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2014年2月14日金曜日

書評『新・学問のすすめ ー 人と人間の学びかた』(阿部謹也・日高敏隆、青土社、2014)ー 自分自身の問題関心から出発した「学び」は「文理融合」になる


まったくの新刊ではなく復刊です。いまから10年前に、『「まなびや」の行方(MOKU選書)』(阿部謹也・日高敏隆、黙出版、2004)として出版された旧版の改題・新装版

小出版社からの出版ゆえ、残念ながらあまり知られることのなかった良書が、こういう形で再刊されることはまことにもって喜ばしいことです。文庫化でもよかったのですが、青土社のようなメジャーな出版社からソフトカバーの単行本もまたよし、といったところでしょう。

阿部謹也(1935~2006)は、西洋中世史を専門とした歴史家。『ハーメルンの笛吹き男』などヨーロッパの民衆史を中心とした知られざる世界を日本語で語ってくれた人。後年は日本人を支配する見えない存在の「世間」について積極的に発言をつづけていました。

日高敏隆(1930~2009)は、動物行動学を専門とした生物学者。身近な生き物の世界を魅力たっぷりに語ってくれた人。残念ながらお二人とも鬼籍に入られてひさしい。

ともに専門家向けの狭い世界ではなく、一般社会にむけて平易なコトバで研究成果を語るという姿勢を共有していた人たちでありました。

この対談は、ともに学長という激務についていたことで直接知り合い、実現したものです。歴史家と生物学者という異分野の専門家が「対談」という形で共著をつくった背景は、日高氏からのラブコールであったことが「まえがき」に書かれています。


ここまで阿部謹也と敬称抜きで書いてきましたが、自分の大学学部時代の恩師なのでさすがに抵抗があります。以下、阿部謹也先生と書かせていただきたいと思います。

日高敏隆氏は、阿部謹也先生を「送る会」で弔辞を読まれた一人です。日高氏を見たのはその時だけでしたが、なんだかすごく憔悴しておられるような印象を受けました。その後数年を経てお亡くなりになりました。

ご関心のある方は、『阿部謹也 最初の授業・最後の授業 附・追悼の記録』(阿部謹也追悼集刊行の会、日本ネディタースクール出版部、2008)に収録されているのでご覧になるといいでしょう。弔辞そのものではありませんが、「「学問」とは何かを教わる」と題した日高氏の文章(日本経済新聞 2006年9月13日)が転載されています。

さて、『新・学問のすすめ』そのものについて見ておきましょう。面白い箇所はいくつもありますが、そのなかからいくつか抜き書きしておこうと思います。

阿部 いま、中国国内のカトリック教会とローマのカトリック総本山の間で、その叙任権闘争が起こりかけているんで、ぼくは興味深く眺めているんですけどね。叙任権闘争が中国で起こるかもしれない。つまり、中国政府は「大司教・司教の任命権は我にあり」と主張して、勝手に任命してしまったというわけです。ローマすなわちヴァチカン教皇庁はものすごく怒っている。これは、1200年頃にヨーロッパで起こったことと同じなんです。(第1章より)

名著 『自分のなかに歴史を読む』の読者ならご存知だと思いますが、さすが中学時代の一時期を修道院で過ごし、のちに中世史家になった人ならではの着眼点です。叙任権闘争とは、いわゆる「カノッサの屈辱」のことですね。中世史という学問がアクチュアルな問題を見る視点を提供してくれるという好例でしょう。

本には直接言及されていないのでついでに書いておきますが、中国におけるチベット仏教も同様の状況にあるといっていいでしょう。チベット仏教においては精神的指導者のダライラマは活仏とされ、その死後の後継者は輪廻転生によって生まれ変わったとされる子どもが選ばれるのですが、ダライラマにつぐナンバー2のポジションにある活仏のパンチェンラマの後継者については、中国共産党はホンモノを拉致して軟禁状態におき、ニセモノを擁立しているのです。任命権をチベット人から奪っているのです。

つぎの引用は、いわゆる「世間論」にかんするものです。

阿部 自己というものをあまり自覚しないような層は、そんなに苦しまなかったのではないかと思いますよ。内面がはっきりと自覚されるようになったときに、初めて自分というものが出てくるので、そうでないときは集団に埋没しているのですね。日本人は全体的にそうではないかと思います。いまでも集団の一員としての意識が強い。ただ、明治から百年以上たちましたから、エゴはもうできている・・・・(第3章)

「世間」というコトバが古臭いとしてあまりつかわれなくなったので、「空気」ばかりが話題になる現代日本ですが、「世間論」で提起された問題が消え去ったとはわたしは思いません。「隠れた神」は怖ろしいというフレーズがありますが、コトバじたいが語られなくなったことによって、そうでなくても見えない存在の「世間」はさらに日本人を縛り続けているのではないか、と思いますがいかがでしょうか。

最後に、「学び」について重要な指摘を紹介しておきます。

阿部 確かに、大学入試にも問題がありますが、ただ、教科書については、少なくとも一般書として売れるようなものでなければ、本当はいけないと思いますね。つまり、教科書というのはパターンが決まっていて、歴史でいえば古代から始まっているんですよ。ぼくは、現代からさかのぼっていくような、そういう歴史を書くべきだといっているのですが。
日高 「いま現在、こうである」ということから始まって、なんでそうなっているのかというふうにしていけば、みんな興味をもちますよ。(第3章)

「いま、ここ」にあるものに対する関心から出発するのは、『自分のなかに歴史を読む』という名著を中学生にもわかるように書いた阿部謹也という歴史家と、生物学者ユクスキュルの議論を援用しながら身近な「動物の文化」を語りつづけた日高敏隆という生物学者に共通するスタンスといっていいでしょう。英語だと Here Now と発想の順番は逆になりますが、「いま、ここ」と同じ発想です。哲学的にいえば時間論と空間論になります。

拙著 『自分を変えるアタマの引き出しの増やし方』第1章は「引き出し」の増やし方1-「「好奇心」を最優先し「五感」をつかって「体験」する」、第2章は「「引き出し」の増やし方2-徹底的に「観察」する」というタイトルにしましたが、基本的に阿部先生と日高氏の方法論がベースにあるのです。日高氏の方法論について書かなかったのは、拙著の読者対象を若手ビジネスパーソンとしたためです。

『新・学問のすすめ』という「対談」は、もっぱら年長の日高氏が阿部先生に教えを請うという印象を受けますが、生物の世界に独自の「文化」や「歴史」を読み取ろうとしていた生物学者としての日高氏の知的好奇心のなせるわざだと受け取るべきでしょう。「文理融合」の一つの理想形がここにあります。

「学び」は、学校での勉強に限定されるものではありません。子どものように「なぜ?なぜ?」といった素朴な疑問を出発点にして、掘り下げていくものなのです。自分自身の問題関心を出発点にすべきものなのです。

深く掘ると同時に、幅も広げていく。これこそがほんとうの「教養」というべきものでしょう。自分自身の生き方と関係ない「知識」は、たんなる「知識」に過ぎません。

自分自身の問題関心から出発した「学び」こそ大事なのです。「自分とはなにか」を考えることからすべては始まるのです。




目 次

まえがき 日高敏隆

第1章 「まなびや」の在るべき姿を求めて
  教会の「藁敷き」が教室だった
 自然科学は「森の開墾」から始まった
 教会の補強機関から「国家エリート養成機関」へ
 「趣味の学問」から脱して「国民を意識した学問」へ
 学問が「政治のしもべ」のままでいいのか
 大学の余剰を「生涯教育」に開放せよ
 「科学的根拠」という誤解
 『万葉集』と天体物理学の融合
 「わかる」こととは「自分が変わる」ことである
 評価する立場で変わる「客観性」の無意味さ
 日本には「集団の中にいる個人」しかない
 「民主主義とはなにか」を議論しない風土
 「地域が必要とする大学」でなければ存続できない
 学問の根本は「人間の研究」にある
 「学生の将来」を教師が共に考えるゼミ

第2章 「自分とはなにか」から始まる学問-歴史学(阿部謹也)
 修道院で芽生えた「ヨーロッパへの憧れ」
 「自分」を知ることは「全世界史」を知ること
 教科書をおもしろくする工夫
 「建て前」に終始してきた日本社会
 日本的「世間」の中の「個人」
 自分にとっての本当の「幸せ」とはなにか

第3章 「学び」の原点はどこにあるのか
 ウグイスは「カー」と鳴けるか
 学習が子どもの発想を阻害している!?
 「自分の目で見る」ことの難しさ
 遺伝子では人間はわからない
 「死後」の話は現世の問題のあらわれ
 「齟齬は消滅するだけ」の考えは個人の確立が前提
 日本で「個」が確立するということ
 「もって生まれた個性」という嘘
 「母親のエゴ」に振り回される子ども
 教科書はおもしろくできるのか

第4章 「数式にならない」からおもしろい-生物学(日高敏隆)
 「学問」は役に立つか?
 「生物」と「無生物」の違い
  「カラスはなぜ攻撃したのか」
 数式にならない学問こそ大切
 遺伝子たちのプログラムを信用せよ
 今後の学問はどこへ向かうのか

あとがき 阿部謹也
新版解説: 亀山郁夫 (東京外国語大学学長)

著者プロフィール 

阿部謹也(あべ・きんや)
1935~2006。専攻はドイツ中世史。1958年一橋大学経済学部卒業後、同大学院社会学研究科博士課程修了。小樽商科大学教授、東京経済大学教授を経て一橋大学教授。1992年からは一橋大学学長を務める。1999年より共立女子大学学長。社会史研究の泰斗として知られる。「世間」をキーワードに独自の日本人論を展開(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。

日高敏隆(ひだか・としたか)
1930~2009。専攻は動物行動学。1952年東京大学理学部卒業後、東京農工大農学部教授、京都大学理学部教授を経て、滋賀県立大学初代学長、総合地球環境学研究所初代所長などを歴任。ティンバーゲン、ローレンツ、ドーキンスらの日本への紹介者としても知られている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。




PS 『阿部謹也 最初の授業・最後の授業 附・追悼の記録』(阿部謹也追悼集刊行の会、日本ネディタースクール出版部、2008)
・・わたしのゼミ同期である阪西紀子・一橋大学教授による「弔辞」には1983年~1984年当時のゼミナールの様子が書かれているので、ご関心のある人はご参照いただきたい。


なお、阪西紀子教授による「研究室訪問 阿部謹也教授追悼編」(一橋HQ Vol.14 2005年?)でも、当時のゼミナールの様子が回想されている(2021年3月12日 追記) 



<ブログ内関連記事>

「自分のなかに歴史を読む」(阿部謹也)-「自分発見」のために「自分史」に取り組む意味とは
・・わたしがもっとも推奨したい一冊

クレド(Credo)とは
・・後半の「クレド(credo)とは-その原義をさかのぼる」で、『世間を読み、人を読む-私の読書術-』(阿部謹也、日経ビジネス人文庫、2001)から長い引用を行って「信徒信経」としてのクレドについてくわしく解説した

猛暑の夏の自然観察 (3) 身近な生物を観察する動物行動学-ユクスキュルの「環世界」(Umwelt)
・・日高敏隆氏の「動物行動学」について触れている。『生物からみた世界』(ユクスキュル/クリサート、日高敏隆/羽田節子、岩波文庫、2005)は、日高氏のものやコンラート・ローレンツの著作とともに、ぜひ読んでほしい名著

猛暑の夏の自然観察 (2) ノラネコの生態 (2010年8月の記録)
・・「身近な生物」から観察を始める

アリの巣をみる-自然観察がすべての出発点!

Study nature, not books ! (ルイ・アガシー) 

書評 『梅棹忠夫-未知への限りない情熱-』(藍野裕之、山と渓谷社、2011) -登山と探検という軸で描ききった「知の巨人」梅棹忠夫の評伝
・・自然観察から始まるフィールドワーク

書評 『正統と異端-ヨーロッパ精神の底流-』(堀米庸三、中公文庫、2013 初版 1964)-西洋中世史に関心がない人もぜひ読むことをすすめたい現代の古典
・・「叙任権闘争」について。いわゆる「カノッサの屈辱」である

書評 『サウンド・コントロール-「声」の支配を断ち切って-』(伊東乾、角川学芸出版、2011)-幅広く深い教養とフィールドワークによる「声によるマインドコントロール」をめぐる思考
・・物理学と音楽、そして人文的教養という「文理融合」

月刊誌 「クーリエ・ジャポン COURRiER Japon」 (講談社)2013年11月号の 「特集 そして、「理系」が世界を支配する。」は必読!-数学を中心とした「文理融合」の時代なのだ

語源を活用してボキャブラリーを増やせ!-『ヰタ・セクスアリス』 (Vita Sexualis)に学ぶ医学博士・森林太郎の外国語学習法
・・医学と文学という「文理融合」

福澤諭吉の『学問のすゝめ』は、いまから140年前に出版された「自己啓発書」の大ベストセラーだ!

(2014年3月25日 情報追加)


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