カトリックの修道院生活のドキュメンタリー映画である。原題はドイツ語で Die große Stille、日本語版のタイトルはその直訳である。
登場するのはフランスのアルプス山中に建てられたグランド・シャルトルーズ修道院(Grande Chartreuse)。1084年に設立された、カルトジオ会の男子修道院である。カルトジオ会とは、フランス語の名称 Ordre des Chartreux(シャルトル会)のことである。厳しい戒律で知られるという。
比較的よく知られたシトー派の修道院が12~13世紀に急速に拡大したのに対し、カルトジオ会は14~15世紀に拡大し、18世紀には最盛期を迎えたが、啓蒙主義時代には世俗君主からの攻撃を受け、20世紀には大幅に衰退していたらしい。
このドキュメンタリー映画は、修道院の一日を一人の修道士に密着して描いたものではなく、「修道院という共同体」(コミュニティ)全体を、一年の流れのなかで淡々と要素要素を撮影した映像を編集したものだ。主人公は個々の修道士ではなく、修道院そのものである。
(英語版ポスター)
修道士は、日曜の昼食後と散歩の時間しか互いにクチをきいてはいけないことになっているので、この映画にはほとんど会話が収録されていない。ただし食事を共にする機会や、共に祈る機会はある。ときに修道院の外に出て会話する機会もあるようだ。そんなおりの修道士どうしの会話が、そのままフランス語の音声として収録されている。
とはいえ、音声といえば、基本的にビデオが拾った自然音と、時を知らせる鐘の音、そして祈りのつぶやきのみ。日課としての聖書の朗読と聖歌くらいである。しかもグレゴリオ聖歌なので伴奏はなく、文字通りのアカペラである(・・a cappella とは教会にてというラテン語)。聖歌の響きは美しい。映像もまた自然光だけで撮影されたものだ。
しかしなんといっても169分は長い。約3時間は長すぎる。眠気が襲ってくるのはどうしても避けられない。ナレーションがなく、劇的な展開もいっさいなく、映画を盛り上げるための効果音もないからだ。
ひとつひとつのシークエンスは短いが、映像はひたすら淡々としたものだ。四季(・・というよりも冬と夏)折々の変化はあるが、画面にはフランス語とドイツ語で書かれた聖句が何度も何度も繰り返し同じ文言として字幕にでてくる。
監督は意図してそれを行っているのだろう。修道士の毎日は、寒い冬であろうが暑い夏であろうが、決められた日課を365日淡々と送るものだからだ。それも修道院に受け入れられた日から死ぬ日まで。
修道士は独房で過ごすから、修道院のことを Monastery という。Mono(単独)で過ごす修道士たちの集まりが修道院である。修道院は「共同体」なのである。フランス語で communauté(コミュノテ)なのである。コミュニティなのである。
だがそれは、生まれながらそこに存在している村落共同体ではなく、あくまでも個人の自由意志によって自由を放棄(!)し、規律と秩序のなかで生涯を送ることになる共同体である。それが修道院なのである。西欧文明の心髄がそこにあるといえよう。
新たに入会してくる修道士たちがいれば、そのなかで死んで行く修道士もいる。修道院は、ホスピスでもあるわけだ。そういう見方も可能だろう。
■ドキュメンタリー映画であることの意味について考える
このドキュメンタリー映画は、監督・脚本・撮影・編集すべてをドイツ人監督のフィリップ・グレーニング氏が一人で手がけている。撮影として修道院に入ることを許可されたのが一人だけだったからでもある。
監督によれば、修道院に撮影を申し込みんだのは1984年、門が開かれるまでには、なんと16年間も待つことになる。そして映画が公開されたのは2005年。最初の申し込みから映画の公開まで21年。日本公開はそれからさらに9年。このスピード時代においては、なんとも息の長い話である。
以下、このドキュメンタリー映画について、やや距離をおいた観点からコメントしておこう。礼賛一方ではバランスを欠くからだ。
この映画を見ているとわかるのは、グランド・シャトルーズ修道院は11世紀の創設だが、現在の建築物は中世そのものではないということだ。建物の外観も何度も改築や増築を経ているという。映像で見る限り、修道院内部の床のフローリングも、あたらしく張り替えられているようだ。
(グランド・シャトルーズ修道院全景 wikipediaより)
野菜を栽培して調理するシーンはでてくるが、家畜は登場するものの、乳を搾ってチーズをつくったり、家畜を屠るシーンは出てこない。
ドキュメンタリー映画といっても、そこに「編集」が加わっている以上、まったくのありのままではない。それがわたしには残念に感じられた。監督が見たい、見せたい映像しか出てこないのである。
この修道院の経済構造がどうなっているのか、それも映画からはわからなかった。これはわたしの個人的関心であるが、共同体として存在する以上、経済的な基盤なしでは成り立たないからだ。食糧は自給できても、それ以外の器具などは自家製とはいくまい。
唯一の所有物は小さなブリキの箱だけと映画解説にはあるが、ディテールを細かく見ていると、ボールペン、スニーカー、ペットボトル、書見台のライト、腕時計、電気バリカン、水道が登場し、中世そのものではないことがわかる。編集が加わっているとはいえ、ドキュメンタリー映画のドキュメント性が露呈する瞬間である。
この修道院は、近代文明を完全に否定しているわけでもなさそうだ。この点は、アメリカに移住したアーミッシュのなかでも厳格派とされる人たちとは異なる。
ただし、外界との通信は手紙のみ。電話も、スマホも携帯も iPadも登場jしない。映画には登場しないが、事務所には電話やパソコンもあるのだろうとわたしは推測しているのだが・・・。
とにかく3時間の長丁場である。正直いって、わたしはこの映画にとくに感動といったものは感じなかった。
だが、この映画は、現代でもこういう生き方をしている人たちもいるという、一つのドキュメントとして見るべきではないか、と思うのである。
その意味では、修道院内部を詳細に撮影したドキュメント作品としては大いに評価すべきだ。監督の努力と手間に対してだけでなく、内容に対して3時間かけてでも見る意味はある。
(グランド・シャトルーズ修道院図面 小部屋が修道士の独房 wikipediaより)
映画『大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院』 予告編
Into Great Silence / Die Große Stille [HD US Trailer] (YouTube)
フィリップ・グレーニング監督の言葉 (公式サイトより)
容易なことではない。ほとんど会話がなく、通常、映画を成立させるべき言葉からも出来るだけ離れ、考えられる制作プロセスがまったく通用しない作品を作り上げるというのは、本当に容易ではない。
言葉を使わず、通常の制作論理や劇作法、映画監督としての自分の能力からもかけ離れたところで映画を作るというのは容易ではない。修道院を映像化するのに、映画を修道院そのものにしてしまう以外にどんな方法があるだろうか?どうだろう?
今でもなお、正解は分からない。言えるのは、やれば出来るということだけだ。この作品は、ある時期からうまく形作られていった。
ナレーションもなく、あの空間だけで、映画が修道院そのものになった。雲のようにつかみどころのない映画、私が最初にこの作品のアイデアを思いついた時、こう表現していた。そしてこの考えは、1984年に私が初めてカルトジオ会の修道士に会った時も、1年後に、彼らに「今はまだ早すぎる、10年か13年後であれば」と言われた時も、2000年に、修道院から「まだ興味を持ってくれているなら」と電話をもらった時もまったく変わっていなかった。
そうだ。そうなんだ。雲とは何か?その答えは難しい。雲には様々な種類がある。どれもまったく違っているが、その一つ一つどれもが正しい。間違った雲など見たことはない。
結局、私は6ヶ月近くをグランド・シャルトルーズ修道院で過ごした。修道院の一員として、決められた日々の勤めをこなし、他の修道士と同じように独房で生活をした。この、隔絶とコミュニティーの絶妙なバランスの中で、その一員となったのだ。
そこで映像を撮り、音を録音し、編集した。それはまさに、静寂を探究する旅だった。
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