「アタマの引き出し」は「雑学」ときわめて近い・・日本マクドナルド創業者・藤田田(ふじた・でん)に学ぶものとは?

◆「アタマの引き出し」つくりは "掛け算" だ : 「引き出し」 = Σ 「仕事」 × 「遊び」
◆酒は飲んでも飲まれるな! 本は読んでも読まれるな!◆ 
◆一に体験、二に読書、その体験を書いてみる、しゃべってみる!◆
◆「好きこそものの上手なれ!」◆

<旅先や出張先で本を読む。人を読む、モノを読む、自然を読む>
トについてのブログ
●「内向きバンザイ!」-「この国」日本こそ、もっとよく知ろう!●

■■ 「むかし富士山八号目の山小屋で働いていた」全5回 ■■
 総目次はここをクリック!
■■ 「成田山新勝寺 断食参籠(さんろう)修行(三泊四日)体験記 」全7回 ■■ 
 総目次はここをクリック!
■■ 「庄内平野と出羽三山への旅」 全12回+α - 「山伏修行体験塾」(二泊三日)を中心に ■■
 総目次はここをクリック!


「個」と「組織」のよい関係が元気をつくる!

「個」と「組織」のよい関係が元気をつくる!
ビジネス寄りでマネジメント関連の記事はこちら。その他の活動報告も。最新投稿は画像をクリック!



ご意見・ご感想・ご質問は ken@kensatoken.com にどうぞ。
お手数ですが、コピー&ペーストでお願いします。

© 2009~2026 禁無断転載!



ラベル 下総 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 下総 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2023年5月28日日曜日

「下野牧」の「野馬土手」をめぐり歩く ― 船橋市と鎌ケ谷市を中心に2023年5月に2回ノマド(=野馬土)実行

 (野馬土手=土手際遺跡 船橋市)


現在の千葉県には、幕府直轄の「牧」があった。「牧」とは、軍用馬の放牧場のことである。下総の小金牧と佐倉牧、上総の嶺岡牧の3つである。

「牧」には馬が食べる飼料となる草が生えており、水場もあった。いずれも人為的な手の入っていない自然そのものである。

「牧」で放牧されている馬は「野馬」(のま)とよばれていた。だが、それは野生馬を意味しているわけではない。現代語なら「放牧馬」とでもいうべきだろう。北海道の広大な牧場に法賊されている馬を想起すべきだろう。

幕府の「牧」に放牧されていた「野馬」は、1年に1回捕獲されていた。これを「野馬捕り」といい、牧における一大イベントであったらしい。

自然環境のなかでのびのびと育った馬であるから、それはもう暴れ馬だったからだ。捕獲された雄馬からセレクトされた軍馬以外は、農耕用に払い下げられていたらしい。


(小金牧 GoogleMapより)

  
江戸時代前期においては、幕府は軍用馬の調達を盛岡藩を中心とした東北馬に依存していた。だが、江戸時代中期になってからは、8代将軍・吉宗の時代に自前で育成する政策をはかることになる。

軍馬の改良を考えていた吉宗は、東北の馬を取り寄せただけでなく、海外からアラビア馬を取り寄せている。去勢しないので暴れ馬であり、軍馬としての性格は優れていた日本馬だが、日本人の体格にフィットした小柄の馬であった。

吉宗は、軍馬を大型化したかったのだ。だが、その試みは定着することなく終わってまった。本格的に再開されたのは、幕府崩壊後の明治時代になってからである。だが、その結果、日本固有種の「日本馬」がほとんど消滅してしまったのは残念なことである。


(渡辺崋山の「四州真景」より釜原。釜原宿(=現在の鎌ヶ谷大仏)に向って「牧」のなかの木下街道を歩く旅人)


個人的な話になるが、小学生5年のときに都内から千葉県八千代市に移住してきたこともあって、陸上自衛隊の習志野駐屯地には、かつて陸軍騎兵隊がいたことも知っていた。その習志野駐屯地は、かつての「牧」をそのまま活かしたものといっいいだろう。


(陸上自衛隊習志野演習場。往事の「牧」をしのばせるものがある 筆者撮影)


千葉県北西部のこの地域は、馬とは切っても切り離せないほど、馬とかかわりの深い土地なのだ。その名残は、現在でも各地に残っている。

しばらく都内や海外で過ごしたあと、ふたたび千葉県北西部に戻ってきたが、たまたま、かつての「小金牧」のちかくに移住したこともあって、個人的に「牧」に対する関心には深いものがある。

新京成電鉄には船橋市内に「高根木戸」という駅があるが、かつてそこには「牧」のなかに入るための「木戸」があったためだという。「牧」には野馬が放牧されていたが、木下(きおろし)街道などの道が通っていたためだ。木下街道は、江戸と利根川を結ぶ重要な街道であった。


「牧」の周囲には「土手」が築かれて、「野馬」が周辺の耕作地に侵入しないようになっていた。それを「野馬土手」(のまどて)という。なんだか遊牧を意味する「ノマド」っぽい響きがいい。

「野馬土手」や「木戸」のことは、いまから12年まえの2011年ににはじめて知った。「下野牧」の跡をたずねて(東葉健康ウォーク)に参加して、はじめて「野馬土手」を見ることができてからである。

現在ふたたび「牧」と「野馬」、そして「野馬土手」に自分のなかで関心が高まったのは、江戸時代への関心が高まっているからだ。

とくに人口の7%に過ぎなかった武士(・・これは家族全体の数字。成人男子に限定したら2%程度!)については、わかっているようで知らないことがじつに多い。「弓馬の道」が本来の武士のあり方であった以上、武士と馬はきわめて密接な関係にあった。武士本来の職分である「武」にかんする側面について、もっと知りたいと思っている。

そこで、まだ訪れたことのない「野馬土手」を訪ね歩くことにした。1回で終わりにするつもりだったが、いろいろ調べていくうちに、漏れがかなりあることに気づいて、5月のあいだに「ノマド探索」を2回実行することになった次第である。

なんといっても、GoogleMap で検索して地図上に表示できるようになったことは大きい。そうでなければ、地図上で特定するのはむずかしい。



■「ノマド探索」 第1段階(5月初旬)

船橋市内でも、かつての「牧」に近いところに住んでいるので、そのまま「野馬土手」づたいに隣の鎌ケ谷市まで歩いてみることにした。具体的にいうと、御瀧不動尊を経由し、鎌ヶ谷大仏を経て、「牧」にかんする資料のある鎌ケ谷郷土資料館までいくコースである。

今回は、はじめて御瀧不動尊は新京成電鉄の滝不動駅からのアクセスのいい東側の仁王門ではなく、南側の正門から境内に入ることに。1973年に改築されたものだそうだ。




御瀧不動尊は、中世の室町時代の15世紀初頭にさかのぼる由緒ある寺院。湧き水があるので御瀧不動尊。修行場でもあったという。

江戸時代は「牧」のなかに入ってしまうので、現在地より西側に移されていたらしい。

御瀧不動尊の東側に「野馬土手跡」がある。「土手際遺跡」ともいう。船橋市内である。




野馬土手の切れ目に案内看板が立っている。「野馬土手」は文字通りの土手で、人の手によって盛り土で造成されたらしい。

現在では木が生えてしまっているが、江戸時代は野馬土手の維持管理は、周辺に住む農民に課せられていたという。


  

北に向かって歩いていくと、鎌ケ谷市に入る。「牧境の野馬土手」(中野牧・下野牧)がある。住宅街の垣根のような形で現在も残っている。




さらに歩いて、新京成電鉄の鎌ヶ谷大仏駅の前で線路をわたって反対側にいくと、「小金下野牧捕込跡」がある。残念ながら公園となっているが、それとわかるのは看板だけで、「捕込跡」をしのばせるようなものはない。




新京成電鉄を左手にみながら初富駅まで歩いていくと、途中に「野馬土手」がある。「鎌ケ谷ふれあいの森」の一部として「野馬土手」が保存されている。




さて、最終目的に「鎌ケ谷市郷土資料館」に到着。ここで「牧」関連の展示を見て、必要な資料を購入。船橋市民であっても、この鎌ケ谷市郷土資料館にいく価値はある。

縄文時代からいきなり江戸時代になってしまうのは、鎌ケ谷市も船橋市もおなじである。中世もわずかながら存在しているが、発展するのは江戸時代になってからである。

つまり、水田耕作を中心とする弥生文化との親和性がないのが、この地域なのだ。だから、「牧」として利用されていたのであろう。水田耕作には向いていないが、草地としては存在できる土地。しかも、湧き水もある。





■「ノマド探索」 第2段階(5月下旬)

その2週間後にもういちど追加で実施。「小金下野牧捕込跡」は見たものの、そのときは北初富駅の近くに「国史跡下総小金中野牧跡」があることを知らなかったのだ。これを水して「牧」について語ることはできないだろう。

船橋市内の高根に「高根木戸道標」というものがある。「牧」のなかで分かれる三叉路の道標だ。文化5年(1808年)に立てられたものである。馬だけがいる広大な「牧」で迷わないようにという心遣いである。


(高根木戸道標)


馬ではなく牛であるが、「佐久間牧場」まで歩いて行く。新京成電鉄の滝不動駅の東側にいくのは初めてだ。船橋市内にまだ牧場があったとは! 

子ども時代に八千代市の興真乳業の近くに住んでいたが、もはや牧場もないし、牛もいない。「田舎の香水」は、もはや懐かしい思い出と化してしまった。

牧場直結の「佐久間アイスクリーム工房」で食べたアイスクリームはうまかった!




さて、滝不動駅から電車に乗って北初富駅まで。この駅のすぐ近くに「国史跡下総小金中野牧跡」がある。「捕込」(とっこめ)といって、1年に1回おこなわれる野馬捕りの場の遺跡である。









野馬土手が集中しているような風情だが、このような形であれ残ったことはありがたいことだ。わざわざ見に来る人はいないようだが、もっと知られてしかるべきだろう。

そのあと、「貝柄山公園」まで足を伸ばす。「野馬の像」を見に行くためだ。かつて「牧」があったことを想起させるため、設置されているのである。






さて、これでだいぶ「牧」と「野馬土手」に詳しくなった。文献とあわせて実地調査すると、イメージは立体的にふくらんでくる。

この関連の本では、なんといっても『「馬」が動かした日本史』(蒲池明弘、文春新書、2020)は出色のものであった。なぜ千葉県北西部に「牧」があったのか、土壌の点からそれがわかるのだ。

縄文遺跡がたくさんあるのに弥生遺跡がほとんどない船橋市と鎌ケ谷市。水田耕作には適していないから「牧」となったのだな、と。「牧」は江戸時代以前からあったのである。


 (画像をクリック!)



PS 「馬の博物館」に行ってきた(2023年6月6日)

横浜の根岸にある「馬の博物館」に行ってきた。JR根岸線の山手駅で下車して、購買差のある丘を登ること15分ほどのところにある。

JRA(日本競馬協会)のミュージアムで、根岸競馬場の跡地につくられたものなので、基本的に近代以降の競走馬が中心であるが、「馬の博物館」らしくウマ全般にかんしての総合ミュージアムとなっている。




「写真撮影禁止」なので内部の紹介はできないが、いま開催中の企画展「浮世絵美人と馬」の展示場には、鐙(あぶみ)の実物が展示されていた。江戸時代までの鐙の実物を見ることができたのは幸いだった。

というのも、日本の伝統的な鐙(あぶみ)は、西洋のものとは違うからだ。日本の鐙はツッカケみたいな形で、鐙の上に足を起きながらも、足の自由が効きやすい。西洋式の足をひかっけるのではなく、足裏を乗せるタイプである。


(左がいわゆる「舌長鐙」 Weblio辞書より)


あくまでも戦闘用の軍馬として、「弓馬の道」である武士のための鐙であったからだ。乗馬しながら立ち上がったり、向きを変えたり、弓を射たりがしやすいのである。

このほか、外国大使が信任状捧呈式の際、皇居まで乗ることになる馬車が展示されていた。これは近代になってからのものだが、近距離で観察することができるのはすばらしい。

過去の企画展の図録のバックナンバー数点を購入した。現金のみなので注意が必要。

(2023年6月7日 記す)



PS2 『国道16号線ー日本を創った道』(柳瀬博一、新潮文庫、2023)は、東半分があまり取り上げられていない

『国道16号線ー日本を創った道』(柳瀬博一、新潮文庫、2023)という本を読んだ。話題の本で、文庫化されたのを機会に一読。

面白い内容だが、残念な本であった。というのは、書かれている内容は、ほとんどが国道16号線の西半分の話であって、東半分の千葉の話は付けたし程度でしかないからだ。

『国道16号線ー日本を創った道』というタイトルに惹かれて読んだものの、不完全燃焼感といだいて残念に思う千葉県住民は、『「馬」が動かした日本史』(蒲池明弘、文春新書、2020)をあわせて読むべきだろう。

国道16号線の西半分は、横浜と八王子の「シルクロード」の話がメインなので、むしろここだけ切り離したほうがすっきりするだろう。八王子から見たら、東京都心に行くのも、横浜に行くのもほぼ等距離である。新たな風が吹き込んできたのは、横浜からなのであった。

(2023年6月7日 記す)



PS3 佐藤一斎もまた下野牧を通って「牧」を体験していた

渡辺崋山の「四州真景」の「釜原」は、釜原宿(=現在の鎌ヶ谷大仏)に向って「牧」のなかの木下街道を歩く旅人二人と馬の群れを描いたスケッチ的な作品である。

崋山は33歳、1825年に利根川下流域の香取、鹿島、銚子方面に旅に出立している。公用ではなく、まったくの遊山の旅である。その往路で鎌ケ谷宿で夕飯を食べて酒を飲み、そのまま歩き続けて白井宿で一泊している。

この旅に出立するに当たって、崋山は、その肖像も描いている、儒学の師である佐藤一斎を訪ねて「日光紀行」を借りていったという。芳賀徹の『渡辺崋山 優しい旅びと』(朝日選書、1986)にそう記されている(P.53)。

ただし、「日光紀行」は、ただしくは「日光山行記」(文政元年=1818年)である。崋山の日記にはそう記されていたのだろうか?

その「日光山行記」の末尾は、日光街道による往路の日光行きの帰途は別コースをたどって銚子方面に遊び、利根川を船で移動して、木下では舟ののなかで一泊したのち、鎌ケ谷の「下野牧」を通ったことが記されている。

崋山は、往路にこのコースを佐藤一斎とは逆にたどっているが、おそらくその念頭には一斎から借りてきて読んだ文章の末尾が思い浮かんでいたに違いない。だが、芳賀氏は、その件について言及していないので、「日光山行記」は見ていないのであろう。

一斎の「日光山行記」から引用しておこう。原文は漢文であるが、『佐藤一斎全集第2巻 詩文類(上)』(明徳出版社、1991)の訓読文にしたがうことにする。この文章が全体の締めくくりとなっている。

行くこと里餘。平原を得たり。手鞍原(てくらはら)と曰ふ。放牧地たり。馬多くは洋種なり。 
又た数里にして一大広原を得たり。釜原と曰ふ。亦た牧地なり。東南十五里、南北二里。之を総呼して、小金原と曰ふ。牧は上・中・下に分つ。此は其の下牧なり。馬群最も多く、人を見るも避けず。牝牡の驪黄(りこう:黄色と黒色のブチのこと)、優遊自適して、羈的(きてき:おもがいと手綱)、槽櫪(そうれき:馬小屋)の屈を受けず。太(はなは)だ吾輩の閒逸(かんいつ)なる者と相類たるも、亦楽しむ可きなり。
八幡を歴て行徳に抵(いた)るに、未だ哺(ほ)ならず(=午後4時になっていない)。舟を買ひて川を下り、薄暮に都に達す。

さすが野馬好きの一斎ならではである。人馬共存の風景が目に浮かぶようだ。ところで、手鞍原は印西牧のことか? 釜原は鎌ケ谷のことである。下野牧についてかかれている。

『言志後録』では、若い頃は「野産」の馬を乗りこなしていたと述懐している一斎だが、別の文章では十代の頃に「野馬捕り」を実見しているようで、「「小金原捉馬図鑑」に題す」という文章を書いている。この文章も「佐藤一斎全集第2巻」に収録されている。

この文章は崋山のスケッチを彷彿とさせるものがある。いや、順番としては逆だな。

一斎は夜明け前に木卸(きおろし=木下)を立ってから、途中で一泊することもなく、そのまま江戸の自宅に戻ったようだ。健脚である。

(2023年6月9日 記す)




<ブログ内関連記事>


・・演習場は、かつての「牧」をそのままとどめている。こういうイベントの機会を利用すれば、一般人でもなかに入って当時の「牧」をしのぶことができる


・・この基地もかつての小金牧のなかにある。中野牧である。
とはいえ、基地が占めるスペースは、かつての「牧」のごく一部に過ぎないのである。

(2023年6月13日 情報追加)


(2025年1月24日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2022年12月23日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2022年6月24日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2021年11月19日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2021年10月22日発売の拙著です 画像をクリック!)

 (2020年12月18日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2020年5月28日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2019年4月27日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2017年5月19日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2012年7月3日発売の拙著です 画像をクリック!)


 



ケン・マネジメントのウェブサイトは

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどう
ぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!







end

2010年10月3日日曜日

海上自衛隊・下総航空基地開設51周年記念行事にいってきた(2010年10月3日)




 (式典 筆者撮影)


 海上自衛隊・下総(しもふさ)航空基地開設51周年記念行事(一般公開)にいってきた。場所は、千葉県柏市。記念行事と基地一般公開の概要は以下のとおりである。


■下総航空基地開設51周年記念行事(一般公開)開催のお知らせ

海上自衛隊下総航空基地では、10月に基地一般公開を実施します。
皆様お誘い合わせの上、どうぞご来場ください。

● 開催日:平成22年10月3日(日)
● 公開時間:午前9時から午後4時まで
● 公開イベントの内容:飛行展示、体験搭乗、各種イベントなど。
●シャトルバス(無料)
   新鎌ヶ谷駅(東武野田線、新京成線、北総線)~下総航空基地間



■内陸部の航空基地とはいえ、海上自衛隊の基地である。式典の本日の制服はみな白一色に統一されている

 今朝は早めに入ることにして、9時過ぎには基地内に入った。シャトルバスがピストン輸送しているので、バスのままゲートをくぐって基地内に入ることになる。
 下総航空基地に近い、陸上自衛隊の習志野駐屯地のすぐそばで少年時代を過ごしたので、習志野駐屯地のほうは何度もなかに入ったことがあるが、下総航空基地に入るのは、実は今回が初めてである。

 なんといっても違うのは、みな白い制服でビシっと決めていることだ。将校以上は、白い制服に制帽。下士官以下の兵は、水兵である。セーラーなのである!

 内陸部にある航空基地だが、海上自衛隊の基地である。このことはアタマでわかっていても、近年は迷彩服に身を固めているのが当たり前の陸上自衛隊とは大きく違うことに新鮮な驚きを覚える。白い制服は帝国海軍以来のもの、実にスマートな印象である。


■開設51周年の式典は10時から

 まず、P3C による祝賀飛行。3機で連隊を組んだ P3C哨戒機 が祝賀会場のうえを轟音をあげて、来賓とわれわれの上空を飛行する。あっという間の出来事である。


(セーラー服姿の水兵たち 筆者撮影)

日本国旗と自衛隊旗を捧げ持ったセーラー服の儀仗兵たちが、着剣したライフル銃を右肩にかけ、軍楽隊のマーチにあわせて行進するのを見るのは、実に気持ちがよい。自衛隊旗は、かつての旭日旗である! ライジング・サンである。そして国歌・君が代斉唱。

 基地所属に海上自衛官将兵に訓辞する司令官の状況認識を聞いていると、極東情勢に対する危機感の強さに、日本国民としては、ある意味では安心を覚える。
 ここ数週間、尖閣諸島において、海上保安庁の巡視艇に中国漁船が体当たりしてきた事件をめぐって、一気に緊張が高まっているが、国土防衛のため、尖閣諸島で有事発生ともなれば当然のことながら、動員展開されることになるのかもしれない。自衛官は、このような高い意識で、日々国土防衛に当たっているのである。

 せっかく精鋭の部隊が日々訓練に励んでいても、シビリアンコントロールの意味をはき違えた政治家、あやまった目的のために「政治主導」を行う政治家が政権の中枢にいる限り、宝の持ち腐れになってしまう。
 戦後日本の不幸とは、シビリアンコントロールの主体であるべき政治家の勉強不足、責任回避であることをあらためて感じる。国民の生命財産を守るのが政治の役割ではなかったのか。

 しかし、自衛隊のみなさんは、政治家に振り回されることなく、日々の訓練に精を出していただきたい。一国民としては、そう思うのみだ。

 来賓の司令官、柏市長などの話を聞いていて思うのは、地域住民の理解あってこそ、自衛隊は成り立ちうるということだ。
 千葉県船橋市に住んでいる私にとって、正直いって、低空で離発着訓練を行う哨戒機や大型輸送機の爆音は、騒音であることは否定しない。ときおり、超低空飛行を行っている機体に書かれた文字が、はっきり目視できることすらある。
 正直いって騒音である。もちろん一日中ではないので問題はないが、うるさいと思わないといったらウソになる。
 しかし、カラダを張って国民を守る仕事に従事している海上自衛隊(!)のみなさんには何のうらみもないどいころか、いつもお疲れ様という気持ちでいっぱいだ。沖縄も米軍基地ではなく、自衛隊の基地であれば、基地に対する意識も変わってくるのではないだろうか。

 このためにも、毎年一回は基地を一般公開して、地域住民を中心に、ひろく国民との交流の機会をもつということは、広報戦略上きわめて重要なことだといえるのである。戦前の皇軍、すなわち「天皇の軍隊」ではない、戦後は「国民の軍隊」である。タックスペイヤーであるわれわれ日本国民のための軍隊。国民とともにある軍隊である。
 この点は、一党独裁国家の共産党の軍隊である人民解放軍とは、根本的に異なる点だ。このことは強調しておかねばなるまい。


■催し物各種:「展示飛行」(≒航空ショー)、「落下傘降下」(陸上自衛隊第一空挺団)など



 さて、祝賀行事のあとは、さまざまな催しとなる。

 今回の目玉は、YS-11T機の最後のお披露目であろう。YS-11T はいうまでもなく唯一の国産旅客機 YS-11 が、民間の使命を終えた後に、内部を改造して海上自衛隊の訓練機として使用されてきたもの。今年限りで退役することになているので公開されたのであろう。


 この機体の内部を見学し、抽選で選ばれた人は体験試乗もできる。コックピットに入ることもできるが、列があまりにも長いので私は断念。後ろから覗いただけ。


 機内は改造しているが、軍用機なのであまり居住環境はよくなさそうだ。
 私は、内部を見学しただけだったが、久々に YS-11 の内部に入ることができてうれしかった。鹿児島から屋久島にいく便で乗って以来である。


 哨戒機P3CやYS11Tの「展示飛行」(・・航空ショーみたいなもの)が、最大の見物。入間基地の航空ショーは有名だが、下総航空基地の「展示飛行」がマスコミに取り上げられることはあまりないだろう。写真は「展示飛行」を終えて着陸した P3C哨戒機。

 二機や三機、四機で編隊飛行を行う哨戒機というのは、大型機であるだけに迫力があるだけでなく、自衛官の練度の高さを目の当たりに見えることができる。
 高速で飛行する哨戒機から、ピンポイントで物資を投下したり、爆弾を投下する(・・この日は実弾ではない)のは、技量の高さがとりわけ要求されるものだ。


 午前の部の最後は、陸上自衛隊第一空挺団(習志野駐屯地)によるパラシュート降下。第一空挺団のパラシュート降下訓練は、海上自衛隊下総航空基地の大型輸送機を使用して行われるため、密接な協力関係にある。
 今回は自衛隊の大型輸送ヘリコプター二機を使用してのパラシュート降下であった。小学生のころ、毎日のように教室の窓の外で落下するパラシュート降下訓練を見ていたので、私にとっては、見慣れた光景である。 陸上自衛隊のエリート部隊である空挺団ならではのものであるが、あの高度からの重装備で降下するのは、並大抵のことではない。降下する一人一人の隊員の氏名と出身地が読み上げられていた。軍隊では例外的な扱いであろう。それだけ名誉なことなのである。

 有事の際、敵国による侵略、とくに離島に対して行われた際は、このような形で作戦展開が行われるのかもしれない。

 一通りみているうちに、はや12時に近い。
 出店もあるが混んでいるので基地内では食事せず、ふたたびシャトルバスで駅まで戻ることとした。


■内陸部にある海上自衛隊航空基地

 千葉県の柏市にある下総(しもふさ)航空基地、あまり認識している人は多くないと思うが、この航空基地は航空自衛隊の基地ではなく、内陸部にあるが、海上自衛隊の航空基地である。しかも、帝国海軍の海軍航空基地ではなく、自衛隊になってから戦後にできた、新しい基地なのだ。

 Wikipedia の記述によって、基地開設までの沿革をたどっておこう。なお、私の判断で「終戦」の文字は「敗戦」と置き換えておいた。太字ゴチックは引用者=私によるもの。

1932年(昭和7年):武蔵野カントリークラブ「藤ヶ谷コース」として開発される(・・当時東洋一の規模のゴルフ場であった)
1945年(昭和20年):陸軍省が接収し、旧日本陸軍藤ヶ谷飛行場となる。敗戦後、米空軍白井基地(Shiroi Air Base)としてGHQに接収される。
1959年(昭和34年):日米共用飛行場になる。海上自衛隊白井術科教育隊が編成される。同年末、米空軍(第5空軍)が撤退、海上自衛隊専用の基地として出発。

 もともと東洋一(!)のゴルフ場だったということだ。都市近郊でこれだけまとまった土地を確保できたのはこのためなのだ。

 戦前の帝国海軍時代は、山本五十六長官のような航空兵力の重要性に認識していた幹部も存在したが、マジョリティは艦隊決戦主義で、海軍の航空兵力は航空母艦に艦載の戦闘機にほぼ限定されていた。もちろん、米国はすでに、ボーイング社の B-29 などの大型爆撃機を量産する体制ができあがっていたが、いかんせん日本にその能力が欠けていたのである。

 もちろん、現在の日本は専守防衛を国是としているわけであり、侵略は否定し防衛のための軍隊を有している。戦後は、航空母艦(空母)をもたない日本も、世界第6位という長い海岸線をもつ国土を防衛するための哨戒機の導入など、航続距離の長い大型輸送機などの導入によって大きく変化している。

 下総航空基地は、こういった戦後の航空兵力の大きな変化に対応した、もじどおり海上「自衛隊」の「戦後型の航空基地」といえるのだろう。配備されているのは、P3Cなどの哨戒機、国産旅客機YS11を改造した訓練機などである。

 ところで、祝賀式典で司令官が述べていたが、最大時には100機あった P3C哨戒機が、防衛予算削減により、現在では65機しか日本全国に配備されていない(!)という。効率的に運用することで対応しなくてはならないと訓辞していたが、これで国土防衛はほんとうに大丈夫なのかしらんと少し不安になった。 
 現在、ソマリア沖に派遣されている P3C哨戒機は二機である。

 「いまそこにある危機」は、いつ「有事」になってもおかしくない状況として急浮上している。いや、すでに実質上、「有事」にあるといっても言い過ぎではないだろう。隣国は、領有の意図を明確に示しているのである。
 
 「マニフェスト」で約束した、経済効果の不確かな諸政策に予算つけるくらいなら、防衛費をしかるべく増強すべきではないか? 
 少なくとも、国内製造業にとって経済効果のあがるような、防衛予算増加はあるはずだ。税金の使い道は、国民自身が決めるべきことである。



<関連サイト>

海上自衛隊下総教育航空群

中国海軍を震撼させる、日本の秘密兵器まもなく登場する固定翼哨戒機「P-1」は世界最高性能(JB Press 2010年11月12日)
・・2011年から配備が開始される、「P3C」後継の国産機「P1」開発をめぐる、元海将による詳細なレポート。日本の技術の粋を集めた国産機開発


<ブログ内関連記事>

陸上自衛隊「習志野駐屯地夏祭り」2009に足を運んでみた
・・2009年8月

書評 『平成海防論-国難は海からやってくる-』(富坂 聰、新潮社、2009)

書評 『民間防衛-あらゆる危険から身をまもる-』(スイス政府編、原書房編集部訳、原書房、1970、新装版1995、新装版2003) 

シビリアン・コントロールということ-オバマ大統領が政権批判したアフガン駐留の現地司令官を解任




(2020年5月28日発売の拙著です)


 
(2019年4月27日発売の拙著です)



(2017年5月18日発売の拙著です)


   
(2012年7月3日発売の拙著です)

 





Clip to Evernote 


ケン・マネジメントのウェブサイトは

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!







end