(2010年バンクーバーオリンピックの浅田真央 wikipediaより)
2010年バンクーバー冬期オリンピックも終了して数日、今週末の3月13日からは同じ会場でパラリンピックが待っているが、すでに世の中からはお祭りムードは終わり、「ハレ」の日から「ケ」の日常の日々に戻っている。
こんな状態のときにオリンピックの話題をするのは、やや「祭りの後」という感じも否めない今日この頃、忘れないうちに記録として書いておきたい。4年後これを読んだとき、自分自身がどう思うかが楽しみだ。
冬期オリンピック期間中はスポーツの話題が多かったことから、自然とスポーツについて考えることになった。
何といっても「国民的アイドル」(?)フィギュアスケート女子の浅田真央選手については、まずオリンピック初出場と銀メダル獲得を祝福しておきたい。
真央ちゃん、よく頑張った!
でもキム・ヨナは完璧だった。SP(ショートプログラム)では、浅田真央がぶっちぎると思ったのだが、キムヨナに約5点及ばず。キムヨナはほぼ完璧だったからなあ・・・
しかし、銀メダルに終わったことは、何よりも本人にとっては、不本意以外の何者でもなかったことだろう。その「悔し涙」だと受け取りたい。初出場のオリンピックという大舞台で、悔いのない演技を演じきったとは思いたいが、果たして彼女の心中は・・・
キム・ヨナの演技が完璧だっただけでなく、選曲も振り付けも含めて、カナダ人男性コーチによる戦略と戦術がピタっと合致していたことも、勝利の要因の一つであることは誰も否定できまい。
本番の前に、NHKスペシャルでフィギュア女子の浅田真央の特集をみたが、意志の強い浅田真央は、自分のイメージに反する曲を選択して、自分の殻を打ち破りたかったようだ。失敗しても、あえて自分の意思を貫き通したという。だから今回のオリンピックの演技はまだ完成形ではなかった。真央はまだ発展途上だから4年後に必ず雪辱果たして欲しい。
一方、演技終了後のNHKの特集番組では、キム・ヨナは、浅田真央のような難易度の高いワザがどうしてもできないので、ムリに弱みを強化するよりも、自分の強みを徹底的に伸ばすことに専念したという。彼女の半生の自叙伝にそう記しているということだ。
これはきわめて重要なことだ。企業内研修では口を酸っぱくしてつねに強調していること。自分の強みと弱みをキチンと見極めた上で、あえて弱みには眼をつぶり、強みを徹底的に鍛え上げよ、と。
つまり強みを伸ばせばさらに自信がつくし、それにつれて弱みはあまり意識に上らないようになってくるからだ。何事もポジティブにとらえることが重要である。
浅田真央の「悔し涙」からはいくつかの教訓を導き出すことができる。
まず第一に、素直に負けを認めることの重要性だ。
Be a good Loser ! これは昨年の8月末、総選挙で自民党が惨敗した際に、私が(勝手に)自民党に贈ったコトバであるが、どうも彼らはこの意味がまったくわかっていないようだ。自民党は負けたことの意味が理解できていないようだ。
負けを認めることから、すべてが再び始まるのである。それは敗北意識を持ち続けることとはまったく違う。勝負なのだから、やり方によっては再び勝利することは不可能ではない。
勝利した側(=Winner)とは状況が異なる。勝利した瞬間から、トップの座を抜かれないようにひたすら走り続けるという自分との戦いが始まる。追われるよりも追うほうがはるかにラクなことは、われわれはみな経験していることだ。
もしかすると浅田真央の宿命のライバルであるキム・ヨナは、そう遠くないうちに燃え尽きて(バーンアウト)しまうのではないか、ということだ。実は私はこれを一番心配しているのだ。頂点を極めてしまったものが、モチベーションを維持しつづけるのは、きわめて難しい。
ライバルの存在が、いかに追われる者も追う者も、お互いを切磋琢磨させることは、これもわれわれが日常的に経験していることである。
ライバルの存在が、相手には負けたくない、相手には絶対に勝ちたいという内発的動機(モチベーション)に火を付けることになるからだ。これは決して「やらされ」型の外発的動機ではない。
生身の人間というライバルの存在がいかに大きいことか。
しかし、そのライバルが何らかの理由で引退してしまうということは大いにありうることだ。
なんせ生身の人間だ。スポーツでもどんな分野でも心技体というコトバがあるように、まずココロがしっかりしていないと、いくらワザがすぐれていても、カラダができていたとしても、心技体の三拍子がそろっていないと最高のパフォーマンスを出すことはできない。ここでいうココロとは精神力のことであり、モチベーションと言い換えてもいい。
そのココロが折れてしまったとき・・・人は実質的にリタイアしたことになってしまう。
その意味で、私が浅田真央が、競技の翌日以降に発言した内容には、大いに安心するものがあった。
彼女は、キム・ヨナがどうとかこうとかではなく、(キム・ヨナが出した女子フィギュアスケート史上の最高得点)記録に挑戦したい、という内容の発言をしたのである。
これは、ライバルに競り勝つという「相対的な勝利」ではなく、数字にあらわれた記録という「絶対的な勝利」を目指すということなのである。
金メダルか銀メダルかは、しょせん相対的なものに過ぎない。もちろん、一般人には及びもつかないような世界の話ではあるが、しかし順番というのは相対的なものである。
それに対して、得点数(=スコア)という記録は、絶対的なものである。その意味で、記録に挑戦したいという発言には、並々ならぬ決意を感じたし、もしライバルが引退するようなことがあったとしても、浅田真央自身の挑戦が終わらないことを意味している、と私は受け取ったのである。
以前このブログにも引用した、サッカー監督オシムのコトバをあらためて引用しておきたい。
日本人は平均的な地位、中間に甘んじるきらいがある。野心に欠ける。これは危険なメンタリティーだ。受け身過ぎる。(精神的に)周囲に左右されることが多い。フットボールの世界ではもっと批判に強くならなければ(P.37)
浅田真央の場合は、この日本人特有のメンタリティはないから安心だ。しかし、くれぐれも、銀メダルがとれただけでもよかった、などという生ぬるいコトバはクチにしないことだ。
もちろん女子フィギュアスケートも、採点ルールはさらに変化することだろう。これはいわば「外部環境」である。しかし、そのルール変更も視野にいれて、変化するであろうルールという制約条件のもとで、勝利のための戦略と細かい戦術を作り込んでゆくことは絶対不可欠なことだ。
戦略性は、もっと日本人は意識的にとらえて取り組むべきである。企業だけでなく。個人個人も。
今回のオリンピックを見ていてあらてめて思ったのは、フィギュアスケートに限らず、すべてに共通するのは、「軸」の重要性と「メンタル・タフネス」の重要性だ。この2つを身につければ、なく、どんな分野でも日本人は、世界で十分にやっていけることが、今回も実証された。
「メンタル・タフネス」については説明する必要はないだろう。「軸」はプリンシプル(原理原則)といいかえてもよい。
以上、世界のトップアスリートから、われわれが学ぶべき教訓について考えてみた。
「われ以外、みな師なり」(吉川英治)
このコトバをつねに噛みしめておきたいものである。
PS ソチ五輪開幕前に思う
ふたたび冬季オリンピックの季節がやってきた。4年間という月日がたつのはじつに早いものだ。今回はロシアのソチ。燃え尽きたと思われた韓国のキムヨナも選手として復活し、ライバル関係がふたたび戻ってきた。だが、浅田真央のアタマとココロには自分の演技しかないだろう。ソチでは完全燃焼してほしいと思う。この機会に<ブログ内関連記事>を補足した。 (2014年2月5日 ソチ五輪開幕まであと2日の日に記す)。
<ブログ内関連記事>
Be a Good Loser !
書評 『コリアンスポーツ<克日>戦争』(大島裕史、新潮社、2008)-韓国のナショナリズムと国策としてのスポーツ立国
コトバのチカラ-『オシムの言葉-フィールドの向こうに人生が見える-』(木村元彦、集英社インターナショナル、2005)より
I am part of all that I have met (Lord Tennyson) と 「われ以外みな師なり」(吉川英治)
「ブレない軸」 (きょうのコトバ)
コトダマ(きょうのコトバ)-言霊には良い面もあれば悪い面もある
「ロンドン・オリンピック 2012」開会式の「ヘイ・ジュード」-英国のソフトパワーここにあり!
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