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2015年12月7日月曜日

ペスタロッチは52歳で「教育」という天命に目覚めた

(ペスタロッチの肖像画  wikipedia より)

ペスタロッチが、「シュタンス孤児院」に着任したのは1798年12月7日のことであった。そのときペスタロッチは52歳。その決断が、「教育実践家ペスタロッチ」の誕生となったのである。

ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ(1746~1827)は、ドイツ語圏スイスの人。ゲーテの同時代人で、ルソーの影響のもと、貧民や未婚の母など社会的弱者のために生きるという青年時代以来の理想主義を一生貫いた人だ。

現代では「教育家」として知られるペスタロッチだが、最初から「教育家」だったわけではない。農場経営の失敗、貧民学校の失敗など実践家としての試みが失敗に終わった後は、文筆家として身を立てていた。「教育家」としての天命に目覚めたのは、冒頭に記したように、じつに52歳のときであった。さまざまな人生経験を経た後にたどりついたのがこの境地であったのだ。

81歳という長命の人であったペスタロッチであるが、当時の平均寿命からいえば52歳は晩年であろう。もし52歳でのこの決意がなければ、ペスタロッチはその他大勢の作家の一人として、人々の記憶からまったく消えていたことだろう。

このペスタロッチと、かれに触発されたドイツのフレーベルこそが、幼児教育の元祖的存在であることは教育関係者であれば常識であろう。この流れのなかに思想家ルドルフ・シュタイナーによるシュタイナー教育がある。いずれもドイツ語圏で生まれ育った教育思想である。

そんなペスタロッチについて知るためになにか一冊読んでおきたいと思って読んだのが、『人と思想 108 ペスタロッチ』(長尾十三二・福田弘、清水書院、1991)である。生涯と思想を要領よくまとめたもので、高校の倫理社会の副読本としても使用されているシリーズである。

この本からは、著者たちのペスタロッチへの深い傾倒ぶりがうかがわれる。実質的な執筆者である福田弘氏もまた、ペスタロッチとはじつに奇妙な名前だなという感想が、最初の出会いにあったと「あとがき」に記している。じつはわたしもそうであった。福田氏は学生時代、大怪我の療養中に、この奇妙な名前に引かれて人物の伝記を読んだことで人生が決定されたのだという。まさに人生のターニングポイントである。

たしかにペスタロッチという名前は奇妙に響く。本書で初めて詳しく知ったが、スイスのドイツ語圏チューリヒに生まれ育ったペスタロッチ(Pestalozzi:ペスタローツィ)は、イタリア系スイス人だったのだ。16世紀に北イタリアのキアヴェンナ(Chiavenna)出身の福音派プロテスタントの家系なのだという。

ペスタロッチは、おなじくスイスだがフランス語圏ジュネーブ出身の思想家ジャン・ジャック・ルソーの強い影響を受けている。ドイツ語圏の人でありながら、理想主義肌で情熱的な性格は、ラテン系という出自によるのであろうか。

ペスタロッチはゲーテと同時代の人だ。フランス革命という大変化のまっただなかで、ドイツ語を母語とする人間として生きた人である。

スイスでは、フランス革命の強力な影響のもとで革命政権が成立し、ヘルヴェティア共和国(1798~1803年)と名乗る短い時代があった。ペスタロッチ自身のターニングポイントはそのときに発生したのである。

フランス軍による「反革命」の鎮圧が行われたのがシュタンスで、牧畜と農業を中心としたアルプスの小都市では孤児や浮浪児がたくさん発生した。そのシュタンスこそがペスタロッチにとっての人生のターニングポイントとなった地だ。

革命政権の依頼でペスタロッチはシュタンス行きを受諾。民衆を救済し、みずからの理想である「教育実験」を行うため、みずから教師になることを決断したのである。それが1798年12月7日、ペスタロッチ52歳のときであった。「わたしは教師になる」と言い切ったのである。長い人生遍歴のすえ、52歳にして天命に目覚めたのである。

シュタンス孤児院におけるペスタロッチの手探りの教育実践については、ペスタロッチ自身による『シュタンスだより』に記述されている。岩波文庫に長田新訳で『隠者の夕暮 シュタンツだより』(1943年、1982年改版)に収録されている。この本も今回はじめて読んでみたが、なまなましい息遣いの感じられる内容である。

どんな子どもでも、もともと潜在的にもっているすぐれた特質を「引き出し」て育てるという姿勢、これはペスタロッチの手探りの実践から生まれたのである「子どもが多数で不揃いであることが私の仕事を容易にした」と逆説的な口調で『シュタンス便り』で語っている。一人ひとりへの目配りは当然のことながら、集団の多様性こそ重要だという認識を読み取ることができる。

ペスタロッチのシュタンス滞在は、孤児院が閉鎖されてしまったため半年で終わってしまったのだが、その意義はきわめて大きなものがあったといえる。

ペスタロッチが「教育」という天命に目覚めなければ、ドイツ語のキンダーガルテン(Kindergarten:子どもたちの園=幼稚園)の生みの親であるフレーベルも存在しなかったからである。どんな分野においても、最初の一歩を踏み出す人がいなければ、何事も始まらないのである。

(シュタンス孤児院におけるペスタロッチ 『シュタンスだより』岩波文庫旧版より)


ペスタロッチ登場以前の「子ども」の「教育」-ペスタロッチ出現の意味

ペスタロッチ以前の教育がいかなるものであったのか? これは重要なので考えておく必要がある。そうでないとペスタロッチの天命の意味が見えてこないからだ。

われわれは、ついつい現在の常識が以前から常識であったとみなしがちだ。だが、「革命」の意義は、革命以後の時間のなかで定着していくものである。あとから振り返ると、あのときがターニングポイントだったとわかることが多々あるが、じつは物事はそれほど急激に変化するわけではない。

そもそも、「子ども」が発見されたのは18世紀以降であり、「子ども」という認識はヨーロッパにおける近代の産物なのである。これは、フランスの「日曜歴史家」フィリップ・アリエスが、『<子供>の誕生-アンシァン・レジーム期の子供と家族生活-』(みすず書房、1980、原書出版 1960)という本で明らかにした見解だ。中世ヨーロッパにおいて子どもは「小さな大人」とみなされていたのである。そして、「教化され庇護される存在」であり、「克服されるべき野性」である、と。

「子ども期」の認識は13世紀頃に萌芽があらわれ、16~17世紀に明確になってきたものだ。だが、それがヨーロッパ全体で共有されるにはかなりの時間がかかったと考えなくてはならない。教育学の古典とされる『エミール』の著者ルソーですら、自分の子どもを5人とも孤児院に捨てて平然としているのである!

第二次世界大戦や戦後復興期の孤児院や寄宿舎を扱ったヨーロッパ映画では、子どもたちが暴力的に折檻されるシーンはいくらでもでてくる。

たとえば、第二次世界大戦下のハンガリーを舞台にした 映画 『悪童日記』(2013年、ハンガリー)は、過酷で不条理な状況に置かれた双子の少年たちが、特異な方法で心身を鍛え抜きサバイバルしていく成長物語だが、折り合いの悪い祖母や見知らぬ大人から平手打ちされるシーンなど多数ある。

映画 『シスタースマイル ドミニクの歌』 は、第二次大戦後の復興期のベルギーが舞台だが、反抗的な発言をした娘が母親から平手打ちされるシーンがある。第二次世界大戦後の復興期においてすら、ヨーロッパでは教育現場においても暴力は当たり前であった大きな変化があったのは、戦後生まれ世代が中心となった「1968年革命」以降であろう。

そう考えれば、スイスもまた同様であったと考えるべきだろう。山岳地帯のスイスはかなり保守的な風土である。

ペスタロッチを生み出したスイスが、はたしてペスタロッチ流の理想にもとづいた教育の中心となっているかといえば、それとこれとは別でないだろうか。チューリヒやジュネーブのような都市を除けば、大半が山岳地帯の農村というスイスである。女性参政権が完全に認められたのが、なんと1991年(!)というほど保守的なスイスの風土であることを考えるべきなのだ。

「預言者故郷に容れられず」という格言があるが、理想主義者のペスタロッチの試みは、すくなくとも生前においては故国のスイスでは受け入れられなかった

むしろ、ペスタロッチから直接的な影響を受けたフレーベルによって当時の先進国プロイセン王国で、その後は英語圏で、さらにはドイツの影響を受けた大正時代の日本の私学で継承・発展していく。

とはいえ、現代でもペスタロッチ流の人間観にもとづく教育がマジョリティといえるのかどうか? これはただちにそうだと言う訳にはいかない。いまだマイノリティのままなのではないかという気もする。あるいは位置づけとしてはオルタナティブだといえようか。

教育における理想もそうだが、理想は、なかなか実現が難しいからこそ理想なのである。そういう言い方も可能かもしれない。


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<付記> ペスタロッチとフレーベルの著作の日本語訳について

買ったまま読んでいなかった『隠者の夕暮れ シュタンツたより』(長田新訳、岩波文庫、1943)を読んだ。そのあと、ペスタロッチにインスパイアされたフレーベルの『フレーベル自伝』(長田新訳、岩波文庫、1949)を読んでみたが、同じ翻訳者であるのに、フレーベルのほうはあまりにも翻訳がひどすぎる。この本は絶版にして新訳を行うべきである。


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<ブログ内関連記事>

1980年代に出版された、日本女性の手になる二冊の「スイス本」・・・犬養道子の『私のスイス』 と 八木あき子の 『二十世紀の迷信 理想国家スイス』・・・を振り返っておこう

「小国」スイスは「小国」日本のモデルとなりうるか?-スイスについて考えるために

「チューリヒ美術館展-印象派からシュルレアリスムまで-」(国立新美術館)にいってきた(2014年11月26日)-チューリヒ美術館は、もっている!

映画 『悪童日記』(2013年、ハンガリー)を見てきた(2014年11月11日)-過酷で不条理な状況に置かれた双子の少年たちが、特異な方法で心身を鍛え抜きサバイバルしていく成長物語
・・『悪童日記』の原作者はスイスのフランス語圏に定住したハンガリー難民

修道院から始まった「近代化」-ココ・シャネルの「ファッション革命」の原点はシトー会修道院にあった
・・シャネルは少女時代を孤児院で過ごしている。そこは規律の厳しい世界であった

書評 『ココ・シャネルの「ネットワーク戦略」』(西口敏宏、祥伝社黄金文庫、2011)-人脈の戦略的活用法をシャネルの生涯に学ぶ

「生命と食」という切り口から、ルドルフ・シュタイナーについて考えてみる

「ルドルフ・シュタイナー展 天使の国」(ワタリウム美術館)にいってきた(2014年4月10日)-「黒板絵」と「建築」に表現された「思考するアート」

子安美知子氏の「シュタイナー教育」関連本をまとめて読んで「シュタイナー教育」について考えてみる

「人間の本質は学びにある」-モンテッソーリ教育について考えてみる

『モチベーション3.0』(ダニエル・ピンク、大前研一訳、講談社、2010) は、「やる気=ドライブ」に着目した、「内発的動機付け」に基づく、21世紀の先進国型モチベーションのあり方を探求する本
・・大人の世界でも「内発的モチベーション」の重要性が指摘されるようになってきている

三度目のミャンマー、三度目の正直 (8) 僧院付属の孤児院で「ミャンマー式結婚式」に参列

(2016年6月18日 情報追加)



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2015年11月17日火曜日

書評『ドイツリスク -「夢見る政治」が引き起こす混乱』(三好範英、光文社新書、2015)- ドイツの国民性であるロマン派的傾向がもたらす問題を日本人の視点で深堀りする


経済力を背景に政治面でも強大化しつつあるドイツ。このドイツについて、最初にまとまった形で警鐘を鳴らした日本語による出版物は、2015年に出版されたフランスの人口学者エマニュエル・トッド氏によるものであった。

だが、ほぼ同時期に出版された本書は、トッド氏のインタビュー集よりもはるかに面白く有益である

著者は大手新聞社の編集委員。ベルリン特派員としての経歴は、1997~2001年、2006~2008年、2009~2013年の3度にわたる。ドイツ通として、「再統一」後の現代ドイツ社会ををつぶさに見てきた人である。

同じ著者による 2004年に出版された 『戦後の「タブー」を清算するドイツ』(亜紀書房)は興味深い内容であったが、その11年後に出版された本書は、すでにドイツが過去を清算して「普通の国」となっただけでなく、強大化するドイツが世界の政治経済にとっての「リスク要因」であることを、著者に知見を踏まえて突っ込んだ検討を行っている。

欧州で一人勝ちするドイツは、すでに欧州の範囲を超えてユーラシア世界全体に影響を与える存在となりつつある。ドイツ世界に隣接する東方世界のロシア、さらには東端の中国まで含めたユーラシア全体である。島国の日本からみれば、対岸の大陸中国の背後に、ドイツの影がひたひたと迫っているというべきかもしれない。

「リスク要因」となりつつドイツを、著者は「ドリーマー」というキーワードを使用して解明を試みているドリーマーとは、夢見る人のこと。夢想家と言い換えてもいいだろう。著者による定義を引用しておこう。

「夢見る人」を定義するならば、現実を醒めた謙虚な目で見ようとするよりも、自分の抱いている先入観や尺度を対象に読み込み、目的や夢を先行させ、さらには自然や非合理的なものに過度な憧憬(しょうけい)を抱くドイツ的思惟の一つのあり方、である。本書はこの「夢見る人」の概念をてがかりに、ドイツの「危うさ」を解き明かす試みである。(P.11)

「ドリーマー」という表現は、著者によるインタビュー取材の際に、北欧フィンランドの地方政治家が発したものだという。フィンランドはおなじくアジア系のハンガリーとともに、二度の世界大戦でドイツと組んで参戦したが、二回とも手痛い失敗をなめている。ドイツのロマン主義的姿勢に乗る選択にはこりごりしているのだろう。

「夢見る人」的傾向のあるドイツ的思惟とは、別の表現をつかえば、18世紀以降の音楽や文学における「ドイツロマン派」であり、哲学用語をつかえばザイン(Sein)よりもゾレン(Sollen)を重視する立場といってもいいだろう。いずれも目の前にある現実よりも、あるべき姿や理想、そして夢を追い求める傾向のことある。ある種の観念論でもある。

個人的な趣味嗜好の分野であれば、「ドイツロマン派」には問題はない。わたし自身も、ドイツロマン派の音楽や文学は大好きだ。だが、それが個人レベルを超えて、政治の世界でロマン派的傾向が現れると、危険なものとなりかねない。いわゆる「政治的ロマン主義」(カール・シュミット)である。

「夢見る人」ドイツの「危うさ」は、本書のタイトルを使用すれば、「偏向したフクシマ原発事故報道」、「隘路に陥ったエネルギー転換」、「ユーロがパンドラの箱をあけた」、「「プーチン理解者」の登場」、「中国に共鳴するドイツの歴史観」となる。日本人から見たドイツへの違和感が見事に表現されたタイトルであり、内容はいずれも読み応えのあるものだ。

『ドイツロマン派とナチズム』(ヘルムート・プレスナー、松本道介訳、講談社学術文庫、1995)という本がある。近代化したドイツからなぜナチズムが生まれ、しかもドイツ人が熱狂的に支持したのかを解明した名著である。ドイツ語の原題は「遅れてきた国民」(Die verspätete Nation)というものだが、『ドイツロマン派とナチズム』という日本語版のタイトルは、内容を的確に表現したものといえる。

21世紀になっても、依然として「夢見る人」というロマン派的な思考回路をもつドイツ人が、またなにか大きな問題を引き起こして道を誤るではないかと懸念する声があるのも、当然のことかもしれない。歴史はそのままでは繰り返さないが、ある種の共通するパタンが繰り返し出現することがある。

英語人がネガティブに捉える思考パタンに、希望的観測(wishful thinking)というものがある。現実を直視しない思考傾向のことであり、英米のビジネス界では戒めのコトバとしてとくに強調されるものである。「夢見る人」の思考パタンそのものといえよう。

もちろんドイツでも、結果が数字で明確になるビジネス界は現実主義に立脚しているが、「夢見る人」の最たるものであるエコロジー政党の「緑の党」の関係者にに支配されたマスコミとの乖離がきわめて大きいことが本書でも指摘されている。この件については、日本でも似たような傾向があるかもしれない。

「ドイツ的 vs アングロサクソン的」という二項対立で物事を把握することは、やや単純化の傾向がなきにしもあらずだが、著者が具体的に記事内容を比較対象している、ドイツの大手メディアと英米メディアの報道姿勢の違いには目を見張るものがある。とくに福島第一原発報道についての具体的に比較した本書の記述を読めば、ドイツの大手マスコミ報道の偏向ぶりには驚きを禁じえないはずだ。

ドイツと同様、第二次世界大戦において取り返しのつかない大きな失敗を引き起こした日本と日本人は、ドイツを「他山の石」として捉えるべきなのである。本書は、日本では依然として根強い「ドイツ見習え論」に警鐘を鳴らした内容の本である。

見習うべきは見習い、反面教師とすべきものはそう受け取るべきである是々非々の態度である。人の振り見てわが振り直せ、である。とかく情緒的になりがちな日本人は、大いに心すべきことである。

日本人の認識変容に寄与することが大きい本書を、ぜひ読むことを薦めたい。





目 次  

はじめに 危うい大国ドイツ-夢見る政治が引き起こす混乱
第1章 偏向したフクシマ原発事故報道
 1 グロテスクだったドイツメディア
 2 高まる日本社会への批判
 3 原発を倫理問題として扱うドイツ
第2章 隘路に陥ったエネルギー転換
 1 原発推進を掲げる政治勢力は存在しない
 2 急速な自然エネルギーの普及
 3 不安定化する電力需給システム
 4 ドイツ人ならやり遂げる、という幻想
第3章 ユーロがパンドラの箱をあけた
 1 それはギリシャから始まった
 2 「戦後ドイツ」へのルサンチマン
 3 夢を諦めない人々
 4 綱渡りを強いられるメルケル
 5 「夢見るドイツ」がユーロを生み出した
第4章 「プーチン理解者」の登場
 1 緊密化する対ロシア関係
 2 「東への夢」の対象としてのロシア、中国
第5章 中国に共鳴するドイツの歴史観
 1 歴史問題での攻勢
 2 歴史認識がなぜ中国に傾くのか
おわりに ロマン主義思想の投げかける長い影


著者プロフィール  
三好範英(みよしのりひで)
1959年東京都生まれ。東京大学教養学部相関社会科学分科卒。1982年、読売新聞入社。1990~1993、バンコク、プノンペン特派員。1997~2001年、2006~2008年、2009~2013年、ベルリン特派員。現在、編集委員。著書に『特派員報告カンボジアPKO 地域紛争解決と国連』『戦後の「タブー」を清算するドイツ』(以上、亜紀書房)、『蘇る「国家」と「歴史」 ポスト冷戦20年の欧州』(芙蓉書房出版)。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。







<関連サイト>

How Berlin’s Futuristic Airport Became a $6 Billion Embarrassment : Inside Germany’s profligate (Greek-like !) fiasco called Berlin Brandenburg (Bloomberg BusinessWeek, July 23, 2015 by Joshua Hammer)
・・なぜか日本のマスコミではほとんど取り上げられていないベルリンの3つの空港の統合プロジェクト。本書でもドイツの大失敗事例として言及されているが、ドイツが規律正しいという評判に疑問を抱かせるのに十分な事例である
“The number of defects that they’ve found has grown to 150,000” これもまた現代ドイツの現実だ。

(Bloomberg BusinessWeek の特集より)


ドイツの「夢見る体質」が抱える3つのリスク 欧州の優等生はなぜ混乱しているのか (幻冬舎plus、東洋経済オンライン、 2015年11月26日)
・・『ドイツリスク-「夢見る政治」が引き起こす混乱-』著者の三好範英氏が執筆

【日本人へ】 なぜ、ドイツ人は嫌われるのか(塩野七生、「文藝春秋」2015年9月号 巻頭エッセイ)
・・イタリア人詐欺団による『300ユーロ紙幣事件』でだまされたドイツ人の話

ケルン暴力事件で露わになった「文明の衝突」 欧州難民危機と対テロ戦争の袋小路(中) (熊谷 徹、日経ビジネスオンライン、2016年1月19日)
・・ロマン主義的政治姿勢が招いた結果がこれか?

ドイツも中国に見切り…不要論まで飛び出す強烈な手のひら返し (MAG2ニュース 国際、2016年1月27日)
・・「無料メルマガ『ロシア政治経済ジャーナル』の著者、北野幸伯氏が中国経済の状況に不安を感じたドイツが中国を見放し始めていることを指摘

ドイツ人教授が、E・トッドらのドイツ脅威論に反論する (フランク・レーヴェカンプ、幻冬舎plus、2016年4月9日)

メルケル首相も王毅外相も見落としている-日本とドイツでは戦後状況が異なる (遠藤誉、2015年3月10日)
・・「ドイツのヨーロッパ近隣諸国における戦後処理と、日本の戦後処理は全く異なり、日本には選択の余地はなかった。アメリカの言う通りに動き、アメリカのご機嫌をうかがいながら、その意向に沿って動く以外になかったのだ。メルケル首相も王毅外相も、その事実を直視していない」 つまり中国とドイツは、事実から目を背けほっかむりしているということだ。

(2015年11月28日、2016年1月2日、19日、27日、5月21日、7月27日 情報追加)






<ブログ内関連記事>

書評 『驕れる白人と闘うための日本近代史』(松原久子、田中敏訳、文春文庫、2008 単行本初版 2005)-ドイツ人読者にむけて書かれた日本近代史は日本人にとっても有益な内容
・・「優雅さを湛えつつ、ぴしりと叩きつける。微笑みつつ、ぐさりと切り付ける。その防御と攻撃の武器」(・・第16章で使用されている著者の表現)を駆使する国際派日本女性の手になる必読書

書評 『ブーメラン-欧州から恐慌が返ってくる-』(マイケル・ルイス、東江一紀訳、文藝春秋社、2012)-欧州「メルトダウン・ツアー」で知る「欧州比較国民性論」とその教訓
・・「秩序と規律をこよなく愛すドイツ人は、ギリシアとはまさに正反対にあるこことは言うまでもない。だが、そのドイツにも落とし穴があったことを指摘するルイスはじつに鋭い。「リーマンショック」の際、ドイツの金融機関が無傷であったわけではないのだ。「ルールを偏愛するがゆえの脇の甘さ」という指摘はじつに示唆に富む。米国の金融機関が、まさかルールにはずれたことをしているとは想定もしなかかったという脇の甘さを指摘している


「勝ち組」ドイツについての考察-はたしてドイツはヨーロッパか?

書評 『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる-日本人への警告-』(エマニュエル・トッド、堀茂樹訳、文春新書、2015)-歴史人口学者が大胆な表現と切り口で欧州情勢を斬る 
・・「気がついたら出現していた「ドイツ帝国」。はたしてドイツ人に帝国をマネジメントしていく覚悟と能力があるのか? 「ドイツ帝国」がふたたび世界の混乱要因となるのではないかという著者の懸念と憂慮は、大いに傾聴に値する」

書評 『アラブ革命はなぜ起きたか-デモグラフィーとデモクラシー-』(エマニュエル・トッド、石崎晴己訳、藤原書店、2011)-宗教でも文化でもなく「デモグラフィー(人口動態)で考えよ!
 ・・「西洋民主主義とは、その最も狭い意味において、その出発点において、その創設的中核というものは、フランス、イングランド、アメリカ合衆国だからです。つまりはトックヴィルの世界なのです。今日、歴史的な西洋というのが、当初から政治面でドイツを含んでいたなどという考えは、妄想というべきなのです」(トッド)


ドイツ現代史

書評 『なぜメルケルは「転向」したのか-ドイツ原子力40年戦争の真実-』(熊谷 徹、日経BP社、2012)-なぜドイツは「挙国一致」で「脱原発」になだれ込んだのか?
・・「本書を読むと、先進工業国という共通性をもちながら、およそドイツ人と日本人は似て非なる民族であることが手に取るようにわかる。ユーラシア大陸の東端にある島国と、大陸の「中欧」国家であるドイツとは地政学的条件もまったく異なるのである。陸続きで何度も国土を蹂躙された経験をもつドイツ人の不安心理は長い歴史経験からくるものであろう。(・・中略・・) もちろん日本人の「根拠なき楽観」は大きな問題だが、といって一概にドイツを礼賛する気にはなれない。なんだかナチスドイツに一斉になびいた戦前のドイツを想起してしまうからだ。」 怒濤のように「反原発」になだれ込んだドイツ。なにか危ういものを感じるのはわたしだけだろうか?

ベルリンの壁崩壊から20年-ドイツにとってこの20年は何であったのか?

映画 『バーダー・マインホフ-理想の果てに-』(ドイツ、2008年)を見て考えたこと ・・1968世代のなかから生まれた極左テロ組織の末路


近代の病としてのロマン主義

書評 『オウム真理教の精神史-ロマン主義・全体主義・原理主義-』(大田俊寛、春秋社、2011)-「近代の闇」は20世紀末の日本でオウム真理教というカルト集団に流れ込んだ

「ユートピア」は挫折する運命にある-「未来」に魅力なく、「過去」も美化できない時代を生きるということ


現実主義の思考方法

「ログブック」をつける-「事実」と「感想」を区分する努力が日本人には必要だ
・・「戦前・戦中」と「戦後」を区分して考えたいのは人の性(さが)。だが、事実と解釈は区分して考えないと道を誤る

「是々非々」(ぜぜひひ)という態度は是(ぜ)か非(ひ)か?-「それとこれとは別問題だ」という冷静な態度をもつ「勇気」が必要だ

書評 『国際メディア情報戦』(高木 徹、講談社現代新書、2014)-「現代の総力戦」は「情報発信力」で自らの倫理的優位性を世界に納得させることにある
・・世界を支配するのは英語による英米メディアである


日本もまた過去に大きな問題を引き起こした

『王道楽土の戦争』(吉田司、NHKブックス、2005)二部作で、「戦前・戦中」と「戦後」を連続したものと捉える
・・ドイツや日本などの「敗戦国」は、過去を全否定するという「断絶史観」への誘惑が強く存在するが、それは正しいものの見方ではない

『愛と暴力の戦後とその後』 (赤坂真理、講談社現代新書、2014)を読んで、歴史の「断絶」と「連続」について考えてみる

(2016年1月23日 情報追加)



 
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2015年7月2日木曜日

映画 『ターナー、光に愛を求めて』(英国・ドイツ・フランス、2014)を見てきた(2015年7月1日)-英国が生んだ風景画家の巨匠ターナーの知られざる後半生を描いた「動く絵画」



ターナーという画家の作品は、夏目漱石が『草枕』のなかで取り上げて以来、日本でもなじみのある存在だろう。風景画という点も、日本人好みなのかもしれない。黄色を中心にした独特の色づかいで光を捉えた作品は、フランス印象派にも大きな影響を与えている。

ターナーの正式名は、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner)。1775年に生まれ、1851年に76歳で亡くなった、英国ロマン派の風景画家である。

ターナーの前半生は、対岸の欧州大陸ではフランス革命とナポレオン戦争で動乱した時代。ネルソン提督のトラファルガーの海戦がターナーの代表作であるのはそのためだ。ターナーの後半生の英国は、ヴィクトリア女王の治世で大英帝国の最盛期にあたる。機械文明への過渡期の時代でもある。

(ミニサイズのリーフレット)

だが、ターナーという画家がどんな人物であったのかまで知られているわけではない。わたしも黄色を中心にした独特の色づかいの作品にはなじみがあったものの、どんな生涯を送った人であるかまで考えたことはなかった。おなじく黄色系統を好んだゴッホとの違いである。


この映画に登場するターナー氏(・・オリジナルのタイトルは Mr. Tuner とそっけないものだ)は、いわゆる典型的な英国紳士を擬人化したジョン・ブル(John Bull)のような肥満体の短軀で、自画像のようなハンサムとはほど遠い。


天才画家ではあったが、ハンサムとはほど遠く、しょっちゅう奇妙なうなり声をあげる容貌魁偉(ようぼうかいい)な中年男。正直いって好きになるようなタイプではない。英国にはよく登場する奇人変人系の人物として描かれている。


印象的なのは、嬉々として息子の助手をつとめていた元理髪師の父親が亡くなったときに見せた、ターナーの目尻ににじみ出る涙のシーン。激しく泣き叫ぶのでもなく、むせび泣くのでもない。静かな喪失感が画面から伝わってくる。抑制された演技が悲しみの深さを表現している。演技であることさえまったく感じさせない名演技である。

(Rain Steam and Speed the Great Western Railway  晩年の1844年)

ターナーを激賞した美術批評家のラスキンが登場するが、この映画のなかでは美男子だが狂言回しのような役割を演じている。ターナー後の19世紀末英国で主流となったラファエロ前派に否定的であったラスキンの存在を知っていれば、この映画をより楽しむことができるだろう。ターナー自身は機械文明すら絵画のテーマとした人である(・・上掲の作品はその一例)。

日本版のタイトルは、『ターナー、光に愛を求めて』となっているが、この映画をうまく表現したものといえうだろう。知られざるターナーの素顔を描いた、それ自体が絵画のような美しい色彩の映画である。映画じたいが動く絵画(moving picture)になっている。同じく光の画家であったフェルメールとその有名な絵画のモデルを描いた映画 『真珠の首飾りの少女』と並び賞されるべきだろう。カメラ・オブスキューラが登場する点も共通している。

あるいはターナー氏の人間くささを味わうことができる、酸いも甘いもかみしめた中高年以上の大人向け映画というべきだろうか。






<関連サイト>

映画「ターナー、光に愛を求めて」 オフィシャルウェブサイト


<参考> 夏目漱石とターナー

夏目漱石の『草枕』における画家ターナーへの言及は2カ所ある。『草枕』はネット上の「青空文庫」で公開されているので、関連箇所を引用しておこう。いずれも小説の前半部分である。

この故に天然にあれ、人事にあれ、衆俗の辟易(へきえき)して近づきがたしとなすところにおいて、芸術家は無数の琳琅(りんろう)を見、無上の宝※(「王+路」、第3水準1-88-29 ほうろ)を知る。俗にこれを名なづけて美化と云う。その実は美化でも何でもない。燦爛(さんらん)たる彩光(さいこう)は、炳乎(へいこ)として昔から現象世界に実在している。ただ一翳(いちえい)眼に在(あ)って空花乱墜(くうげらんつい)するが故に、俗累(ぞくるい)の覊絏牢(きせつろう)として絶ちがたきが故に、栄辱得喪(えいじょくとくそう)のわれに逼(せ)まる事、念々切(せつ)なるが故に、ターナーが汽車を写すまでは汽車の美を解せず、応挙(おうきょ)が幽霊を描えがくまでは幽霊の美を知らずに打ち過ぎるのである。
    ・・(中略)・・
「いいや、今に食う」と云ったが実際食うのは惜しい気がした。ターナーがある晩餐(ばんさん)の席で、皿に盛もるサラドを見詰めながら、涼しい色だ、これがわしの用いる色だと傍(かたわら)の人に話したと云う逸事をある書物で読んだ事があるが、この海老と蕨(わらび)の色をちょっとターナーに見せてやりたい。いったい西洋の食物で色のいいものは一つもない。あればサラドと赤大根ぐらいなものだ。滋養の点から云ったらどうか知らんが、画家から見るとすこぶる発達せん料理である。そこへ行くと日本の献立(こんだて)は、吸物(すいもの)でも、口取でも、刺身さしみでも物奇麗(ものぎれい)に出来る。会席膳(かいせきぜん)を前へ置いて、一箸(ひとはし)も着けずに、眺めたまま帰っても、目の保養から云えば、御茶屋へ上がった甲斐かいは充分ある。

夏目漱石(1867~1916)が文部省からの派遣で英語教育法研究のためロンドンに留学していたのは、20世紀前後の1900年から1902年にかけてである。

漱石は、画家ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775~1851)とは同時代ではない。漱石の時代には、すでに風景画家としてのターナーの評価が定まっていたようだ。

「ターナーが汽車を写すまでは汽車の美を解せず」と漱石が書いているが、これは上掲の Rain Steam and Speed the Great Western Railway を指している。ターナー晩年の1844年の作品で、この絵についても映画にシーンがある。

漱石が好んだのは、留学時代と同時代であった、英国世紀末のラファエル前派のほうである。




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・・ターナーの生きた時代は、大英帝国が最盛期を迎えたヴィクトリア女王の時代である

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・・ターナー後の英国美術。漱石が好んだのはラファエル前派




(2012年7月3日発売の拙著です)








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