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2017年7月4日火曜日

JBPress連載第3回目のタイトルは、「米国独立宣言と同じ年に出版されていた歴史的書物-いまこそ立ち返りたいアダム・スミスの主張の真意」(2017年7月4日)


ウェブメディアJBPressに2週間に1回執筆している連載コラムですが、第3回目の記事が公開されました。
   
米国独立宣言と同じ年に出版されていた歴史的書物 今こそ立ち返りたいアダム・スミスの主張の真意  (★クリック⇒ http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/50377 )

本日7月4日は「アメリカ独立記念日」「インデペンデンス・デイ」ともいいますが、「独立宣言」がなされた1776年にまつわる話題です。

いまから241年前の1776年3月19日、英国で『国富論』(=諸国民の富)が出版されています。いうまでもなく、「近代経済学」の原点となった古典です。

『国富論』と「アメリカ独立宣言」、そして世界最大の経済大国アメリカとのかかわりについて振り返ります。ぜひお読みください。

出来事の根底にあるものはなにか、その本質を知るためには「逆回し」で歴史を遡ってみることが必要ですね。一連の歴史的流れについては、新刊『ビジネスパーソンのための近現代史の読み方』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2017)をぜひご一読ください。

JBpressの連載は隔週の予定です。次回もまた、乞うご期待!






<ブログ内関連記事>

本日よりネットメディアの「JBPress」で「連載」開始です(2017年6月6日)

ついに英国が国民投票で EU からの「離脱」を選択-歴史が大きく動いた(2016年6月24日)

JBPress連載第2回目のタイトルは、「怒れる若者たち」の反乱-選挙敗北でメイ首相が苦境に、目を離せない英国の動向」(2017年6月20日)


■アメリカ独立記念日(=インデペンデンス・デイ)

本日(2013年7月4日)はアメリカ独立=建国から237年。いや、たった237年しかたってない「実験国家」アメリカ

本日(2011年7月4日) は「アメリカ独立記念日」(Independence Day)-独立から 235年のアメリカは、もはや若くない!?

早いもので米国留学に出発してから20年!-それは、アメリカ独立記念日(7月4日)の少し前のことだった(2010年7月4日)

アメリカ独立記念日(7月4日)




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2014年8月30日土曜日

アダム・スミスの 「見えざる手」 は 「神の手」 ではない! ― それは 「意図せざる結果」の説明として導入されたものだ



日本のビジネス関係者が日頃なにげなく使用する表現に、「神の見えざる手」というものがある。経済学の父アダム・スミスが使ったとされている表現だ。

需要と供給の関係をつうじて市場(=マーケット)にはたらく自動調整メカニズム(=ビルト・イン・スタビライザー)のことである。政策当局者という「見える手」による介入ではなく、自由放任(=レッセフェール)純粋状態ではたらくとされている。

マーケット参加者の個々の意志をこえて、あたかも「見えない」力によって動かされているという印象を受けるから使われるのである。マーケットの健全性はこの「見えざる手」によって可能となる。

マーケットについて語る人でこのフレーズを知らない人はいないだろう。経済学を勉強したことのない一般人のあいだでも比較的しられているかもしれない。もしかすると高校の「政治経済」(?)の授業で習ったような気もする。

動機がたとえ利己主義によるものであっても、その振る舞いがたとえ利己的なものであっても、マーケットにおいては、不正な手段を用いない限り、自分の思うような形での操縦は不可能である。あたかも「神の意志」がはたらいているかのように

だが、アダム・スミスは「神の見えざる手」とは一言もいっていないのだ!

アダム・スミスは、「見えざる手」という表現を使用してはいても、それが「神の手」などとは言っていないのである。

この表現がでてくるのはアダムスミスの主著の一つ『国富論』(1776年)である。オリジナルのタイトルは The Wealth of Nations であり、 『諸国民の富』とするのが適当だろう。

原文をみてみよう。アダム・スミスの 『諸国民の富』の初版本(?)がなぜか東京駒込の東洋文庫に所蔵されているようで、この写真は展示されていた際にわたしが撮影したものである。


(アダム・スミスの「見えざる手」(an invisible hand)  東洋文庫にて筆者撮影)


By preferring the support of domestic to that of foreign industry, he intends only his own security; and by directing that industry in such a manner as its produce may be of the greatest value, he intends only his own gain, and he is in this, as in many other cases, led by an invisible hand to promote an end which was no part of his intention. Nor is it always the worse for the society that it was not part of it. By pursuing his own interest he frequently promotes that of the society more effectually than when he really intends to promote it. I have never known much good done by those who affected to trade for the public good. It is an affectation, indeed, not very common among merchants, and very few words need be employed in dissuading them from it.

個人的な安全(his own security)や個人的な利得(his own gain)を最大化しようと追求しようと意図しているのにもかかわらず、「見えざる手」(an invisible hand) に導かれて、社会全体において自分が意図すらしていなかった結果を促進してしまう(to promote an end which was no part of his intention)、ということをアダム・スミスはいっているのである。

個人的な利己主義が社会全体の利益を増大させるマジックを、「見えざる手」で表現しているわけだ。これは言い換えれば、「意図せざる結果」(unexpected results)について語ったものだが、社会科学においてはかならず心しておかねばならないきわめて重要な考えである。

見えざる手」(an invisible hand) が『諸国民の富』に登場するのは、たったのこの一回だけなのだ。索引(インデックス)で調べてみればすぐにわかることだ。

英語の原文は、不定冠詞 an のついた単数形 an invisible hand なので、右手なのか左手なのかもわからない。どちらか一方の手である。ましてや両手ではない。大文字の Hand ではないので、「神の手」ではない。

アダム・スミス本人の意図にかかわりなく、受けいれる側が自分たちに都合のいいような解釈をした結果、意味が変容して定着したのだということがわかる。これもまた「意図せざる結果」(?)かもしれない。

『諸国民の富』が出版された1776年は、フランス革命の13年前である。18世紀後半には、もはや、あえて神の名を出す必要がなかったと考えるべきかもしれない。

あくまでも個人的な利己主義が社会全体の利益増大に転ずるメカニズムについて語っているのだが、「見えざる手」という日常表現が誤解を生みだしたのかもしれない。アダムスミスの心中はわからないが。

日本ではよく「ゴッドハンド」なる表現がつかわれるので、その連想もあるのかもしれないが、「神の見えざる手」とはクチにしないよう、大いに気をつけるべきなのだ。


(見開きページの右側に「見えざる手」が登場する)



アダム・スミスの『諸国民の富』は厚さは『聖書』(バイブル)なみ

「見えざる手」(an invisible hand) が登場するのは、『諸国民の富』の中ほどである。最初のページから読み始めて、ここに到達するまでにいったいどれだけの時間がかかるのだろうか。

しかもたった一回しか登場しないので、読み飛ばしてしまう恐れが大きい。索引(=インデックス)がなければ、とても探すことはできないだろう。

アダム・スミスの『諸国民の富』は、あまりにも長いので、たとえ経済学部出身者でも全部読んだ人はいないだろう。写真にある原書は、2,000円という破格の安値で大学時代に購入したものだが(・・その当時すでに当然のことながら著作権は切れていた)、経済学部出身ではないわたしは、もちろ読んでいない。自慢にはならないが・・・。

アダム・スミスの文章は、読み始めても、抑揚のない話が続くので、読み進めるのが困難だからということもある。この性質は、すでにかなり昔の学者も指摘していることだ。

大学時代、一般教養課程の歴史関係の授業で、ビザンツ史の世界的権威であった渡辺金一教から図書館から借りて読むようにと言われたのが、「アダム・スミスの体系なき体系」(三浦新七)という論文である。

三浦新七は、一橋大学(=東京商科大学)草創期の歴史学者で山形銀行頭取だった人だ。「アダム・スミスの体系なき体系」は、『商学研究』(1923年)に発表された論文で、『東西文明史論考-国民性の研究-』(岩波書店、1950)に収録されている。この本は小平分館(当時)に何冊も収蔵されていた。

興味のある人は、この論文はネットでも公開されているので、読んでみたらいいと思う。旧字体で旧かなという、きわめて古めかしい文体だが、内容的にはアングロサクソン的思考の本質に肉薄するものだといっていい。

ちなみに、三浦新七はドイツに長く遊学していて、歴史学者ランプレヒトの助手をつとめていたドイツ畑の人であった。ドイツ的な思考方法に慣れていたからこそ、アダム・スミスについて「体系なき体系」という表現でその特色を明確に洗い出しているのである。

アダム・スミスは、「分業」(division of labor)など労働経済学や労働社会学にかんする重要な概念を生み出したことでも有名だ。だから、社会学史の授業ではマルクスに先行する「社会学者」としても登場する。

さらにいえば、『道徳感情論』(The Theory of Moral Sentiments)という著作の著者でもあることも付記しておかなくてはならない。1759年に出版されたこの本は、『諸国民の富』(1776年)の17年前に出版されたものであることに注意しておきたい。「見えざる手」(an invisible hand)という表現は、すでに『道徳感情論』にも登場しているらしい。

経済学と倫理学は、そもそも同じルーツから出てきたものであり、両者はオモテとウラの関係にある。この姿勢をもっとも明確に意識しているのは、インドのベンガル出身のアマルティヤ・セン博士であろう。厚生経済学の立場から、アダムスミスの「ホモエコノミクス」(homo economicus)仮説について、的確なコメントをされている。

アダム・スミスはスコットランド人であった。


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<関連サイト>

「アダム・スミスの体系なき体系」(三浦新七) (一橋大学機関リポジトリ)

An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations
・・『諸国民の富』の全文がここで読める


<ブログ内関連記事>

『「経済人」の終わり』(ドラッカー、原著 1939)は、「近代」の行き詰まりが生み出した「全体主義の起源」を「社会生態学」の立場から分析した社会科学の古典

書評 『新・国富論-グローバル経済の教科書-』(浜 矩子、文春新書、2012)-「第二次グローバリゼーション時代」の論客アダム・スミスで「第三次グローバル時代」の経済を解読

「宗教と経済の関係」についての入門書でもある 『金融恐慌とユダヤ・キリスト教』(島田裕巳、文春新書、2009) を読む
・・「見えざる手」が「神の見えざる手」と誤解されていることに著者が言及している

「意図せざる結果」という認識をつねに考慮に入れておくことが必要だ

書評 『ヨーロッパとは何か』(増田四郎、岩波新書、1967)-日本人にとって「ヨーロッパとは何か」を根本的に探求した古典的名著
・・「<書評への付記-"実学としての歴史学"->」と題した文章で、歴史家・三浦新七と「アダムスミスの体系なき体系」にも触れてある


「見えないもの」を「見える化」する

書評 『ヨーロッパ思想を読み解く-何が近代科学を生んだか-』(古田博司、ちくま新書、2014)-「向こう側の哲学」という「新哲学」
・・「向こう側」は「あの世」ではない!「見えない世界」への感受性を高めることが重要だ

『はじめての宗教論 右巻・左巻』(佐藤優、NHK出版、2009・2011)を読む-「見えない世界」をキチンと認識することが絶対に必要
・・プロテスタント神学の立場から。内容にはかならずしも同調する必要はないが、思考のフレームワークを知るのはよい

『奇跡を起こす 見えないものを見る力』(木村秋則、扶桑社SPA!文庫、2013)から見えてくる、「見えないもの」を重視することの重要性

書評 『ものつくり敗戦-「匠の呪縛」が日本を衰退させる-』(木村英紀、日経プレミアシリーズ、2009)-これからの日本のものつくりには 「理論・システム・ソフトウェアの三点セット」 が必要だ!
・・日本人にいちばん欠けているのが「見えないもの」を「見える化」する能力


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2014年8月3日日曜日

書評『動物に魂はあるのか ー 生命を見つめる哲学』(金森修、中公新書、2012)ー 日本人にとっては自明なこの命題は、西欧人にとってはかならずしもそうではない



「一寸の虫にも五分の魂」というコトワザを子どもの頃からたたき込まれている日本人。「動物に魂はあるのか?」という問いは、日本人にとっては、答えがわかりきっている、あまりにも自明な命題である。

なぜこんなことが西欧では問題とされてきたのか、一般的な日本人にはまったくピンとこないだろう。だが、日本人にとってはこの自明な命題は、20世紀にいたっても西欧人にとっては「常識」ではなかったのである。いや、いまだ常識ではないかもしれない。

本書は、「動物霊魂論」という聞き慣れないテーマを、それと真逆の関係にある「動物機械論」と対比させて描いた思想史である。そしてその思想史の素描をつうじて、現代における問題について示唆を与えることを意図したものだ。

その根底にあるのは、人間と動物の関係である。生物としての人間は動物であるが、しかしそうはいっても人間と動物をわかつものがある。これが現代の日本人にとっての常識的な見解だろう。自明といっても過言ではないだろう。

だが、西欧人は人間と動物を厳然と区分してきた。かつてヒューマニズムが「人道主義」と翻訳されていた頃には日本人は気がつかなかったが、ヒューマニズムをただしく「人間中心主義」と翻訳したとき、その意味が明らかになる。

人間を中心に据えたときに見えてくる劣った存在としての動物、動物を観察することによって見えてくる人間の優位性。つまるところ、「動物霊魂論」であれ「動物機械論」であれ、じつは「人間論」なのだ。

著者は、「動物霊魂論」の前史として、まずはアリストテレスの生物学にもとづく議論を紹介し、16世紀という中世から近代への移行期に生きた古典的人文学者モンテーニュの議論を経て、デカルト、ライプニッツ、ヴォルテール、そしてハイデガー、デリダまで哲学者の「動物論」を素描している。

「動物霊魂論」と「動物機械論」のせめぎ合いは、西欧思想史の問題としては下火となっていても、じつは主戦場をビジネスと研究開発の世界に移して、激しく倫理上の対立を続けていることが明らかにされる。


「動物機械論」の登場と近代的思考の関係

17世紀から18世紀にかけてのフランスがその中心になったのは、「動物機械論」によって当事の西欧世界に衝撃的なインパクトを与えた哲学者デカルトの影響である。デカルトといえば「心身二元論」で有名だが、人間だけでなく、動物も機械とみなすことによってメカニズム(機構)の解明を推進した。

デカルトのインパクトがいかに大きかったかは、当事の知的中心の一つであったフランスのポール・ロワイヤル修道院では、動物を生きたまま生体解剖することが行われていたという事実をみれば歴然としている。

家畜の息の根を止めてから解体を行うのが屠畜においては常識だが、この修道院では純粋に知的好奇心を満たすために、生きたままの動物を解剖して心臓を取り出したりしていたらしい。現代人の目から見ると無慈悲な行為ではあるが、あくまでも「動物機械論」の立場から機械のメカニズムを解明するという立場から行われたのである。

デカルト自身、みずから動物の解剖を行って自説の補強を行っていたのである。動物を機械とみたてて、そのメカニズムを解明したいという発想によるものだろう。

このデカルトに対して、「動物霊魂論」の立場から異議を唱えたのが18世紀のライプニッツやその後のヴォルテールなどだが、「霊魂」にかんする説にかんしては、わたしにはライプニッツの議論に納得するものを感じる。

本書によれば、ライプニッツは人間と動物に大きな差異を認めず、すべての動物には「不滅の霊魂」があることを認める。ただし、動物は知覚は行っても思考はないとする。動物の思考能力については程度の問題ではあるが、現代の自然科学の知見とも両立可能ではないだろうか。ただし、現代科学においては、「霊魂」ではなく「意識」と表現されるだろう。厳密にいうと魂と意識はイコールではないのだが。

また、「生命原理」は偏在するが、「生きている状態になるのは、あくまでもそれが有機的身体のなかに属している限りにおいてである」という考えは、魂を考えるうえで大いに参考なる。個体レベルと、種としての全体についての話である。この考えは、なんだかユングの「集合無意識」仮説に類似している印象を受ける。ユングの動物観については知らないが。

こうして「動物機械論」が否定されることによって、その対極にある「動物霊魂論」の議論も18世紀末には下火になっていったという。冷戦構造崩壊によって政治的な左翼が退潮したことで、右翼もパワーだけでなく存在意義を喪失していったのと似ている。

とはいえ、現代社会は気づかぬところで「動物機械論」が猛威を振るっていることに著者は注意を促している。ほとんど工場生産のような家畜飼育、実験用に特化して飼育される実験用動物など、まさに動物を機械として扱っているのと変わりないのである。動物にかんする倫理学が、ビジネスと研究開発が主戦場となっているのである。

また、「動物の権利」(animal rights)や「動物の福祉」(animal welfare)といったアングロサクソン圏特有の議論もまた、「動物機械論」と「動物霊魂論」の思想史上のコンテクストで考えると理解しやすい。

「動物の権利」論のなかでは、「動物>人間」という過激な反ヒューマニズム思想に至っている人たちもいるくらいなのだ。「人間>動物」というヒューマニズム(=人間中心主義)を裏返しにして転倒させた議論である。

「動物>人間」という過激な反ヒューマニズム思想は、ナチスドイツにおいてユダヤ人虐殺を指揮したハインリッヒ・ヒムラーのエピソードを想起させる。毎日のように収容所のユダヤ人をガス室に送りながら、ペットのカナリヤに餌をやる「心やさしき男」としてのヒムラー。

自民族以外は「人間」とみなさないという思考停止状態。動物への愛が、異民族やホモセクシュアルや障害者に対する憎しみや差別と両立してしまうという難問。

著者がいうように、「動物霊魂論」と「動物機械論」の思想的対立構造は思ったよりも根が深い。近代化=西欧化した日本人の思考にも、知らず知らずのうちに浸透していることを考えれば、けっして対岸の火事ではないのである。


「知識人の議論」と「一般人の感性」は異なるのではないか?

だが、本書を通読して思うのは、著者自身が「無意識に日本人をやっている」なあ、という感想である。

西欧思想史に登場する思想家や哲学者たちは、ことに近代においてはカトリックの権威に挑戦してきた知識人であるという視点の説明がないのは読者には不親切だ。西欧においては、依然として知識人と一般民衆の乖離は大きい

本書にはまったく言及がないが、じつはキリスト教においては、「人間には魂があるが、動物には魂はない」としてきたのである。人間と動物のあいだには越えられない溝がある。それは魂の有無であるということだ。

魂をもっているから人間は救われるのであり、魂をもっていないから動物は救われない。だから、魂をもたない動物が死んでも、カトリックではミサがあげられることはない。これは日本人の知識の盲点になっている。キリスト教においては、人間と動物には厳然とした区分があるのである。

わたしがこのことを知ったのは、いまから10年以上前になるが、『死の発見-ヨーロッパの古層を訪ねて-』(松原秀一・養老孟司・荻野アンナ、岩波書店、1997)におけるフランス文学者の松原秀一氏の発言を読んでからだ。

松原氏自身はプロテスタントで、妻と娘がカトリックだそうだが、幼児洗礼を受けた娘さんが大切にしていたペットの飼い犬が死んだとき、死んだ犬のためのミサをあげたいと言ったそうだ。松原氏はこの個人的エピソードを引きながら、「日本にカトリックが入って何世紀になりますか、日本人の心性と合わないのではないか」と発言している。

カトリックでは、人間生命の誕生は受胎した瞬間、つまり受精した瞬間であり、この瞬間に「魂」が入ることになるので、人間の受精卵から採取した胚細胞を使用するES細胞には断固として反対してきたことは、日本でも比較的知られているのではないだろうか。だから、日本から生まれたオギノ式避妊法や iPS細胞はバチカンのお墨付きなのである。

現代ヨーロッパの一般人が、はたして動物に魂があると考えるのか、それともないと考えているのか、わたしにはよくわからない。知識人がアタマでは理解する議論も、一般人が感覚的に「常識」とみなしているものはイコールではないからだ。

ただ、これだけ日本のマンガやアニメが全世界的に普及していくと、すべてのモノには生命があるというフェティシズム的感覚生き物にはすべて魂があるというアニミズム的な感覚も、知らず知らずのうちに浸透していく可能性がないとはいえないだろう。また人間に動物が憑依するシャマニズム的な感覚もまた同様だ。こういった感覚は、キリスト教普及以前の西欧でも当たり前であった。

これまた本書に言及がないのだが、人間と動物をわかつのは、コトバをもっているかどうかである。人間はコトバをもっているがゆえに思考することができるし、悩みもする。逆にいえばコトバがなければものを考えることもできないし、悩むこともない。これは「狼に育てられた少年」のエピソードを知っていれば納得することだろう。

大脳新皮質をもっているのは哺乳類だけである。人間以外の動物は哺乳類であっても、互いに音声信号を介したコミュニケーションを行っているものの、語彙と文法を備えた言語体系をもたない。したがって、たとえカラスのような思考能力をもっている動物も、コトバをもつ人間には及ばないのである。動物は、もっぱら匂いという嗅覚情報と画像イメージにもとづいてパターン認識を行っている。人間以上に知覚器官が発達しているので、考える力は弱くても、感じる力が強いことは確かなことだ。

最後に本書には触れられていないテーマが、「知能を備えた機械」としてのロボットである。

人間ではない動物、人間ではない機械。動物と機械はともに人間とはなにかを考えるための鏡というか参照系のようなものだが、ロボットという思考軸を導入することによって、「動物機械論」と「動物霊魂論」という思想史上の議論がさらに深まるはずだ。もちろん、これは本書の枠内ではなく、別個に考えるべきテーマである。

人間が動物を擬人化したり、動物に人間的感情を投影するのとは別に議論してほしいと思うのだが、著者もまた擬人化しやすい典型的な日本人であるようで、対象との距離を突き放した議論が徹底していないのが残念だ。

動物を擬人化するのではなく、動物と人間の共通性と差異を徹底的に究明する必要がある。そしてロボットと人間についてもまた。これは遠い将来ではなく、喫緊の問題である。クローン人間と「魂」の問題もまた同様だ。


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目 次 

序章 動物の方へ、人間のために
第1章 動物論の前史
第2章 デカルトの衝撃
第3章 魂-物質と非物質の間
第4章 <常識派>への揺り戻し
第5章 論争のフェイド・アウト
第6章 現代の“動物の哲学”
終章 <動物霊魂論>が浮き彫りにするもの
あとがき
文献表
人名索引


著者プロフィール

金森修(かなもり・おさむ)
1954(昭和29)年、札幌市に生まれる。86年、東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学、博士(哲学・パリ第一大学)、筑波大学講師、東京水産大学助教授などを経て、東京大学大学院教育学研究科教授。専攻、フランス哲学、科学思想史、生命倫理学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。




<ブログ内関連記事>

「魂」について考えることが必要なのではないか?-「同級生殺害事件」に思うこと

書評 『現代オカルトの根源-霊性進化論の光と闇-』(大田俊寛、ちくま新書、2013)-宗教と科学とのあいだの亀裂を埋めつづけてきた「妄想の系譜」
・・「進化論」全盛時代において、人間=動物ではなく、人間を霊的にもっとも進化したものとみなしたオカルト思想は、第二次大戦後ドイツからアングロサクソン圏、とくにアメリカに流れ込む

『エコ・テロリズム-過激化する環境運動とアメリカの内なるテロ-』(浜野喬士、洋泉社新書y、2009)を手がかりに「シー・シェパード」について考えてみる
・・動物>人間と考えるエコ・テロリストという極端な過激思想と運動

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・・16世紀から18世紀にかけてのヨーロッパの知られざる世界

『バロック・アナトミア』(佐藤 明=写真、トレヴィル、1994)で、「解剖学蝋人形」という視覚芸術(?)に表現されたバロック時代の西欧人の情熱を知る
・・16世紀から18世紀にかけてのヨーロッパの知られざる世界

書評 『世界屠畜紀行 The World's Slaughterhouse Tour』(内澤旬子、解放出版社、2007)-世界中の食肉解体現場を歩いて考えた自分語り系ノンフィクション
・・家畜の息の根を止めて食肉として解体することは、ヨーロッパだけでなく、日本以外の世界では当たり前のように行われてきた

書評 『牛を屠る』(佐川光晴、双葉文庫、2014 単行本初版 2009)-「知られざる」世界を内側から描いて、働くということの意味を語った自分史的体験記 

会田雄次の『アーロン収容所』は、英国人とビルマ人(=ミャンマー人)とインド人を知るために絶対に読んでおきたい現代の古典である!
・・人間中心主義という西欧ヒューマニズムの限界を指摘した先駆的名著

タイのあれこれ (19) カトゥーイ(=トランスジェンダー)の存在感
・・キリスト教世界に根強く残るホモセクシュアル差別意識、その背景のないタイや日本

書評 『ロボットとは何か-人の心を写す鏡-』(石黒浩、講談社現代新書、2009)-「人間とは何か」、「自分とは何か」という哲学的な問いを考える手引き
・・ロボットに魂をもちうるのか?

(2014年8月5日 情報追加)


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