是々非々という四文字熟語がある。「ぜぜひひ」と読む。「ひひ」という音を耳で聞くと、なんとなく「まんとひひ」の「ひひ」を想起してしまうが、なんともいえず不思議なコトバである。
是々非々は、是は是、非は非という意味だ。いいかえればイエスはイエス、ノーはノーということになる。「ぜぜひひ」の真ん中をとると「是非」となるが、これは Yes and/or No という意味であるし、また副詞の「ぜひ」でもある。
「是々非々というのは正しい大人の態度ではない。選挙であれば政策単位で投票するのではなく、一人の候補者に投票するのだから「是々非々」なんてありえないのだ」、と主張する人もいる。
「一人の候補者に投票する」というのはただしい。だが、「政策単位で投票」行動を考えるべきである。属人的な意思決定ではなく、あくまでも「期待される成果」を選択基準とするべきではないか?
もちろん、程度問題といってしまえばそのとおりなのだが。
■「シングルイシュー」 vs 「全人格的帰依」
見解の対立は、「シングルイシュー」 vs「 全人格的帰依」と言い換えることも可能だろう。
前者の「シングルイシュー」とは、さしずめ今回の都知事選(・・投票日2014年2月9日)でいえば「脱原発」というイシューがそれに該当するだろう。単一の問題のことである。
後者の「全人格的帰依」とは、この人が言っているからすべて正しいという思考停止状態のことをいう。「全人格的帰依」というのは宗教への没入を示唆する表現なので強すぎるかもしれないが。
「シングルイシュー」は、日本では郵政解散がそのさきがけとなったが、今回の都知事選には、その同じ小泉純一郎氏が応援している。
その郵政解散の際の投票行動が、郵政解散という「シングルイシュー」に共鳴してのものであったか、それとも小泉純一郎というカリスマ的な政治家への、限りなく「全人格的帰依」に近い没入的一体感だったのかは、そう簡単には区分できない。
だが、郵政解散が「シングルイシュー」であったことは確かなことだ。そしてその「シングルイシュー」をめぐる信認投票であったことは確かである。
アメリカではすでにかなり以前から、ベトナム反戦や中絶反対などの「シングルイシュー」(single most important issue)をテーマに投票行動を行うことが常態化している。二大政党制の根幹がゆるぎ、政党ではなく、単一の政策を支持するかどうかで投票行動を行うことがあたりまえになっている。極端な話、政策の内容ごとに支持者を変えるとい投票行動と態度のことだ
だからこそ、既存政党に軸足を置く人間は、シングルイシューで投票行動を行う有権者の存在に対して、不快感とともに底知れぬ恐怖感を抱いているのだろう。
■世の中が複雑化すると思考停止状態になりやすい
世の中が複雑化すればするほど、思考停止状態がおきやすい。あまりにも多岐にわたる事項について考えなければならないからだ。
自分なりの見解をもって発言しようと思えば、そうとうの時間と労力をついやして自分で情報を収集し、情報の真贋を見極め、自分でイシューごとに是非を判断しなければならない。考えただけでもウンザリすことだ。そう思う人は少なくないはずだ。
そこで利用されるのが「キュレーション」というものだ。一言でいえば、ある特定の分野にかんしては、その分野の専門家とされる人を自分の趣味や考え方で選んで、その人の言うことを判断の際に参照することをさした表現のことである。
「キュレーション」は「キュレーター」が行う仕事のことだが、キュレーターとはもともと美術館や博物館の学芸員のことを指している。キュレーターの見せ方次第で同じ美術品でも異なる印象を与えることがあるように、情報にかんしても特定のキュレーターの見せ方によって印象がかわってくる。
日常生活でも、「この件についてはあの人が言うことだから信用できる」という形で多用しているだろうし、「あの有名人がつかっている商品だから肌につけても安心できる」というような形で消費行動も行っているだろう。
ある意味では、「シングルイシュー」にかんして参照すべき人を区分けしているといっていいかもしれない。属人的な判断を行っているように見えるが、そのキュレーターの判断に誤りがあったことがわかれば、さっさと支持することをやめてしまうこともある。その意味では成果を評価もしているわけだ。だからこれは健全な判断にもとづく選択行動だといっていい。
政治的選択行動もまた、消費行動と考えることができる。投票によって政策を購入しているわけだ。等価交換かどうかはわからないが、「義務」として課されている「納税」と引き換えに権利を行使するわけである。
たとえば、わたし自身についていえば、国防問題にかんしては憲法改正派である。だが、自由民権派であり民権を国権の上に置く立場から、憲法96条改正でなし崩し的に憲法改正を実行しようという姿勢には反対だ。バランスにもとづいた「正常化」は必要だと考えるが、行き過ぎた「右巻き」には懸念を抱く。
つまりは「是々非々」ということだ。
■「全人格的帰依」という危険
悩ましいのは、人間は「一人単位」でしか存在できないという点だ。
作家の平野敬一郎氏が主張するように「人格」はたとえ分割可能で、かかわる人ごとに人格を分割して対応することが可能だとしても、異なる政策をあわせもつの生身の一人の人間を選ばなければならないという不条理。
結局は、総合的に判断して誰か一人を選択するしかない。それが選挙というものである。
だが、ある特定の一人の人間に、すべての件について判断を仰ぐようになったらどうなることだろう? それが「全人格的帰依」とわたしが表現したものだ。
「全人格的帰依」は回避せよ! なぜこういうことを言うかというと、1995年のオウム事件のことを想起するからだ。
長年にわたって逃走をつづけていたオウム信者が逮捕され、いままさに裁判が行われている最中だが、かれらは騙されたのではない。あくまでも自らの意思で(!)教団に入り、麻原彰晃というグル(指導者)に「全人格的な帰依」を行ったのである。自発的に服従したのである。そしてその結果がサリン事件というテロ行為でハルマゲドンをもたらすことになる。
これは「全人格的帰依」がもたらした最悪のケースかもしれないが、似たようなケースはそこらへんにごろごろしていると言うべきだろう。それは会社組織でもそれ以外の社会集団でも同じことだ。
ドイツのヒトラー総統への忠誠もまた「全人格的帰依」といっていいだろう。このケースは当時のドイツ人が民主主義という制度のもと、投票行為をつうじて選択した結果である。「空気」に促されたとはいえ、けっして意志に反して余儀なくされたもlのではない。
だが、時間の経過とともに、その時の判断と選択が間違いだったと気がつくこともある。すべての政策に賛成するわけではないが、特定の政策には賛成しかねるということもある。あるいはその逆に、ある特定の政策以外はすべて反対に変わることもある。
それは、「全人格的帰依」の状態とは真逆の状態である。「是々非々」の状態である。
いったん自分が下した意思決定をくつがえすのは容易ではない。精神的葛藤を感じながらも、自分を否定することにもつながりかねないので見解を変えることは回避しようとする。心理学では「認知的不協和」と「合理的機制」というが、物理学用語をつかえば「慣性の法則」がはたらくのである。
だが、間違った選択をしてしまった気づいたときには見解を変える勇気が必要だ。「是々非々」という態度をとる勇気が必要である。自分がフォローしてきたリーダーが、グル(=尊師)やフューラー(=総統)のたぐいだとわかったとき、そこから脱する勇気をもたなくてはならない。逃げることもときには必要だ。
わたしは、いまこの国がきわめておかしな方向に暴走し始めていることに危惧の念を抱いている。
大事なことはバランスだ。行き過ぎた「右巻き」は、「過ぎたるは及ばざるがごとし」である。それは「正常化」の域をすでに逸脱しており、どう割り引いても不偏不党とはほど遠い。
複雑化して不安定化している世の中であるが、「全人格的帰依」ではなく、「是々非々」という態度をとる勇気が必要なのだ。
「是々非々」(ぜぜひひ)という態度は是(ぜ)か非(ひ)か?
答えは言うまでもない。
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・・なぜオウム的な「全人格的帰依」が発生するのか
映画 『ハンナ・アーレント』(ドイツ他、2012年)を見て考えたこと-ひさびさに岩波ホールで映画を見た
・・「権威への自発的服従」にかんするアイヒマン実験についても書いておいた」
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・・国防方針には賛成でも、憲法96条改正反対、これもまた全人格的な帰依ではなく是々非々
自分なりの見解をもって発言しようと思えば、そうとうの時間と労力をついやして自分で情報を収集し、情報の真贋を見極め、自分でイシューごとに是非を判断しなければならない。考えただけでもウンザリすことだ。そう思う人は少なくないはずだ。
そこで利用されるのが「キュレーション」というものだ。一言でいえば、ある特定の分野にかんしては、その分野の専門家とされる人を自分の趣味や考え方で選んで、その人の言うことを判断の際に参照することをさした表現のことである。
「キュレーション」は「キュレーター」が行う仕事のことだが、キュレーターとはもともと美術館や博物館の学芸員のことを指している。キュレーターの見せ方次第で同じ美術品でも異なる印象を与えることがあるように、情報にかんしても特定のキュレーターの見せ方によって印象がかわってくる。
日常生活でも、「この件についてはあの人が言うことだから信用できる」という形で多用しているだろうし、「あの有名人がつかっている商品だから肌につけても安心できる」というような形で消費行動も行っているだろう。
ある意味では、「シングルイシュー」にかんして参照すべき人を区分けしているといっていいかもしれない。属人的な判断を行っているように見えるが、そのキュレーターの判断に誤りがあったことがわかれば、さっさと支持することをやめてしまうこともある。その意味では成果を評価もしているわけだ。だからこれは健全な判断にもとづく選択行動だといっていい。
政治的選択行動もまた、消費行動と考えることができる。投票によって政策を購入しているわけだ。等価交換かどうかはわからないが、「義務」として課されている「納税」と引き換えに権利を行使するわけである。
たとえば、わたし自身についていえば、国防問題にかんしては憲法改正派である。だが、自由民権派であり民権を国権の上に置く立場から、憲法96条改正でなし崩し的に憲法改正を実行しようという姿勢には反対だ。バランスにもとづいた「正常化」は必要だと考えるが、行き過ぎた「右巻き」には懸念を抱く。
つまりは「是々非々」ということだ。
■「全人格的帰依」という危険
悩ましいのは、人間は「一人単位」でしか存在できないという点だ。
作家の平野敬一郎氏が主張するように「人格」はたとえ分割可能で、かかわる人ごとに人格を分割して対応することが可能だとしても、異なる政策をあわせもつの生身の一人の人間を選ばなければならないという不条理。
結局は、総合的に判断して誰か一人を選択するしかない。それが選挙というものである。
だが、ある特定の一人の人間に、すべての件について判断を仰ぐようになったらどうなることだろう? それが「全人格的帰依」とわたしが表現したものだ。
「全人格的帰依」は回避せよ! なぜこういうことを言うかというと、1995年のオウム事件のことを想起するからだ。
長年にわたって逃走をつづけていたオウム信者が逮捕され、いままさに裁判が行われている最中だが、かれらは騙されたのではない。あくまでも自らの意思で(!)教団に入り、麻原彰晃というグル(指導者)に「全人格的な帰依」を行ったのである。自発的に服従したのである。そしてその結果がサリン事件というテロ行為でハルマゲドンをもたらすことになる。
これは「全人格的帰依」がもたらした最悪のケースかもしれないが、似たようなケースはそこらへんにごろごろしていると言うべきだろう。それは会社組織でもそれ以外の社会集団でも同じことだ。
ドイツのヒトラー総統への忠誠もまた「全人格的帰依」といっていいだろう。このケースは当時のドイツ人が民主主義という制度のもと、投票行為をつうじて選択した結果である。「空気」に促されたとはいえ、けっして意志に反して余儀なくされたもlのではない。
だが、時間の経過とともに、その時の判断と選択が間違いだったと気がつくこともある。すべての政策に賛成するわけではないが、特定の政策には賛成しかねるということもある。あるいはその逆に、ある特定の政策以外はすべて反対に変わることもある。
それは、「全人格的帰依」の状態とは真逆の状態である。「是々非々」の状態である。
いったん自分が下した意思決定をくつがえすのは容易ではない。精神的葛藤を感じながらも、自分を否定することにもつながりかねないので見解を変えることは回避しようとする。心理学では「認知的不協和」と「合理的機制」というが、物理学用語をつかえば「慣性の法則」がはたらくのである。
だが、間違った選択をしてしまった気づいたときには見解を変える勇気が必要だ。「是々非々」という態度をとる勇気が必要である。自分がフォローしてきたリーダーが、グル(=尊師)やフューラー(=総統)のたぐいだとわかったとき、そこから脱する勇気をもたなくてはならない。逃げることもときには必要だ。
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