(和服姿の上原専禄 洋服姿の安岡正篤)
この問いを考えるにあたって、上原専禄(うえはら・せんろく)と安岡正篤(やすおか・まさひろ)を比較してみたいと思う。
この2人をセレクトしたのは、とくに大きな意味はない。上原専禄は、わが恩師の 阿部謹也先生の恩師だった。安岡正篤は、自分自身はとくに恩義は感じていないが、「歴代首相の指南役」として知られていた著名人であった。
一見するとまったく異なる資質と影響力をもった人たちだが、共通点が見いだされる。2人の履歴をごく簡単に見ておこう。
上原専禄(1899~1975):京都市生まれ、松山育ち。松山中学校、東京商大予科、専攻部経済学科。1923年から2年間、第一次大戦後にウィーン大学に留学し、西洋中世史を学ぶ。後ろになでつけた銀髪がトレードマークの、いかにもインテリといった風貌のポートレートで知られている。
安岡正篤(1898~1983):大阪市生まれ。四條畷中学校、一高、東京帝大法学部政治学科。文部官僚になるが半年で辞め、以後は在野の東洋思想研究家を貫いている。もっぱら後年の禿頭のポートレートから、いかにもというイメージを醸し出している。
この2人は同時代人である。というよりも、1学年違いであり、ほぼ同級生といってもよい。しかも、ともに関西出身で、帝都の東京で学問を修め、東京を中心に活躍した人である。おなじ時代の、おなじ空気を吸っているのである。
安岡正篤は現在でも熱心な崇拝者が存在するが、上原専禄はいまでは過去の人になってしまっているかもしれない。
ただし、上原専禄は「3・11」(2011年)以降は「死者論」での関連で再評価が始まっているようだ。最晩年の著書『死者・生者 ー 日蓮認識への発想と視点』(未来社、1974)における死生観に関心が高まっている。
いっけんなんの関係もないような二人だが、比較してみると意外なことに相違点もさることながら、共通点が多いことが明らかになる。
あきらかに「右派」の安岡正篤であったが、意外なことに時局とは距離を置いていた。日米戦争開戦から一年後に出版した『世界の旅』では削除命令にもかかわらず、交戦国のアメリカを評価する趣旨の文章を削除せずに出版させることに成功している。
上原専禄は、大学教師。商大予科を経て東京商大(=東京商科大学)卒。西洋中世史。英語、ドイツ語。ラテン語。リベラリスト。ナショナリスト。法華経。
安岡正篤は、在野の教師。旧制一高を経て東京帝大(=東京帝国大学)卒。東洋思想。英語、ドイツ語、漢文。右翼。ナショナリスト。儒学ことに陽明学。
上原専禄は、「アカデミズム」の人であり、大学学長を経験しながらも、定年前に大学を退職して隠棲。俗世間とのかかわりを断って、「在野」の研究者として独自の「世界史」構想を考究。
安岡正篤は、大学卒業以来、文部官僚としての半年間を除いて、一貫して「在野」の立場で私塾の代表として生き抜く。政界、財界の指南役。
上原専禄は、1889年生まれ。1975年没(死後3年も生死不明であった!)。安岡正篤は、1888年生まれ。1983年没。出生は一年違いであり、同世代である。関西に生まれて、戦前・戦中・戦後と生き抜いた点も共通している。ちなみに、保守政治家で自民党の池田勇人や、社会党の浅沼稲次郎も、おなじく1989年前後生まれの同世代である。
上原専禄は、戦後の日教組とのかかわりから「左派」とみられがち。これとは真逆に、安岡正篤といえば、戦前は右翼思想家で「右派」、戦後も「歴代首相の指南役」として保守とみなされてきた。
だが、世代と受けた教育内容に着目してみると、意外なことに共通点が多い。
上原専禄と安岡正篤は、ともに「大正教養主義」の申し子といってよい。日露戦争後の世代であり、高校入学時は第一次世界大戦の最中である。1917年には「ロシア革命」によって世界初の社会主義国家であるソ連が誕生している。上原専禄は、父親が日露戦争で戦死して一家離散し、叔父に引き取られている。
ともに旧制高校でドイツ哲学の大きな影響を受けたが、高校入学以前に日本的な教養の「型」を身につけていた人たちである、
上原専禄は、絵にかいたような「大正デモクラシー」の体現者である。民本主義の吉野作造とともに「黎明会」を組織した、福田徳三の講義も商大で聴講している。当時は「一橋ルネサンス」とよばれる戦前の黄金期であった。
安岡正篤には留学経験はないが、戦前の1939年には半年間外遊して、ドイツやイタリアなど欧州、さらには米国を自分の脚で歩き、自分の目で視察している。その他、中国大陸や台湾には渡航している。
上原専禄は、京都生まれだが愛媛の松山育ち。養父としての叔父のもとで、能楽と『法華経』の素読で過ごす。『法華経』の世界への没入は、インドに重点をおいた東洋、そして西洋へと拡がっていく。石原莞爾や宮沢賢治が会員であったことで知られる「国柱会」の会員であり、田中智学との面識もあった。養父が会員だったためである。
安岡正篤は大阪出身で、四条畷(しじょうなわて)中学で中国古典の漢文教育、文人と剣客のあいだで過ごす。奈良に近い大阪郊外の北河内の四条畷は楠木正行(くすのき・まさつら)ゆかりの地。大阪は江戸時代の「懐徳堂」以来の儒学の中心地。「陽明学者」としての中国と日本への眼差しは徹底していた。
上原専禄は、大乗仏教の『法華経』に「身読」で主体的に取り組んだが、安岡正篤は陽明学の「知行合一」をモットーとしていた。ただし、安岡の場合、文字通り完全に実践できたのかどうかは疑問が残る。右派の実践行動にはコミットしていない。
ともに地方出身(・・しかも関西を含んだ西日本)で旧制高校入学と同時に上京し、旧制高校(予科)で西洋文明に出会って目が開かれたくちだ。森鴎外のいう「ムクドリ」であったわけだ。
安岡正篤は、第一高等学校(=旧制一高)から東京帝大法学部。上原専禄は、東京商科大学予科から専門部に進学。安岡正篤の同級生の大半はエリート国家官僚になっている。官僚出身の政治家もいる。上原専禄の同級生の大半は実業界に進み、ビジネスエリートになっている。
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いっけんなんの関係もないような二人だが、比較してみると意外なことに相違点もさることながら、共通点が多いことが明らかになる。
それは、上原専禄と安岡正篤という二人の「同世代」のインテリに共通する「大正教養主義」と「修養主義」についてである。
■人物評価は思想信条の違いよりも共通点に注目すべき
ある世代の人ったいにとっては、西欧派で進歩派であり「左派」とみなされがちでった上原専禄、逆に東洋派で保守的であり「右派」とみなされてきたのが安岡正篤だ。
真逆にみえるこの二人の「同世代」のインテリに共通するのは、「大正教養主義」と「修養主義」である。
「陽明学」の人と見なされてきた安岡正篤だが、英語とドイツ語をつうじた深い西洋的教養の持ち主であった。
「陽明学」の人と見なされてきた安岡正篤だが、英語とドイツ語をつうじた深い西洋的教養の持ち主であった。
ドイツ中世史を専門としていた上原専禄だが、少年時代から培かわれてきたのは能楽と『法華経』と日蓮を中心とした大乗仏教世界への沈潜である。
明治時代の人物ほどではないが、いずれも「和漢洋」の「教養」を身につけていた人であったことが共通している。
プルタルコスの『対比列伝』(・・日本では『プルターク英雄伝』で知られてきた)ではないが、いっけん似て非なる二人の日本人インテリを対比させながら、相違点よりも共通点を浮かび上がらせてみたいと思う。
右と左の違いが不鮮明になっていくだけでなく、インテリと非インテリの違いこそ大きなものであることがわかってくるはずだ。
右と左の違いが不鮮明になっていくだけでなく、インテリと非インテリの違いこそ大きなものであることがわかってくるはずだ。
時局との距離の取り方にかんして、戦時中の上原専禄の発言は検証は必要だろう。戦後の進歩派的で「左派」と皆されがちだった上原専禄イメージを裏切るものもあることに目をつぶるべきではない。
あきらかに「右派」の安岡正篤であったが、意外なことに時局とは距離を置いていた。日米戦争開戦から一年後に出版した『世界の旅』では削除命令にもかかわらず、交戦国のアメリカを評価する趣旨の文章を削除せずに出版させることに成功している。
上原専禄も安岡正篤も、ともに一筋縄ではいかない複雑な人物であったのではあるまいか?
■東洋哲学の安岡正篤は、西欧思想史の林達夫とは旧制一高で同級生
あえて安岡正篤の比較対象を上原専禄としたのは、わたしの恩師である阿部謹也の恩師であったからであって、それ以外にとくに理由はない。
逆に安岡正篤には心酔しているわけでも、愛読してきたわけでもない。知的に関心があるだけだ。
安岡正篤の比較対象としては、むしろ旧制高校の第一高校で同級生であった林達夫(1896~1984)にしたほうが良かったかもしれない。徹底的に西洋主義者であった林達夫は、一高を中退後あえて京都帝大に進学している。
この件にかんしては、中央公論の編集長であった粕谷一希の「知の形態について 安岡正篤と林達夫」にくわしい。『対比列伝 戦後人物像を再構築する』(新潮社、1982年)に収録されている。林達夫自身による文章は、回想「一高時代の友だち」(著作集 第6巻)を参照。
■上原専禄と安岡正篤を「対比列伝」的に見ると見えてくるのは・・・
上原専禄は、大学教師。商大予科を経て東京商大(=東京商科大学)卒。西洋中世史。英語、ドイツ語。ラテン語。リベラリスト。ナショナリスト。法華経。
安岡正篤は、在野の教師。旧制一高を経て東京帝大(=東京帝国大学)卒。東洋思想。英語、ドイツ語、漢文。右翼。ナショナリスト。儒学ことに陽明学。
上原専禄は、「アカデミズム」の人であり、大学学長を経験しながらも、定年前に大学を退職して隠棲。俗世間とのかかわりを断って、「在野」の研究者として独自の「世界史」構想を考究。
安岡正篤は、大学卒業以来、文部官僚としての半年間を除いて、一貫して「在野」の立場で私塾の代表として生き抜く。政界、財界の指南役。
上原専禄は、1889年生まれ。1975年没(死後3年も生死不明であった!)。安岡正篤は、1888年生まれ。1983年没。出生は一年違いであり、同世代である。関西に生まれて、戦前・戦中・戦後と生き抜いた点も共通している。ちなみに、保守政治家で自民党の池田勇人や、社会党の浅沼稲次郎も、おなじく1989年前後生まれの同世代である。
上原専禄は、戦後の日教組とのかかわりから「左派」とみられがち。これとは真逆に、安岡正篤といえば、戦前は右翼思想家で「右派」、戦後も「歴代首相の指南役」として保守とみなされてきた。
だが、世代と受けた教育内容に着目してみると、意外なことに共通点が多い。
上原専禄と安岡正篤は、ともに「大正教養主義」の申し子といってよい。日露戦争後の世代であり、高校入学時は第一次世界大戦の最中である。1917年には「ロシア革命」によって世界初の社会主義国家であるソ連が誕生している。上原専禄は、父親が日露戦争で戦死して一家離散し、叔父に引き取られている。
ともに旧制高校でドイツ哲学の大きな影響を受けたが、高校入学以前に日本的な教養の「型」を身につけていた人たちである、
上原専禄は、絵にかいたような「大正デモクラシー」の体現者である。民本主義の吉野作造とともに「黎明会」を組織した、福田徳三の講義も商大で聴講している。当時は「一橋ルネサンス」とよばれる戦前の黄金期であった。
上原専禄は、河上肇の『貧乏物語』を読んで貧民問題に関心をもち、貧民窟でフィールドワークを行っている写真が残っている。とはいえ、実践行動にはコミットしていない。ある種の知的ディレッタントであったことは否定できない。実業の学校に在学してが、実業よりも教養分野に傾斜。
(安岡正篤が感銘したというフィヒテの『独逸國民に告ぐ』)
安岡正篤は、法学部では右派的な上杉慎吉の憲法学には心酔したが、法学そのものにはあまり関心をもたず、中国古典の研究に独学で没頭していた。
ただし、旧制一高時代にはエマソンを愛読し、ドイツ語も熱心に学んでフィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』の訳稿を作成している(・・これは出版には至らなかった。ちなみに、上原専禄は戦後のゼミナールでは、フィヒテの同時代人で、保守主義的歴史観をもっていたユストゥス・メーザーを取り上げている。
上原専禄は、大学卒業後、第一次大戦後のウィーンに留学し、碩学の歴史学者のもとでドイツ中世史の原典研究の訓練を受けている。滞在中の2年間に欧州各地を訪れる。1923年9月1日の関東大震災は、横浜に停泊中の船中にて体験している。このため出航が遅れたらしい。
安岡正篤には留学経験はないが、戦前の1939年には半年間外遊して、ドイツやイタリアなど欧州、さらには米国を自分の脚で歩き、自分の目で視察している。その他、中国大陸や台湾には渡航している。
上原専禄は、京都生まれだが愛媛の松山育ち。養父としての叔父のもとで、能楽と『法華経』の素読で過ごす。『法華経』の世界への没入は、インドに重点をおいた東洋、そして西洋へと拡がっていく。石原莞爾や宮沢賢治が会員であったことで知られる「国柱会」の会員であり、田中智学との面識もあった。養父が会員だったためである。
安岡正篤は大阪出身で、四条畷(しじょうなわて)中学で中国古典の漢文教育、文人と剣客のあいだで過ごす。奈良に近い大阪郊外の北河内の四条畷は楠木正行(くすのき・まさつら)ゆかりの地。大阪は江戸時代の「懐徳堂」以来の儒学の中心地。「陽明学者」としての中国と日本への眼差しは徹底していた。
上原専禄は、大乗仏教の『法華経』に「身読」で主体的に取り組んだが、安岡正篤は陽明学の「知行合一」をモットーとしていた。ただし、安岡の場合、文字通り完全に実践できたのかどうかは疑問が残る。右派の実践行動にはコミットしていない。
上原専禄の『法華経』を読み込む生活は「型」そのもの。ウィーンでドープシュ教授のゼミナールで自らに課していたのも、西洋の「型」を身につけたいと欲したのではあるまいか?
おそらく『法華経』によって日本人としてのアイデンティティを確固としたうえで、西洋とがっぷり四つに取り組んだ主体的な姿勢は、『法華経』がその基盤にあると言えるのではないだろうか。
■エリートを排出した「旧制高校」における「教養主義」
いっけん真逆に見える上原専禄と安岡正篤だが、共通点が多いことがわかったのではないかと思う。
ともに地方出身(・・しかも関西を含んだ西日本)で旧制高校入学と同時に上京し、旧制高校(予科)で西洋文明に出会って目が開かれたくちだ。森鴎外のいう「ムクドリ」であったわけだ。
安岡正篤は、第一高等学校(=旧制一高)から東京帝大法学部。上原専禄は、東京商科大学予科から専門部に進学。安岡正篤の同級生の大半はエリート国家官僚になっている。官僚出身の政治家もいる。上原専禄の同級生の大半は実業界に進み、ビジネスエリートになっている。
(英国の日本研究者による『友の憂いに吾は泣くー旧制高校物語』(講談社、1983))
ともに「旧制高校」的なるものを体験している点は共通している。「東京商大予科」はいわゆる「ナンバースクール」ではないが、旧制高校的であったことは『空白の歴史』(綱淵謙錠、文藝春秋、1994)に収録された「長煙遠く棚引きて―東京商科大学予科ルポ」を参照。
上原専禄が学んだ東京商大とその予科、安岡正篤が学んだ東京帝大と旧制一高は、ともに指導者を育成するという学校であったことは共通。そもそも、この時代の大学生は特権階級である。
『座談会 明治・大正文学史(3)』(柳田泉他編、岩波現代文庫、2000)では、「大正時代」には商大の同級生の大半は実業界に進んだビジネスエリートであったと、上原専禄本人が語っている。『上原専禄著作集 第18巻』(評論社、1999)は『大正研究』と題されて、その時代に執筆した文章や、その時代についてあとから書かれた文章が収録されている
上原専禄と安岡正篤は、ともに旧制高校を体験しているエリートだが、商大と帝大では、校風」からくる「ハビトゥス」の違いは大きい。
上原専禄が学んだ東京商大とその予科、安岡正篤が学んだ東京帝大と旧制一高は、ともに指導者を育成するという学校であったことは共通。そもそも、この時代の大学生は特権階級である。
『座談会 明治・大正文学史(3)』(柳田泉他編、岩波現代文庫、2000)では、「大正時代」には商大の同級生の大半は実業界に進んだビジネスエリートであったと、上原専禄本人が語っている。『上原専禄著作集 第18巻』(評論社、1999)は『大正研究』と題されて、その時代に執筆した文章や、その時代についてあとから書かれた文章が収録されている
上原専禄と安岡正篤は、ともに旧制高校を体験しているエリートだが、商大と帝大では、校風」からくる「ハビトゥス」の違いは大きい。
たとえ本人がその道に進まなくても、周囲の大半が進む道は、直接・間接に影響をうけるのである。「ハビトゥス」とは、周囲の「環境」が無意識レベルであたえる影響のことである。帝大製が進む官僚の世界と、商大生が進む実業界との違いは、思っている以上に大きなものがある。
社会学者ブルデューの「ハビトゥス」(habitus)論を踏まえた「校風」の違いににかんしては、教育社会学者の竹内洋の著作を参照するとよい。「教養主義」とその衰退については、そのものズバリのタイトル『教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化』(中公新書、2003)がある。
『大衆モダニズムの夢の跡ー彷徨する「教養」と大学』(新曜社、2001)に収録の「現代思想としての一橋的なるもの」も参照。石原慎太郎や田中康夫といった作家、上原専禄の弟子の阿部謹也もその系譜に位置づけて論じられている。
同書によれば、石原慎太郎は上原専禄を高評価したとある。ちなみに、石原は長きにわたって上原に著書を恵贈していたらしい。石原が選挙対策から霊友会を紹介され、『法華経』世界に導かれていった伏線は、見えないところで上原専禄につながっていたのかもしれない。
書評 『西洋史学の先駆者たち』(土肥恒之、中公叢書、2012)-上原専禄という歴史家を知ってますか?
「如水会講演会 元一橋大学学長 「上原専禄先生の死生観」(若松英輔氏)」を聴いてきた(2013年7月11日)
「陽明学」の安岡正篤もエマソン愛読者だった。「旧制高校」出身で「大正教養主義」の申し子であった安岡正篤における「教養」と「修養」について考える
書評『近代日本の右翼思想』(片山杜秀、講談社選書メチエ、2007)-「変革思想」としての「右翼思想」の変容とその終焉のストーリー
・・「第2章 右翼と教養主義」が安岡正篤の思想を分析している。だが、英文学とドイツの思想と文学をその要素とする「大正教養主義」があふれんばかりにてんこ盛りになった安岡正篤の『世界の旅』(昭和17年)には言及がないのは不思議だ
村上一郎氏の幕末関連書を読む ー『幕末 ー 非命の維新者』(中公文庫、2017)と『草莽論 ー その精神史的自己検証』(ちくま学芸文庫、2018)
・・「一橋」的で海軍出身の評論家・村上一郎氏の「教養」について
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