■夜行の高速バスで鶴岡へ
2010年7月1日深夜23時、東京発(・・始発は東京ディズニーランド)の山形経由酒田行きの高速バスで向かう。
夜行の高速バスを選択したのは、おそらく眠れないだろうことは覚悟していたが、早朝から庄内平野で行動したかったからだ。値段が安いこともあるが、それはセカンド・プライオリティである。
翌朝の9時前に酒田駅までいくつもりだったが、その日の宿泊は鶴岡駅前のビジネスホテルを予約していたので、一つ手前の鶴岡駅前で下車することにした。7時40分頃に鶴岡駅前で下車したのは私をいれて二人。乗客の半分以上は山形駅前で下りていった。山形市は内陸部にある。
夜行の高速バスは正直いって安い。片道4,600円也。乗っているのは大半がディズニーランドや東京で遊んでから地元に帰る若者ばかり。なるほど、目一杯遊びまくった彼らは、たとえ高速バスでも簡単に寝入ってしまうのだろう。途中トイレ休憩でよく止まる夜行バスでは、私はほとんど一睡もできなかった。
鶴岡駅前のビジネスホテルに荷物を預けて、JRの各駅停車で酒田駅へ。この区間は電化されているが、来た列車はディーゼルカーである。高校生が「なんだ扇風機かよ~」といっっていたその車輌は鼠が関駅発酒田駅行き。
なぜディーゼルカーなのかはあとでわかったが、その区間のあいだで、交流と直流の電源交換があるため、直交交換機器を備えていない電車は特急に限られるので、普通列車はディーゼルカーなのだそうだ。私は、起動車というのは、発車するたびに起動するエンジンの感触がけっしてキライではないのだが・・・
■初日の目的は、庄内が生んだ二人の思想家ゆかりの土地を歩いてみること
酒田駅で接続する秋田駅行きに乗り換え。吹浦(ふくら)駅へ。
まず最初に、石原完爾将軍墓所を訪ねることから、今回の旅が始まる。
本日は、優先順位からいったら④だが、旅程の都合上、一番最初に取り組むことととなる。
① 「山伏修行体験塾」(二泊三日)に参加すること
② 出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)をすべて歩くこと
③ 即身成仏による「ミイラ仏」を実際に見ること
④ 庄内地方の生んだ 大川周明、石原完爾 ゆかりの地をまわること
庄内地方からは、昭和史を揺るがした二人の"実践的思想家"が生み出されている。
大川周明と石原完爾である。大川周明は酒田市生まれ、石原完爾は鶴岡市生まれである。
前者は学者だが五一五事件の首謀者、後者は満州事変の首謀者で軍事思想家。前者がイスラームに入れあげた人であれば、後者は筋金入りの日蓮主義者。wikipedia の記述を引用させていただく(・・出生地は私が引用に際して追加しておいた)。
大川 周明(おおかわ しゅうめい、1886年12月6日 - 1957年12月24日)は、山形県酒田市に生まれた日本の思想家。 1918年、東亜経済調査局・満鉄調査部に勤務し、1920年、拓殖大学教授を兼任する。1926年、「特許植民会社制度研究」で法学博士の学位を受け、1938年、法政大学教授大陸部(専門部)部長となる。その思想は、近代日本の西洋化に対決し、精神面では日本主義、内政面では社会主義もしくは統制経済、外交面ではアジア主義を唱道した。晩年、コーラン全文を翻訳するなどイスラーム研究でも知られる。
石原 莞爾(いしはら かんじ、1889年1月18日(戸籍上では17日)- 1949年8月15日)は、山形県鶴岡市に生まれた昭和の陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られる。関東軍作戦参謀として、板垣征四郎らとともに柳条湖事件を起し満州事変を成功させた首謀者であるが、のちに東條英機との対立から予備役に追いやられ、病気のため戦犯指定を免れた。
思想家の思想がいかなる風土のもとから生まれてくるのか、これは実際にその土地を訪れ、その地の空気を吸い、その土地のものを食べてみないと実感できないものである。
大川周明は、アジア主義の政治思想家でイスラーム研究者。石原完爾は陸軍中将まで歴任した、満州事変の立役者。大川が東京帝大の出身であれば、石原は陸軍士官学校と陸軍大学校卒業。大川が思想から実践に入っていった人だとすれば、石原は実践から思索を深めていった人である。大川が英語中心でインドなら、石原はドイツ語畑で満洲。対比をあげればキリがないので、ここらへんでやめておこう。
大川、石原、ともに宗教的感性の強い思想家であったことは共通している。
■石原完爾の墓所を吹浦(ふくら)に訪ねる
そこでまず石原完爾である。
酒田まで行く予定を鶴岡で下車し、荷物を宿泊予定のホテルに預けてきたのは正解だった。鶴岡からちょうどいい具合に酒田行きの普通列車と酒田で接続の秋田行きに乗れたのはラッキーだった。
目的の吹浦(ふくら)駅で下車、無人駅である。歩いていくことも覚悟していたが、期待していなかったタクシーが駅前に一台とまって客待ちをしていたので、とりあえず石原完爾将軍墓所までいってもらうことに。
石原完爾の墓所がなぜ吹浦にあるかというと、陸軍を予備役になって以後、東亜連盟を主たる活動の舞台としていた晩年の石原完爾は、この地を選んで農地を開拓し、そしてこの地に葬られたというわけだ。
運転手さんによれば、昨年までと比べると今年はだいぶ訪問者が減ったとのことだ。そもそもあまりこないらしい。私がネットで調べたところ昨年が没後60年にあたっていたのだというと、なるほどと頷いていた。地元の人はあまり興味がないらしいのは、石原完爾がもともと鶴岡の人で、吹浦の人ではないためらしい。
全国的な知名度は高くても、必ずしも顕彰すべき人物ではないということか。すでに「過去の人」であるかのような印象も受ける。
石原完爾の墓所は、こんもりした塚のような、大きな土まんじゅう形で頂点には石碑の墓標がたっている。その近くには、プレハブの無人事務所がある。そのなかにある石原将軍が愛用していたという椅子に座って記帳、またそこでしか手に入らない東亜連盟関連の書籍などを購入、料金はのちほど振り込み用紙で送ることにする。
東條英機に嫌われ、日本海側の舞鶴要塞司令官に"左遷"された石原完爾。京都の第16師団長時代、請われて立命館大学の教団に立ってからも、東條英機の差し向ける憲兵隊によって、執拗に活動の邪魔をされた石原将軍。
熱烈な日蓮主義者であった石原完爾は、私は体質的に好きではないが、しかし気になって仕方がない人物の一人であり続けてきた。
海軍の町である舞鶴勤務は陸軍の要職とは言い難いものがあったとはいえ、石原完爾が下宿先は、西舞鶴にある私の母方の実家からきわめて近い場所であったことに、何かしら縁のようなものを感じることもその理由の一つではある。石原完爾はこの閑職期間中に、集中して読書と思索に時間をつかっていた「幸福な日々」であったという。
日本海側に生まれ、日本海からつねに大陸満洲を思っていた石原完爾将軍は、死後も日本海沿岸に眠る。ただし満洲ではなく、日蓮上人の方向を向いているそうだ。
■吹浦(ふくら)は出羽富士ともいわれる鳥海山の裾野にある
酒田に戻る列車は11時20分までこない(!)ので、タクシーでいろいろ回ってもらうことにした。おかげで、なぜ石原完爾がこの吹浦という地を選んで、同志たちとともに農場を開拓しようとしたのかということがよく理解できた。この地は海に近く風光明媚で、かつまとまった土地が確保できる場所であったのだ。
江戸時代に石像が彫られたという海岸の十六羅漢岩(写真上)、曹洞宗の永泉寺の石造五重塔、戻りサケの孵化場、鳥海山大物忌神社という山形県にある一宮(いちのみや)の神域にある神秘的な丸池(写真下)などなど。
鳥海山の伏流水の湧き水がうまい!
鳥海山の裾野にあるこの地は、自然に恵まれた実に素晴らしい土地である。
ところで、芭蕉は『奥の細道』では、こういう句を酒田で詠んでいる。
あつみ山や 吹浦(ふくうら)かけて 夕すゞみ
暑き日を 海にいれたり 最上川
秋田県にある象潟(きさがた)で芭蕉は有名な句を詠んでいるが、私はそこまで足を伸ばすことはしなかった。かつて松島と並び賞された島々が点在する景勝地・象潟(きさがた)は、大地震のため海底が隆起し、陸地となってしまったということを読んでいたからだ。
10時20分に特急が止まるという遊佐(うざ)駅までタクシーでいってもらう。酒田まで特急列車で10分だが、1時間節約するための特急料金500円はムダではない。特急料金500円混みで730円。
地方にいくと、在来線の半分近くが特急列車で、各駅停車の普通列車がが少ないという状況は、けっして珍しいことではない。遊佐から酒田まで利用をしている、地元の老婦人数人が私と同じ車輌に乗っていた。
■酒田市内を無料のレンタサイクルで回る-まず向かったのは光丘文庫
酒田駅改札口近くの観光案内所で地図をもらって説明うける。無料のレンタサイクルは実にありがたい。ひさびざに自転車にのったが、炎天下にもかかわらずママチャリでも非常に軽快に感じた。自転車は思ったよりも機動力があるのだ。
まず、光丘(こうきゅう)文庫にゆく。みつおかではなく、こうきゅう。「本間様には及びもせぬが、せめてなりたやお殿様」という歌も詠まれるほどの豪商本間家を代表する人物・本間光丘ゆかりの文庫で、かつては酒田市立図書館としても使用されていた、建築的にみてもなかなかユニークなものである。
ここに、なんと大川周明と石原完爾の旧蔵書を中心にしたコレクションがあるのだ。
観光案内所のおばさんのアドバイスにしたがって、酒田の寺町を通って、妓楼であった相馬楼の前を通り、光丘(こうきゅう)文庫までいく。
ガラスケース越しに旧蔵書の背表紙を眺めることしかできないが、それでも大川周明のイスラーム関係の洋書や、石原完爾のナポレオン関係の蔵書など実物を見ることができるのはありがたい。
ともに実践的思想家である石原完爾と大川周明は、同じ庄内地方出身でほぼ同世代であり、日本の対中国政策の行く末をめぐって何度も会って突っ込んだ話をしていたようだ。石原完爾の旧蔵書に、大川周明の『二千六百年史』を見つけたとき、贈呈されたものなのだろうか、この二人の意外な接点に、なんだか面白い感じがした。
A級戦犯に問われたものの精神障害のため免訴となた大川周明、戦犯に問われなかったものの、参考人聴取の際に米国に対して歯に衣着せぬ批判を行った石原完爾。
■酒田市内の自転車散策をつづける
つぎに海向寺に向かう。光丘文庫からはすぐである。ここで、即身仏(≒ミイラ仏)を二体拝観する。酒田に即身仏があることは知らなかったので、気がついてよかった。このお寺に安置された即身仏の、忠海上人と円明海上人は、いずれも湯殿山で木食修行して入定している。
オレンジ色の鮮やかな衣を着せられたミイラ仏は、まさに燻製のようなかんじであった。学術調査がおこなわれたあと、膠(にかわ)と漆(うるし)を塗って長期保存対策がしてあるので、黒光りしているらしい。
映画「おくりびと」で、主人公が勤務することになる葬儀屋の NKエージェント(旧 割烹小幡)は、このミイラ寺から徒歩ですぐそば。昨年は、映画のロケ地めぐりの客がこの寺まで大量に流れて対応が大変だったが、今年はだいぶ落ち着いたと、このお寺さんのお話であった。
荒れ果てた金比羅さんに、豪商でかつ海運功労者の河村瑞賢(かわむら・ずいけん)が開設した往事の西回り廻船を偲ぶ。江戸時代に、四国出身の船乗りたちの篤い信仰を集めていた酒田港金比羅神社も、交通体系が変化した現在、うち捨てられたような感じで廃墟に近い様相を呈している。
白崎医院・・モダンな外科医院の建物が市内から移築されている。
さかた海鮮市場二階の食堂で昼飯をとる。ウニトロ丼。
一階の鮮魚店では、大ぶりのイワガキをうっていた。一ヶ400円、さっそく一ヶ求めて、その場でレモンをかけて食べる。まことにもって美味であった。さすが日本海。イワガキは日本海の夏の特産物である。
山居(さんきょ)倉庫へ。明治になってから、庄内米の倉庫として、多額の費用を投じて建築されたもの。湿度管理も万全。いまでも現役で使用されている倉庫群だ。
だんだん面倒になってきたので、酒田が生んだ豪商本間家の住宅は外から見ただけにとどめ、井原西鶴の『日本永大蔵』にも登場する鐙屋もなかに入らなかった。これらは、相馬楼の舞妓とあわせて、後日を期すことにしたい。
舞鶴にも似て、日本海の港町は、繁栄時代の余韻を残したレトロな雰囲気を残しており、私にはすごく好印象を感じた。
バスで酒田駅から鶴岡駅へ。1時間もかかって800円、これなら我慢して待って列車で鶴岡に戻ればよかった。。
本日の宿泊は、鶴岡駅前のホテルを予約していたので、庄内バスで鶴岡駅へ。せっかくなので、海辺の温泉も考えたが、翌朝が早いので利便性を考えて駅前のホテルに。大浴場があるというのが魅力的だったこともある。
大浴場で温泉気分、深夜バスでほとんど寝てなかったので入浴したら一気に疲れがでてしまった。面倒のなのでホテル内で食べたが、これは大失敗。駅前にでて居酒屋にでもいけばよかったと思ったのは後の祭り。
■翌日(9月3日)の午前中、無料のレンタサイクルで鶴岡市内を駆け足で回る
この日は朝は晴れていて、東向きの部屋に宿泊した私の部屋からは、窓越しに美しい出羽三山の姿がくっきりと見えたものの、朝風呂に入っていざチェックアウトという段になったときには、土砂降りとなっていた。
さてどうしたものかと思っていたら雨も小降りになってきたので、午前中の時間をフル活用するために、観光案内所で無料のレンタサイクルを借りて、9時半から11時まで急ぎ足で鶴岡市内を駆け回ることにした。鶴岡のレンタサイクルはピカピカの新品のママチャリで、自転車にかんしては酒田とは大違いである。
まず向かったのは市内の西はずれにある南岳寺、ここはミイラ仏で有名な真言宗のお寺で、自転車を飛ばしても20分くらいかかった。このお寺で酒田の海向寺に続いて三体目の即身仏を拝観。若いお坊さんが説明してくれた。12年に一回、衣改めをするそうで、昨年替えたばかりのパープルの衣は、色鮮やかであった。時間の許す限り、ミイラ仏とじっくり対面。
この次は致道館へ。ここはかつて庄内藩の藩校であった建物。展示されていた庄内藩と西郷隆盛の深い関係を、具体的な資料物件をみて再確認できたことは非常に有意義なことであった。
戊辰戦争において、幕府側について戦った庄内藩に対し、新政府側の総大将・西郷隆盛は敗者に対して寛大な態度で臨み、これに感激した庄内藩士の多くが熱烈な西郷ファンになったことは、庄内という土地柄を知る上で、もっと知られてよい歴史的事実である。
このブログでも、「幾たびか辛酸を歴て志始めて堅し」(西郷南洲)という文章に書いたが、『西郷南洲遺訓』(山田済斎編、岩波文庫、1939)は、明治維新後の明治3年、庄内藩(山形県)の有志が教えを請うために鹿児島を訪れて、その際に交わした会話の聞き書きを一書にまとめたもので、西郷隆盛の息づかいまで聞こえてくるような言行録である。
庄内藩士のなかには鹿児島に留学し、西南戦争においては周囲の説得も振り切って西郷隆盛と運命を共にした忠義心の塊のような武士もいたらしい。
このように、歴史にはあまり表舞台には現れてこないが、実に重要な地下水脈というものがある。こういう風土を背景に、大川周明の思想形成がなされたことも知っておきたいことだ。
鶴岡といえば藤沢周平のようだが、藤沢周平の作品は一作も読んだことのない私には、鶴岡がウリにしたい、その時代小説作家からみのもろもろのことについては、あまり縁はない。映画化されているものも多いが一作もみてないないのは、あまり私の感性にあわないからだろう。
■酒田と鶴岡という二つの地方都市の個性
酒田は湊町で商都、鶴岡は城下町で武家の町。
芭蕉も『奥の細道』では、「鶴が岡の城下」、「酒田の湊」という対比表現を使っている。
この二つの地方都市の個性は、ある程度まで大川周明と石原完爾という強烈な個性とパラレルな関係にあるような気がしないでもない。酒田の眼科医の家に生まれた大川周明、鶴岡の下級武士の家に生まれた石原完爾将軍。
個人的には、酒田という湊町が非常に気に入った。
同じく日本海側の舞鶴(京都府)に生まれた私は、酒田には同類のもののを感じるからだ。
舞鶴というと「海軍の町」というイメージが強いが、それは東舞鶴のことであり、田辺城の城下町でかつ商都としても発展した西舞鶴とはずいぶん異なる。東郷平八郎が初代舞鶴鎮守府長官に任命されるまで、現在の東舞鶴は何もないところであった。
酒田も西舞鶴も、いずれも優良な漁港でもあり、食文化の豊かさに共通点があるといってよい。酒田で食べたイワガキは実にうまかった。一般に、R のつかない月、すなわち5月(May)から8月(August)はカキは食べるなと北半球ではいわれるが、イワガキは日本海の夏の特産品である。
酒田が位置する庄内平野は、最上川などの水系にも恵まれた、食文化の点からいっても豊かな土地柄である。もちろん歴史をひもとけば、冷害に強いコメの品種改良など、先人の苦労のたまものであることはいうまでもない。
鶴岡は庄内平野へのアクセスポイントなので、また仕事でくる機会があるかもしれないと期待しているが、仕事は別にしても、酒田にはぜひ今度は宿泊して滞在してみたいものだと思っている。
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次回は、いよいよ 「山伏修行体験塾」(二泊三日)への参加 です。
庄内平野と出羽三山への旅 (3) 「山伏修行体験塾」(二泊三日)に参加するため羽黒山方面に移動
<関連サイト>
庄内第一の偉人 石原莞爾将軍 生誕120年・没後60年記念 1/2 石原莞爾将軍墓所
庄内第一の偉人 石原莞爾将軍 生誕120年・没後60年記念 2/2 石原莞爾将軍墓所案内 作成の趣旨
・・地元の篤志家が作成した案内サイト
<参考文献>
『石原完爾 上下-生涯とその時代-』(阿部博行、法政大学出版局、2005)
・・伝記的事実関係を細大もらさずトレース、レファレンス文献として価値が高い。大川周明との接触については本書を参照。著者は鶴岡市生まれ。
『大川周明-ある復古革新主義者の思想-』(大塚健洋、中公新書、1995 現在は、講談社学術文庫 2009)
・・大川周明復権に先鞭をつけた基本的文献
<関連サイト>
稀代の天才戦略家・石原莞爾(Unparalleled Strategist Kanji Ishiwara)の映像
・・晩年の石原莞爾の庄内弁の肉声が聴ける貴重なフィルム。
<ブログ内関連記事>
書評 『世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか』(岡田芳郎、講談社文庫、2010 単行本 2008)
「幾たびか辛酸を歴て志始めて堅し」(西郷南洲)
・・戊辰戦争において敗者となった庄内藩士の心を支えた西郷隆盛精神
書評 『帝国陸軍 見果てぬ「防共回廊」-機密公電が明かす、戦前日本のユーラシア戦略-』(関岡英之、祥伝社、2010)
・・大川周明主宰の「大川塾」について言及。アジア主義者・大川周明のイスラーム研究についても
原爆記念日とローレンス・ヴァン・デル・ポストの『新月の夜』
・・原爆投下と石原完爾の「世界最終戦争論」について言及
書評 『ノモンハン戦争-モンゴルと満洲国-』(田中克彦、岩波新書、2009) ・・満洲と石原完爾など
書評 『オーラの素顔 美輪明宏のいきかた』(豊田正義、講談社、2008)-「芸能界」と「霊能界」、そして法華経
・・日本における熱烈な日蓮信者の系譜のなかの石原完爾
(2017年9月22日 情報追加)
(2017年5月18日発売の新著です)
(2012年7月3日発売の拙著です)
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