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2024年1月20日土曜日

書評『福田村事件 ー 関東大震災・知られざる悲劇』(辻野弥生、五月書房新社、2023)ー 集団内部での「同調圧力」が「集団狂気」に変わったときに起こること

 


「福田村事件」とは、千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市)でいまから100年前の1923年9月6日に起こった事件のことだ。

福田村は鬼怒川が利根川に合流するあたりで、利根川左岸に位置している。千葉県と茨城県の県境に近い。

震災後の流言飛語から生まれた自警団が暴走し、不安心理と興奮状態にある集団内で発生した同調圧力が集団狂気に変わり、日本人の集団が有無を言わさず虐殺された事件である。

関東大震災(1923年9月1日)は、大規模自然災害にとどまらない。官憲が無責任にも公表した虚偽情報が核となり、それが流言飛語となってあっという間にクチコミで民間に拡散したことで悲劇が生まれたのである。 

悲劇の中心はいうまでもなく「朝鮮人虐殺」である。だが、虐殺されたのは朝鮮人だけではない。中国人もそうであり、また大杉栄など日本人の無政府主義者も含まれていた。 

忘れてはならないのは、というよりも忘れられてきたのは、いやそれもまた正確ではない、意図的に隠蔽されてきたのは、それ以外の日本人も虐殺の被害にあっていたという知られざる事実だ。そのひとつが「福田村事件」である。 

先にもみたように、香川県の被差別部落からきた薬売りの行商人グループが朝鮮人と誤認され虐殺された事件である。殺気だった自警団によって、15人のうち10人が無残にも殺害され、死体は利根川に投棄されたという。 

恐るべき事件である。おぞましい事件である。無実の人たちが、有無を言わさず惨殺され、しかも死体が遺棄されたのである。遺骨収集もかなわなかったのである。 

恐るべき事件であったことは、被害者たちにとっては言うまでもない。だが、加害者の側にとっても、その後は思い出したくもない、考えたくもない事件であったのだ。

だからこそ、長年にわたって語られることもなく、当事者の世代が消えたあともなお、知られることもなかった事件なのである。 


■『福田村事件 ー 関東大震災・知られざる悲劇』は読み継がれるべき本

本書『福田村事件 ー 関東大震災・知られざる悲劇』は、昨年から千葉県内のリアル書店では平積みにされていたが、関心外のこととして無視してきた。

だが、これはそういうことではいけないと気づいたのは、たまたまWikipediaなどで関連情報を読み込んで驚愕の事実を知った昨日のことだ。さっそくリアル書店で購入して通読したのである。

関東大震災100年を前にした昨年2023年7月の初版だが、わたしが購入した時点ですでに5刷(2023年10月)となっている。かなり読まれているようだ。amazonのレビューも多数にぼっている。(*なお、第3刷で本文の一部が書き直されたようだ)。

事実を事実として語らせるという抑えた筆致が、かえって事件の恐ろしさを浮かび上がらせる。 そんな本である。

流言飛語の核となったのは官憲による虚偽情報である。フェイク情報である。これがあっという間に流言飛語として口伝えに拡散し、個々人が抱える不安心理が集団のなかで増幅し、同調圧力が常軌を逸した集団狂気となって虐殺を引き起こしたのである。恐るべきメカニズムである。 

まさにSNSで現に起こっている事態であり、独りよがりな「正義感」にもとづく批判中傷の発言がネット上の集団リンチ状態を引き起こし、バッシングの対象となった被害者が精神的に追い込まれて自殺するなどの悲劇が後を絶たない。

だが、はたして21世紀の現在、このメカニズムはネット上だけにとどまらないのではないか?

事件の舞台となったのは100年前の日本の一農村だが、つい3年前の2021年にはトランプ主義者たちによる「米国議会議事堂襲撃事件」などが起きていることを考えれば、けっして過ぎ去った過去の話だとは思えない。この事件では死者もでている。いつどこで起こっても不思議ではないのだ。 


(映画『福田村事件』予告編)



■「福田村事件」を知るためには「朝鮮人虐殺」についてしらなくてはならない

本書『福田村事件』は、「福田村事件」だけを取り上げたものではない。

この事件を考えるための前提としての「朝鮮人虐殺」について、千葉県流山市在住の著者はとくに千葉県北西部の状況について取り上げている。もともと本書は、千葉県の地方出版社である崙書房から2013年に初版が出版されている。崙書房は廃業していまはない。

「朝鮮人虐殺」が集中的に発生したのが東京の下町に該当する地域だが、首都圏全体で虐殺が行われていた。本書では、江戸川をはさんで対岸にある千葉県北西部の事例が重点的に取り上げられている。利根運河の改修工事や、北総鉄道(現在の東武野田線)の建設現場に朝鮮人労働者が多数働いていたことも本書ではじめて知った。

「朝鮮人虐殺」という事実そのものは知っていても、その詳細までは知らなかっただけでなく、ふだん身近に接してきた土地でそんな蛮行が行われていたことを、いまのいままでまったく聞いたこともなかったこと、文字で読んだことすらなかったことに、おおきな衝撃を受けている。無知を恥じるばかりである。

「福田村事件」は長年にわたって「隠蔽」されてきた。著者自身もまったく知らなかった事件だという。ぜひ活字にしてほしいと頼まれて調査を行い、この事件を掘り起こして書籍化までもっていったのが、10年前にでた『福田村事件』の初版である。

関係者の証言を取ろうにも、ことごとく拒否されたり、取材そのものがたいへん困難なものだったようだ。その事実じたいが、この事件について考える材料になる。そのため、著者は当時の新聞記事を丹念に調べ、すでにおこなわれているさまざまな調査を重ね合わせて、慎重に事実の検証を行っている。

事件からまだ100年しかたっていないのである。100年もたっているのではない。100年しかたっていないのである。100年は3世代でしかないのである。加害者たちとその子孫たちも内心で思うこともあるのだろう。だから、事実を見つめてことばにすることを心理的に拒否する理由はわからなくもない。

被害者を追悼し、被害者のプライバシーを守るのは当然だ。それとは意味が違うが、加害者たちやその子孫たちを非難したところで意味はない。恩讐の彼方で、ノーサイドの立ち位置から、虐殺が行われたという「事実」そのものをしっかりと見つめることが重要なのだ。

事件から 100年たった現在、いま生きているわれわれにとって重要なことは、この事件について知り「教訓」を今後に活かしていくことである。 まずはこの「黒歴史」を知ることがなによりも大事なことだ。

それは戒厳令下で治安出動を行い、朝鮮人虐殺を先導した帝国陸軍の習志野騎兵隊もまた例外ではない。日露戦争における栄光だけが、その歴史ではない。 光と影の両面を見なくてはならないのだ。

習志野騎兵隊の治安出動については、吉村昭氏の『関東大震災』でも取り上げられていたので知っているが、治安出動に参加を命じられた騎兵の立場から書かれた、プロレタリア作家・越中谷利一(1901~1970)による「戒厳令と兵卒」(1928年のことは、本書ではじめて知った。亀戸駅付近の状況が、検閲による「×」の伏せ字だらけのまま本書に引用されている。(・・ただし、復元された文章も併記されている)。

「シベリア出兵」の出征体験をもつプロレタリア作家・黒島伝治(1898~1943)は、兵士の視点からみた「渦巻ける烏の群れ」などのシベリア戦記が岩波文庫に収録されているので比較的知られている。

シベリア出兵(1918~1925)は、ちょうど関東大震災をはさんだ同時期にあたる。越中谷利一のことはまったく知らなかった。埋もれているのはまったくもって残念なことだ。ぜひ岩波文庫などで復刻してほしいものだ。


とはいえ、「福田村事件」について考える際に重要なことは、けっして日本社会特有の事象と捉えるだけにとどまってはいけないことだ。集団となったときの人間心理と人間行動について、厳しく見つめることが必要である。

同調圧力が生じやすい集団のなかで、いかに個としての正気を保つか冷静さを維持できるか。きわめて困難な課題であるが、避けてとおるわけにはいかないのである。 つねに意識しなくてはいけないのである。


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目 次 
はじめに ー 増補改訂版刊行にあたって 
第1章 マグニチュード7.9の大地震 
第2章 天災につけこんだ人災 
第3章 福田村の惨劇 
第4章 追悼に向けて 
おわりに ー 旧版出版から映画化まで 
特別寄稿 『A』『A2』から『福田村事件』へ(森達也) 
福田村事件関連資料 
主な参考文献


著者プロフィール
辻野 弥生(つじの・やよい) 
1941年、福岡県生まれ。香蘭女子短期大学卒業。流山市立博物館友の会会員。福田村事件の論考を発表。北野道彦賞受賞。


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◆著者インタビュー記事






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・・「大震災による混乱の中、流言飛語により県内でも八千代市や船橋市、習志野市、市川市など各地で住民や自警団、軍人が朝鮮人を殺傷。合わせて三百数十人が殺害されたといわれる。」

・・「大震災から101年目となった1日、船橋市営馬込霊園であった追悼式。実行委員会が主催し、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)県西部支部常任委員会が主管した。霊園内の一角には、一枚岩の「関東大震災犠牲同胞慰霊碑」(台座を含め高さ約4メートル)などが建立されている。
当時は船橋市から北の鎌ケ谷市にかけて鉄道敷設工事が行われ、多くの朝鮮人労働者が働いていた。大震災発生後、朝鮮人にまつわるデマが飛び交い、船橋、市川市などで自警団や住民らによる虐殺が相次いで発生。
同支部の資料によると、遺体は船橋市内の墓地に埋めたとされ、慰霊碑が建てられたものの、墓と慰霊碑を現在地に移すことになった63年、碑近くを掘り起こしても遺骨はなかった。行方を探すうちに火葬場近くの田んぼに埋められたことが分かり、掘り出した遺骨は約100体に達したという。
遺骨は現在の慰霊碑区画内に埋葬した。碑の裏面には、虐殺の経緯とともに「犠牲同胞の怨恨(えんこん)は実に千秋不滅」などと刻まれている。」

・・「市川さんは「100年の節目の昨年、映画の公開もあり多くの人が関心を持った」と振り返る。 一方、事件の周知は進んだが、真相を知る「認知」までは途上と課題も指摘する。 昨年公開された事件と同名タイトルの劇映画「福田村事件」について、市川さんは企画段階で製作側に協力した。しかし完成した内容は「行商の人などの描き方がひどい」と憤慨する。 具体的には、行商人らしくない服装や、効果のない薬を売りつける場面、自ら被差別部落出身であることを語る場面などが史実と異なるという。 行商団は香川県が交付した証明書を所持して薬を販売していたほか、当時は現在よりも被差別部落への差別が厳しかったと指摘。 「犠牲者、被害者の名誉を傷つけ、差別が広まってしまう描き方だ」


・・船橋での死者が多いのは、当時は北総鉄道(現在の東武野田線)の建設が行われていたために作業員として働いていた朝鮮人がいたこと、海軍の無線基地があったこと、流言飛語の拡散で拘束された朝鮮人が騎兵隊のある習志野基地に集められ、一部は営倉内で虐殺されたが、その他多数は民間に引き渡されたことがあるようだ


・・9月7日には緊急勅令「治安維持の為にする罰則に関する件」(勅令403号)が出された






(2024年9月14日 情報追加)


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・・「本書の最大の山場は、関東大震災(1923年9月1日)であろう。 著者の山川菊栄にとっても、戦前日本の社会主義運動にとっても、大きな分水嶺となった出来事だからだ。 きわめて個人的な回想が語られるが、流言飛語が飛び交うなか、「朝鮮人」だけでなく「主義者(=社会主義者)」も虐殺の対象になったことが、手に取るようにナマナマしく描写されている。大杉栄夫妻とその子どもが虐殺されたが、山川夫妻と子どもは危うく難を逃れることができたのであった。」

・・関東大震災の際の甘粕憲兵大尉による大杉栄一家虐殺事件も

・・吉村昭氏の『関東大震災』についても言及。同書には戒厳令下に帝国陸軍の習志野騎兵隊が緊急に治安出動したことも記されている


・・プレートには関東大震災に際して虚偽情報を放送したという「黒歴史」にかんする記述はいっさいない



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2021年3月15日月曜日

書評『同調圧力』(鴻上尚史/佐藤直樹、講談社現代新書、2020)ー「自粛警察」をもたらす「同調圧力」の根源は、日本に濃厚に存在する「世間」にあるが・・


『同調圧力』(鴻上尚史/佐藤直樹、講談社現代新書、2020)を読む。どうやらベストセラーになっているようだ。  

昨年2020年の8月に出版されたものである。新型コロナウイルス感染症が爆発し、非常事態宣言(第1次)が発令され、その解除後のものだ。

当時は、欧州のように「ロックダウン」を実行しなくても、日本は要請だけで自粛するので感染が拡大しないのだなどと言われていた(現在もそうかな?)、その理由は「民度が高い」(?)からなどという政治家もいたが、はたしてどうだろうか。なにごとも正負両面があるというものだ。

いわゆる「自粛警察」など、まさに負の側面というべきだろう。 江戸時代の「五人組」や戦時中の「隣組」ではないが、現在もなお日本では「相互監視」の目が厳しい言われなくても「自粛」を行う傾向がある。他人の目を意識するからだ。

なぜ日本は息苦しく、うっとおしいのか、その理由は「世間」の存在にあるというのが、対談を行った両者の共通認識である。 

「世間」というものは、日本語で生きている日本人の言動を縛っている、目に見えない人間関係の束のことである。目に見えないだけにやっかいな存在だ。世界中どこでも、多かれ少なかれ「世間」的なものは存在するが、日本ほどそれが濃厚に存在する場所はほかにない。 

日本語をつかう日本人である以上、そこから抜け出すことができないのが「世間」だが、うまく対処して生きることは不可能ではない

この対談の最後のほうで語られている、複数の「世間」にかかわること、「世間」の内部でしか通用しない語りではなく、「社会」に向けての語りを意識をすることなどである。 

劇作家で演出家の鴻上尚史氏は、『「空気」と「世間」』(講談社現代新書、2009)という好著を書いている。この本は超おすすめだ。

刑法学者の佐藤直樹氏は、阿部謹也「世間論」の継承者で祖述者。 正直なところ、鴻上氏の発言のほうが、実践家で現場体験が豊富なだけに説得力が強い。
 




***************

この本を読んだあと、何の関係もないが、つづけて『ロシアを決して信じるな』(中村逸郎、新潮新書、2021)という本を読んだ。  


著者の中村氏は、TV番組にもよく出演している、ややエキセントリックな雰囲気を醸し出している筑波大学大学院教授のロシア研究者。 

『ロシアを決して信じるな』で語られるロシアは、「不条理」としかいいようのない、めちゃくちゃな世界。 

そんな世界で生きているのがロシア人だが、それでも大多数のロシア人はロシアを愛しており、ロシアから出ようとはしない。不思議といえば不思議だが、まあ、そういうもんだろう。


 「世間」の縛りのなかで息苦しい思いをしている日本人も、なんじゃかんじゃいいかながら日本から出ようとしない。 

ある意味、似たようなもんかという気もしなくもないし、日本人である私は、そんな日本であっても、まだロシアよりマシではないか、と思ってみたりもする。 

繰り返しになるが、まあ世の中というものは、そんなものであろう。愛しているから愚痴をこぼす、文句をいうということもあるわけだ。
 




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2013年11月4日月曜日

映画『es(エス)』(ドイツ、2001)をDVDで初めてみた ー 1971年の「スタンフォード監獄実験」の映画化


映画 『es(エス)』(ドイツ、2001)をはじめてみた。なぜか今年に入るまでこの映画の存在を知らなかったので、もちろんDVD版である。

アメリカのリメイク版が 2010年に製作されているそうだが、このオリジナルのドイツ版のほうがはるかに面白いという評判があるのでドイツ版をみることにした次第だ。ドイツ人ならではの徹底性がみられることを期待してのことだ。

原題はドイツ語で Das Experiment、日本語版の es とは精神分析の世界にくわしい人なら、すぐにあれだなと気づくであろう。「エス」とは「自我」のことだが、ドイツ語では非人称主語である。英語圏では id(イド) とラテン語が使用されている。

「世界を震撼させた心理実験」という紹介文がDVDに書かれている。監視カメラつきの模擬刑務所という設定で、被験者を看守と囚人に区分し、それぞれの役割分担を明確にしたロールプレイングによる実験である。

この映画のモデルになったのは、1971年にアメリカのスタンフォード大学で実際に行われた「監獄実験」(Stanford prison experiment)という社会心理学の実験だという。通称「アイヒマン実験」として知られる心理実験のバリエーションである。


(ドイツ版 映画案内)

被験者がすべて男性で、新聞広告によって募集された。募集条件は以下のとおりである。

●拘束時間: 2週間
●報酬: 4000マルク
●応募資格: 不問
●実施場所: 大学内模擬刑務所

実験にあたって被験者たちが守るべきルールが決められているので、ここに書いておこう。

ルール①: 囚人は番号で呼びあわなければならない
ルール②: 囚人は看守に対して敬語を使わなければならない
ルール③: 囚人は消灯後、会話を一切交わしてはならない
ルール④: 囚人は食事を残してはならない
ルール⑤: 囚人は看守のすべての指示に従わなければならない
ルール⑥: 囚人はルール違反を犯した場合、囚人には罰が与えられる

看守役は看守の制服に警棒と手錠、囚人役はいわゆる囚人服を着せられ、いったん決められた役割の交代はない

時間がたつにつれて看守サイドも囚人サイドも、それらしく振る舞うようになっていく。看守サイドには上位者(・・この実験の場合は心理学者)から発する「権威」があり、囚人サイドには看守の「権威」に従わざるを得ないという非対照的な関係となる。

ささいないざこざから始まった看守サイドにも囚人サイドの対立がじょじょに鬱積しながらエスカレートしていくのだが、双方にいちじるいしい人格変容が発生していくさまを観察することができる。




この実験においては、とくに看守役の「人格変容」が著しいまさに「権威への服従」(obedience to authority)である。

権威を身にまとった看守の監視下で囚人もまたより囚人らしくなっていく。

だが、監視役の看守たちですら、24時間の監視モニターをつうじて監視されているのである。視線が発するとことが、真の意味で「権威」が発生する場である。

看守サイドは、より秩序維持を目的にした権威主義的パーソナリティに人格変容、あるものはサディスティックな本性をよびさまされ秩序維持のために自然にリーダーシップを発揮する者まででてくるのだ。

囚人サイドは、主人公などを除いて、ほぼすべてがあきらめ感に慣れてゆき、従順なパーソナリティへと人格変容していく。

いずれに立場においても、シャバでの職業や学歴など関係なく、割り振られた役割に応じた人格が変容していくのだ。人間集団のもつ相互作用が促進するのであろう。集団同調圧力というやつだ。日本語でいう「空気」が醸成されたような印象も受ける。

「地位は人をつくる」とはよく言われることだが、閉鎖空間のなかではその変化が急速に進行するのである。まさに急速にできあがった「空気」に支配されるのである。

囚人役になかに現役の空軍軍人が入っているのだが、彼が主人公に対して、軍からのカネで行われている実験なのだと漏らしていた。撃墜されてパイロットが敵の捕虜となったときのための心理的な対応方法を研究するためのデータ収集が目的だという。じっさいにベトナム戦争では米軍パイロットが捕虜となって抑留されているのでありうる話だ。

実験期間は2週間とされていたが、7日目で実験は中止を余儀なくされる。そのとき模擬監獄のなかで起こったのは・・・・!?

ここから先は見てのお楽しみだが、想像はつくのではないかと思う。いや想像を超えた事態がもたらされることになるのだ!

もちろん現在では、このような実験は倫理にもとるものだとして禁止されている。これはこの映画を最初から最後まで見たら十二分に納得のいくことだ。実話をもとにしたものだけに、下手なサイコホラーよりはるかに恐ろしい。

社会心理学者スタンリー・ミルグラムによる「アイヒマン実験」もそうであったが、人間というものは「権威」からの命令にはいとも簡単に従ってしまうことがこの映画からも手に取るように実感される。

DVD特典に収録された出演者インタビューによれば、出演者も狭い空間のなかで長時間過ごしているため、だんだんと精神的に追い詰められていったという。そのため迫真ある演技となったのであろう。

これはかならず見るべき映画であると実感した。「世間」と「空気」の形成を考えるための材料となるだろう。この映画の実験においては当初予定の2週間が継続不可能となり、その結果、「空気」が持続的な「世間」に転化するまでは観察できなかったが・・・。

「世間」も「空気」もけっして日本だけの現象ではない





<関連サイト>

「スタンフォード監獄実験」の逆は実行できるか (グレッグ・マキューン、ダイヤモンドハーバードビジネス、 2014年5月14日)
・・「社会心理学者が行った「スタンフォード監獄実験」「ミルグラム実験」は、悪しきシステムが善良な人を変えてしまうという教訓を残した。ではその反対、つまり善意や意欲を生む好循環をつくることは可能だろうか。その事例と実践方法を紹介する」 英語原文は Can We Reverse The Stanford Prison Experiment? 

(2014年5月14日 項目新設)


PS スタンフォード監獄実験の考案者がその詳細を描いた 『ルシファー・エフェクト-ふつうの人が悪魔に変わるとき-』(フィリップ・ジンバルドー、海と月社、2015)という本が出版された。 (2015年8月10日 記す)。



<ブログ内関連記事>

映画 『ハンナ・アーレント』(ドイツ他、2012年)を見て考えたこと-ひさびさに岩波ホールで映画を見た
・・「『イェルサレムのアイヒマン』(1963年)で「組織と個人」の問題を考える」と「社会心理学者ミルグラムによる「アイヒマン実験」の項目を参照してほしい

書評 『サウンド・コントロール-「声」の支配を断ち切って-』(伊東乾、角川学芸出版、2011)-幅広く深い教養とフィールドワークによる「声によるマインドコントロール」をめぐる思考

書評 『ドアの向こうのカルト-九歳から三五歳まで過ごした、エホバの証人の記録-』(佐藤典雅、河出書房新社、2013)-閉鎖的な小集団で過ごした25年の人生とその決別の記録

マンガ 『レッド 1969~1972』(山本直樹、講談社、2007~2014年現在継続中)で読む、挫折期の「運動体組織」における「個と組織」のコンフリクト
・・閉鎖的組織が生み出す悲劇はカルトに共通する

資本主義のオルタナティブ (1)-集団生活を前提にしたアーミッシュの「シンプルライフ」について

映画 『偽りなき者』(2012、デンマーク)を 渋谷の Bunkamura ル・シネマ)で見てきた-映画にみるデンマークの「空気」と「世間」
・・「世間」も「空気」も特殊日本的現象ではない

書評 『「空気」と「世間」』(鴻上尚史、講談社現代新書、2009)-日本人を無意識のうちに支配する「見えざる2つのチカラ」。日本人は 「空気」 と 「世間」 にどう対応して生きるべきか?
・・「世間」とは持続性のある相互監視の視線であり、「空気」とは持続性はないが濃度の濃い相互監視の視線の集まりと考えてよいのではないだろうか

映画 『アクト・オブ・キリング』(デンマーク・ノルウェー・英国、2012)をみてきた(2014年4月)-インドネシア現代史の暗部「9・30事件」を「加害者」の側から描くという方法論がもたらした成果に注目!
・・「大義」の存在によって、いとも簡単に悪に荷担してしまう人間という存在について

(2014年5月14日、2015年7月25日 情報追加)


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2009年7月30日木曜日

書評『「空気」と「世間」』(鴻上尚史、講談社現代新書、2009)ー 日本人を無意識のうちに支配する「見えざる2つのチカラ」。日本人は 「空気」 と 「世間」 にどう対応して生きるべきか?


日本人を無意識のうちに支配する「見えざる2つのチカラ」・・・日本人は 「空気」 と 「世間」 にどう対応して生きるべきか?


 日本人を無意識のうちに支配する「見えざる2つのチカラ」、すなわち 「世間」「空気」 について、自らのアタマで考え抜いて、しかもわかりやすくていねいな説明を試みた本。しかも処方箋つきだ。

 著者は脚本家、演出家として、長い期間にわたって、さまざまな年齢層の日本人と接してきた。

 若い人たちが「空気」を読めないために感じている苦しみにも多く接してきた。そしてまた、息が詰まる、うっとおしい 「空気」 の中でどう生きていくかとい
う、自分自身の悩みもあった。

 著者が「空気」について考える中で出会ったのが、同じく日本人を無意識に支配している「世間」についてであった。

 『「空気」と「世間」』(鴻上尚史、講談社現代新書、2009)において初めて、いままでまったく接点がないと思われていた阿部謹也山本七平が合体したのである。

 すなわち、ドイツ中世史を専門とする歴史学者であった阿部謹也の「世間」論と、評論家でかつ聖書学関連の出版社を経営していた山本七平の「空気」論である。

 これによって、しっかりとした現状分析が可能となり、また解決策と処方箋も視野に入ってきた。


 日本語を使い日本人社会に暮らす日本人は、誰もが避けて通ることのできない 「世間」 と 「空気」。これは海外にいても同じことだ。

 「世間」はその中にいるとうっとおしく思う反面、その暗黙のルールに従ってさえいれば自分を守ってくれる、という2つの側面をもっている。

 とくに経済的な安心感が精神面の安心感を約束していた時代には、「世間」は強固な存在であった。


 「しかしながら世間は壊れている、しかも中途半端な壊れ方だ」、これは著者の基本姿勢である。

 社会学者の宮台真司もフィールドワークをつうじて、すでに同様の指摘を行ってきたが、大都市だけでなく、地方都市でも「世間」はすでに壊れている。

 とくに2000年以降、「年功序列」と「終身雇用」という日本的経営の重要な要素が崩壊を始め、その結果、「世間」としての会社がもはや従業員とその家族を経済的に守ってくれる存在ではなくなっている。 また2008年のリーマンショック以降の大不況は、さらに「世間」の崩壊スピードを加速させている。


 壊れた「世間」にかわって現在の日本人、とくに若い人たちを支配して猛威をふるっているのが「空気」だという指摘は、実に納得いくものである。

 安定した状態ではその組織なり人間関係の中で「世間」が機能するが、不安定な状態では「空気」が支配しやすい。 「世間」が長期的、固定的なものであるのに対し、「空気」は瞬間的、その場限りの性格が強い。

 著者は、「空気」とは「世間」が流動化したものだ、という「仮説」を示しているが、これは卓見であろう。
 

 では日本人は 「見えざる2つのチカラ」・・・日本人は 「世間」 と 「空気」 にどう対応して生きるべきか? ここから先の処方箋は、実際に本を手にとって直接目をとおしてほしい。安易な結論を求めがちな世の中だからこそ、著者の議論に最初のページからつきあってほしいのだ。

 平易な表現で語りかけている本だからこそ、自分自身の問題として自分で考えるための「手引き」になるはずだ。

 そして自分自身の処方箋を書いてほしい、と思う。


■bk1書評「日本人を無意識のうちに支配する「見えざる2つのチカラ」・・・日本人は 「空気」 と 「世間」 にどう対応して生きるべきか?」(2009年7月27日に"サトケン"にて投稿掲載)
■amazon書評「日本人を無意識のうちに支配する「見えざる2つのチカラ」・・・日本人は 「空気」 と 「世間」 にどう対応して生きるべきか?」(2009年7月28日に"左党犬"にて投稿掲載)





<書評に関する付記>

 文中、阿部謹也と呼び捨てにしているが、これは客観性を担保するための措置であり他意はない。

 実は、私は阿部ゼミナール出身なので、本当は「阿部先生」と書きたいのだが、あえて"禁欲的"に振る舞った。以下も敬称略で記す。

 「世間論」になんらかのコメントをすることは、ある意味で、私の義務だと考えていたので、少しほっとしている。ユダヤ研究の続きを書かないのは怠慢ではあるが、現在の関心対象からは大きく外れてしまっているので、そのかわりとして今は亡き阿部先生には受け取っていただけたらと思う。

 私自身は、中世ヨーロッパ研究そのものもさることながら、「"後期"阿部謹也」における「世間論」探求がもっとも重要な仕事であったと考えている。

 私も含む日本語を母語とする日本人にとっての、実存そのものにかかわる問題だからだ。ヨーロッパ研究はそのための作業前提、別の言い方をすれば深いレベルで日本研究するための"鏡"の役割を果たしたといえるだろう。


 鴻上尚史は、本書第4章の末尾で、阿部謹也と山本七平は生前には接点はなかっただろうと書いているが、実はこの二人には共通点がある。人生のすべてにわたっていたかは別にして、一神教であるキリスト教の神を実存レベルで知っていたことである。いいかえれば、現世とは異なる「向こう側の世界」を知っていたこと、これが彼らをして、ふつうの日本人には見えていない「世間」、「空気」を発見せしめたのである。

 阿部謹也は中学生の頃、家庭の事情でカトリックの修道院に預けられ、将来は司祭になること嘱望されていたこと、山本七平は洗礼を受けたキリスト教徒で、聖書学関連の山本書店の創業者で経営者、旧約聖書にかんする知識を駆使して『日本人とユダヤ人』という本をイザヤ・ベンダサンというペンネームで出版したことは現在では周知の事実である。


 鴻上尚史は、いわゆる原理主義的な福音派キリスト教徒が多数を占めるアメリカについて言及しているが、アメリカとヨーロッパの違いは特記しておかねばならない。

 「神は死んだ」とニーチェが叫んでからすでに100年以上、日本並みにすでに世俗化が進行しているヨーロッパ(・・とくに西欧)とは違い、ヨーロッパでの迫害を逃れアメリカに渡った人たちの子孫である現在のアメリカ人は宗教的に覚醒しており、同じく宗教的に覚醒しているイスラームと同様の"熱さ"を発散している。一言で欧米というのは大きな間違いである。

 敗戦以降、アメリカの圧倒的な影響下にあった日本と日本人(・・キリスト教に限定すれば、明治以降アメリカのプロテスタンティズムの影響が強い)にとって、アメリカ的なものである宗教に言及するのは当然だといえる。しかし「世間」を一神教の神になぞらえるのが適当かどうかはわからない


 鴻上尚史は、「空気」は「世間」が流動化したものだ、といっているが、これは卓見ではあるがあくまでも検証不可能な仮説である。そもそも「世間」自体が作業仮説であり、今に至るまで実証されたことはないし、教義体系も偶像もない「見えない存在」だ。エーテルのように遍在しているわけでもない。特定の人間集団内に形成されるある種の「共通感覚(コモン・センス)」のようなものであろうか。

 一方、山本七平が「空気」といったものは、初期キリスト教におけるギリシア語「プネウマ」の援用である。風や息といった意味だが、キリスト教では重要な概念である「聖霊」を表すコトバでもある。

 山本七平による、日本人の集団における「空気」の"発見"は、特筆すべき事項である。しかし、さすがに山本七平も現在ここまで「空気」が猛威を振るうとは想像はしなかったであろう


 私の処方箋は、複数の人間関係(ネットワーク)をもち、それぞれ別個の存在として、互いに関係をもたせないことにある。若者ではないが、「スタンスをとる」ことはきわめて重要な処世術である。コミットしすぎないこと。

 発言している自分を観察するもうひとりの自分をつねに活性化させておくこと、「幽体分離」というよりも世阿弥的にいえば「離見の見」であろうか。工学的にいえば「自動制御装置」(built-in-stabilizer)の必要といってもいいかもしれない。

 キリスト教徒でもムスリムでもない仏教徒の私は、絶対他者(=至高存在、あるいは神)の存在は否定しないが、状況的に振る舞うことは決して倫理にもとることとは考えない。

(以上)



PS 読みやすくするために改行を増やし、一部を太字ゴチックとした。文章の変更はいっさい行っていない。なおこの記事の執筆後に書き続けているブログ記事のなかから参考となるものを<ブログ内関連記事>として付け加えた。

ただし、わたし自身は、鴻上氏の主張はあくまでも「仮説」であり、「世間」というコトバはあまり聞かなくなったとはいえ、実体そのものが消滅したわけではないと考えている。とくに社会を知らない学生は、いまだ「世間」には触れていないので「空気」に敏感に反応する傾向があると考える。 (2013年11月5日)



<関連サイト>

「日本社会の二元的構造」 (講師:一橋大学大学名誉教授 阿部謹也、平成15年5月13日 於:如水会館、社団法人 如水会)
・・一橋大学の同窓会である如水会での講演録

(項目新設  2017年8月14日)


<ブログ内関連記事>

書評 『見える日本 見えない日本-養老孟司対談集-』(養老孟司、清流出版、2003)- 「世間」 という日本人を縛っている人間関係もまた「見えない日本」の一つである

書評 『醜い日本の私』(中島義道、新潮文庫、2009)-哲学者による「反・日本文化論」とは、「世間論」のことなのだ

書評 『緑の資本論』(中沢新一、ちくま学芸文庫、2009)-イスラーム経済思想の宗教的バックグラウンドに見いだした『緑の資本論』
・・山本七平の「空気」論は新約聖書に使用されるギリシア語プネウマにもとづく議論。プネウマは「息」や「空気」あるいは「聖霊」を意味する。三位一体の「聖霊」である

書評 『毒婦。木嶋佳苗 100日裁判傍聴記』(北原みのり、朝日新聞出版社、2012)-これは「女の事件」である。だから「女目線」でないとその本質はわからない
・・「都会と地方の違いは、さらに大きなものもある。「世間」という視線が集中する状態は、見知らぬ人の多い都会よりも地方のほうが、より強烈に存在するからだ。つねに視線を意識しなければならない「世間」はきわめてうっとおしいものだ。しかし、そうはいっても、視線を無視する姿勢をとることが、日本という世間においていかなるリアクションを誘発するのか、これもまた木嶋佳苗という人物を考える上で重要な観点だ」

映画 『es(エス)』(ドイツ、2001)をDVDで初めてみた-1971年の「スタンフォード監獄実験」の映画化
・・視線という権威、権力が支配する空間が「世間」。集団同調圧力は日本人以外にも働くのである

米国は「熱気」の支配する国か?-「熱気」にかんして一読者の質問をきっかえに考えてみる

映画 『偽りなき者』(2012、デンマーク)を 渋谷の Bunkamura ル・シネマ)で見てきた-映画にみるデンマークの「空気」と「世間」
・・「世間」も「空気」も特殊日本的現象ではない

「プリンシプルは何と訳してよいか知らない。原則とでもいうのか」-白洲次郎の「プリンシプル」について
・・プリンシプルをもった生き方とは日本人離れしたということ。つまり世間のしばりにとらわれない生き方だ

「空気は読むものじゃない、吸うものだ」(笑)

ネット空間における世論形成と「世間」について少し考えてみた

ネット空間における「世間」について(再び)

朝青龍問題を、「世間」、「異文化」、「価値観」による経営、そして「言語力」の観点からから考えてみる

書評 『ヨーロッパ思想を読み解く-何が近代科学を生んだか-』(古田博司、ちくま新書、2014)-「向こう側の哲学」という「新哲学」
・・阿部謹也と山本七平に共通していたのは、現世とは異なる「向こう側」の世界を感知する能力であった。両者はともにキリスト教信者であった

(2013年11月5日 項目新設)
(2014年3月4日、2015年6月15日 情報追加)


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