『小説永井荷風伝』(佐藤春夫、岩波文庫、2009 初版 1960)は、詩人・佐藤春夫が回想しつつ描いた、詩人・永井荷風の生涯を自由に描いた「小説」である。
永井荷風について語る佐藤春夫もまた、本質において「詩人」なのである。
佐藤春夫の小説はもはや読まれることもあまりないだろうが、佐藤春夫の詩作品は今後も愛唱されるであろう。
追憶的に語られる「少年の日」や、卑俗な現実を文語体で歌った「秋刀魚の歌」など、リズム感のある詩は、意外と古さを感じさせないものだ。
そのむかし、はじめて熊野を訪れた際に新宮(しんぐう)で、佐藤春夫の東京の旧居が移築されていることを知り、なかに入ったことがある。佐藤という名字は共通だが、わたしとはまったく関係はない。
紀州の新宮といえば、現在では中上健次の名がでてくるだろうが、同じ風土のなかから出てきた佐藤春夫という文学者のこともアタマのなかに置いておきたいものだ。
中上健次が散文作家であれば、やはり佐藤春夫は詩人というべきであろう。
ここで、佐藤春夫の代表作である「少年の日」を引用しておこう。『殉情詩集』(大正10年=1921年)に「犬吠埼旅情のうた」などとともに収録された名編である。
少年の日
1 春
野ゆき山ゆき海辺ゆき
眞ひるの丘べ花を籍き
つぶら瞳の君ゆゑに
うれひは青し空よりも。
2 夏
蔭おほき林をたどり
夢ふかきみ瞳を戀ひ
なやましき眞晝の丘べ
さしぐまる、赤き花にも。
3 秋
君が瞳はつぶらにて
君が心は知りがたし
君をはなれて唯ひとり
月夜の海に石を投ぐ。
4 冬
君は夜な夜な毛絲あむ
銀の編み棒にあむ絲は
かぐろなる絲あかき絲
そのラムプ敷き誰がものぞ。
佐藤春夫が詩人であるというのは、こういうことだ。
では、つぎに永井荷風が詩人であるということはどういうことかを見ておこう。
彼自身は詩作を行っていないが、『珊瑚集(仏蘭西近代抒情詩選)』(大正2年=1913年)という、フランス詩の訳詩集がある。この訳詩集の岩波文庫版(1938年)には、佐藤春夫が解説を書いている。岩波文庫の新版(1991年)には、フランス語の原詩も併載された。
英独仏詩人の訳詩集である上田敏の『海潮音』(かいちょうおん)や、同じくフランス詩の訳詩集である堀口大学の『月下の一群』ほど現在は有名ではないが、永井荷風を詩人とする理由がそこにあることを知っておきたい。ただし、佐藤春夫の「小説」には、『珊瑚集』への言及はなぜかない。
永井荷風による、ヴェルレーヌの訳詩を一編だけ引用しておこう。
ぴあの
しなやかなる手にふるゝピアノ
おぼろに染まる薄(うす)薔薇色の夕(ゆうべ)に輝く。
かすかなる翼のひゞき力なくして快き
すたれし歌の一節は
たゆたひつゝも恐る恐る
美しき人の移香(うつりか)こめし化粧の間にさまよふ。
あゝゆるやかに我身をゆする眠りの歌、
このやさしき唄の節、何をか我に思へとや。
一節毎に繰返す聞えぬ程の REFRAIN(ルフラン) は
何をかわれに求むるよ。
聴かんとすれば聴く間もなくその歌声は小庭のかたに消えて行く、
細目にあけし窓のすきより。
永井荷風は、佐藤春夫が強調しているように、いいとこの坊っちゃんの生まれであったが、下降願望のつよい人であった。長男であるがゆえに、かえって上流階級の俗物性と窮屈さがいやで仕方がなかったのだろう。しかも、弟は農学者として成功した人でキリスト教徒でもあった。
わたしはフランス流のモラリストとしての荷風は好きで、高校時代に読み始めてからも、表面の描写と作家の本質が異なるように思われたのだが、その理由は佐藤春夫が的確に指摘するとおりなのだろう。荷風は、儒者の家系に生まれた人なのである。
永井荷風の評伝はいくつもあって、わたしも磯田光一のものや紀田順一郎のものを読んだことがある。だが、なんといっても本書の佐藤春夫のように学生時代に直接に私淑し、その謦咳に接しただけでなく、同じ文学者として微妙な関係でもありながら、終生つかず離れずの関係にあった作家が書いた「小説」は、読む価値のあるものだと思った。
森鴎外、永井荷風、佐藤春夫という近代文学における系譜。これに、佐藤春夫に私淑していた檀一雄を加えれば、わたしの趣味は一貫しているのだなあと感じさせられる。
永井荷風の作品世界のいくばくかでも知っているならば、より興味深く読むことのできる作品であるといってよいであろう。
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味噌を肴に酒を飲む・・『徒然草』第二百十五段。佐藤春夫の現代語訳をつけておいた
(2014年1月10日 情報追加)
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