「アタマの引き出し」は「雑学」ときわめて近い・・日本マクドナルド創業者・藤田田(ふじた・でん)に学ぶものとは?

◆「アタマの引き出し」つくりは "掛け算" だ : 「引き出し」 = Σ 「仕事」 × 「遊び」
◆酒は飲んでも飲まれるな! 本は読んでも読まれるな!◆ 
◆一に体験、二に読書、その体験を書いてみる、しゃべってみる!◆
◆「好きこそものの上手なれ!」◆

<旅先や出張先で本を読む。人を読む、モノを読む、自然を読む>
トについてのブログ
●「内向きバンザイ!」-「この国」日本こそ、もっとよく知ろう!●

■■ 「むかし富士山八号目の山小屋で働いていた」全5回 ■■
 総目次はここをクリック!
■■ 「成田山新勝寺 断食参籠(さんろう)修行(三泊四日)体験記 」全7回 ■■ 
 総目次はここをクリック!
■■ 「庄内平野と出羽三山への旅」 全12回+α - 「山伏修行体験塾」(二泊三日)を中心に ■■
 総目次はここをクリック!


「個」と「組織」のよい関係が元気をつくる!

「個」と「組織」のよい関係が元気をつくる!
ビジネス寄りでマネジメント関連の記事はこちら。その他の活動報告も。最新投稿は画像をクリック!



ご意見・ご感想・ご質問は ken@kensatoken.com にどうぞ。
お手数ですが、コピー&ペーストでお願いします。

© 2009~2026 禁無断転載!



ラベル ルドルフ・シュタイナー、ゲーテ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ルドルフ・シュタイナー、ゲーテ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2015年12月11日金曜日

子安美知子氏の「シュタイナー教育」関連本をまとめて読んで「シュタイナー教育」について考えてみる



ことし2015年の秋のことだが、一ヶ月をかけて子安美知子の「シュタイナー教育」関連本をほぼ出版順に集中的に読んでみた。娘のシュタイナー学校入学から始まる一連の著作である。

著者による観察と体験、聞き取りと対話、文献の学びとの相互作用で、シュタイナー教育とその背景となるシュタイナーの教育思想を知ることができた。そしてまた、20年以上の時間の流れのなかで、一人の人間の内面における認識の深まりと意識の変容を、文字をつうじて追体験し、観察するという興味深い経験をもつこともできた。

子安美知子氏のデビュー作で、かつ現在でも版を重ねているのは、超ロングセラーの『ミュンヘンの小学生-娘が学んだシュタイナー学校-』(中公新書、1975)である。出版からすでに40年、その息の長さには驚かされるばかりだ。

娘の子安文(こやす・ふみ)氏がミュンヘンの「シュタイナー学校」(・・正確には「自由ヴァルドルフ学校」というが、以下通称にしたがって「シュタイナー学校」とする)で過ごした2年間が取り扱われている。

『ミュンヘンの小学生』は、高度成長が終わった1975年に出版されたが、高度成長期に絶頂期を迎えた詰め込み教育のアンチテーゼとして大きな話題になったのだという。

初等教育、とくに小学校段階の教育ほど、親にとって関心のあるものはないだろう。ここ数年の日本では、「詰め込み教育」が批判されて「ゆとり教育」となったものの、さらなる批判によってふたたび詰め込み教育へと逆戻りするなど、初等中等教育は迷走に迷走を重ねている状態だ

『ミュンヘンの小学生』は、著者自身が娘の母親として遭遇した新鮮な驚きが記された、満ちたひじょうに面白い内容の本である。これは読んだ人であれば、誰もがもつ読後感であろう。おそらく、これは2015年現在でも変わらないのではないだろうか。

だが、シュタイナー学校における最初の2年間だけをもってシュタイナー教育がわかったと思い込むのは危険かもしれない。シュタイナー学校の全体像とその背後にあるシュタイナーの教育思想についてある程度の理解がないと、シュタイナー学校を万能薬のように思ってしまう危険があるからだ。まさに A little learning is a dangerous thing(=生兵法は怪我のもと)である。

子安美知子のシュタイナー教育関連本のほぼすべてを2015年という段階で通読してみて、そう思うようになった。

なぜなら、シュタイナー学校はクラス替えのない12年制の一貫教育で(・・くしくも、アメリカの影響で「6-3-3」制をとる日本の学校制度と同じく12年間である)、しかも最初の8年間は、同じ担任が最初から最後まで面倒を見るというきわめて特殊なものであるからだ。日本の学校制度でいえば、小学一年生から中学二年生までの8年間である。

日本の読者を対象とした作品なので、便宜上の手段として小学校、中学校という表現が使用されているが、連続性を考えれば「K-12」という表現を使用したほうがよい。わたしが委員としてかかわっている玉川学園でも、「K-12」あるいは大学まで含めて「K-16」という表現が使用されている。K は、ドイツ語の Kinder (子ども)の略である。

『ミュンヘンの小学生』では、娘の文さんが在学していた「K1」と「K2」 しか扱われていない。その後、日本に帰国中の4年間のインターバルを経て、『ミュンヘンの中学生』では、ふたたびミュンヘンのシュタイナー学校に戻って、「K7」から再開し、区切りとなる「K8」まで在学することになる。

だから、『ミュンヘンの小学生』は『ミュンヘンの中学生』とつづけて読まなくては意味がないのだ。すくなくともこの2冊はあわせて読む必要がある。


■子安母娘の著作をつうじてシュタイナー教育を知る

ここで、わたしが今回、通読したタイトルを列挙しておくこととしよう。テーマ的には、シュタイナー学校とシュタイナー教育、その背後にあるシュタイナーの教育思想、そしてシュタイナー思想の体現者である作家ミヒャエル・エンデとなる。

●『ミュンヘンの小学生-娘が学んだシュタイナー学校-』(中公新書、1975)
●『ミュンヘンの中学生-シュタイナー学校の教室から-』(朝日新聞社、1980 朝日文庫 1984)
●『私とシュタイナー教育-いま「学校」が失ったもの-』(学陽書房、1984 朝日文庫 1993)
●『シュタイナー教育を考える』(学陽書房、1983 女性文庫 1996 朝日文庫 199?)
●『魂の発見-シュタイナー教育の芸術教育-』(音楽之友社、1986)
●『エンデと語る-作品・半生・世界観-』(朝日選書、1986)
●『「モモ」を読む-シュタイナーの世界観を地下水として-』(学陽書房、1987 女性文庫 1996 朝日文庫 1991)
●『ミュンヘン行き来-二つの国の娘と私-』(学陽書房、1989 朝日文庫 1995)
●『シュタイナー再発見の旅-娘とのドイツ-』(小学館、1997)

残念なことに、『ミュンヘンの小学生』出版から5年後の1980年に朝日新聞社から出版された『ミュンヘンの中学生』は単行本も、その後、1984年に朝日文庫から文庫化されたものも、現在ではともに新刊本としては入手不能だ。

ということはつまり、『ミュンヘンの中学生』が読まれることなく、『ミュンヘンの小学生』だけが読まれ続けているということを意味している。これはじつに残念なことであるだけでなく、シュタイナー学校に過剰な期待をしてしまう、あるいは一方的に批判するという、極論を許すことになりかねない。

しかも、子安美知子氏のシュタイナー学校とシュタイナー教育、そしてルドルフ・シュタイナーの思想にかんする認識の深まりも知ることができない。また、シュタイナー学校に通い、シュタイナー教育で育った娘の子安文(こやす・ふみ)氏の見解も知ることができない。

母親は娘の通う学校のユニークさを直接ではなく、あくまでも間接的に観察して追体験してはいるが、じっさいの当事者として体験して観察しているわけではない。母と娘のの両者の視点があわさって、はじめて複眼的にみることができるのであるのだが・・・

母娘それぞれが同じテーマを取り上げているものに以下の書籍がある。じっさいに読み比べてみると面白い。

◆シュタイナー学校関連

●『ミュンヘンの小学生-娘が学んだシュタイナー学校-』(中公新書、1975)
●『ミュンヘンの中学生-シュタイナー学校の教室から-』(朝日新聞社?、1980 朝日文庫 1984)

●『私のミュンヘン日記-シュタイナー学校を卒業して-』(中公新書、1986)



◆シュタイナー学校の芸術、とくに音楽

●『魂の発見-シュタイナー教育の芸術教育-』(音楽之友社、1986)

●『いつもいつも音楽があった-シュタイナー学校の12年-』(音楽之友社、1998)



いずれも新刊書としては入手できないが、読み比べてみることをおすすめしたい。子供と親というものは、似ているようで異なる人格を有する異なる人間なのである。当たり前といえば当たり前なのだが。

同じ内容の体験を、当事者である娘の視点から書かれたものとして読むのは複眼的な思考を養うことにつながる。母親は間接的関与、娘は直接的な関与。体験の質が異なるが、ともに徹底的な観察を行っている点は共通している。


■シュタイナー教育について考える

シュタイナー教育について簡単に説明することは、体験者でもなく、教育の専門家でみないわたしには容易ではないが、子安美知子氏の著作で何度も何度も繰り返し強調されており、個人的にきわめて強い印象をもつのは以下の点である。

最大の特徴は「全人教育」という点だろう。すでに触れたことであるが、12年間の教育のうち、最初の8年間の担任が同じ先生であるという点は特筆に価する。

日本では生徒数が極端に少ない過疎地域の学校でもない限り、なかなか実現しない理想的な環境だ。一人の担任教師が全科目を担当することによって、6歳から14歳までの真の意味での「全人教育」が可能となるのである。おそらく日本以外の先進国でも同様だろう。

「8年間担任制」においては、生徒は担任の先生に全面的信頼を寄せる。担任教師は、生徒にとっては権威として存在するのである。生徒の自我が成長して、いずれ反抗期が来るわけだが、反抗期には担任教師は反抗の対象となる。担任教師はこれらすべてを引き受けなくてはならないので、じつに責任重大で精神的負担の重い仕事である。よほど使命感とプロ意識がないとできない仕事である。しかも8年間がインターバルなので、教師としてのキャリアのなかで3~4回しか体験できない。

シュタイナー教育においては「7年」が一単位となっている。「人間は7年ごとに生まれ変わる」というルドルフ・シュタイナーの思想がその背景にある。

「人間は7年ごとに生まれ変わる」ということは、0歳・7歳・14歳・21歳・28歳・35歳・42歳・49歳・56歳・63歳・70歳・77歳・・・という節目ごとに人間は変わるということを意味している。幼児期から7歳まで、そして 7歳から 21歳までの教育期間の重要性はいうまでもない。もちろん個人差があるので、すべて7の倍数の年になるとはいえないが、だいたいの目安として捉えたらいいのではないだろうか。心理学の「ミラーの法則」にあるように、人間にとって7という数字のもつ意味は大きい。 

「7年目という節目の年」は、次のステージにいくための過渡期の難しさがある。

乳歯から永久歯に生え変わるのが「7歳」前後であり、その次にくるのが「14歳」前後である。とりわけこの時期を生き抜くのは思った以上に困難なものがある。前近代社会においては、日本の元服など、大人になるためにの「通過儀礼」によって、子ども時代を象徴的に殺し大人として「再生」させていたことからもそれはわかる。次の状況への移行期(=トランジション)というものは、つねに不安定な時期なのである。

「7年ごとの変化」については、シュタイナー自身はさらに詳細な説明を行っているのだが、ここでは省略する。要は、7年ごとに意識変容と人間的成長が見られるということだ。内発性を最重視し、内側から外側へ、外側から内側へという往復運動をらせん状に繰り返していくことで人間は成長していくという人間観。いやシュタイナー的には「渦巻き」的というべきか。「急がば回れ」(festina lente:ゆっくり急げ)ということに尽きるだろう。

知能指数の高い子どもにおいては、ときに感情面が欠如したままのケースもある。これは日本も含めた先進国では大きな問題となっているが、日本語の表現にもある「知情意」では間違えてしまうのだ。「知・情・意」の順番ではなく、「意・情・知」の順番で成長していくのがシュタイナー流の理想なのである。

魂の成長を促すために、シュタイナー学校では芸術、とくに音楽が重視される。音楽学校と間違えるほど、いつも音楽がある。音楽が魂の成長と密接な関係があることは、古代ギリシアのプラトンやピュタゴラスなどを想起すべきであろう。音楽はリベラルアーツの要(かなめ)的存在なのである。

以上、ごく簡単にわたしの理解するシュタイナー教育についてまとめてみたが、子安美知子氏のように、シュタイナー教育への主体的な関心からシュタイナー思想へアクセスしていく流れはナチュラルなことではないかと思うのだ。

実践の背景には、かならずそれを支える思想がある。その思想が明示的に示されていなくても、かならず思想的背景はあるのだ。実学もまた同様である。だが、残念なことに実践や実学の背景にある思想にまで関心を寄せる人が少ないのが現実であるが・・・。

いずれにせよ、山の登り口はさまざまあるが、目指すべき、到達すべき頂上はひとつである、そういう言い方も可能かもしれない。


■「教育」をてがかりにシュタイナー思想に接近する

世界に拡がるシュタイナー教育だが、教育の世界ではメインストリームとは言いがたいのは、あまりにも手間がかかるためだろう。手間がかかるということはコストだけでなく、教員養成のための時間もかかるということだ。

だが、メインストリームではないからこそ、アンチテーゼとしての魅力を持ち続けているというべきかもしれない。

ある意味ではペスタロッチに始まるロマン派的傾向の教育思想とその実践であるが、シュタイナーの遺産のなかではもっとも成功したのが教育だといっていいだろう。

人間がかかわるほぼすべての領域について膨大な足跡を残したシュタイナーだが、教育以外の分野ではどうだろうか?


ロマン派思考は個人レベルではよいのだが、集団レベルや組織レベルになるとどうもうまく機能しない傾向があるように思われる。子安美知子氏が翻訳した『シュタイナーの学校・銀行・病院・農場-アントロポゾフィーとは何か?-』(ペーター・ブリュッゲ、子安美知子/クリストリープ・ヨープスト訳、学陽書房、1986)を読んでみての感想だ。

教育はもっとも成功した分野だ。教育とともに農場も成功しているといえよう。エコロジー思想とのからみにおいて。病院はオルタナティブ療法の開発を行っている。

だが、この本を読む限り、銀行については理想は理解できなくもないが、実践面では実現可能性は低いと思わざるを得ない。経済にかんしてはあくまでもオルタナティブにとどまっているというのが、わたしの評価である。試みとしてはすばらしいものがあったとしても、現実的なレベルからは程遠いという意味においてだ。

30年前にドイツのジャーナリストが書いた本だが、現在でもそう大きく変わっていないのではないだろうか。

とはいえ、シュタイナー教育について知ることは、現代ドイツの理解にも大いに役立つことだ。本拠地のドイツでは、シュタイナー学校卒業生はまだまだ少数派であるとはいえ、その存在感の大きさはわれわれが想像する以上のものがあるようだ。

日本人には人気のあるミヒャエル・エンデを理解するためにも、シュタイナー教育については知っておいたほうがいい。エンデ自身がシュタイナー学校の卒業生であるだけでなく、熱心なアントロポゾーフ(=人智学信奉者=シュタイナー主義者)であった父親の影響だけでなく、本人がシュタイナーの著作を熱心に読み込んで、無意識のうちに作品世界にその思想が反映しているからである。

その意味では、シュタイナー教育そのものを扱った本ではないが、今回あわせて読んだ 子安美知子氏の『エンデと語る-作品・半生・世界観-』(朝日選書、1996)はじつに興味深い内容の本であった。ぜひこの本も読んでみたらいいだろう。

評論家の小林秀雄が「全集は丸ごとぜんぶ読め」とすすめていたことを、ずいぶん昔のことだが読んだ記憶がある。一人の著者による、同じテーマにかんする本を時系列にしたがってまとめて読んでみるという体験によって、小林秀雄の発言の意味の一端がわかったような気がしている。


PS 子安美知子氏が2017年7月2日にお亡くなりになった。享年81歳。ご冥福をお祈りいたします。(2017年7月5日 記す)

娘が通ったシュタイナー学校を紹介・ドイツ文学者 子安美知子さんをしのんで (なかのかおり=ジャーナリスト、ハフィングポスト日本版、2017年7月26日)

(2017年7月27日 情報追加)




<関連記事>

シュタイナー教育と子安美知子(マキペディア 発行人・牧野紀之、2013年12月2日)
・・「氏の諸著を読んでいて一番不思議に思うことは、シュタイナー学校を知ったことで氏のドイツ語の授業がどう変わったのかが全然書かれていないことである。(・・中略・・)シュタイナーを知ったことで氏の授業がどう変わったのか、私はそれが一番知りたいし、それこそ本当のシュタイナー研究ではなかろうか。この子安氏の欠点は、しかし、日本の学者の思想研究に共通した欠点である。外国の、あるいは欧米の思想を紹介するだけで、それによって自分の生き方がどう変わったかを問題にしないのである。」 シュタイナー思想およびシュタイナー教育を好意的に評価したうえでの批判

シュタイナー教育(西川隆範)
・・ブログ記事(2005年)のもの

(2017年7月5日 項目新設)
(2017年9月23日 情報追加)


<ブログ内関連記事>

■シュタイナー関連

「ルドルフ・シュタイナー展 天使の国」(ワタリウム美術館)にいってきた(2014年4月10日)-「黒板絵」と「建築」に表現された「思考するアート」

「生命と食」という切り口から、ルドルフ・シュタイナーについて考えてみる


■シュタイナー思想の影響を受けた作家ミヒャエル・エンデ

『エンデの遺言-「根源」からお金を問うこと-』(河邑厚徳+グループ現代、NHK出版、2000)で、忘れられた経済思想家ゲゼルの思想と実践を知る-資本主義のオルタナティブ(4)

『ミヒャエル・エンデが教えてくれたこと-時間・お金・ファンタジー-』(池内 紀・子安美知子・小林エリカほか、新潮社、2013)は、いったん手に取るとついつい読みふけってしまうエンデ入門

ミヒャエル・エンデの『モモ』-現代人はプロテスタント的な「近代的時間」から逃れることはできないのか?


■内発性を重視した教育学

「人間の本質は学びにある」-モンテッソーリ教育について考えてみる
・・イタリア発の教育学

ペスタロッチは52歳で「教育」という天命に目覚めた
・・シュタイナーへの流れの開始点にあたる存在

『モチベーション3.0』(ダニエル・ピンク、大前研一訳、講談社、2010) は、「やる気=ドライブ」に着目した、「内発的動機付け」に基づく、21世紀の先進国型モチベーションのあり方を探求する本
・・内発性の動機を重視する流れが主流へと向かいつつある

書評 『ハーバード大学は「音楽」で人を育てる-21世紀の教養を創るアメリカのリベラルアーツ教育-』(菅野恵理子、アルテス、2015)-音楽は「実学」であり、かつ「教養」でもある


■ゲーテ関連

ルカ・パチョーリ、ゲーテ、与謝野鉄幹に共通するものとは?-共通するコンセプトを「見えざるつながり」として抽出する
・・ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』

銀杏と書いて「イチョウ」と読むか、「ギンナン」と読むか-強烈な匂いで知る日本の秋の風物詩
・・ゲーテの『西東詩集』


■ミュンヘン関連

「カンディンスキーと青騎士」展(三菱一号館美術館) にいってきた
・・ミュンヘンのレンバッハ邸美術館について


(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2022年12月23日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2022年6月24日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2021年11月19日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2021年10月22日発売の拙著です 画像をクリック!)

 (2020年12月18日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2020年5月28日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2019年4月27日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2017年5月19日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2012年7月3日発売の拙著です 画像をクリック!)


 



ケン・マネジメントのウェブサイトは

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!








end

2010年8月1日日曜日

「生命と食」という切り口から、ルドルフ・シュタイナーについて考えてみる



(ウィーン南駅近くの公園にあるシュタイナー記念碑 筆者撮影)


■Der Mensch ist, was er ißt.(デア・メンシュ・イスト、ヴァス・エア・イスト)

 英語には Man is what he eats. (人間は、食べるところのものである)という表現がある。よく引用されるので、知っておられる方も少なくないだろう。食べるという行為から人間を定義した名言である。

 もともとは、ドイツ語で Der Mensch ist, was er ißt. という。

 ドイツ語の ist と ißt が同じ音なので、ダジャレっぽくくて覚えやすい。ただし、最新のドイツ語正書法では、ißt を使用せず isst(<essen 食べる の三人称単数現在形)を使用する。

 日本を代表するドイツ語学の大家であった関口存男(せきぐち・つぎお)の『関口・新ドイツ語の基礎』(三修社、1981)によれば、19世紀の唯物論哲学者ルートヴィヒ・フォイエルバッハ(Ludwig Feuerbach)のコトバだという。

 フォイエルバッハは、ヘーゲル左派の立場から、マルクスに大きな影響を与えたドイツの唯物論哲学者である。

 この表現は、ある意味では、身も蓋もない即物的な表現だが、自然科学的唯物論を面白く皮肉に要約した言だと関口存男は記している。独文和訳の問題として出題されている。

 余談だが、ドイツ語は私にとっては大学時代の第三外国語で、参考書として勉強した本。数年前にドイツ語を復習した際に、この本を改めて読み直し、この名言を再発見した。

 『関口・新ドイツ語の基礎』は、原本が1945年発行のもので戦前のよき伝統を残しつつ、敗戦後の日本社会復興という時代の息吹も感じられる名著である。ドイツ語を英語との対比だけでなく、広く印欧語のなかに位置づけている。言語学を押さえた注には、ギリシア語、ラテン語、ロシア語もでてくる。また、哲学やドイツ思想にかかわる背景説明も詳しくて読んで面白く、旧制高校的教養主義の香り豊かな作品である。

 関口存男は、旧制高校生からは関口ゾンダンよばれていたそうだ。ドイツ語の sondern(そうではなく) にひっかけたダジャレである。

 関口存男は、昭和のはじめ、創刊された最初の頃の岩波文庫にモリエールのコメディ『人間嫌ひ』(Le Misanthrope)を翻訳している。フランス語にも堪能な人であった。
 


■「人間は、食べるところのものである」 とルドルフ・シュタイナー

 Der Mensch ist, was er ißt.(人間は、食べるところのものである)。この表現がヘーゲル左派の哲学者フォイエルバッハの言であると見れば、まさに内容は唯物論そのままである。

ところで、人智主義(アントロポゾフィー)の思想家ルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner)は、『健康と食事』(シュタイナー、西川隆範訳、イザラ書房、1992)に収められた「肉食と菜食」(1908年)で、この表現にふれた講演を行っている。

 シュタイナーは唯物論の立場ではなく、彼のいう「精神科学」の立場からこのコトバが重要だといっている。

 19世紀の偉大な哲学者フォイエルバッハは、「人間は、食べるところのものである」という、有名な言葉を残しました。この言葉は霊的理想主義者たちを驚愕させました。唯物論は、人間とは食べものの集積であり、身体だけでなく、精神も食べ物という物質から発生すると考えている、と多くの人々は思いました。
 ・・(中略)・・
 精神科学は、「人間は、食べるところのものである」という言葉を、唯物論者とはべつの意味で用います。精神科学にとっては、わたしたちの周囲にあるものは、すべて霊的なものの現れです。・・(中略)・・物質の背後には、霊的なものが存在します。食べものの背後にも、霊的なものが存在します。わたしたちは、目の前にある食べものだけを食べるのではありません。わたしたちは食べものの背後に存在する霊的なものも、いっしょに食べるのです。わたしたちは食べものをとおして、その背後に存在する霊的なものと関係するのです。も、いっしょに食べるのです。「人間は、食べるところのものである」という言葉は正しいのですが、その間、物質的なプロセスだけでなく、霊的なプロセスも存在していることを理解しなければなりません。

(出所:『健康と食事』(シュタイナー、西川隆範訳、イザラ書房、1992) P.7-9、「肉食と菜食」(1908年より 太字ゴチックは引用者=さとう による)


 シュタイナーも、基本的に 「人間は、食べるところのものである」 というコトバのもつ唯物的な側面を否定しているわけではない。その上でさらに霊的なものが含まれるのだと主張しているわけだ。


 ほぼ同時期に行われた講演「精神科学の光に照らした栄養問題」(1909年)でも、フォイエルバッハのこのコトバを引き合いに出している。『身体と心が求める栄養学』(シュタイナー、西川隆範訳、風濤社、2005) 所載。

 シュタイナーの主張の是非はさておき、『健康と食事』を読んで驚くのは、すでに1922年から1924年にかけての時期に、「狂牛病」について警告を発していたことである。

 シュタイナー自身は「狂牛病」という表現は使っていないが、ゲーテアヌムの労働者たちにむけて、講演のなかで述べている。ゲーテアヌムとは、シュタイナー自身が設計した建築物で、人智学運動の中心として位置づけられている。18世紀ドイツの文豪にして知的巨人であったゲーテにインスパイアされたものだ。

 引用は「酒とタバコ(2)」から。

 草食動物がいるのはご存じのとおりです。肉を食べない動物がいるわけです。たとえば、牛は肉を食べません。馬も肉を食べません。
 ・・(中略)・・
 牛が肉を食べるとしてみましょう。牛は自分で肉を作れます。そのための力を内に有しているのです。牛が草のかわりに肉を食べると、どうなるでしょうか。肉を作る力を使わないことになるのです。・・(中略)・・そのような状態では非常に多くの力が無駄に失われます。動物の体のなかで失われる力は、そうかんたんにただ失われるという具合にはいきません。最後にはこの力が牛のなかにいっぱい詰まるようになるのです。そうなると植物から肉を創るのとはちがったことが生じます。力が牛のなかにとどまっています。その力の活動によって、さまざまな汚物が作られるのです。肉が作られるかわりに、有害な物質が作られるのです。牛が肉を食べるとあらゆる有害な物質が体に満ちるようになります。とくに尿酸、尿酸塩が体内に満ちます。
 尿酸塩には特別の性質があります。尿酸塩は、神経組織と脳を溺愛しているのです。牛が肉を食べると、、大量の尿酸塩が体のなかに分泌されます。尿酸塩は脳に行き、牛は気が狂います。・・(以下略)・・ (P.113-116)


 この講演は、先にも記したように1924年になされたものである。シュタイナーはここまでいっているのである。この講演では、死んだ牛が原料となった肉骨粉については直接言及されていないが、ほとんで予言といってもいいような響きがある。

 尿酸(uric acid)は通常は老廃物として尿と一緒に排泄されるが、ビールの飲み過ぎやプリン体を多く含む食べものを摂取しすぎると体内で過剰な状態となり、尿酸塩という細かいガラスの破片状になって、足の親指や膝の関節にたまって痛風の原因になることはよく知られている。尿酸値というデータで示されるが、尿酸値が高いと健康診断で問題とされる。

 尿酸塩が脳障害の原因になるのかどうか、現在の医学知識からみて正しいのかどうか、私は医学は専門ではないのでわからない。

 とはいえ、いまから86年前の講演で、このような内容の話をしていること自体が驚きなのだ。



『生命と食』(福岡伸一、岩波ブックレット、2008)によれば、狂牛病(mad cow disease)の原因となった肉骨粉(meat and bone meal)は、すでに20世紀初頭からレンダリングとよばれる工程で製造され、欧州では一大産業となっていたという。福岡ハカセは B.S.E. という表現を使っていては事の本質を見失う可能性が高いとして「狂牛病」という表現を使うべきだとしている。

 シュタイナーはこの事実を踏まえて、1924年時点で不気味な「予言」、いや「預言」(?)をしていたのかもしれない。

 世界ではじめて「狂牛病」が発見されたのは、1985年の英国である。1985年までまったく存在しなかった「狂牛病」について、その60年以上まえにシュタイナーは危険について語っていたことになるのだ。

 また、『健康と食事』でシュタイナーは、ジャガイモは食べるとバカになるという実践的アドバイスを何度も繰り返している。シュタイナーがいう根拠はここでは省略するが、私はこの文章を読んで以来、どうもこのアドバイスが気になって仕方がない。

 南米アンデス原産で、アイルランドの飢饉を救ったジャガイモ。 シュタイナーの主張が、どの程度まで、現段階の栄養学的知識と合致しているのか私にはわからない*。コロッケはうまいと思って食べてしまう。
 

*現代の医学的見地からみても、やはりジャガイモはからだに悪いようだ。『40歳からの予防医学 ー 医者が教える「病気にならない知識と習慣74』(森勇麿、ダイヤモンド社、2021)には、以下のような記述がある。「34. 高血圧と体重増加の罠 じゃがいも を食べすぎると早死 にする」から冒頭部分を引用しておこう。著者の森勇麿氏は、産業医・内科医。

残念ながら「じゃがいも」は、体に悪い食べ物です。「野菜の一種で体にいいのでは?」とイメージしたかもしれませんが、じゃがいもは「野菜」と定義しないほうがいいです。12万人を対象にアメリカで行われた「4年間にわたって食事と体重の関係を調査した論文」を見てみましょう。
一般的な野菜や果物は体重の減少に寄与していたのに対して、じゃがいも、そしてポテトチップス、フライドポテトがワンツーフィニッシュで 体重の増加に影響を与えていました。生活習慣病との関係でも、「じゃがいもをゆでて食べた場合は若干糖尿病のリスクが上がり、フライドポテトにかんしては明らかに高血圧のリスクが上がっ た」 というデータが存在します(・・・中略・・・)
さらには「じゃがいもと早死に」にかんして調査した研究も北米で行われており、揚げなければ早死に自体には関係ないものの、フライドポテトを定期的に摂取している人は死亡リスクの増加、すなわち早死ににつながったという論文もあります。(・・・後略・・・)


ルドルフ・シュタイナーの先見性には、あらためて驚くばかりだ。

(2025年1月9日 記す)



■ルドルフ・シュタイナー(1861~1925)とは

 シュタイナーというと、日本では「シュタイナー教育」で有名な教育学者として紹介されることがもっとも多いだろう。「モンテッソーリ教育」とならんで幼児教育の世界では二大勢力である。

 あるいは熱心な読者が存在する、オカルト思想家のような扱いを受けることも多い。シュタイナー教育かオカルト思想家か、日本人の関心はそのどっちしかないようだが、実際はそのような枠におさまるような人物ではない。

 シュタイナーは、ハプスブルク帝国時代に現在のクロアチアで生まれている。ウィーン工科大学に学んでいるように、幅広い自然科学的知識をもっていた。

 まず本人の自己規定にあるように「人智学者」(アントロポゾーフ)である。「人智学」(アントロポ・ゾフィー)は、ギリシア語で人間を意味するアントローポス(anthropos)と叡智を意味するソフィア(sofia)の合成語で「人間の叡智」を意味する。叡智を愛するという意味をもつフィロ・ソフィア(哲学)を想起させる。

 人間の叡智を、部分最適ではなく、全体として捉えるという姿勢であろう。人間存在を部分ではなく全体で捉えるという思想。
 
 私はシュタイナー思想の熱烈なファンではないし、思想内容をついて詳しく知っているわけではない。シュタイナーの生涯にわたる活動を専門分野でいえば、教育実践、芸術、建築、医学、農業、哲学、宗教、社会変革と、きわめて広範囲にわたっていることからもわかるように、一言で要約するのは難しい。

 若き日にゲーテ全集の編集に携わった経験もあろう、ゲーテのもつ人間存在の全体性を、自らも実践しているといえるのでないだろうか。日本で一般に知られているのは文学にかんする側面だけであるが、ゲーテはひろく自然科学関係の研究を行っている。

 ルドルフ・シュタイナーは、日本でいえば、同時代に生きた大本教の出口王仁三郎(1871-1948)のような存在であったろうか。

 こういうことをいうとシュタイナーの熱烈なファンからは、無理な対比ではないかといわれそうだが、スピリチュアル世界(霊的世界)へのかかわりの深さと口述筆記による著作の膨大さからみれば、この二人は似ているような気がするのだがどうだろうか。

 私が不勉強なためよく知らないが、シュタイナーの影響は間接的に出口王仁三郎に与えているかもしれない。もちろん、この両者には同時代人としてのシンクロニシティはありそうだ。

 深く尊敬してやまなかったゲーテと同様、シュタイナーもまた、自然科学から芸術にまたがる「知の巨人」であり、「万能人」であった。

 ただし、医学的知識はシュタイナー存命当時からすでに90年近くもたっており、現在では修正を要するものも多々あることだろう。

 まお、ドイツ語でなされたシュタイナーの思想は、ドイツの「緑の党」への思想的影響もある。『モモ』の作者ミヒャエル・エンデの思想にも大きな影響を与えたようだ。



■シュタイナー農法について-バイオ・ダイナミック農法

 スロヴェニアのワイン農家で、ワイン栽培に「シュタイナー農法」を実践している人の話を、本人の口から直接聞いたことがある。

その後読んだ、『ブドウ畑で長靴をはいて-私のロワールワイン造り奮闘記-』(新井順子、集英社インターナショナル、2005)は、フランス・ロワール地方でワイン作りをする日本人女性による半自叙伝だが、この本のなかにはシュタイナー農法の話がでてくる。「ミッシェル・オジェのビオディナミ勉強会」(P.58-62)

 フランス語表記で bio dynamic は通常英語で biodynamics agriculture、日本語ではバイオダイナミック農法という。

 「バイオダイナミック農法」(ビオデュナミ農法)とは、有機農業のような地球の観点だけでなく、天体の動きとの関係、とくに太陽や月など、宇宙との関係に基づいた「農業暦」にしたがって、種まきや収穫などを行うという、自然と調和した農業のことである。

 1924年以来、デメター(Demeter:デメテル)運動として欧州で普及して今日にいたる。デーメテールとはギリシア神話で豊穣の女神のことだ。

 また、ここで取り上げたように、「バイオダイナミック農法」(ビオデュナミ農法)の創始者として、とくにヨーロッパでは広く実践されていることも知っておいて損はないだろう。

 ちなみにスロヴェニアのワイン農家で試飲させていただいたワインは、赤も白もデザートワインもみなたいへん美味であった。



■生命(いのち)と食について

 先日、生まれてはじめて断食を実行した。この体験については、成田山新勝寺「断食参籠(さんろう)修行」(三泊四日)体験記 と題して7回にわたって書いておいたが、陳腐ないい方だが、食べることの意味をあらためて考える貴重な機会になった。

 また断食参籠修行期間中は、「殺生戒」に反しない生活を短期間とはいえ送ることもできた。日本人で仏教徒である私は、「生きとし生けるものが幸せであるますように」という慈悲の心には強く共感するし、また「殺生戒」と「生命と食」について、いろいろ考えることも多い。

 さきにふれた『生命と食』(福岡伸一、岩波ブックレット、2008)で、分子生物学者の福岡ハカセはこういうことを言っている。

 ルドルフ・シェーンハイマー(1989-1941)というドイツに生まれてアメリカに亡命した一人のユダヤ人科学者が、もっと重要なことを発見していました。彼は、食べものというのは、単なるカロリー源ではないということを明らかにしたのです。
・・(中略)・・
 食べものの分子は単にエネルギー源として燃やされるだけでなく、体のすべての材料となって、体の中に溶け込んでいき、それと同時に、体を構成していた分子は、外へ出ていくということです。
・・(中略)・・
 食べものの分子そのものが体を一瞬作り、それが分解されて、また流れていく。体というふううに見えているものは、そこにずっとあるわけではなくて、絶え間なく合成されて分解されていく、流れの中にあるのです。(P.8-9)


 これが「動的平衡論」(dynamic equilibrium)という学説である。福岡ハカセの一連の研究は、生命現象を「動的平衡論」の立場から捉えたものである。

 人間が食べたものは、動物だろうが植物だろうが、文字通り人間のカラダそのものと一体化するのである。瞬間的であるが。

 その意味では、Der Mensch ist, was er ißt. という表現は部分的であれ正しいわけなのだ。分子が合成され分解され、瞬間瞬間に入れ替わっているということまでは表現されていないが。

 このように見るとき、人間は、動物であれ、植物であれ、他者の生命をいただいて食べることで、自らが存在していることの意味を、たんなる精神論だけでなく、きちんとした科学的知見に基づいて行う必要があるだろう。

 これはシュタイナーの発想とは逆になるが、実は唯物的な話と、精神的な話が合致することが重要なのかもしれないと思うのである。

 「生命」は「いのち」と読むと、さらに味わいが深くなる。


 ///////////////////////////////

         
 なお冒頭に掲げたルドルフ・シュタイナーの記念碑は、オーストリアの首都、ウィーン南駅(Wien Süd)近くの公園で私が撮影したものである。銘板には「ルドルフ・シュタイナー 1861-1925 哲学博士。フィロゾーフ(=哲学者)にしてアントロポゾーフ(=人智学徒)」と刻まれている。

 まさかそこに記念碑があるとは知らずに、数年前のとある秋の日、たまたま公園内を逍遙していた際に発見したのだが、ご覧のとおり綺麗に掃除されて、花も美しい。

 この時期のウィーンの講演には、いたるところにカスターニエン(=マロニエ)の実が転がっていた。

 シュタイナーは、いまでも影響力の強い存在なのだ。





<関連サイト>

西川隆範:シュタイナー人智学の研究 シュタイナー思想を日本語で語りなおす

西川隆範シュタイナー系アーカイヴ
・・シュタイナーの著作を精力的に日本語に翻訳してきた西川隆範氏は、2013年にお亡くなりになっていることを書き添えておく。合掌

(2017年9月23日 お彼岸 項目新設)

牛の角も材料!何とも「風変わりな農法」の中身-バイオダイナミック農法とは何か(東洋経済オンライン、2019年11月16日)

(情報追加 2019年11月16日)


<ブログ内関連記事>

「ルドルフ・シュタイナー展 天使の国」(ワタリウム美術館)にいってきた(2014年4月10日)-「黒板絵」と「建築」に表現された「思考するアート」

シュタイナー研究家の西川隆範氏による仏教書は、教団や教派とは関係のないフリーな立場に身を置いた個人ベースのスピリチュアリティ重視の仏教を志向する

子安美知子氏の「シュタイナー教育」関連本をまとめて読んで「シュタイナー教育」について考えてみる
・・日本でも根強い人気のある「シュタイナー教育」について考えてみる

「人間の本質は学びにある」-モンテッソーリ教育について考えてみる
・・シュタイナー教育よりも世界的な影響力をもつモンテッソーリ教育について考えてみる

ベルギーとポテトの関係-ベルギー・ポテトの水煮缶詰が便利!
・・「じゃがいもを食べるとバカになる!?」と説いたルドルフ・シュタイナー という「補論」を書いておいた

書評 『食べてはいけない!(地球のカタチ)』(森枝卓士、白水社、2007)-「食文化」の観点からみた「食べてはいけない!」

I am part of all that I have met (Lord Tennyson) と 「われ以外みな師なり」(吉川英治)
・・これまでの人生で出会った人、食べた食事。これらはみな自分にとっての「栄養」だ。いいものも悪いものもみな

マロニエはマロン(栗)にあらず
・・シュタイナーの記念碑のある公園で撮影したカスターニエン(=マロニエ)の実について書いてみた

書評 『ことばの哲学 関口存男のこと』(池内紀、青土社、2010)-言語哲学の迷路に踏み込んでしまったドイツ語文法学者

ルカ・パチョーリ、ゲーテ、与謝野鉄幹に共通するものとは?-共通するコンセプトを「見えざるつながり」として抽出する

銀杏と書いて「イチョウ」と読むか、「ギンナン」と読むか-強烈な匂いで知る日本の秋の風物詩
・・ゲーテの『西東詩集』に登場するイチョウ

スワイン・フルー-パンデミック、すなわち感染症の爆発的拡大における「コトバ狩り」について
・・「新型インフルエンザ」という「豚インフルエンザ」の言い換えは、BSEという狂牛病の言い換えに同じ欺瞞の産物


(付記) 2013年9月7日に「ブログ内関連記事」を追加しました。本文にはいっさい手を加えていません。(2014年2月10日、4月12日、4月21日 情報追加と再編集 )
(2016年6月18日、2017年12月2日 情報追加)




(2025年1月24日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2022年12月23日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2022年6月24日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2021年11月19日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2021年10月22日発売の拙著です 画像をクリック!)

 (2020年12月18日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2020年5月28日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2019年4月27日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2017年5月19日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2012年7月3日発売の拙著です 画像をクリック!)


 



ケン・マネジメントのウェブサイトは

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!








end