ネット書店の amazon で「自省録」と検索すると、マルクス・アウレリウスの『自省録』がでてくることは言うまでもないが、同時にでてくるのが中曽根康弘の『自省録』である。
『超訳 自省録』を最初にハードカバーの単行本で出したのは2019年のことであるが、出版後からから中曽根氏の本のことはずっと気になっていた。中曽根氏が101歳で大往生したのはその年の11月のことである。
正式なタイトルは、『自省録 ー 歴史法廷の被告として』(中曽根康弘、新潮社、2004)。すでに20年以上前の出版である。この本だけでなく、著者の中曽根氏の存在もまた、歴史の彼方に遠ざかりつつある。
政治家は、経営者やプロスポーツの監督と同様に、あくまでも「結果責任」を問われる存在だ。
「歴史法廷の被告として」という副題は、政治家の仕事がリルタイムだけでなく、時間が経過したのち、さらにはその死後においてどう評価されるかは、「歴史の審判」に待つしかないという覚悟を示したものである。
この本もまた「歴史法廷の被告」の陳述書としての位置づけをもつ。 広く一般国民に読んでもらい、国民みずから判断してほしいという願いのもと、「ですます調」で書かれている。
中曽根氏が首相だったのは、1982年から1987年までの5年間。当時は大学生だったわたしからみたリアルタイムの中曽根首相は、マスコミでの評価を反映した毀誉褒貶相半ばする存在であった。風見鶏や田中曽根内閣、あるいは不沈空母といったフレーズがつきまとっていた。
だが、「改革」という一点にかんしては、大きな仕事をなしとげた人であることは間違いない。「国鉄改革」を中心とした三公社の民営化、その他もろもろの施策は「戦後日本社会」の膿を出すことに成功したといえよう。このことは、大学を卒業してビジネスの世界に入ってから大いに実感することになった。
わたしが就職活動をしていた頃は、民営化前夜ではあったが電電公社や国鉄の時代であり、会社訪問している。結局、いずれも縁はなかったものの、仕事で国鉄清算事業団の案件にかかわることで、国鉄民営化と地域分割スキームのキモを知ることになった。
『自省録 ー 歴史法廷の被告として』の目次は以下のとおりだ。
序章 総理大臣の資質第1章 政治家が書き遺すことの意味第2章 人物月旦(げったん) 戦後日本の政治家たち第3章 人物月旦(げったん) 海外の偉大な指導者たち第4章 わが政権を回想する第5章 これからの世界を読む第6章 漂流国家、日本のゆくえあとがき
「第5章 これからの世界を読む」は2004年時点での「これからの世界」なので、2025年時点で読んでもあまり面白くはないが、それ以外の章はじつに面白い。
中曽根氏と胸襟をひろげてつきあったサッチャー元首相も含め、海外の政治家で世界史的に大きな仕事を成し遂げた人は、大冊の膨大なメモワール(回顧録)を残すことが多い。アジアならシンガポールのリークアンユー元首相もそうだ。
回顧録を記すことが歴史に対する責任だとされているからだが、中曽根氏の本書はページ数もあまり多くない。先にも触れたように、多くの日本国民に読んでほしいから、あまり大部なものとしなかったのであろう。
政治家としての、首相としての「自省録」は、たいへん興味深いものがあったが、政治家になる前の旧制高校時代や海軍時代についても、もっと取り上げてほしかったところだ。
『自省録』というタイトルが、おそらく旧制高校時代に読んだであろうマルクス・アウレリウスに由来すると思われるが、その点にかんする記述がまったくないのは残念なことであった。
自慢や自己満足に陥ることなく、あくまでも主観をつうじたものであっても、事実を述べる陳述書。裁かれるのは政治家本人であり、裁くのは後世に生きる日本国民である。それが、歴史の審判というものだ。
この覚悟が歴代の首相にあるのかどうか、そして現在の首相にあるのかどうか、厳しく問われなければならないのである。
リアルタイムという短期の評価だけで政治家を判断することはできない。 もちろん、すべてにおいてダメダメであり、後世において評価されることもないであろう首相が、この日本にはきわめて多いのが残念なところではあるが・・・
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