竜(つまり蛇)がしばしば登場する。だから、いきなり「蛇の章」から始まるわけですね。タイ王国などの上座仏教圏ではこの写真のような、とぐろを巻く七頭の蛇に守護された仏陀釈尊像はきわめてポピュラーな存在です。
蛇が脱皮して旧い皮を・・-この表現はウパニシャッド及び叙事詩に用いられている。
(タイ王国のバンコクにて 筆者撮影)
では、「蛇の章」の冒頭に収録された章句を具体的に見ておきましょう。
1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘:びく)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
3 奔り流れる妄執の水流を涸らし尽して余すことのない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
4 激流が弱々しい葦の橋を壊すように、すっかり驕慢を減し尽くした修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
5 無花果(いちじく)の樹の林の中に花を探し求めて得られないように、諸々の生存状態のうちに堅固なものを見いださない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
6 内に怒ることなく、世の栄枯盛衰を超越した修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
7 想念を焼き尽くして余すことなく、心の内がよく整えられた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
8 走っても疾(はや)過ぎることなく、また遅れることもなく、すべてこの妄想をのり越えた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
9 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「世間における一切のものは虚妄である」と知っている修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
10 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って貪りを離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
11 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って愛欲を離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
12 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って憎悪を離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
13 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って迷妄を離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
14 悪い習性がいささかも存することなく、悪の根を抜き取った修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
15 この世に還り来る縁となる<煩悩から生ずるもの>をいささかももたない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
16 ひとを生存に縛りつける原因となる<妄執から生ずるもの>をいささかももたない修行者はこの世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
17 五つの蓋いを捨て、悩みなく、疑惑を越え、苦悩の矢を抜き去られた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
個々の章句についての解説は控えますが、中村博士の「註」からもう一つだけ引用しておきます。
蓮華・・蛇が南アジアでよく見かける動物であるのに対して、インドの代表的な花は「蓮華」である。そこで蓮華の例をもち出したのである。
蓮の花は日本でも仏教のシンボルの一つとして定着していますが、「蛇と蓮」を対(つい)としてとらえるのが初期仏教あるいは上座仏教において重要だということはアタマに入れておきたいものです。
なお、『スッタニパータ』の構成は以下のようになっています。
第一 蛇の章
第二 小なる章
第三 大いなる章
第四 八つの詩句の章
第五 彼岸に至る道の章
シッダールタ王子が出家して修行中、瞑想にふけるなか、嵐による暴風雨からブッダを守ってくれたのは大きなコブラ蛇でした。蛇は仏教にとっての守り神なのです。
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