先日のことだが、米国の最高裁は中絶の権利を認めた1973年の最高裁判決 Roe v. Wade をくつがえす決定を行った。
ごく一般的な日本人の観点からいえば、女性がみずからの意志で中絶を選択する権利をもつことがなぜ問題なのか、理解しがたい。
だが、中絶問題が Pro-life(生命尊重=中絶反対) と Pro-choise(選択尊重=中絶容認)として、長年にわたって米国社会を「分断」してきた争点(イシュー)であることは、紛れもない事実である。
中絶は性にかんする問題であり、しかも暴力にかかわる問題でもある。
中絶反対派の立場に立てば、中絶は胎児の殺害であり、暴力以外のなにものでもない。受精の瞬間から生命とみなすからだ。どの時点で胎児を生命とみなすかは、医学的というよりも法律学イシューでもあり、社会通念といして大きな焦点となっている。中絶反対派には、キリスト教のバックグラウンドがある。
ところが、その中絶反対派は、中絶を行うクリニックを暴力的に脅迫し、医院を放火したり、医師を殺害したりする事件も起こしている。常軌を逸しているとしかいいようがないが、これがアメリカの現実なのである。中絶は、本来なら個人の問題であるべきなのに、それが社会全体の問題となり、社会の「分断」を生み出してしまう。
このように「性と暴力」という切り口からアメリカ社会を見ると、アメリカという国家そのものの特性がよく見えてくる。
『性と暴力のアメリカ ー 理念先行国家の矛盾と苦悶』(鈴木透、中公新書、2006)は、この切り口から、アメリカという存在を全体的に捉えようとした試みだ。
理念先行国家と実際のズレ、これが鮮明に浮かび上がってくるのが「性と暴力」にかんする問題なのだ。
「性をめぐる問題は、他者との関係をどう築くか」にかんするものであり、「暴力の問題は、紛争をどう解決するかという」という問題にかかわっている。人権の保障と公共の利益にかんする問題でもある。
そもそも、身体と精神にかかわる「性」を規定する「宗教」がきわめて大きな要素をもち、しかも「暴力的な革命」によって独立を勝ち取って建国されたアメリカには、建国の時点から「性と暴力」の問題はビルトインされているのである。 これが著者の見解であり。、大いに納得させられる。
アメリカ社会は、近代以前の問題をそのまま引きずっているという見方も可能だろう。銃規制反対など武装権の問題は、ヨーロッパ中世そのものといっていいくらいだ。とくに南部にはその要素が濃厚だ。
「目次」を紹介しておこう。具体的にどのような問題が争点となってきたかが理解できるだろう。
序論「処女地」の陵辱
第Ⅰ部 「性と暴力の特異国」の成立 — 植民地時代〜1960年代
第1章 「性の特異国」の軌跡
Ⅰ 「完全なる性関係」を求める社会
Ⅱ 性道徳の法制化
Ⅲ 性への恐怖 ー 異人種間結婚・産児制限・優生学
Ⅳ 「性革命」と女性解放
第2章 「暴力の特異国」への道
Ⅰ 「小さな政府」とフロンティア神話
Ⅱ リンチの系譜 ー 自警団・人種隔離・死刑制度
Ⅲ マフィアとFBI ー 組織化される暴力
Ⅳ 米軍の海外展開と「軍事社会」の出現
第Ⅱ部 現代アメリカの苦悩 ー 1970年代 ~
第3章 「性革命」が生んだ波紋
Ⅰ 同性愛者の人権
Ⅱ 妊娠中絶論争
Ⅲ 異人種間の性関係
第4章 悪循環に陥ったアメリカ社会
Ⅰ 銃社会の迷宮 ー 2億丁を超えた銃
Ⅱ 子どもへの性的虐待と死刑執行
Ⅲ 巧妙につくられる「環境差別」
第5章 「暴力の特異国」と国際社会
Ⅰ リンチ型戦争の時代
Ⅱ 原爆論争とテロの記憶
Ⅲ アメリカと世界の責任
具体的な問題が、アメリカ社会の根本にかかわる根の深い問題であるとともに、人工的につくられた「理念先行国家」と現実の大きなズレを感じさせるものとなっていることがわかるはずだ。
「理念」を実現するための不断の努力の軌跡がアメリカ史であるといっていいが、多様な現実をいかに統合していくか、きわめて困難な課題の解決をめざして努力しつづけている国であるという言い方も可能だ。
これがダイナミズムを生みだしているというのが著者の見解であり、わたしも大いに同意するものを感じる。とはいえ、予定調和志向のつよい日本社会とは違って、生きていくのがしんどい社会ではあることは否定できないが・・。
本書の出版は2006年なので、すでに16年前のものである。その後も、「性と暴力」にかんする争点をめぐって「分断」状況はつづいている。読み応えのある内容の本なので、ぜひ増補改訂版を出してほしいと思う。
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PS 大学学部の講義録も面白い
著者は長年にわたって慶應義塾大学で教鞭をとっているらしい。 ほかに本がないかと思って探してみたら、『実験国家アメリカの履歴書ー社会・文化・歴史にみる統合と多元化の軌跡(第2版)』(慶應義塾大学出版会、2016 初版は2003年)という本があることを知った。
慶應義塾大学での人気授業の講義録をまとめたテキストのようだ。 アメリカの全体像をざっくりと捉えることの良書である。これはおすすめだ。こういう本を早く読んでおくべきだったな、と。
著者プロフィール鈴木透(すずき・とおる)日本の文化人類学者。慶應義塾大学法学部教授。専門はアメリカ文学・アメリカ文化研究。 東京都出身。1987年慶應義塾大学文学部卒業。1992年同大学院文学研究科英米文学専攻博士課程単位取得退学。 1993年慶大法学部専任講師、1996年助教授、2001年教授。著書多数。(Wikipedia情報を編集)
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・・「しかし狂信的にみえる彼らの言動も、彼ら自身のアタマのなかでは、自らの行動を正当化する、彼らなりの理由や動機があるはずに違いない。自分たちが信じる大義のためには法律も無視、そして暴力も辞さないという極端な過激思想。宗教的熱情に支えられた狂信的思想は、西洋の哲学、法学、宗教が生み出した思想であり、またアメリカ建国以来のリベラリズムにその起源をもつ思想だけに、きわめて根が深い。」
⇒ トランプ主義者の行動原理を知るにも応用可能な議論であろう
(2023年8月21日 情報追加)
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