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2010年9月21日火曜日

庄内平野と出羽三山への旅 (7) 「神仏分離と廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)が、出羽三山の修験道に与えた取り返しのつかないダメージ





われわれは、「神仏分離と廃仏毀釈」によって取り返しのつかない大きなダメージを被ったあとの出羽三山しか知ることはできないということ

 今回の「山伏修行体験塾」に参加して、羽黒山と月山の抖(と)そう行を行い、先達(せんだち)から種々の説明を聞いた際に思ったのは、明治維新後の「神仏分離令」、「廃仏毀釈」の爪痕が、想像以上に出羽三山にダメージを与えているということである。

 寺院の建物が根こそぎ破壊されただけでなく、仏像も仏具も焼かれるか、川に捨てられ、もともと神仏習合だった修験道も禁止され(!)たのである。

 先達から、芭蕉が『奥の細道』の旅で立ち寄った南谷別院の跡だという説明を聞いていて思ったのは、なぜいまここに寺がないのかということだ。南谷別院跡は、現在では柱の跡が見えるだけで、あまり日の光の当たらない、一面に苔むす土地になっている。あとは芭蕉の句碑だけだ。

 芭蕉が、「夏草や 兵(つはもの)どもが 夢のあと」と詠んだのは、奥州藤原三代の平泉であるが、いまから140年前に羽黒山で行われた蛮行と文化破壊について知ったなら、芭蕉はいったいどういう句を詠むのだろうか?

 『奥の細道』(萩原恭男校注、岩波文庫、1979)の脚注には、ただ「羽黒山参道三の坂下の近くにあった別当寺の別院高陽院紫苑寺」(P.47)とだけある。なぜいまはないのかという説明がいっさいない。「かつてあった」というのは事実としては正しいが、きわめてミスリーディングな説明ではないか?

 明治維新の際に、人為的に破壊されたのだ、ということを語っていない記述は不正確だといわざるをえない。

 羽黒山にある仏教寺院は、明治維新の際の「神仏分離と廃仏毀釈」によって、芭蕉ゆかりの由緒ある寺院ですら、有無をいわせず暴力的に、徹底的に破壊されつくしたのである!

 この事実をなぜ脚注に書かないで、芭蕉の『奥の細道』を理解したことにはならないのではないかとも思う。『奥の細道』の旅において、出羽三山巡礼がきわめて大きな意味をもっていたからだ。これについては、また後ほど書くことにする。


「神仏分離と廃仏毀釈」について語らずに日本近代史を語ったことにはならない

 「寺が昔あった」というのは事実としては正しいが、なぜなくなったのかについての記述がないと、明治維新後に吹き荒れた「神仏分離」、「廃仏毀釈」の意味を実感することができないだけでなく、日本近代史そのものを見誤ることになりかねない。

 日本人は、とかく過去の恩讐は水に流そうという傾向が強いが、このすさまじいまでの文化破壊については黙殺してはいけない歴史的事実である。

 日本の伝統文化について語るのはいいが、われわれはあくまでも神仏分離と廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)という、中国共産党の毛澤東が引き起こした「文化大革命」にも匹敵する暴挙と破壊の爪痕のあとに生きているということを忘れるべきではない。

 日本史においては、織田信長による比叡山焼き討ちと豊臣秀吉による石山本願寺攻略、キリシタン弾圧と禁止だけでなく、神仏分離と廃仏毀釈について正しい歴史的理解をもっておかねばならない。

 実際は日本人は宗教的ではあるのだが、日本人が何も考えずによくクチにする「日本人が無宗教」という発言は、これらの宗教政策に由来するところが大きい。為政者による魂の管理にかかわるものである。


 宮崎の仏教僧侶が書いた、『廃仏毀釈百年-虐げられつづけた仏たち- (みやざき文庫)』(佐伯恵達、鉱脈社、改訂版 2003)はその意味では必読である。宮崎県もまた、隣接する薩摩藩の廃仏毀釈が飛び火して、徹底的に仏教寺院や仏像・仏具が破壊されたらしい。それはまさにすさまじいとしかいいようがない。

 その結果、作り出されたのが「神国日本」、そして「神話のふるさと宮崎」という「創られた伝統」であったことに注意を促している。

 新政府側が必要としたのは、民衆統制のために江戸幕府が作成した「人別帳」であった。江戸幕府は、仏教寺院をつうじて「魂の管理」を行っていたのであるが、逆にいうと、「管理仏教」が幕藩体制を支える関係にあったともいえる。だから、新政府側は仏教と対立する側に立ったのである。
 同時に、仏教寺院にあるこの「人別帳」を手に入れることで、新政府側は民衆を管理することを狙ったのである。財産差し押さえも含めた経済的な意味ももっていたことはいうでもない。

 「神仏分離と廃仏毀釈」は、高校の日本史の教科書でも数行で片付けられているが、その後の近代日本史に与えた大影響を考えれば、あまりにも問題といわざるをえない。まだまだ、明治維新体制を是とする見解が一般国民だけでなく、日本史学会も含めて支配的な「常識」なのであろう。

 この本には、「神仏分離と廃仏毀釈」の詳細な年表が付されている。これを読んでいくと、明治新政府は平田派の神道主義者の意図を越えて、換骨奪胎していったことがよくわかる。平田派自身はその後政府中枢から追い出されていくのいであるが、この間の事情は、父親の人生をモデルにした島崎藤村の『夜明け前』に描き出されたとおりである。国家というものの非情さが端的に表れているのである。

 島崎藤村とは別の視角、すなわち廃仏毀釈された側からの本書は実に貴重なものだ。しかしながら、島崎藤村に匹敵できる文学作品が書かれなかったことが、歴史観の転換が起こらない理由の一つであろう。とはいえ、著者のいうところによれば、本書に書かれた内容は、「国家神道」体制のもとにおいては、とても戦前には発表できなかったのである。

 明治維新はオモテだけでなく、ウラもみよ。著者のメッセージを私はそう受け取っている。


 民衆思想史の安丸良夫はが著書のタイトルに『神々の明治維新-神仏分離と廃仏毀釈-』(岩波新書、1979)と使っているように、明治維新は政治経済上の革命であったとともに、宗教革命としての様相を色濃く帯びていた。

 幕末にイデオロギーとして急成長した国学と水戸学、この本来なら相容れるはずのない両者が融合し、「神権国家」構想を現実すべく、新政府への働きかけに成功するや、近代国家のイデオロギーを求めていた新政府との野合が生じたのである。それは短い期間であったが、この間に行われた「文化破壊」が取り返しのつかないものであったことは繰り返し、繰り返し指摘しておきたい。

 「神仏分離」は一言で言ってしまえば、近代には発生しがちな、純化(purification)と合理化(rationalization)の実にストレートな表現である。すなわち、神仏習合状態から、仏を分離して廃棄せよ、という主張に他ならない。

 新政府の方針は、中国や朝鮮とは違う、民族国家として日本を確立するという命題、近代化=合理化であったが、その際に手を組んだ平田派国学が、いきすぎた「祭政一致」の方向に一気に突っ走ろうとした。彼らの脳裏には、ある意味ではイラン・イスラーム革命のような、「神権政治」(テオクラシー)確立を目指していたといってもいいのかもしれない。

 革命とはそういうものであり、これはフランス革命やロシア革命でも似たようなものである。フランス革命においてはカトリックを大弾圧、ロシア革命においては唯物論という宗教のもとに既存の宗教を大弾圧した。

 フランスを代表する作家アナトール・フランスに、フランス革命を描いた『神々は渇く』(大塚幸男訳、1977)という小説があることが、革命というものの本質を示して余りない。

 革命を推進する側に立つ「神」は、打倒すべき対象の既存勢力の側の「神」をことごとく排斥する。政治経済状況の裏側に張り付いた印画のような宗教的熱情、この側面に触れることなく明治維新も論じることはできない。明治維新において、新政府側が担いだのは神道の神、幕府側は仏教であったことは、あえて図式化すればそういうことになる。

 「神仏分離」というと、なにやら外科手術的な腑分けを連想するような表現だが、実態は激しい仏教弾圧とセットになった神道国教化であったことは強調しておいたほうがいいだろう。

 神仏習合が当たり前で、これこそが日本的ともいえる特徴であったのであれば、急進的国学者たちの夢想を現実化することなど、どだい不可能なことであった。


出羽三山における「神仏分離と廃仏毀釈」

 この「神仏分離、廃仏毀釈」の嵐が、激しく吹き荒れたのが、ここ出羽三山でもあった。修験道という民衆宗教は、まさに日本的そのもので神仏習合の最たるものであったからだ。

 先にも触れた、安丸良夫の『神々の明治維新』には、以下のような記述がある(P.149~155)。長くなるが引用させていただく。

 出羽三山に神仏分離令が伝えられたのは、明治二年五月である。東北地方では、戊辰戦争の影響をうけて、分離令の布達は遅れていたのである。・・(中略)・・旧来の信仰を守ろうとする勢力が圧倒的に有力だった。・・(中略)・・羽黒山は出羽神社と改められた。・・(中略)・・
 ところで、五年九月に修験宗が廃止され、修験は所属寺院に従って天台宗か真言宗に所属することとなった。羽黒山麓の修験は、これにともなって天台宗に帰属したが・・(中略)・・
 出羽三山で神仏分離が徹底され、廃仏毀釈が推進されたのは、六年九月(注:明治6年=1874年)、西川須賀雄が宮司として着任してからのことであった。西川は、教部省出仕大講義で佐賀藩の出身、神祇官→大教院において神道国教主義的理念をかかげる最急進グループの一人だった。この年、このグループには・・(中略)・・広汎な人々に信奉されている神社へのりこんでいった者が多かった。彼らは,それぞれの神社の旧来の参詣講などを再編成して、神道国教主義の受容基盤をつくりだすとともに、それらの講社などの「金力」を利用しょうとした。西川のばあいもその典型で、出羽三山の神道化を徹底するとともに、羽黒修験を再組織して、神道国家主義の布教組織に転じようとしたのである。着任にさきだって、西川は、仙台でハリストス正教会のニコライの布教阻止のために活動しており、使命感にもえて羽黒山へ赴いたのであろう。
 西川は、還俗神勤していた旧僧侶の多くを解任したり、還俗の証に無理に魚島を喰べさせたりした。また、月山への登山道にあった夥(おびただ)しい石仏を、人足に命じて谷へ突き落とさせた。しかし、彼がもっとも力を注いだのは、天台・真言両宗に属していた修験たちの神道化であった。
 西川が着任する以前には、三山の神仏分離はおこなわれていたとはいっても、羽黒山頂には開山堂があり、山内には仏像をまつる末社や遺著小屋が数多く、これらは修験の活動のよりどころとなっていた。そこで西川は、山頂の開山堂を蜂子神社に改め、神仏分離を徹底して道者小屋などをとりあげた。こうした処置に動揺した修験たちは、社務所におしかけて西川に抗議したりした。しかし西川は、蜂子神社の附属講社として赤心(せきしん)報国会を設立し、みずからその教長となって、そのもとへ修験を再編しようとした。そのため、赤心報国会に加わったものとそうでないものとのあいだに修験が二分されることとなり、両派が行場(ぎょうば)などで争うような状態が後年まで続いた

 赤心報国会は、のちに三山敬愛教会となり、神道本局の所属教会となった。また、西川は、九年には安房大神宮宮司となって去り、その後任には星川清晃・物集高見などが任じられたが、彼らはいずれも国学系の神道家で、国家権力を背景に神道家がのりこんできて、三山とそれをささえる修験たちの宗教活動を神道化しようとする大勢は変らなかった。
 しかし、それが、三山の信仰の実態となんのかかわりもないべつの信仰を、外からもちこむものであったことはいうまでもない。赤心報国会→三山敬愛教会が、三条の教則を守り皇恩を拝謝することを第一の目的にかかげ、神式の拝式などを定めても、それらは、修験にとっても地域の民衆にとっても、まったく親しみがたいものだった。そのため、羽黒修験の多くは、神道化を拒否しようとする傾向をもっていたが、とりわけ、その中心である羽黒山麓の手向(とうげ)村では、「手向村慣例保統規約」をつくり、霞場等についての旧慣を保持し、それに達反した者には村八分の制裁をおこなうことをきめた(戸川、同右書)。手向村の修験約三六〇戸のうち、神葬祭に転じたものは六〇戸ほどであり、登拝の信徒も旧来の仏教的な唱言を唱えるものが多く、あらたに定められた神道式の唱言を唱えるものはいまでも少ないという。
 もちろん、それだからといって、出羽三山の神仏分離と神道化が、小さい意義しかもたなかったということではない。今日訪れる私たちにとって、羽黒山は完全に神社だし、月山山頂も修験道に由来するたたずまいを残しているとはいえ、基本的には神社の様式と見える。修験の行法などには、神仏分離以前にさかのぼる伝統が維持されているとしても、宗教体系の全体としての転換はあきらかだとしなければならない。一片の布告や西川たち少数の神職の活動によって、あの強大な羽黒修験でさえ、さまざまの葛藤をともないながらではあるが、国家の設定した宗教体系のなかにともかくも包摂されていったことの方に驚くべきであろう。

(太字ゴチックは引用者=私による)


 『出羽三山 山伏の世界』(片山正和、新人物往来社、1985)は、朝日新聞の記者が、実際に「秋の峰入り」に4回参加して朝日新聞山形版に連載したルポであるが、著者は、神道系ではなく仏教系の「秋の峰入り」に参加している。理由は、廃仏毀釈以前の姿をより伝えているからということだ。

 このルポを通じて浮かび上がってくるのは、明治維新の神仏分離と廃仏毀釈の傷跡は、いまだに癒されていないということである。生き残るために神道系による再編を受け入れた手向(とうげ)村も、利権がからむだけに、一筋縄にはいかないのが現実の世の中というものだ。

『出羽三山 山伏の世界』の最終章は、先にも引用した安丸良夫の本にもでてくる、「神仏分離と廃仏毀釈」の実行者であった西川須賀雄の日記をとりあげている。「遊久天乃須佐備」(ゆくてのすさび)という日記で、西川はこう書いているという。孫引きになるが引用しておこう。「羽黒山の儀、容易ならざる場所にして恐らく、此日本国中にて第一の仏の巣窟と見認め候」、と。宗教的熱情と不退転の決意で、羽黒山の神道化を推進したことがうかがわれる。

 しかし、月山の登山道にあった石仏を渓谷に突き落とさせたという話は、日記には記載がないという。なぜだろうか。

 西川は「秋の峰入り」禁止令を出そうとしたが激しい抵抗にあい、それで赤心報国教会をつくり、その結果、神道系と仏教系の修験に分かれたまま今日に至るということのようだ。とはいえ、神道系のほうでも、従来の山伏姿で行っているので、西川の意図は貫徹しなかったことになる。

 しかしながら、「拝式乃わけ」において西川は、「諸(もろもろ)の罪(つみ)穢(けがれ) 祓(はら)ひ禊(みそぎ)て清々(すがすが)し」で始まる「三語」を作成して普及させたらしい。この「三語」は短くて覚えやすいので、西川の意図通りに定着して今日にいたっている。

 ところで、西川は、この「三語」を神代文字で(!)記しているという(・・写真が掲載されている)。ちなみに、神代文字とは平田篤胤が「発見」したという漢字以前の日本の文字(!)のことだが、現在のわれわれからみたら、ハングルをパクったものに過ぎない。まさにトンデモ系である。

 いずれにせよ、われわれが「山伏修行体験塾」で奉唱する「三語」は、修験道の神道化によって定められた、「創られた伝統」の一つなのであった。どうりで文言が神道っぽいなと思ったのは、当然といえば当然だったわけだ。出羽三山の修験道関連本にはいっさい触れられていない。

 ただし、女人結界を廃止したことは、西川須賀雄の功績であることは、公平を期すために書いておかねばなるまい。思うに、この西川須賀雄という男は、近代合理主義の権化のような人間だったように思われる。

 また現在は国宝の五重塔も、南谷の別院と同様、存続の危機にあったらしい。現在でも周囲の杉木立のなかにたたずむ五重塔、これを拝礼する際には、「神仏分離と廃仏毀釈」の嵐について考えて見ることも必要だろう。


宗教民俗学者が見る「神仏分離と修験道禁止令」が修験道に与えた影響


 宗教民俗学、とくに仏教民俗学という領域を開拓した五来重は、『新版 山の宗教 修験道』(五来重、井上博道=写真、淡交社、1997 初版は 1970)のなかで、とくに江戸末期の状況から明治以降の修験道をめぐる状況について、以下のように述べている。

 近世の山伏が、尊敬よりも恐怖をもって見られたのも、ほんとうの信仰をもたず、呪いと強迫で信施をむさぼったものの多いことをものがたるものだろう。しかしそれにもかかわらず、神仏分離と修験道禁止令までは庶民の依託にこたえて、予言・祈祷・治病をおこなう機能をはたしていたことは事実である。これが突然禁止されたところに新興の宗教や、もっと悪質の拝み屋を生んだ原因がある(P.255)。

 庶民信仰研究者の立場からみれば、こういう見方も成り立つのである。
 五来重は、さらに「むすび」において、次のようにもいっている。

 修験道は日本宗教史の謎である。修験道の謎はまた庶民の心の謎でもある。近代は合理主義の時代だといわれるのに、庶民の心は素朴な非合理的な思考と原始的呪術的願望にみたされている。その非合理性と原始性に対応する宗教が修験道であった。
 明治政府は庶民から修験道を奪ったが、民衆はそれにかわる教派神道と未組織な祈祷師や口寄せ巫女に、その宗教的要求をもとめた。ことに第二次世界大戦の敗戦後に、雨後の筍のように乱立した新興宗教は、どれをとっても修験道の一部を分割占領したようなものばかりである。所詮宗教というものは庶民の心の非合理性と原始性をはなれては成ち立ちえないものらしい。これを合理化しり、近代化したりすれば、それは宗教ではなく思想になり、民衆の素朴な願望と夢はうしなわれてしまうのである。
・・(中略)・・
 これにたいして修験道はそのような衣をもたぬ無智の宗教であり、野性の宗教である。これはどこまでも日本の宗教の原始性を保持し、強靱な活力と庶民性をもっている。私はそこに日本宗教の原点と、日本文化の祖型を見ることができるとおもう。しかし今日の修験道はまだ明治の神仏分離令と修験道禁止令の痛手から立直れずに、自信をうしなってよろめいている。これも修験道の本質をなす苦行主義と代受苦精神を回復していないためであろう。大きな期待をもたれる修験道もまた病んでいる。そして日本の宗教界は大きな混乱のなかにある。(P.257~258)

(注:太字ゴチックは引用者=私によるもの)


 この発言がなされたのは1970年であるが、40年後の2010年の現在ではいかがであろうか。

 基本的には大きな変化はないように思われるが、山登りが少しずつ復活しつつあるのは、日本人が山に求めているのがただ単にレクリエーションではなく、生命力の回復の源泉を求めていることが背景にあると考えれば、少しは将来にむけて望みがあるのかもしれない。(この項目は、2010年9月24日に追加)


なぜ「神仏分離と廃仏毀釈」以前の姿に戻そうという動きがでてこないのか?

 私などからみたら、「神仏分離と廃仏毀釈」はすでに過去のものなのであり、近代法成立以前の出来事であるから、正式に解除されているのかどうかわからないとはいえ、現在では法的効力はとうの昔に失効しているはずであり、信仰を本来の姿のて神仏習合状態に戻せばいいではないかと思うのだが、不思議なことに日本全国をみても、神仏習合の過去に戻したという例はほとんどみたことがない。

 「神仏分離の結果、神社と寺院に分かれて現在に至っておりま~す」と観光ガイドは、丸暗記したガイド内容を繰り返すのみだ。何かがおかしいのではないか?
 
 静止状態の物体は外部からあらたなチカラが加わらない限り静止状態を続けるという、「慣性の法則」が働いてしまっているのだろうか?

 それともすでに定着してしまった利権構造がそれを阻止しているのか、それともなにか見えないタブーでも存在するのか・・・。

 いや、そもそも。すでに神も仏も日本では衰微してしまっているのか・・・。

 どうも、現在の日本人が何も考えずにクチにする、「昔からそうなっている」というのは、非情にマユツバものである。日本人がいう昔というのはせいぜい30年前くらいまでしか指していないのではないか?

 ところで、ちょっと話題を先取りするが、その意味では「出羽三山の奥の院」と呼ばれてきた湯殿山は、形態としては神仏分離を崩していないものの、実態としては神道と仏教が併存しており、神仏習合よりも、なおいっそう不思議で、奇妙な様相を呈している。この件については、湯殿山に到着したあとで書くこととしたい。



<参考文献>

●神仏分離と廃仏毀釈

『神々の明治維新-神仏分離と廃仏毀釈-』(安丸良夫、岩波新書、1979)
『神仏分離』(圭室文雄、教育社歴史新書、1977)
『廃仏毀釈百年-虐げられつづけた仏たち- (みやざき文庫)』(佐伯恵達、鉱脈社、改訂版 2003)
『近代日本の仏教者たち-廃仏毀釈から仏教はどう立ち直ったのか-』(田村晃祐、NHKライブラリー、2005)
『近世の仏教-華ひらく思想と文化-(歴史文化ライブラリー)』(末木文美士、吉川弘文館、2010)
『神仏習合』(義江彰夫、岩波新書、1996)

●出羽三山の修験道(と神仏分離)

『出羽三山 山伏の世界』(片山正和、新人物往来社、1985)
『新版 山の宗教 修験道』(五来重、井上博道=写真、淡交社、1997)
『山の宗教』(五来重、角川選書、1992)
『五来重 宗教民俗学集成1 修験道の歴史と旅』(五来重、角川書店、1995)
『山岳霊場巡礼』(久保田展弘、新潮選書、1985)
『修験道・実践宗教の世界』(久保田展弘、新潮選書、1988)
『山伏-入峰・修行・呪法-』(和歌森太郎、中公新書、1964)
『修験道の本-神と仏が融合する山界曼荼羅-(Books Esoterica)』(学研、1993)
『修行の本-決死の行体験と至高の智慧の獲得-(Books Esoterica)』(学研、2010)


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書評 『明治維新 1858 - 1881』(坂野潤治/大野健一、講談社現代新書、2010)・・明治維新のオモテの側面について開発経済学の観点からみた最近の好著。

書評 『日本文明圏の覚醒』(古田博司、筑摩書房、2010)
・・明治維新に始まる「近代」(モダン)はすでに終わったのだ、と説く好著。オモテもウラもあわせた「明治維新」が、徹底的に再解釈され、歴史観が転換されるキッカケとなることを望みたい。



 では、ふたたび話を旅に戻して、次回 (8) では、月山八号目の参籠所に宿泊した話 について書くこととする。






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