20年前の1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊した。そのときのユーフォリアにあふれる映像は何度も繰り返し放送されているので、多くの人の脳裏に焼き付いていることであろう。
このブログでも書いたが、「天安門事件」から20年、「ベルリンの壁崩壊」から20年、そして年末のチャウシェスク大統領処刑から20年、1989年はまさに世紀の大転換が起こった年であった。
そして翌年1990年には日本の株価が下落が始まってバブル経済も崩壊、グローバル政治経済構造の大変化のなか、新たな秩序はいまだ形成されたとはいえないカオス状態がまだ続いている。
その後実現した統一ドイツにおいても真の問題解決からはほど遠く、昨年のリーマンショック以降、中東欧世界の多くはIMF管理下におかれ、この20年間はいったい何だったのか、と自問する人が多くいるのもまた事実である。
The Economist 最新号の表紙も、この自問自答を壁にまたがる若者のモノクロ写真を使って、グラフィックで表現している。
私は壁の崩壊後から10年後の1999年、ベルリンのポイント・チャーリーをはじめて訪れてみた。そこのあるのは、いかにして東ベルリンの住民が西ベルリンに脱出しようとしたか、にかんする展示の数々であって、壁崩壊後の幻滅についてはまったく触れられていなかった。
あくまでも西側の視点だったのだろうか、西側陣営にいた私もその時は何も疑問にすら思わなかった。壁が崩壊したことは自由世界にとって実に素晴らしいことだったのだ、と。
ベルリンの壁崩壊後の世界を、ドイツに限定してみても、旧東ドイツ地域での失業問題はきわめて深刻であり、ドイツ国内にそのまま残存する東西の二重構造は解消する兆しもない。
東ドイツのライプツィヒに留学し、ドイツをテーマにしたルポ・ライターの平野洋による三部作を読むとその感をいっそう強くする。ドイツ国内のマジョリティである旧西ドイツ住民ではなく、旧東ドイツ住民に焦点をあてたルポルタージュ『伝説となった国・東ドイツ』(現代書館、2002)、『東方のドイツ人たち-二つの世紀を生きたドイツ人たちの証言集-』(現代書館、2006)、そして『ドイツ・右翼の系譜-21世紀、新たな民族主義の足音-』(現代書館、2009)の三部作である。
旧東ドイツ出身者、ロシアからの帰還ドイツ人・・・といった人たちの立場にたつと、「ベルリンの壁崩壊が東への死刑判決とすれば、90年7月1日の通貨同盟は刑の執行、10月3日の再統一の日は葬式といえるだろう」(『東方のドイツ人たち』(p.82)となるのだろう。
東ドイツという国は消滅し、その歴史も統一ドイツの公式な歴史からは抹殺された。あくまでもソ連占領地域であった東側ががドイツにとり戻されたたとされるためだ。もっといってしまえば、旧東ドイツは西ドイツに併合されたことになる。南ベトナムが北ベトナムに武力で統一されたのとは、見かけほどの違いは大きくないのではないか。
歴史を抹殺された東ドイツ。
歴史は物語でもある。ドイツ語では Geschichte、 ほぼすべての西欧語で、歴史と物語は同じ一語で表現される。歴史を共有するとは物語を共有することと同じなのである。
しかし、共通の歴史(=物語)など果たして可能なのか? 多数派によって書かれた歴史だけが、正統と位置づけられるのか?
ソ連が誕生してから崩壊までの70年にくらべれば、東ドイツの50年間(1949年から1990年)は、比較的短いといえるかもしれない。しかし、同じドイツ民族が分断され、異なる歴史を歩んだ結果、国民意識の再統合は今後もきわめて困難であるように思われる。
『グッバイ、レーニン』のような東ドイツへのノスタルジーを描いた映画とは違って、現実の日々の生活の厳しさ、日々味わう劣等感、疎外感、被差別意識は、階級として固定・・・
東ドイツの残骸が目に見える形で残っていることは、このブログでも"ドレスデン駅前の団地群"について触れた際に指摘してある。団地はまぎれもなく限りなく社会主義的な社会政策の産物であるからだ。反共反ソを国是とした旧西ドイツにとっては、目障りな歴史的遺産かもしれない。これらの団地群が老朽化していった先は、21世紀の限界集落、まさにゲットーなのかもしれない。
なお、ドイツ統一後、通貨統合を行った際、東西ドイツマルクの交換比率を1:1に設定したことが、現在まで続く経済的困難の原因となったことは記憶にいれておくべきだろう。この結果、海外直接投資は旧東ドイツを素通りして中欧諸国に向かっていった。ドイツ政府の莫大な資金投下も蟻地獄という結果に終わっている。
日本でも、本土と復帰した沖縄の関係に似たものがあるような気もする。ヤマト(=本土)とウチナー(沖縄)の関係は、もちろん東西ドイツの関係とは異なるが煮ている面もある。
沖縄復帰は1972年のことである。それ以前は1945年以降は米国の軍政下におかれていた。さらにさかのぼれば1879年の琉球処分によって、明治日本に統合されたこともあり、そもそもが異なる歴史をもつ王国であった。
沖縄の日本復帰は沖縄県民の総意だったということだが、復帰後は米国資本の誘致による経済的な自立という試みは、通産省によって事前に阻止され、米ドルから日本円への通貨統一は、結果として本土資本による土地買い占めを容易にしただけであった・・。しかも基地経済からの脱却はいっこうに進んでいない。基地問題は安全保障問題であるとともに、沖縄にとっては経済問題としての性格ももつ。
ドイツの東西問題は、日本では沖縄問題と類似した問題であるのか・・。もちろん単純な比較は意味はない。明治維新(1868年)とほぼ同じ時期に国家統一を完成したドイツ(1872年)だが、中央集権国家体制を志向した日本と異なり、ドイツは今日にいたるまで地方のチカラが強い、つまり国の形もドイツと日本とでは大きく異なるのである。
ドイツでは さらに困難にしている問題は、ロシア系ドイツ人のドイツへの大量帰還問題である。
12~14世紀の東方植民運動はさておき、18世紀ドイツ出身の女帝エカチェリーナの時代、本格的に多くのドイツ人がロシアに大規模に移住した。ロシアへの移住はその当時、米国への移住と並んで多かったという。その後、勤勉な農民として受け入れられたドイツ系移民はロシアでは大きなプレゼンスとなっていた。
第一次大戦、ロシア革命、そして第二次大戦の独ソ戦により、ロシアに移住したドイツ系住民の運命は翻弄され、少数民族としてのさまざまな権利も奪われることとなった。もっとも痛手を被ったのは、母語であるドイツ語教育の権利が長期間奪われたことである。
ベルリンの壁崩壊後、とくにロシアからロシア語を母語とするドイツ系住民が血統主義に基づいてドイツに帰還、これがロシア系ドイツ人問題となっているようだ。詳細は、『東方のドイツ人たち』を参照していただきたいが、これは南米からの日系人受け入れと同じ性格の問題にも思われる。
たとえばブラジル日系人は、日本人移民の末裔であっても国籍がブラジルであるだけでなく、現地に同化しており、母語はすでにブラジル・ポルトガル語であって日本語ではなく、生活習慣も当然ながらブラジルのものであって日本とはまったく異なる。
ドイツのロシア系ドイツ人も同様のようだ。親がドイツに親近感があっても、連れてこられた子供たちの世代は母語はロシア語であり、ドイツ語の習得はあくまでも後天的なもので自然になされるものではなく、生活習慣もロシアのそれであるから、自然とロシア系ドイツ人だけで集まりがち、ブラジル日系人とよくにた存在になっている。
こういうことを考えさせてくれた平野洋のルポルタージュは、ドイツの見えざる面にかんする証言を集めた、貴重なものであるといってよい。インタビュー相手に対して、聞きにくい質問も投げかけ、罵声を浴びながらも実行したインタビューなど、その果敢な姿勢には敬意を評したい。
しかし、こと話が自らが属する日本に及ぶと、とたんに陳腐で粗雑な話に終始してしまうのはなぜか。議論の粗雑さは、正直いってとても読むに耐えない。くだらない政治論を聞かされているようでうんざりするのだ。
あまりにもステレオタオイプな議論は、自分が取り組んでいるドイツ問題を内在的に理解していないためではないか、とさえ思いたくなる。自分のアタマで考え尽くしていないのだ。日本語として表現しきれていないのだ。
ナショナリズムとは何かの定義も、きわめてあいまいだ。固有名詞の表記にも問題が多い。私がとりあげた日本との対比は、実は平野洋の著書のなかではいっさなされていないのである。
なぜこのようなステレオタイプな発言がでてくるのか。これはおそらく、歴史というものへの洞察を欠いているためであろう。歴史をただ単に年表としてしか理解していないためではないか。歴史を内在的に、自らもその渦中にある一人として理解しようとする姿勢に乏しいためではないか。
この点が、旧東ドイツについての良質なノンフィクション『東ドイツ解体工場』(講談社、1991)を書いた作家の杉山隆男などとは大きく異なる点である。
幅広いコンテクストのなかで複眼的にものを見る、という訓練もされていないようだ。
ドイツは決して模範となるべき理想ではない、これは当然である。
1968年世代が主導した社会変革の結果、ドイツは人権を政治的な武器として手に入れることとなった。これには誰も表だって異議申し立てはできない。
しかし、タテマエをあまりにも振りかざしすぎるのに、実は旧東ドイツ人を中心に多くのドイツ人もいらだっている。このナマの声を聞き出した点は、繰り返すが大いに評価したい。
ドイツ人の抱える内向する不満、鬱積・・日本人もある意味では同様の状況にあるといえるからだ。
ベルリンの壁崩壊は、結果としてパンドラの箱を開けたことになる。
封印から解かれた黙示録の四騎士の形をとった歴史という怪物たちに逆襲され、翻弄され続けてきたのが、この20年であったような気がする。
そして、この混乱はまだまだ収まる気配をみせず、さらに混沌とした状態に進みつつある。
世界もいまだ"五里霧中のなか模索中"なのである。数十年以内には落ち着くのではないかと期待しているのだが・・・
"500年に一度の大転換期"だから、われわれも渦中を溺れることなく泳ぎ切るしかないのだ。
PS 読みやすくするため改行を増やし、リンク先情報もアップデートした。「ブログ内関連記事」も追加したが、本文には手は入れていない。 (2014年1月20日 記す)
<関連サイト>
ヴォルガ・ドイツ人の強制移住(半谷史郎、スラヴ研究、2000)
(2014年2月5日 追加)
<ブログ内関連記事>
ベルリンの壁崩壊から20年-ドイツにとってこの20年は何であったのか?
書評 『忘却に抵抗するドイツ-歴史教育から「記憶の文化」へ-』(岡 裕人、大月書店、2012)-在独22年の日本人歴史教師によるドイツ現代社会論
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